癌よ、お前は何のためにあるのか・後2016年09月25日 06時29分41秒

★なすすべもなく癌に母を奪われ

 母のこと、母とのことが過去となっていくのが辛い。
 なす術もなく、という言葉がある。このところ母の死、葬儀までの日々を改めて振り返ってみて、まさに、なすすべもなく癌に押し切られたという思いに打ちのめされている。
 もう少し抗うことも巻き返すこともできるかと思っていたが、まったく何一つできなかった。押しよせる大津波か、土石流のように我らは翻弄されて、その勢いの前に流され必死にもがくだけであった。

 今思い返せば、母の死を意識し始めたのが、医師から我に、もう母は長くないからそのつもりで覚悟して、と告げられた7月1日のことだ。そして9月8日に、母はこの家で旅立ってしまったのだから、わずか二か月と一週間しかその「告知」から生きられなかったのだ。

 父が三か月間の肺炎と大腿骨の骨折治療の入院から自宅に戻って来たのが、翌2日。これでまた親子三人での生活が再開したと喜んだのも束の間、7月13日に母は、最初の高熱での救急車で搬送されて入院。以後は大慌てで介護ベッドを自宅に運び入れてそのベッドの上での寝たきりの生活となってしまったのだから、母が自ら動けて居間で家族共にテレビ見ながら食事もとれていた元通りの生活はわずか二週間しか続かなかったのである。

 そしてそれ以降は、我、息子が寝たきりとなっていった母の下の世話から何もかも介助するようになった。その日々はずいぶん長かったと最中は思っていたが、今数えてみると母の入院していた日を差し引けば実質たった一か月かそこらなのである。
 今さらながらそうしたことに気がついて愕然としている。次々と押し寄せてくる日々新たな事態に対処するのが精いっぱいで、癌と闘うことどころか向き合うことも、落ち着いて考えることすら何一つできなかった。一日一日を何とか乗り切るだけで必死だった。それは仕方なかったのか。
 そして何より悔やまれることは、きちんとした事実認識を我は持てなかったことで、まだまだ死まで時間がある、猶予されていると甘く考えていたため、急にその時が来て冷静に対処も受け止めも心の準備もてきなかったことだ。愚かであった。素人なのに過信していたのだ。
 もっと死を常に意識して日々きちんと向き合わねばならなかったのだ。

 今さらながらそうした経過を振り返って認識し、愕然としている。当たり前のことだが、時は戻せない。母ももうこの世には戻ってこない。そして我は、認知症の、ろくに歩けない老父と二人で、母のいないこの家で生きて行かねばならない。そのことはわかっている。そうするしかない。
 が、今も母を死なせてしまったこと、母のいない現実が辛くて情けなくてきちんと受け止められない。そう、全く情けない。まったくなす術もなく、癌に押し切られてしまった。完敗であったかと思わざる得ない。我はすべてが甘かった。
 これもまた神の計らい、あらかじめ決まっていたことだとも思う。が、情けないことにその事実、事態を冷静に未だ受け入れられない。いや、頭はともかく、心、気持ちは受け止めたくないとあえて抗っている。

 我がもう一度何かに夢中になって、生の情熱を傾けられるものがあるだろうか。今は音楽さえもうたすらも我の関心をひかない。ギターももう何ヵ月もさわっていない。我のすべきことは何だろうか。何があるのか。
 今できることは、情けないけれどこうした心情をブログで吐き出すだけだ。ご同情や励ましのメールを頂いた方も多々おられる。その方たちに個別にきちんと御礼の連絡せねばと思うものの、愚痴や嘆きばかりになりそうで、その人にも重荷を負わせてしまいそうでためらっている。

 外は久しぶりに陽も出て晴れて来た。彼岸明けの日曜の朝だ。この太陽のように、どうかもう一度我が人生にも明るい陽射しがさすことを。もう影ばかりの死の谷を歩むのはご勘弁だ。

元の世界に戻りたいと願うけれども2016年09月24日 22時41分16秒

★ただ祈り救いを求めている。
 
 この何日かものすごく苦しくて自分でもどうしたらいいかわからない。
母のいる世界にすぐにでも行けたらと考えるが、我が死ねばまた妹や父、そして多くの人たちに迷惑をかけ、苦しい思いをさせてしまう。
 母の死でそのことを痛感したからには、おいそれとは死ぬわけにはいかない。まして、死ねば母のところに行けるか定かではなく、逆に地獄に墜ちるだけであろう。
 まえは、母が生きていた頃は、日々毎朝、散歩の折など家族三人での変わらぬ平穏と無事を祈り、寝る前には感謝して床に就いた。が、もう今はその言葉がみつからない。父と二人での幸せを祈ろうにも母がいない今、果たしてそれが我が願う求めているものかはっきりしない。
 何よりもこれからいったい何をどうして良いのか未だその道筋も覚悟も決まらない。
 先にも書いたが、今は人のいる場に戻れる自信がない。正直誰かに会うのも怖いぐらいだ。
 昔、不登校だった頃、あまりに長く学校を休んでいると、もう行きたくても行けなくなってしまう記憶がある。しだいしだいに敷居が高くなり、まさにハードルが高くなって、気軽にはもう学校には戻れない。我のいない教室をあれこれ想像してももうそこは自分の居場所がないと思う。今はそれと似た気分になっている。
 もうどこにも自分の行き場はないし、すべての価値を母と共に失ってしまった今、生きている、生きていく意味が見いだせない。
 むろん、こんな我にも役割も果たすべき義務もあるはずだと信ずる。夢中になれる何かもあるはずだ。ただ今はまだそれに向かって、よし、がんばろう、やっていこうという、そのことを了として受け入れる気分になれやしない。
 新しい光を、新たな風よ、そして新たな命の息吹よ、我に届け。毎日毎日このところの天候のように、陽射しもなくぐずついて、うすら寒く憂鬱気分のままでは気持ち新たに前向きにはなれやしない。

 ただ神に祈り救いを求めるしかないのだが、母の死のあと、我の中での神は遠くに行ってしまった。ならば遺影の母に向かって日々嘆きすがろうとも母は穏やかに笑っているばかりで、どこにも救いはない。
 母を死なせたこと、ただ悔い、後悔、今さらどうしようもないけれど、本当にこれから母なしで、いったい一人でどう生きて行けばいいんだろう。母に尋ねても何も答えは返らない。では、あの世もないのか。神も母も失ってしまえば我が魂も行き場がない。でも死ぬにも死ねない。いったいどうしたら良いものか。
 元の世界に戻りたい。が、戻ろうにも母のいない今は同じ場所はどこにもありゃしない。

癌よ、お前は何のためにあるのか・中2016年09月22日 07時37分26秒

★母の死因を考えなおすと

 外はまた冷たい雨が音立てて降っている。いつも思うのは、こうして雨が降り続いている間、野生の鳥たちは、いったいどうしているかということだ。
 むろんどこか木陰の、強い雨があたらない所でじっと息をひそめているのだろう。しかし、餌は雨の中、獲りにいけないだろうし、雛もかかえている親鳥もいよう。こんな天候で、雨が何日も降り続いて生きていられるのか。
 ネズミやサルなどの手も使える高等生物ならば、巣に食べ物を貯蓄もできる。こんなとき、それを食べてしのぐこともできるのかもしれない。しかし、野の鳥たちは、まさにその日暮らしのはずだ。こんなに雨が降り続いて大丈夫なのか。
 しかし、長雨の後に、大量に野生の鳥が飢えで死んでいたというニュースが出た記憶はないし、野生の鳥も環境要因で減少したとしても天候そのもので絶滅はしていないはずだ。彼らはどんな天気でも負けずに生き続けている。
 まさに聖書にあるように彼らは、明日のことを思い煩うことなく、日々その日を、一生懸命に生きている。きっとこんな雨の中も、ただじっと晴れるのを待って飢えを我慢しているのであろう。そして晴れた日にはまた大空を高く飛びまわり餌を求める。それもまた神の計らいだと気づく。ならば人もまたである。

 22日、秋分の日である。母が旅立って今日で二週間。あれからずっと雨や曇りばかりで、ほとんど晴れることなくおまけに肌寒い日が続いている。父が風邪をひかぬよう、体調管理が大変だ。今日は薪ストーブを今秋始めて焚こうかと思う。そのぐらい今日も気温が低い。

 あれから・・・、哀しみの置き所は心の中にできたので、もう泣いて取り乱しはしないけれど、介護ベッドをウチに入れてから、母が死ぬまでの日、そのときのことも含めてずっと思い出しては考えている。
 そもそも母は何で、何が原因で死んでしまったのか。当初は、我が水を誤嚥させてしまい、呼吸ができなくなって死なせたと思っていた。だから自分を責め続けた。
 しかし、餅を喉に詰まらせたならともかくも、一口の水でまず人は死なないと思いたいし、そう他者からも言われたが、つまるところもうそれだけ体力がなくなっていて、衰弱が甚だしく、ささいなきっかけで、カンタンに死んでしまったのだと思いたい。どうか、そう思わせてください。
 ならば、そうして体力を奪ったのはいったい何か。最後はどういう状態だったのだろうか。

 母の直接の死因は、栄養失調による衰弱死だと我は考えている。では、何で栄養失調となったかというと、大腸が短くなって、しかもバイパス手術も受けて、食べたものが消化吸収されることなく下痢や軟便となって出てしまったからだ。その手術が原因だが、それをしなければイレウス、つまり腸閉塞を起こして母は死んでいたかもしれないし、そもそも腸閉塞は癌が肥大して腸管を圧迫したり癒着したことから起きたわけでやはり根本原因は癌そのものだと気づく。癌を患わなければ母はまだ痩せずに元気に生きていた。
 最後まで母には癌そのものの痛みはなかった。それは良かったと今も思う。が、癌はじわじわと肥大し実に巧妙に、母をじょじょに、かつ確実に衰弱させて死の淵へと追いやったのである。測ってはないが、体重は30キロもなかったのではないか。まさに砂の中から発掘されたシルクロードのミイラ状態であった。

 しかし、その憎き癌も母と共に火葬場で焼かれて今ウチには母の骨だけが残された。そして思う。いったい癌とは何なのか。お前はいったい何がしたかったのか。これがお前の望みなのかと。もう全て取り返しがつかないではないか。バカやろう!

癌よ、お前は何のためにあるのか・前2016年09月21日 10時39分03秒

★この世の全てに意味あるならば。

 どうしたことか、ともかく寒い。今朝などウチのほうは、20度もなかった。台風は過ぎ去ったようで、曇り空だが風もなく今、外は静かだ。しかし気温は低く、このままだと冷害の秋となろう。このところずっと曇天雨模様で、日照時間は短いのだから、農作物にも被害がでる。
 九州の妹の田では、去年も稲に実が入らず、今年も成長期に水不足が続いたので不作は間違いないとのことであった。

 おそらく日本全土、今年は農作物の出来は良くないのではないか。水害に冷害、日照時間の不足、それらは地球規模の異常気象がもたらすものだ。そしてそんな時代に海外からの安い農産品の輸入をより増やしていこうというTPPの承認が待っている。国内の不作・不足を安く外からまかなえられば、とりあえずの食は確保される。が、海外でも異常気象が多発すれば輸出にまわす余剰農作物が生産されるか、入って来るかは定かではない。他国に依存して、そのとき、日本の食は大丈夫なのか。
 地球規模で天変地異が多発している時代なのだからこそ、国内の生産性、自給率を少しでも高めて、備蓄も増やし国家はその時に備えるべきではないのか。それが政治家の役目、正しい判断ではないだろうか。

 さておき、我は運命論者ではないけれど、この世のすべてのこと、起こることには全て意味があるとつくづく思う。原因と結果の法則ではないけれど、全ての事には意味がありそこに理由がある。
 ただ、問題は人は、特に当事者は、そのとき、コトが起きているときはその意味も理由もわからず、ただ驚き、うろたえ、頭を悩まし困惑するばかりなのだ。そしてたいてい誤った、適切でない判断を下し間違った処理をし失敗してしまう。特に我は常にそうであった。
 幸いは、たいてい後になれば、その時々、その時点ではわからなかったことも、何だ、そうだったのか、そういう流れ、伏線、理由があったからそのコトが起きたのだとわかる、すべてがはっきり見えてくることだ。

 母とのことも一喜一憂してはならない、と常に自戒していた。が、それは後で長い目で見ればの話で、その時そのときは、つねにリアルタイムなものだから、やはり常に些細なことにも一つ何か起こる度、悩み驚き慌てて、あるいはぬか喜びもしてしまった。そしてそうした日々を積み重ねて、ついに母は、体力気力尽き果てて死出の旅へと出たのだ。
 母の生きていたとき、死ぬまでの日々を今振り返ってみると、全てそこに至るようにつじつまが合う。母は確実に死に向かっていた。確かに、我の介護がもう少し適切にやれたとしてもその誤差はごく僅かであっただろう。
 ならば、そう予め定まっていたことだと理解して、起きてしまったことを受け入れるしかない。自らを責めても悔やんでも仕方ないし意味はない。

 ただ、そうした今もなお一つだけ、気になること、いや、わからないことがある。いったい何で母は癌におかされたのであろうか。何で母は癌を患い癌で死んでしまったのだろう。その理由が知りたい。そもそも癌っていったい何なのだろうか。
 
 焼き場で焼かれた母の遺骨を抱えて家に戻ってきた。焼かれた直後の骨と化した母の姿もはっきりと見た。そのとき感じたのは、高齢ではあったが、母の骨は実にしっかりしていたということだ。
 焼き場の職員も、この歳で、女性でこんなにしっかり形ある骨がたくさん残っているのは珍しいと言ってたと記憶する。量も多く、用意された骨壺にほぼ満杯で、何とか収めることができた。

 母は中年期から意識してカルシウムの錠剤とか日々とり、骨を強くする注射なども受けていたので、骨密度は高かったようだ。最後は痩せ衰えて骨と皮になってしまったけれど、その体じたい、元気なころは、妹弟の誰よりも比せば大きく頑健で、抱えて戻って来た骨壺も実にずっしりと重くて驚かされた。最後の時の母の肉体そのものとほとんど変わらぬ重さがあった。
 つまり、骨という土台じたいは頑丈にできていたのだから、肉体が癌で病み衰えさえしなければ母はまだまだもっと生きられたはずなのである。そう確信する。
 ならば、そうして母の命を奪ったもの、お前、癌とはいったい何なのだ。癌にも意味があるとすれば、その意味が知りたい。
 そのことについて、考え続けている。

新しい我が物語をつむいでいこう2016年09月20日 06時31分06秒

★人の一生も一冊の本だとしたならば

 また外は冷たい雨が降り続いている。まだ9月半ばだというのに、暖房が恋しくなるほど気温が低い。寒がりの母が生きていたら寒い寒いと大騒ぎしていたことだろう。台風がまた来ていることは知っているが、こんなに涼しいのは異変である。今年、2016年は我にとってすべてに異変の年であった。

 そう、少しづつ少しづつまたこちら側に戻していけば良いのだと思う。まずは今月中に、母の葬儀関連のことはすべて終えて、納骨の日取りも決めて、親戚筋に告知してその日を待つだけ迄にもっていけたらと願う。まだやるべきことは山積しているが、父と計らい一つづつ片付けていこう。鬱々として寝てばかりはいられない。哀しみは哀しみとして抱えながら今日を生きていこう。

 人の一生という物語、それが一冊の本ならば、こうして、母が自らつむいで来た母の物語は終わりを告げた。9月8日以降、残念だが新たに書かれることはない。
 母の本はかなり厚く、大部のものであったが、そろそろ巻末のほうにきていて、残りのページも薄くなってきたなあ、と思っていたら突然終わってしまった。著者の後書きもない。もう少し読みたかったし続くものと思っていたので、読者としては驚かされ気持ちのおさまりがつかない。仕方なく、我は今、「解説」を書いて、他の読者の方々、つまり母と親交のあった人たちに送って読んでもらおうと思っている。

 いちおう下書きはできたので、これから印刷所を決めて、できるだけ早く作成し渡し損ねた香典返しもかねて市内の人たちには手渡しで持って行こうと考えている。百部ほどなので値段も時間もかからないかと思う。
 題して「我が母の記」、母の略歴とその人生をざっと記したうえで、母の命を奪った癌とのこと、死に至る経緯を記してみた。この「解説」がないことには、母の人生という本について、読み手としてはよくわからないことも多いだろうし、理解を深めるためにも必要だと考えたからだ。

 母の物語は終わってしまったが、我と母の物語、いや、我が物語の中での母との章も終わってしまった。ただ我の物語自体はまだまだ続き、これからまた新たな章が始まる予定である。今はその草稿の段階か。
 母に変わって新たな登場人物が出てくるかもしれないし、いきなり驚くべき展開が起こるかもしれない。それが面白いか、どれだけ読み手がいるのか定かではないが、乞う、ご期待!とだけ言っておこう。その物語とはこのブログに他ならない。
 我が人生が続く限り、ブログ自体が閉鎖されたり、我も病床でついに書けないときが来るまで、書き続けていくつもりでいる。

 人生という物語が一冊の本だとするならば、我が本、この物語に読者の皆さんがいてくれるということ自体が、書き手として有難く光栄なことだと痛感している。今さらながら厚く御礼申したい。
 その多くの読者の皆様、友人知人の励ましで何とかこの「山場」を乗り切れそうだ。ともかく今月中は、家にこもって母とのこと、母のことは一段落つけて書き終えて、10月から新たな章をつむいでいこう。

我はまたこちら側に戻れるのか2016年09月19日 06時10分59秒

★生きる者としての価値と意味を取り戻していかねば

 9月19日、彼岸の入りである。外はまた冷たい雨がしとしとと降っている。
 どっと疲れが出た、と記した。どうしたことか何も疲れるようなことはしていないのに、この数日、夕食後はもうしんどくて起きていられない。倒れ込むように眠り、断続的に汗をかいたり寒かったり浅い眠りを繰り返して何度か目が覚める。外はいつも暗い。そしてまた寝直しようやく夜が白みだしてベッドからはいだす。
 頭は鈍く痛いし体は重い。もっと寝ていたい気もするし今はできなくもないが、さらに体はだるく辛くなりそうだ。

 こんなことを書くとまたご心配おかけするだけなのはわかっている。が、他に何も書けないし更新できない日が続くのもまた同様のことであろうか。
 母が死んで10日が過ぎた。もうさすがに泣いてばかりはいないし、母不在の感覚、その日常にも慣れて来始めた。認知症の父と男二人だけの暮らし、ともかく面倒な父に手を焼きながら何とかキレずに日々をやりすごしている。
 母が死に向かう直前、そして死んだ直後もかなり大変で辛かったが、今はそれとはまた別の辛さ、苦しさを感じている。やるべきこともまだあるし、一段落したわけではないのだが、心だけでなく身体まで今頃になってダメージが出てきたようだ。
 あまりに死に行く人と向き合い、死後も死んでしまった人のことを思い、内心で語らい、死の世界、死者の国のことばかり考えていたためかまだ生きている我までが、そちら側に身を置いてしまったようで、こちら側になかなか戻れない。

 死とは言うまでもなく、その時点ですべてが無意味、無価値になることであった。そうした「事実」を知り、最も身近な愛した人がこの世から消えてしまうと、我もまた同様に、周りのものすべてが意味と価値を失ってしまった。
 自らも死の国を望みはしないし、まだまだやるべきこと、特に父の世話とかもあるのだけれど、以前のように外の世界に明るい色は取り戻せない。このところの天気のように全てが灰色で、熱も温かみも感じることができない。陰鬱、憂鬱である。

 買い物などで人の集まる場所に出向くと、そこに流れている流行りの音楽などは煩わしい雑音以外のなにものでないし、だいいち他の人たち、とくに若い元気に騒ぐ人たちを見るのも耐え難い。彼らと同じ場所にいられない。よって辛くて、その場に長居できず大急ぎで静けさしかない我が家に退散する。そこには母が待っている。もう何も語ることのない母が静かに待っている。

 この気分が一過性のもので、また人の集まる場所に出て、気の合う仲間たちと何か楽しいこと、面白いことに熱中できるときが来るのだろうか。
 我はこちら側にまだいる。母はあちら側、彼岸へと渡ってしまった。そこには絶対に渡れぬ大きな河がある。しかし、我はその岸辺で今も母の行ってしまった側を観続け立ち尽くしている。我の事を後ろから呼ぶ友もいるはずだし、彼らが我を呼ぶ声も聞こえている。が、その河を背にして再びこちら側、生者の世界へとなかなか戻ることができない。
 早く戻らねばならないし、こちら側でやるべきこともまだ多々ある。それこそが生きている我の義務なのはわかっている。しかし、今もまだその河に背を向けてこちら側に戻ることができないでいる。

 今の不安は、我はもう一度こちら側に戻れるのだろうか、だ。外からは近くの神社の夏祭りで、昨日から賑やかなお囃子が今も聞こえている。生きている者たちの明るい世界に、我は戻らねばならない。母もそれを望んでいるはずだ。だが、この気分から抜け出せないでいる。
 親戚の誰かが、葬儀などが一段落するとどっと淋しさや疲れが出たり辛くなってくると言ってた気がするが、そう、ある意味今が一番辛い。
 いったいどうしたらいいんだろう。

これからどう生きて行くべきか2016年09月17日 10時50分41秒

★さすがに疲れが出てきた。

 母が死んでから、一週間ずっと天気が悪かった。告別式の土曜は晴れたが、それ以外ずっと曇りがちもしくは小雨が降るぐずついた日が続いていて洗濯ものが干せないでいた。
 ようやく今日、土曜になって朝から晴れ間も陽射しもあり、溜まりに溜まった洗濯ものを濯ぎ直してやっと干し終えた。やや雲は多いが夕方には乾くかと思う。
 母が生きていた時から溜まっていたものなので、当然母の着ていた下着類などもある。もう母は着ないし他に誰も着ることはないのだから洗濯する意味もないわけだが、改めて干しながら母の死を実感した。

 父も今日から通っていたデイケアを再開して先ほど送り出したので、今この家は、我と母の遺骨だけしかいない。遺影の母は何も答えてくれないので、この家は今我一人ということになる。
 ついにこんな時が来た、という気持ちだ。たった一人で遅い朝食をとりながら、テレビの朝ドラ総集編を見るともなく観ていた。

 このNHKの朝の連続ドラマ、母はいつもどの作品も好きで、特に前作「朝が来た」は夢中になって観ていた。主題歌も好きで、何度か入院した最中も、その歌詞を印刷したのを同室の人からもらって、皆で一緒に唄ったとか話していた。
 今やっている、「とと姉ちゃん」も、当初は欠かさず毎朝見ていたが、けっきょく入院が多くなって、当初は院内でもホールのテレビを観に行けたらしいが、やがて寝たきりとなってしまい筋もずいぶん進んでしまった。母がウチに戻ってきて、寝たきりでは刺激がなさすぎると、ようやく8月の終わりになって友人に手伝ってもらい、居間のテレビを母のベッドのある部屋に移動させて、そこでテレビも観れるようにした。
 が、何回かその朝ドラは見させたが、話もずいぶん進んでいたのと、もう上半身起こしてテレビを観る気力、体力もなくなってしまいどれほど理解し楽しんでもらえたかはわからない。好きだった歌番組を見せても半分ほどで目をつぶってしまい辛そうなので消してしまったこともある。

 ケガや手術などで療養中、回復中の患者ならば、体力もあり時間を持て余してしまうだろうからそうしたテレビや音楽は必要不可欠だろう。しかし、もう残り少ない命の炎を細々と灯し続けるのがやっとだった人にテレビはもう不要であったかと今気づく。ラジオでさえ当初は聞いていたが、騒がしいだけで聴いていると疲れてしまうと、ニュースの間は流していたが、終わるとすぐに消してくれと言っていたのだから。
 母にとって必要だったのは、静けさと窓から見える庭の木々の枝葉が風に揺れる姿だったり飛び交うアゲハ蝶、電線に止まる鳥の姿だったり、目に入ってくる自然の平穏だけで十分だったのかと今思う。

 昨日もお線香を上げに近所の方が一人来られたが、そろそろ一週間が過ぎ、葬儀の後片付け、雑事も終わりに近づいてきている。ならば、我が人生も「再開」すべきだと思うものの、もう少し母とのこと、思い出なども書き残してまとめておきたいし、葬儀も母の死も「終わったこと」にはなかなかまだできないでいる。

 19日は、戦争法成立一年の節目の日であり、行けたら友人と連絡して国会前に出向こうかと考えていた。が、今はまだ母を残して、父一人にして午後から半日家を空けるのはどうにも難しい気がしている。
 むろん、父一人にしてもたぶん大丈夫のはずだ。が、今はまだ父のことより遺骨の母を置いて家を何時間も空けるのがしのび難い。この連休も誰か焼香に来るかもしれないし、父が応対したとしても誰が来たのか覚えていて報告してくれるだろうか。
 願わくば我はその人と母のことを語りあいたいと思う。我が母はどんな人であったか、聞きたく思うしどうして死んだかも話して伝えたい。

 母はこの数か月、ほぼ寝たきりとなってしまっていたから、家事も炊事洗濯も何もかもできないので、それらはすべて我がやっていた。そこに母のおしめ交換など介護もあったから、ともかく忙しく我は大変であった。
 だからそうした介護の時間は消えたのだから、体力的には我は楽になり解放されたはずだ。夜も起こされず長く深く眠れるようになった。
 が、このところどっと疲れが出てきて、夜は起きていられないし今日も洗濯ものを干しただけでフラフラである。

 特に一人なると、強い疲労感に襲われる。おまけに腰痛もまた出てきた。母を介護しているときは、日常的に腰は痛かったが、痛くてもどんな作業でもやり通せていた。動くことは辛くなかった。
 それが今はどっと疲れ込んでいる。父も今日は夕方までいない。外は晴れて涼やかな風が吹き込んでくる。朝はしっかり食べたので、このまま昼飯は食べずに昼寝でもしようかと思う。だいいち食べさせる人も食べてくれる人もいないのだ。ならば飯の支度などもう不要ではないか。

 夢で母と会えたらと願うのに、母はあの世で向うにいる友人知人との再会で大忙しなのだろうか、ちっとも夢にも出てこない。そういう人なのだ。きっと浮かれて連日パーティみたいな歓迎の騒ぎに、残してきた家族の事などうっかり忘れているのであろう。そのほうが我は嬉しい。
 今も成仏できずに、何もできない魂だけなのに、我らを心配してこの世に彷徨っていてほしくない。しかしたまには夢に出てきて、向うのことなど報告してほしいと望む。

 もう母は下痢や腹痛に苦しむこともないだろう。体重も戻り前のように元気に歩けているはずだ。もう何も心配いらない。母の魂よ安かれ、そう祈るしかない。

 さあ、これから我はどうやって生きて行こう。まず何からすべきだろうか。母のいない人生をどうやって構築していこう。いったいどうしたらいい?

人の「死」とは何か、ようやくわかった・後2016年09月16日 06時34分02秒

★すべては予め定められていたこと。

 日々心は移ろいで行く。もう少し母とのこと、この出来事について書かせてください。

 歴史の本に見るまでもなく、歴史とは後世の人が過去を見てまとめるものだから常にそこには一貫性がある。つまり、Aという出来ごとがあったからBが起きてCに繋がっていった、というように筋道が立てられる。
 それと同じように、今、今回の一件を、そもそも母の癌発病時から振り返ると、全ての脈絡がつき、筋道が立つ。ああ、あれはそういうことだったのかと、そのときはわからなかったことが今は見えてくる。すべての伏線も説明がつく。
 ただ問題は、歴史がそうであるように、そのとき、その時点ではいったい何が起こったのか、それはどういう意味があり、これからどうなっていくのかは「当事者」、つまり、そのときそこにいた者にはよくわからないことだ。

 今母の死までを振り返ってみて、やはり2016年の9月8日早朝に、母は死ぬべく筋道は整えられていたのだと気づく。それが事前に告げられこちらもわかっていたのなら回避もできたかもしれない。しかし、こちらは何もわからない。
 繰り返し書いたが、我としてはまだまだ死なないと思っていたし、まずは今月20日頃までともかく家で面倒見て、それから次の段階へ移行していく「計画」でいた。だからまさに不慮の出来事だった。ショックを受けた。
 しかし、医師や看護師たち死の専門家たちは、訪れるたび母は衰弱し状態も悪化しているのに気づいてわかっていたから、そろそろだと考えていたし実際その通りになったわけで何も驚くべきことでは全然なかったのだ。

 今、我家に介護ベッドが運び込まれてから、折々撮って来たデジカメ画像を順を追って見てみると確実に母は痩せて衰弱してきていることがはっきりわかる。表情も当初の元気さは日々失せていくのが一目瞭然だ。
 が、24時間常に母と暮らしていると、そうした変化はまったくわからない。一日一日を何とかこなしていくことだけで精一杯で、日々母の体調には頭悩ましてもじっさいの大きな流れ、変化にはちっとも気づけなかった。その中での失望や小さな喜びだけで頭いっぱいだったのだ。それはそれで仕方ないだろう?

 周りの人たちは皆そうして母の死が間近いことをわかっていたのに、我と母だけがそのことを知らなかった。何だ、そうだったのかという思いである。騙されたとは思わないが、疎外された気がしている。
 いや、母自身もわかっていたのかもしれない。母の魂や肉体は、はっきりそう認識していても、母の意識は死を拒み、息子と共に何とか頑張ろうと死にゆく身体と闘っていたのではないか。
 いずれにせよ、医療関係者から間違いなくもうそろそろですよ、と告げられたとしても我は耳を貸さなかっただろうし、認めたくないがゆえ受け入れなかったのは間違いないのだから、今回の事態も仕方ないのである。
 ようやくそう思えて来た。今も認めたくもないし受け入れがたいが、母はその日に、86歳で死ぬべく定められていたのだと。
 それが事前にわかっていたならそう見据えて百%の計画を立てられた。もう少し元気な時に、死ぬ手配、死後の案件も含めて準備もできた。残された時間を無駄なく使い、会うべき人、会いたい人たちに会わせて別れも告げさせられた。
 しかし生きているとき、元気な時はそんなことは考えられない。病んで床に就いて、ようやく死が本格的に問題化し次は回避するのに頭悩まし次いではただ日々看護に追われるだけであった。

 失敗したなあとも思う。癌は確実に肥大し体調は悪化していたのだ。ならば癌を治すとか闘うことに頭を悩まし時間と費やすよりも、いかにうまく死ぬべきか、後々悔いを誰も残さぬよう、生きているうちに成すべきことを成し終えるべく粉骨砕身すべきであった。
 迫りくる死という恐怖ときちんと向き合わず、何とか治してみせる、少しでも良い状態に戻すということだけに囚われて死ぬための準備を怠ってしまった。

 母を失って我を自ら責める悔いとはそこから来ている。ラテン語のメメント・モリとは「死を想え」と言う意味だそうだが、今ようやくその言葉の意味が見えて来た。
 死なないよう癌と闘うこともむろん大事だ。だが、それと並行して、死を見据えて、常に死を想い向き合って生きていくことが肝心なのだった。

 母の気持ち、実際のところはわからない。死を受け入れるもう覚悟はできていたのかも。ただ息子としてはその恐怖のあまりきちんと向き合うことが最後までできなかった。
 我は死をひどく怖れた。だからあえて向き合わず考えないようにしてきてしまった。そしてそのときが来て、驚き取り乱し打ちのめされて今も立ち直れずいる。

 そう、人は常にどんなときでも死を意識しきちんと向き合わねばならなかったのだ。死は誰にも等しく必ず訪れる。目をそらしてはいけない。もう逃げない。
 この母の教えを、我は我の死の日まで大事に抱えて生きていこう。そうして誰もが死を抱えて生きていくのが人間なのだからこそ、自他を問わず誰にでも丁寧に優しくきちんと応対していこう。笑顔ですべてを赦し受け入れていこう。

 思えば我が母こそそうした人であった。その人を死なせてしまったという自らを責める思いはだいぶ軽くなって来た。が、失ったという重さは日々さらに大きくなってきている。

人の「死」とは何か、ようやくわかった・中2016年09月15日 16時53分52秒

★人は死ねばゴミになる?

 母が8日の早朝、我家で死んでから一週間となる。さすがに涙がいつまでも止まらないとか、人前はばからず号泣するということはなくなってきた。しかし、今もまだ母が、母の肉体、存在そのものがこの世から消えてしまい、ただの骨となってしまったことが現実として受け入れられない。意識のうちでは、母は今も介護ベッドの上で横になり、我を呼ぶ姿がありありと目に浮かぶ。我はやさしく母の腹を毛布の上からな撫でて、次いでむくんだ手足をさすってマッサージする。優しく静かにしないと痛がってしまう。その声が、その姿が、その感触は今もはっきりと残っている。

 そう、我の内では今も母は変わらず生きている。母と過ごした記憶はおそらく我が生きている間は死ぬまで消えないだろう。ただ問題は現実として、母はもうこの世にはどこにもいなく、母の残した数々の物ものが使う人、主をなくして所在投げに散らばっている。それらはどうしたものか。やがては捨てるしかないのもわかっている。特に母の使っていた衣類や日用品は母しか使えない。それらはやがて処分する。妹が来てくれれば彼女はドライだから一切合切右から左にゴミの袋に詰め込んで表に出してしまうことだろう。我はそれを見守るだけだ。


 人は死ぬとゴミになる、とは誰の謂いであったか。ひと頃そんな言葉があちこちを賑わした。就活ならぬ終活、つまり死ぬための生前からの事前活動も今も喧伝されているのは、そうした「死後」の煩わしさを当人も周囲も厭うからだろう。

 それは母が生きていた頃、しだいに死に向かい出してから徐々に我も感じるようになっていた。
 人が死ぬとその個人のパーソナルなものは、意味と価値をほとんど失ってしまう。まず衣類や靴、使っていた日用品しかり、書き記したもの、愛好した趣味的なものでさえ、当人意外には基本意味を持たない。
 母が弱ってきて、ベッドから降りられなくなってきて、まず靴やスリッパ、靴下などは不要となり、さらには常に紙オムツだけの下半身となれば、寝間着なども下はいらなくなる。メガネは食事どきかけたりはしていたが、最後まで使っていたものは入れ歯だけであった。ずっと付けていた手帳も記す気力もいつしかなくなっていたし、上半身の肌着と紙オムツ、それに常に上半身に巻いていたディズニーのバスタオルだけで母はあの世に逝ってしまった。他のものは既にその時点で一切彼女には不要のものとなっていたのだ。

 むろん家族と撮った写真や母が拙くも書き記していた短歌の類は当然捨てないで残しておく。が、他の私物類、一切合切は今すぐではないが、近くゴミとして妹が来れば大量に処分されてしまうだろう。
 そうして母が生きていた痕跡、この家で長年過ごしていた証拠が消えていく。何年かすれば人の記憶も薄れて、よほど親しい友人や親戚縁者以外は、そんな人がいたことすらすぐに思い出させなくなるだろう。

 有名人なら、○○記念館なるものを作って死後もその人の姿を記録にとどめ残した物どもを収納、展示できる。しかし、それはビジネスとして成り立つ著名人であるからで、そうした施設もファンなり観光客なり訪れるから成立しえる。市井の無名に生きた者は、そうした主亡き後のものなどを遺されても遺族は本当に困る。やはり早く処分していくしかない。
 それは衣類や日用品などガラクタでなく、蔵書やレコードだって同様だ。当人にとってどれほど重要で価値があろうとも家族にとってはまったく意味を持たないものである場合が多いし、何よりも場所をとって困るだけだ。
 ふと、我が死んだらいったいこの膨大な本や雑誌、レコード、カセット、ビデオテープ類はいったいどうなるのか怖くなるが、今はそれはあえて考えない。できるだけ死なないよう健康に注意するぐらいしか今はできやしない。

 人は死ねばゴミにはならないと思う。生きていたこと、してきたことはどんな人でも意味も価値もある。しかし、確実に死後には膨大なゴミと化すものを残していく。問題はそれをどうするかだ。

 我の今の気持ちとしては、母の残したものすべてが愛おしく大事である。だって母はもういないのだ。ならば母のものは全て我の周りに残しておきたい。食べ残したものはともかく書き記したメモの類、使っていた日用品、来ていた衣類でさえも今は母の残した大事な思い出の品である。
 二度とそれを使う人はいないし戻りはしない。だからこそ、愛した母のものを我は生涯捨てたくない。むろん我にとって価値があるだけで、それらは我の死と共に処分してもらってちっともかまわない。

 妹ともめるだろうが、今は母の残したゴミすら我にとっては大事な有難い母との思い出なのだ。それらをほいほい捨ててしまえば、母がいたこと、母がここに暮らしていたことすら消えてなくなってしまうではないか!
 それはあまりに哀しすぎる。母がかわいそうでならない。人が死ぬとはそういうものだ。だからこそ我は抗いたい。亡き母のためにも。

人の「死」とは何か、ようやくわかった・前2016年09月14日 21時01分00秒

★生きていた証を残していく

 母が死んで一週間近く経とうとしている。慌ただしさは一段落したかというとそうでもなく、人が来たりあれこれまだ書類上の手続きも多々あって終わりが来ない。
 いつまた元の生活に戻れるかと考えると、「元」の状態にはそもそも母がいなくなってしまったので、不可能だと気づく。認知症かつ自らは歩行困難な障害を持つ高齢の父と二人で、母不在の新たな生活、システムを作っていかねばならない。
 今までも母は寝たきりとなってしまってから、我が食事から洗濯までいっさいの家事をやってきた。そしてそこに母の紙オムツ交換などの昼夜関係ない介護が加わっていた。
 その時間と手間はなくなったので楽にはなったわけだけれど、様々な残務処理と精神的打撃から立ち直れず次へと移行できないでいる。

 母は介護ベッドに寝たきりで、もう最後のほうは、排便が起きた時などだけ、チャイムを鳴らして我の介助を求めたが、それ以外はほとんど自発的発話はなく、声もかすれ話すのも辛くなっていたのか目を閉じて起きているのか眠っているのかわからないような状態でいた。
 しかし今思えば、我家のリーダー、主導権を握っていたのは母であり、我は何でも母に語らい、声かけて日々の生活、日常は進んでいた。日々交互に看護師が来たり介護ヘルパーが来たり、週一で訪問診療で医師が来たりして日々過ぎていった。

 父がデイケアに行かない日は、母と父とに、その母の介護ベッドの上に簡易テーブルを渡してそこで父も交えて三度の食事を摂らせた。我は落ち着いて食事した記憶はないけれど生活のすべては母中心にまわっていた。
 今調べてみると、そうした暮らしは、7月25日、母が一度目の高熱で救急搬送で入院して戻ってから始まった。もはや元の生活は無理とのことで、大慌てで玄関わきの部屋を空けて介護ベッドを導入したのだった。ずいぶん前のこと、その期間も長かった気がしたが、9月8日まで、わずか一か月ちょっとのことである。

 母が遺骨へ変わり、母が使っていた介護ベッドも返却してなくなって、また以前の居間での生活に戻ったわけだが、我家という船は、母という船長不在のまま波間を漂っている感じがしている。
 別に母が舵を握って進路を決めていたわけではない。じっさいに動かしていたのは我であった。が、何でも母に相談してすべては母中心にその船は動いていたから、船長の不在は本当に困る。
 何より進むべき海図を持ったまま母は逝ってしまったから、乗組員である我と父は今も途方に暮れている。

 いつまでもこうして波間に漂い、進むべき方向を見失っていてはいけないと思う。途方に暮れつつ眼前の残務処理だけ少しづつ終わらせ、哀しみに押し潰されないよう、アルコールで意識を朦朧とさせて我ら父と子は一日を終える。
 それで朝までぐっすり深く眠れれば良いのだが、必ず深夜に、2時とか3時、今日など一度零時頃に起きて、数時間おきに目が覚めてしまった。
 それは母が生きていた時の習慣で、母が我を呼ぶチャイムに起こされなくてもそうした細切れ睡眠が習慣となってしまったからだ。目覚めてもまたすぐに眠れれば問題ない。が、たいていは一度トイレに起きてしばらくベッドのうえで本やスマホを手に取っている。夜が長い。つい母とのことをまた考えてしまう。そして泣きながら眠りにつく。

 まだ先は見えてこないが、今回の騒動の残務処理は間もなく終わる。父もデイケアを再開させるだけでなく、お泊りもできるデイサービスも行けるよう手続きもとった。
 だから、そうして父をどこかに預けてしまえば、我はまた自由に何でもできるし出かけられる。夜通しライブハウスなどで飲み明かすことだってできる。
 しかし、母の遺骨がある今は、その母を残して家を空ける気がどうしても起きない。父に留守番を頼み、父に家にいてもらえるなら出かけられる気がする。が、父も我も不在で母を一人にしておけない。
 おかしな話だ。母はその白木の箱の中になんかいないとわかっている。でも、母が最期を過ごした部屋で、花に囲まれた母の遺影と遺骨、位牌などが置いてある間は、留守にはできないと思う。骨になっても母一人にしてしまうのはかわいそうでならない。

 もう少し時が過ぎ、残務も片付き一段落すれば、また元通り音楽でも国会前行動でも何でもできるはずだ。が、今はまだどうしても我を待っているはずの友たちとも連絡する気もまだ起きないでいる。申し訳ないがこの場を借りてお詫びしておく。

 母の魂はもうこの家にはいない気がしている。が、母がいたこと、生きていた証に我はもう少しひたっていたい。
 そう、今も日々ことあるごとに我は母の写真に語りかけ相談している。いったいどうしたものかと。遺影の母は穏やかに笑っているだけでもう何も答えてくれないけれど。