すべてが有難く思える、新しい朝に2018年12月13日 09時44分19秒

★自分の人生を生き直していく

 昨夜は、午前四時前に一度だけ、トラさんが啼いているような気がして目覚めた。
 が、夜は深閑として当然ながらもう毎夜のなき声、吠え声はなかった。起きてトイレに行き、それからがあれこれ考えてしまいなかなか寝つけず辛かった。誰の人生にもこんな夜はあると思いながら。

 老犬には可哀想なことをしたと今も胸が張り裂けるような悔いが残る。が、ここでまた止まって鬱々と自らを責め嘆き続けても時間が戻せるわけでなし、何にもならないしもはやどうにもできない。
 ただ、居間に下りて、いつもいた場所にいつもそこにいた犬の姿がない「空白」、「不在」は、そこを見るたび何ともやるせない気分になる。胸が締め付けられる。しかし時間が経てばまたそれが当たり前になっていくことだろう。
 
 今日も晴れても厚い雲が空を覆い、北国のような曇天模様だが、ときたま暖かい陽射しも出る。晴れれば暖かい。寒さも一段落した感じだ。
 トラさんには申し訳ないが、これでやっと自分の人生に落ち着いて向き合えると思えてきた。何より自分のペースでモノゴトをコントロールできることだ。

 新しい朝がまた来た。死んでしまった者、やがて死んでいく者、そしてまだ生きている者たちすべてに、今はただ有難い気がしている。
 ありがとう、という感謝の言葉は、言うまでもなく「有難い」から来ている。つまり、じっさい有る事が難しいことに、感謝してこの言葉は存在している。
 我が、この世に生を受け、物心ついてから半世紀以上もまだ死なず、無事に生きていることだって本来有難いことであるはずだし思えば奇跡に思える。
 それは未だ健在の父も同じく、また我と関わるみんなすべて、人のみならず動物生き物すべてが、今この世に、同時代に共に生きていること自体が有難いことなんだなあとつくづく思える。

 ならばこそ一日一日、一つ一つ、もうこれで最期かもと、明日は来ないかもという気持ちで、まさに一期一会の気持ちで何事にも誰にも向き合い、その時を大切にしていきたい。
 神の見えざる手、という言葉があるが、生き物の生き死にも含めて、全ては神のはからいなのであろう。「則天去私」と漱石は晩年記している。そう、まさにそう思える。

 これからも様々な悩みやトラブル、耐え難い哀しみ、そしてそのことの苦しみは我を襲うことだろう。眠れぬ夜も繰り返すだろう。
 しかし、生きている限りまた新しい朝は来る。そして新しい一日が始まる。あとはただその一日、ひと時を、丁寧に無駄なく慈しみ生きていくだけだ。我にまだやるべきことと成すべきことはいくらでもあるのだから。
 愚かな我は、これからも忍耐と寛容さを試され問われ続けていく。次回こそもう少しは良い答えを出したいと切に願いながら。

 今もふと下でトラさんが吠えて騒ぎだした気がする。幻聴だろう。が、そんな犬が家にいたことを忘れずに、その「声」に急き立てられるようにしてしっかりこれから生きていこう。
 それこそが死んでしまった者たちに対するまだ生きている者の責務なのだから。亡き者たちの声に耳を傾けていかねばならない。

12月12日、冷たい雨の朝、老犬死す。2018年12月12日 08時50分33秒

★またもお別れは突然に、しかも迂闊にも我が死なせてしまった。

 書くべきか今も迷うが、これまでずっと一連の経緯を記してきた以上、何もふれずに頬かむりしてやり過ごすことはできない。申し訳ない。

 毎度、当ブログで愚痴こぼしてきた、呆けて徘徊遠吠えしまくりの老犬トラさんは死んでしまった。老衰とか自然死ではない。
 家の中での事故死で、ある意味我がうっかり殺したようなものなのだ。今、毎度のことながら自分の愚かさと迂闊さ、そしてつまるところ人としての弱さ、低さを痛いほど噛みしめている。まったく情けない。

 縁あって山梨から引き取ってウチに来てまだ2年弱。去年の冬から衰弱が進み、このところの呆けの悪化とまた歩行困難が始まってきたことから、この冬が越せるだろうかと案じていたが、まさかこんな形で別れが来るとは思いもしなかった。
 元々来た時からあまり若くなく、前の飼い主に可愛がられず飼われていたらしく人間に対して警戒心と畏怖感だけは強く、人に甘えたりとかまったく愛嬌ないどころか最後までその犬の反応はつかめなかった。当初は頭を撫でようとしただけでぶたれるかとビクッと身体をすくめるような有様だった。
 名前もわからないので、こちらでトラと名づけて、トラさんと日々呼びかけてもそれが自分のことだとわかっているのか、呼んでも来るわけでなし何も反応は一切返さない。徘徊してるとき道で捕まえても、我が飼主だと果たしてわかっていたのだろうか、抗いも喜びもしやしない。
 ただこのところはやっと何か機嫌か体調がいいときなのか、尻尾ふってるときもよくあったし、何考えてるか表情がつかめないだけ、人間には一切甘えない、まあそういう個性なのだと諦めて飼い続けていた。
 そして昨年の秋口から、外に出していると吠えて泣き叫びずっと騒ぎ出し、ご近所から苦情噴出、仕方なく以後ずっと室内飼いすることとなった。寒さもだが、犬も呆けて認知症となって、何か漠然とした不安感がそうさせるのだと医師は言い、じっさい家の中だと吠えることなく静かに眠ってくれていた。とうぜん、排便排尿のときは、したくなると自分で吠えて外に出たいと騒ぐ。その都度、夜でも連れ出していた。

 それが、このところ頻出してきて、昼間眠らせているのがいけなかったのか、夜になると必ず毎晩最低三度は外に出たいと騒いで我を起こす。夕方、夕食時、犬に食餌与えるとまた散歩、それからしばらく静かに眠っていて、我も零時ごろ二階の自室で眠りにつくと午前一時半頃、次いで3時か4時、そして早朝6時前頃。
 これでは我も睡眠が分割されて長く眠れないだけでなく、一度外に出て短時間でも散歩してしまうと、眼が冴えてまたすぐに眠りにつけやしない。そんなで午前過ぎに一度起こされて、そのまま寝疲れないままベッドで本読んだりしているとまたトラさんが吠え出すということもあって、慢性的に睡眠不足となり、そこに父が在宅の日は、寝坊も昼寝もできず、目覚めていても常時片頭痛がして体調がずっと悪かった。
 しかもトラさんは、小便とかしたくて騒ぎ外に出したはずでも、家に戻るとまた少しすると同様に鳴き叫び出す。当人も何で外に出たいのか、出たことすら忘れてしまうのか、何度でも徘徊したがる。夜になると、いやこのところは昼間でも何度でも吠えて徘徊したがる。

 夏場はそんなでその都度付き合って、彼女がとことん疲れ果てるまで深夜の街をかなりの距離歩き回った。じっさい昼間は足も重くほとんど歩けず、寝てばかりなのに、夜になると元気になるのか、ひっきりなしに吠えて外に出たがる。
 このところ季節も変わり寒くなって来て、さすがに飼い主も寒さと疲労が溜まって来て、トラさんに深夜起こされると、紐を外して勝手に自分でしばらく徘徊させて少ししてから連れ戻しに行くようにもした。
 徘徊しているときは吠えないし、歩くのもよたよたなので、この町内会の中、数十m以内しか行かない。しかし、深夜でも車も走ることもあるので、老犬の一人歩きは事故に遭うかもと光る首輪も買ったばかりだった。

 そして昨夜。天気予報では、雪となるかもという話だったが、夕方から降り出した雨はかなり強く夜じゅう降り続いていた。
 トラさんは、こちらが寝る前、夜11時ごろだったか一度軽く散歩に出して、それからは騒がずわりと静かに珍しくすぐ眠ってくれた。
 が、午前3時前頃、また下で騒ぐ声がして起こされて、眠たい目をこすり雨降る中、傘さしてこの町内会を軽く一周した。が、その時は小便したのか雨で道が濡れていたこともありよく確認できなかった。
 で、一度玄関に入れた後もまだ外に出たそうなので、もう一度雨の中道に出して玄関から様子を窺っていると、犬は悄然として雨の中ただ立ち尽くしているだけだったので、抱きかかえて家に入れて居間に連れて来た。
 そして濡れた身体拭いてやって、外は雨降ってるのわかっただろう、寒いしもうおとなしく静かに眠りな、と言い含めて我は二階のベッドに戻った。
 枕元の文庫本を開いて下の様子を窺っていたら、やはり少ししたらまた鳴き騒ぎ出す声が聞こえた。が、いちおう今散歩は行ったばかりだし、外は雨で雪の予報が出るほど寒い晩なのだから、いくら吠えようがもうほっておくしかないと考え、そのままいつしか我も眠ってしまった。

 じっさい、散歩の後、すぐに静かに犬も眠るのはこのところ稀で、また少しすると呆けの虫が騒ぐのか、必ずまた鳴いて吠えて騒ぎ出す。その都度付き合っていたら我の身体が持たない。睡眠不足で死んでしまう。
 だから、犬のいるコタツのある四畳半にはペットシーツを敷き詰め、その上に布絨毯も載せてあるので、またその部屋で失禁や排便したとしても後で始末すればいいかと、とりあえず散歩を終えた後は、また騒いでいようが放擲することにこのところしていた。真夜中なのである。何度でも繰り返していたらとても付き合いきれない。

 そして、今朝がた。外はまだ雨が降っていた。我の予想した通り雪にはならなかった。時刻は8時過ぎている。
 父がショートステイで、家に居ない日だとしてもずいぶん長く眠ってしまった。いつもなら必ず明け方、今頃なら6時前後に一度は起こされるのに、と訝しく思いながら下に降りた。トラさんも寒いし雨降ってるのでまだ深く眠ってるのかと思いながら。
 が、下の四畳半の居間はトラさんの姿がなく、あっ、また掘り炬燵に落ちたとすぐにわかった。が、父用に壁にとりつけてあるバーにかけてあるフックにひっかけてあるトラさんの紐はピンピンに伸びている。慌ててコタツを覗いたら、トラはコタツの一番奥に落ちていて首が引っ張られて首吊り状態となっている。
 引き吊りだして、心臓マッサージをして名前を呼んで何度も何度も身体をさすったが、もう反応はなかった。掘り炬燵に身体だけ落ちて息が出来なくなって窒息したのだ。

 拙宅のコタツは、掘り炬燵式で、これまでもトラさんはうっかり落ちることが何度かあった。ただそのときは、フック側のある手前側のほうに落ちるので、紐の長さには余裕があったし、落ちても中で啼き騒いでいる程度で「救出」できた。
 それでも今は落ちないように、夜中は大きなイグサの座布団を盾にしてトラさんの側からは蓋をしてあった。その蓋としての座布団は、反対側から畳と同じ高さコタツの内径サイズ半分の桟で押しつけてあった。つまりウチのコタツは、人間が足を入れられるのは半分だけにしてあった。
 あろうことかトラさんは、いつも彼女がいる場所から一番奥の、堀コタツの「堀」、つまり凹んでいる部分にお尻から落ちて首吊り状態となってしまったのだ。
 フックに紐をかけておかねば良かったと言うご意見もあろう。が、紐を結んでいないと夜中徘徊して、台所のほうに行ったりまた騒動を引き起こす。その都度動けなくなってまた鳴き騒ぐ。だから念のために、コタツにも落ちないよう紐を繋いでおいたのだ。それが裏目に出た。

 雨は午後には上がった。庭の真ん中、ケヤキやイチョウから離れた根っこのあまりないところを見据えてスコップで穴を掘り、夕刻近くトラさんの遺骸を埋めた。大きなどっしりした身体は呆けはともかくまだ元気そうでこの「事故」さえなければまだまだしばらく生き永らえると思えた。イチョウの黄葉を敷き詰め、直接冷たい土に触れないよう体にもかけてやった。
 トラさんの死に顔に、イチョウの葉に、我の涙がぼたぼたしたたり落ちた。縁あって山梨から引き取ったのにこんな最期を迎えるとはただ痛恨の極みという言葉しかない。断腸の思いという言葉通り今も胃が痛い。

 手のかかる老犬トラさんはこうして突然死んでしまった。今はもう冷たい土の下だ。が、これでもう犬に夜中何度も起こされず、ぐっすり眠るときが我に来るとは思えない。今もまだ下からトラさんが啼いて我を呼ぶ声が幻聴のように、だがはっきり聞こえる。
 また我の迂闊さと愚かさが失態を招いた。悔やんでも悔やみきれない。ほんとうにかわいそうなことをした。老い先短い不遇な犬なのだから、もっとやさしく、とことん愛しつくしてやるべきだったのに。

全てが終わりの時が近づき2018年12月11日 20時53分08秒

★ようやく見えた、何とかなりそうな気がしてきた。

 寒い寒いである。外は冷たい雨が音立てて本格的に降っている。久々のまとまった雨だ。
 天気予報では、八王子辺りから東京でも西多摩地区は、雪の予報が出ていて、さすがの我も青くなった。
 というのもこの暖冬、まだ何も冬支度はしていなく、母の遺した蘭科の鉢植えなど、寒さに弱い観葉植物は全部外に出しっぱなしだったから雪が降るとは予想だにせず、慌てふためいた。家に入れないと全滅となってしまう。
 確かにこの数日冷え込んできて、夏日のあった今年の12月もやっと冬らしくなっていくのかと思ったら、いきなりの初雪予報にはまいった。
23日の拙宅での人を招くイベントを前に、いよいよカウントダウンとなってきて、時間に追われているところ、今日は曇天の下、今にも雪が降りそうな冬ざれた空をオスプレイが何機も轟音たてて飛び交っていた。
 父をまた施設に送り出し、犬猫の様子伺いながら家の片づけ進めている。正直な話、やっと作業が始まった。動き出した気がしている。
 拙宅には、三階というか屋根裏部屋があり、そこに久しぶりに上がって確認したらまだスペースがあることがわかった。不要な空箱や紙袋などすぐ捨てられるガラクタ類をどかせば、そこにまだモノが置ける。
 溜まった本や雑誌、レコードなどいったいどこに移動させれば、と苦慮していたが、その空間を発見して気が楽になった。

 雨だか雪が降り出す前に、庭に出ていた寒さに弱い鉢物は全部屋内にとりこんだ。運ぶのに一苦労しそうなゴムの樹やガジュマルはとりあえずビニール袋をかぶせた。
 父もだいぶ歩けなくなってきたと施設の職員から連絡があった。老犬も夜啼き徘徊がさらに悪化して薬飲ませても効果がない。昼夜関係なくひっきりなしに吠えて騒いでいる。
 終わりのときが近づいている。終わりは始まりでもある。新しく始まる、始めていくためにもまずはいろいんなものを終わりにしなければならない。その時は近い。

我もまた、明日をも知れぬ身だからこそ2018年12月07日 00時04分16秒

★12/23日、あるがまま決行します。ぜひどなたでもお越しください。

 前回記したが、昨日6日、我にとって母亡き後ずっと、母同様に慕い大切に思い親しくしてきた近所に住む老婦人が急死してつい取り乱してしまった。前日も会い、台所のドアの工事確認の話をしたばかりだったから、昨日今日の話でほんとうに驚いた。まさかこんなにあっけなく急に死ぬとは、絶句である。

 が、やや時間を置いて冷静に考えてみると、百歳直前まで住み慣れた自宅で過ごせて、ピンピンころりの言葉通りに死の直前まで日常生活を続け、誰の手も煩わさず眠るように?安らかに自宅で死んだのだからこれはとても良いことなのである。
 我も含めた周囲が、故人はあまりに元気で長くずっと生き続けていたため、まだまだ長生きする、当分死ぬはずないと、その死の「想定」をまったくしていなかったため驚き動揺してしまっただけで、当然起こるべく、そしてある意味実に理想的な、まさに大往生であったのだ。
 ならば哀しむべきこともないはずなのだが、やはり我にとって親たち世代の懐かしい昔の人、しかも父よりも高齢の最後まで残っていた仲間が亡くなるとやはり淋しさと喪失感は何とも言えない。どうにもやるせないということに尽きる。遺体に向き合ってもまだ信じられない。
 もうこれで我が知る限り周囲では我が父が最高齢となってしまったわけで、いよいよファイナルカウントの鐘が鳴り出したという感じがしている。そう、Aさんのように、今晩はまったく元気でも明日をも知れないのだ。

 長生きしている人が身近にいてまだ健在ということは、その存在自体、年老いて来た者にとって先の指針、目印であり、ならばまだ頑張れる、あの人のようにあの歳まで頑張らねばという支え、救いだったのだと今気づく。
 その指針がなくなってしまえば、海図なしの航海を誰もが単独で荒海に漕ぎだすようなもので、老い先、という未知の状態はどんなものであるのか、大きな不安に襲われる人も多いのではないだろうか。

 今、母亡き後一番親しみ慕ってきた方の急死を受けて、今さらながら人が今まだ共に、この世に在ること、共に生きていることの有難さを心から深く噛みしめている。
 天国とか、あの世とか、死後の世界が我らにまたあることを願い信じたいが、それはそれとして、現世では死んだ人とはもう二度と会えない、言葉は交わせない、コンタクトとれない。
 遺体に向き合って思ったが、ただそこには冷たくなった骸、魂の抜け殻があるだけで、肝心のその大事な人はもうこの世から消えてしまっている。半日前、会って話して軽口を叩き元気だった人はもうこの世のどこにもいない。あっという間、一晩明けたらあっけなく訃報がもたらされた。まさに、夜半に嵐が吹かぬものかは、である。
 生と死、老いた人との関係とはこうしたものなのであった。いや、年齢は関係ない。老いも若きも人や犬猫だって関係なく死は突然訪れる。我も含めて共に今、我らがこうして同時代を共に生きて在ること自体が実はとてつもなく「有難い」こと、つまり奇跡的なことだったのである。決して当たり前のことではなかったのだ。

 ならば、何であれ、全て一期一会の気持ちで、精いっぱい向き合わねばならないはずだし、まして老いてきた者たち、我らは、この先、何につけてもいつかそのうち、またいつか、などと先延ばしを考えてはならないのであった。
 誰もがうんと若ければ、お互い「その先」「またいつか」もあろう。だが、もう皆多くが還暦、古希を越えてしまえば、その先のいつかまたはもう来ない可能性が高い。そう、それは年齢が上がるにつれてどんどん上昇していく。つまり明日はまた来るか、あるのかそれ自体まったくわからない。
 ならばどんなことでもお互い会えるうちに会い、できるときにできることを少しでもやっていくしかない。またいつかそのうちに、何て考えて後回し、先延ばしにしておくと、結局死に行く者はあっけなく死んで、取り返しのつかないことになる。
 すべて、今これが最後、その先のことはあるか分からないという一期一会の気持ちでこれからはやっていくしかない。

 拙宅での無頼庵クリスマス謝恩ライブパーティ、当日まで二週間に迫って来た。が、正直に告白すればまだ何の準備も片付けもほとんどできていない。
 いろいろ他の案件や雑事もあって、焦る気持ちを抱えつつ時間だけが過ぎて当日が近づいてくるというのが現実で、果たしてどうしたものかと大いに不安である。
 が、今さら片付いていないから今年も中止して来年に延期なんてできやしないし、じっさい参加申し込みは増え続けてそれぞれ皆さん各自のフェイスブックで告知さえしてくれている。ともかくどんな状態であろうとやるしかないのだ。
 我がどこまで片付けられるかはともかく、そうした皆が集う機会が作れるならば、たとえスペースはひどい状態であろうともあるがまま公開してお招きするしかない。
 そう、その先はもうないかもしれないし、どれほどひどい状態であろうとも今年を終えて、もし来年また開催できるならばそのときはよりマシにしていけば良いだけの話ではないか。
 見栄もテライも恥も外聞もない。どんな状況であろうとも「その先」のことはどうなるか我をも明日のことは知れないのだから、有難くも拙宅へ来てくれる方は歓待しお待ちするしかない。

 このブログをお読みの方で、我とは面識なく直にお会いしたことのない人であろうとも、もし関心とお時間あらばどうかお越し頂きたい。平成最後の、という文言が巷に溢れている歳末だが、もしかしたら我にとっても最期の「クリスマス謝恩ライブパーティ」となるかもしれない。
 生きている間に、まだ見ぬ、会いたい人、会うべき人とどれだけ我は会えるのだろうか。2018年の年末という同時代、有難くも偶然共にまだ生きている仲間たちとぜひ出会いたいと願う。
 いつかまた、とかそのうちに、ということはなくはないだろうが、歳と共に時間と共にその可能性は減っていくことは間違いない。もう若くはない僕らが、共に皆で会い一緒の時間をどれだけ過ごすことができるのだろうか。

お別れは突然に2018年12月06日 17時47分19秒

★母亡き後、慕い気にかけて来た人の急死

 少年老い易く、ならば老人死に易いものだとつくづく思う。歳も歳だから当人も周囲も何も悔いはないと思うが、亡き母の親友が今朝がた急逝した。百歳間近かと思う。
 昨日の午後も会いに行き、言葉を交わしたときは変わらず元気な様子だったので、先ほど夕方訃報を知らされ信じられない思いでとりあえず遺体に対面して来た。
 顔色も良くまさに眠っているとしか思えない穏やかな御顔であった。思わず声上げて泣いた。こんなに号泣したのはいつ以来か。母のときは長い間折々泣き続けたけど思う存分声上げて泣いた記憶がない。

 その婆さん、Aさんは、長年古家に一人暮らしの方で、今日もヘルパーが来たとき、ベッドに横になって既に亡くなっているのを発見されたとのこと。医者の診断では心不全とのことで、朝食を一人で摂って、それから苦しくなって横になったまま息を引き取ったのではないかと。
 
 Aさん、は、我が母より確か10歳上の方で、ダンナは、戦前からの共産党の活動家で戦後も党の要職にあった人だと聞いている。母から、彼女の新婚時代、特高の刑事が逮捕しに土足で家に上がり込んで来たと聞いていたから、今こそ、当人からもっと「治安維持法」のあった戦前・戦中についてのことを詳しく聴いておくべきだった。
 我が母は、親しくしてきた年上のAさんが1人でも元気で暮らしているのだから、私ももっと頑張らねばね、と常々言ってたけど、けっきょく2年前癌に倒れ先に逝った。
 我としては、その母が長年一番親しく慕い常に頼りにしてきた方なので、同世代最後の一人として常に気にかけていた。山梨へ行くたび向うの野菜やパンなど差し入れて様子を窺っていた。
 我にとっては亡き母代わりに、彼女のことを慕い常に気にかけて来たつもりでいたのだ。

 先日も好物だと言ってくれたパンとリンゴなど持って伺おうとしたのだけれど、ちょうど月末はショートステイに行ったらしく不在で、ようやく一昨日の夜行ってみた。
 室内に灯りはついてるのに何回チャイムを鳴らしても鍵は開かず出てこないので、仕方なく家の裏に回り台所のドアが鍵かかってなかったのでそこから入った。
 彼女は椅子に座りうつらうつらしていた。で、中に上がり、山梨のおみやげを渡したが、積年の古家なので、いったん開けたドアが戸口が歪んでしまってなかなかどうにも閉まらない。
 暖かい晩だったので、とりあえず外からガラクタ立てかけて開かないようにしたけど、どうにも開いてしまうようで、いったん家に戻ったら当人から電話でドアが閉まらなくて困る、と苦情があり、もう一度ロープを持って行き、室内からドアノブを流しの足にロープで引っ掛けて引っ張り何とか外に開かないよう応急処置した。
 それでウチの知り合いで我が家も建ててくれた大工カワムラさんに昨日の午前中電話して、Aさん宅の台所のドアが枠自体が歪んでいるから閉まらくなったので、できるだけ早く直してくれるよう依頼した。

 耳も遠い年寄りなので電話だとそのことを伝えにくいかと、午後出かけたついでに直接お宅に寄って、月曜には大工さんが修理に来るからと当人に話した。
 そのときもヘルパーをはじめ彼女の友人たちがちょうど何人か来ていて、変わらず元気そうであった。眼も良く見えず耳も遠いが、頭はしっかりしていて俳句の集まりを一人暮らしの自宅で続けていたりと百歳近いお年でも仲間たちに囲まれ慕われ支えられてお元気だったので間違いなく百歳は迎えられると誰もが思っていた。
 そう、気になっていたのは、我が開けたことで閉まらなくなってしまった台所のドアであり、暖冬とはいえ早く隙間風が入らぬよう処置しないと心配だと何か不安な気持ちがしていた。

 そしたら夕方電話で、母の知人の方から連絡くれと留守電があり、たぶんAさん宅に関係してのことだろうと予感はしたが、かけたらAさんが今朝がた急死したという知らせであった。まさに耳を疑った。そして悔いた。
 昨日の今日である。確かにいつ死んでもおかしくない高齢だったわけだけれど。

 今頃は、我が母と二人で、いやかつての仲間たち皆で、あの世で楽しく語り合っていることかと思う。
 そして今、我に残されたのは実の父だけとなったわけで、まさに彼もいつ死んでもおかしくない年齢なのだから、慈しみ大事にして向き合わねばと今さらながらAさんの突然の死、お別れを受けて思う。
 何歳であろうと関係ない。死は常に突然やってくる。そして全てが終わり色を失う。

地獄ではないが地獄に近しいと思えること・追記2018年12月01日 21時22分46秒

★壊れていく父はいつまで「人間性」を保てるのか

 今朝、父をショートステイに送り出し、今日は久々に一人でやっと落ち着いた心満ちた気分でいる。※といってもまた階下でトラさんが啼きだしたが。
 父は今週は月曜の夕刻からずっと家に居て、さすがに五泊もずっと介護しているとほんとうに気が休まらない。老犬トラさんの夜啼きと相まって、Wで交互に騒ぎ立てるので眠りがとれず睡眠不足は限界に達した。
 信号無視でまた切符切られるは、転んで膝をしたたか打ち付けるは、懐も身体も痛い目に遭い、何とかこの月末を終えられた。
 今日は昼に、近所の家系ラーメンのサービスデーで、無料のライスもたらふく食べて、久しぶりにとことんたっぷり食べたという満腹感を得た。
 父がいるときは、その世話に追われてゆっくり座って食事したことはない。常に作りながらか、つくった料理を立ったままつまんで、それで済ませるか後は、せんべいなど菓子類で小腹を満たすとかして、一日一食きちんと食べられるかどうかだ。
 夜は夜で、いつ犬や父に起こされるかわからないから、このところは服は着たままで、耳すませながら夜警の仕事の仮眠的浅い眠りしかとれない。
 まあ、それは母の死の前後もそうであったし、けっきょく「それから」以後、我には二度と心休まる、のんびりしたとことん解き放たれた気分のときは失くなってしまったということだろう。
 しかしそれでも今日の夕方、北からの強い風に吹かれながら、我家のケヤキの褪せた葉が、一気に散り落ちていく光景を眺めながら深い深呼吸して久方の解放感を味わえた。

 さて、呆け、つまり認知症が進んでますます手がかかるようになってきた我が父について、今さらながら日々新たな驚きと憂いがある。
 考えてみれば、我は90代半ばの人間と暮らしたことはなかったし、周りを見回しても親族も含めてそんな事例はどこにもない。
 我が母方の祖母は、百歳近くまで生きた人だったが、晩年は病院施設をたらい回しにされていたから、その娘や息子たち、つまり母の兄弟も共に生活して世話したのは八十代半ばまでではなかろうか。
 じっさいこんな歳まで我が父が生き永らえて、しかも共に我が家で生活し一人で面倒見ることになるとは、まったく想像すらしなかった。迅雷と言うのはまさに不可解で予想もつかないものだとつくづく思える。
 我のプランでは、認知症の父がまず先に逝き、元気な母と二人暮らしがある程度長く続くものと考えていた。まあ、母は父より五歳ほど年下だったし普通女の方が長生きなのが当たり前なのだから、我の予測はあながち甘いとか判断ミスとは言えないはずだろう。

 男同士、それまであまり仲の良くなかった親子が二人で暮らす大変さについてはいくらでも書けるが、それ以前に、このところ痛切に感じているのは、呆けの進行による人格崩壊とも呼べる異常行動である。
 昔は、認知症のことを、痴呆症とも呼んだ。つまり、呆けが進むと、やがては痴呆に、つまり何もわからないバカになってしまうと考えていたのである。
 しかし、それではあまりに差別的だとか、呆けても意思や感情はしっかりあるのだから、痴呆になるのではない、という認識・理解が進み、認知症なる表現が今では一般的になった。※「認知症」という名称では正しく状態を表していないと考えるのは我だけか。認知不能症なり、認知衰弱症というのが正しいのではないか。
 でも我に言わせれば、このところの父の言動は、何もわからない状態=痴呆どころか、訳の分からないことを言い騒ぐ=発狂してしまった「キチガイ」状態というのが正しいとさえ思える騒動をしでかしている。
 確かに、我が父の場合、九十半ばまで生きてしまうと、ろくに歩けないし何もできないし何もわからない、そしてろくに食べられないという、ほとんど何もできない、わからない状態である。
 それでおとなしく施設のベッドで寝た切りになってくれれば介護する側には手がかからず大いに楽である。そしてそのままさらに衰弱してすべての機能が低下して死を迎える。
 まあ、それが普通の道筋で事故や急性の病以外、人は誰もがそんな風にして緩慢に死を迎えて当たり前に死に至る。
 ところが父のように、その一歩手前で、キチガイになってしまうのはどうしてなのか。呆けるとはそんなアクティブなこともあるのであろうか。

 思うのだが、人間と人間性というのは別のものだ。生物としての「人間」は喜怒哀楽を持ち、思考し行動して自立して生きていく。
 だが、それは他の動物も程度の差はあれどほぼ同じで、感情は乏しくともただ生まれたからには精いっぱい幼少期意外はほぼ一人で生きてやがて老いて衰弱し一人で死んでいく。
 「人間性」とは、そうした動物としての人間が、真に人間として、人間らしくある姿、様式、資質だと考える。つまり社会性であり、言語を通しての共感性等、他者を認め理解し許し共に皆で助け合う感情である。
 我が父は元より若いころから、この社会的人間性が乏しいニンゲンであったのだけど、今はさらにその息子との関係でも人間性の欠落がひどくなってしまった。
 老いて衰弱して他の臓器は皆、機能低下し弛緩しその能力は落ちる一方なのに、脳だけは、まだ活発に活動中のようで、本当の「痴呆」には至らない。我が父の場合は、逆にこのところのように「誤作動」してしまい、ここは自分の家ではない、自分の家に帰らせてくれと騒ぎもするし、閉じ込められたとパニック起こすと、火事場の馬鹿力的突発行動に躊躇なく出るのだ。
 けっきょく、夢現の夢と現実の区別がわからなくなり、夢で見たことが現実になり、それに囚われ頭いっぱいにもなるのだろう。
 我々はまだ正常なニンゲンは、夢を見てもしばらくはそれが夢だと気づかなくともやがて今のは夢だったと、目覚めてからはこちら側、現実世界に戻って来る。
 父は今のところはまだ何とかこちら側に戻ってきているが、やがてはさらに向う側に行ってしまい、やがていつかはもう帰って来なくなるのではないか。
 怒りや不安、恐怖などの感情だけが最後まで残り、それで助けてくれとか、早く家に帰してくれ、家に帰りたいと、自宅にいても騒ぎまくる。
 完全に「正気」のときがなくなってしまえば、もう施設でも病院でも彼にとってどこでも同じのはずで、そのときがいつ来るのか、息子として日々覚悟を決めて対応していくしかない。

 老いの地獄とは、当人もだが、周りを巻き込んでいく。しかしそれが長生きした者の当然の報いなのだと思える。そう、良いことも悪いことも含めて。

地獄ではないが地獄に近しいと思えること2018年11月30日 08時39分32秒

★父のボケが悪化、老犬と交互に騒ぎ、ほとんど眠れず

 夢現、と書いて、ゆめうつつ、と読む。前回、拙ブログで、今週は父がやや長く家にいることを書いた。
 その理由も記したが、家にいると昼寝させてしまうのがいけないのか、眠り自体が浅くなるようで、まさに、ゆめうつつの状態が多くなってきてしまった。
 目覚めているときもぼうっとして反応乏しく意識朦朧のときもあるし、ならばと寝かしつけてこちらはほっと一息つき、我も仮眠とって身体休めていると、一時間もしないで起きてしまい、鍵かけた引き戸を激しく叩き、開けろ!!何で開かないんだ!!と怒って騒ぎ出す。
 とても眠っていられない。ドアの掛け金を引き違って無理やりこじ開けたこともあったし、昨日は、あろうことかまたユニットバスの窓から裸足で脱走して庭先で捕まえた。
 普段は杖着いてもよろよろ、何かに掴まってやっと歩く状態の人が、どうして杖もなしに、高さ80㎝はゆうにある窓から降り抜け出し我家の裏から狭い路地を通って表に出られるのか理解に苦しむが、これは二回目である。
 午後3時頃のことだ。昼飯摂らせて、我も寝不足で疲れたので本人も寝ると言うので愛猫抱いて寝かせたところだった。寝てから一時間しかたっていない。我は二階の自室でうつらうつらしてたら激しく父がドア叩いている音が聞こえる。また、開けろ、開けろ、と父が大声で騒いでいる。でも我はともかく眠い。
 まだ一時間しかたっていないじゃないか、としばらくほっておいた。そしたら静かになったが、何か不安な気がしてもう眠れず仕方なく階下に降りた。外に出てみたら父が泥だらけで裏から歩いて出て来たのである。驚いた。呆れ果てた。

 幸い昼間だったから良かったが、ケガもなく衣類が汚れた程度で済んだ。が、夜でもいつまたこうして危険な脱走を企てるかわからない。
 部屋に鍵がかかって出られないから出た、と暴れて怒り騒ぐ父を家の中に連れ戻し、着替えさせたら、父はしきりに「家に帰る!」「家に帰らせてくれ!!」と騒いでいる。手に負えない。ここが彼自らが建てた住み慣れた長年の自宅だとわからなくなっている。
 こちらも呆れ果て激高して、ならば、どうぞ帰ってくれ、勝手にしろ、と玄関まで連れて行き、もう好き勝手に気が済むまで徘徊させようと考えた。
 ああ、そうすると父は言い、靴はいたものの、ポケットとか探して、ワシのメガネがない、と今度は騒ぐ。で、とってくると言って部屋に戻り居間の棚をあちこち探している。
 しかし、父はもうこの何十年もメガネなどかけていないのである。もう新聞や本など読まないし、もともと老眼鏡は持っていない。若い頃、車の免許取るのに近眼だったのでメガネをかけていた記憶があるが、高齢の今は何故かメガネ無しでも生活には何も支障がなく父のメガネなどどこにもないのである。なのに、ワシのメガネがない!とあちこち探しまくっている。いくら元々持っていないし、かけてないじゃないか、と言っても聴く耳持たない。自分の家に帰るのが、今度はメガネがない、に変わって騒いでいる。

 ついに発狂したかとさえ思い怖くさえなって、どうしたら良いか相談先をあれこれ考えた。いちばん良いのはこのまま父が目指す、もう一つ別の自宅、として、今利用している介護施設に連れて行き、そのままずっと預けてしまうのが一番楽だが、利用日でもなく今すぐ急に連れて行っても空きはないので即追い返されるだろう。
 父も知っている母の懇意にしていた一人暮らしの婆さんがまだ健在で近所にいることを思い出し、その人のところに連れて行き、話でもしてくれればこの状態は鎮まるかと思って電話したが、やはりデイサービスにでも行ってるのか不在である。
 仕方なく、担当のケアマネに連絡して状況を訴えた。彼も当然甲高い叫び声上げて驚いている。
 
 ケアマネはともかく父をなだめて興奮を鎮めようとしたのだが、電話で話していると父は、「息子が私を追い出そうとしているんですよう、何とかしてください。助けてくれ~」と、「自宅」に帰る話は息子に対する不満へ変わってきてしまった。
 
 しばらくケアマネ氏と電話で話しても父の興奮は収まらないし話は支離滅裂なので、結局彼がこれからこちらに伺うと言ってくれたが、父としては、「自分の家に帰りたい、お前(息子)がワシを連れていけ!」と言ってたので、ウチにいるよりともかく一度車に乗せて外に出すことにして、ケアマネが今いる、東中神駅近くのケアプランセンターへ直に父を連れて行って話してもらうことにした。
 もう夕刻4時過ぎであったかと思うが、隣接する訪問看護ステーションの馴染みの看護師もまだそこにいて、声かけられたものの父はぼうっとしてそこはどこか、誰かまったく理解できない。
 車椅子に乗せられ、二階の小部屋でケアマネ氏と対面したが、もう何年もお世話になり毎月数回は会う人なのに誰だかわからないと言う。
 興奮は収まったが、ただ眠そうな顔で目にも光がなく反応も乏しい。
 が、我が今回の状況、経緯を話し父の奇矯な行動について説明していたら、しだいに彼の脳内の回路が繋がったようで、自分でユニットバスの窓から抜け出したことも思い出してきた。
 で、何でそんなことをしたんだろう、と自問自答して、何で部屋に鍵かけられていたのか、こちら側の説明にも納得して、ワシは半呆けだからバカなことをしてしまった、と言い出した。
 そして最後は来たときとは打って変わって、皆にどうもすみません、お騒がせしてご迷惑おかけしましたと頭下げる始末。
 ケアマネも我もやれやれとほっとしたが、ともかくひと騒動しでかしたが、またいちおうは「戻った」のである。そうキチガイから元の「ニンゲン」の側に。
 家に帰り、夕食を食べた頃の父は、今日の出来事はもう反省したとか、部屋に鍵かかっていても騒がない、息子が開けるまで待ってるとか、閉じ込められても勝手に風呂場から抜け出さないと「約束」してくれた。
 それでも夜寝る頃には眠そうなぼうっとした顔になって来たので、もう今日のことは忘れたな、と想像できた。それでもとも書くいつも通り自室のベッドで愛猫と共に寝かせて鍵かけた。

 が、また翌朝、我がまだ眠ってるとき、朝にはなっていたが、午前7時頃、激しく戸を叩く音がして、父は「開けろ!!開けろ!!」と騒いでいる声で起こされた。
 睡眠不足で遺体頭抱えて下に降りて戸を開けると、父は、「今日は旅行に行く日じゃなかったか」と興奮している。訊けば、旅行に行くので早く起きたのだと言う。
 今日もどこにも出かけやしない、午後訪問看護士のお姉さんが来るだけだ、と諭してだから安心してもう少しこちらが起こすまで寝ろ、と再び寝かしつけた。
 そしてそれからはもうこちらも眠れず、その顛末を書いた次第。

 思い起こせば、母の最期の頃も同様であった。のときもかなりしんどく睡眠不足でフラフラでもう体力気力の限界だと母にこぼしてしまった。今もそのことを悔やむ。
 そのときも生きながらの「地獄」だと思ったが、過ぎてしまえば、それは地獄でも何でもなかった。つまりその先が見えない「今」だからこそ、苦しく不安で地獄だと人は思うのだと今はわかる。
 地獄に近しいことはこれからもいくらでもあるし起こるだろう。しかし、それは近しいと思えるだけで地獄ではない。それは聖書の中の金持ちと乞食の喩え話のように、死後のことだ。
 カルロス・ゴーンにその覚悟はあるか。

青息吐息でやっとまたここから2018年11月28日 21時59分58秒

★老犬と老人いよいよ待ったなし

 11月も終わりとなったが、春めいた暖かい晩である。
 日中も小春日和で、日向にいると汗ばむほどの陽気だった。なにはともあれ暖かいのは楽で助かる。

 久々のブログである。この25,26の日~月、一仕事と移動させるものもあって笠間から社員氏を招き、一泊二日でまた山梨へ行ってきた。ちょうど紅葉盛りで良い時節であった。
 が、連れていった老犬の体調が悪く、起きている間はひっきりなしに鳴いて騒ぎ、その出かける日の夜もだったが、その二日間ほとんど眠れず睡眠不足で頭痛に苦しみ、我まで体調崩して咳の発作が出、寝込んでしまった。向うでもそんなで疲れ果てて何もできず、荷物だけ下ろしたもののいったい何しに行ったのか無駄に時間と金を使ってしまった。
 おまけに帰ってきた月曜夕刻から父もショートステイから戻って来て、今週は訳あって金曜までずっと家にいる。

 父もますます衰弱が激しくほとんど歩けなくなってしまい、食事の世話も含め介助の度が増して我、息子はもうフラフラである。
 そう、ずっとこのまま施設に預けてしまえば良いわけだが、先のような卑劣な抜き打ち的行政のやり口には断固与しないと誓ったこともあり、今月末は利用料の調整もかねて、通常のお泊り期間をいったんキャンセルしたので連日家に居るのである。
 そう、情けない話、フルに介護施設を利用してしまうと、二か所合わせると介護保保険料、食事代金も含めた利用代金だけで10万近く録られてしまい、父の乏しい年金枠を考えると利用を控えるしかないのが現実なのだ。

 我もろくに働いていないこともいけないのだが、母が死んで以降、ずっと赤字家計が続いていて、我のなけなしの貯金もほぼ尽きてきて、もうこのままではとても生活自体が成り立たなくなってきた。
 不仲の妹に懇願して生活支援のため援助の金送ってもらうのも先の一件があってからもう御免だという気持ちもあって、あとはいかに今ある金、入って来る金の枠の中でどうやりくりするか、いかに出費を削るかが問われている。
 どこそこの某ゴーン氏のように、毎年10億円も収入がありながら、さらに別に10億円も隠すような身分になりたいとは思わないが、せめて父の介護で疲弊しているのにさらに金の支払いで日々頭痛める事態から脱却できる状況になれないものか。いちがいに政治が悪いとは言えない不徳の者としても、この介護の現実、日本国のシステムは真っ当だとは思えない。

 工場や農業、そして介護現場等あちこちで人手不足だとしても場当たり的に外国人労働者を単純労働者として入国させようというのはどう考えてもおかしい。これはかつて米国が黒人奴隷を強制的にアフリカから連れて来たのと同様、その先のことまで考えないとやがてこの国の根幹、人種構成さえ揺るがす事態になるのでないか。きちんした受け入れ態勢ができず審議で示すこともできないまま、後から考えていくと言って外国人労働者を安易に受け容れるのは右翼的愛国者の皆さんはどうお考えか訊いてみたいと思う。
 それでも安倍自公政権を右派・タカ派論壇の方々は支持支援していくのであろうか。日本と日本人とは何かということが今いちばん問われているのに、彼らはあまりにも鈍感ではないか。
 北方領土二島返還も含めて、今の自民党安倍内閣は真に売国奴だと国民は声を上げて然るべきだ。

 さておき、すべてに終わりが見えて来て、あと少しと思えども、それがいったいどこまで続くのか、この先が見えないのが辛い。
 父も犬も衰弱と呆けが甚だしい。が、どちらもカンタンに保健所なり病院施設に投げ込んでしまえ、とできないところに人生の苦難と試練、まさに艱難辛苦がある。
 我は日日、忍耐と寛容さが試されている。そう、神様、我をこれ以上試みにあわすなかれ、という気持ちである。その先がいつくるのか、だ。

青い空の日、祝日の朝に2018年11月23日 09時28分25秒

★昨日は徒労に終わったけれど

 まっそんな日もある。
 昨日、22日は、夕刻から国立の画廊で開催中のシバこと三橋乙椰氏の作陶展へ行った。夜はライブもある日で、それは予約してなかったので観れなくても仕方ないと思っていたが、ともかくシバに久しぶりに会う目的と、そのライブに共演される人たちと「出演交渉」できたらという思惑もあった。
 出かける予定がある日は、我は何か気もそぞろで落ち着いて何か作業できない。昨日も体調ももう一つのところに、久しぶりに人の集まるところに出向くのでそれなりに気持ちに活入れて出かける準備もせねばならず、シバに渡す差し入れ的お土産なども購がって5時頃慌てて家を出た。
 画廊である民家に着いたのは、6時前であったか。ライブ前の混雑を予想していたが、中に上がると先客の女性二人組がいるだけで閑散としている。
 オーナーの十松氏に訊くと、シバは体調崩して今日は来れなかった。それでライブも昨日中止を決めたという。
 フェイスブックでその旨通知してあったはずなのだが、我も数日前の彼のは、ざっとチェックして、体調悪いことは書いてあったので心配していたけれど、出かけに直近のそれは確認していなかった。我が悪いのである。まったく毎度ながら迂闊であった。
 が、ともあれまあ、久しぶりにその作品群はゆっくり見れたし、病気という不測の事態は誰にでも起こる事なのだから、仕方ない。彼としてもさぞや心残りかと思う。ともかく安静にして早く治られることを祈るしかない。

 けっきょく、一ツ橋大の前の谷保まで続く大通りを約30分近くとぼとぼ歩いて、かけこみ亭に行き、ぼけさんに先日山梨で買ってきて漬けたばかりの野沢菜を差し入れて彼も開店の準備で忙しいようだったので長居せずすぐに帰宅した。
 何もしなかったのにひどく疲れを感じて晩飯もそこそこに犬猫たちに餌だけやって早く寝てしまった。毎度のこと老犬トラさんには何度も起こされたが。

 まあ、こんな日もある。今朝は朝からカラッと爽やかに晴れた。シバが早く元気になってくれるよう晴れ渡った青い空に祈るだけだ。

マス坊の「夢十夜」その12018年11月21日 21時17分56秒

★夢は我に何を伝えているのか

 情けない話、風邪は相変わらず、というか峠を越してもいない。
 薬飲んでいるのと歳とったせいか幸い高い熱は出ないが、鼻水は流れっ放しで咳と喉に絡む淡も出続けて喉が痛く息苦しい。そう、生来気管支が弱い我は、一度風邪ひくと咳が残り、それが風邪のあとも続き咳の発作が止まらず面倒なことになる。

 背中の筋肉や関節の痛いのはだいぶ楽になったけれど、ともかく喉が痛く息が苦しくて困惑するばかりだ。父は昨日からまた施設に預けたので、伝染さずに済み老犬が騒がない限り自分のペースで身体は休めるのは幸いだが、まだ今回の風邪は先が見えなくまいってる。
 何とか明日は、今開催中の、国立の古民家ギャラリーでのシバの陶芸展に行けたらと考えているのだが・・・
 今日も午前中、出掛ける用事を終えてから、午後早くから夕方四時ごろまで約三時間深く泥のように眠ってしまった。

 身体は休める時に少しでも横になるのがこのところの習慣だが、午後3時間も本格的に爆睡すると常に毎回様々な夢を見る。ときに寝疲れるほどのときもあるが、このところの我の唯一の楽しみというか息抜きは、この午睡のときであり、夜も寝ているのだが、午前一時か零時頃に寝たとしても老犬が不定期に明け方3時~4時前、6時頃啼き騒いで起こされるのでおちおち長く深く眠れない。
 このところ朝はそんなで早朝、陽が上る前から起きているので、昼寝で仮眠補わないまま一日たつと、夕方になると身体は怠くしんどくなって気がささくれ立って頭痛がして辛くなる。
 父が家にいる時はその昼寝さえもままならないし、できても一時間足らずとなるが、今は、午後昼寝にたっぷり「専念」できる。そんなで今日見た夢ではないけれど、どうしても記しておきたい夢も見たので、漱石先生の連作『夢十夜』よろしく、その都度このブログに載せておくことにした。

 夢というのは不思議なもので、当人が意識してなくとも、その人の内面の悩みや不安、欲望などがカタチを変えて「物語」として登場して来る。
 浅い夢の時は、まさに夢か現か、というように、現実の延長的に、樹にかかること、考えていることが眠りながらも続いていて夢としての飛躍も面白さもない。現実と変わりない夢ならば疲れるばかりでそれこそ寝た気がしない。
 良い夢が見たいというのはおこがましいが、手に汗握るアクション映画のようなものでなくとも、楽しい愉快な人を癒すような効果がある夢を見たいと願う。
 むろん夢に母とか亡き人たちが出て来て、一緒に楽しい時を過ごした後に、それが夢だと目覚めてから知って哀しく涙したことも何度もあったけれど、夢で逢えたら、という名曲のタイトルの如く、夢という別世界、アナザーワールドでも再び会えるのは幸福なことなのである。
 夢とは虚しく儚い、無意味なものだとは我は考えない。夢こそがヒトを癒し楽しませ元気づけ、そしてさまざまな示唆に富み、現実を動かしていく礎となるものだと思える。
 ※じっさい亡き最愛の母と夢でいつでも会えるのならば、我はもうこの現実世界には全く価値も関心も持たない。ただひたすら眠り続けて死んでいきたいと願う。

 あの世とか霊界があるかはともかく、夢の世界はその入り口に近しいようにおもえるときが多々あるがどうであろうか。
 夢は基本、常にシュールでナンセンスなものである。バカバカしいと言ってもいい。が、フロイトではなくともそこに何らかの意味はあるはずだし、夢分析はせずともそれを目覚めてから考えて見た夢を反芻することこそが夢の楽しみ、有難さとだと思える。

 で先日こんな夢を見た。


 我が家は、先年建て替えて、というか、前からの古い家の骨組みは残して増改築して今の家に中も外見もすっかり変えた。
 が、夢の中では、何故か以前の、旧い家のままである。
 玄関は、ガラスの引き戸にコンクリートの上がり框、左手に便所、二階に上がる急傾斜の階段もすぐ目の前にあり、父の部屋も直で玄関からドアを開ければ入れるようになっている。
 
 父は自室のベッドで寝ているようで、家は昔のままでも状態は今現在らしい。もうかなり老いて我が1人で介護しているようだ。母も出てこないということは、時制は、家だけ旧くとも現在のようだ。
 そこに、父の友人たちがお見舞い?にやって来た。それが、何故か海援隊の三人なのである。あの武田鉄矢率いるフォークシンガーたちである。
 若い頃の彼らではなく、今現在の我が知る、直にもお会いしたことのある、それなりに年とった初老の姿の彼らが来た。
 が、見かけは海援隊の人たちではあるが、中身は違うらしく一般人であるようだ。我は、彼らを家に通し、いや、彼らはさっさと勝手に上がって父の部屋に入っていったらしく、来たことは知っていたが、直に言葉は一言も交わさなかった。つまりもう家に来ていたのである。
 で、父の寝室で枕元で何やら三人で話している。我はそのままにして同席はしなかった。
 考えてみれば、父には友人など一人もなく、ましてこうして見舞客などこれまでもこれからも来たためしがない。が、夢の中では何故か父に会いに、我が家に見かけは海援隊の人たちがやってきたのである。
 彼らは、父を囲んで、だいぶ様態が悪いようだなあ、熱もあるようだ。医者を呼ぼうかとかあれこれ話している。
 我は、玄関にいて、そんな声が聞こえてきても、今朝、熱を測ったときは、父は熱などなかったし、そんなことはあるもんか、大丈夫に違いないと騒ぎをよそに別の来客と応対していた。
 そう、玄関に、思いつめたような顔の女がいつの間にか立っていたのである。お久しぶりですと女は言う。
 
 知らない顔だが、向うは我のことを知っているらしく、いきなり我に向かって話し出した。
 あれから以前あなたの言ってたことがようやくわかりました。そのときはピンと来なかったのだけど、いろいろ思い当ることもあり、そのことを相談しに来たと言う。もう一度話したいと。
 我に、あなた、と言ったのか、それともマスダさん、と言ったのか失念したが、どうやらその女とはかつて関わりがあり、我は彼女に何かアドバイスめいたことを言ったことがあるらしい。しかし何のことかわからないし、そもそも名前どころかその顔を見ても誰だかちっとも思い出せない。
 そもそも我は、人の顔をろくに見れないし会ったとしてもよほど親しくならない限り人の顔など記憶に残らない。まして名前など憶えているはずもない。
 女のことを必死に思い出そうとするが思い出せず、しかし、誰でしたっけ、と問うのは失礼だと思い、相変わらずいつもの我らしく知ってるそぶりで曖昧な返答をするしかない。まじまじ見る顔は、まあまあ美人で好ましい顔立ちである。
 女の話だと、彼女は何か原稿だかレポートなどを書いて提出するのにそのことに気づいて思い出し、〆切も近いのでどうしても我ともう一度話さねば、と思いやって来たのだと言う。
 しかし一体この女に我は何を話したのか。

 元々我は身の程知らずにして、他人につい説教めいたことを口にする傾向がある。たぶん彼女とも以前どこかで何かの席に会い、つい話の流れで何か彼女の悩みか質問に進言かアドバイスしたのであろう。我ならやりかねない。それに違いない。そんな気もしてきた。
 しかしまさかその女が突然やってくるとは思わなかった。しかも何のことかわからないし彼女のことすら思い出せない。女は玄関の上がり框で思い詰めた顔で立ち尽くしている。どう返答したらよいものか。

 と、父の部屋へはいつの間にか海援隊が手配したらしく、看護婦を連れた往診の医師が白衣でやって来たらしくもう部屋にいるようだ。
 血圧が下がってきた!とか、騒いでいる。どうやら父は危篤状態に陥っているようだ。その声は聞こえるが、我はそらちはほったらかしにして玄関で知らない女を前にして返答に窮している。
 女はまだ何か訴えている。

 そこで市が街に流している午後4時のチャイムの音で我は目が覚めた。
 何故か耳には、子供たちの聖歌隊がうたう讃美歌が、♪聖なるかな、聖なるかな、というフレーズが残っていた。

★【データ】11月17日(土)の昼過ぎに見た夢。
※父を施設に10時頃送り出して、雑事片付けて、朝昼兼の食事して1時頃から、短時間眠るつもりで横になった。が、その前の市の福祉課職員とのトラブルの疲れと続いていた睡眠不足がどっと出て、起きねばと思いつつ、泥酔ならぬ泥のように眠る「泥睡」してしまい約三時間昼間なのにとことん深く眠ってしまった。
 そして他にも夢を見たのかもしれないが、午後4時に、市の広域放送のチャイムで起こされるまで見ていたのがこの夢である。目覚めた後は、不思議に落ち着いた静かな心持であった。