長生きした罪と罰・続き2017年02月21日 18時57分29秒

★息子一人では全てを維持管理できない現実の中で

 昨日は、日中はぽかぽか陽気で布団を干したりしていたら、夕方近く急に小雨が降り出し、最初は天気雨かと、すぐやむと思っていたらそのまま夜まで久しぶりのややまとまった雨となった。
 今朝は雨上がりの朝、明るく晴れて爽やかであったが、しだいに強い北風が吹き出し、まさに「春は名のみの風の寒さよ」の感ある、また真冬の一日と戻ってしまった。
 
 さて、父の話、続きである。いったいどうしたものか。
 新しく立川駅北口に新設移転した、かかりつけの総合病院の脳神経外科で、数年ぶりに脳のCTを撮った。担当は、以前、父が、脳内に血が溜まった硬膜下出血で手術してもらった医師である。
 認知症の件もだが、早や3年前、一昨年やった手術の「その後」の経過も見てもらったわけだが、脳内の血などは綺麗さっぱり消えてなくなっていて無事完治していることが確認された。
 で、それは良かったわけだが、我が相談したかった父の認知症、呆けのほうはというと、医師曰く、良くない、というよりももはや年相応であって何の治療法も薬もないと言われてしまった。男性で92歳ともなればそうなっても仕方ない。ただ、もはや家で看護するのもその状態では限界かもとも。

 けっきょく、何の成果も新たな展開もなく、そのまま病院を後にして、帰りに近くのホームセンターの中のフードコートでラーメン食べて家に帰った。
 しかし、その店の中でも、ラーメン自体食べさせるのに一苦労して騒いで、周囲の人たちの注目を集めるは、うっかりトロミをつける粉末パウダーを持って来るのを忘れたこともあり、ゴホゴホむせてともかく食べるだけでもやたら時間がかかり朝9時に家を出て、帰宅したのは午後3時で、この日はほぼ一日潰れてしまった。ものすごく疲れた。

 そう、このところ父は全てがスローになってしまったから、朝声かけて起こして、紙パンツとパットを取り換えて、着替えさせてコタツのある居間に来るだけでも、30分以上かかる。いや、一時間近くかかる。
 デイサービスのない日など、起こさずについ寝坊させてしまうと、朝食を終えると昼近くとなってしまって、父に朝飯食べさせるだけで何一つできずに午前がつぶれてしまう。そしてすぐ昼が来て、またも食べさせるのに一苦労するのだ。

 おまけにビロウな話で書くべきか迷うが、紙パンツ穿いてそれで小便すますは当然だとしても、大便のほうまでしっかりいつの間にか垂れ流しするようになって新たな段階に入って来た。
 今の紙パンツ類は、吸収力もすぐれしかも吸い込んでも戻らずサラサラだから、漏らしても不快にならず溜まって来ても当人が気づかないのは仕方ない。が、大便は、吸い込まないしやはり違和感があるはずだと思うに、当人はいつ出たのかもわからないのだと言う。
 赤ん坊だってオムツに便が溜まれば不快感で泣いて知らせるはずだが、呆けてしまうと小便だけでなくウンコまでも気づかずダダ漏れ状態となっていくのであった。
 このところ入浴は、デイケア、ショートステイのとき、施設でお願いしてたのだが、髭を剃るために久々に家の風呂に入った。
 紙パンツをトイレで脱がしてそのまま裸のまま風呂場まで手を引いて連れてきたら、歩きながらポタポタ垂らしていたようで、後で気がついたのだが、それを踏んで歩いたので家中に糞便臭が漂ってしまった。

 同様に老いて呆けた父親を介護していた友の話を思い出す。やはり独身の彼の家では、その母と彼=息子とで、その父親を世話してたが、しだいに呆けが進んできて食事摂らせるのも大変になってきただけでなく、入浴の際に風呂場で排便したりするようになったので、家での介護は断念して特養に入れたと言う。
 そこの家の父親も呆ける前は、生業が計理職だったこともあり、とても几帳面で、手帳に毎日の日記をつけることを欠かさずやっていたが、あるとき、もう何も思い出せない!何もわからなくなった、ワシはバカになった!!と手帳を投げ出し、それからは家族のこともよく認知できない程にバカが進み、けっきょく特養任せとなったのである。

 我が父もこまめに支払った金の計算とか、日々の記録を何やら自分の手帳に記していて、今もそれは続いているようだが、このところやはり、よくわからなくなった! 混乱した、と言って、こちらが教示しないと空白の日が多くなってきた。日々何度でも今日は何日だ?あれは何だ? これは何だ?と説明しても同じことを繰り返して訊いてくる。
 今回、脳神経外科の担当医にかかって、CTで撮った新たな脳の画像を見せられて思ったのは、頭蓋骨と脳自体の間に隙間がかなりできてスカスカとなっている。これだけ隙間があると確かに風通しは良いだろうけれど、いくら話してもこちらが言った言葉は脳内に留まらずにそのまま通り過ぎてまたすぐに耳から出てしまうだろうと。
 
 医師は、父は年齢相応で、もう良くなることはないと言う。何も手の打ちようもないと。ともかくまず転ばないことだ。そろそろ特養も検討する頃かなあと。が、父の希望は、特養など行かされずに、この住み慣れた家で最後まで何としても暮らしたいと言う。さて、どうしたものか。

 かなり長生きして、ある程度呆けても自宅で暮らしている老人はたくさんいる。寝たきりとなっても。ただ、テレビなどでそうした人を紹介してるのを見ると、まず必ず大家族で、息子夫婦や孫、ひ孫までその家にいて、介護者の数が多い。そうした多人数で連携してこそ呆けても家にいられるのだ。
 ウチのように、息子一人でその呆けた親を抱え世話しているという事例もあるだろうけれど、やはりそれはかなり無理があるのではないか。幸いまだ老々介護とまでいかないけれど、一人だと気力体力共に消耗し限界となってくる。
 
 長生きしたことの罪と罰と書いた。老いることは罪でもないし、何も悪くない、仕方のないことだと反発する方もいよう。
 しかし言葉を変えて、仏教的に言えば、因果応報、ある意味自業自得なのである。長生きすれば、連れ合いに先立たれるし、息子に怒鳴られ暴力的に扱われもする。そして最後は望まぬ場所で、望まぬ最後のときを迎えざるえなくなる。

 そしてこれは誰にでも起こる。我もその晩年は、長生き出来たらばこうした状態になっていくのであろう。
 ただ、その面倒を見てくれるのは妻でも息子でも娘でもない。今、父の糞尿にまみれた下着を洗濯したり汚れた床を拭きながら思うのは、おかしな例えだが、返ってこないのに掛け金だけ払っている年金みたいな感じがしている。我に子があれば、我もまたその子にこうしたことを求めもするのであろうか。そして子は憤りながらも世話してくれるのであろうか。※じっさいの話、我は年金は支払っていないことを付け加えておく。

 今日、夕方、郵便局へ注文本の発送に行き、戻ってきたら父が台所に倒れている。といっても大の字になってたわけではなく、しゃがみ込み込んでいたのだが、何でそんなところに座ってるのかと訊くと、居間の石油ストーブをつけようとしたが、上にのせるヤカンが空なのでヤカンに水入れようとしてここに来て転んだのだと言う。
 ウチの台所は今凄い状態で、まさに足の踏み場もなく、父には入るなと命じてあった。幸い父にケガなどはなかったが、こうして家の中で転倒するのではうっかり目も話せない。
 やはりそろそろ特養に入れる潮時かと改めて考えている。しかし、父は絶対に行きたくない。そんなところに入れられたらワシは自殺すると憤っている。さて、どうしたものか。

人も犬も猫も老いて最後の時は必ず痩せていく2017年02月20日 21時03分03秒

★ゆえに太っている人は幸いなのである。羨ましい。

 昨日、今月の無頼庵イベント、手作り味噌造りの集いを終えたので今日は気分爽快、昼寝せずとも心身共に快調である。
 これはうすうすと気づいてることだが、こうしたイベントを拙宅でやることを企画し、その当日、本番が近づくにつれていつもきまって体調が悪くなるようだ。
 それは人を迎えるための準備をしないとならない、その作業が大変だということもあるけれど、やはり未だそうして人を迎え入れて一度に多人数の人たちと会うということ自体に内心どこかで拒絶反応のような恐怖心、プレッシャーが存在していて、無意識的に身体に出てくるのだろう。
 去年の12月のときは、前日になって吐いたり倒れてしまい中止してしまったし、前回一月のときもかなり直前まで体調悪かった。今回もずっと頭痛がしていてかなりしんどくてどうしたものかと困惑していた。
 しかしそのイベントが始まって、人が来てしまえば調子の良し悪しは関係なくなり、終えて皆が帰ってしまえば深い安堵感と満足感、終わった充足感に満たされる。そしてそれまでの不調感は嘘のように消えてしまっている。
 今回も終えて今、気分はスッキリして体調も良く、昨日までの頭痛やだるさ、風邪気味だったと思ったのはどこかに行ってしまった。
 よって、毎回そのイベントが近づくにつれて体調が悪くなるのも、緊張や不安によるものだとわかってきた次第であるけれど、それは回を重ねるごとに軽くなってきているので、たぶん次回はもっと気楽になれるかと思える。

 さておき、拙ブログ、まだ中途で書き始めて最後の〆まで行っていない「お題」がいくつもある。トランプ氏のことや父のこともまだ書き足すつもりでいるのだが、今日は、老いて痩せることについてまず書きたい。

 今さっき下の部屋で、老犬ブラ彦に晩の餌をやっていた。ブラは、去年の秋で18歳。人間でいえばたぶん百歳近くであろうか。
 我が家の犬たちは皆長寿で、16歳程度はざらなのだが、彼もまた最高年齢記録を更新中。しかし、さすがにこの冬になって年明けてからまず食が細くなり、おまけに水ばかりガブガブ飲んで、痩せ始めてきてきた。骨と皮というほどではないが、元気なときに比べれば一回りも二回りも小さくなり、触れば背骨がごつごつして来た。
 彼の父や母もこの家で死んだが、長生きしても最後は病死のような感じで、まず足腰が弱り歩けなくなり、最後は多機能不全的に、じょじょに弱り浮腫みも出て痩せて衰弱してその最後を終えた。

 ブラもたぶん腎臓が悪くなってきて水ばかり飲んで痩せてきたのだと思うが、幸いまだ自ら歩けるし、衰弱して寝たきりとはなっていない。しかし、これまでの他の犬を看取った経験と歳を考えれば、この冬を越すのがやっとだと思うし、まあそれも仕方ないと覚悟している。
 毎年、この夏は無事越せるか、冬はどうかと案じてきたが、幸い頑健で、歳を重ねて気づけば18年も生きたのだから、そろそろ最後の時がきたってちっともおかしくない。我が知る限り中型犬でそんな歳まで生きた犬は他にいないし、もう十分ぞんぶんに生きたと思う。
 それでも一日でもまだ共に暮らしたいし、最後の日が来るまでしっかりこの家で我が面倒を見てやりたいと願っている。

 だからこそ、しっかり食べさせて、食べているうちは大丈夫だと信ずるゆえに、今はともかく少しでも多く食べさせることに頭痛めている。
 今日は朝の分は、あまり食べなかったが、夜は、鶏のひき肉を焼いて小粒のキャットフードに混ぜて与えたら久しぶりに食いっぷりが戻り元気な頃と変わらないほど食べてくれた。
 今、ほっとして落ち着いてこれを記すわけだ。で、老いて痩せて死ぬことについて書こうと思った。

 我もこの歳になると、たくさんの人たちの死に出会い、多くの葬儀に出、その死に顔を拝見する機会も多い。
 そしてわかったことは、若くして不慮の死ではなく、ある程度の高齢迄生きて死んだ人は皆同様にガリガリに痩せて、まさに全身万骨枯れるといった風情でお棺に入られている。
 それは50代半ばで亡くなった高田渡も同様で、中川五郎氏曰く、棺の中で「ギリシアの哲学者」のような面持ちでご遺体はあられたと聞く。我もそうした痩せ衰えて哲学的にも見える老人の遺体に何度対面したことであろうか。
 我が母もまた同様であった。何度も書いたが、癌が身体をむしばみ、じょじょに食事が摂れなくなってしまい、こちらは少しでも一口でも多く食べさせようと、何なら食べてくれるか日々頭を悩ましたが、けっきょくもう最後はほんの数口だけスープやおかゆの類を口にすると、「もうたくさん、食べた食べた、お腹いっぱい」と言って食事は終わってしまった。
 死の間際は、まさに骨と皮で、栄養失調で手足には浮腫みも出、精根尽き果てて、つまり完全に命の蓄え、生命エネルギーは空になって死んでしまったのだ。
 多くの高齢で死ぬ人たちを見て来て皆そのように同様だと我は思う。ということはまだ少しでも太っている人、脂肪がある人は死なないということでもある。むろん、心臓マヒや脳梗塞的、不慮の突発的死もまた存在するわけだが。

 翻って人の一生を見てみると、我が経験と照らし合わせてもほぼ一定のパターン、流れがそこにはある。
 子どもの頃から若者時代までは、たいていの人は皆痩せてすっきりした体形であろう。中にはたまに肥満児という子もいるけれど、ほぼ大多数の子どもは皮下脂肪などはほとんどまだない。
 それが、大人になり社会に出るようになるにつれて、じょじょに太りだし体重が増して来る。それは仕事に追われて暴飲暴食的不規則な生活スタイルによるところもあるし、生活が安定し食事に贅沢もできるようになったこともある。我も若い時は三度の食事にこと欠くほど金がなく周囲を見ても学生時代の友は皆ガリガリに痩せていた。
 しかし、加齢とともに次第に太る理由の一番の原因は、新陳代謝機能が衰えてきて運動不足もたたり、入って来るカロリーが身体に脂肪として蓄積されていくからだと考える。
 ゆえに中高年から、初老までたいがい皆程度の差はあれ若い時分に比べれば肥満気味であるかと思う。たいてい10%増量とっいったところか。

 我もまた、学生時代は50キロ代半ばだったのに、いつしか気づいたら60キロ代になり、一番多い時は68キロぐらいにまでなっていた。※それは親たちに食べさせるため、我も合わせて一緒に食べていたからだ。
 だが、さすがに身長170㎝そこそこで、そんなに体重が増えるとすぐに息が切れるし体は重く足腰が痛くなってくる。
 しかし、親たちの介護などに追われ、母の死後、心身喪失気味になって、父の世話にも追われて食べる気力も失せて一日一食程度しか食べずにいたら60キロを切るほどになった。
 学生時代の頃を思えば理想的だと思うけれど、ズボンは緩くなるし、体力はなくなって気力も失せて疲れやすくすぐフラフラになる。何の運動もしていないから筋力もなくなる。さすがに10キロ近く体重が半年で落ちてしまうと皆会う人からも心配されるし自らも不安になってきてしまう。
 今は無理しても食べるようにして何とか戻すようにして実際少しづつまた体重は戻り始めた。そしてこう思う。願わくばまたデブになりたい。どうせ最後は必ず痩せ衰えてそしてそれで死ぬのだと。

 人はそうして中高年の時期はほぼ必ず太る。しかし、さらに高齢になるまで生きていくとまたしだいに心身の機能が衰えてきて食事の量も減って来るししだいに体重は落ちてくる。
 そしてそこに老化と病も加わり、最後はまさに枯木のようになって痩せ衰えてギリシャの哲学者然として頬もこけて永遠の眠りにつく。
 ということは、太っているうちは人はおいそれと簡単にはすぐ死なないはずだ。体内脂肪とはまさにエネルギーの蓄えであり、食事が摂れなくなったとしても太っている人の方が当然痩せている者よりも長く生きられる。
 つまり生命エネルギーの素となるもの、脂肪がなくなってきて骨と皮になってその命の素が尽きたとき人は死ぬのである。

 それは人に限らず、犬も猫も生き物すべて同じであり、事故などで急死でもしない限り、長く生きれば必ず誰もが必ず痩せてきて命のエネルギーが尽きたとき死ぬのだ。
 ならば太っている人は安全安心、大丈夫だし、太れる人は羨ましく思える。デブはちっとも悪いことではない。若くても極端に痩せている人は飢饉など来ればごく簡単に死んでしまってもおかしくない。つまるところ人の価値とは、命という視点でみれば、それを維持する脂肪の多寡でしかないのである。

 我は思う。母は元々痩せ型で、よく友人仲間たちからスマートで羨ましいと言われていたが、癌による手術のつどさらに痩せてしまい、そのときどき何とか元に戻すよう努力していたものの、まさに最後は癌のために食べられなくなって骨と皮の姿となり栄養失調で命の素が枯渇して死んだのだ。どうすればもっと太らすことができただろうか。今でもまだそのことを考え続けている。
 今、老いたブラ彦の姿を見て、母のことを思い、けっきょく誰もがこうして痩せ衰えて死んでいくのだとつくづく嘆息してしまう。しかしそれは長生きしたのだから起こることであり避けがたい流れであり仕方ないのだ。

 我が父も元々六尺男と呼ばれたほどの大男、巨漢で、80キロぐらい常時あったかと記憶する。それが今では60キロもないのである。歳と共に次第に痩せて来てはいたが、昨年春、大腿骨を折り、何ヵ月も入院している間に一気に痩せて、足など棒の如くになってだいぶミイラ化が進んだ。
 ただ、我が無理やりでも食べさせてきたこととデイケアなどに出かけてリハビリもしたことでまた少しは筋肉も戻り、今は体重も少しづつ増えて来た。
 今の父を見る限り、脂肪との関係を考えればそんなにすぐ死ぬことはないと思える。ただ今度また入院すればボケはさらに進み、さらにろくに食べなくなるだろうから、そのまま命のエネルギーが尽き果てそこで死ぬのは間違いないはずだ。
 今の我は、痩せること、痩せていくことの恐怖感が強くある。痩せることは死の入り口、一里塚なのである。それは以前からうすうす感じていたことだが、痩せ始めると危険なのだ。長くないと覚悟すべし。
 皆さん、どうか生きるためにも食べられるときにがんばって食べて太ってください。人は太ってこそ生きていけるのだ。

 中国人のことを悪く言う人が多いが、今はどうか知らないがかつては中国ではデブは美徳とされ羨ましがられ、痩せている人はダメな人であり悪であった。※デブはそれだけ太れるだけ食べられたからで、つまり金がある証なのである。
 だから会えば挨拶でも「飯食ったか?」と必ずまず言うのだと何かの本で読んだ。関西でいう「儲かりまっか?」と同じく。そう、その考えは絶対的に正しい。生きることは食べることであり、食べられなくなった時に人は死んでしまうのだから。
 気力体力の有無とは脂肪の有無に他ならない。我はそう信ずる。ゆえにデブ礼賛するのである。
 皆さん、食べられなくなっても少しでも食べてるうちはまだ大丈夫です。でも食べられなくなったらオシマイ。
 晩年の大橋巨泉氏の変わり果てた姿は見たくなかった。

無頼庵味噌造りの集い無事スピーディに終了。2017年02月19日 19時26分57秒

★少数精鋭のメンバーで手作り味噌はあっという間に。

 今年は、毎月たとえ一日でもともかく人を呼べる、何かしらの集いを拙宅無頼庵では企画している。先月は、昨年暮れのクリスマス謝恩ライブができなかったので、年明けて新年会としてやった。
 今月二月は、久しぶりの手作り味噌造りをやることにして、本日19日、女性4名、男性2名(我も入れて)の計6人で午後1時過ぎからスタートし、米麹で3キロ、麦麹で1キロの計4キロの大豆で仕込み終えた。我、マス坊は、昨晩から4キロの大豆をいくつもの鍋に入れて茹でるなどの下準備のみで、実際の作業は何一つすることなく、人手が多かったこともあり、実働は約2時間もかからず作業はあっという間に終わった。手早く終わって幸いであった。皆が来てくれて大いに助かった。

 前回拙宅で同様の企画をやったのが、今回確認したら2013年の6月だった。それから実に丸3年過ぎ、4年ぶりにまた味噌造り再開となったのだ。そのとき仕込んだ味噌は、天地返しするどころか裏の納戸と化した部屋に入れてほったらかしにしたままで、果たしてどうなってるか大いに不安であったが、今回おそるおそる運び出して甕を開けてみた。
 だいぶ水分は抜けて上の方は固く乾いていたものの、中の方は実に濃厚かつまろやかなテイストになっていて、無事まだ十分食べられた。それは、今日来られた皆で山分けして持ち帰ってもらった。

 作業は早めに終わったので、浜口庫之助など古い歌謡曲を流しつつマス坊の漬けた漬物と出したばかりの味噌だけで炊き立てのご飯を食べて夕方6時過ぎには散会となった。
 実にスピーディかつ濃密な楽しい時間を過ごした。参加者からはまた来年もという声が上がっている。今日仕込んだ味噌の、米麹の分は、少しづつ各自が持ち帰ってもらった。むろん四年味噌やマス坊が漬けた高菜や野沢菜も。

 実は我はちょっと風邪気味でこの数日頭痛がしたり体調は良くなく、かなり下準備はしんどかったのだが、人も集まりわいわい騒いでいるうちにあっという間に今日のイベントは片付いたので、ほとんど疲れることもなく終わって今はただ安堵している。

 ただ、残念というべきか哀しく思うのは、前回のとき来て作業に参加してくれた人のうち、我友T氏は、先年急死して既にこの世に亡く、今日も皆で大豆を潰す作業を見ていて、不意に彼の姿を思い出して内心泣きそうになってしまった。本来ならば彼も必ず来てくれてこの場にいたはずなのだ。
 彼が手伝ってくれて、死んだ彼は食べることのなかった味噌で、これから味噌汁を作ろうと思う。そう、そのときは元気でいた我が母ももういない。

 生きていること、生きていくということは食べること。そう、死んでしまった人の分まで、生きている我々は食べ物を大事にしてしっかり食べないとならない。そう、良い安全な手作りのものだからこそ。きちんと向き会っていかねば。

長生きした罪と罰~老いた父と暮らして思う2017年02月18日 22時19分19秒

★父が家にいるとブログも更新できやしない。

 土曜日の夜である。昨日は突然の春真っ盛りの陽気となって、ジャンパーや上着を着ていると汗ばみ暑くてたまらないほどだった。
 が、今日は一転して曇りがちで陽射しも少なくうすら寒くまた冬に戻ってしまった。
 春先はこうしたもので、三寒四温という言葉どおりまだあと一か月はこうした寒暖の差が大きい日々が続くのかと心している。まあ、それでも梅をはじめ春を告げる花々は咲きほこり、一陽来復、また季節は新しい春を迎えたのだ。
 ただ古人が詠ったように、年年歳歳季節は繰り返しても人は同じではない。去年の春はまだこの世にいて、春の花々を愛でていた我が母は、もうこの世のどこにもいない。
 そして母=妻亡きあと呆けがさらに進んでしまった父と息子の二人だけの暮らしは正直なところどうにもならなくなっている。

 父は今、基本、デイケアに火曜、金曜、お泊りもお願いできるデイサービスに、土日、ときに月も含めて、週の内に計五日は老人介護施設に通っている。
 それで我は父が不在のときはずいぶん助かっている。が、朝起こして着替えさせ飯食わせて送り出すのと、夕刻、帰されるとき立ち合い、また着替えさせ、夕飯食べさせるだけでも一苦労で、父が不在でも日中は洗濯などの家事に追われ、ようやく父を寝かしつけてようやく自分の時間がとれる。夕方時、犬の散歩までの間、短時間でも昼寝もできる。
 しかし、父が家に一日いる日となると、朝から晩まで父の世話にただただ時間をとられて何一つできず、父を寝かしつけたら自分も倒れ込むように疲労困憊で寝てしまう。

 認知症、昔は痴呆症とか言ったかもしれないが、老化による呆けとはいったいどういうことか、我は今父を通して実によくわかってきた。
 父は人格が崩壊したとか、何もわからなくなって反応がないという状態では全然ない。喜怒哀楽はしっかりあるし、会話も成り立つ。訪看さんが来ると、ごく真っ当な、いつもお世話になってとか人当たりの良い口をきいたりして、一見ちっとも呆けているように見えないときもある。
 が、ともかく記憶が続かず、何でもすぐ忘れてしまうし、何度でも何度でもいくら説明してもまた同じことを繰り返し訊いてくる。しかも先日は、11月からずっと通っている「N苑」という介護施設のこと自体を突然忘れてわからなくなってしまい、前日朝までは明日はそこに今週も行くと自ら口にしていたはずなのに、その夜になったら、ワシはそんなところに行ってるのか?聞いたこともないし行っていないと突然言い出し一騒動となった。
 もう何ヵ月もいつも毎週行ってるだろうといくら説明しても理解できず、けっきょく自らそこに電話して、ワシはそこに行ってるんですか!?そちらはどこにあるの?と尋ねたりしていた。
 翌朝、迎えが来て、ともかく車に乗せて向うに行ったら思い出したとのことで、ワシはちょっと度忘れしていた、と本人も頭かいて反省したようだったが、そういうのはもはや「度忘れ」とか言わない。もはやそういうレベルではないのである。

 前にも書いたかもしれないが、母が生きていた頃も、そうした介護施設から帰って来て、彼はいったん夕方昼寝したらしく、夜、外は暗くなって起きだしたら、晩飯もまだなのに、ワシはこれからデイケアに行かなくちゃ、と一人で支度して迎えを待っていた。
 我は母の介護が忙しくて説明もバカらしく、母もあきれてもはや相手にしないでいたら、父は荷物持って外に出て、今日は朝なのにいつまでも暗い、おかしい、どうかしたのか迎えが来ないと騒いでいた挙句、自ら施設に電話かけて、今は夜ですよ、と向うから諭されてようやく朝と夜を勘違いしたことに気がついた。
 また、真夜中に厳寒の戸が開いた音がしたので、慌てて気づいて下に降りたら、寝間着姿で父が外に出ようとしている。「犬がいなくなった、大変だ」と探しに行くのだと言う。詳しく聴けば、夢でウチの犬がいなくなった夢を見て、それを現実と取り違えて、犬を探そうと暗い中ふらふらヨタヨタなのに危うく徘徊するところだった。
 幸い父はまだそうして行方不明になったことはないが、息子が浅い眠りで常に眠っていても気が張っていたから惨事に至るのは防げていたのだ。

 最近はそうした失態は起きていないが、もうともかく記憶が続かず、こちらもいいかげんその対応にキレまくっていた。何しろ隔週ごとにいつも来てくれる訪問診療の医師の名前さえわからず、カレンダーに日付が記してあるのを見て、「ここに書いてあるA先生って誰だ、何しに来るんだ」と言い出す始末。その先生が来たときそのこと相談したところ、一度そろそろ脳のCTを撮ってみた方が良いのではないかという話となり、その医師の紹介状持って、系列の病院の脳神経外科がある立川の大きい病院に行ったのだ。
 昨日、17日は、金曜で本来はデイケアに行く予定の日だったが、その予約が朝9時半で、いつもよりかなり早く父を叩き起こして大慌てで朝食摂らせて、急かして支度して新しく立川駅北口に新設移転したその病院に行った。

 ※続きは後でまた書きます。実は今、明日の味噌づくりイベントのため、夜通し大豆を煮ていて、せがらしかけん、落ち着いてブログもよう書けん。

味噌づくりライブ2月19日午後1時から2017年02月15日 20時22分31秒

★どなたでもお気軽にお越しください。

 先にもお知らせしましたが、今度の日曜19日に、拙宅無頼庵で、手作り味噌の集いを開催します。
 時間は、午後1時開始、終えるのは夕刻の予定です。その後、簡単な食事会、飲み会など予定しております。
 久々の味噌造り、麹は、米と麦を予定し、材料および下準備はこちらが用意しておきますので、各自、エプロンやタオルなど、自分用の作業品だけお持ちください。
 参加費は、500円。食事会費、お土産も含みます。また、今回仕込んだ味噌を持ち帰りたい方は、タッパーのような何らかの容器もご持参ください。
 詳しいことは、拙ブログに連絡先を書き込み下さるか、マス坊の携帯まで。090-8175-8479
 ※自家製高菜漬けと野沢菜漬けたのもぜひお召し上がりください。

 なお、無頼庵3月は、『素晴らしきアナログ芸術の世界~レコードコンサート』を企画しております。三留まゆみの映画塾再開は検討中とのことです。

裸の王様が国家を、世界を牛耳る世紀・22017年02月14日 09時41分17秒

★日本はアメリカの子分、手先だと世界に知らしめた日米首脳会談。

 日本人として本当に恥ずかしい。おそらく当ブログの読者の方なら誰もがそう思っていることであろう。日米の首脳の会談が終わってその様子が報じられている。
 媚びへつらい、おべっかを言ってご機嫌をとる。それが一国の独立国の、しかも小国とはいえ世界でもトップレベルの技術と経済大国の日本の首相がなすべきことであろうか。どうしてもっと威厳を持ち毅然とした態度で臨めないのか不思議でならない。日本は今も昔もペリー来訪の頃と変わらない。ただただ卑屈に顔色を窺い向うの出す条件に唯々諾々と従うのみだ。独立していないのは沖縄だけでなく日本国じたいが今もアメリカの被占領下にあるのである。世界にそのことを知らしめた。日本の国際的地位も低下していくことだろう。
 対米追従どころか隷属国家に、独立国としての発言権は与えられない。そんな国、日本に住む日本人として心底恥ずかしい。これはサヨク、ウヨク関係なく心ある人なら誰でもそう思うのではないか。
 
 日米は対等なパートナーなのだと言う。しかし、パートナーにしろ友人にしろ、真に対等ならば、相手を持ち上げ褒めたたえるだけではなく、ときには、相手にとっては苦言や忠言をも述べるべきであろう。耳が痛いことでも真に対等な関係であり相手方をおもうのであるならばなおさら言うべきことはきちんと発言すべきだ。これは「会談」ではなく「ご機嫌とりの面談」である。
 そうしないのは、対等なパートナーや友人関係とは絶対に言えない。それは手下、子分の関係であり、トランプ氏の大統領令連発が引き起こす一連の騒動についても会談でも一切ふれず、その国の内政問題だから、とだんまりを決め込み、ひたすらトランプ氏をヨイショしまくるのは家来や手下だと思われても仕方あるまい。

 さて、表題の「裸の王様」である。詩人、有馬敲ならば「ほら吹き将軍」と呼ぶのだが、こうした愚かな王様や将軍が今や世界中でそれぞれの国家を率いて鼻高々である。
 そもそも童話としての「裸の王様」の寓話は誰でも知っているかと思う。記憶をたどれば確かこんな話だったと思う。

 あるとき、あるところの王様の元に詐欺師の仕立て屋が来て、バカな人には見えない生地で素晴らしい服を作ると持ち掛けた。
 たぶんその男は、抜群のパントマイム師なのであろう。何もないのに服を仕立てたことにして王様に着せた。
 王様は、その服は見えないけれど、そう言ってしまえば、バカだとされてしまう故、これは素晴らしい、気に入ったと見栄を張り、取り巻きの家来たちも見えないのに王様に倣って、見えているふりをしてその服を褒めたたえた。
 そして裸のまま町を歩いていたらば、やはりその国の民も、どう見ても王様は裸だけれど、見えないのは自分がバカだと告白することになるので、裸だと誰も言わない。
 けっきょく最後は、純真無垢な子どもが、それを見て、王様は裸だ!と笑い叫んだことで、皆、誰もが実は王様は何も着ていないことに気づき、裸のままの王様は大恥かいて逃げ帰ったという落ちであったかと記憶する。
 
 今でもあちこちで、喩えとして用いられる「裸の王様」であるが、この寓話はいったい何を意味しているのであろうか。
 裸の王様は、実は何も着ていないのに、着ていると思っている。そして周囲の取り巻きも、それに気づいていても誰もそのことを指摘しない。それを口にすれば処罰されるかもしれないし自らバカだとさらけだすことになる。
 けっきょく、純真無垢な曇りない目の子どもだからこそ、王様は裸である事を指摘して民衆もやっとそのことに気がつき同意するのである。

 我は思う。この場合の王様が裸であるとは、不寛容と傲慢、そしてそれらがもたらす「独善」を象徴していると。
 そして今世界は、多くの国で、大小のそうした裸の王様が跋扈し、その国を牛耳っている。その頂点にいるのがトランプ大統領であり、そのとりまきの小国の裸の王様が、我らが安倍首相なのだと思う。
 
 王様が裸なのは愚かさ故仕方ないことだ。問題は、その裸の王様を担いでいる取り巻きたちであり、王様同様彼が「裸」であることがわかっていない。いや、気づいていても保身と自らの目も曇っていて正しい姿がよく見えていない。
 そしてさらに言ってしまえば、どこの国でも、裸の王様を抱く国家は、国民自体も王様の裸に気づいていない。特に今この国は、安倍晋三という裸の王様を未だに高く支持している。
 もし誰か勇気ある者が、その「裸」を指摘すれば、今ではマスコミ寄ってたかって、トンデモナイことを言う奴だ、王様に抗うとはテロでも準備しているんじゃないか、と袋叩きにされることすらある。

 その小さな裸の王様が、大きな国の裸の王様のところに出向いて一緒にゴルフしたりディナーしながら記者会見したり、ひたすら媚びへつらい相手を持ち上げた。二人してお互い「裸」であることは気づかず楽しい親密なときを過ごして来た。

 日米同盟はさらに深化させていくのだと裸の王様たちは言う。しかし、彼らが裸である限り、二人がどれほど親密な関係になろうとも世界は混乱し続けることであろう。
 彼らに服を着せるのは難しい。ならばこそ、そんな王様は裸のままでいい逃げ帰って一日も早く退陣してもらいたい。

痛いほどの寒さをどう乗り切るか2017年02月13日 21時32分01秒

★未だ厳冬の山梨から戻って来て

 実はこの土日月と二泊三日で、また山梨の倉庫へ一人で行っていた。それでブログは更新できなかった。一昨日土曜の昼に出て本日月曜夕方に戻って来た。
 むろんスマホから携帯でメール打つようにしてこのブログにもアクセスして書き込みできなくはない。が、キーボード操作でやってるように、頭の中のことをそのままほぼ瞬時に打ち込むようにはとてもできやしない。
 指先で一文字づつ押して言葉を選んでちまちま書いていると、いったい自分でも何をどう書きたかったのかわからなくなってしまう。考えに書きこむスピードが追いつかないのである。自慢ではないが、我はパソコンで書くのはたぶんフツーの人より何倍も速い。
 ショートメール程度のことやごく簡単な報告なら可能だろうが、ある程度内容ある、まとまった記事を書くのは、やはりパソコンで、机に向かってでないとできないので、基本向うへは土日など週末に行くことが多いので更新されないときは、また山梨へ行ってるのかと思って頂きたい。

 今回は、施設に預ける父のショートステイ、お泊りの日を通常土日の一泊二日を、もう一日増やしてもらい月曜までの二泊三日でお願いした。おかげさまで、二日目、中一日はまるまる向うにいられたので、腰据えて片付け作業などに専念できた。
 また月曜も増やしてもらったのは、向うの市役所、北杜市の窓口の人と会う用件もあって、平日でないと行政は動かないので、今日、月曜まで行っていたのだ。北杜市はいくつもの町村が合併してできた地図でいうと下は韮崎市に接して、上は長野県に接する、清里まで含む県内最大?の巨大な市ではあるが、幸い利用する高速道須玉インター近くに市役所があり、近くなので有難い。まあ、支所はあちこちに点在しているけれど。

 さておき、二泊三日で、時間的にはかなり余裕あったのだけれど、山梨県でも峡北とされる標高700mはあろう我の倉庫と化した古民家は、いつ降ったのかわからない雪が日陰にはまだかなり残っていてともかく寒い。水道も昼近くにならないと凍っていて出ない。
 昼間は晴れて陽射しもあるのだけれど、八ヶ岳おろしの強い風が午後になると吹き出し、たぶん体感温度は日中日向で5度程度、日陰や室内では零度近くではないか。夜になると、寒くて室内でも足先が冷えて痛くてたまらない。まさに底冷えがする。
 暖房と呼べるものは、電気こたつと石油ストーブが一台あるだけで、コタツに入っていては何も作業できないしそれもほとんど暖かくない。で、温風タイプのではない、昔ながらの火が出る、上でヤカンも乗せたりちょっとした料理もできるタイプのストーブを一昨年、近くのホームセンタで安く買って、向うに持ち込み、それだけを頼りに冬を越して来た。
 そんなストーブ一台で、広い家全体が温まるはずもないが、ともかく火があり、上でヤカンがちんちんに湯気立てていれば、その周囲だけはまあ暖かくなる。冷えた体もすぐ近くに置いた椅子に座ってストーブに向き合えば足元は暖かくなる。

 そうして石油ストーブで暖をとりつつ本や雑誌の分別作業、仕分けを進めていた。ところが、先週行ったとき使用中に突然そのストーブが消えてしまい火がつかなくなってしまった。何度つけ直しても同様で、着火はしても火が大きくならずやがて消えてしまう。
 芯がなくなったのかとも考えたが、まだほぼ新品なのである。山梨に来たときだけしか使っていないし確認すればまだ芯は出ている。
 ならば灯油が古いのかと、今回はいったん麓のホームセンターに行き新しいのを買ってきて取り替えて入れてみた。が、やはり同様の状態で、メーカー、コロナに相談したわけではないが、どうやら何か不具合が起きたか壊れたとしか思えない。
 元々春先に、展示品として格安で買ったものだから、修理に出すもバカらしいしともかく現実問題としてこの寒さである。前回の時も寒くてほとんど作業は進まなかったが、今回も頭痛めた。麓のホームセンターで新たにまた新品を買うべきか。
 Amazonで、もっと熱効率の良い、部屋自体暖められるような大型の円筒型のを買うかあれこれ迷ったが、けっきょく近くの公営の温泉に行くしかないと考えて、どちらも片道約5キロのところにある、土曜も日曜も近場の日帰り温泉に車で行って何とか体を暖めて眠りに就くことができた。

 今回は、ウチから電気アンカも持ってきた。元々昔ながらの金物の熱湯を注ぎこむタイプの湯たんぽを使っていた。が、石油ストーブの上で沸かしたヤカンのお湯を詰めて布団に入れてもそうした湯たんぽでは、朝方になると冷えてきてしまい寒くて起きてしまうのだ。
 普通は、一度熱湯入れれば朝になってもまだまだ暖かいはず。それが室内でもほぼ零度の夜間は、熱湯入れたとしても旧来の湯たんぽでは数時間で冷えて来てしまい暖かさは持たないのだ、ここいらは。
 それでも寝てても夜中に犬たちが吠えるので、叩き起こされ、満点の星の下、深夜や明け方にごく簡単に犬の散歩に行く。あまりに寒いと寒さも痛さに変わり、ただ顔や手、耳など外に出てる部分が痛いのである。
 室内でも鼻水はぽたぽた垂れるし、足は次第に爪先から感覚がなくなって来て凍傷のようになってくる。温泉に入らなければ霜焼けになったことだろう。
 布団に入っても、頭が寒いのでフードを被り、布団に鼻だけ出すようにして、電気アンカを抱えて何とか眠れるのである。灯油ストーブやアンカが無くても凍死はしないだろうが、寒くてたぶん朝まで一睡もできないかと思う。元々我は冷え性だったが、体重も落ちて皮下脂肪がないので、この冬は特に寒いのだと思える。

 けっきょく、そんなでこの季節に山梨に行っても、あまりの寒さに作業効率はすこぶる悪い。しかし、父をショートステイで預かってもらえるようになったからには、自らの「商売」のためにも向うを片付けて、売れる本を仕分けして来てネットで必死に「出品」しないとならない。
 今、Amazonマーケットプレイスにウチが出品している冊数は、ようやく二千冊を超えたところだ。以前はもっと出していたが、親たちの介護に時間とられて新規投入ができなかったのだ。
 しかしその半分は限りなく一円本に近い、売れない本と化したものであり、もっと精査して、他店が1円で出している本などは取り下げて、もっと高値がつくものだけで二千冊にしていきたい。

 と、どうでも良いことをだらだら書いた。マス坊はもっと寒いはずの北海道にいたこともある。が、向うは、もう寒さは暖房器具の普及で完全に克服してしまっているので、外はともかく室内は異常に暖かい。Tシャツで過ごせるほどだ。
 けっきょく、そうした対策がまだ中途の内地の冬の方が、寒さに関しては圧倒的に寒い。まして山梨の長野寄りの山間部の古い民家なのだ。隙間風も入るしそもそも雨戸もろくにない。※改築して窓はアルミサッシにしたら外してしまったと思われる。
 さらに家の構造自体が、襖や障子を開け放せば40畳ぐらいの大広間になる壁や仕切りが全くない作りなのである。しかも今は立て付けが悪くて個々の部屋を仕切る引き戸も閉まらない。
 夏は圧倒的に涼しいから、クーラーもいらない。これは良い物件だと思ったが、皆住む人は東京に出てしまい限界集落となる理由は、まず日常の生活に不便なのと冬はとてつもなく寒いからだった。
 ここでの冬はもちろん始めてではないが、これまでは親たちの事もあって、真冬はほとんど来ることがなかった。タイヤもスノータイヤに交換していなかったし。
 去年からようやく、通年来る決意をして、まして母も死に、父もショートステイで介護施設に預けられるようになったのでこのところ土日ごとにほぼ来ている。が、まずは、新たな石油ストーブを探すこともだけど、寒さ対策だ。これではとても冬は暮らせない。何もできやしない。

 兼好法師は、家づくりは夏を主(むね)とすべしと記した。まあ、クーラーが無い時代、大昔の京都とかにいたらそうであろう。が、今我はこう思う。八ヶ岳山麓に住むとしたら、冬をまずむねとすべし、と。京都の冬も半端じゃない寒さだが、山梨の古民家に比べれば何ほどでもない。京都はまだ人がたくさんいるし人が来る。ここには誰もいない。出会うはただただ猿ばかりだ。お猿たちは毛皮をまとっているだけでなく、大勢の群れで暮らし家族もいる。
 寒さとは孤独の代名詞なのである。

裸の王様が国家を、世界を牛耳る世紀・12017年02月10日 18時34分06秒

★歴史は進歩的発展などしていかない。

 我は、いちおうサヨクなので弁証法とか社会科学なるものも学び、歴史というものは時と共に段階的に進歩し発展していくものだと教わってそれを信じて来た。つまり、その時々を見れば、ちっとも進歩どころか停滞し、さらにはまた逆戻りしているようにも見えたとしても、螺旋階段のごとく、人類はその英知でもって確実に良い方向、さらなる進歩へと段階的に上昇してゆくのだと思っていた。
 が、このところどうやらそれはマチガイで、人間とは常に愚かで罪深いものだから、ある程度の歳月が過ぎれば失敗や苦い経験から一度経験し反省し学んだことでもまた忘れてしまい、同じような過ちを繰り返すのではないかと考えるようになってきた。まさに元の木阿弥ということだ。
 特にこの戦後も70年も過ぎて、戦争体験者が限りなく消えていくにつれて、じょじょにまた反動というべきか、武力や戦闘で事態を解決してもかまわないというようなまた戦前のような風潮が蔓延する世相となってきたからだ。日本と日本人だけが正しく偉く賢くて、他の近隣諸国は愚かで遅れていてその民族としても劣っている。そんな見下すような言質がネット上では日々満ち溢れている。

 今の人たちは戦争というものがじっさいはどんなものか戦時下とはどういう状況となるのかまったくわからないし想像もできないから、アニメやゲームのシューティング、ハンティングのようなものだと考えて、殺し殺されるという事態にもカッコよさは抱いても抵抗感がない。
 だからイジメ事件も蔓延するし、ごくごく簡単に人は殺し殺されてしまう。そもそも死というものが日常から消えてしまいあるのは、2時間ワイドのサスペンスドラマの中だけだ。戦争もまた同様に、映画の中や今起こるとしても遠い他国での話で、派遣された自衛隊の人たちががんばって働くもの、我々一般人とは関係のない出来事だと思っている。
 そうこうしているうちに、戦争法も出来、集団的自衛権行使という憲法解釈も変更されて、さらにはそこにテロ防止名目の共謀罪も近く成立されよう。

 それはいわば現代版治安維持法だから、今の自公政権、現政府に対しての抗議活動全般でさえ、政権転覆を狙った準テロ行為として準備や計画した段階で逮捕されても仕方ないこととなろう。
 そう考えるとき、何だ、結局また元に戻ってしまったんだと気づく。むろんこの国を取り巻く国際情勢は全く異なっている。しかし、国家権力が強大な力を持ち、個人を管理し自由を奪い、反抗する者は逮捕拘禁し迫害するという図式は戦前、戦時中と何ら変わらない。
 しかも情けなく思うのは、そうした状況は、決してどこかの国のように軍人たちがクーデターで勝手に起こしたわけではないのである。この今の日本人、国民自らが、そうした体制の政権を選挙で選んでしまい、じょじよに確実に自らの自由と権利、つまり基本的人権を放棄して行ったのである。
 ※まあ、あのナチスも合法的選挙で、当時もっとも民主的とされたワイマール権法下で登場して政権を手に入れたのだから、常に大衆とはそうした間違った選択をどこの国でもいつの時代もするのだということだろうか。
 それは大衆の実感はない、うわべだけの好景気に沸き立ち、他に政権選択肢もなく、やはり自公政権に経済を託すしかないという消極的支持が彼らをずっと勢いづかせてきた。何度選挙を繰り返しても常に彼らは大勝し、野党側はいつまでたってもまさに蟷螂の斧でしかない。
 そうして経済を餌に、国民の支持を集めた彼らは確実に国家権力の増強、つまるところ政財官一体となった支配層、富裕層に富も権力も集中させていくという戦前そのものの体制を再び拵えるに余念がなかった。
 そして今、そしてこれからこの国と世界はどうなるのか、拙稿ではあるが何回かに分けて考えていきたい。

母の月命日に2017年02月09日 21時55分36秒

★ここを乗り切れば春が来る

 このところ夜になると眠くて意識朦朧で、起きてられない。
 年寄りとはそうしたもので、晩飯食べ終わるとすぐこっくりこっくり、うつらうつら状態になるものだと知ってはいたが、我もまたそうなってきた。
 むろん朝は早く起きるのだからそれも仕方ないのだが、そもそも慢性的睡眠不足なのである。父より遅くまで起きて、父より早く起きて、さらに眠っている合間合間に、老犬たちに起こされたりして真夜中散歩に行ったり断続的にしか眠れない。
 晩飯を終えて、父をベッドに追いやり、着替えさせ、紙パンツを交換して寝かしつけてからようやく我こと、一人の時間が生まれる。が、そんなで、もう疲労困憊、アルコールも入っている故、我もまた起きてられず、倒れ込むように眠ってしまう。そんなことの繰り返しで、眠気と疲れてブログすら更新できない日が続いていた。

 父は、このところ週に二日、火曜金曜とリハビリ作業もあるデイケア、そしてさらに二日、土日はお泊りもできるショートステイに通わせている。しかしそれでも、デイケアは約6時間ほどしか預かってもらえにいばかりか、送迎の時は必ず我が立ち会わねばならず、かなり制約がありあまり楽できない。
 土日のデイサービスは、お泊りも可能なので、今は常に一泊二日で預かってもらうようお願いしている。さすれば、我も山梨まで足伸ばせるし、土曜のライブなどあっても父は不在なので、時間気にせず夜も過ごせる。それに加えて、今月からは、さらにもう一日、お泊りの日を増やそうと考えている。土日月と二泊三日で、お泊り願えれば、我は土日は完全に自由になれる。さまざまなイベントなどはたいてい土日にあるわけで、父には申し訳ないが、それにゆっくり家も空けられるし山梨の倉庫での作業も腰据えて専念できよう。

 正直なところ、父が家にいると我はおちおちブログすら書けないのである。夜、眠らせているとき以外は、何をしだすかわからすないので目が離せないし、よって家も空けられない。かといって、日中昼寝させてしまうと夜中に徘徊したりして昼夜がわからなくなってこちらも振り回されて疲弊してしまう。

 このところ九州の妹や担当ケアマネージャーたちとはかって、そんな父を特養に入れるなり、九州の妹宅に連れて行く案も俎上に上がっていた。じっさい年明けから、父の呆けも進んできて、息子とのトラブルが絶えることがなかった。たすけを求めて、父は一人娘である九州に嫁いだ我が妹に電話してしまい、妹がケアマネに連絡して、我と父、この親子二人だけで暮らしていくのはもう不可能ではないかと話は進んでいたのだ。
 まあ、事態は何も解決してはいないし、今後もまた我と父のトラブルは些細なことがきっかけで勃発するだろうけれど、もう少し頑張ってこの家で面倒見ようと我は思い直したところだ。

 母をこの手のうちで殺した者として、ならば父もまた我が自ら殺そうと思う。父はもう92歳。生きたとしてもあと数年だろう。とならばやはり最後の日までどんなに我も父も大変で辛くともこの家で過ごさせてやりたい。特養に入れたってどうせすぐ殺されるのならば、我が手で、この家でしっかり殺したい。
 あと何日、何年、この父との日々が続くのかわからないが、できるだけ無用な軋轢を増やさないためにも、特養に全面的に入れる前に、うまくショートステイ等を多用して、トラブルとストレス増えぬよう我が負担を軽減させたいと思う。

 立春も過ぎ、暦のうえでは春となったわけだが、この数日また北風が吹き荒れたり、今日は小雪が舞い厳寒の日が続いている。
 午後から降り出した雪は幸い積もるほどのことはなく、途中から冷たい雨に変わり、向いの畑はうっすら白くなってはいるが、今はもう氷雨もやんだようだ。
 このブログでは書くからにはと、つい対外的、対社会的に、まっとうな威勢の良いことばかり書いているが、ご存知の通り我自身弱気の虫に襲われれば、常に、もうダメだ、オシマイだ、どうしようもないという気分に常に囚われてしまう。
 人は皆、それぞれ何かしらの生き甲斐を持ち、それを頼りに人生を生きていくわけだが、我自身は生き甲斐など何もない。せいぜい老いた親、父とか犬の世話という、後ろ向きのものしかなく、せめて妻とか子とか孫とか、誰か我が後のことを託する者たちがいたらなあと思うことがよくある。
 けっきょく、どこまで行っても一人なわけで、人はそもそもそういうものだと言うのはあくまでも建前に過ぎず、それが辛いがゆえに人は結婚し家族を、子孫を作るのだと今ははっきりわかってきた。
 これは誰かに我の老後の世話を頼みたいということではない。ただ生き甲斐というのが、我が事、自分の事だけだとこんなに虚しいものかと今になって思う。そう、自分の事だけならば、もう何もいらないし、何ももはや求めないのだ。すべてが無為虚しくあり不要なのだ。
 願うは、母が生きていたときの日々がもう一度戻ればと思うが、それは二度と帰らない。位牌を前にして写真の中の母は、優しくにこやかに我をただじっとみつめて微笑みかけてくれる。

 今はまだ父の世話という「仕事」と共にその生活が我に残されているけれど、父が死んだ後に、我に生き甲斐なんてあるのだろうかと訝しく思う。
 それでも生まれてきて、今も生きて、生かされているからには生き続けなくてはならない。しかし、それは本当に辛いことではないか。人が生きていくためには、何か、絶対的に大事な、確かな何かがなくてはならない。真に愛する対象となる何か、誰かが。
 母を喪った今、残りの人生で、我はそうしたものと出会えるのであろうか。それは間違いなく物ではない。まずは人であり、たぶん目に見えないものであろうか。
 ダマスコに向かう途中の道で、迫害者サウロに起きた事件のように、イエスの声が天から我に降りればと願う。あるいは漱石居士が晩年、好んで毫したように、則天去私の心境に達することができるかどうかだ。

 まだまだ寒い日が続くと予報士は言っている。しかし、陽射しも伸びて来てこの寒さを乗り切れば春はやってくると思う。まずはここを乗り切る。まだがんばれる、頑張らねばとと自らを鼓舞しつつ。

ご主人様トランプに首にされないために安倍晋三は2017年02月08日 07時31分21秒

★卑屈の極み、対米従属外交

 日米首脳会談が近づいた。今、日本国首相安倍晋三は夜な夜な悪夢にうなされているかもしれない。
 トランプ新大統領と会ったはいいが、彼を怒らせてしまい突然「You're hired!お前は首だ!」と、怒鳴られたらどうしようか、心配でたまらないことだろう。
 挙句に、日米安保条約は破棄する、在日米軍は日本から引き上げると、過激発言が売りの新大統領は言い出すかもしれない。そうなったらいったいどうしよう。アメリカ無しでは生きていけない自民党のトップ晋三としては、トランプ大統領から、クビ!と宣告されたら彼の地位が危うくなる。
 ならばまず心象を少しでも良くしておこうと、会談の前から必死に沖縄辺野古の米軍基地建設にハッパをかけて、米軍のために日本政府はこんなに真剣にやってます、急いで海を埋め立てて約束の基地建設に邁進してますので、と、誠意を示さないとならない。
 哀れと言うより、その卑屈さに今さらながら呆れ果てる。沖縄県民の思いよりもまずはトランプ氏へのご機嫌取りが優先される。辺野古の海埋立は、トランプ大統領への手土産なのか。

 そもそも安倍晋三は、昨年トランプ氏がアメリカの新大統領に当選した直後、世界のどの国よりも一早く、まだ就任もしていないのにアメリカに出向き、トランプタワーに駆けつけて祝意を述べて、日本と自らの新たな「飼い主」に忠誠を誓ってきたのである。
 その席で彼らは何を話したのか、あくまでも非公式な会見だったから何一つ報じられていないが、常識的に考えて当選したからといってまだ正式に就任もしていない私人の元に、一国の首相が慌てて駆けつけるという行為自体、いかにアメリカ様様か、日本の卑屈さを世界中に示したのは恥べきことではないだろうか。

 そして成る今回の正式な会談、先日も電話会談したばかりだし、マチス国防長官も来日したばかりなわけで、わざわざまたもこちらから出向いて行く理由は大してあるとも思えない。
 このところ対日批判を強めているトランプ氏にともかく直接お会いして、さらに頭を深く下げ忠義の度を示せば、まあ彼としても怒りは収めてくれだろうとの期待が見え隠れしている。そしてゴルフをやって個人的にもっと親しくなって信頼関係も築ければ、一安心だと様々な「手みやげ」満載でアメリカに向かうのである。

 その直前、沖縄の翁長知事一行は、トランプ新政権誕生で、アメリカの対日政策も風向きが変わるかもと期待を込めて、沖縄の現状を新政権の要人に訴えるべく訪米した。が、新聞報道などでは大きな成果は得られなかったとされている。
 まあ、それも当然かもしれない。日本のアメリカの関係は、例えれば強大なブラック企業とそこで働く従業員、もしくは下請け企業のようなものであって、オーナーが変わったからとしてもブラック企業が突然民主的になるはずもない。
 まして今度の新オーナーはさらに前のトップより悪いのである。過激な発言が売りのやり手のビジネスマンなのだから、さらに下請けや従業員を締め付け、とことん搾り取ろうとするはずだ。そこでは過労死が当たり前となり、拒めばクビにされるのだ。
 むろん、現実の話として、さらなる駐留経費を支払えとか無理強いされたら、我も沖縄の人たちも期待するように、基地撤去、ひいては安保条約破棄という対抗手段もなくはない。が、まず日本側として、日米軍事同盟は普遍かつ恒久的なものだと考えているし、硬直化した与党の思考では、それしか日本が国際社会で生きていく青写真は存在しない。ならばさらにトランプ大統領の顔色を窺い、彼のご機嫌を損なうことのないよう、常にとことんどこまでも譲歩して、自国民をないがしろにしてもアメリカ様の要望に従っていく。

 戦後70年過ぎて、ずっと敗戦国日本は勝利した大国アメリカ様の子分や手下、いや、飼い犬ポチだと言われ続けて来た。確かにアメリカなしに今の日本の繁栄はありえない。だが、「平和」はどうだろう。
 安保条約があったから、日本に基地があちこちにたくさんあり、おかげで日本の安全・平和が守られたというのは真実であろうか。
 そろそろここいらで日本も「対米従属」というドグマから解き放たれて、経済も軍事も真にアメリカに依存することない独立国へと変わるときだとトランプ大統領登場はきっかけになるはずだと考える。

 ひところ、NO!と言える国日本を、というスローガンが出回った。その提唱者は最低な男であったが、今こそ、日本はアメリカに対して毅然としてNO!を、言うべき時にはきちんと堂々と言わねばならない。
 まあ、それは常にアメリカの顔色を窺ってびくびくしている安倍晋三に望むべくもないけれど。昔の人は、こういう輩を「売国奴」と言った。そう、沖縄の海や森を人民の思いとは別に、アメリカに提供した者たちは皆。