またコンサート、企画しました。2023年09月22日 18時44分00秒

★いま、まだ自分ができること、すべきと思えること。

 右腕の痺れと麻痺は相変わらずだし、状況は何一つ好転はしていないが、気持ちだけは戻った。ともかく生きて生き続けていこうと。
 一昨日の夜、やっとキューブラー・ロスの自伝を読み終えた。多くの科学者が批判したが、死後の世界についての報告と記述は、我がずっと考えていたことと全て合致した。
 そう、(肉体は滅びても)死が終わりでないとしたら、何も自ら死に急ぐ理由などはない。ともかくまずはこの現世で、負債ではないとしても、与えられ賜ったものを精一杯活かすだけだ。
 聖書にも善きしもべの話がある。つまり主人から預かった金を、どれだけ増やして主人に示し返せるか、なのである。

 父の死後、この地獄のような一年、何とか死なずに無事に生き永らえ、乗り越えられたことを今自らただ喜びたい。
 自死は選ばずとも、事故や火災など不測の事態を招く可能性はものすごく高かった。
 何しろ体はアルコール漬けでふらふらで食生活はめちゃくちゃだし、家はゴミ屋敷でまさに足の踏み場もなく、失火の危険性も高かった。
 それでも大過なく入院もせず、ともかく生きてこの危機を乗り越えられたことはまさに神のご加護と、少ないが真に愛すべき友がいたおかげだと言うほかない。
 むろん今も揺り戻しがあり、アルコールも断ちきれてはいないが、今の気持ちは、もう大丈夫だと思える。まずそのことを報告いたしたい。

 今思うは、こんな我にもただただ有難く恐れ多いが、神の愛、つまり哀れみと慈しみがあったということだ。
 これまでも人が知ったら卒倒するような危険なことをずいぶんやってきた。死なずとも障害が一生残るような目にも何度も遭った。
 それでもまあ、今も五体無事に、老いてだいぶガタが来てはいるが、まだ生きてここに在ることは、本当に有難い、奇跡のようにも思える。
 その神の愛に応えたい。

 12月の9日(土)に、谷保のかけこみ亭で、旧き善き友人仲間たちと「共謀コンサート」を再開することにした。
 ウクライナでの戦争も未だ収まらず、日本周辺もやたらきな臭く新たな戦前、とささやかれる今、もう一度だけ音楽とうたの力を通して、護憲と反戦、平和を考える音楽のイベントを企画することを決意した。
 詳細は、また後ほど告知いたしたいが、ぜひぜひご参加ご協力願いたい。

そして、今、これから2023年09月16日 06時49分08秒

★こんな我にもまた、神の計画の一部なのだと

 秋9月も半ば過ぎとなるのに、今年の猛暑は未だ衰えず、連日真夏日が続いている。
 晴れれば強い陽射しに汗噴き出るし、曇りや雨でも湿度が高く、少し動くと汗ばんでくる。できることは、濡れタオルを常に首や頭に巻くことぐらいだ。

 ともあれ、日暮れは早まり、朝晩は少しだけ涼しくなってきた。季節の歩みは遅々としていても確実に進んでいる。もう少しの辛抱だと鼓舞するしかない。

父の命日に2023年09月14日 19時56分37秒

★一年が過ぎて

 今日、9月14日は、我が父の忌日、命日である。
 父は、昨年の今日、夕刻時に市内外れの病院で息を引き取った。
 病院から、危篤状態なのですぐに来てくれ、と携帯に電話があった。
 ちょうど市役所にいて、あれこれ税金とかの支払いの相談終えて外に出たところの我は、その電話を受けて、大慌てで家にも戻らず自転車でかけつけたのだった。
 ちょうど近くの工場の退社時刻でもあり、駅へと向かうその社員の群像とすれ違いながら夕陽を背にして病院に向かって我は走った。
 去年はもっと涼しく夕陽も長く伸びて爽やかな初秋の夕暮れだったと記憶する。今年は同時刻でもともかくまだ暑い。むっとして汗ばむほどだ。

 既に記したと思うが、我が着いたとき、看護師はたった今亡くなりましたと言ったが、父はまだかろうじて生きていて、意識はないものの、かすかな動きもあり、まだ温かい手を握り、不肖不徳の不良息子は泣きながらも悔いて詫び別れを告げることができた。

 それから一年。この一年は、物心ついてから半世紀どころか60年以上も生きてきて、未だ経験したことのない本当に辛く地獄のような辛い日々であった。
 7年前年前、母が、2016年に、癌で自宅で逝った時も、その後の一年は、意気消沈どころか呆然自失、最愛の母を失ったショックで、やはり何も手につかず、見るものすべて意味と色を失い、すべてにやる気を失ったが、それでもまだ生活だけは何とか続いていた。
 それは、父がまだ我に残されていたからで、90過ぎの父がまだ生きていたから、介護施設に通いながらもまだこの家で共に暮らしている限り、最低限の日常生活は維持しなければならなかったからだ。
 その父が、昨年の今日、コロナ関連死でついに母の元へと旅立ち、以降、我はこの家でついに一人暮らしとなった。そして全てが狂い崩れてしまったのだ。

亡き母の命日に2023年09月08日 22時23分04秒

★この一年をふりかえる

 私事だが、母は、2016年の9月8日の未明、この家で、我の手の内に息を引き取った。
 それから、早いもので7年が過ぎた。その日のことは、まだ昨日のようにありありとリアルに思い出すが、さすがにもう今は、夢の中ても既に亡き人だと意識してきたし、生前の元気な姿で出てきたときも、目覚めた後に昔はその不在に嘆き常に泣いたりもしたが、もう泣くこともなくなった。
 夢で母と会えたらば、ただ懐かしく有難く嬉しく思うだけだ。そしてあの世でも元気にやってるのだと思い、我もまた近く死んだら、再会のときを楽しみに待つだけだ。

 仏式では、去年が母の七回忌であったのだが、おりしも初夏から父がコロナ禍で重篤の状態で入院中であり、父のことだけに心は囚われ母の法事のことなどは何も考えられず、一切何もしなかった。
 そしてその父も、母の命日の直後に、迎えに来た母に手を取られるがごとく、あの世へ旅立ち、間もなく一年、一周忌となる。
 が、今年もお寺での法事は何も予定してなく、願わくば、今月内にも彼らの孫である、都内に住む我が甥っ子と、我が両親を知る女友達にも声かけて、町田の菩提寺に墓参りだけは行こうと考えてる。

 母が死んでからの歳月はともかく、父が死んでからのこの一年、我一人でほんとうに大変だった。もう何度もダメかと思った。全てが行き詰り何もできなく滅茶苦茶になって、何もかも地iに落ちた。地獄とはこういうものかと知った。苦しさのあまり何度も死を願い試みもした。
 今もすべてを失くして終わりにしたいと強く願うものの、ともかくまだ死なずに、まだ生きてここに在ること、どうしようもない人生を抱えてもまだ生きていることに、喜びのようなもの、いや、何より有難さを覚える。

 自分自身には、生きていく理由、意味など何もないが、我は多くの生き物たち、我が世話しないとならない猫たちや犬がいたので、死ぬに死ねなかったのだと今気がつく。彼らがいなかったらほんとうに間違いなく突発的に死んでいた。そう動物たちの求めが我を現世に留めたのだ。
 この世の人生とは、様々な関係にほかならず、そうした外との関係性の有無こそが人を生に繋ぐ糸、絆なのだとわかった。
 生きること、生きているということは、そうした「外」との繋がりに他ならない。それが失われたとき、人は孤独に陥り絶望し、あげく自死を選び、ときに他者をも道連れにするような非道をも行動する。
 京都のアニメ制作会社の惨事を思うとき、突然理不尽に殺された人たちは当然のこと、犯人の男のそこに至るまでの人生を思う。
 安倍元首相殺害の犯人もだが、同情の余地などはないが、その行動に至るまでの、思いつめた思いを語るべき関係ある者がもしも彼らにいたならば、こんなことは起こらなかったに違いないと信ずる。
 この世は、成功した者たちによる敗者、落伍者へに対する「自己責任論」が満ちている。
 確かに自分もまさに自業自得だと思いもする。我自身が招いた顛末がこの地獄なのだと。
 が、そこに追い詰めることではなく、肯定できなくてもそのどうしようもない現実、現状をまず赦し、その現実を語らう場、話せる仲間のような誰かが必要なのではなかろうか。
 我は何もできやしない。が、その痛みと苦しみは語れるし訊くことはできる。人生は自分のものか、もう一度自問している。

9月は、哀しみの月2023年09月08日 00時01分19秒

★母の命日と、近づく父の命日を思う

 9月に入った。このところ台風が次々来ていることもあって、雨模様の日も多く、やや気温も下がる日もあって、記録的猛暑、酷暑の今夏もようやく終わりに近づいている兆しが見えてきた。

 また拙ブログ間が空いてしまった。
 何も状況は解決していないが、ようやく一段落してきたような、次の状況に移れると思えてきて先に当ブログ、再開のことを記した。
 が、今月2日の日に、近くでちょっとした音楽の集まりがあり、盟友太田さんを誘って参加したのだが、その後からまた気持ちも体調も崩れてしまい、家内での新なトラブルも起きたりもして何日かウツウツとしてしまっていた。

 で、このブログも気持ちが落ち込んでは書けなかったわけだが、近づく我が母と父の命日を前にして、今さら鬱状態になってもいられない。
 そう、今月は、我が両親の死んだ命日の月であり、本来は墓参りやら亡き人たちを偲ぶあれこれ多々行事の続く月なのである。
 が、浄土宗のお寺にある我家の墓所の下に、父母は、お骨となってそのまた親たちと一緒に納まってはいるものの、ウチは父母たち自身が生きていた頃から、そうした信仰、信心は極めて希薄であった。
 仏壇の位牌に手を合わせることや墓参りも常日頃疎く、また我自身の信仰もそれとは別にあり、父たちが眠る墓所のある寺に対する畏敬の念と有難さは覚えつつも、善き檀家、信徒ではないことは間違いない。

 が、死んだ日、命日というのは、どの宗教問わず意味を持つはずで、明日、9月8日は、2016年に逝った母の命日で、その一週間後、14日は昨年死んだ父の命日であり、今月9月は、ある意味弔いの月、亡き人を思う哀しみの月だと言えるかと思う。
 我もまた望まずとも、死ぬる月は、9月だという気がしている。

いまが、最低最悪の時。この先にあるのは死。2023年08月29日 09時39分09秒

★ならばこそ、ここから這い上がらねば、戻さねば。

 観測記録史上、最も熱い夏、2023年の8月も終わろうとしている。
 間もなく、我が父母の命日が重なる、哀しみの月、9月が来る。

 拙ブログ再開すると告知した手前、まずは、これまでの経緯を改めて記さねばならない。
 もう本当に頭がおかしくなってしまっていた。何もできないし何もわからなくなってしまった。
 何もかもが、いまそこにあって使ってたものもすぐになくなり見つからなくなり、今自分が何をしていたのかさえわからなくなった。混乱と混沌で今も家の内外は足の踏み場がなく、コバエが飛び交うゴミ屋敷のままだ。
 今もまだバカは変わらないし身体もツラく動かないが、気持ちだけは前向きになった。よって、ブログも再開しようと思い直したのだ。
 そう、このままだと、家の失火や事故を起こして我は間違いなくあっけなく死んでしまう。
 そして、このブログは棚ざらしにされたまま、二度と更新されることない。
 我個人を知る、ごく親しい友人知人たちには、野垂れ死んだ知らせは少し広がるかもしれないが、そうではない拙ブログ少数の読み手の方々は、時間も過ぎて、どうしたのか訝しく思うだけで自然消滅したか、ついに投げ出したと判断し、やがては完全に忘れ去られるだけだろう。
 それもまた致し方ない結末ではあるけれど、そうなる前にもう一度、外の世界との唯一の窓口である我ブログで、できるだけ今の我の「生」を発信したいと思い直した。
 どうしようもない失敗した人生、生きている価値もないと自分でも思うが、その人生の後始末、死ぬための「経過報告」を記していけたらと願う。もしかしたらそこに少しは何らかの読む価値もあるかもしれないと。

 君たちは、どう生きるか、なる題名の本や映画が巷では話題であるが、その問いかけに、どう生きるか、ではなく、どう死んでいくか、こそが問題なのだと答えたい。この歳になると。
 そう、どう死ぬかは、カンタンなことで、人は存外あっけなく自死でなくてもある程度老いればすぐに死んでしまう。不測の病気や転倒など迂闊な事故等で。
 ならばこそ、死ぬために、どのような道筋を選ぶか、進むかこそが一番大事なことではないか。それは断捨離などという些末な身辺整理などですむ話ではない。
 君は、いったいどう死んでいくか、との問いかけを前に、その報告を記していきたい。

今あるものすべてときちんと向き合おう、応えよう2023年08月26日 23時25分05秒

★ブログ再開します。

 父が死んで間もなく一年となる。天涯孤独での初めての夏も終わろうとしている。

 ウツもだが、ほんとうに人生が行き詰って、さらに様々な悪意ある嫌がらせも多々あって、生きている意味を問い続けた。自業自得にせよ、なんでこんなに苦しく辛いことばかり起こるのか!!
 今も自分にはどこにも居場所がないと思えるし、ほんとにいつ死んでも構わない、もうすべてどうでもいいという気持ちでいる。が、だからといってもうこの人生をすぐさま投げ出しあの世へトンズラしようとは思わない。
 さすれば、まさに、死後裁きにあう。いや、それだけでなく、けっきょく何度でもまた産まれては同じ地獄に出会うだけのことだ。自分はこれを必ず繰り返す。この現世で改めオシマイにしない限り。
 死はすべての終わりではない。肉体は滅びても魂にとってまた新たなスタートとなるのだから。
 そう、救いはないのである。けっきょく死ぬまで生きていくしかない。その中で何が、どれだけできるか、なのだ。

 拙ブログもいろいろ考えたが、我を忌避・嫌悪して問題ある者として監視し糾弾しようとアクセス試みる奴らと、コメント頂いたように少なくても読み手として「再開」を心待ちにされてる方々とを比べて思うとき、悪意・敵意ある奴らに屈して我身の保身の為に、善き愛すべき人々を切捨ててはならぬと思い至った。それはあまりに身勝手であろう。

 先にも書いたが、今このプラットフォームではない、別ブログの場とシステム自体を再考して新たなブログの場を探している。
 が、それがみつかりそちらに安全に移行できるまでは、このブログを続けていく予定だ。

 これまでの経緯も含めて、詳しいことは順次またこの場で書いていく。
 もし少しでも我と我の書くことに関心やご興味ある方はどうかまたお読み頂きたい。
 むろん、同時に我を貶めようと、失態・問題を探しては告発しようと目を光らす奴らも読むとは思う。なので細心の注意をもって、もう隣近所等の世間的なことや、書いたことが通報されるような足をすくわれるようなウカツことは記さないようにする。
 このブログで書き記すのは、あくまでも個人的なこと、我が脳内のこと、つまり趣味嗜好、思想的なことだけとしていく。猫のことや我家の状況等については関心あらば個人名でお問い合わせ頂きたい。きちんと個々お伝えします。

 自分は神の前において誰よりも不誠実な人間である。だからこそ、今あるものすべてにきちんと向き合い、応えたいと願う。この拙いブログを読まれる方とも。
 そのための足がかりとして、このブログを用いたい。
 すべて正直にありたいからこそ、すべてあからさまに書けないようになること(つまり世間的トラブルの種となること)は書かないことにした。

 どうか改めてお付き合いください。

己の罪と罰2023年07月15日 22時40分35秒

★なかなか「撤収」作業は進まない

 「断捨離」などという大層なことではなく、自らの人生を終わらせる、つまり撤収に取りかかっているわけだが、相変わらずどうにも進まない。
 家は内外、相変わらずゴミ屋敷のままで、まったくもってどうしようもない。
 気分は一時のひどい鬱状態は脱しているものの、また心と頭痛める事態が起きてしまい、憂鬱というか、心静めて何かに向き合える状況とは程遠い。※この1~2週間、コロナに罹ったかと思うほど体調も悪かった。

 何が起きているのか、昔ならば逐一、このブログの場で書いて、曝け出すこともできたが、今は、基本としてブログは書かない、書けないというスタンスでやっているので、やはり吐き出せず、苦しいところもある。
 が、下手に、某タレントさんのように、世に向けて近況や日々思い考えたことを「発信」してしまうと、無名の我でさえも悪意ある「反応」「反響」が返ってくることもあるし、誹謗中傷ならずとも世間の顰蹙をさらに買うことに繋がるので、やはりもうSNSは、原則としてやるべきではないと、そのタレントの自死に強く思った。
 この世は、自らの正義の名を借りた「悪意」に満ちているのだから。

 むろん、基本仲間内、友人知人関係だけに特化したフェイスブックのようなものならば、その「悪意」の度合いは、軽いとは思うが、やはり誰が常に目にするかわからない場、SNSは、怖くて迂闊かつ気軽に、私的、個人的なことは、情報も含めて書けない、書いては危険だと改めて思った。
 が、我にとっては書くという行為、内心の思いの内を、文字として文にして現わすことこそが、唯一のストレスや悩みの解消法であり、拙ブログをやめるまでは、鬱にはならなかったはずだ。
 その心のうち、悩みも含めて、「思い」を外に出す場がなくなったときから、我の苦しみが始まったのだと今痛感している。

 このところ日々願い思うことは、もう何もかもどうでもいい、もう何もいらない、ともかく早く何もかもすべてを終わらせたい、ということで、始終そのことをお題目のように呟いている。
 が、先にも書いたが、全てモノゴトには手順と段取りがあり、こんな我にも多少は責任感もあるわけで、すぐさま突発的に自死する気はない。いや、できやしない。
 いまの状態で、この世からトンズラしたら、死後の裁きだけでなく、唯一の肉親である、最愛の妹やその子たちに多大な迷惑がかかる。
 失敗した人生だからこそ、最後は何とかできるだけ関わりある他者を悩み苦しめることのないよう、うまく収めたいと願う。立つ鳥後を濁らず、の謂いの通りに。

 今朝方、テレビのドキュメンタリー番組で、見るともなく見てたら、瀬戸内海?の島の水産加工業者の男が、そこの名産・小鰯の加工品「いりこ」作りの仕事に関し、大変だが「やめたら終わりだから」と語っていた。
 そう、何であれ「やめたら終わり」なのだと思う。すべてはともかく続けていくことだ。
 終わりにすることは存外カンタンで、命などごく簡単に断つことができる。何よりも大変なのは、始めることもだけど、「続けていく」ことで、それはけっこう正直しんどい。
 ましてたった一人で、多くのモノを抱え、維持していくことは。ほんとうに辛く苦しい。
 しかし、自らやめずとも、終わりの時は必ず嫌でも来るわけで、不本意でもその「終わり」のときが来るまで、人生は続けていかねばならぬと心する。

 すべては自業自得でもあるわけだが、今、我に起きていることは、まさに己の罪に対する罰なのだとつくづく思う。まさに自らの不徳が招いたことだ。
 むろん、さらに死後にまた裁きにあうことも間違いないわけで、その「罪」と罰のカクゴを決めてともかく生き続けていくしかない。

 ともかくもうできるだけ人には会わず、どこにも出かけず、ネット上の情報に振り回されることなく、粛々と自らが犯した罪に向き合っていく。
 それこそが生きていくこと、人生を続けていくこと。償いにもならないが、せめて人として最低限の義務は果たしたい。

死ぬ前に果たすべきいくつかのこと2023年06月26日 20時15分32秒

★そして、「音楽」に関して

 何としても若き日に、友人仲間と撮った八ミリ映画を、デジタル化して御礼として「青春の記録」としてお届けしたい。
 さらに、もう一つ、心に残っているのは、我が若き頃から録り溜めた「音楽」に関する事である。
 大阪の春一をはじめ、世の人たちから度々ひんしゅくを買い、トラブルの種になってきたが、我は、若い頃から記録収集マニア的気質があり、雑誌からチラシから何であれ手元に来たもの、関わったモノゴト、行って見たものは、どんなものであれ、何でも捨てずにとってきた。
 同時代同世代のみうらじゅん氏も同様の気質の方であり、彼もまたあらゆる身辺に届いたものをともかくひたすら収集してはスクラップして、膨大なコレクションを誇っている。
 彼のエライことは、きちんとその集めたものものを、整理してスクラップブックに貼付けるなり保管して、すべて自ら管理できていることだ。
 我は、収集はするが、その能力は人並み以上だと自負しても、それをきちんと博物館的に整理分別保管することは全くできない。
 ただ集めるだけ集めて、物は増えるが、いったい何がどこにあるのか、その全体像も個々の状態、状況も自分では皆目わからない。

 我はカセットテープ時代も含めて、1970年代から様々なイベントやコンサートの音を録音・記録してきた。また、テレビ番組も、80年代からずっと多々録画してきた。※当初は、ベータで、次いでVHSで、近年は、ブルーレイディスクで。
 さの他、宣伝広告やチラシ類など紙もの、紙ごみ類も膨大に未整理のまま残っている。

 そうした長年録り溜めたものの中でも、テレビやラジオの放送番組は、他にも録音録画した方が多々おられ、保存され、また世に流れていくと思うから惜しいとは思わないが、我が個人的にその場に立ち会い録音や撮影した映像についてである。
 たぶん、他に誰も録ったりしていなければ、我の手元にあるものが唯一の記録であろう。
 そこにどれだけの価値や意義があるかはともかく、そのコンサートやシンガー、ミュージシャンの知名度や人気は関係なく、やはりある時代と場の記録として、このまま我の死と共に消えてしまうのはいかがなものか。
 むろん、時というものは、一過性で、二度と戻らないし再現も復元もできやしないが、幸いにしてその一瞬を記録したものが今残っているのならば、それは、やはりきちんと後世へ伝えていくべきもの、残すべき価値があるのではないか。
 そうしたものを、我の死と共に雲散霧消させてしまうのは忍び難い。モッタイナイ気がする。

 むろん、誰か後を託せる人が現れ、その同好の士が、きちんとその「遺産」を活かしてくれるのならば良いけれど、現実的には、我にはそんな仲間はいない。誰にも託せない。
 我が死ぬば、最終的には、何もかも我が妹や甥っ子たちが全部ゴミとして処分してくれるはずだ。しかもさんざん我に悪態つきながら。

 ならば、せめてもう少しできるところまで、そうした「音源」を整理して、
何が入っているのか、中身がわかるようにして、せめて誰かモノ好きな人に、「形見」として貰われていくようまとめなければならない。
 むろんそこに価値があると思うのは我一人なのかもしれないが。

最後に残った友たちの恩義に報いてから2023年06月22日 17時49分11秒

★未だ我を見捨てじ、友たちよ

 もういつ死んでもいいと書いた。が、だからといって、今日明日にもパパっとすぐさま死ねるわけではない。
 死ぬためには、それなりの手順、つまり準備や支度がある。そう、中村とうようや加藤和彦のように準備万端としないとならない。
 立つ鳥跡を濁さず、である。
 むろんまた隣近所からの嫌がらせやトラブルなど、我を非難糾弾する外的圧力にキレて、突発的に暴発するようなハメツ的事態を起こして終わりが来るかもしれないが、まあ今は、あえて急いで歩を進める気はない。
 心置きなく死ぬためには、死後、我の親族たちに迷惑かけぬよう、最低限の゛後片づけ」はしないとならない。

 それは、遺産と呼べるような金目の物ではなく、我家のほぼゴミ的がらくた類、つまり本やレコード、オーディオ類など大量のモノの「処分」もとうぜんながら、それよりも個人的には、自分がかつてしたこと、未だ果たせていないこと、つまりそのままにしたまま、関係された方々にきちんと「お返し」が出来ていないモノゴトが気にかかっている。
 我は、学生時代に、むろんバンド活動など音楽もやったが、同時並行的に、8ミリフィルムでの映画製作もやっていた。
 きちんと完成させて公開したものもあるが、けっきょく撮り終えたものの、「完成版」はできず、中途半端というか、作品として「そのまま」にしてしまい、指折り数えてみると、半世紀近くたつ「未完成」の映画もある。
 今さらそれを完成させ公開しようとか、できるとも思えないが、せめて、その中途のものでも出てもらった友人たち、関係した人たちに、青春の記録としてデジタル化してお渡ししたい。
 今思うと、呼び出しては無償で役者やスタッフとして使いまわしただけでなく、交通費さえもお渡しししていなかった。当時は、まったくそうしたことに頭も気も回らなかった。
 自分は今もどうしようもないバカだが、今振り返ると、かつてのさらにどうしようもないバカだった若い頃、してきた悪事に思い至り、まさに申し訳なさに胸が張り裂けそうになる。思い出すと真夜中でも思わず叫び声あげてしまう。
 彼らの善意というか、ご厚意にただ甘えて、当時はその有難さにまったく気がつかないでいたのだ。あの頃は。