ぼけまる生前葬を画像で・42020年08月10日 06時37分42秒

★おちょこ&ゆきちゃん

ぼけまる生前葬を画像で・32020年08月10日 06時31分07秒

★まずは本人を代表して1曲

ぼけまる生前葬を画像で・22020年08月10日 06時24分12秒

★司会役の館野公一と遺影の巨大画

ぼけまる生前葬を画像で・12020年08月10日 06時14分33秒

お二方、お疲れさまでした!!
★かけこみ亭に住むネズミ二匹。祖母とくいしんぼうの孫。

ぼけまるの「生前葬」を終えて2020年08月09日 23時34分09秒

2020/8/9 ぼけまるの生前葬 葬儀写真画
★コロナ禍中、最高最良のイベントに、「生」で参加・体験できた喜び~生きているって素晴らしい!!

 谷保かけこみ亭のぼけまる氏の「生前葬」に行ってきた。いまもコーフン冷めやらぬ気持ちでこれを記す。
 このコロナ感染蔓延中、果たして開催できるかと危ぶまれたが、国立市民芸術小ホール・地下スタジオにて、昨日8/9日、彼の72歳の誕生日に合わせて無事大盛況のうちに終えられた。※むろん三密を避けるため客席数を半減させ万全の感染対策の上で。その報告をしていきたい。

 当日の様子は、かけこみ亭のHPから開演から終わりまでライブ配信されていて、またこれからも観覧できるようだから、ネットを通した「見た」方は多いかと思う。状況はそれで確認、知ることはできる。
 ただ、当日その場で、リアルに生で観た者として、その不安と感動、そして喜びはきちんと記しておかねばと思う。やはり「その場」にいた者の感想は、現場で生で楽しみ、体感した者だけ独自のものだろう。

 我にとって生涯心に残る素晴らしいコンサート、いや、イベントとなった。当初の予想よりはるかに素晴らしく大いに感心、感動させられた。
 我も含め誰もが老境に入って来て、友人知人の訃報が相継ぐ昨今、、ほけまる曰く、「葬式でしか会えないのはいやだ!!」、しかも死んでしまっては本人は葬式に来た人に何も言えないし何もできない、のだからと『72th Bithday Event!~ぼけまるのコンサート(その22)生前葬大会』として、当人は唄わず棺桶に入って彼の楽曲を参列者たちが唄う「コンサート」として当初は企画されていた。

 だから、我も毎度の彼が企画する音楽イベントだと思い、ある程度予測・想定し臨んだ。が、実際は全く違った。予想はいい意味で裏切られた。真に驚かされた。
 一言で言えば彼の葬式を題材にした唄と笑いと感動の「演芸バラエティショー」であった。そしてそれはとても良くできていた。ほんとうに感心させられた。まるで吉本の公演である。きちんとした舞台監督もいないと思うのに、全てがうまく進み、台本もよく練られていた。大いに楽しめた。

 葬儀の喪主、司会進行役として友人代表・館野公一が「葬儀」を進めるのだが、じっさいは、かけこみ亭の屋根裏に住む二匹のネズミが、狂言回しとして転換時に何度も登場しショートコントで場を動かしていく。  その合間に、縁のシンガーや友人たちが次々手際よくうたや思い出を語り、弔電だけでなく、今回参加できなかったミュージシャンたちからもサプライズで「リモート」でのメッセージが届く。そして最後は、全員で「死んでいない音頭」を踊ってぼけまる氏の今後の健勝とかけこみ亭の繁栄を祈り願った。

 午後1時過ぎから始まり休憩を挟んで5時半頃までの約4時間、我は涙が出るほど笑い大いに楽しめた。感動した。繰り返しになるが非常によくできた「演芸バラエティショー」であった。かけこみ亭という場に集った人たちの思いと力が結集した、奇跡の最良最高のイベントとなった。
 当日その場に、生で観客として立ち会った者として順次画像で流れを報告していきたい。
 ※登場した方々の了解はとっていないが、当日は「生配信」もしていたので、基本問題はないものと考え掲載していく。が、氏名・肩書、我からのコメントは極力付けないことにしていく。

 まずは、当日の祭壇から。これもすごく巧く描けていて感心した。まあ、じっさいのぼけまる本人はもっと「毒」のある人だが、葬儀写真としてはこれでいいのである。手前の花檀、線香立ても素晴らしく描かれている。手前の棺桶に、ぼけまる氏は眠っていることになっている。

まず明日のぼけまるの生前葬が終わってからだ2020年08月08日 21時51分28秒

★大変な時代だがいつも通りに

 またまた拙ブログ間が空いてしまった。もう誰も読んでくれないかもしれないが、我はまだ生きているし相変わらず何とか生きている。

 8月も一週間過ぎてしまった。暑さと忙しさと体調不良で、ともかく日々やり過ごすだけで精いっぱいでブログに向き合う時間がとれなかった。
 明日は、盟友、かけこみ亭のぼけまる氏の「生前葬」が国立である。まずはこれをスタッフとして無事終えてこの先のコトに向き合いたいと思っている。
 が、ともかく短くても近況を記す。

 一か月以上の長さだった異常な長梅雨は、8月の訪れと共にやっと終わった。そしてとたんに猛烈な暑さがやってきて、まあこれが例年の本当の真夏だと嬉しくも思いつつも、百歳近くの老人を抱える身として、急な暑さに戸惑い、その父の介護に追われて寝る間もなかった。
 何とか今朝、彼を施設に送り出せ、やっと自分のことに向き合えてこれを記している。そう、父も熱中症気味で体調崩していたのだ。※下痢と夜間の不穏が止まらず息子は睡眠時間すらゆっくりとれなかった。
 毎日曇り空や雨もよいで、うすら寒いのも困ったことだが、突然真夏日や今年一番の暑さ、熱帯夜となってしまうとまたそれは体調を崩す。 我も老人の域に入って来たから、先日来、父を朝方無理に抱き起した時の腰痛が完治せず、今も痛む腰をかばいながら何とか日々生活を続けている。
 
 問題のコロナウイルスは、今も日々感染者数が新たに増え続け、反比例して相変わらず政府、自公政権は一切何も対策とらずに、国民各自それぞれ自らの感染対策頼みという無責任さで、ゴートゥ何トラでお盆帰省も含めて旅行を奨励している。まさに経済優先の感染拡大推進策である。
 これが国家、為政者と呼べるのだろうかと思うが、まあ、これもこの政府に相応しい国民が選んだのだと、まさに亀は甲羅に合った穴を掘るのだなあと思うしかない。
 たぶん選挙が今あってもまたも安倍政権や小池都知事を何度でも民は選ぶのだろう。いや、誰も選挙なんか行かずに、ごく少数の数割の組織票で政治は一方的に決まっていく。無関心もまた信任なのだと気づく人は少ない。日本の民主主義は名ばかりだ。

 さておき、我にとってうたも音楽もこのブログも胸の内の思いは溢れるほどに溜まっている。が、反面、誰それのフェイスブックやツィッターのように、手短かに、日々の思いを、ちょこっと気軽にその都度タイムリーに思うままに発信出来たらどんなに楽かとも思う。
 我は、昔から何であれ書くからには、ツィッター的にちょこっと軽口的に短く記すことができやしない。常にある一定の長さと結末まで記さねば、つまりその姿勢でないと書くことができやしない。そう、いつだって結論あるき、で書きだしている。短く書けやしない。

 その分頭が悪く不器用なんだと思うが、今のような日々状況が移り変わり、先が見えない状況だと、けっきょく書くに追いつかずに思いばかり溜まって日々の動きにこのブログが追い付かない。結果として書こうと思ってたことも書けないまままた新たな状況が次々起こって、書けなかった思いだけがさらに溜まっていく。
 これはこれで苦しく辛い。結局今の時代は、小泉元首相的、あるいは大阪吉村知事的なワンフレーズの、その場その場の気の利いた短い発言だけが大衆の心をつかむのだと諦めるしかない。
 が、我は我だけの下手くそなマンネリのうたでも唄いつづるしかないわけで、その思いがある限り、常に我が内に溜まったものを吐きだしていくつもりだ。

 ブログは顔が見えない、ある意味、バーチャルな観客相手のオンラインのテレワークのようなものだが、このコロナ時代だからこそ、もう一度その「密度」を高めて反応、反響を確かめたいと願う。
 そのためにも我はできるだけ正直に、ありがまま、あるがままに思いや悩みも含めて自分を曝け出して、読み手と繋がりたいと思う。

 そう、こんな先の見えない時代だからこそ、ずっとこのところ考え続けていることがある。
 そう、このコロナ禍時代に、何をどうしていくか、何ができるか、だ。

 この「三密」禁止の、分断と断絶の時代だからこそ、人と人はもう一度どう結びついていくか、改めてその手段、道筋を模索していきたい。

 明日のぼまるの「生前葬」終えたら、このコロナ禍時代に今我が思うことを思う存分書き記していく。お付き合いください。一人でも。

いま、いったい何が起きているのか2020年07月30日 09時14分57秒

★コロナウイルス、先のこと案ずるより、まず今どうなっているか、だ。

 コロナウイルス感染拡大が止まらない。
 東京では連日300人前後が通常となってしまったし、大阪や愛知でも連日100人越えという記録更新が続いている。昨日はついに全国で一日で千人を超す感染者数が報告された。

 だが、政府も行政も無策というかか一切何も手は打たずに、「緊張感をもって状況を注視している」と繰り返すのみだ。注視するだけなら猿でもできる。
 そして各都府県の長は、住民にはよりいっそうの三密対策を、と繰り返し呼びかけ、できるだけ移動はするなと言う一方、政府は、旅行推奨のため「「Go To トラベル」強行とは、行政は、まさにブレーキとつつアクセルを同時に踏むがごとく方針はバラバラ、支離滅裂と言うしかない。
 政府ができる対策は、またまた小さい布マスクを広く配布することだけなのであろうか。それだけで抑制効果あるのであろうか。彼らにこの国をこのまま任せて大丈夫か。
 確かなことは、何の対策もしなければ、感染拡大はさらに日毎に増大していくことだ。
 まさに「#悪夢のような安倍政権」である。

 これではほんとうに大変なことになるとお気楽な我すら不安になって来る。さらに世界中からコロナに関連せずとも不穏なニュースが次々流れて来る。
 未だあけない梅雨のどんよりとした空を眺めて溜息をつく。いったいこの先、この国は、そして世界はどうなってしまうのか、と。
 しかし先のことを憂い案ずるよりもまず今、この現実をできるだけきちんと把握、分析して、その上でできること、すべきことを一日でも早く始めることだ。

 私事だが、我母は、先年癌で死んだのだが、その年明けから次第に体調が悪くなってきたかと思うと、6月ごろから一気に体調が重篤化し自宅で完全に寝たきりとなってしまった。そして二か月後、食事も摂れなくなって痩せ衰えて9月に入ったらあっけなく衰弱死してしまった。
 今思うと、どうしてもっと早く、事態が進む前に手を打たなかったのかと悔やまれる。まだ動けるときにできることはいくらでもあったはずだ。だが、せいぜい食事に気を使った程度で我は、母本人もだが、日々その状況を漫然と「注視」するだけで、何とかせねばと考えつつも何もしなかった。
 そして事態はさらに進み常時看護が必要になって来ると、基本我一人しかいつも側に付いて母の世話をする者はいないこの家では、我は疲労と睡眠不足でともかく毎日心身疲弊し、何も考えられなくなって結果として母を死なせてしまったのである。
 果たして母は、それでそのとき死ぬべき運命にあったか、と今もときどき自問するが、もう少し早くに、事態が真に悪化し何も手を打つこと、対策がなくなる前にまだできることはあったことは間違いないと思える。

 癌という進行性の病気にかかり、手術が成功し一度は治癒したものの再発してこんどは抗癌剤も効かないという末期的状況になって来たのだから、その先には、「死」という破滅しかないのは確かなわけで、実は当初からわかっていたことだった。※医師たちはそれを早くから深く認識していた。
 ただ、思えば、我らは「そのこと」については意識して考えないようにしていたし、何のアテもないのに、何とかなる、まだ大丈夫だと希望を持ちその年は春先までのんびり安穏としていた。
 そして今ならわかるが、体調不良など全ての予兆はじょじょに現れていたし、高い発熱で緊急搬送という本格的に癌が動き出す前に、もう少し真剣にあらゆる対策を模索すべきであった。春先まではまだ元気で動けていたのだから精いっぱいできることをすべきだった。
 そうすれば今も母は生きていたかもしれないし、もう少し長く生かすこともできたと思える。 しかしもう今では遅い。
 
 そう、何であれ、何より大事なことは、「先のコト」ではなく、「今このとき」、今いったい何が起きているのか、きちんと分析し判断理解して、誰もがそのとき、できる最善最良の手を打つことだ。事態をぼんやり注視している暇はない。
 そうしないと何事も取り返しのつかない結果となる。そして後になって残るのは、何であのとき、何もせずにぼうっとしていたのかという後悔と慚愧の念である。

 政治の世界で為政者たち、安倍政権と小池都知事らが国民都民に感染拡大予防にさらなる注意喚起を呼び掛けるだけで一切何もしないのならば、我らは声を大きく上げよう。まず国会を開け、事態をきちんと精査して説明せよと。
 政治家たちに任せておけないのだからこそ、政治の在り方をもう一度再考しよう。
 そして自粛を「要請」するのならば誰にもきちんと公的保証を、と求めていこう。ともかく声を上げることで動かない政治を動かしていくことだ。

 このコロナ禍は、無策無能かつ自らのことしか考えない安倍政権が迷走と暴走の挙句拡大させてしまった人災である。
 が、まだ今できる、すべきことはかならずある。

リモートでの「コンサート」を終えて思う・追記2020年07月29日 22時16分20秒

★顔が見える関係を今だからこそ築いていきたい

 ケータイやスマホが物心ついた頃から身近にあり、日常生活の必需品である今の若い人たちは当たり前だと思うだろうが、我のような旧い世代の者には、誰もがごく簡単にスマホ一つで文字や文章だけでなく画像や映像、音楽までも素人でもごくカンタンに世に発信できる時代が来るなんてまさに夢のように思える。
 昔はチラシや文集などの印刷ですら、自分でやるとしたらごく簡単にでもガリ版刷りや「プリントごっこ」でいろいろ下準備して一枚づつ手作業で刷っていくしかなかった。
 写真だってカメラは 広く一般大衆に普及したものの高級趣味として自宅に暗室つくって自ら現像、焼き付けいる人もいたけれど、フツーは街の写真屋やプリントショップという専門店に持ち込んで焼いてもらうしかなかった。
 映像などはまたさらに金のかかる趣味であり、自分の子どもの成長を動画で記録。保存したいとしたら、フジカなどの8ミリカメラでの1本僅か3分という方式しか手はなかった。
 音楽に至っては、カセットテープの普及により、誰もがラジカセやカセットデッキなどで宅録もできるようになったが、友人や恋人に配布はともかく、それを世に発表する方法は、各種オーデション、コンテストのようなものや関係者にそのカセットを直接送ってまず聴いてもらうしかなかった。
 何にせよ 自らでするとしたらどれもが非常に手間と時間、そして金もがかかり、またそのための作業は楽しくもあったが、誰もがすぐできる簡便なことでは絶対なかった。
 我も十代の頃、ガリ版での様々な文芸同人誌的なものや軽オフでのミニコミ誌、プリントゴッコでの漫画同人誌などあれこれ各種出した懐かしき思い出がある。
 また拙い自分のフォークソングも、テレコに録音して友人に配ったものだ。

 それが今日では、スマホ一つあれば、事故や火災などの現場の映像も個人でカンタンに撮影してそのまますぐさまネットにアップすることもできるし、文章も長い小説のようなものでも自らサイトを作って配信することも可能だし、音楽でさえ映像付きで、コンサートそのものを世界中に生配信できるのである。それもプロや専門家でなく誰でも素人がだ。
 昔なら世間にそれを発表するのに時間だけでなくひと手間もふた手間も、さらにはお金もかけなくてはできなかったことが、今ではスマホやパソコンなどネット環境にあれば誰でも即時世界中に発信できるのだ。
 まさに今は、昔の、隔世の感がわいてくる。ものすごく便利で簡便である。しかし、ではそれで人と人はより繋がったのか、人との関係は深まったのか。

 スマホとさまざまなSNSアプリの普及で、まったくの素人でもときには誰でもユーチューバ―やブロガーとして世の注目を集めるようになった。数々の人気者や話題になる人たちも登場している。有名タレントや芸能人でなくてもフォロワーなる人たちを何百人、何千人も抱えている人もいるようだ。これも実に21世紀的な現象だと感嘆感心してしまう。
 そうした事象についても思うところ多々あるが、話を戻して、コンサートの生配信についてである。
 今回は、フェイスブックの機能を使って無観客コンサートの途中から「生配信」をお願いしたのだが、こうした「リモートでの「観客」は、やはり観客とは言えないのではないか。
 YouTubeもだが、コンサートの映像などをこうして配信をすれば、そのコンサートに来れなかった人や関心がなかった人、こちらを知らなかった人たちにも見て、知ってもらえる。それはとても良いことで大きな意味と宣伝効果もある。
 が、同時配信で、見ながらすぐさま感想を映像上に書き込んでくれたとしても、観客は観客だとしてもやはりそれはただ「見た」のであって、その場に来て、じっさいの観客として体験してくれたのとはやはり根本的に異なる。
 何故なら我々、ステージ側からは、その「顔」が見えないからで、向き合う顔が見えて、良くも悪くも「反応」がその場ですぐ確認できてこそ「観客」であり、それがコンサートなのだと気がつく。
 よってやはり残念だが、リモートで「見る」ことと、じっさいの「観覧」、つまり「体験」とはまったく別なものだと言うしかない。むろん「見て」「知って」もらうこともちっとも悪いことではないしそこにも大きな意義と価値があろう。
 が・・・

 いつの頃か、YouTubeなどにプロの有名ミュージシャンでなくても、アマプロ問わず、様々な映像がアップされるようになって、我も時おり調べ者的に覗いてみることがある。
 内外問わず貴重なものや昔の懐かしいものなどまさに映像の宝庫であり、しかもタダで観覧できるとあれば、これは素晴らしいライフラリーである。
 そしてミュージシャンやシンガー自らがその音楽映像をアップしてることもあるが、ファンや関係者が撮ったライブのものも多く、画像の質も様々であることに気づく。
 巷では、グーグルで検索するがごとくに、YouTubeでよく知らないシンガーや楽曲を確認する人も多いかと思われる。じっさい、音楽好き仲間が集まってとあるシンガーの話題になったときなど、すぐさまスマホ取り出してYouTubeからそのシンガーのライブ映像を探し出し、その場で見せてくれたこともある。特に我が知らなかったシンガーの場合は。
 だが、我は基本的に、まだ生で見たことのない未知のシンガーやミュージシャンについてはその映像を見ないようにしている。
 というのは、じっさいのライブで観るのとYouTubeなどに上がったものとは出来が大きく違うことが多いからだ。画質も音質も違うだけでなく、その場の状況、雰囲気がわからないから、その「切り取られた」一部分だけで判断して、この人はこういう感じの人だ、と即断、決めつけてしまうのは大いに危険かつ誤りではないかと考えるからだ。

 我は、若い頃から人の話はろくに聞かず、それは友達が好きなかったからでもあるが、ともかく独断専行、自分勝手に自分のルールで生きてきた。それは、自分の目と耳で見たこと、聴いたこと以外は信じないということだ。
 そう、何であれ、体験してみないことには実際、ほんとうのことはわからない。特にそれは芸術こそ顕著で、何でもオリジナルかそれにできるだけ近いものに直接ふれるにこしたことはない。
 中でも音楽こそ、生の歌声、そのステージを観て評価、判断すべきはずのものであろう。YouTubeであれ、画質も音も悪い映像を見て、それでこんな感じのシンガーかと即断してしまうのは実に非礼なことだ。
 そしてそれはニンゲン関係もまた同様のはずで、我は百人の「顔の見えない」フォロワーよりも一人のそこにいる実際の「観客」が嬉しいし有難い。
 いや、これは音楽に関係する人は皆そう思っているはずだ。コンサートの告知に対して、100のいいね!よりも、一人の生の観客こそが有難いと。

 このコロナ感染拡大最中、人と人とが直に出会い集える場はきわめて難しい。しかし、だからこそ我は、これからも顔の見える関係をもう一度築けるよう、できるかぎりのことを模索していきたい。

リモートでの「コンサート」を終えて思う2020年07月28日 15時03分37秒

★ネットを通して「見る」ことと生で「体験」することはやっぱり違う

 俗に「見ると聞くでは大違い」という諺というか、俚諺がある。
 つまるところ、耳で聞いて既に知ってはいたことが、実際に見ると、つまり「体験」してみたら、それは全く違っていた、ということであろう。
 これは何だってその通りで、知識として既に知っていたとしても、じっさいの経験してみたことは違うし遠く及ばないという絶対的真理である。
 昨今、きちんと読まずともその本のストーリーや趣旨、大意が○○分でわかると謳う本がかなり出ている。つまり粗筋を簡便にまとめたものだ。テレビでも同様の企画があったかと記憶する。「20分でわかる何々の類」である。

 確かにこの世には、やたら長大な何冊何十巻にも及ぶ長い物語が古今東西にいくつもあって、世間の常識として、あるいは就職などのときの適性検査での「常識的知識」として、一度は読み通しておきたいと願う名前だけは有名な「名作」本がたくさんある。
 が、この我もだが、そんな長い物語は時間も気力もなくなかなか最後まで読み通せたものはごくわずかしかない。で、それを誰でもどんな話かすぐにわかるように、ストーリーと要点をまとめて教えてくれるのである。ある意味有難いことだ。
 確かに、それでその物語は読んではないが読んだ気もするし、話はどんなかわかったと思えて来る。
 が、それはただ「知った」に過ぎないことは説明するまでもないだろう。
じっさいに読んで、読み通さない限りは、その本を読んだという「体験」「経験」にはならないし、その物語の真に名作である所以、つまりほんとうに大事なこと、価値はわかっていない。
 それは本に限らず何だってすべて同様で、「見る」にしてもじっさいに体験して「見る」のでなくネット上で「見た」こと、視聴したことなどは、実際にその場にいて「見た」こと、つまり実際に「体験」したことに遠く及ばないことは間違いない。

 今は、21世紀、実に便利な時代で、このコロナ禍騒動でも現実問題として人が一堂に集えないとしても学校教育などの現場では、リモートで、つまりインターネットを通して「会い」、集い、語らい、教え、学ぶこともできる。会社などの「業務」も信じがたいが七割はそうしたテレワークで代行できるらしい。
 「教育」や「仕事」は、ともかくそこに何らかの「結果や成果」が出れば、そうした出社や登校不要のオンラインでのテレワークやリモート、Zoomなどで代用がきくのであろう。
 では、コンサートはどうか、である。
 ずっと考えているのだが、たとえ生配信であろうとも、「見ること」と直にその場で「参加する」ことはやはり大きな違い、隔たりがあると言わざる得ない。代用はきかないのだ。

 ※もう一回このこと書き足します。

再開「共謀」コンサート、無観客で終えて2020年07月27日 20時11分14秒

★ともかく疲れた。そしてこの「もやもや」感は何だ!?

 おかげさまで、この全国的にコロナウィルスさらに感染拡大中にも関わらず、月一恒例の「月刊・共謀コンサート」、7月の回は、25日の土曜日に再開・開催し終えた。
 ほっとしているしそれなりに満足感、充足感はある。が、やはり観客がいないのと、リモートでの生配信という初めての事態は、どうにも勝手が違い、失態さらすばかりで自らの限界を今噛みしめている。
 そしてただ何よりも疲れた。いつもと違いギターも手にせず一曲も唄わなかったのにどうしたことか。昨日は終日寝込んでしまった。

 実は、2週間ほど前になるか、父を朝、施設に送り出すときに、迎えが来たので居間に座った彼を慌てて抱き起しエイやっと持ち上げたとき、ぎっくり腰的に激痛が走った。
 幸い、ほんとうのぎっくり腰には至らずに済んで、日常活動には問題なく動けているが、それでも座り仕事したりすると腰が固まってしまいしばらくは痛くて動けなくなる。
 そんなで椅子に座って一定時間パソコンに向き合うブログもなかなか書けずにいたし、今もまだ本調子ではなく腰周辺は鈍く痛みが続いている。
 そんな体調で迎えた三か月ぶりのコンサート、音楽そのものは素晴らしかったし、久々に敬愛するシンガーたちの歌声を堪能して喜びと満足はしたのだが、何か名状しがたいスッキリしないものが残った。いつもより疲労感が開催中もやたらあった。
 理由は一つしかない。体調に加えて何よりまず観客が不在であったからだ。

 このコロナ禍騒動が終息していない今、「コンサート」をやるとしたら、ともかくまずは「無観客」での開催しか手はない。
 むろん少人数の観覧希望者を事前に連絡して集め、座席も空間空けて「観客」を入れることは今はできる。
 が、かけこみ亭でのこのコンサートの場合、基本「投げ銭制」でチャージは取っていないし、前売り券のようなチケットもない。これまでも予約は受け付けたことはあったが、観客は当日自由に来られる方を期待しこちらはただ待つしかない。
 しかしそれではコロナ禍の「新しい様式」に反してしまうし、もしかしたら一見さんがウィルスを持ち込む可能性も生ずる。仕方なく、ならば最初から「無観客」としてお客は入れないで開催となった次第だ。
 そうなると、それは仲間内の練習やセッションとどう違うのか、だ。
 いろいろ悩み迷ったが、無観客だからこそライブでの生配信を、このところよく訊く「リモート」ってやつを試しにやろうじゃないかと思い立った。
 幸いここかけこみ亭では、このところはずっと毎週水曜と土曜日に、店からの生配信として『かけこみ亭からAIをこめて』と題して約30分程度のリモートを始めていた。
 お店側のご厚意と関係者に撮影をお願いして、その枠内で特別に「共謀コンサート」も30分程度だけど生配信してもらうことになった。自分にとっては初の経験である。※当日の模様はかけこみ亭のHP、フェイスブックから今も自由観覧できるはずだ。

 で、30分枠だとして、ネットで流すのならば、当日の様子をそこだけそのまま切り取るのではなく、ダイジェスト的に、今回出られる演者たちをできるだけ全員網羅できたらとも考えた。リモートでの「観客」に向けての「紹介」としても。
 となると、休憩や間合いとらず次々すぐさま転換してもらわねばならない。そのため各々の方の時間配分に「現場」で慌て迷い苦悩した。
 昔、ドリフのテレビ番組などは公開生放送だったので常に「生放送」で流していたから、最後のほうになると、ときには皆でうたうエンディングのテーマ曲『いい湯だな』の替え歌が時間が押して猛スピードになってしまったことがよくあった。
 それと同様に、「生放送」というのは、終わりの時刻が決まってないとしてもかなり緊張して時間配分にいつもより気を遣うことが強いられ、これまでとは違う思いの経験をした。

 最後のほうで我はスタッフから質問に戸惑いうろたえ醜態をさらしてしまったが、ともかく約30分の枠内で、演者四方をそれぞれハイライトシーン的に収録、流すことはできた(と思う)。
 生配信を終えたとたん、我は腰の痛みと緊張感が途切れてその場にへなへなと座り込んでしまった。それからかなり長い休憩時間をとって、詩人の奥主榮氏の朗読と館野公一、太田三造のシンガーお二方にフィナーレ的に〆てもらい何とか無事にこの初の無観客・一部生配信のコンサートを終えることができた。

 終えて・・・
 ともかく疲労感が残った。腰の痛みも続いていたこともあったからだが、これまではどんなに寝不足や体調不良でもコンサートが始まってしまえば我はテンションが上がり帰宅後はともかくも開演中は一切疲れなど感じなかった。時間は常に始まればあっという間に過ぎて行った。
 が、久しぶりの再開ということはともかく、その最中も腰痛も続き身体はしんどくいつもより短時間のライブのはずなのにその日は一日がずいぶん長く疲労感が続いていた。こんなことは初めてのことだ。
 そして良いコンサートだったと思うのに何か心の底には満足いかない、もやもやとした正体のわからない何かが残った。

 それが何かずっと自問して今は何かわかった。それはその場に一人も「観客」がいなかったからだ。居たのは全て出演者も含めて店の関係者、つまり友人知人だけであった。
 むろんリモートで、「観客」は少ながらずいたかと信ずるし、後々もバックナンバー的にかけこみ亭のHPからその生配信したシーンを「観覧」してくれる方々もいると信ずるが、その日、その場にはじっさいの「観客」は一人もいなかった。
 そのこと、じっさいの観客が不在だったということが、企画者として、進行役としての我にとってすごく大きいことで何かもう一つスッキリしない「何か」の原因だと今は思える。
 我は常に、その場のそこにいる「観客」を意識して、たとえごく数人でも彼らに向き合って、ある意味顔色を窺いつつコンサートを進めてきた。
 が、今回はそこに常にいるはずの「観客」は一人もいないとなるとそうした反応、反響が読み取れないし確認ができない。これが困惑の理由でありもう一つ今回乗らない、満足できないわけはそこにあると気づいた。※むろん店には来れない「観客」というのもその場にはいたはずだと思いたいが・・・

 つまりボールを投げるにも、そこに相手の顔が見えるかどうかということだ。直の反応が確認できることをいつも我は求めていたのだ。
 ライブとはそうしたものこそが最も大事であって、ライブ「配信」とはやはり異なると気がつく。むろん、リモートでもすぐに流れている映像に書き込みがあったり、即レスポンスも返ってくるものなのだと理解できる。
 しかし、やはりそれは観客であっても「参加者」ではない。様々な媒体、メディアを通して多くの観客、つまり「見てくれた人」は増えたとしてもその場に「参加」したこととはまさに次元が異なる。

 しかしそれでも今はこうしてやっていくしかないのである。コロナの感染拡大はこの先もさらに続くだろう。その中で最良のこと、最善のあり方を模索していく。
 次回は、8月30日だ。

 この件についてもう少し書き足したい。