ご心配おかけしましたが2018年08月20日 21時46分23秒

★ギックリ腰は大事に至らず回復中。

 起こる事には全て意味や理由、原因があるとするならば、そこから対処法だけでなく、人は何かのメッセージや警告として受け取る事もできようし、そこで学ばねばならないのではないのか。
 ご心配おかけしたが、今回のギックリ腰、存外早く回復して、今もまだギクッと痛い時もあるけれど、ほぼ普通の生活に戻れるようになった。

 昨日の国立でのイベント、ならば多少無理してでも行けば良かったかと思う気もなくはないが、出かけずにできるだけ無理せず安静にしていたので早く治って来たとも思うし、やはり今回はそういう巡り合わせ、運だったのだと思うしかない。
 何も起こらなくて当たり前だとしても、もし行って不慮不測の事態が起きるかは、行けばの話であって、行かなかったから無事だったとしても行った場合はどうであるか、人生の分岐点は二つに一つであって、予想も判断もつかない。
 ただはっきりわかるのは、結果として今は無事で、回復に向かいつつあるということだけで、行った場合のことは、考えても仕方ない。

 もう何年前のことかはっきりしないが、ちょうどスカイツリーが出来た頃に、京都から詩の師匠、有馬敲氏が奥方共々東京に来られたことがあった。
 それは何だったか忘れたが詩人たちの何かの式だか集まりがあってのことで、我も師匠から呼ばれて都心まで出向いてお会いした。が、そのときもやはりギックリ腰の最中で、約束していたのでかなり無理してまさに青息吐息、四苦八苦の思いで行ったことを思い出す。
 電車とかに乗っている間はともかく、駅から自ら歩いてそのイベント会場の会館に向かったのだが、道のちょっとした段差でも痛めた腰に衝撃として伝わって来て、その都度痛みに声出して唸った記憶がある。
 青息吐息の我は有馬ご夫妻からも心配されて、いったい何しに行ったのか、苦しく恥ずかしかった記憶しかない。その後もかなり長引いたのではないか。

 たぶんそれが前回のときで、その後は、母の介護看病にかなり体力は奪われ心身疲弊したが、不思議にその間は腰痛、ギックリ腰などは今まで起こらないでいた。
 我としては、入手した古書の導引術という、中国伝来のヨガのような健康指南本を読んで、このところある程度は整体的な基礎体操、運動はやっていたので、もうギックリ腰は過去のものと考えていた。そう、もう自分には起こらないだろう、大丈夫だと。
 今、まずもって考えが甘かったことに恥じ入る。何であれ過信してはならなかったのだ。

 では、原因は何かと考えたとき、きっかけはまさに起こるべくしての不注意な体勢がいけなかった。中腰の不安定な状態で、無理して何かしようと力入れて腰に負担かけたことに尽きる。
 が、それ以外にも、季節の変わり目であったとか、涼しくなってきてやや風邪気味のようで体調も良くなかったということもある。
 またさらにそこに、今回は悪化させる要因も重なってしまった。

 ウチの近所、町内に、Oさんという犬猫好きの老婦人がいて、いろいろお世話になり、母の生きていた頃から親しくお付き合いしていた。
 一昨日の朝、その家の前を犬の散歩で通ったとき、溜まった本を引き取ってもらいたいから、段ボール箱を二つ持ってきてくれと声かけられ頼まれた。その話は前から伺っていたことだった。
 そして近くのスーパーから、梨の入っていた箱を二つ貰ってきて、O さんのところに置いてきた。夕方、またその家の前を通ったら、その箱二つに、本が詰められて軒下に出してあった。しかし、我はギックリ腰を起こした後のことである。

 今回のギックリ腰、やっちまったと思ったものの、その「導引術」で、痛みは残るものの、何とか普通に歩けるまで戻せていた。午後からはいったん仮眠とって横になり、体を休めたらだいぶ楽になっていた。
 で、そのOさんから引き取る古本の箱を見て、どうしたものかと考え迷った。腰の調子が悪いので、後にしてくれと言っても、既にもう庭先、軒下に出してあるし、いつまた雨が降るかわからない。それに明日は、国立へ行く用事もある。後回しにすると向うもヤキモキするだろうしいつまでもそのままにしておけない。隣近所の付き合いだからこそできるだけ早く用事は済ませるに越したことはない。

 腰の具合もありどうすべきかかなり迷いはしたが、梨の箱二つだけだから、自転車の荷台に載せれば何とかなるだろうと考えて、夕方、陽のあるうちに引き取りに行った。
 が、これがいけなかった。予想以上に本はしっかり詰め込まれたくさん入っていて、とても持ち上げられない。腰を痛めてなければ、重量挙げの要領で、まず屈んで両手でぐんと持ち上げて腰高にまでして運ぶのはさほど大変ではなかっただろう。
 が、その腰が痛くて痛くて力が入らず、とても持ち上げられない。仕方なく引きずって縁側のところまで持ってきて、テコの要領で、まず片側上げて、縁側の縁に片側乗せて持ち上げてそれでようやく抱え上げることができた。
 しかし、腰に力は全く入らず、激痛を覚えながら何とか自転車まで運び出し必死の力で荷台へ持ち上げて冷汗ならぬ脂汗流した。そして引いてウチの庭まで持ってきて、庭先の縁台の上に下ろして、もう一個の箱を取りに行った。
 二個目は一個目よりは少しだけ軽かったが、それでも運び出すのはまさに激痛を堪えて難行苦行の感があった。
 それまでは、腰の痛みは左側の後ろ側、尾てい骨の上だけで、片側だけだったのが、この梨箱の持ち上げ、運び出しで、腰の両側に広がってしまった。そしてそれから、しばらく横になって体を休めたものの、痛みは激しくまさに自力では立ち上がれぬほどにまで悪化して苦痛のあまり声上げて唸る程だった。
 
 その時点でようやく、もしかすると明日はこれでは出かけられないかもという気になった。ただ一晩寝れば収まるかとおもい、サロンパスのような冷やして熱をとるシップ薬を熱もって熱くなってる腰の後ろ側に何枚も貼った。
 しかし一夜明けても状況は改善されず、自力で立って歩くのもままならぬ。Oさんの古本を昨日の夕方運ばなければ、ここまで悪化しなかったと悔やんだが、まさに後の祭りであった。

 気になっていたイベントは、我が行かなくとも無事盛況に終わったようで何よりであった。せっかくの記念すべきその場に立ち会えず、何のお役にも立てなかったことは今も深く悔やまれるが、それもこれもいたしかたない。
 ギックリ腰がこのタイミングで起こり、さらにOさんから古本の引き取りも重なったのも偶然ではあるが、何かそこに人智の及ばぬ意味があるのかもしれない。
 無理押して行けばそれはそれで何とかなったのかもしれないが、またさらに悪化したことも考えられるし、やはりこれは今回は控えておけというメッセージなのだと思うべきかもしれない。
 
 60代が本格的に始まって数日もしないうちのギックリ腰という警告は、過信と無理はするなということは当然のこと、我に、何よりまず「健康」ということについて深く考えさせられるきっかけとなった。
 我は、このところ生か死かということは考えて、我は長生きできるか、逆に誰かのように意外に早く急死してしまうかということだけに思いを走らせていた。
 しかし、それよりももっと可能性が高いのは、こうして不測の病や不慮の事故などで、寝たきりとなることで、、即、死にはしないものの、半身不随になったり病の床に縛られるという事態であった。それは脳梗塞や心筋梗塞であり、病そのものは癒えてももう健常な生活は出来なくなるかもしれない。
 今までは一度も真に病気らしい病はしたこともなく、ケガも含めて入院したことなど一度もない我であったが、おそらくそのままで老年期を元気無事で過ごせるとは限らないのだとはたと思い至った。

 癌とかで、あっという間に死んでしまうのも辛いと思うが、それよりも一度倒れて、半身不随のまま一人では自由に何もできなくなって何年何十年も生かされる可能性もある。
 むろんあの偉大な子規居士のように、病の床に臥してもなお芸術活動、その表現を死ぬまで続けた人もいるだろうが、我にはその介護してくれる家族もいないのである。

 ならばこそ、できるだけ誰にも面倒かけぬよう、一人で生き一人でしっかり死ぬためにも、面倒な事態に至らぬよう常に自ら注意し自戒し覚悟を決めねばなるまい。
 恥ずかしい話、どうせ死ぬのだから死ねばオシマイだと高括ってもいた。が、すぐには死なずに身動きとれぬまま自らも周りも苦しみ苦労する状況だって多々有り得るのである。

 人は自死はともかく、死に方もその時も選べない。ならばこそ、我のような孤独な者こそ、とことん自己管理に徹せねばならないのではないか。むろんそのうえで、後は神のはからいに任せるだけだが。
 愚かな我にはそんなふうなメッセージしかまだ受け取れない。

ギックリ腰で立つことも歩くこともかなわず2018年08月19日 08時59分52秒

★報告 60代初のギックリ腰になってしまったこと

 手身近に。
 昨日の朝、父をショートステイのお泊りに送り出してから、庭の木々、プランターや鉢物に水をやろうとして、庭先に出しっぱなしにしていた括ってあった本の包みを濡れないよう運び出そうとしたとき。
 手前にも何かあったので、その本の包みを持ち上げて取り出すために、中腰で身を乗り出し左手を伸ばして持ち上げようとした途端、ギクッと腰の後ろ側に激痛が電気のように走った。

 あっ、と思ったときは既に遅く、久しぶりのギックリ腰をやった即わかった。この数年、すっかり影をひそめて自分では「卒業」したと思っていたのだが、まだこの「魔女の一撃」は現役であったのだ。
 それからできるだけ安静にして冷やしたりいろいろ整体的なことも自分でもやってみたのだが、夕方どうしてもまた腰を使うことがあって、それでまた悪化してもう自力で立つことも歩くこともできなくなってしまった。
 それでも室内で寝ている老犬が夜中に何度も啼き騒ぐので、仕方なくうんうん唸りながらその犬を連れ出しては近所を短く散歩させて、数時間寝て今起きてこれを記している。
 一晩寝ればい腰は治るかと期待したが、今もちょっと体ひねっても激痛が走るし咳するのも痛い。

 実は今日は、国立でお世話になった友人の70歳の誕生日記念ライブイベントがあり、何をさておき行って少しでも何か手伝う予定で何ヵ月前から予定に入れていた。が、これでは車で行くにしても向うで動くこともかなわない。何しろ立ち上がることもできず、立って歩き出しても痛みが走ると不意にその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまうのだ。今も何とかあちこち本の山に掴まり、それを崩しながらパソコンの前にやっとこさたどり着いた。
 父の体調様子見のこともあって、彼には今日行くことはきちんと伝えてはいなかったが、力になれず何とも申し訳なく思う。そして本格的に60代が始まったとたんのギックリ腰になるとは、何とも言えず不安を覚える。精神的鬱も辛いが、身体的痛みに動けず寝たきりもまた別の辛さがあることに気づく。

 今もともかく無理してでも国立へ行くべきか迷っているが、ここで無理すれば本当に寝たきりとなるかもしれないし、これもまた何かのメッセージなのかもしれない。今日は出かけず家にいろという警告なのかも。

 椅子に座って何とかここまで一気に書いたが、もう背中はピンピンに固くなっていて立ち上がる事すらできない。寝ても痛みが去るわけでないし逆に動かさないとますます固まってしまう。が、何しろ上半身の重さを腰が支えられないのだから横になるしかない。
 ただただ情けない。まあ、今日は父が不在だけが幸いだが。またもう少ししたら犬が、猫が騒ぐのでまた階段うんうん唸りながら降りて餌やったり世話しないとならない。 

 また報告いたします。ご心配おかけして申し訳ない。

秋風吹く2018年08月17日 23時43分34秒

★何とか今年の夏、記録的猛暑を乗り越えたられたか、と。

 一夜明けたら突然、季節は秋へと、急に涼しくなって驚かされた。
 他の地方はどうかわからないが、東京多摩地方は、朝から強い北西の風が吹いて、晴れてはいるものの気温は低く、空は青く高く雲もなく、突然今朝から季節は夏から秋へ移ったと感じた。北西の風はひんやりとして何とも気持ち良い。とてつもなく爽やかだ。あの辛い猛暑があったからこその快感、快楽であり、ご褒美に思える。

 むろんまた暑さはぶり返して、残暑厳しき日もあろうし、今日も暑かったですねえ、とテレビのキャスターたちも言うだろう。が、今はただ、我も父も犬猫たちも、辛く苦しい季節を今年も無事何とかかろうじて乗り越えられたのだと、ほっと安堵の気持ちで祝いたいと思う。

 父のこともだが、じっさい我も長く生きたなあと今さらにして感慨がわく。我と関わったものの先に逝ってしまった人たちのことが偲ばれる。
 親たち世代の人ならば、この我の歳を思えばまあそれも当然のことで、十分生きたのだから致し方ない。が、同世代、そしてもっと若く年下なのに病で不測の死をとげた人たちのことを思うと何故彼らは先に死に、我のような者がまさに「生産性がない」のに生きてるのか不思議に思える。

 もうあと10年もすれば、同世代でも死ぬ者が続出してくるだろう。我らの一つ上の世代、団塊の人たちもたぶん半分は死に絶えるのではないか。
 いや、我だってこの先10年、無事に生きてこうしてブログで与太書いているか定かではない。生きていれば10年なんてこれまでと同じようにあっという間だろうし、暑い夏も寒い冬もまた繰り返し来るだろう。 
 その都度、その季節ごと愚痴こぼし、あれこれブツブツ言いながらやり過ごしまだ生きていれば今度は70代に入っていく。
 しかしそんな先のことはもうどうでもいいし、もうあれこれ不安に思ったり心配はしない。ただ一日一日、生きていればこうして良い季節もまた廻り来るのだと信じ期待して日々生きていくだけだ。

 もう先のことも含めてあれこれ何も考えない。考えてどうにかできることだけ考えよう。ともかく一日一日、今日のような素晴らしい、過ごしやすい季節が来ると信じて辛く共大変でも人生を投げ出さず続けていくしかない。
 大変じゃない人生なんてないのだから大変に考えないことに尽きよう。今日のように猛暑を耐えて越えれば爽やかな秋風が吹く日もある。寒さの先には穏やかな春の陽射しもある。一喜一憂しないし期待も諦めもしない。ただ今日一日があるだけだ。

ウイ―ピング・ハープ妹尾氏を偲ぶ2018年08月14日 21時48分06秒

★ブルースハープといえば、妹尾隆一郎であった。

 ちょっと専門的なことに話は進む。関心のない方はご遠慮下さってかまわない。

 我、マス坊は、下手の横好きというべきか、昔からハーモニカという最小の楽器が好きで、今も様々な種類のそれを集めていることは先にも記したかと思う。
 今では、学校の音楽教育の場でも、ピアニカのような鍵盤タイプのハーモニカは使うことはあっても手で持って口で吹く、昔ながらのハーモニカは用いることはすくないと知って複雑な気持ちになったことも書いた。
 ただ、そうした昔ながらのとは違い、もっと小さな10穴のハーモニカは、ディランや拓郎、長渕、ゆず、ら、人気アーチストが今も頻繁に使っているので、ミュージシャン志望の若者たちには一定の需要はあるのだと聞いている。

 我もそうした10穴のそれ、テンホールズとか、ブルースハープと呼ばれるハーモニカは、メジャーもマイナーのも全て揃えて、このところはヤフオクで、複音ハーモニカにまで手を伸ばしたので今やそのコレクションはかなりのものとなった。
 しかしそもそもそうしたハーモニカなる楽器にきちんと向き合うきっかけとなったのは、一人の天才的ハーモニカ奏者を知ったことが大きい。
小学校で習うハーモニカとはまったく違う、ごく小さいブルースハープという世界の広さと深さを教えてくれたのは、「ウイ―ピング・ハープ・セノオ」氏であった。
 妹尾隆一郎と書いて、「せのお」と読む。彼こそが今も昔も日本のブルースハープの一人者で、彼のように泣かせるハーピストは我は他に知らない。

 今日、フォーク界のみならず日本のポピュラーソングシーンでは、ブルースハープ奏者というと、ありちゃんこと、松田幸一氏がまず筆頭格であろう。多くの教本も出しているだけでなくあちこちで講座も開かれて多くの教え子たちがいる。全く異論はないし素晴らしいテクニックである。
 私感だが、知る限り、日本のフォークシーン界隈でのハーモニカ名人と言えば、まずシバ、そしてヤスこと朝比奈逸人、松田幸一であろう。
 彼らはそれぞれがすぐれたシンガーであり、ソングライターであり、ハーモニカも達人であった。
 ※ちなみに、風太から昔聞いたはなしでは、確かありちゃんは、車で学校給食の牛乳配達するバイトしながら、運転中ずっとハーモニカを咥えて練習して上手くなったとのことだが、ほんまかいな、である。

 が、ちょっと彼らから離れて、真にブルースハーモニカだけの奏者として誰がいるかというと、日本のロック、ポップス界では、「ウイ―ピング・ハープ」妹尾隆一郎しかいなかった。むろん昔ながらのトレモロハーモニカやクロマチックハーモニカの世界ではそこにはそこの達人はいたと思う。我が知らないだけで。
 我は若いとき、彼のアルバムを偶然手に入れて、ほんとびっくらこいた。ちょうどその頃、本場のそれみたいな「本格派」ということがウエストロードブルースバンドが出て来て以来あちこちでとりざたされていたが、まさに彼のハーモニカは本格派であり、本物であった。日本人で、こんなふうにポール・パターフィールドみたいに吹ける人かいることに衝撃を受けた。
 
 以来、我の中では、ウイ―ピングハープ妹尾という名前は、ハーモニカの神様として、まさに別格として、永遠の憧れとなっている。そして、拙くとも我もまたハーモニカをステージで吹くときは、妹尾氏のことを常にどこか意識していたと思う。
 彼がすごいのはディランや拓郎のように、歌手が1人で演るとき、唄の合間にメロディを吹いて、うたのサポートに過ぎなかったハーモニカという小楽器を、きちんと独立した楽器として世に認めさせ確立したことであろう。ハーモニカとは、ただギター弾きながらホルダーに挟んでプカプカ吹くだけのものではない立派な独立した一つの楽器なのだと。

 正直に告白すると、あれこれ忙しさと雑事にかまけて近年ずっと妹尾氏のことは失念していた。
 が、昨日、ヤフオクで偶然、氏の教習DVDが格安で出ていて、ちょうど先に夢中になってレコードとか落札したときにクジひいて溜まっていたポイントもあったので、数百円で落札してみた。まだ届いていないが、懐かしい名前に心惹かれて、そういえば、憧れの妹尾氏は今どうしているかとネットで検索してみた。そしたらば・・・

 氏のホームページはすぐにヒットしたが、あろうことか彼は昨年の12月に急逝していたのだった。奥様と思われる方がコメントされていた。


妹尾隆一郎が、12月17日午後10時11分に旅立ちました。

あちらでのライブのお誘いを受けたのでしょうか。あまりにも急いで逝ってしまいました。

生前、Weeping Harp Senoh を応援して下さいまして心より感謝申し上げます。

2017年12月20日 妻 妹尾 菊江

                                 とあった。

 
 言葉もない。

 我は不思議に、突然あるミュージシャンが気になるときがあって、それであちこち調べてみると、たいていその方はつい少し前に亡くなられていることが多い。若林純夫さんもそうであったし、いつだって手遅れというか、ほんの少し遅れて常に間に合わない。
 今回もその訃報は知らなかったし、今こうして偶然ヤフオクでDVDを手に入れようとしてこの事実をやっと知ったのだ。
 お元気であれば、連絡とって、さこ大介さんたちに組ませて本格的ブルースナイトの企画も立てられたかと今にして思う。
 残念でならない。彼はさこさんと同い年ではないのか。天国であの唯一無比のハープを響かせて天使たちの度肝を抜いてやってくれ。
 ご冥福を祈る。Weeping Harp Senoh の魂よ、安らかれ。

https://sites.google.com/view/skikue/ 氏の公式サイト

本格的に60代のスタートを前にして2018年08月13日 21時26分24秒

★眠ってばかりはいられない。

 今日も日中は暑く、近隣の青梅や八王子では35℃~36℃と昼頃のテレビで報じられていたが、午後から曇り出したと思うとかなり強い本格的な雨が夕方まで降り続いた。
 八月も半ばとなり、このところウチの地方ではほぼ連日午後や夜雨が降り、おかげで昼間はともかく夜はだいぶ涼しくなってきた。
 先日は、なのに相変わらず裸同然のかっこうで、扇風機つけて眠っていたら風邪ひきそうになったことは記した。何だかんだ言っても記録的猛暑もここらで一段落しあとは少しづつ一雨ごとに季節は秋へと向かっていくのである。

 さて、翁長知事亡き後の沖縄のことや終戦記念日も近く、嫌でも戦争や基地のことについてあれこれ思う八月である。
 私ごとだが、自分の誕生日とされているのは、終戦記念日の翌日で、いよいよそれで我が六十代が本格的に始まっていく。
 しかし、母の死後、戸籍謄本をこまかく調べたりしたら、かねて聞かされていたこととずいぶん異なる「事実」もわかり、我の生まれた場所も聞いたところと違うし、そもそもその誕生日さえも正しいのか怪しくなってきた。
 父と母には結婚記念の写真もないし、わけあって式は挙げていないと言っていた。それでも戸籍上は夫婦となっているわけで、我は彼らの長男として記載されているが、何かそこに一本小説ネタになりそうな「いわく」がありそうなのである。
 まあ、それで何か新事実がわかったとしても我は我であることに変わりないし、呆けた父はときおり我の死んだ兄だか弟のことをうっかり口すべらすが、問い糾そうとは思わない。もう本当にどうでもいいのである。

 今思うのは、過去のことではなく、これから残りの人生のことだけで、残された人生、半分どころか、もう三分の二が過ぎてしまい、さあこれから一人でどう生きていくかということだけだ。
 むろんそれは平均寿命まで無事生きられたらの話であり、のみ亭の主人や高田渡のように、60代そこそこ、いや、渡は60にもならずに死んだのだから今日明日の死も大いに考えられる。
 まずは父を看取って、父を見送るまでは間違いなく生きているとは思うが、果たしてその先が我にあるのかそれは誰にもわからない。意外とあっけなく我も癌で、父の死後、後を追うようにあっという間に死んでしまうのかもしれない。それもまた神のはからいであるし、それが天命ならば受け容れるしかない。そういう定めの人生だったのだと。
 むろん死の宣告を受けたらば大いに取り乱し、大騒ぎするのは間違いないが、まあ、60年も無事に好き勝手に生きて来たのだからずいぶん恵まれた幸せな人生だったと思うしかない。

 このところ家に籠って自分の過去とただひたすらとことん向き合って、ようやく人生とは何か、どうすべきかわかってきた。フツーの人、多くの人は、賢いからたぶん親からの躾や自ら仕事や家庭を築くなかで学びつかんでいくことだと思うが、我のように野放図に、何も考えずに半世紀生きてやっとわかってきた。ようやくつかみかけてきた。
 繰り返しになるが、それは、当たり前のことを当たり前のようにして、ただやっていけば良い、ということだ。

 学校を出たならばどこでもいい就職して社会に出る。そして、気の合う人と出会ったら結婚し家庭を築く。そして子を産み育て上げ、ついでは自分たちの親の面倒を見て死に水をとる。
 そして時間と生活に余裕ができたら、夫婦水入らずで旅行とかして趣味やボランティア活動に精出し、動けなくなったら長患いせずに天に召されるという人生である。そうしたごくありふれた変わり映えしない当たり前の人生が送れたらどんなに良かったか。少なくとも金の心配は今みたいにしないで済んだに違いない。

 ところが我はそうした勤め人のごとく月並みな人生は最初からバカにして、自分の才能と運を過信し、学校にもろくに行かず定職にもつかず、結果結婚もせず何十年も遊びほうけていたのである。
 じっさい若い頃はそれでも何とかなったし、金よりも自由さえあれば他に何もいらなかった。さんざん好き勝手なことを思いつくまましてきて親たちにはずいぶん苦労と心配かけたと今にして気づく。

 大昔、URCレコード成立の立役者、バンジョープレイヤーの故岩井宏さんに「サラリーマンをバカにしちゃダメよ」という唄があったと記憶するが、まったくその通りだと思う。
 若いとき、聴いたときは辛気臭いことを唄ってるなあと思ったが、当時他の若手たちより年上で、元々堅気だった彼だからこそ、ヒッピーやフーテンに憧れる我々当時の若者(バカモノ)たちに対して、警句として唄ったのだと気づく。

 しかし時は戻せない。もう一度あの頃に、映画のように戻れたとしても、昔の我に意見しても聞く耳あるはずもないし、もし、やり直せたとしてもたぶんまた似たようなことをもっと本気でやるに違いない。絶対に堅気のサラリーマンになんてなれるはずもないしこんな人間ができるとは思えない。
 今ようやく60年生きて来て、人生とは何か、どうすべきかがようやくわかったのだから、人よりずいぶん時間がかかったけれど、それはそれで仕方ないし、良いのである。そしてこの先、もう人生の残りがないとしても、今やっとわかっただけでも良かったとおもうしかない。我の周りにはまだそのことに気づかないバカもいるのだから。

 このところブログもまた間が空いてしまった。書く気がないのではなく、書きたいことは多々あるが、書くからにはきちんと内容ある、読み手にとって少しは益になるようなことを書きたいと思い、短く近況などでお茶濁すことはやめにしたからだ。
 だから回数は少なくなるかもしれないが、これからも当たり前のことをきちんと丁寧に書いていきたいと思っている。関心ある方はどうかこれからもお付き合いください。

 それにこのところは雷が鳴ることが多く、落雷が怖くてパソコンの電源を落とすことが多い。そこに、やや涼しくなってきたこともあって、昨日は、猛暑の疲れが出たのか、寝坊したのに、昼食後、また夕方まで寝てしまった。
 そして今日も雨の音をききながら、午後の仮眠が本格化してしまい、夕方5時の市の報じるチャイムでやっと起きた。

 夢の中で、亡き母が我を呼んでる声が聞こえて、思わず寝ながら返事した記憶がある。そう、母のところへ行く日がいつなのかわからないが、その日まで、我が人生、残りの日を、一日一日きちんとスッキリと、当たり前のことをしていくだけだ。

オヤジらしいってわかるかい~これもまた「男らしさ」なのか2018年08月10日 11時53分30秒

★何であんなにエラソーかつ横柄・傲慢な物言いができるのか

 今秋予定している、かけこみ亭での「共謀」コンサートに、現在沖縄在住のながいよう氏をお招きすることが決定したと先に記した。
 そう、あのディランⅡのながいさんである。ディランⅡといえば、ディランの名曲「I shall be released」を、「男らしいってわかるかい」と超訳して唄い世に知らしめた関西の二人組だ。
 秋のライブでもたっぷりとディランⅡ時代のうたもご披露して頂けると期待しているし企画者ながら今から楽しみでならない。そう、まさに乞うご期待、である。
 
 さておき、このところ「男らしい」とか「男らしさ」についてよく考えることがある。
 今でもよく「女子力」という言葉はあちこちで見かけるが、「男子力」という言葉はついぞ見かけた記憶がない。
 「女子力」が高い女子とは、つまるところ炊事家事裁縫などがよくできて、昔でいう「良妻賢母」となれる人のことを指すのであろうか。しとやかで大人しく控えめで気がきく、とかそういうイメージがわいてくるがどうであろうか。少なくとも田中真紀子さんや小池都知事には「女子力」という言葉はあまり結びつかないから我の想像もあながち大外れではないかと思う。

 では、男子力ならぬ、「男らしい」ってことはどういう男を指すのであろうか。ケンカが強いとか、決断力がある、モノゴトに動じない、堂々としているとかいうイメージがある。そう、あの西郷どんのような。
 しかし、現実世界では、あまりそんな人はまずいないから、「男らしさ」はイメージとしては存在しても、「男らしい」人はなかなかいないように思える。よって、男子力が高いとか言う物言いは定着しないのかもしれない。
 まあ、ここまでは前説というか与太であって、あまり真剣に読まないでくれてかまわない。
 
 そう、ボクシング連盟の山根会長である。いや、会長は昨日辞任したそうだから前会長の山根氏である。何であんなにエラソーかつ横柄な傲岸不遜なもの言いができるのであろうか。いったい何様のつもりなのか。
 我はボクシングに限らずスポーツ全般が大嫌いで、いや、そもそも野球もサッカーもアメフトもスケートもまったく関心がなく、世の人たちが何であんなに夢中になって騒ぐのか不思議でならない人間である。
 ※プロレスだけは若い頃、力道山からずっと熱い思いがあったが、あれはそもそもスポーツではなく、肉体を使ったエンタメショーの一種であって言わばサーカスに近い。
 何であれ、自分でやるならまだしも、ただ観客としてサポーターとか称して応援に夢中になるのか理解できない。我の信念はどんなことでも自らやってみるに如くはない、のである。
 それはともかく、このところメディアを賑わしている山根氏、嫌でも我もその顔と発言を知り気になった。何でこんなに、人を人と思わぬほどエラソーなのか。いったいどんな人物なのか。よくこれでやってこれたと驚かされる。

 と、思い出したのは、先に、日大アメフト部が起こした不祥事のときも監督も理事長も含めて、みなこんな感じだったなあ、ということだ。大学側の関係者すべてが、記者会見の司会進行者までみんなエラソーであった。これはスポーツ界の人たちだからであろうか?
 確かにスポーツの世界とは、こうした指導者とされる上の人たちの存在は絶対的で、常にパワハラは指摘され選手や下部の人たちは口答えできないし唯唯諾諾従うしかないのだろう。スポーツだけに限らず軍隊、戦争にしろ勝ち負けの世界では、上司の命令は絶対的なのだと想像できる。ゆえに我はスポーツが嫌いなのだと気づくがそれはともかく。いわゆる体育会系の世界に身を長く置くとああいう「人を人と思わぬ」言動が身につくのであろうか。

 いや、政治の世界だって麻生太郎という、常に上から目線の、人を人と思わぬ非礼かつゴーマンな物言いの人がいるではないか。森元首相も同類であろう。そういえば石原慎太郎もそうであった。ただ彼の場合はもっと小心かつ卑劣なスタンスが見え隠れしていたが。
 ということは、こうした人種は決してスポーツの世界だけではないのである。じっさい身の回りを見ても中小企業の社長にもこんなタイプはいるし、さっこん話題の新語「パワハラ」や「セクハラ」をしでかすのもこの種の人たちなのである。
 そしてじっさい彼らはある程度偉い地位についているから、エラソーなのであって、その権力をカサに、選手や部下、下位の周囲のものに高圧的態度で接しときに怒鳴り叱りつけ侮蔑までするのである。
 他人の意見には一切耳を貸さないし、絶対反省しない。あくまでも俺が俺が、俺は常に正しいという唯我独尊、つまるところ、いわゆる「オヤジらしい」男なのである。
 思うに、これもまた「男らしい」ということではないか。いや、正しくは「男らしさ」のようなものだ。女でもごくたまにこうしたエラソーな人、件の「このハゲー‼」と秘書をなじったり暴力をふるって話題になった自民党議員もいたが、やはり「オヤジらしさ」は男の特権であろう。男らしいと言えなくもないのではないか。

 しかし、我もその性を受けて生まれた者として、山根会長のようなタイプの人には昔から虫唾が走るほど嫌悪感を覚える。同性として恥ずかしく思う。少なくとも我らの世代にはああいうエラソーな顔する「オヤジらしい」男は皆無だし、少し上の団塊の世代にもまずいないのではないか。
 よく考えてみれば、「オヤジらしい」人たちは皆かなりの年齢なのである。麻生太郎しかり、皆七十代から八十代なのである。戦後教育は受けたかもしれないが、少なくとも戦後生まれではない。
 ということは、その親たちは明治生まれという可能性も高く、ある意味ガチガチの封建的家庭に育ってきたのかもしれない。男は主人で、一番偉いと強圧的な父親を見て育ったのではないか。ゆえにそこで歪んだ男らしさ=人を人と思わない身勝手な物言い=オヤジらしさが生まれるのではないだろうか。

 「男らしいってわかるかい」の歌の中では、「ピエロや臆病者のことさ」、とうたっている。そう、じっさい男の方が女よりいざとなると臆病だったり決断力なかったり優柔不断なのである。
 男らしいにせよ、女らしいにせよ、それはあくまでも理想であって、男こそ女々しいし女こそ雄々しいのがじっさいのところで、性差による役割分担が生みだした幻想なのだと我は考えている。

 加川良の「教訓Ⅰ」では、戦争に行きたくない男らしくない男は、「女の腐ったの」として唄われ、「女の腐ったのでかまいませんよ」と自嘲しているが、ならば我もまた「女の腐った男」として、それは誇りに思いたい。「名誉男性」の某杉田議員よりマシではないか。

希望の星は落ちるとも~嗚呼!翁長知事死去!2018年08月08日 20時20分25秒

★何故に神はかくも民の願い「平和の意思」を踏みにじるのか

 怖れ案じていたことが起きた。台風情報をネットで観ようとパソコンのニュースサイトを開けたらばトップニュースで、翁長知事の訃報が飛び出した。まだ67歳。我らより少しだけ上の団塊の世代であったことに気づき驚く。
 それにしても何ともいたたまれない思いにかられる。膵臓がんを患われていたことは知っていたし、先の新基地承認撤回の記者会見の時の映像で、ずいぶん痩せていたのでやばいかもと心配していた。そして今日の日中のネット上の速報ニュースで「知事状態悪化、意識混濁」とのことで、これはもう危篤状態だと覚悟はしていた。そして、その数時間後、早くも死去の報となったのだ。
 癌による死を多く見て来てわかることは、げっそり痩せたらもうまずそこから回復は難しい。何としてもヒロジさんのように「奇跡の復活」を、と祈り願っていたのだけれども。

 それにしても・・・辺野古の新基地建設反対の希望の星として県民の期待を背負い華々しく登場した翁長氏がこんな形で去ることになるとは誰一人想像しなかっただろう。
 残念だが、この四年間、基地建設は阻止できたどころか、政府の強硬方針は反対する県民の声には一切耳を傾けず司法までも国側に加担する判決を下し、まさに建設は粛々と進み辺野古の海は土砂やブロックで埋められて反対運動もさらに弾圧され縮小を余儀なくされていった。

 このところ家に籠り、近年の広告チラシや届いた手紙類の整理にあけくれていたら、4年前、2014年11月の、日本平和委員会が出している『平和新聞』が出て来た。そこには大きく『沖縄の心と政府のたたかい』という見出しで、「大激戦!沖縄県知事選」と一面に翁長氏が出馬した県知事選が載っている。いま改めてそれを読み返してまだこの頃は沖縄には確かな希望の光があったなあと嘆息してしまう。
 この近年の沖縄の現実を克明に撮り続け優れたドキュメンタリー映画として内地に送り続けている三上智恵監督の『戦場ぬ止み』では、あの山城ヒロジさんたちゲート前座り込みの人たちが翁長氏当選確実の報に涙流して喜び踊りまくっていたことを思い出す。
 翁長氏とは、左右のイデオロギーを超えて、「平和」というごく当たり前のことを当たり前のこととして語り行動していった稀有な政治家であったと思う。

 けっきょく、我は、この四年、母の看護と死後の始末、さらに母を喪ってしまったことからのPTSDに囚われて沖縄の「闘争」には何も一切関われなかった。せいぜいカンパや署名程度しかできなかった。
 振り返って同じ米軍基地に苦しむ同志として情けなく恥ずかしく思う。
そして、今さらながらだが、闘いはここからだと、拳を握りしめくちびるを噛みしめている。翁長氏の代わりはいないからこそ、その思いを継いでいくためにも。

 以下、その四年前の平和新聞の記事から転載する。

 「今朝、摩文仁の魂魄の塔に手を合わせた。(戦争で)多くの方が無念さを思いながら亡くなっていった。政治の原点は平和だ。私は保守だが沖縄の保守だ。日米安保に理解は示すが、0.6%の沖縄に74%の基地を押し付ける理不尽は絶対に許せない。辺野古への新基地はありとあらゆる手段で造らせない。政治家はぶれたが、県民はぶれていないということを選挙でしっかり示そう」10月30日、告示日の出陣式で翁長雄志那覇市長は、こう訴えました。《略》
 そして・・・11月5日の「うまんちゅ1万人集会」では、
 「今日は自ら押しかけて来た」という俳優の菅原文太さんは「安倍政権は戦争を前提に沖縄を考えている。仲井真知事は最も危険な政権と手を結んでしまった。辺野古の海は国家のものではない。勝手に外国に売り渡さないでくれ」と訴えました。
 翁長氏に出馬要請したために自民党を除名された那覇市議会新風会の金城徹会長は、「保革対決じゃない、沖縄の心と政府の闘いに勝利しよう!」と呼びかけました。

 病をおして翁長氏支持を訴えるため沖縄入りした菅原文太もこの直後に亡くなり、もうこの世にいない。政府安倍政権は、国家権力という人的金的圧倒的物流と権限を最大限に用いて先だっては名護市長選も米軍普天間飛行場移設計画を事実上容認する自公推薦候補が現職の稲嶺氏を落としてしまった。
 世界は、中でも沖縄を取り巻く状況は何も変わっていないどころかますます悪くなっているように見える。国政選挙でオール沖縄の基地反対派が何度勝利しても沖縄の民意は政権にまったく届かない。
 そしてついに反対運動のシンボルとも呼べる県知事氏翁長氏も倒れて亡くなってしまったのだ。
 神はどこまで沖縄に苦難と試練を与えるのであろうか。かの地の民に何故これほど災いが起こるのか。安倍政権のやっていること、目指す世界を神は認め支持するのか。

 いや、だからこそ新基地建設が進んでいく今でも今からこそ、我らも沖縄の心、それは「平和を愛する心」、を共有して、民意を無視して憲法を守らない極悪非道の安倍政権との闘いを続けて行かねばならないはずだ。
 戦争という「悪」がそこにある。それをみすみす見逃し見過ごすことは人として絶対に許してはならない。たとえいくら札束を積まれても、命こそ宝なのだから。

それは、趣味嗜好か障害か、体質か2018年08月05日 11時02分53秒

★記録的猛暑が続く辛く厳しい夏に思う

 八月に入っても日中の焼けつくような陽射しと夜間も寝苦しい暑さが続く。今年、2018年の夏は、誰にとっても辛く厳しい夏に違いない。そう、世界中のどこでも誰にでも。

 同性愛者にせよ、障害者にせよ、それは多数者の世界の、フツーの人たちから見れば、マイノリティであり「異常」に見れるのであろう。
 このところ繰り返し批判されている自民党の杉田議員の寄稿文やこれまでの発言もつまるところ、ニンゲンの価値を、生産性の有無だけで測り、子を産むという「生産性」がなければ無価値だと考える「独善性」、身勝手さから来ている。そうしたトンデモナイ発言を支持したり共感する人たちも少なからずいるだろうし、それが「正義」だと信じる者もいることは想像に難くない。
 身近にも、男が男を好きになるなんてキモチ悪い、信じられない、想像もできないという声をよく聞く。そうそれはそれである意味当然でそう考えるのはまったく自由なのである。

 と、同時に、だからといって、そうした当事者や支援者を批判したり貶めたりする権利はそこにはない。多数者が常に正しく少数者は間違っているという理屈は成り立たない。つまるところ性的嗜好の一つであって、人それぞれ好きなタイプが違うように、男が男を、女が女を好きになり愛し合ったってそれはまったく自由でありその権利も保障されなくてはならない。※幼児性愛などはその範囲外なのは言うまでもない。何故なら、そこには一方的加害者としての嗜好しかないからだ。

 ところが、まあ昔から世界どこでもホモセクシャル、同性愛者というのは疎外どころか差別迫害されて、世間では異常な目で見られている。
 特にキリスト教社会では、ソドミーの語源となった、旧約聖書に出てくるソドムの市のごとく、同性愛が極まった町は、神の怒りにふれ硫黄の火で焼かれ滅びてしまうのである。よって迫害は、中世の魔女狩りからナチスドイツまで続き、優生思想のもと同性愛者は、ユダヤ人、ロマ、障害者、共産主義者と共に、捕えられては殺戮の対象となった。

 それがようやく戦後、そうした誤りは人類にとっての犯罪であり、人権意識の高まりと共に、人の価値は「生産性」だけで測ってはならないとようやく人々は思い至ったのである。人と人が愛し合うのは、年齢、性別を問わずとことん自由なのだ。
 ※男であれ女であれ、愛する人、愛しあう相手がいることは幸福なことなのだと我は心底羨ましく思う。この世で一番悲しく情けないのは愛されないことなのだから。

 が、今でも多数者の側から、特に政権を担う保守政党、ウヨク思想の側から、少数者の権利を認めない、批判どころか愚弄するような発言が繰り返し出てくる。
 先日もやはり自民党の男性議員が、「同性愛は趣味のようなもの」と口を滑らしたのがメディアで取り上げられていたがまさに噴飯ものである。

 我の性的嗜好や性自認はここでカミングアウトしないが、それが趣味ならばコトは楽なのである。趣味や嗜みならば、一時は夢中になったとしてもときが来れば辞めることもできよう。ホモにも軍隊の中でとか、同性のみの寮や寄宿舎の中ならば、同性間の性交渉はごく当たり前のように行われていること内外数々の文学作品やレポートに記されている。確かにそれは「趣味」の範囲で、ノーマルな環境に移れば「正常」に戻るのだろう。
 問題は、まさにどうしてもやむにやまれず、性対象が同性であったり、異性も同性もOKであったり、そもそも自らの性自認が生まれて来た性と異なるという、やっかいな人もいるのである。

 それはあえてそうしているとか、趣味嗜みではない。努力しても矯正しても治しようがなく、まさに「体質」でありその人の、いわば資質なのである。そしてあまり使いたくない言葉だが「障害」なのだ。
 ならばそれは理解できなくとも認めなくてはならないし、政治の世界の場こそ認めてほしいと願う。人の価値と権利は多寡ではかれないのだから。
 今日ではキリスト教でも万人平等という理念のもと、同性愛にも理解が示されている。そう、まさに汝の隣人を愛せ、なのである。逆に政治の世界、特にこの国の自民党安倍政治こそ、もっともそうした「理解」や世界の「常識」から遠いように思える。

 生産性がないとか、国民の税金を無駄に使っているという愚かな批判を口にするならば、政権を揺らし続けているモリカケ問題はどうなのか!安倍晋三記念小学校=森友学園建設には大幅な値引きという特別待遇を与え、総理の親友、加計氏の獣医大には不要不急でも特別認可をはからい、国民の税金を私物化流用している。
 まずはそうした税金の無駄遣いにこそ目を向けて、「真相」の疑惑解明ができないならば、安倍首相は最高責任者としてまず自ら責任をとって退陣すべきだと我は考える。

 人はみんな違ってみんな良いかはともかく、ことごとくみんなそれぞれ違っている。何が「まっとう」なのか簡単には語れないし決めてはならない。多様性の社会なのだからこそ、自らの正義を過信してはならない。

これからのこと、年内の予定2018年08月01日 23時53分33秒

★復活!「共謀」コンサートは、10月13日(土)@かけこみ亭

 8月に入った。異常な猛暑はいくぶん収まるかに思えたが、今日はまた暑さはぶり返し、夜になっても外はまだ30℃である。
 記録的に暑い夏はまだまだこれからも続くわけだが、夕方の陽射しは長く伸びてだいぶ秋めいて来た。もうあと一か月の辛抱だと自ら言い聞かせて実りを秋を誰もが無事に迎えたいと願う。

 というわけで、また諸々のこと、「再開」していくことにした。ただ、もう基本、すべてできるだけ縮小、減らしていく方針なので、もう何も求めないし増やさない、広げない、これ以上抱え込まない。
 何であれ新たに増やすことはもう考えていないし、それよりも今在るものを、物も人間関係も大事に慈しむようにして無駄なく活かしていきたい。

 そう、当たり前のことをまず当たり前にやっていくことだ。「当たり前のこと」とは、寝る前に歯を磨くようなごく当たり前のことである。
 そうした生活の基本、人としての基本を今さらながら徹底させて、何事も投げ出さずに、日々の生活の中で、ちょっとした手間と努力をしていく。それこそが人生のコツなのだとようやく60年も生きて、母を喪くしてようやくわかった。
 そしてその傍ら、自分のやるべきこと、やりたいことを手の内に収まる範囲でやっていく。

 昨年から何回か開催した、谷保かけこみ亭での「護憲と反戦平和のための『共謀』コンサート」も今秋から再開・復活させることにした。
 まずは、10月13日の土曜に、沖縄から元ディランⅡのながいようさんを招いて再開第一弾が決定した。
 他の出演者は、今確定した人たちだけ挙げると、五十嵐正史とソウルブラザーズ、館野公一他である。
 今回は、オープンマイク枠も設けて、できるだけ多く、アマプロ問わずコンサートに賛同する方、「共謀」したい方に出てもらいたいと思っている。まだ空いているので、唄に限らず、何か訴えたいこと、表現したいことがあればぜひお気軽にご参加頂きたい。
 また、ながいようさんは、その前日12日(金)、都下最西端・青梅のライブハウス「W・サルーン」でのワンマンコンサートも決まった。詳しくはまた当ブログなどでお知らせするが、それぞれ特色ある場で、「沖縄の今」を語り、しみじみとしたうたを紡いでくれるに違いない。

 ただそれ以外は、お手伝いとして参加するライブ企画はあるかもしれないが、他は今はまったく考えていない。まず自らの家事雑事、家のこと、父とのことを優先させて、かろうじて責任ある身として関わるのはこの二日だけとしたい。
 そして・・・拙宅無頼庵でのかつて年末恒例の『クリスマス謝恩ライブパーティ』を多くのミュージシャン、シンガーに呼びかけて今年こそ復活開催したいと強く思う。
 そのためにはとにもかくにも場所を作らねばならないわけで、そこに山積みとなっている紙ゴミ類・書類の片付け、分別処理と並行して、不要の本や雑誌、オーディオ機材は全部処分して、お客を招くスペースづくりに専念していく。
 それは今年も12月23日の天皇誕生日を予定している。たぶん今年でその「祝日」は最後となるのかもしれない。そうした意味でも平成最期のファイナルライブパーティを盛大に多くの方に来て頂きたいと願うしそのためにまず場所づくり、頑張らねばと誓う。

 そう、それはかなう、きっとできると信じて、がんばりたい。

7月の終わりに思うもろもろのこと・続き2018年07月31日 01時03分19秒

★特別な人生、特別な時間なんてどこにもないし、必要なかった。

 逆走颱風は過ぎ去り、以後このところ曇りがちのいくぶん涼しい日が続いて明日からは八月。どうやらまた猛暑がぶりかえすと天気予報士は言っている。
 考えてみれば八月はこれからで、まさにいよいよ夏本番なのである。が、心なしか日も短くなってきたからか朝夕はしのぎやすく、もう40℃なんて記録的暑さは来ないように思えるしそう期待するしかない。

 さておき、台風の後、幾日かやや涼しい日が続き暑さも一段落していた。が、我はバカだから、相変わらず裸同然のまま何もかけずに扇風機をつけたまま眠っていたら、夏風邪をひいてしまった。
 何か頭や喉が痛くて体調はすぐれない。父も施設に行って不在の日だったのでこれ幸いとひたすら一日葛根湯を飲んで眠り続けた。その日は晩飯も食べずともかく眠った。そして様々な夢を見た。

 旧知のフォークシンガーが何人か出て来て、何か一緒にあちこち行ったりしたりとりとめのない夢も見たが、最後の夢、明け方に見た夢ではまた母が出て来た。いや、正しくは母はもういなかった。
 その夢の最初のほうは憶えていない。そのときは母は元気に出て来ていたのかもしれないが、はっきり覚えているのは、どこか家族皆で出かけることになっていて、時間は迫っているのに母がいないのである。
 まったくどこへ行っちゃんたんだろう、と父とイライラしつつ帰って来るのを待っている。あちこち電話かけたりもしたかもしれない。
 が、最後になって、突然、夢の中なのに、母はもう死んでしましまったのだ!だからもう帰っては来ないのだ!とはたと気がついて愕然とし落胆する。
 そして映画のラストシーンのように、その夢の最後のカットは、生前母が寝ていた二段ベッドの下のほう、母が使ったままの空のベットのアップで終わるのである。
 かけ布団もかかっていて、母が起きて抜け出したまま、母の寝ていた跡がなまなましくそのまま残っている。が、中身はからっぽで母の姿はそこにない。

 今まで何度も繰り返し夢の中に母はいろんな姿で出て来て、夢の中では常に元気で死んではなかった。たいてい夢から覚めて、ああ、これは夢だったんだ、現実ではもう死んでしまってこの世にいないのだ、と気づき泣いたりもした。
 が、今まで一度でも夢の中では死んではいなかったし常にそのことに気づかないでいたのだ。しかし母はついに夢の中でも死んでしまった。たぶんもう出てくることはないだろう。
 ものすごく哀しい。とてつもなく辛い。が、我もまたあの世へ行けばまた必ず再会できると信じているし、母とのこと、死んでしまった人たちのことはもうここらで考えるのは終わりにしろという啓示かとも思う。

 そう、死んでしまった人たちのことより、今もまだ生きている人と、残り少ない日々をしっかり生きて行かねばならない。
 ずっと何ヵ月も引きこもって、過去と対峙し向き合っていたけれど、けっきょく慚愧の念ばかり肥大し悔恨の思いに押し潰されるばかりであった。
 ひたすら籠っていても誰も助けてくれないし誰も来ない。※いや、何人か心ある友人知人はわれを案じてメールくれたり集まりに誘ってくれたり、直に家に来てもくれたりもしたが、ろくに返事も応対も気分的にできなかったのだ。申し訳ないとしか言葉がない。
 つまるところ、森田療法的に言えば、何があろうと何であれ、人は普通の生活を続けるしかないのである。特別なことなど何もないし、人生の中に「ソノコト」だけに専念する特別な時間を作ってはならない。
 ただいつもどおりに、日々の生活の中で、それをやっていくしかない。しかし時間は限りがある。あれもこれもできるはずもない。ならば、もうこれからはできるだけ何もかも減らして、特に新たなことには一切手を広げずに、もうこれ以上絶対増やさずごくごくミニマムに、いま在るものだけで、やっていくしかない。そう、特別な人生なんてないのである。

 すべてスッキリシンプルに。基本もうこれ以上求めないし溜めない、増やさない、そのままにしない。人生も先が見え出した。ならば、人もモノも、「本当に良いもの」だけで、それも少しでかまわない。
 60年も生きて、そして母を喪くしてようやくわかった。

 すべてをもっと軽く、簡素にして、あらゆる無駄と失敗をなくしていこう。