老いて死に行くまでの時間2016年12月05日 23時43分40秒

★父はあとどのくらい生きるのか

 このところの我の日課は、朝はまず、父が眠っている間に、犬たちを散歩させ、父を起こして着替えさせ、居間につかせて朝食を食べさせる。
 デイケアなどのある日は、それから着替えさせて持ち物まとめ、確認して施設からの迎えの車に引き渡してほっと一息つく。
 それからは、父が夕刻戻るまではいちおう自由に我が時間が持てる。しかし、デイサービスは夕方5時近くに戻ってくるが、デイケアは実質6時間も預かってもらえず、昼過ぎたと思うとすぐに父は帰ってきてしまう。しかも朝送るときも帰ってくるときも必ず電話がかかってきて、誰か家人が家にいないと父は帰宅させてもらえない。
 となると、我が一人で自由にいられるのは昼を挟んで数時間というわけで、割高の支払いのわりには、こちらがのんびりする時間はほとんどない。
 それでもそうして今は週に四日、手のかかる父を預かってくれる介護保険を利用したサービスが使えるので、そうした日の日中はずいぶん時間的ゆとりもできてきた。
 しかし、夕方に戻ってきた父の世話もあるわけで、父を送り出したからといって、都心に出かけてそのまま夜まで遊ぶことは不可能だ。夕飯を作ってともかく食べさせないとならない。
 父がそうした施設に出かけない日は、あれこれこウルサイ父を相手に、昼飯をつくって食べさせたり、一日三食食事を出し、紙パンツをチェックしたり、洗濯や掃除をしたり、また合間みて犬の散歩に行ったりと、大したことは何もしていないのに、コマネズミのように動き回っているうちに一日があっという間に終わる。
 このブログを書くのも、父がいない日は昼間も書けるが、たいてい、早朝か、父を寝かして犬の散歩を終えた深夜近くとなってしまう。

 母が死んで間もなく三か月、ようやくそうしたライフスタイル、サイクルに慣れてきた。そしてこのところよく考えるのは、この父と息子の二人だけの生活はいったいいつまで続くのだろうか、と。
 
 昨日の夜は、分倍河原の喫茶店で、中川五郎氏と会う約束があり、デイサービスから父が帰ってくるのを待ってから出た。
 夕食の時間にはまだ少し早く、本来は父に食べさせてから出るべきだったが、あまり遅くなるわけにもいかず、父用に簡単な食事を、居間のコタツの上に出して、7時のニュースが終わる頃、一人でもしっかり食べてとよく言い聞かせて出た。
 そして夜も、父が寝る頃には戻れないと思えたので、一人でも紙パンツを交換して、大人しく先に寝ていてくれと頼んでおいた。

 用事を済ませて家に戻ってみると、父は既に高いびきでベッドの中だったものの、出しておいた食事はほとんど減っていないしスープも気づかなかったからと全く手をつけていない。※これとこれを食べるようにきちんと伝え、当人もわかったと言ってたのだが・・・そして朝起きると、紙パンツは寝る前に新たに交換しなかったらしく、父が寝ていたベッドのシーツは世界地図であった。
 まあ、火事とか事故が起きたわけでないのだからそれも良しとすべきなのだが、やはり、一人にして、彼自らに任せてしまうとダメだなあと嘆息した。
 まあ、認知症で介護3の人を一人にして、自主性に委ねて彼自らに任せてしまったことがいけないのだから、怒りもしないが、やはり夜は、食事食べさせて、紙パンツを確認して早くてもベッドの中に押し込んでからでないと出かけられないなあと改めて思う次第だった。

 そして今日は、父は一日家にいる日だったが、施設に通って疲れているだろうと少し寝坊させていたら、自ら起きたのは良いものの、尿の失禁ではなく、紙パンツの中は、軟便でいっぱいであった。しかも昼過ぎて、そろそろ昼飯を、と思っていたら、またトイレに駆け込む途中でウンチを漏らしてひと騒動となった。
 昨日のデイサービスで帰り際、大量の排便があったと送って来た施設の人が帰り際連絡してくれたが、どうやら昨日からお腹を下してしまったらしい。
 幸い紙パンツの中だけで済んでいるが、その後始末、看護用語でいう「インセン」、つまり陰部洗浄で今日は大変であった。
 そして思ったのは、こうした出来事が辛いとかうんざりとか以前に、父はあとどのぐらい生きて、どういう死に方をするのだろうかという問いであった。
 もう、こうした日常はうんざりだから早く死んでほしいとかは思わない。ただ、父は今92歳だから、まさか百までは生きないであろう。ならば生きたとしてもあと数年、もしかしたら母の後を追うように一年もたたずに死ぬのかもしれない。
 その覚悟ができているか自問すると、そうは我は考えていない。まだそんなすぐには死なないはずだ、と。が、これもまた母の時と同じく希望的観測、願望ゆえに判断や予測を誤っているのかもしれない。
 考えても仕方ないことだが、もういつ死んでもおかしくない人だが、その死期と死に方がどうしても気になってしかたない。

自死者の家族の苦しみに思う。2016年12月04日 13時18分55秒

★宇多田ヒカルの新アルバムに寄せて

 (己が)生きている限り、他者の死に出会うのは避けては通れない。家族を喪い、友を、親しい関係にあった方々を亡くしていく。

 家族だけを見ても、まず祖父母を亡くし、やがては両親を亡くしていく。これは、彼らが年老いた先人だから当然のことで、本来自然の至りなのだから特別に哀しむべきことではない。
 が、物ごころついたときから常に傍らにいて、我を愛し育て、半世紀以上の長き間、長年共に暮らしていた人がいなくなると、それが必然であってもやはりショックだし今も哀しく辛い。

 そして結婚し家庭を築いた者は、親を送れば、次にやがては伴侶=パートナーを送る。大概は、夫のほうが年上であることと、平均年齢でも長く生きる女=妻が夫を亡くす。
 我が家の場合のように、5歳も年上の男のほうが妻に先立たれるということは珍しいとされている。
 しかしそれも運命であって、十分生きた結果がそうであったのだから、そう定められていたのだと今は思えてきた。それもこれも仕方ないことだったのだと。

 しかし、この世には自殺者、自ら命を絶つ「自死者」という死に方も多々ある。それは老いも若きも関係ない。特に若年層に多いとも聞く。
 そうした「死」と出会った者はどのような思いを抱くのであろうか。
 
 死とは、常に別れの哀しみと、もう会えない、喪ってしまったという喪失感に苦しむ。友人知人ならば、まずそういった、もはや二度と会えないことと大切に思う人の永遠の不在に哀しむことだろう。
 家族の場合は、そこに、もう一つ、「死なせてしまった」という悔やみ、無力感を味わい、悲哀とはまた別の悔恨の苦い思いも加わる。
 我の場合、それは怒りのような強い憤りの感情であり、特に我が家で、我が手のうちで母をみすみす死なせたという特別なケースであったから、哀しみに勝って悲憤と痛恨の思いがいつまでも続いていた。

 それが自死者の家族であったらどれほどかと想像する。共に暮らしていてもいなくとも、家族としてどうして自殺に至るまでの苦しみに気づき、くい止め助けることはできなかったのかと自らに問いて責め続けることであろうか。
 自殺とは、自らを殺すだけでなく、家族をはじめ残された周囲の人たちをも精神的に殺してしまう。しかし、その当事者を責めることはできない。
 検証すべきは、死に至った環境、その人を苦しめた状況であって、そのサインに気づくことのできなかった者自身、死んだ者と近しい関係にあればこそ絶対に責めてはならない。
 といっても人の死に自らを責め続けるのが人間なのだが。

 我は数年前、かなり親しかった友人を失った。彼は精神を長く病んでいて、精神科に通院していただけでなく、強制的に入院させられたことも何度もあった。
 同世代であったことで気があい、よくウチにも遊びに来たし、一緒に温泉に行ったこともあったし、我のイベントではいつも手伝ってもらっていた。
 よく彼は強い不安に襲われ、深夜であろうとも電話がかかってきて、彼の抱える心身の苦しみを訴えていた。我は何もできやしないが、話を訊いていれば、彼は心落ち着いてきたようで、多少の助けにはなっていたのかもしれない。
 その彼と秋に連絡がとれなくなり、何ヵ月もたった。以前も突然精神病院に入ってしまうことがあったから、当初はさほど心配はしていなかった。
 が、年明けて、出した年賀状が宛先名不在と返ってきて、さすがに心配になって共通の友人と相談してあちこち確認してもらった。
 彼の両親は早くに亡くなり、一人っ子の独身者だったから、ある意味まさに天涯孤独で身寄りがなかった。
 やがてわかったことは、彼は既に死んでいて、おそらく市役所の福祉課が全部手配し住まいも片づけて、世田谷の家族の眠る墓に遺骨は収められていた。
 今もその死因ははっきりわからない。遠くの叔父さんに当たる人に友人が問い合わせたところ、自死ではなく病死だったらしいが・・・

 それから何週間か我は自らを責め続けた。自らの薄情さを悔い憤った。自死であろうとなかろうと、どうして何かできなかったのだろうか、友人を助けるために何かすべきであったし、何かできたのではないかと今も思う。
 これがご家族の人たちであったらどれほど痛恨の念であろうか。考えただけで涙が出てくる。

 宇多田ヒカルはご存知のように、あの昭和の名歌手・藤圭子の娘である。その藤圭子は精神を病み、数年前に飛び降り自殺だかで自死してしまった。
 傍目にはあまり親しい親子には思えなかったが、やはり当然そのショックは大きかったのであろう。娘もまた母の不測の死に大きく傷つき苦しんでいた。
 告白すると、我は宇多田ヒカルをまったく評価していなかった。アチラ風のスタイル、変則リズムに無理やり日本語詞を乗せるスタイルに疑問を持っていたし、何であの藤圭子の娘がこんな音楽を・・・と過小評価していた。
 しかし、先のNHKの朝の連続ドラマの主題歌で、彼女のうたが流れて来て、おやっと思った。ほぼ毎日テレビから流れて来たこともあるが、耳につき、いつしか心に深く浸み入ってきた。なかなか良い曲で実にエモーショナルだと思った。こんな巧い歌手だったのかと感心した。

 このところマスメディアで、その曲も収めた宇多田ヒカルの久々の新アルバムが自死者家族たちの間で、話題になっていると報じていた。彼女はようやく母の自死という悲痛な事件を乗り越えて、その亡き母への思いを音楽に昇華させたのであろうか。
 自死者の家族の方々の苦しみに比べたら我の哀しみや悲憤などとるに足らないことだ。宇多田の音楽はそうしたことをも考えさせてくれた。音楽とはこうした素晴らしきものだ。宇多田ヒカルありがとう。お疲れさま。

 誰もが自らを赦し赦し合えるように。救い救われるように。音楽はそのためにこそある。

カジノの次はドラッグ、覚醒剤も解禁を!2016年12月03日 06時59分30秒

★金儲けのためならば人の命も厭やせぬ政権

 カジノ=合法賭博解禁に道を開く法案が間もなく成立しようとしている。審議時間はわずか6時間!
 今の自公政権はすべて数の力に驕り、いくら時間かけてしようが、そもそも与党が出す法案はすべて「成立ありき」前提なのだから、国会でじっくり審議しようとしまいと、野党がどれほど反対しようとも数の力=多数決で必ず強行採決、可決成立できる。議事録なんか必要ない。
 ならばもう審議するだけ時間の無駄であって、個々の法案ごとに議決だけ採れば良いだけと与党は考えているのだろう。元より野党の声に耳を傾ける気は毛頭ない。
 もうこれは議会制民主主義ではない。反対意見や少数意見はいっさい聞かず、度重なる選挙で大勝し「国民に信託された」政権は、成すことすべて全面委任されたと思い込んでいるのだ。
 数の多寡は関係なく個々の議案に反対する意見は常に必ず存在している。沖縄を見れば政府の方針に賛成同意している勢力の方が圧倒的に少ない。しかし、国会ではそれは一切反映されていかない。完全に無視されたままだ。そして内地では報道もほとんどされない。

 今の政治に危惧を抱く、違和感を強く持つ国民の真の声は国会に届かない。かつて公営ギャンブル廃止を公約に掲げた知事がいたことが懐かしい。今の政治は立憲主義が形骸化しただけでなく、人としての良識、従来の社会常識は完全に失われてしまったと痛感している。ああ金の世、金金金カネカネカネなのだ。

 では、いっそのこと、カジノの次は、大麻などのソフトドラッグも政府が管理したうえで、全面解禁したらどうだろうか。そして、さらにはヘロインなどの覚醒剤も自由に使用できる、昔どこそこの国にあったような「アヘン屈」をお台場とか大都市に作って誘致すれば、それ目当てにさらに観光客もジャンキーも増え観光立国として栄えるのではないか。むろん暴力団を排除して国家としてやるのである。

 覚醒剤なんてとんでもない。ダメ、絶対!と言うなかれ、金儲けのため、国家が潤うためならば、人の命なんてもはやどうでも良いのである。これは強制ではなく、個人の自由意志なのだから、タバコ同様、体には悪いことを承知で、「自己責任」で皆さんどしどしやってもらいたい。女房子供を見捨てて家を売って、会社の金を使い込み犯罪を犯してもお金をトコトン使い果たして下さいと。
 それで儲ける者が出て国家の財政が潤うならば、人命は知ったこっちゃない。すべては経済効果最優先なのだ。

 次の選挙では、「カジノの次は覚醒剤解禁!もっと金になる」 を公約に掲げて我も選挙に出ようかと考えている。今の世相なら当選できるかも。あっ、自民党公認でないとダメか。

このどうしようもない「素晴らしき世界」をとことん生きていこう2016年12月01日 22時30分18秒

★人生とはそもそも思い通りにならないものなのだ。

 今年も12月となった。我にとって特別の、死ぬまで忘れることはない2016年という年も間もなく終わる。
 母の死後、ずいぶん長い間、ショックで心身ともに打ちのめされ、このブログも悲嘆から失意、愚痴や昏迷まであれこれしょうもないことをグチグチ書き続けてきたが、ようやく立ち直ってきた。
 本当にご心配ご迷惑おかけして申し訳なく思う次第だ。
 正直なところを書けば、今もまだ最愛の母を死なせてしまったという悔恨と憤怒のような、悲憤の気持ちは強く残っている。しかし、ようやく気がついた。一つの真理に目覚めた。

 そもそも人生とは、思い通りにはならないもので大変かつ面倒なものだったのだ。誰だってそうであろう。願っても祈っても思いは届かないしかなわない。特に我の場合も、母のことだけ思い通りになるばずもなかったのだ。
 ならば、そうだったからといって失望のあまり、もう人生そのものに関心を失い、全ては無意味で虚しいものだと自暴自棄になったり、放擲してはならなかったのだ。
 そう、だからこそ、すべてを受け入れてその「現実」と向き合ってしっかり生きていかねばならなかったのだ。
 そう考えたのは山梨に行ってあるきっかけがあったからだ。

 実は先週末、一泊二日で、また山梨へ、倉庫と化した古民家の片付けに行ってきた。前回の時は、父も連れてったのだが、呆けてよたよたの父がいると、その世話に時間とられてはっきり言って仕事にならない。向うでも父はものすごい寝小便して、後始末に追われた。
 今回は、通い始めた民家型デイケアに一泊二日で通しで預かってもらったので、父無しで身軽に行けたのだ。
 行った日は午後から雨が降り出し、作業もそこそこに、一番近くの公営温泉にのんびり浸かってようやくこの数か月の疲れを癒すことができた。
 翌日は朝になって雨はやみ、早朝からラジカセで地元のコミュニティFM局を流しながら溜まりに溜まった本や雑誌の山を分別整理していた。※その古民家では、山里にあるために、ラジオは近くから送信されるFM八ヶ岳しか入らない。
 そしたらば突然ルイ・アームストロングが唄う、「WHAT A WONDERFUL WORLD」が流れて来た。作業の手を休めてサッチモがあのしわがれ声で唄い上げる名曲、邦題「この素晴らしき世界」を聴いていたら、涙が突然出てきた。我でもこのぐらいの英語は聞き取れる。

WHAT A WONDERFUL WORLD
この素晴らしき世界

(作詞・作曲: George David Weiss - G. Douglass)

木々は緑色に、赤いバラはまた、わたしやあなたのために花を咲かせ
そして、わたしの心に沁みてゆく。何と素晴らしい世界でしょう。
空は青く、雪は白く、輝かしい祝福の日には、神聖な夜と
そして、わたしの心に沁みてゆく。何と素晴らしい世界でしょう。
空にはとてもきれいな虹がかかり
また人々は通り過ぎながら、はじめましてと言ったり
友達が握手したりしているのを見かけます。
彼らは心から「愛している」と言い
わたしは赤ん坊が泣くのを聞いたり、成長してゆくのを見ています。
彼らはわたしよりも遥かに多くのことを学び、知ってゆくでしょう。
そして、わたしは心の中で思っています。何と素晴らしい世界
ええ、わたしは心の中で願っています。何と素晴らしい世界なんでしょう。

(訳: 古川卓也)

 この曲は、1968年のヒット曲で、この歌詞は実のところ、激化するベトナム戦争を揶揄したアイロニーなのだと解説されていることも多い。
 確かに時代背景を思うとき、そうでなければこの能天気な歌詞の歌がヒットするとはとても思えない。ある意味、これもまた反戦歌なのかとも思える。
 しかし、今の我には、皮肉でも何でもなく、人生とは、自然とは、この「世界」とはじっさいにこうした素晴らしいものなのだとはっきりわかる。
 が、現実に目を向けると、我々をとりまく世界=人間社会は、戦争はまだ起きてはいないものの、日を増すごとにより最悪へと、破滅へと向かっている。

 例えば、父たち老人たちを見ても、年金はカットされ、さらにそこに医療費も高負担とされて、介護保険もさらにシビアに、これでは老人は早く死ねと言わんばかりだ。
 そしてそうした悪政を邁進し続ける自公政権にこれからもまだ国民が政治を託すのならば、もはやそれは自殺行為であろう。アメリカの中西部中心にプアーホワイトたちが、トランプ氏を強く支持し彼のような人間に期待したように、切り捨てられた者たちが「反乱」を起こすのが人として本当の姿であるとすれば、もはや今の日本人はそうした本能すらも失い権力者の前にただ唯唯諾諾従う飼い犬のようなものか、本当の一億総白痴になってしまったのだろう。

 今この国では、弱い者、被害を受けている者こそを差別し切り捨てて、強者、権力者にへつらい、金のためには人の命すら売り渡すような輩が増えている。支援が切り捨てられていくフクシマの避難住民しかり、その子供たちを差別し苛める都会の子どもたち、沖縄で新たな基地建設阻止を求める無抵抗の人たちを公権力が次々逮捕する事態、さらには、障害者という社会的弱者を社会にとって不要なものとして排除し殺害してしまう事件・・・
 何度選挙しても経済の好景気という「幻想」を振りかざす安倍政権は選挙のたびに大勝し数を増やして、ますます驕り暴走は加速していく。
 
 世界のどこをとっても「この素晴らしき世界」とはとても思えない緊迫した状況が起きている。サッチモが朗々と歌うような、のんびりとした穏やかな平和な世界なんてありえない。すべては思い通りにならない。いくら祈ろうと願いはかなわないし思いは届かない。

 しかし、だからこそ思う。世界とは、人生とはそもそもそうしたものだと規定して、だからこそ、この歌のような世界へと、真にあるべき姿、本当の正しい世界の在り方に戻していく努力が何より必要なのではないか。
 むろんいくら願っても祈っても行動しても世界は何一つ変わりはしない。月日を追うごとにさらに世界は悪い方向に進んでいくように思える。しかし、そこで、今の多くの日本人のように、どれほど悪政が続こうが、所得がどんどん減らされても無自覚に、何も考えず怒ることもなく、選挙にも行かず、行っても自公や維新に投ずるのならそれは人として国家として緩慢な自殺であり、それを阻止する努力を我々は常に少しでもすべきではないだろうか。
 むろん彼らには言葉も届かない。衆参で圧倒的な議席を誇る現政権では、もはやどんな法案でさえ通るのだから国会でいちいち審議したって時間の無駄だと安倍晋三自らが言っている。人権を抑圧できる憲法を早いとこ作っちまおうと彼は夢想している。

 そういう「最悪の世界」を、人間が本来求める、あるべき姿である「素晴らしき世界」へと、変えていくのは容易なことではない。しかし、我々もまた同時代という同じ船に乗り合わせた、客ではない「乗組員」なのだから、船長が誤った方向に舵を切り、船が沈没していくのなら、我々も死なないためにはそれを止めねばならない。
 一船員が腕っぷしの強い船長に抗っても無駄かもしれない。しかし、大事なことはそうした行為であって、抗い続けて行けばいつかは仲間も増えて反乱も成功するかもしれない。

 人生はどうしようもないし先のことはわからない。だからこそ、愚か者や金の事しか頭にないバカに、国家の舵取りを任せて、我が人生を失いたくない。失望のあまり政治に、人生にネグレクトしてはならない。
 どうしようもないものだからこそ、人生は人任せにしてはならない。人々が皆、そう考えて、「この素晴らしき世界」を夢見て、真剣に自らの人生を生きて行けば、世界はきっと素晴らしいものへと、本来の姿のものへと変わっていく。誰もが愛しあう、差別も貧困も戦争もない世界がきっと生まれていく。

 たとえそれが何一つかなわなくとも、人は大事なものを自ら失ってはならない。それが人生。思い通りにはならないけれど、とことん思い通りに生きていこう。それが人が生きるということなのだ。ようやくわかった。

 もう迷わない。「この素晴らしき世界」=神の国はそこにある。

もう大丈夫です。長い間ご心配おかけしました。2016年11月30日 05時47分30秒

★母は我が内で生きていると。

 今月11月も終わる。9月8日に母が死んでから間もなく三か月。ずっとご心配おかけしてきたが、ようやく心の傷は癒えたと思えてきた。もう大丈夫だとはっきり思える。

 今、明け方六時前。東の空はようやく白みだして来た。つい今さっき見た夢の中に母が出て来た。それは母が棺の中から生き返って来る夢だった。
 葬儀会場ではない、どこだかわからないやや広いところで、死んで棺に納められた母の遺体にたくさんの母の友人たち、女のひとが寄り添いすがって泣いていた。
 見ていたら、死んでいるはずの母の目から涙が出て来たかと思うとしだいに体が動き出して、皆はびっくりして大騒ぎとなる。夢の中でも死んでずいぶん経っていると思えるのにいきなり立ち上がったかと思うと、友人の一人を追いかけて、驚いたその人が逃げ回るのを母が生きていた頃とは比べ物にならないスピードで走って捕まえようとしている。
 その場の騒動に我も驚き、半信半疑で、母を取り押さえて問いた。「ばあさん、生きているのか!」と。すると母は、元気にはっきりと、「生きているよ!」と答えた。そこでようやく喜びが沸き上がってきて、生き返った、ああ良かった!と思った。そこで夢は突然終わってしまった。

 「現実」に戻りつつ~夢から醒めながら、でも母は生き返ってももはや身体がないことに思い至った。もう焼かれて骨になってしまったのだ。そして今のは「夢」だったんだとはっきりわかった。
 でも泣きはしなかった。以前なら布団の中で「現実」に打ちのめされて、何十分も枕を濡らしていたことだろう。そして時計を見たら、午前五時半頃で、今見た夢についてしばらく考えた。
 そして起きだして、このブログを書き記している。
 母が死んでから初めて夢の中に母が出て来た。夢らしい夢をのんびり見ることも少なかったが、夢の中にはどこにも母はいなく、母の夢は一度も見なかった。
 夢の中で生き返った母が言った言葉、「生きているよ!」という力強い声が今もはっきり残っている。久しぶりに母の声を聞いた。

 母は死んだ。もう現実の世界にはとごにもない。昨日も母と親しかった人から電話がかかってきて、その後そちらはどうしてるかと問われたが、以前なら母の事を語ればすぐ泣いてしまったはずの我ももう泣くことはなかった。
 ヘンな夢を見た。でも母は、夢の中で生き返って、我に生きていることを告げてくれた。今また実は少し泣きつつこれを書きながら、そう、母は生きている、我が内で、はっきりといつまでも生きていることを「認識」している。
 これからも体調悪い時や、何かショックな出来事に遭えば我はまた弱気になろう。人生に意味を失い自暴自棄的にもなるかもしれない。
 しかし、もう心は定まった。モヤモヤしていた頭もすっきりしてきた。母は死んだという現実を受け止められる。そのうえでしっかり生きて行こうと思う。母は死んだが、我の内に常に生きている。きっとこれからも夢の中に出てきて我を励まし見守ってくれることだろう。母は我が内で生きている。ならばもう大丈夫だ。我も生きなければならない。

長い冬を前にして2016年11月26日 22時48分31秒

★夢も希望もないねって

 雪は二日でほぼ消えた。まだ植え込みの日陰の隅にはほんの少し残っているが、記憶にもない、観測史上初の11月の積雪はあっけなく消えた。昨日はカラッと朝から晴れたので外は、終日溶けた雪が滴り落ちる音がしていた。
 東京では、雪はこのところ年内に降ることはまずなく、降らない年もままあり、降ったとしても二月か三月、春先にどかっと降るものであった。
 それがこうしてまだ紅葉の頃、落葉の前に積もるほど降ると、昨日など溶けていく雪を見ていると、このまま春になっていくような錯覚を覚えた。
 しかし、まだ12月にもなっていないのである。冬はこれからが本番であっていよいよこれから本格的な冬が来るのだった。考えただけでうんざりする。
 この感じでは今年は厳しい寒さの長い冬になるのではないだろうか。

 このところ少しづつでも人生がやっとまた動き出したと思えていたのだが、昨日は、また体調悪くて、起きてられずブログも書けなかった。大して疲れるようなことは何もしていない。父と犬の世話だけで倦み疲れて、この寒さのせいもあるが、またメマイとふらつきがあって、犬たちと夜の散歩していたら、咳が止まらなくなって道端でげえげえ夕食に食べたものを吐いてしまった。
 戻って、強い酒を流し込んで、また咳が出ないうちにと倒れ込むように寝てしまったのだ。
 そしたら寝ながら突然こんな言葉が頭に浮かんだ。「夢も希望もないね」と。そう、ずうずう弁で呟いて、笑いをとったのは、東京ぼん太であったか。
 そんな大昔の、とっくに死んだ芸人の言葉をなんで今頃思い出したのか訝しく思うが、確かに夢も希望もないのであった。困ったなあと思う。

 以前も、若い時からもだが、大志というようなものは我になく、~だったらいいなあ、というぼんやりとした願望と思いつきはいくらでもあったが、将来的な夢とか希望と呼べるようなものは何もなかった。
 が、やりたいことや行きたいところはいくらでもあったし、また、それが我にとって、役割だとかやるべき使命だとか思えたことも多々あった。
 しかし、このところ母が死んでから特に、そうしたものはなくなってしまい、我を突き動かす「思いつき」でさえわかなくなってしまった。
 何かに夢中になる、「情熱」というものが我が内になくなってしまったと気づく。かつての我には、何かに夢中になれる「情熱」だけは誰よりもおおくあったと自負している。それはバカだったからだが、なくなって利口になったとはとても思えない。

 今は、ほぼすべてがどうでもいい感じで、無頼というのと虚無は違うと思えるが、虚しさと淋しさがカードの裏表のように、我が心の中で、カラカラと回っている。
 父のことも含めてまだまだやるべきことは山積みだから、簡単に死ぬわけにはいかないが、我が身我が事ながら困った事態だと自ら思う。こんな気持ちだとうっかり迂闊に死んでしまうかもしれない。
 今週中に病院に行けば良かったのだが、雪が降ったりあれこれ慌ただしくて週末になってしまったのだ。

 むろん他人様とのことで果たすべき義理はいくらでもあるけれど、我において我に成すべきことはまだあると思いたい。
 前回の続きも書くべきだったが、まだ咳が続いていて根気強くきちんと書けない。今晩もこのままお休みしようかとも考えたが、間が空くよりも現状報告だけしようと考えた。

 この冬は生涯で一番長い冬になりそうで今から憂鬱だ。ささやかでも夢と希望をみつけたい。成すべき義務ではない、もっと楽しい、考えだけでワクワクして夢中になれるようなことを。

「その日」が来る前に、来るまでに・中2016年11月24日 12時50分04秒

★それは、正しい選択なのか

 よもやの11月の積雪である。明け方は雨が降っていて、いつものように早暁に目覚めてはベッドの中で、読み進めている聖書を開いていた。旧約中の『サムエル記Ⅱ』のダビデ王が主人公の頃である。
 雨の音がしなくなったので、やんだかと思い、犬たちの散歩に行こうと起きだして外を見たら雨はいつしか雪に変わっていた。驚いた。

 予報では、関東も積雪かもと注意報が出ていたが、まだ霜も降りていない11月なのだ。そんなバカなことがあるものかと高を括っていた。
 黒犬が白くなるほど降りしきる雪の中を、犬たちと傘もささずに歩いて、人生とはこうしたものだなあとつくづく思った。何が起こるか先のことは誰もわからない。トランプ大統領誕生のように。
 外に出しっぱなしだった、亡き母が手入れしていた寒さに弱い観葉植物の鉢を大慌てで玄関の中に取り込んだが、雪を被ったが大丈夫か。もうこれでプランターの野菜や地植えのハヤト瓜などは全滅だろうと諦めた。異常気象故の事だと思うが、自然のことなのだ仕方ない。
 雪は今、昼過ぎてもせっせっと降り続いている。都心部より気温の低い多摩地方は、溶けつつも数センチにも積もってきた。

 人は常に様々な選択や判断を迫られる。そしてそれが正しいものか、後にならないとわからない。いや、正しくは、多くのことは後になってもわからない。何故なら人生に起きる出来事はたいていは一度限りだし、間違えたからといって、違う選択、やりなおしが許されることはまずないし、人は死んで人生を〆ない限り、最終的「評価」は出ないからだ。
 ただ、後になれば、トータルに過ぎたことを振り返ってみて、それが正しかったか、結果として誤り、失敗であったかは、またある時点では判明する。
 歴史家というのは実に楽な仕事だとも思える。というのも過去は変えようがないから、個々の事件を点と点を先で結ぶようにして、「今」の視点で俯瞰すれば、そこに確実に因果関係は見いだせるからだ。
 しかし、逆に、未来は同様には予期も予測できない。ある程度、過去の事例、経験や統計から天気図のように、「こうなればこうなる」と予想はつく。しかし、それだって未来は何のデータも示してくれないから、何が起きるか、先にいけばいくほど何もわからない。

 聖書の中では、特に旧約の登場人物こそ、常に神に祈り、戦をすべきか迷った折など神に問いかけては神自身が様々な指示を彼らに与えてくれる。何故ならそれこそが神の御心、考えであり、逆に神を怒らせるような不正をして神の逆鱗にふれれば子々孫々大変な事態に陥る。
 ただ神が直接、その姿を現し、語ることは一度もなく、たいていは、モーセなどの預言者が、神の声を聞くことができ、それを人々にそのまま語るのである。民はそれに従うしかない。
 ここでいう「預言」とは、未来を予測する「予言」とは違う。まさに字のごとく、神の言葉を預かることであって、どうやら古代にはそうした巫女的な人々がどこの国でもいたことがわかる。

 そして王や為政者はそうした預言者から神の方針を聞き、戦争や政治を行っていたし、預言者自身が、神に命じられて民を率いることも多々あったことは旧約に記されている。
 ただそれは、新約の時代となって、ナザレのイエス昇天の後には、もはや預言者は登場しないし、神は、ごく一部の弟子や後の大使徒パウロとなるサウロには現れ語ったと記されているが、もう人には何も語らなくなってしまう。
 今もキリストの教会は教義をめぐって多種多様に世界中に存在しているが、旧約のように、神自身が人に直截語ることも預言者の口を通して何かを示してくれこともなくなってしまった。神の不在とか、神は死んだと言われる所以である。

 ならば人は迷ったとき、道が定かでないとき、いったいどういう判断を下せば良いのだろうか。神には祈る。しかし、神は何も答えてくれないし、この世は次々と神の御心にかなうとは到底思えない最悪な事態が続していく。世界は破滅へと向かっていると考えるのは我だけではないだろう。
 個人も然りだが、国家が選ぶ、その判断、選択は果たして本当に正しいのであろうか。それは取り返しもつかない誤り、失敗かどうかいつかはわかるのだろうか。
 そして往々にして、結果が出たときは既に本当に取り返しがつかない事態になっているのではないか。
 我々は祈っても何も答えを返してくれない神に祈るしかないのか。

 「その日」は必ずやってくる。その日の前に死んだ者は幸運だったと思えるようなことが起きるその日、そのときがきっと来る。

「その日」が来る前に、来るまでに・前2016年11月23日 18時34分03秒

★人はどれだけ「気づく」か。

 このところようやく時間ができてきた。父も週に四日、デイケア、デイサービスに通うようになり、事前にお願いすれば夜をまたいで「泊まり」で預かってもらえる民家型デイホームもみつかった。
 だいぶ一時期よりは父の世話に煩わされる手間と心労は減りつつある。やっと自分のことに時間を割き、向き合えるときができてきたわけだが、まだ落ち着いて「我が事」に取り組み始めるところまでいっていない。
 先にも書いたが、母の死という大事件後の混乱収拾に今も追われて、我が人生の再建はようやく緒についたところだ。さあ、これからだ。
 そして気がつけば、あまりに長く友人知人たちとも疎遠になってしまったためか、我の周りにはもう誰もいない。メールを送っても誰からも返事はないし、届くのは相も変わらぬ安易な金儲けや性欲をあおる陳腐かつ下劣なスパムメールだけ。

 むろん、また人の集まるところに自ら出向けば良いだけの話だ。しかし、今は無理して淋しさを紛らわすため繁華なところに出向くより、その時間、まずは家の片付けや我が事にこの機会にじっくり取り組もうと思っている。自分がマスターできるかわからないが、新しい楽器も手に入れたし、これまでやっていたギターやハーモニカのテクもすっかり衰えてしまったので、またあらためて練習しないとならない。
 今さらながら、こんなときが来るなんて。父はまだ生きているけれど、その父だけを抱えてたった一人になるときが来るとは思ってもいなかった。しかしそういう定め、運命であったのだ。
 絶望はしないし、諦めもしないから大丈夫なわけなのだけど、まだ死ねないし、即死ねないのならともかく生きて残りの人生をやっていかねばならない。
 先のことはまったくわからないし、目途も立たない。例えば、学校に通っているならば、その期間、卒業までは「学生」でいるはずという予定も目安も立つ。会社勤めならまた同様に、定年までは、とか数えたりする。
 フリーランスというか、基本無職のような身には、そうした目安は何一つない。まあ、家だけあるから家賃の心配などはないのが救いなだけで、抱えている父が死ねば、改めてまた家計の心配、「収入」を再考しないとならない。しかし、今はまずそれよりも我家の混乱、混沌状態からの脱出だ。
 そうして家にこもりつつ、「一人」でこれからどうしようかと漠然と考えている。「内」のことを進めつつ、これから「外」のことは、まず何を、どうやっていこうかと。 
 誰と、どう、何を始めていけば良いのか。我に求めてくれる人があらば真摯に応えるつもりでいるが、もう今の我には誰もいないのである。ただ「自分」と向き合い、これまでの人生を見つめ直している。

 さて、以上は、前置きというか、うたで言えば、ヴァース、前奏のようなもので、本筋はこれから書く。途中まで書いてたら、父が下で徘徊しはじめた音がして慌てて止めに降りたら知り切れトンボになってしまった。

 誰にとっても当たり前のことだが、人は「先のこと」はまったくわからない。逆に、過ぎたこと、過去のことについては実によくわかる。
 今、母とのこと、一連の癌に関する体調の変化から死に至るまでの出来事を振り返ると、その時々はわからなかったけれど、今はすべて、その時々一つ一つのことの意味がはっきりわかる。
 今年の春先、湯治滞在中の山梨県増冨の温泉旅館で、体調を崩してろくに食事もできなくなり帰り際に吐いたりして、我は大慌てで迎えに行ったことがあった。
 そのときは、食べられなくなった理由も体調崩した原因も何もわからなかった。しかし、その後さらに家で食事がとれなくなって、病院で検査したら、癌が肥大して腸管を圧迫してきていて、それで腸閉塞気味になっていたため、増冨でも体調崩したのだと判明した。
 そうした母の死に至るまでの癌という病との闘病中の出来事は、そのときは事態が良く理解できず、何であれ常に困惑するばかりであったが、母が死んだ今過ぎたことを振り返ってみて「そういうことだったのか!」とはっきりと理解できる。
 もう少し「そのとき」に事態が理解できていたらまた対処の仕方も違っただろうし、母もまだ生きていたかもしれないと悔やむけれど、先の事、「結果」はそのときはわからないし見えないものなのだから仕方ない。
 ゆえに我に限らず人は常に判断を誤り、過ちを繰り返すのだとわかる。
 では、そうした「事実」を踏まえて、人はいったいどうすべきなのか。何かもう少し未来に対して、対処することはできないものか。どうしたら「失敗」を最小限にとどめられるか。そのことについて考えたことを書きたい。

ようやくすべてを受容できるときが来た。2016年11月21日 18時07分16秒

★全てそういう運命、定めだったのだと。

 犬でも猫でも、鳥でさえも愛するペットと死に別れると、ペットロス症候群になるとよく言われている。立ち直るには一定の時間が必要で、それはおおよそ二か月はかかるとか何かで読んだ。
 ペットでさえもそれだけの時間を要するのならば、ヒト、それも長年共に暮らして来た家族ならどれほどの時間が経てば、死の痛み、ショックから立ち直れるのか。
 母がしだいに病み衰えてきた頃、不安で我は眠れぬ夜に、もしこれで母を喪ってしまったらば、きっと自分はショックで発狂するか自殺するしかないのではないかと、「その後」のことを強く怖れた。
 そして母をじっさいに喪い、しばらくは慌ただしさと事後処理に追われつつ毎日泣き暮らしていた。あまりに死後の煩雑事が多くて、母の死を現実のこととして哀しみきちんと受け止めることすらできなかった。でも、だからショックのあまり自殺しないで済んだのだとも思える。

 二か月半が過ぎて、今ようやく、頭の中も心もすっきりしてきて、収拾がつかないでいた気持ちも落ち着いて来た。そのことをまずこのブログをお読み頂いた皆さんにお知らせしたい。そして励まし応援して頂いたことに心から感謝いたしたい。

 死とは、その本人にとっても周囲の者にとっても、本来は平穏と慰安をもたらす、ある意味恵みであるはずだと思う。特に長く病み苦しみ疲れた者にとっては、安らぎである事は間違いない。それは介護していた者にとっても。
 しかし、我にとって、今回の出来事は、悔恨と憤怒のような悲憤しか残らず、癌によってなすすべもなく母を奪われてしまったことへの怒り憤り、我の非力さ、迂闊さをただ噛みしめるだけであった。日々自らを責め続けた。

 しかし、一昨日19日、大事に思い続けていた女(ひと)の結婚式と長年関わってきた好きな音楽のコンサートに久々に出かけて向き合い、その日を境に、母の死も含め全てはそう定まっていたのだと思えるようになった。偶然その日一日、重なった二つの出来事が我に新たな視界を開かせてくれた。
 つまりそれは運命であり、縁であり、神の計らいであり、予めそう決まっていたことなのだった。ならば人はそれに抗うこともできないし、認めたくはなくても受け入れるしかないのであった。

 母の死から二か月、季節は夏から秋へと変わったのだけれど、去年の秋頃から母の体調が悪くなったこともあって、この一年はやたら忙しく、季節をよく味わうことがなかった。
 そのまま年が明けて春が来て、母も父もやたら入退院を繰り返して、我は毎日立川の病院を往復して、夏となり、父の骨折も癒え、ようやくまた再び親子三人での暮らしが再開できたと思った束の間、母は42度という高熱を出し救急搬送されてしまい、以後、寝たきりとなって自宅に戻れても二か月も持たなかったのだ。
 だからこの秋は、雨がやたら多かったこともあるけれど、今は秋で、そう認識しても今年の秋なのか去年の秋のことなのか、記憶がはっきりしないほど意識が混乱していた。

 毎日ともかく何とかやるべきことは終えて生きてはいたけれど、まさに五里霧中の感じで、怒りと哀しみだけは常に傍らにあり、感情も不安定で父に怒り泣き叫び発狂寸前のときもあった。
 何ヵ月も誰にも会えず、実のところ誰にも会いたくなく、会うのも怖くなって、もうこのまま社会復帰はできないかとも思っていた。
 すべてのことが母の死と共に失い、変わってしまったと思えた。母がいない新たな世界が自分に築けるか不安でならなかった。その恐怖は今も強くある。

 しかし19日以降、心は不思議に平穏で、山奥の澄み切った湖のように森閑として静まっている。むろん母のことを思い出したり、母を知る人と話したりするだけで、また哀しみが湧き出て涙が溢れてくる。哀しみ、それは淋しさというものなのだろう、たぶん癒えることはない。
 が、いくら悔やんでも自らを責めても母はもう戻らない。ずっと受け入れられずに認めたくなかったが、そういう運命だったのだとやっと思えて来た。そこが母にとっての終着点、終着駅だったのだと。

 繰り返しになるが、人は日々生きているとき、動いているときはどこに向かっているのか、いつ終わりが来るのかわからない。ようやくその日、そのときが来て、ああ、と驚き、溜息と共に「了解」する。そしてすぐ事態を承諾できる人もいれば、我のように抗い続けて起きてしまった結末に苦しむ者も多々いよう。
 だが、それもこれも、この世のすべてのことは、予めそう定まっていたことなのだった。むろん、ならば人は努力したって無駄だということはない。その努力をしたとしても、努力も含めて、決まっていることがあり、それが「運命」ということなのだとわかってきた。
 宿命という言葉がある。運命に近いが、そこには変えられない感じがしているからあまり使いたくない言葉だ。運命は変えられる。しかし、その努力の結果も含めて、行きつく先、終着点は決められていて、その時が来たらもうどうしようもない。
 「その時」がきて、ようやくわかる。すべてが見えてくる。良いことも悪いこともそう定められていたのだと。ならどんなに辛くても、認め難くても受け入れるしかない。

 今我は、すべてを受け入ようと思う。認めたくない気持ちはまだあるし、認めるのは辛いことだ。しかし今はそう考えた方が楽になって来た。哀しみは哀しみとして抱えながら、淋しさは淋しさとして大事に保ち運命を受け入れて、我は我が定めに向かってけんめいの努力をしていこう。ようやくそう思えて来た。
 自分でも思う。よく母の死をこんな弱虫が乗り越えることができたあと。それは我が一人ではなかったからだが。

父のいない夜に2016年11月20日 00時30分46秒

★父、初めてのデイケアお泊りに

 淋しさなのか、疲れからなのか何か興奮してちっとも眠くならない。日付も変わって真夜中だが、ブログを書く。

 いろいろまたご心配頂いたが、我が人生も続けて、やり直すためにも「定点観測」の意味でもブログがないとならないと気づいた。
 もし、お一人でもこの拙い「覚書き」のようなものを楽しみにしてくれて、読み続けてくれる方がいるのだとすれば、有難いことだし、励みにもなる。そう、誰かは知らないし生涯会うことはないとしても、どこかで誰かが見ていてくれるのだ。まさに有難いことだ。どれほど祈っても何も言葉を返してくれない神よりもはるかに実際的ではないか。

 また、ゼロから再スタートだ、始め直したいとか書いた。が、それも大きな間違いで、実のところゼロではなく、今はマイナスなのである。
 つまり母の死で、この家はめちゃくちゃになってしまい、母が生きていた頃、元気だった頃どころか、死近く迄にも状況は戻っていない。
 今夏、癌が悪化して突然の高熱で救急車で搬送されて入院し、家に戻るのならば自宅介護のためには電動介護ベッドなど入れないとならないとされて、母が入院している間に、玄関わきの四畳半の板の間を空にすべく、そこにあったものを山梨の倉庫と化した古民家やこの家の廊下、二階の広間に「とりあえず」移動させた。

 山梨に運んだ分はともかくも、そんなわけで今二階の、かつては広く、イベントなどで客を招いたスペースも、様々なガラクタやオーディオ機器、本類等で足の踏み場がない。まずそうした場所を片付けない限り、ゼロにも、最初のスタート地点にも戻れない。まずはマイナスからまた元の位置へ戻していく。それからが本当のスタートなのだった。
 今年の23日までに、そうして再び、元の位置、ゼロに戻せるか正直わからない。が、ともかく目標を決めて、期日を設けて作業を進めない限り、いつまでもこのままでこれが常態化してしまう。その日までに片付きイベントができるか以前に、これでは身動きがとれず不便でたまらない。自分だってうんざりだ。

 結婚式とコンサートが重なり大忙しだった今日、いや、昨日19日が終わったので、もう今は年内何の予定もない。すべきことは父の介護だけだ。ならば、家の片付けに専念もできるし、その日誰も来ないとしても、我一人でもささやかに、ゼロに戻したお祝いをしみじみやるつもりでいる。

 その父だが、今晩は民家型デイケアにショートステイで泊まりに行ってこの家にいない。何だか不思議な感じがしている。淋しさは、常に煩い父が今ここにいないということもあるのだろうか。

 今年は春頃から、母と父が交互に入退院を繰り返していて、最悪の時は、夫婦二人して共に同じ立川の病院に同時に入るというW入院ということすらあった。
 だから、親たちが入院して、父と母のどちらかが家にいないということは常だった。しかし、母がいないときは父はいたし、父が入院していたときも母は家にいたので、数週間のW入院時を除けば親たちが二人ともいないことはなかった。また二人で病院に入っていた時も、病院という安全な場所にいるのはわかっていたから、不安も寂しさもなかった。彼らは今いなくてもやがては戻ってくるとわかっていたから。

 が、母が死に、この家から永遠にいなくなってしまい、父と二人だけの暮らしになってから、その父も夜いないことは一度もなかった。
 今晩初めて、外から戻ってきて、戸を開けて、ああ、父も誰もいないんだと気づいた感覚は、淋しさとはちょっと違うが何とも言えない空漠としたものであった。空虚といった方が近しい。むろん犬や猫は喜び歓迎してくれたけれど。
 父が母の後を追って死ねば、こうした感覚は日常的なものになるのか。誰もいない家に一人で帰って来る。やがてはそれにも慣れてしまうのかもしれないが、今考えただけでちょっと耐え難いように思える。
 人生とは究極、そうした孤独なものなのであろうか。

 我が夕方犬の散歩や買い物などで出かけて、夜暗くなってから戻ると、この家は、街灯から玄関から廊下、居間も台所もどこもかしこも灯がついている。父は裏の自室でまた電気つけて何かやってたりする。
 我は、電気代がもったいないから、そこにいるならともかく、いない部屋には明かりをつけるな、と何度も厳しく父に命じている。叱りもした。しかし、なかなか改まらないだけでなく、何故か夜外から帰ってくると我が家は庭先からどこも煌々と明るい。それは母が死んでから顕著だった。
 でも今晩、我は帰って来て、気がつけば父と同じように、玄関や廊下、あちこちに電気をつけまくっている。何でだろう?ああ、そうか、何で父は電気を付けてしまうのか、はたと気づいた。それは息子が居る時はともかく、いないときは不安で寂しいからなのだ。
 その淋しさ故、暗いのが無意識的に辛く、ともかく明るく電気をつけてしまうのだった。ならば父を叱るわけにもいかない。

 人を動かしているのは、喜びでも怒りでも哀しみでもなく、実は淋しさなのではないか。喜びなら満たされ、怒りなら爆発し、哀しみなら自失する。そこには持続的行動はない。
 淋しさだけが、何かでそれを埋めようと、人を過食や衝動買いや繁華街の出歩き、他者を求めたり、何かを集めたり固執したりメールや電話かけたりとアクティヴに走らせる。

 淋しい気持ちで、それを抱えて夜通し歩こうか。いくら歩いてもそれは変わりはしないだろう。しかし、もう季節は冬を迎える。夏向きだった生活の柄も変えねばならないのであった。
 それが人生を生きていくということだろう?

 父がいない夜は、一人で自由に何でもできる、のんびりできると思っていたが、淋しくて仕方ない。この淋しさはどこから来るのだろう。