この心細さをどうしたものか2016年08月24日 23時56分25秒

★妹は慌ただしく九州に帰った。

 我の妹は、一昨日夕方、ちょうど台風が関東に上陸した頃、予約していた飛行機が飛ばなかったため新幹線で実家に帰って来た。
 そして二泊して、今日の夕方、羽田から飛行機でまた嫁ぎ先へ、と言ってももう四半世紀以上住み慣れた大分に戻って行った。
 母の下の世話は、昼も夜も引き受けてくれたのは有難かったが、そのぶん我がのんびりできたかと言うと、さほどではない。
 昨日は1~2時間、昼寝することはできたけれど、妹もこの家の片付けや掃除、けんめいにやってはくれたのでずいぶんゴミ屋敷はすっきりはしたが、我も共にあれこれやって慌ただしく忙しかった。

 当初は、妹が来るなら彼女に全面的にお任せして、我は都心に出たり人と会ったりできるかと夢想していた。ぶらいあんずのメンバーとカラオケボックスで練習しようかとか考えて、そう連絡するつもりでいた。
 しかし、疲労は溜まっていたし、わずか二泊三日では我がのんびり休めるはずもなく、せめて十分に昼寝を貪るつもりでいたのに、それもろくにできなかった。
 ただ、血を分けた兄妹がそこにいてくれるのは心強く、大人になってからは疎遠気味であまり仲の良い関係ではなかったが、本当に来てくれて助かった気がしたし有難かった。

 そして、わずか数日の滞在でしかなかったのに、また我一人となり、老親二人と犬猫たちを抱えて、急に淋しく、いや、心細くなってしまった。我一人でやって行けるのだろうか。
 昨日は酒の勢いもあり、自らを鼓舞して元気のいいことを書いたが、今日は不安である。

 今日の昼食後、親子四人で揃うのはこれが最後だろうと前置きしたうえで、母のこれからのこと、つまりもう死期が迫ってきていることを当人に、父にも伝えた。
 母は特に驚きもショックを受けた様子はなかったし、認知症の父もどこまで事態をはっきりわかっているのか怪しかったが、とりあえず母の「死」に向かって、我家で成すべきことにスタートを切った。

 が、今は我は話したこと、やや後悔している。心身弱ってきている母にさらにダメージを与えてしまったのではないか。我の都合で、残酷なことをしてしまった。
 しかし様々な積み立ての金や、母にしろ父にしろ死後すぐにその手続きしたり名義を書き換えねばならないものもかなりあることが判明したことは良かった。ただ、ますますやるべきことは増えたわけで、死に行く母の介護をしつつ、我がどこまでそうした「手続き」作業も進められるのか全く自信がない。
 今までは「今」だけ見据えて向き合っていれば良かった。が、これからはその時のこと、死後のことまでも見据えて動いていかねばならない。こればかりはその時が来てから考えたりやれば良いというものではない。
 今さらながらもっと皆が元気で時間があるうちに、その時を見据えてやっておけば良かった。しかし、時間は戻せない。頑張るしかない。

 母には妹が三人もいる。我にとって叔母さんだ。だが、我が母のことを伝えると、大変だねえ~大丈夫?と心配し同情はしてくれるが、皆それぞれやはり老いて体調が悪かったり個々の諸事情で、ウチに手伝いに来て我を助けてくれるわけではない。
 皆それぞれ「我が事」で手いっぱいで大変なのだ。妹は妹で、向うの姑が体調悪く、家事は全部彼女がやっているので、実家の親たちの介護に出てくるのも二泊三日がやっとなのだった。皆それぞれ重荷を背負い大変なのだ。
 我が荷は我一人で背負うしかない。この心細さを抱えてともかくやっていくしかない。神は我に味方してくれるだろうか。

さあ、死ぬための準備を始めていこう2016年08月23日 23時34分03秒

★母の余命宣告一か月と告げられて。

 とことん泣いた。とことん飲んだ。そして今思い至ったことを記す。

 九州から我が妹は、昨日夕、予約していた飛行機は台風で欠航したため、新幹線で5時間かけて実家に帰って来た。向うの家のこともあり、二泊三日という短い帰省だけど、老親二人、その子である兄と妹、家族四人全員が揃って過ごせるのはおそらくこれが最後だと思う。
 我が願いは、まずは末期癌の母を、妹が来る22日までは何としてもこの家で、また再度入院とならないよう無事に介護しておくことだったので、その思いはかなった。まずそのことだけでも有難いことだと感謝せねばならない。

 が、昨日付けのブログで書いたように、子一人で親二人を抱え心身共に疲弊してしまい、さすがにもう限界近くとなって気持ちが倦み萎えてしまったことを告白してしまった。

 神は人が背負いきれないほどの荷を与えないとされている。つまり背負いきれないほどの苦難はなく、どんな艱難辛苦であろうとも相応の乗り切れるだけのものであるはずなのだ。
 が、我は、もう限界だと記した。そして、今日、急なカンファレンスというのか、医師とケアマネ、訪問看護士たちと我、看護する側を交えて、ウチで話し合いがあり、その席で、母の余命告知をはっきり聞かされた。あと一か月がそこらだと。

 それが正しい見積もりであるならば、まさに神は、我がへたばってきたからこそ、もう道の行く末はあと少しなのだと示されたのであろう。逆に、我が、まだまだ大丈夫だと余力を示していればまた違う告知もあったのかもしれない。まさに背負いきれない荷ではないのだと示されたのである。
 が、それが間違いなく正しいかはともかく、はっきりとあと一月の命だと期間を聞かされて、さすがに動揺した。しばらくは何も手につかず、どうしたら良いものか考えがまとまらなかった。母を妹に任せて、夕時に犬たちと散歩していても、涙がとめどなく溢れて、泣きながら歩くしかなかった。
 そしてアルコール飲んで、いったん寝ようかと思ったが、いくら飲んでも眠れず、今、夕飯を母のベッドのある部屋で、家族四人で囲んで、父を寝かせ、妹は母の隣の床でシュラフで寄り添って今晩も寝てくれるので、今晩の母の世話は妹に任せてこれを記している。

 
 今日の家族を交えての医師、介護者全員での面談は、我の妹が九州大分から来ていることもあり、今後の事をきちんと説明したいという、訪問診療に来てくれている医師の提案であった。
 その母の容態だが、相変わらず寝たきりの状態だが、意識はクリアで、食事もかなり減って来たが、口から自ら食べている。そして問題の昼夜問わず繰り返す軟便のほうは、このところ回数が減る傾向にあり、夜寝る前に出れば、そのまま朝まで出ずに一夜過ごすことができる日もあった。※以前は、深夜の2時半頃、さらに早朝と、紙パンツ交換に夜中も起こされて、我は断続的にしか眠れなかった。

 ただ、足だけでなく体全体のむくみ、浮腫は変わらないし、その原因となる栄養失調を改善するためにもしっかり食べねばならないのに、母は、どんな料理を出しても少し口付けてはすぐ、もうお腹いっぱい、食べられないと辞去してしまい我は心痛めていた。
 入院していたときも出される食事は半分程度しか食べられなかったが、家に戻ってきたら、さらに量は減ってしまった。贅沢とか口がこえてではないと思う。食べ始めても胃だかみぞおちが痛くなって苦しくてもうそれ以上食べられないのである。
 だからこのままでは、むくみが治らないだけでなく、絶対的に栄養が不足して、さらに痩せ衰えるしかなく、その先は死ぬしかないわけで何とか必死に食べさせようと日々献立に頭痛めていた。
 先にも書いたが、我の願いはまずは母に食べてもらい体力つけて、むくみもとれてくれば、またもう少し前の時点まで戻るのでは、であった。

 今さらながら書くが、我の信念は、病気は治るか治らないかでなく、治すか治さないかであり、その強い思いさえあれば、山が海に入ることすら可能であり、どんな病気も治るはずだと信じていた。聖書にはじっさい死人すらイエスは汝の信仰により生き返らせているのだから。

 が、現実として記せば、母の体調は数か月前、春の腸閉塞からバイパス手術の後の頃までは、だいぶ体力的に弱っては来てたものの、午前中は庭仕事など動きまわれていたのである。それが、入退院を繰り返すたびに衰えて来て、前回の発熱で入院で退院してきたときは、自らトイレには何とか無理してでも歩けて行けていたのに、今回再度入院~退院となってからは、もう完全に介護ベッドに寝たきりとなってしまった。
 昨日も妹が来たので夕食時に無理して母をベッドから抱き起して、居間のテーブル、掘りごたつのある部屋まで連れて来ても、虚血性失神気味で、真っ青になり荒い息を吐くだけでとても食事どころでない。しかもそこで座って失禁排便してしまう。現時点ではもはや短時間であろうとも体起こして何かすることは不可能だと思い知った。

 そして、今日、医師から妹と我に詳しい説明を受けた。要するに母はもはや末期癌で、腸が短くなっただけでなく、いくら食べても自ら栄養として吸収されない。逆に栄養は癌にとられてしまい、水分とってもむくみになるだけで、もはや病院としては処置なしだと。
 ただ、まだ幸い、肺は綺麗で呼吸もできているし、全体に低栄養、アルブミン、たんぱく質不足で、血が薄くなってむくみも激しく、腹に腹水も溜まってきているけれも特に状態は悪いわけではない。 
 しかし敗血症で、またいつ高熱が出るかわからないし、そのときは看護センターや往診診療も含めて連絡取り合って対処していく。

 そうしたことを母のベットの周りで話すわけもいかず、居間で、全員立ち話でとりあえずした。そしてこちら側の要望も伝え、我としては可能な限り、この家で、できれば最後まで母を置いておきたい。それは当人だけでなく家族全員の希望だと伝えた。
 妹は、九州で介護施設に務めていることもあり、多くの利用者を看取ってきているせいか、ごくドライで、もう私は母の死の覚悟も受け入れているし理解している。兄はまだ無理だろうが、としたうえで、余命はあとどのぐらいでしょうか、と我が怖くて聞けないことを医師に尋ねた。
 そして、私は直の担当医ではないけれど、と、このところ訪問診療で、往診に来てくれる男性医師は、専門ではないと断ったうえで、妹の問いに母の余命はあと一か月かそこらだと告げたのだ。

 医師たちが返った後も我が苦しく頭痛めたことは、このことを母当人にどう告げるべきかであった。
 むろん隠し通して、良くなるよ、頑張ってと余命を告げず、その日まで本当の事を知らさないという手もある。が、当人も或る程度は自分がもはや末期癌であり、状況は悪いことはわかっているはず。しかし、まだ「死」を受け入れるところまではいかず、今はこんなでもまた少しは良くなる、持ち直すと信じているようで、もう少し良くなったら、という「希望」の言葉がベッド上からもよく聞かされていた。
 だから、我が家では、母の死ということはまだタブーであった。母としては、自らよりも、認知症で骨折してろくに歩けない91歳の夫=我が父を案じて、父が死んだときについてあれこれ話してはいたが、母自身から「私が死んだら」という語句は出たことがなかった。
 その母に、どうこのことを告げるか。

 間もなく死ぬことを知らせないという選択もあろう。が、我としてはそんな卑怯なことはしたくないと今は思う。残酷でもきちんと告げたうえで、死ぬまでの期間に、やるべきこと、やりたいことをできるだけさせたうえで、その日を迎えさせたい。
 結果としてその方が心残りないのではないか。むろん、当人は死ぬときはおそらく何もわからず、無意志的に死んでいくのであろう。あれこれ思い残したこととか考える時間もないに違いない。
 ただ、母のような、長年活動的に生きて来て、社会性が広くある人だからこそ、その死は社会的にも意味を持つものだと考えたい。つまり、できるだけ母の友人知人、関わり合った人たち誰にでも悔いのない、死んでから思い残すことのないよう、双方がきちんと別れなり、連絡させたうえで死に臨ましたい。

 こんなことは子の、家族の勝手な願いであろうか。本人は何も知らずにただ希望を持ちながら死なせるほうが孝行であろうか。我にはまだわからない。
 が、明日、妹がいるうちに、できれば父も含めて場をもち、母にきちんと話して、そのうえで葬式も含めて母の意向を知りたいと思う。
 それが正しい選択か正直自身がない。しかし、我自身が母の立場であれば、やはり知りたいし、知ったうえでできること、すべきことを頑張ってやっていきたいと思うと信ずる。
 おかしな謂いだが、そのことが、「生きがい」にもなるのではないか。つまり、これとこれだけはきちんとしておかないことには、死ぬわけにはならないと、強い意志が働く場合もあろう。

 そしてこうも信ずる。母は絶対あと一か月なんかで死にはしない。我は死なせない。じっさいのところ、意識もしっかりしているのである。癌は肥大して、全身がしんどく肉体的には疲弊してきたとしても、これだけ気持ちがしっかりしている人がたったあと一か月で死ぬはずがない。
 人は体よりも最後は意識であり、魂なのだ。その魂がまだしっかりしているかぎり、医者がどう見放そうと、おいそれと人は死にはしない。

 ただ、いつ死ぬにせよ死ぬための準備はきちんとしておいてもらいたい。勝手な言い草だが、認知症の動けないが多動性妄想症の父を残して死なれたら我が困る。母のいない後のこともきちんと相談して決めてもらわないと、正直、我だけではどうしようもないし、何もわからない。
 母亡きあと、あんな男と親子でうまく暮らしていくための道筋を示してもらうまでは俺は母を絶対に死なせない。

 まずはあと一か月、とことんがんばる。我に生きがいが出来た。もう愚痴はこぼさない。

 これもまた神の愛、御心の計らいなのである。今そのことをつくづく感じている。有難いことだ。
 どうかこれをお読み頂いた皆様にも神のご加護がありますように。

介護にとことん倦み疲れてきて2016年08月22日 08時22分21秒

★この状況で、何ができるか、何をすべきか。

 ブログも更新できずに申し訳ない。母はまだ生きている。が、我自身疲れ果てて、正直なところ限界に達して来ている。愚痴ではなく現況を記す。

 母は、相変わらずベッド上の寝たきりの生活だが、意識もあり、食事も口から何とか摂れている。いろいろあって尿のバルーンは外された。ただ、昼夜を問わず突然出る大小の下の世話と、父も含めての彼らが好む、食べられるようにこしらえた食事の世話と、その後片付け、汚れ物の洗濯、そしてさらにまた別に手のかかる父の対応と、我は肉体的疲労よりも気持ちが疲弊してきてしまった。

 正直、全てがうんざりしてきて、またかと思い何事にもぞんざいに、投げやりになってきてしまっている。よく介護に疲れた人が、その診ている人の死を願うことがあると聞くように、身体の疲れ以前に精神的に参ってきている。
 おそらくすべてが終わったとき、どうしてもっと頑張れなかったのか、やってやれなかったのかと悔やむかと思うが、今はもう限界に達して来ている。

 今までは、親たちと共に暮らせること、そしてその世話ができること、子としての努めを果たしているのだからちっとも辛くないという「高揚感」、良い義務感と満足感があった。
 しかし、さすがにこうした現実が日常化してくると、睡眠不足や溜まりに溜まった疲労感もあるからだと思うが、どうにも気持ちが前向きにはもうなれない。
 自らの人生を百%失い、ただ日々家の事、家事と親たちの世話と介護に明け暮れてきてさすがに気持ちも倦み疲れてきた。
 つい父を怒鳴りつけ、母に愚痴をこぼしてしまう。気持ちは苛立ち、暴力的になっていく。ここが試練のどころだと思う。だが、そこを乗り切っても今は先が見えないのである。

 いつまでこうした状況が続くのか。むろん母には一日でも長く生きてほしいし、願わくば少しでも以前の暮らしに戻れるよう、せめて自ら体起こして少しでも歩いたり排便ができるようになってほしいと願う。
 そして父ももう少しは正気に戻り、手のかかる事態は減らしてもらいたいと思う。ただ、今のままでは我は母の介護だけで手いっぱいで父までどうすることもできない。ならば特養に入れるしかないかと真剣に考えるようになった。

 人生、起こることは全て良いことだと思うし、全てそこから学ぶべき価値はあると信ずる。が、我の現実を嘆く気はないが、ただ、先の見えない「今」を繰り返すことだけではなく、この現況下でも介護とは別の「希望」とオルタナティヴな日常をどうつくっていくかだと考える。
 むろんそんな時間は現実的には難しい。今はギター弾くことも音楽聴くことも何か月も完全に離れてしまった。
 しかし、今の現実とは別の、もう一つの我の成すべきことを少しでも進めない限り、おそらく早晩すべては崩壊していく。
 つまり我は限界に達してストレスで発狂するか、疲労のあまり脳梗塞か何か起こして倒れるかだろう。そしてこの家は全てが破滅していく。介護ヘルパーや訪問看護も日曜以外は毎日来てくれるが、我がかかえている「生活」の部分は一切手つかずなわけで、もう持ちこたえられなくなってきている。
 食べない料理を工夫して作って、なだめすかして親たちに食べさせて、結果残った料理を何度も火を通して、自ら無理してでもけんめいに片づけていく。そうした手間が正直いちばん面倒で辛い。
 このままなら間もなく破滅がやってくる。

 そうならないためにも、このピークをどうしたら乗り越えて新たな状況へと心身ともにうまく持っていくか、答えを出さないとならない。
 投げ出すことも、放棄することもできなくはない。つまり母はまた死ぬまで病院に預け、父は施設に入れてしまえば良い。我は一人で自由気ままに好き勝手にまた我が楽しみだけに生きられる。
 しかし、それで満足できるのか。いくら限界だとしても、その逃げた、放擲したという思いは生涯付いてまわり、我は苦しみ地獄の業火に焼かれる思いで余生を送ることとなろう。

 外は台風の豪雨が吹き荒れている。実は、あまりに慌ただしくて、テレビのニュースどころか、ラジオも母がオリンピックばかりで煩いと文句言うので、何一つニュースは見てなかった。また台風がすぐ近くに来ていることにようやく昨日の夜に知った。

 九州から妹が今日やってくることになっている。が、飛行機は欠航とのことで、午後の新幹線で来ると先ほどCメールが入っていた。
 妹を含めて家族が全員揃えば、今後の事を相談できる。

 この台風が過ぎれば季節も本格的な秋に移っていくかと思う。これからのこと、いったいどうしたらよいのか、まず何をどうすべきか、妹は短い滞在だが、母の介護しながら夜を明かして語り合いたい。

人の死に行き方考2016年08月19日 21時35分20秒

★こうして人は死んでいくのか!

 台風がまた来ているらしく、外は生暖かい風が吹いている。
 母はまだ生きている。

 このところ、下の母の部屋のベッドの脇に、簡易シュラフを敷いて、我はそこで夜は寝ている。万が一、様態が急変してもすぐに対応できるようにだ。※それもあってブログどころかパソコンにも向き合う時間がない。
 が、母に言わせると、息子を起こそうとすると、無意識的に、我は「辛くて起きられない、もう少し寝かしてくれ」と懇願するので、母は息子の眠りが一段落するまで、もらした便の紙パンツを抑えつつ、息子のレム睡眠の切りのいいところまで我慢しているのである。しかしそれでは横に寝ている意味がない。
 アマゾンで慌てて安いシュラフを購入してさっそく配達してもらったのだが、シュラフよりもマットですね。木の床にそのまま寝ていると、腰が痛くて安眠できず、ますます疲れが溜まって来る。

 母の容態、いちいち記すといらぬご心配おかけしてしまうので、躊躇うものがあるが、実は前回、もう熱が出ないことを祈るとか書いたとたん、毎度の発熱が起きて、また救急車で入院かという騒動が起きた。
 ただそのときは幸い、40度を超す高熱に至らず、38度台前後であったので、救急看護センターに連絡し指示を仰いだものの、熱もそんなに高く上がらなかったため、再度の入院は免れた。
 ただ、毎度のことだが、必ず夕刻時に、突然寒い寒い、布団かけてくれと言い出し、震えが出て、肩抱いて抱きしめてほしいと言うので、我は母に軽く圧し掛かり、肩をぎゅっと抱きしめて、大丈夫、大丈夫と声かけながら、その「発作」が収まるまで、我も汗びっしょりになりながらともかく寒気に震える母を抱きしめ、時間が過ぎるのをひたすら待つ。
 そして約30分かそこらすると、その高熱からの寒気は収まり荒い息も収まり、ひと段落する。そして熱を測り、看護師センターに電話したりする。
 今回は、それなら解熱剤を飲ませて、様子見て、再度熱が高くなったらば連絡することと、なって、幸い落ち着いたこともあり、再度の病院搬送は免れた。
 ※最初の時は、何と42度。それで即救急搬送で入院し、一週間も経たず二回目も40度近かったので、看護士を呼んだが、このままでは危険だといったん落ち着いた時点で我の車で母を運んで、また即入院となったのである。
 今回もこれでまたしても入院となれば要するにウチでは高熱が常に定期的に出るがゆえ、自宅看護は無理ということとであり、母は死ぬまで病院に診てもらうということになる。家族として、子として、何してもそれだけは避けたかった。わがままな願いだが、最後はこの家で見送りたかったのだ。

 おかげさまで、今回は幸いいつものような激しい震えが出るほどの発熱には至らず、現段階でとりあえずその後も落ち着いている。
 先にも書いたが、何とか来週、わが妹が上京するまでは家に無事共に暮らしていたい。またいつ熱が出るか定かではないが、まさに日々薄氷を踏む思いで暮らしている。


 母と今暮らしてわかったこと、気づいたことだが、人は、いや、生き物はこうして死んでいくのかということを書いておきたい。

 人の死に方は様々で、元気な人がとつぜん心臓発作とか、脳梗塞的に突然死、急にポックリ死ぬこともある。
 が、もう一つ、若くても老いても、病み衰え、最後には体力気力共に持ちこたえられずの闘病死というものもある。
 我が母の場合、今はその一途をたどっていて、担当医から余命宣告を受けてから、自宅でともかく「その日」までただ死に向かう日々を過ごしている。
 家族、我息子としては、ここから何としても少しでも元気に、元に戻したいと願うが、その思いとは別に、現実的には、確実に徐々に人は弱り衰え、最後は全てがダメになって、いわゆる「多機能不全」的状態となって死ぬのだと得心してきた。

 元気で、それまで健康だった人がある日突然、ポックリ死ぬ場合も少なくはない。が、要するに、命という「電池」がいつ切れるかという話であるわけで、電池が切れたとたんに止まる人もいれば、ゆっくりゆっくり電池が弱まってきて完全にバッテリーがカラになって死ぬというパターンも多々ある。

 先にも書いたが、苦心して我が三度三度親たちに飯を作っても彼らはろくに食べてくれないと書いた。それは ワガママだとか好き嫌いが激しくなってだと思っていた。
 が、老いて病み、死に臨むとは、そうしたことすらできなくなってのことだとようやくわかって来た。彼らは別に好き嫌いで、食べたくないとごねていたのではなかったのだ。

 前も書いたが、歳とるということは、若い時は何でもない、それまでごく普通にできていたことが出来なくなっていくということに他ならない。
 つまり歩くこと、食べること、眠ることすらなかなかごく自然に当たり前にできなくなってくる。まず食事は量も食べられなくなるし固いもの辛いものは刺激が強すぎて食べられない。足腰が弱り、街中を歩く以前に、立ち上がることすら杖を頼りにやっととなる。そして夜も不眠に苦しみ、よって一日何だか眠くて怠く辛くなっていく。結果すべてが緩慢に、しんどくなる。

 そう、老いるとは、全てがしんどくなることだ。と、今「シンドイ」と書いたが、これは標準語なのか。我は、父方が九州の人で、母方も栃木の出なので、関西弁と北関東、さらには東京の田舎の方言がごっちゃになっている。しんどい、という言葉がどれだけ理解されるかわからないが、関西でいうところの、難儀なこっちゃ、のナンギであり、つらく大変、面倒の意、だと理解していただきたい。

 今、死に行く母と暮らして見ていると、要するに何もかもしんどくなってきている。ひたすらベッドでうつらうつらしているようなわけだが、起きて、せめて車椅子に乗って外に出てみたらと促しても、いい、いい、疲れるからと拒む。何もかもが気力を失い、食べることも新聞やラジオなども関心を失い、目が疲れる、うるさいと拒むようになってしまった。
 とうぜん、食事も、我がいろいろ目先を変えて作ってもそのときは少しは口つけても二度目になると飽きたと箸もつけない。なんてワガママな!
と憤ったり、嘆き悲しんだこともあったが、ようするにすべてがしんどくなってきて、食べることすら大変になってきているのだとわかってきた。

 つまり、我々健康な者は、ごく自然に腹も減り、無理しても腹に詰め込むこともできるが、病む者にとっては、そうしたごく当たり前の事すら大変になって、食べることも含め何もかもが辛くシンドイ作業になってしまうのである。
 我はこれまで死んだ人とは多く出会ったが、彼らが死ぬ前の事については皆目理解していなかった。今こうして死に行く者と暮らしてみて、ああ、こうして人はじょじょにすべてが弱って来て、何もできなくなって、全てに関心を失って、しんどくなって最後は収支ゼロとなって死ぬのだと見えて来た。


 母がその死の当事者であることは、愉快でないし避けたい事態ではあるが、今そうした、厳正なる事実やら、様々なことが知り得て、本当に良かったと思う。そうか、人はこうして死ぬのかと今さらながらわかってきた次第。

 そう、自殺する人もそうだろうが、死とは、全てがしんどくなってのことなのである。身体的にしんどくなることは致し方ない。要するにそれだけ老いたり病んですべてが衰えて機能不全となっていくのであろう。が、心の部分、精神はしんどくなってはならない。
 この事実を知り得て、今さらながら、あのコルベ神父や多くの外側からの死に自ら厳然と立ち向かった人たちのことを思う。そう、殺されはする。が、死にはしない。
 あの多喜二や田中正造の生涯が無意味でなかったように。

 今の政治状況も含めて、いつどんなときでも、なにくそっという心意気、ここから巻き返していくという気構えが大事なのである。むろんそこにはその弱い個人を見守ってくれている神の存在は不可欠だが。ゆえに信仰が人には必要なのだと今さらながら我は理解した。人は我も含めてそんなに強くない。一人でこの辛い現実に立っていられない。
 人はそうしたものだろう。だからこそ、神が、そして信仰が大事なのである。

母が退院して一週間2016年08月16日 21時55分23秒

★ようやく一つのタスクを越えたか

 今さらだが、こうした事態に至って、いろいろ不義理してしまっている方々に申し訳なくお詫びしたい。もし、目にしてくれたならばこのお詫びは生涯かけて償いたいと思う。

 勝手な言い草だが、すべてを差し置いて、「親」なのである。我が親より大事なことは残念ながら我にはないし、我のなすべき使命も含めて、まずは親たちを看取ってからだと考えている。
 それこそ積年の親不孝の、せめての償いであり、彼らに孫の顔も、我のパートナー、妻となる人を会わせられなかったことの詫びにもなりゃしない。それもまた我の自己満足であり、ワガママなんだとわかっている。が、これだけはしない限り、我が人生の「その後」はありえない。死に向かう親たちを捨て去れるほど俺はそこまで極道ではない。恩返しなんかにもなりゃしない。ただ誰にでも起きる当たり前のことを今さらながらやっている。
 どうかご容赦願いたい。ご迷惑と不義理いたした方々には残りの人生、生涯かけて埋め合わせしたいと思っている。

 さて、母が8月10日に退院してきてから、明日で一週間となる。前回の退院では、わずか5日間で、病院に逆戻りしてしまった。
 高熱で救急車を手配し入院して10日間の治療、7月の25日の月曜にやっと退院できたと思ったら、30日の土曜日の夕刻にまた高熱が出て再びまた立川の相互病院へ。家族三人で過ごせたのは、月~土のたった5日間に過ぎなかった。

 医師からは、もう家で過ごすのは無理ではないか、このまま最後まで入院させた方が家族としては楽だろうと勧められもした。が、当人の意思以前に、我が強く再び家に戻すことを求めて、周囲の不安も抱えながら無理やり家に帰って来たのだ。
 だから、まずは何とか前回よりは長く家に、無事過ごさせることだけが最優先で、指折り前回時の5日を越えられるか数えていた。
 そして有難いことにその願いはかなった。

 さらに今週を無事乗り越えられれば、来週明けには、九州から我が妹が助太刀に来てくれる。彼女は、老人介護施設で働いているベテランの介護士でもあるから、もう一切親たちの世話は任せることができるので、我はその間は羽を伸ばせる。数日でも息つけられる。僅か二泊三日の実家滞在という短さだが、おそらくこれが最後の親たちとの親子そろって過ごす日々となろうから、何としてもそこまで母をこの家でもたせたかったのだ。
 先のことはわからないが、今日の感触では、やはりあと五日、何とかこのまま無事乗り切ればきっと妹が来る22日となろう。

 と記すと、母はもう青息吐息で、明日をもしれない息も絶え絶えの状態かとご心配されるかもしれない。
 実はそれほどひどくはなく、意識もしっかりしているし、食事も三度三度量はわずかだが自ら口から摂れている。ただ、もうベッドから降りることも起きることもできなくなって、排尿はバルーンという、膀胱に管入れて、自動的にポリ袋に溜まるようにされてしまったし、排便はいつ突然軟便が出るかわからないので、紙パンツにパッドをあてて、その都度我が交換するようになってしまった。そして栄養失調からの手足のむくみもさらにひどくなってきて、足だけでなくお腹や背中までパンパンである。足は象の足ごとく膨れてしまっているから、痛くて歩けない。

 今日明日に、突然急死するという事態はまずないと信ずるが、入退院の度に体力が落ちて、さらに衰弱して来ていることは間違いなく、医師からも今度高熱出たりしたら、体力もないのでショック死する可能性がある、そのとき生命維持のためにどうしますかと訊かれ、ウチとしては、無理して生かす必要はないと意思を伝えてあるので、今度またそうした発作的事態が起きれば覚悟しないとならない。
 ゆえに、ともかくまた突然の感染症による発熱、そして敗血症になる高い可能性と怖れを抱えつつ、毎日丸木橋を母の手をひいて渡るように過ごしているのだ。

 毎朝、犬の散歩で、近くのドラッグストアの生垣の周りを軽く歩く。その都度、天を仰ぎ、神に祈る。どうか今日もまた一日、親子三人が無事でともかく共に暮らせますようにと。
 そして深夜、眠りに就く前に、窓辺でやはり神に祈り感謝する。何とか今日も一日無事に父と母と我、親子三人で過ごすことが出来ました。本当に有難うございますと。
 そうして一日一日、ともかく必死にやり過ごしている。

 我としては、ともかくもう一度、せめて前回の入院前の状態程度に、戻せたらと願い祈っている。何とかむくみもとれて、再び自らの足で庭先程度は出て歩けるようになることだ。癌が治るとか、元の様に何でもできるようになるなんて望まないし願わない。
 ただ、もっと食べられる様になり体力がついて、今のようないつ高熱など不慮の事態が起きるか、不安と焦燥にかられる状況から抜け出せたらとただ願う。

 ウチに訪れる訪問看護士や医師たちは、来るたびに容体は悪化していると見ているようだが、我はそう考えていない。今の政治状況もだが、なにくそ、ここから巻き返していく、戻していく、という気持ちでいるし、そう奮起する強い思いがあればそれは可能だと考えている。そう、何事も諦め、絶望したらお終いなのだ。信じて強く願えば思いは必ずかなう。

 あなたに強い信仰さえあれば、山すらも動かせるとナザレのイエスは弟子たちに説いた。我にも揺るがないもっと強い信仰を、と日々祈っている。

 個人的なことだが、今日16日は我の誕生日、もうすぐ60となる。何とかここまで我のような極道が母と父と共によく生き延びたという強い感慨、感動の中でこれを記している。まさに神の愛、神のご加護があったからだ。
 願わくば明日もまた今日の日々が続くように。皆さんにも神のご加護がを。

死に行く人と生きることとは2016年08月15日 23時07分54秒

★死に向かいつつある人と暮らして、本や話で知ることと実体験の大きさを痛感している。

 母はまだ生きている。まず、いろいろご心配されて励ましのメールやお手紙など、あるいはお見舞いの品をお送りして頂いた方々にとりあえずこの場で御礼申したい。
 本当は個々個別に、きちんと返礼の手紙なり、せめて返信メールを、と思うものの、じっさい日々疲労と睡眠不足は限界ギリギリまで達していて、今はとてもそうした時間がとれない。
 一昨日は、父の騒動で前夜ほとんど一睡もできなかったので、倒れ込むように、我も失神して眠ってしまった。昨晩は、母の体調が悪く、夜間だったが、外来診察を頼み、初めて家で点滴入れてもらった。
 その点滴が終わって母の腕から針を抜かねばならないので、午前2時まで、枕元で必死に睡魔と闘い、一仕事終えてやっと眠った。
 正直、ブログ書くどころではない。そして、こうして我が状況、つまり老いて病み、死に向かう者たちの現況、レポートのようなものを書き記すことの我の身勝手さ、後ろめたさもこのところ痛感している。自分のやっていることについて自問している。

 死者は生者を煩わすべからず、ならば、死に行く者もまた同様なのではないのか。
 というのは、母の友人で、いろいろお世話になっている人から、入院中に何度も電話があったので、退院後、こちらから母にスマホでベッドの上から電話させた。

 その際、こちらからつい、食事が摂れなくて痩せてむくみも出て大変だとか話してしまった。そしたら、その方はその後大変心配されて、ウチの宅電に何度も、栄養ドリンクを薄めて飲んだらどうか、梅干しを何々してどうのとか、いろいろ食事が進むよう、アドバイスを我にしてくれた。
 実に有難いと思う。が、試してみる価値はあるかとも思うが、エンシュア・リキッドという口からとるカロリーメイトをドリンクにしたような栄養補助食品の類も甘いから嫌だとか薬クサイと嫌がるので、おそらくリポビタンの類など飲むとは思えない。今はお茶やポカリスエットのようなものさえ、厭い、ただの水なら良く噛んで飲み下すのがやっとなのである。
 だからその人から、教えたことやってみたか、どうだったかと電話がかかってきても返事に窮するし、こちとらもう心身が疲弊しているときに、そうした電話は、正直有難迷惑に思えてしまった。

 しかし勝手な言い草であろう。向うは、こちらの状況を知らされ心痛めて、何とかしてやれることはないか、と自らの体験などを元に、看護している我にあれこれ親切にもアドバイスしてくれているのだ。
 それは間違いなく善意であり、本当にこちらのことを心配してくれてのことだ。何とかしてやりたいし、このままだと死んでしまう、何とか助けたいという気持ちの表れなのである。
 しかし、有難いけれど、深夜早朝を問わず母の下の世話、つまり紙パンツを替えて、陰部を拭いて洗浄し、敷いているシーツなども取り替えたり洗濯したり、むくんだ足を撫でてさすったり、とりあえず三食、飯を作って食べたがらない老親二人に懇願しときに恫喝して少しでも食べさせるだけでまさに疲労困憊、心身が疲弊していっぱいいっぱいだから、そうした電話応対だけでもしんどいのである。

 そしてつまるところ、正直に状態が悪いことをその方に伝えてしまったことが行けなかったのだと深く悔いた。何でも正直に、あからさまでありたいと思っていた。が、人が死に行く状況であることを知らせてしまえば、知った人にとっても死の影がさす。そして心配され不安になり憂鬱になっていく。申し訳ないことをしてしまった。

 もう10年か、もっと経つか、我が大学時代に好きだった後輩の女の子が癌で死んだ。まだ40代そこそこだったのではなかったか。
 その人は、我だけでなくその頃の大学のアイドル的存在で誰からも愛されていた。直接の恋愛関係にはならなかったが、卒業後も付き合いがあり、やがて彼女は結婚して二児を設け、友人として我は家族ぐるみで付き合っていた。彼女の紹介で、同じ職場で働いたこともあったし旦那が始めた喫茶店の手伝いもしたことがあった。
 が、病気で入院したことは彼女のダンナから知らされたが、詳しいことは皆目説明されず、見舞いに行きたくても断られ、せいぜいお見舞いに絵本とか送ったり手紙を出すぐらいのことしかできず、ただ案ずるばかりであった。
 そして亡くなってから初めて、葬儀の席で、癌であったことなどが知らされて愕然とするばかりであった。せめて病室ででももう一度会い、言葉をかけたかったと今でも思う。

 しかしそれは彼らの意思であり、おそらく当人も誰にも会いたくなかったのかもしれない。病んだ姿を見せて皆に心配かけるよりは、詳しいことは何も知らさないというのが、彼女たちのやさしさや矜持であったのかと今にして思う。ある意味強い立派な選択だと今わかる。

 ただ、我はこうも思う。人は誰もがやがては老い、病み、そして死に臨んでいく。生者と死者、死に行く者とを分けて、生者は生者だけで死者のことなど何も知らず考えずに生きていくのが正しいことなのであろうか。
 死を想え、という言葉がある。死というものは誰にでも必ず訪れるものであるからこそ、自ら当事者になる前に、もっと深く学び考え知る必要があるのではないのか。

 今、こんな状況になって、本当に辛く日に何度も涙することもある。しかし、この体験ができて良かったと間違いなく思う。この経験をなくして我は生きていたとしても本当に歪んだ愚かなままであったに間違いない。少しは賢くなったか俺は? いや、少しは愛を知った。
 日々いろんなことを考えさせられ、ああこうしたものか、こうだったのかと気づき学ばされていく。すべてのことが伏線であり、結びつき今にこれからに続いていく。
 死とは、実に多くのことを考えさせ多くのものを生者に与えてくれる。残念ながら、人は生者と暮らし、生きることで学ぶこと以上に、「死」を通してこそ、死者からのみ「生きること」の意味と価値は学べない。

 それはあの大戦も同様だし、近年続く大震災もまた同じであろう。大惨事は多くの死者を生み生者と別けた。そう、思えば今日は鎮魂と追悼の8月15日である。

 世界中の誰にも神のご加護がありますように。今はただすべてが有難い。

苦難のときにヨブを想う2016年08月12日 22時11分05秒

★夕方に見た夢に救われた。

 聖書の旧約の中に、ヨブ記という一つの物語がある。信仰厚い義人ヨブという人物が神に試され苦難に遭うという物語だ。
 我もまた今、ヨブに比べれば卑小なほどの苦難のときに今あって、その人のことがふいに頭によぎる。それがあるからか、今日の夕方、ごく短い仮眠の時に、ヨブと同じく、我の親しい友人たち三人か四人が出て来て、我はその苦難を彼らに話して、つい夢の中でも泣いてしまった。

 ヨブ記では、あろうことかその友たちは、ヨブを慰め助けるのではなく、そんな苦難、苦境にあるのは、きっとお前の行いが悪い、神を怒らせるような悪事をしたからに違いないと彼を助けるどころか逆に非難するのである。それは糾弾といって良いほど激しいものだ。
 が、ヨブは、それにもめげず屈せず、自らの非は何も認めず、議論は平行線となる。物語は最後に神自らが出て来て、全能の者であることを誇り、ヨブはただひれ伏し詫びて、結果として彼は救われるというストーリーだ。
 なかなか不可解かつ深い話で、神はヨブを非難した友人たちに味方せず、逆に彼らすら裁断しようとする。その物語から何を学ぶかは、神学的にも西欧の常識的にも難しいかと思う。ただ、どんな人、信仰厚く一切の不義はしない者にも耐えがたく、神をも呪いたくなるような苦難苦境の時は訪れるのである。

 恥ずかしい話を記す。昨晩はほとんど眠れなかった。深夜に母のもらす軟便の紙パンツを取り換えるためブログなど書きながら起きていた。
 母からのチャイムで、下におり、その下の世話を終えて、これから寝ようと思い一休みしていたら父が起きて来て、「眠れない! 睡眠薬はどこだ」と騒ぎ出した。時刻は午前一時近くであったか。
 父は、その睡眠導入剤飲むと、翌日は一日ぼーとして、意識朦朧となってしまい、その晩もまた眠れなくなる。しかも一時期は、その薬を酒と一緒に飲んでいたのである。だから禁止されていた。
 で、このところワシはずっと眠れない。明日のデイケアは休むと言い出し、自ら電話すると言う。※いつも夜間はしっかり眠っていて眠れないのはその晩だけの話なのにだ。
 だから明日、体温測ってみて熱あるようなら休むと伝えると言っても当人はコーフンして納得しない。

 うるさいし母も息子も眠れないと大変だから、眠れなくとも騒がず静かにベッドにいろ、とベッドのある部屋に閉じ込めても、大声で、鍵かけたらワシは窓から出る!と怒り出す。じっさいそうしかねない男なので、また骨折するのは間違いない。
 午前3時ごろまで、ほぼ取っ組み合いのケンカ状態となり、殴ったりなだめたりして玄関やあちこちに父が出てこないよう鍵かけて、それから寝直した。母もむろんのことそんな騒動で眠れやしない。

 今朝になって、起きたらば、父は自ら起きて、汗をだらだらかきながら、電話機を前にして既に起きていた。デイケアに電話しようとしたが繋がらないとコーフンしている。そんなことをするだろうと思い、我は昨晩電話の回線を抜いておいたのだ。利用者当人が電話して来て休むと伝えて向うとしては応対に困るはずだしもまた確認のために面倒な事態となる。父は以前にも失くしたと思い込んだ銀行通帳の件で、勝手に銀行に電話してしまい、再発行にものすごく大変な手間かけたという前科もあるのである。

 行くか行かないかは、ともかく体温測ってみて、37度以上あれば、休んでいいからと諭し、熱測ったらば平熱である。そしたら彼も正気になってきたのか、行く気になってきて、結局、迎えに来たデイケアの車に乗せられて行った。やれやれである。
 母と、やはりこんなに認知症が進んでしまえば、やはり特養に入れるしかないかと相談した。そして夕方早く戻って来て訊いたらば、昨晩のことは全然覚えていないと父は言う。なにかあったのか?と。今日はみょうにフラフラして眠かったと述懐していた。

 このところ母が帰って来てから、さらに睡眠時間はなくなって、3時間以上続けて眠ったためしはないと書いた。ただでさえ寝ていないのに、父の認知症的発狂のおかげで、こんなことが続けば我も母も睡眠不足と疲労で父に殺されてしまう。

 父のせいで心配と心労から体調悪くなったのか、母は朝食はほとんど食べず、昼もそこそこにしか食べられず、あきらかに顔色悪い。我も無理にでも食べさそうと叱り、苛立ち、母との関係まで悪くなった。
 下痢のオムツを交換するため、昼夜を問わず起こされ呼ばれることはちっとも辛くはない。辛く苦しいのは、少しでも食べてもらおうと、苦労工夫してつくった食事がほとんど口もつけてもらえず、食べたくない、食べられないと拒絶させられることだ。
 そして下痢は回数は減ってはきたが続いたままで、栄養失調から足だけでなく腹や腰までむくみ、浮腫が出てきている。そのため寝たきり状態が進み、ベッドから起きることもできやしない。ゆうにますます体力は落ちていく。
 そうした悪循環から抜け出すためにも口から少しでも食べてほしいと息子は願うのに、母は応じてくれない。少し食べると、もうたくさん、またお腹が痛くなってきた。ウンチが出そうと、しかめっつらで唸っている。
 これは地獄である。このままさらに痩せ衰えて、ただ死に向かうしかないのか。息子として何もできないのか。父は父で、深夜に徘徊し大騒動。犬猫たちは、餌と散歩を求めて深夜でもこちらが起きる都度吠え騒いでいる。誰もが我に求め、身勝手な要求をぶつけてくる。
 これは苦難であろう。旧約聖書の、ヨブに起きたことに比べれば些細な出来事だが、思わず彼のことを思った。

 幸い午後の紙パンツ交換のときは、ちょうどベテランの訪看が来てくれて、今日三回目の母の排便のオムツ交換と陰洗は任せてお願いした。そしてケアマネシャーも来てくれたので、父の事を話して相談して、我の苦難をついこぼしてしまった。

 母もいったん落ち着いて、昨晩から睡眠不足であったので、寝たのを確認して我も本の発送を二冊だけ終えてから、一時間だけ目覚まし時計をセットして横になった。
 そしたら短時間でも夢を見た。ヨブと同じく友人たちが出て来て、我はこの困窮を彼らに話していたら夢の中でも泣いていた。が、ヨブ記と違うのは、そんなわけでもう一切何もできなくなってすまないと泣きながら詫びる我に、彼らは、批判することなく、そんなことはわかっている、心配するな、と肩を叩き笑顔で理解を示してくれ励ましてくれた。

 短い夢から目覚めて、ほっとした。我の願望が描いた都合の良い夢だと知りながらも、心が軽くなったような、救われた気がした。勝手な言い草だろうが、おそらく我が友たちは、その夢に出て来た友たちの如く我を案じて、理解を示し赦してくれているのだと思いたい。

 そして母とのことも、一挙一動、食事ごとに一喜一憂するのではなく、たとえ食べてくれなくても、それこそ母の体調で食べられないのだから赦し受け入れていくしかない。そんなことで怒り苛立ち、母を叱り、ぶつけてはならない。父のこともそう、何が起きようと受け入れるしかないではないか。それもまた老いから起きる病なのだから。

 すべて、慌て焦らず諦めずに、苛立つことなくやっていしかない。そうしていこうと突然思い至った。
 どんなことが起きようと、全ては神の愛、神の計らいなのである。ヨブに起きたことも含めて、人はただ従うしかない。

 もう何も怖れないと何度も書いた。が、日に何度も不安は寄せて返す波のように我の心を脅かす。しかしそれもこれもともかく母がまだ生きていて、共に暮らせているのならば、何をそれ以上願い求められようか。

無理を承知で願い祈る2016年08月11日 23時21分34秒

★母は退院して家に戻った。が、あと何日共に暮らせるだろうか。

 ご心配おかけして申し訳ありません。母は、昨日10日午前に我が家に再び戻ることができました。今もまだ生きています。

 今は日曜を除いて、訪看、つまり訪問看護士が訪れ、介護ヘルパーも呼べば毎日入るのだけど、問題のオムツ交換などは、彼女たちが来てくれる時にタイミングがあうわけもなく、今日は、午前4時頃と10時頃、ほぼ寝たりとなって自らでは始末できない母の紙オムツを外し便を拭き、インセンこと陰部洗浄して、新たなオムツに交換し、母が寝たのを確認してから我もまた朝まで数時間眠った。今は連続して3時間以上長く眠っていない。
 そして、膀胱に入れたパイプから垂れ落ちてビニールバックに溜まるオシッコの量も記録し、日に一回交換する。今日はその他、汚れ物を洗うので洗濯にも追われた。
 また、以前は、今の堀コタツのある部屋で、家族三人テーブルを囲んで食事していたが、もう母は、そこまでも歩けなくなったので、介護ベッドの上で移動式ミニテーブルを出してそこで食事とることになった。
 三食事に、居間の父の分、母のベッドのある部屋へと個別に分けて運ぶのが予想していなかった面倒で、我の移動量と手間が新たに増えて疲れた。

 家に戻すということはこうしたことだと漠然と考えてはいたが、やはり我一人で自らは動けなくなった老親二人を介護するのは、予想以上の苦労である。そのどちらにも十分時間がとれなくただ一日中こま鼠のように動き回っている。

 しかし、今日もともかく無事に終わり、汗まみれの体をシャワーで流し、缶チューハイを飲みながらこれを記している次第だ。眠たいし疲れているが、このところ深夜二時半頃に、必ず母は大量に軟便を漏らすので、今晩はともかく起きていようと思う。

 今は我のいる二階まで、下の部屋の母の枕元にあるリモコンで、母が押せばその二階にチャイムが鳴り、知らすことができるようになっている。
 が、母は、寝たばかりの息子を叩き起こすのは忍び難いと、朝まで大量の弁をオムツの中に抱えて、じっと息子が起きだすまで我慢してしまう。それでは、また感染症の原因ともなるし、こちらもいつチャイムがなるかと気になっておちおち深くも眠れない。
 ※前回の退院の時は、今よりもう少しは元気であったから、母は、紙パンツに漏らした便が少量の時は、起きだして深夜一人で、トイレに行き自ら交換していたのだ。だが、ふらついて転倒し、顔から前のめりで倒れて鼻の頭にあざを作った。ゆえに、常に一人では移動は禁止され、漏らしたときは看護師たちか、特に深夜早朝時は息子である我がオムツ交換することとなったのだ。

 それにしてもつくづく思う。先の入院時の前までは、午前中は自ら庭に出て、ブラウンターの野菜苗などをいじったり、居間への移動は自らできていた。むろん、コタツから立ち上がるときなどは、なかなか一人では難しくなってきて我が手を貸して、やっとということもあり骨折後の父といい、やれやれと思っていた。
 が、前回、夕刻時に、突然寒気が起き、歯の根が合わないほどガタガタ震えが起きる40度を超す高熱が出て、救急車を呼んで搬送されたときの入院以後は、約10日間ベッドに寝かされ点滴受けていたこともあって、足腰が急激に弱ってしまった。退院時も民間搬送サービス会社を紹介され、ストレッチャーで病院から我が家まで移送された。
 が、その後は、やや持ち直し、食事やテレビ観るときは、介護ベッドから居間まで我が手を引いてのことだが、自ら歩いて移動はできていた。

 しかし、今回の再入院、再退院してからは、もうほぼ一歩もあるけず、実は昨日帰って来てから、一度だけ居間まで連れて来て食後にベッドに戻したら失神してしまい、大慌てで看護婦を呼ぶ騒動となってしまった。どうやら虚血性卒倒というか、食事のあと立ち上がったり動いたりしたため貧血を起こしたらしい。またも救急車を呼ぶことが頭をよぎったが、来てくれた訪看が血圧測ったり簡単に診察してくれて無事が確認できたので大事に至らずにすんだ。

 入退院ごとに弱っていくと、誰からも聞いてはいたが、今そのことを痛感している。しかし、一時期は日に5回も多い日は7回以上も多発していた下痢、軟便も幸いこのところ回は減少傾向で、体力は低下してはいるが、体調自体はさほど悪化していないと思いたい。
 前回は、7月25日の月曜に退院して来たら、30日の土曜に、また高熱が出てしまい、血液に菌が入った敗血症だと診断受けやはり10日の入院となった。我が家で過ごせたのはわずか5日間であった。
 今はともかく一日でも長くまた入院せずに共に母と父、家族三人で暮らしたい。先のことはわからない。今毎日ともかく無事で一日が終わることを祈って過ごしている。
 まずは先の5日を超えて、妹が介護に来てくれる今月22日まで、母を無事にこの家におくことだ。
 今度入院したらもう退院は不可能かもとか様々なことが頭をよぎる。しかし、先のことはわからないからこそ、今を、今日一日を無事であるよう願い祈りながら丁寧に生きていきたい。
 そしてそれはかならずかなうと信じている。
 我にもっと強い揺るがぬ信仰を与えたまえ!

人生は楽しめるときにとことん楽しめ2016年08月07日 17時27分37秒

★人は努めを果たすときが必ず来るのだから

 説教や教訓めいた訓話をしたり顔で、人様に説くほど厚顔ではない。が、今つくづく思う。こうして親たちの介護で身動きとれなくなって、初めてわかることがあった。
 そしておそらくそれは、その状況になってみないと絶対にわからないことだとも思うが、我が身にとっても書き記しておくべきことかと思うので記す。

 敬愛した山口瞳先生もよく若者たちに、成人の日などに新聞広告などで説いていた。おそらく彼も、書いたとしても彼らに伝わるとは考えていなかったに違いない。だが、先人の心得は、記すことによっていつかは、ああそういえばそんなことを書いていた人がいたなあ、このことかと不意に納得するときがくるときもある。
 小難しくエラソーに書く気はない。ただ経験としてやっとわかった人生の真理というようなものだ。

 この夏も年下の女友達から、夏の休暇で、出かけた先から励ましを兼ねてお見舞いのメールや差し入れのお土産が届いた。実に有難いことだと思う。我のような者を案じてくれて申し訳ない。そしてそうして彼女たちを反面羨ましくも思うことを告白する。

 もう今の我は、近場の谷保かけこみ亭にさえ顔出すこともできず、母が家にいれば、家から出るのは、犬の散歩と近所のスーパー、ドラッグストア、コンビニだけで、もう一切電車に乗って出歩くことも、誰とも会うこともない。ただ、母のオムツ交換と、むくんだ足などのマッサージ、そして食事つくり、父の食事介助、そして洗濯などだけで日々明け暮れる。いなくても病院に日に一度は必ず行って1時間は過ごす。
 それが辛いとか嫌だとかは思わないし何も考えない。ただ一日でも長く無事に平穏で親たちと共に暮らせる日々が続くことを願うだけだ。そして幸いにしてその願いは今現在かなえられている。

 実はこの数日、母の容体があまり良くなく、入院させているから病院任せにしていれば安心だとも思う反面、また不慮の出来事が急に起こるのではないかと不安で、夜も枕元に携帯電話をおき、落ち着いて深くは眠れなかった。
 来週半ばに退院ということで話は進んでいるのだが、また熱が続き、意識はあっても反応が鈍く、大丈夫か!という内心落ち着かない気分に苛まれていた。
 けっきょく、昨日は午前と夕方二回立川のその病院に出向き、病室で母の足をマッサージしながらあれこれ話しかけつつ時間を共にすることしかできなかった。
 幸い今朝方行ったら熱は下がり、意識もはっきりとしてきたので、現段階では退院できそうだと思えてきた。やや安堵した。またそのことはかなったら後ほどご報告いたします。

 さて、我は若い時から不良というほどではないが、十代の頃から放蕩の限りを尽くしメチャクチャな生活を続けていた。実家暮らしの頃から何日も家を空けてはふらっと関西まで遊びに行ったり、どれほど親たちを心配かけたかわからない。※聖書にある「放蕩息子の帰還」の説話はまさに身につまされる。
 親としては大学まで行かせたのだから、早く堅気になって会社勤めをしてほしいと願ったはずだが、けっきょく生涯きちんとした定職に就かず遊びや趣味を最優先して気の向くまま好き勝手に生きて来た。親たちも言っても無駄だと放任してそれを許してくれた。

 繰り返し書いて来たが、童話の「アリとキリギリス」の、キリギリスこそ我であり、世間の人たちは皆、そのアリさんたちのように皆地道に仕事に就いてコツコツと働いていたのに、我はそれをバカにして、自由の意味さえわからず自由を求めて実際行動はせず、だらだらと怠惰自堕落に自らを甘やかしつつ生きて来た。結果結婚もできず多くの友から女の子たちから愛想尽かされ誰からも相手にされず今に至っている。まあ、幸い数人の音楽仲間たちはたぶん今も我を見捨てないと信ずるが。

 そして今、老いて病む親たちの介護でいっさい我が身のことは何一つできなくなってみて、そうして好き勝手に生きたことを悔いているかと言えばちっともそんなことはない。いや、逆に、あんなに時間があったのにどうしてもっととことん本気で思う存分遊びでも何でもやらなかったのかとそのことを後悔している。
 親たちが元気でいたのだから家のことは何一つ心配せずに海外でもどこでもいくらでも行けた。金はなくてもきっとどうにでもなった。若さ=体力と時間、それだけが存分にあればそれこそが自由の証であった。
 なのに、我はそれを有効に用いなかった。何でももっと好き勝手にできたのに大したことは何もできなかった。

 今、家で、そうした若い人たちから、たぶん彼女たちは恋人と出かけてのことだろう、旅先からの便りをもらい、それが羨ましいよりもどうかもっともっと時間が自由に使えるうちに、自由に動けるうちに楽しいことをたくさんやって、楽しい思い出をたくさん作ってほしいと願う。
 そう、人生は楽しめるときにとことん楽しめ、である。
 何故なら嫌でも誰にでもそんな風に自由に動けて使える時間は失う時が来るからだ。それは我のように親たちの介護に追われてのことかもしれないし、あるいは自ら病気や事故などで自由を奪われるからかもしれない。
 いや、何も起きなかったとしても老いてくれば足腰が痛くなり気軽に動き回ることすらできなくなっていく。ならば若者よ、いや、まだ自由に好き勝手に動ける自由がある者たちよ、その自由を存分に、有効に使え。

 今我はこんな身になって悔やまれるのは、どうしてもっと時間のあったときに、何でも自由に動けたときに、精力的にあれこれやらなかったのかという自責である。いったい何をやっていのだろうか。のんべんだらりんと昼寝したり酔っぱらっていたのに違いない。そんな時間がいつまでも続くと思っていのだ。そして今こうなった。自業自得というしかない。

 そして、やがては 誰にも、努めを果たすときがくるのである。昔の人は言った。年貢の納め時だと。うまいことを言う。我は今その努めをはしつつある。しかしそれは辛くても嫌だとか拒絶すべきことではない。誰にも訪れるその時がきたに過ぎない。そしてそれは「良いこと」なのである。
 むろんその努めから逃げてトンズラする人生も可能だ。しかしそんな生き方すれば、年貢は重加算されて最後は懲役房で過ごすことにもなろう。それこそが地獄に違いない。我はそこまで悪人、確信犯にはなれない。

 だから、今はまだ自由に動けて時間のある人たちよ、とことん人生を楽しめ。その努めを果たすのに時間と自由を奪われる日が来る前に。人は何だってできる。その人が責任が負える限り人はとことん自由なのだから。

今が疲労の極み、ここを乗り越えていく2016年08月05日 23時14分25秒

★頭痛と腰痛で長いブログ書けません。

 母が入院していれば時間ができて、のんびりできるかと言えばそうではない。連日ともかく忙しく、その合間を縫って立川に行き、病室で、食事介助したり、足や腹をマッサージしたり、入れ歯を洗ったり母と一時間は過ごして戻る。往復の時間もいれれば二時間、いや、三時間はかかる。
 この数日風邪気味なのか、また腰痛が起きて、ぎっくり腰ほどそどくはないが、病院まで約30分、車を運転し、降りると痛くてへっぴり腰となってすぐには普通に歩けない。同じ姿勢でいるのがいけないのだ。

 頭は始終鈍く痛いし、腰だけでなく足は棒のように重い。さすがに疲れで出てきたのだと自分でも思う。
 先の参院選、都知事選のことや、障害者憎悪殺人事件についても書きたいことがいっぱいあるが、ともかく、一時間一分でも長く眠りたい。
ブログもパソコンに同じ姿勢で向かうので腰に負担がかかる。

 幸い来週半ばに母の退院が決まった。母が戻れば、これまで以上に介護に昼夜問わず専念しないとならない。おそらくこれが最後の帰宅になるかと思う。いよいよカウントダウンが始まるかと。

 そのためにも体調を整えて母を迎えいれる準備、体制を整えねばならない。
 そんなで、申し訳ないが、今日はここまででご容赦を。ともかく早く眠りたい。疲れが溜まって起きていられない。