12月の予定など2010年12月02日 11時02分48秒

★先の予定は見えないながらも。

 昨日は、母の体調がまた悪く、ブログアップできませんでした。書けたとしても吐いたとか、浣腸したとかそんなことしか書けないわけで、読み手にとっても愉快どころか不快かつ心配かけるだけだ。
 良い兆候が出るならまた報告できようが、原因もわからないままひたすら手をこまねいている。一応、漢方薬を処方してもらい今週から呑み始めたが。そんなこんなで、拙ブログ更新ないときは家のことで何かごだごたしているものと思ってください。もう基本的に出かける用事は今月はほとんどないので。

 さて、今月の日程。

 今決まっているライブは、西荻窪のみ亭での23日、26日だけでして、ブッキングした者として顔出さねばならない。後ほど宣伝告知いたしますが、村上律さんと小野一穂くんである。
 その他、25日のクリスマス土曜日、もしかしたら無頼庵で、何かイベントを催すかもしれない。正直、やるかやれるか、工事進捗状況と親の具合もあり、思案中、検討中だ。

追悼 阿部登2010年12月03日 21時38分42秒

★春一番の阿部ちゃんが死んだとの知らせを受けて。

 酔っぱらって少しだけ泣いた。
 春友から連絡を受け、確認したところ、大阪春一番の主催者、福岡風太と並ぶ二枚看板の一人、阿部ちゃんこと阿部登が先の28日、肝機能障害だかで亡くなられたとのことだ。詳しいことはじっさいわからず、あくまでも人づての情報なので正確なことをご存知の方は訂正願いたい。
 中川五郎氏に確認していないが、28日の両国フォークロアセンターで彼が「親しい友達が死んだ」と話し「眠れない夜」を唄ったのは彼のことだったのかと今気がついた。そのときはとても慌しく、五郎さんも次のライブが控えていて時間なく先に帰られてしまったので、詳しいことは訊けなかったのだが、おそらく阿部ちゃんのことだったのではなかったかと今にして思い当たる。もし、その場で急に知らされたらたぶん自分はその後は司会役も手につかなかったと思う。

 何人かの友人に今日電話で問い合わせして、事実だと知り思わずあーっと声を上げてしまった。決して長生きできるとも元気だとも思いはしなかったが、まさに予想外の知らせで一日暗澹たる思いに囚われている。

 自分が大阪の春一番コンサートに例年出かけるようになり今年で確か5年目になる。春一番は70年代の終わりの頃、まだ自分もうんと若い十代の頃、77年、78年の2回参加した記憶があるが、その頃は彼と面識はなく、再び、フォーク熱が戻ってからいつしか親しく服部緑地の会場で見かければ話す機会を持つようになった。

 風太は昔からよく知っていたが、東京で会っても個人的には、あまり親しく口をきくこともできず、いつ怒鳴られるかとかと緊張してしまう人であり、もう一つ付き合いにくかった。対して阿部ちゃんは春一だけの知り合いであったが、誰に対しても常に気さくで親切でこちらのどんな意見にもきちんと耳を傾けてくれ、今の春一番に行くということは阿部ちゃんに会うことと同義でもあり毎年楽しみにしていたのだ。
 いわば、剛の風太に対し、柔の阿部であり、復活後の春一は、この二人の相反する個性の両輪でもっていたと断言しても誰も異論はないと思う。
その阿部ちゃんが死んだ。

 元々がジャズ畑の人であり、若いときからかなりやんちゃなことをし尽くし、じっさいあまり健康そうにも見えなかったので驚きに値しないが、何でだ!と憤る気さえする。まだ還暦となる誕生日前の死だと聞く。考えてみると早熟な彼は自分とはそういくつも違わなかったのだ。

 去年だったか、春一番のニューモーニングの日だったか、何故かラスタ系のミュージシャンばかり出る日があって、自分も正直うんざりした。翌日の開演前会ったとき彼にそのことの不満をぶちまけた。そしたら、彼は、「あーすまんな、でもあいつらもかわいそうなやつらなんや、あんな髪見てみい、どこだってやっていけんやろ」と言われて何故か納得してしまった。つまり、ドレッドヘアーのやつらは大変だから出したという理屈なのだが、阿部ちゃんからそう言われると不思議にそう思える。彼はそうしたやさしさと包容力の人であった。
 風太は基本的に武闘派の、オール・オア・ナッシングの人であり、文句言う奴はかかってこんかい、というスタンスのまま歳とってきた人だと思うが、阿部ちゃんは常に弱さに裏打ちされたやさしさの人だったと思える。弱者に対する暖かいまなざしの人であり、春一番が何十年も続いてきたのも表の風太と裏側の阿部ちゃんという二人でやってきたからだと確信している。

 今そのパートナーを失い風太の悲嘆はどれほどかと案ずるし、彼のことだから来年の春一は意地でも決行すると信ずるが、たぶんもうそれが最後となるような気がしている。はっきりいって風太一人ではもはや無理だと思う。ということは来年やれてもそれが最後の春一だということだ。

 ああ、もう一度、阿部ちゃんの隣で、ぐぶつのステージのとき、「ええリズムやろ、気持ちええなあ、最高や」と一緒に聴いていたかった。本当に阿部ちゃんのこと大好きでした。お世話になりました。天国で会う日まで待っていてください。そのときも「トイレはこっちとこっち」と教えてください。

 今もこう書きながら涙が止まらない。

これからも音楽と向かいあっていく・前2010年12月04日 22時32分52秒

★思いを新たに。

 様々な思いが波のように押し寄せては引いていく。泣いてばかりはいられない。
 すべてこの世のことは、人の思いや気持ちなど忖度無しに進んでいくのだと改めて思う。人の生死はいかんともし難い。けっきょく人と人とは生きている間だけの関係であり、同時代に生きたそのところだけで偶然結びついている。

 自分が音楽に魅せられて、夢中になってあれこれ囚われていた期間を今やっと振り返れるようになった。一時はずいぶんアンビバレンツな感情に悩まされもしたが。
 経済的には随分損失も出したが、それしかそのときの自分には出来なかったことであり、結果としてすべて仕方ないと諦めもつく。じっさい、お金で済むことはそれは幸いだと今にして思える。貧乏人が分不相応な散財をしてそれでも何か形にできたとするならば、それは幸福なことであったのではないだろうか。

 いつも何にしろ後で気がつくことは、すべてこの世のことは経験でしか学べないということだ。本に書いてあることや人からの忠告なんて全く役に立たない。あくまでも実際にやってみてそこから見えてくるものだと確信した。過ぎたことは戻せないならそれはすべて良かったことだとようやく受け入れられるようになった。どれほどの失敗と失態も、それでもまだ俺はこうして生きているのだから肯定できるのである。
 生きていればやり直せるし、また金はがんばって稼げば戻すことはできる。死んでいった者たちのためにもここで鬱々落ち込んではいられない。自分のできることを頑張ろうと思った。

 この土日、久々に出かける用事も人と会う約束もなく家にいられる。心は落ち着き静かに澄み切っている。もちろん、友人の誰彼はどこそこでライブをやっているのも知っているが、強く誘われもしなかったし、自分が何が何でも行かねばならないという訳ではない。なのでこんなのんびりした週末は本当に久々な気がしている。

 ライブと言うのは、たいがい土日もしくは祝祭日にあるので、週末の土日たいがいどちらかだけでも出かける用事がいつも入っていた。今日土曜はハニーバイキングのライブがあると前に確か聞いていたが、お誘いの連絡もなかったことで家にいるわけだが、母が夕刻から調子崩して、また胃痛で唸っているので何かできるわけでなくとも今日は家にいられて良かったとつくづく思う。病人に付き添って声をかけたり様子を見てやるぐらいでも少なくとも双方気持ちだけ少しは楽になる気がする。ライブに出かけて深夜に戻り、翌日になって大変な事態が起こっていたと知るよりよほど気分良い。

 今できることは、こうして死に臨む者とどれだけ長く共にいられるかだと考えている。それは何だって同じであり、誰もがもう残り少ない人生を何とか生きているのだから、そのことを踏まえて一緒に何ができるか、すべきか考えなくてはならない。

 高田渡の死の以降、一気呵成につっ走ってきた自分の「音楽」との関わりを2010年12月の段階で検証してみたくも思う。それはもうそこから離れるからではなく、さらにしっかり効果的に関わるためにも方法論を考え直してみたいからだ。
 自分だけではなく、今これから全てが終わりまた新たに始まっていく気がしている。まさに、終わり、始まるなのだ。

無頼庵12月の詳細予定です。2010年12月05日 21時50分43秒

★今年も終わる。納めの月に。

 ご心配かけて申し訳ない。おかげさまで母の具合は一進一退であり、良いときもあればまたぶり返すという足踏みのままだ。医者の検査では、激しい胃痛が起こす病因、原発はみつからないので、精神的ストレスではないかという声も届いている。どんな薬も利かないので今は漢方のほうの薬を出してもらい様子見という状態だが、幸い一時より発作自体の回数は減ることはなくともその痛みの程度は軽いような気もしている。痛んでもこのところ吐く回数は減っている。ともかくその痛みの発作が減って元通りの食生活に戻れたらと願っているのだが。

 これからのことだが、あちこちの医者を渡り歩き、その都度体中の検査しても体力が消耗するばかりなので、近いうち都内にある漢方の専門医に診て貰おうと考えている。ともかく今だましだまし消化の良いものを少しづつ食べさせ安静にさせることしかできやしない。これ以上痩せて体力がなくなればもう打つ手はない。

 今日も昼前から車で近くの徳州会病院へ母を点滴に連れて行き、その痩せた肩を抱きかかえて病院の門をくぐったのだが、それなりに感慨深かった。孝行とか以前に、これもまた人の行く道、通る道なのだと思い至る。幸いなのは自分は居職なので時間の都合がきくことであり、これまでの親不孝の埋め合わせがこれで少しでもできるような気がしている。まあ、悔いは結婚もできず、孫の顔を見せてあげることが出来なかったことだが。

 さて、今月の無頼庵。
 大工が他の現場に全員で行ってしまい、あろうことか先週は月曜から一日も工事が進まずストップしてしまった。親方カワムラさんもすまないと詫びているが、こっちもさんざんわがままを言ったり勝手な注文をコロコロ変えたりもしているので、向こうの都合もまた優先されても仕方ない。そんなこんなで、どう考えても年内に新居での生活開始は部分的にでも不可能だと見えてきた。願わくば、新年の正月は、改築の居間でと希望していたのたが・・・。

 というわけで、無頼庵というか、増坊の12月の予定であるが、
11日(土) 四谷コタンで、愛するみほこんのライブがあるのでそれに行く。
23日(祝) 西荻のみ亭で、バンジョー村上律とギター外山誠二の「律&誠二」のセンターでやったライブの再演。その日は、千歳烏山のtuboで、バロンと世界一周楽団&寒空はだかのクリスマススペシャルライブもある。体は一つでどうするつもりか増坊!

26日(日)は、やはり西荻のみ亭で、このところ増坊一押しの小野一穂のレコ発ワンマンライブ。これはぜひぜひぜひフォークファン必聴のライブであり、この日その場に来られた方は人生最高のクリスマスプレゼントとなるはず。本当に記念すべき晩となることを保証しよう。自分は大昔、高校生の時、吉祥寺のぐゎらん堂で、友部正人を初めて生で聴いたときの衝撃を彼のうたを聴いて思い出した。親父もすごいが息子も凄いことを確認してください。

 今月の無頼庵の公開日は、まだ確定ではないが、10日(金)と25日のクリスマス。何か催しできそうならばおって拙ブログで告知いたします。来たい方がいらっしゃれば連絡下さい。問題はその頃までにトイレが完成するかである。職人用に外に簡易トイレはあるのだが、女性はいくらなんでもそれではね。

母を連れて漢方の大家に会いに行った。2010年12月07日 21時32分24秒

★ともかく気長にまずは一ヶ月漢方薬をのんでみる。

 今日7日は、午前中から母の手を引いて東急目黒線大岡山まで行ってきた。その報告を少し。

 猛暑の続いた秋口から発症し、あちこちの病院にかかり胃から大腸まで検査したものの、特に悪いところは発見できないのに突発的胃痛が続き食事が摂れなくやせ衰え体力気力共に弱ってしまった我が母を今日は漢方の処方してもらうべくその道のエライ大家がいるという大岡山の薬局まで連れて行った。

 青梅線のウチからだとまず立川に出て、そこから南武線で武蔵小杉まで約45分、都内大田区である大岡山はもっと遠いかと思っていたが私鉄に乗り換えたら10分で片道一時間半もかかからなかった。しかし体力の落ちている母には乗換えの移動だけでも歩くのはかなりの労苦疲労である。

 車で行こうと考えていたが、慣れない都心の初めての地であったし、店舗はどうやら商店街の中らしいので、駐車場を探すのだって一苦労すると思い、母を背負う覚悟で電車で行ったのである。
 幸い、北口から5分もかからないところにある薬局で、着いたらまず弟子が問診し、1時間以上店の中で待たされはしたが、その漢方の大家の先生にじっくり診てもらうことがなった。

 実は都内に住む増坊の叔母、つまり母の妹がその先生に以前何かで診てもらい、的確な漢方薬を出してもらい治ったとのことで、紹介してくれ今日はその叔母とまた別の叔母も来て、母の姉妹3人が揃い、すぐ下の妹は便秘での相談もあって待ち合わせて来たのだ。

 その薬局では事前に予約し、まず午前中にそうして受付して、午後はそのエライ先生が直截応対し患者一人ひとりじっくり診てくれるという次第。待たされたが、まず整体的に体のあちこちを動かしたりして、もちろん患部もじっくり触って、当人から詳しく話を聴きながら処方してくれた。

 原因はわからないものの、母はひどい胃下垂であり、よし、では治してやろうと言ってくれて、陰であり虚だから体を冷やさないこと、ともかく暖かくして冷たいものや生野菜、イモ類根菜類など繊維質のものは食べてはいけない、牛乳も果物もヨーグルト類もダメ、甘いものも食べたくてもダメと厳しく細かく食事もアドバイスされた。そうしたものを食べると腸が過活動を起こすのだという。
 母は昨日、朝と昼は普通に食べられたものの、早めに夕食で柔らかいうどんを少し食べたら、またも夜中に胃痛で明け方まで眠れなかったらしい。それで今朝もまだ体調悪く、少し痛むようだったが、その先生に体をいじられ矯正してもらったら早くもその不快感は消えたとのこと。そして早速、漢方薬をその場で一包み出して飲ませてくれて、毎食前に飲むその薬を一月分出してくれた。

 というわけで、食べられないものも沢山言い渡されたし、じっさい半信半疑の気持ちもまだあるのだが、治してくれるとの先生のお言葉を信じてこれからともかくその漢方薬だけ飲んでいこうと思う。その薬の名前だが、半夏寫心湯という。

 漢方だからすぐに効果は現れない。しかし、年末頃には効果が出てきてほしいものだと願うしかない。正月には良い知らせがお伝えできたら良いのであるが。

 その後、叔母たちと駅前の和食堂で4人で遅い昼食を食べ、駅で別れ、また溝の口から南武線で立川に出て青梅線で帰った。家に着いたらもう夕暮れだった。まあ、新たな指針が出た。幸い自分は料理の心得もある。料理の本も売るほどある(笑)。母のために暖かく消化の良い食事を作っていこう。基本は辰見先生の「命のスープ」である。

これからも音楽と向かいあっていく・中2010年12月08日 22時43分31秒

★ジョン・レノンの命日に思う

 昨日は出かけたが、このところほぼ毎日家に篭って、片づけや本の整理に専念している。老親の介護と食事の世話に専念中ということもあるが、ようやく自分の道楽である「音楽活動」が一段落し、また昔のような本と向き合う静かな生活が戻ってきたというわけだ。

 考えてみれば、これが元々本来の自分であり、この数年、特に今春からの加速度がついたライブ企画騒動は終えて醒めた今では常軌を逸していたかと思える。しかし今は悔いはない。終わったこと、済んだことは仕方ないし、失ったものも少なくなかったが、得たもの、学んだものの方がはるかに大きい。何にせよ自分はラッキーマンであり、常にいろんな意味で運が良かったと今振り返って感心している。もっと最悪の事態だって十分起きる可能性は多々あったのだ。毎度のことながらまさに冷や汗ものの人生であった。

 反省でも後悔でもなく唯一残念で哀しいことは、自分と関わったことで周囲の多くの友人知人を傷つけてしまい、結果疎遠となってしまった人たちが何人もいることだ。人と共に何かをやることは当然意見の相違も含めて様々な軋轢が生じる。トラブルも起こるし、ケンカにもなる。そもそも自分が何か始めなければそんな事態は起きずにきっと今でも仲良く変わらぬ関係が続いていたはずであり、そう考えると過ぎたこととはいえ胸が痛む。誰とでもうまくやれるはずはないのはわかっていても誰とでもうまくやっていきたい自分がそこにいる。

 だからといって、もう音楽と関わることは懲り懲りだとか、うんざりだとは思わない。いや、ましてこれまで以上に真剣に音楽と向き合いたいと考えている。ただ、これまでのようなこと、ライブの企画運営とは一線を画し、もっと効果的な、ダイレクトな関わり方はできないものかと模索している。こんな自分でもまだ何かできることがあるように思える。うまく説明できないのだが。
 不遜を承知で書けば、裏方としてではなく、もっと正面から自分も音楽に向き合いたいということだ。もちろん、唄い手とか、プレイヤーとしてお金をとって人様に顔向けできるなんて思わないが、せめて「うたう古本屋」にはなりたいと切に願う。これまではライブ企画する古本屋だった。そしてそれはある意味限界を痛切に感じた。自分の手に余ることでもあった。ならばミュージシャンの手に音楽を委ね、彼らを非力な自分が担ぐのではなく、ささやかでも自らの手のうちに音楽を今一度取り戻したいと思えてきたのだ。

 自分にもうたいたい歌がまだある。ジョン・レノンが死んでからあれから何年たったのか。世界は彼が望んだようになるどころかさらに破滅に向かっているように思える。人類は歴史から何も学ばない。ならばだからこそ哀れなジョンの魂に報いるためにも音楽にきちんと向き合っていきたい。音楽の力を今もずっと信じている。未来を生きる者に向けて音楽を残したいと思う。

歪んだ欲望の街・秋葉原2010年12月09日 21時37分26秒

★今浦島の目で秋葉原を散策してみて

 今から20年ぐらいも前のことだろうか。あれからどれぐらいたったのか。かつて秋葉原は自分にとって最低でも月に一度は訪れるホームベースであった。その頃はオーディオマニアの端くれだったことと、石丸などでのレコード収集が目的だった。それがいつしか足遠くなって疎遠になり、さらには大規模な再開発が終わり、ようやく今日久々にゆっくり訪れてみてその変わりように驚き呆れ果てた。まさに浦島太郎のような気持ちになった。

 かつての電気街は、今は美少女アニメとフィギュアとメイドカフェの町に成り果てていた。そこにゲームソフト専門店と外人相手の家電店がひしめき合い、かつては探すのに苦労した軽食店も立ち並び、電気オタクの姿はほとんど消えて、メイド姿の女の子が四つ角ごとに立ち客引きをする異様な光景が目立っていた。

 実は今日、我が家に設置する外装用のライトとか照明器具を探しに電気のことなら秋葉原と思い立ち出かけたのだ。でも駅も全部新しくなってからは外に出ても全く知らない風景であり、ただ戸惑うばかり。ようやく昭和通りに出て、昔よく出入りした記憶のあるパーツ屋が集まる路地がみつかり位置関係が確認できた。

 しかし、駅近くの細かい電気部品を扱う専門店はともかく、大通りの大型電気屋はほとんどいずこも姿を変えていて、同じ名前でも扱っている商品は美少女アニメやゲームのオタク向けグッズであったり、ふつうの家電を扱っている店を探すほうが難しい有様だった。まさかこんな街になっているとは噂には聴いていたし、その移り変わりは少しづつ体感はしていたのだが、改めてうんざりもしたし困り果てた。これが21世紀ということなのか。

 ようやくかつて知ったる照明器具の専門店八木電気商会にたどり着き、風呂用の灯りと、階段途中につける船舶用ライト、それにアルミの笠とソケットなどセットで買った。そこは5年ほど前にも来て最初に建てた裏側のほうの照明は大まかまかなったのだが、そのときも変化に戸惑ったとしてもこの街の移り変わりはさらに悪化していた。

 一言でいうと今の秋葉原は歪んだ欲望、それも隠蔽された性衝動が全開となり商品化された街であり、昔あった赤線街と変わらない。いや、まだ赤線のほうがダイレクトに性衝動が金に結びついていた。この街では少女の膝枕での耳かきサービスのような仮想形態をとっているだけさらに質が悪いように思える。

 ここで起きた加藤某という青年による無差別殺傷事件もなるほどここなら起きても不思議ではないと思えてしまった。つまり欲望の街では欲望が満たされた者、満たすに足る金がある者にとっては天国に違いない。一方その欲望が満たされぬまま屈託を抱える者にとってはここに集う人たちは憎しみの対象以外何者でもないだろう。

 その青年に同情も理解も全くできないが、正直今の秋葉原は気持ち悪い。通りを歩くだけでむかむかして買い物を終えたら足早にオタクの聖地を後にした。これは時代についていけない老人の繰言だと思ってもらっていいが。

何かまた慌しくて2010年12月11日 01時58分55秒

★終電で帰るとブログは一日抜けてしまう。

 今日は吉祥寺で、年下の友人たちと夕方からだらだらと呑み続け、3軒ハシゴして、立川からの青梅線最終で帰ってきた。まあ、このところずっとお世話かけてきた仲間たちとの忘年会のような集いである。私的には謝恩会だと思っている。気心しれた仲間たちとつい飲みすぎた。

 このところ、何故か幸い終電に乗り遅れ立川から一時間以上歩いて帰ることが久しい。いつもギリギリでも終電で帰れている。今日こそは、夜も深けてついに間に合わずタイムリミットかと覚悟したが、例によって中央線が人身事故だかで15分以上遅れていたので吉祥寺で零時をだいぶ回っていたが余裕で帰れた。自分は改めてツイていると思った。ただ、自分の駅に着いたのが1時を軽く過ぎていて、それから犬たちと散歩してパソコンに向かうと、もはや深夜2時である。酔っぱらってもいないがさすがに疲れた。
 
 というのは、昼前から母を車でかかりつけの病院まで点滴に連れて行き、2時間以上かかるので、その間一度家に戻り、本の梱包と発送して、また迎えに行き、薬局に処方箋を出し薬をもらって、大慌てで母を乗せて家に戻り、晩飯のしたくして吉祥寺に向かった。もはや夕方である。でもやはり遅れて友人を15分ぐらい待たせてしまった。

 若い人たちと呑んで思うのは、当然ながら皆若く元気だからしっかり食べるし沢山呑めるし、その健啖ぶりに感心もし羨ましく思う。自分も同世代の奴らよりは呑めるし大食らいだとの自負もあったが、気がつけば最近は飲む機会でもほとんど食べず、ちよびちょび呑んで、余りものを最後に口にするぐらいだ。別に食べなくとも良いしたっぷり呑まなくてはならないというわけではない。その気力が失せた。これが老いということなのかとも思う。

 正直に言うと、自分もまた胃の具合が秋口からずっと悪く、家庭内に病人がいると、家族もまた病気になるという喩えの通り、母の容態に振り回され、こちらまで胃が痛くなってしまった。まあ、そもそもの原因は、10.11の浅草木馬亭であったが。

 まあ、それでも自分もまだ生きている。母も一進一退ながら生きている。それだけで有難いし、自分の祖母の口癖だったが、「人は生きているだけで丸儲け」だとつくづく思う。
 人生は辛いしうんざりすることばかりだが、まあ生きていれば良いことも楽しいこともあるだろうし、どうせいつか人は嫌でも死ぬのだから、何も慌てて死ぬことはない。

 誰もが同じだと思うが、自分にもささやかな夢と希望もあり、もしかなうならそれを実現したく思う。今までずっとダメだったし、ダメで元々とも思うが、改めてこれから人生をきちんとさせたいし、やり直したいと思っている。この歳でなにを今さらと笑うなかれ。

12月25日、プレオープンイベント開催します。2010年12月11日 09時05分51秒

★とーとつなお知らせですが、25日、クリスマスは無頼庵で。

 もうクリスマス当日の予定は決まっている方がほとんどだと思うけれど、25日は土曜日でもあることで、無頼庵は開放することにしました。
 当日は某クラブの怪しげな方々が集う場を提供するので、ついでということもありますが、どなたでもお気軽にお越し下さい。

◆日時:12月25日 昼頃から夜まで

◆場所: ブックカフェ・無頼庵 ※場所・来方は、ご連絡ください。地図をお送りいたします。 携帯090-8175-8479

◆入場料など:  パーティに参加される方は、二千円。失業者、生活困窮者及び音楽家・芸術家は半額もしくはカンパ。見学のみは無料。裕福な方は倍額。※乳幼児及び喫煙者不可。

 今回は内覧会ではなく、一応寛げるようにそれなりにきちんと飲食の場を設けます。ただし、まだ一部未完成の部分もあるかと思いますので、何卒ご理解ご容赦お願い致します。

穏やかな師走の晩に2010年12月12日 21時20分46秒

★心静かに思うことを少し

 暖かい小春日和の日曜だった。出かけずに家にいて、本の発送やお世話になった北海道の恩師へ、家で採れた銀杏や柚子、柿など箱詰めにして送ったりした。大工が来ないので久々に寝坊したので、気分も体調も良好である。

 まず母の具合だが、おかげさまで、一時最悪の事態より落ち着いて回復傾向にあるとお知らせしても良いようだ。先の大岡山での漢方の名医の処方が効いて来たのか極端な胃痛は起こっていないし、一進一退というときもあるけれど、今日は三食無事に食べられた。まだ量はすごく少ないが、ともかく食べても後がさほど問題起きないのは良い傾向である。

 思うに、その診断が正しいかはともかく、これまでの西洋医学の医者たちは、薬は出すけれど、何を食べてはいけないとか、どうしろとか何一つアドバイスしてくれなかった。つまり検査で何もわからないと薬出して様子を見ましょうと言い、改善されないようだとまた新たに違う薬を出す。胃痛で食べられないからと訴えても、ある医者は点滴など栄養はないから意味がないと言って点滴すらしてくれないで帰されたこともある。また、別な医師は、年取れば皆どこかおかしくなる、皆どこかしら悪いところや痛いところを抱えて生きているのだから仕方ない、あんたも我慢しろとまで言い放った。

 でもそれはおかしな話で、これまで痛くなかった人が痛くて困りかかりに来ているのだから、それを我慢しろとは医者として失格だと思えてしまう。その漢方医の有難いことは、食事まで指導して、何をどうしろという具体的アドバイスをしてくれたことだ。一応それを守っているせいか、以前のような激しい痛みが起こることはなくなったというわけだ。
 ならばその漢方の教えに従って、体を冷やさないよう食事に留意し少しでも多くしっかりと食べれるようにしていこうと改めて思っている。

 一昨日の夜は友人たちと吉祥寺で三軒ハシゴした話は書いた。自分ではさほど酔った気はそのときはしていなかったのに、次の日はずっと頭が重く鈍痛し、風邪の引き始めのようなふらつき感があり調子が悪かった。今だから告白するが、その晩すぐに書いたブログはまったく記憶がない。次の日、読み返してみて、何か書いたという覚えはあっても内容は関知せずで、こんなことを書いたのかと後で知った。やはり酔っぱらっていたのだろう。

 昨日もそんなでも夕方人と会う用件が二つあり、仕方なく新宿まで出たのだが、無理せず用事だけ済ませて早く帰ってすぐに寝た。たっぷり寝たせいか、風邪だか二日酔いだかは治り、今日は小春日和の一日を満喫した。こんなのんびりとした気分は久しぶりであった。

 本当にこの夏から秋は、異常に忙しく寝る時間もろくになかったし、寝ても悪夢にうなされ心身ともに消耗していたのだ。10.11が終わった後も心身症気味で深く眠れず不調は後をひいた。ようやく今月に入って落ち着いてきて、久方の光のどけきという気持ちで過ごせるようになった。もちろん母の容態もそこに大きく関係している。

 家族に一人でも病人がいると、その一家は常に憂鬱気分に覆われてしまう。ひどいときは看病していた者までもまた病気になってしまう。ならば何もできなくても良いからどうか皆無事に元気で一年が終わることを望む。自分にとっても誰にとっても平穏平和であるように。誰もが憎しみあわず愛し合えるように。
 罪深かった自分は神に赦しを乞いたい。クリスマスはそのためにあるように思う。