国をあげてほどほどの生活に2011年04月01日 09時19分07秒

★光のどけき春の日に思う。

 大震災から今日で三週間。計画停電も4日連続して中止されたままで朝から晴れてのんびりした金曜日である。今日から4月。年度替りでもある。

 結局のところ、夏場の猛暑期はともかくも基本的に電力は通常は十分足りているのではないか。このところの東電の対応を見ているとふとそう思えてきた。
 確かに原発が停止中で、供給量は不足しているのは理解できるが、大規模停電が起きないよう事前の「計画停電」が東日本の国民には周知徹底されたので節電はかなり進んだし、そのことでたぶん当面は計画的に停電はせずともやっていけるのではないか。
 まあ、あれだけ官民上げて電力不足の不安を煽って皆が電気を節約節電しているからこそ停電せずとも大丈夫なわけで、ある意味この国にとっては良い意識変革の機会となったと考える。

 今までは自らを省みてもずいぶん無駄に電気を使ってきた。出かけるときも灯りを点けっ放しということも多かったし、あちこち使っていないところにも常に照明がついていた。今は極力灯りは消して電気は使わないよう心がけているので、このところ改築以来ずいぶん嵩んでいた電気量もおかげで下がるはずと期待している。

 考えてみるとこの国はこれまで電気をふんだんにまさに湯水のように使い捨てにしてきた。今はともかく都心に行けば夜でも昼間と同じほどネオンは眩いし、店の店内も煌々として昼間とまったく変わらなかった。また、日中でも室内、店内は電気をつけていたし、オフィスでは社員帰宅後も明りをつけっぱなしにしているところも多かった。でもこれは本来おかしなあってはならない状態だったのだ。

 数年前ヨーロッパ、といってもソ連モスクワ経由でフランス、パリに一週間程度行ったとき気がつき前のブログにも書いたことだが、向こうはともかく夜はどこも薄暗く困惑するばかりであった。
 モスクワ空港はこんなに暗くて大丈夫かというぐらい照明が少なく、パリでも地下鉄に地上から降りる階段は手探り状態というほどの暗さのところもあった。

 むろん、肉体的に目の仕組みも異なり、西欧人は逆に明るさに弱いという違いはあろうが、たった一週間でも日本に戻ったとき成田についたときから街が明るすぎて目が痛くなるほどだった。これは一度でも海外に出かけた人なら気づくことだろう。
 何故西欧は暗いかというと、目の違い以前に、あちらはともかくとことんケチなのである。特にフランス人は倹約家で、使っていないときに照明が点けっ放しであることはたとえ通路、廊下でもがまんできない。ホテルの通路でも向こうのスイッチは押せば点くが数十秒すれば自動的に切れるというのがほとんどだし室内も天井から煌々と照らすことなく間接照明しかないしともかく電気の無駄はない。感心を通り越してあきれ返るぐらいだ。
 しかしそうして厳しく無駄をなくし倹約、節約ばかりしてもときに贅沢はしっかりするときも多いし、人生に緩急がついているのが彼ら西欧人だと言えよう。日本人はそのへんがユルイというか意識が甘く、これまで電気に関しては実に無駄に浪費してきた。

 今回の大震災がもたらした電力危機はそうしたこれまでの価値観を見直す絶好の機会でもあると考えるべきであろう。自分も含めてこれまで電気に関してあまりにも無関心だったし、金さえ払えば電気は無尽蔵に使えると迂闊にも考えていた。しかし今後はそれはありえない。
 もちろん全てが復旧し、景気も回復したとしてもまた元通りの豪奢な栄華を誇るバブル時代のようなときが来ることは絶対ないし、これからは経済成長神話を夢見ることなく、細々と節約して無駄を失くして国をあげてやっていくしかない。

 がんばれ、ニッポンという掛け声は勇ましいし、有り難くそれは良いことだと思うが、日本は資源も人的力もない高齢化した国なのだ。今後は無理して元通りに戻すのではなく、貧乏たらしいかもしれないが、ほどほどの暮らしで細々とつましく生きていくしかない。他の方はどうか知らないが、自分は元よりそう考えていた。この大震災でその思いはいよいよ強くなった。
 古本もそうだが、何でも使いなおし、使いまわしてとことん役立てていく。うまくすればそこから消費も生まれる。互いに助け合い支えあい工夫して生きていく。もはや21世紀を生きていくの術はそれしかないと信じている。

こんなときだからこそイベント「自粛」より生を喜ぶべき2011年04月02日 23時21分08秒

★自粛要請の世相はおかしい。

 都、つまり石原“天罰”慎太郎の意向なのだろうが、上野公園とか都の施設でのお花見などは自粛しろとのことである。それって正論のようにも思えるが、被災地で飲んで騒ぐならともかくも何故こちらでお花見してはならないのか、またそうした個人の楽しみに行政が介入するのか理解に苦しむ。
 確かに連日報道される被災地の惨状と被害に遭われた方々の苦難と哀しみ、ご苦労を思えばお花見騒ぎどころではないかもしれない。しかし、それもまた禁止よりしたい人はすれば良いことだし、無駄に電気を使う類のならともかく、日中に個人が集い、春の到来を喜び生きていることに感謝さえするならば何一つ問題ない。ましてこうしたイベントは冷え切った消費喚起となり人は皆元気にもなろう。どうしてそこに行政がとやかく口を挟むのか。

 大震災以降、今音楽ライブなどイベントの中止が相次いでいる。確かに計画停電騒動もあるし、今はまだとてもそんな気分ではないというのは自分の中にもある。音楽や演劇、演芸などに行ったって楽しめないというのが人の正直な気持ちだと思う。
 しかし、憂鬱な気分の時は、引き篭もっていると状態はさらに悪化してさらに鬱々としてくる。酒の力を借りても借りなくても良いが、まずは外に出て外の空気を吸い人と会うことだ。そして人と語らいときに泣き、笑い、溜まった気持ちをいったんすべて吐き出すことだ。

 人には衣食住、そして仕事、それに家族という実際に必要かつ実用的ななくてはならないものがある。一方、いわゆる芸術の類は、不要不急のものであり、まずは衣食住など最低の条件が足りてこそようやく食指が動くものだ。
 まさに、あってもなくても良いものというよりなくてもなくても良いものであり、こうした大災害時にはまずは生活物資、生活再建が優先される。しかしそこの緊急救急の状態が脱すれば、求められ役立つのは音楽などの芸術娯楽であり、本や映画、演劇演芸も同様に萎え疲れた心と体を癒すはずだと信じている。

 そう、人には気分転換が必要なのだ。じっとひたすら目の前の現実に向かい合って、それだけを見ているとやがては頭がおかしくなってくる。悩み考えることで解決され出口が見つかる問題ならともかく大震災のような状況ではすべてに行き場がない。だとすればそこに処方があるとすればひと時でも現実を忘れる時間を持つことだ。良質な芸術はそうした日常を忘れさせてくれるはずだし感動は生きていく大きな力になる。

 都や国をあげて「自粛」「自粛」と民に強いると、世の中はますます暗く鬱々としてくる。先がまだ見えない不安なときだからこそ、桜の花の下で、飲みかつ唄い騒げば真にがんばろうと気分も晴れよう。大震災で亡くなった方々を想い悼むことは重要だし、被災者を支援することは肝心だが、まずはこちらも元気にならないといけない。元気でない人は他者を元気にすることなんてできやしないのだから。

どのようにして死に臨むか2011年04月05日 23時54分51秒

★近況報告とこれからのことなど

 この数日慌しいのと疲れが溜まって拙ブログさえ書けなかった。申し訳ない。
 大震災の後始末的なことはほとんど何もないのだが、母が退院して2週間が過ぎて、家で養生することの世話、介護と、このところ一気に進んだ父のボケの応対に追われ、そこに合間縫って、改築後の荷物の移動やまだ未塗装の壁塗りなど作業もしてたので、夜になると疲れがどっと出て酒の勢いもあり倒れこむように寝てしまいブログさえ書くことままならなかった。

 思うが、生きていくのも大変だが死んでいくのもまた大変なのだ。いや、そもそもある程度歳をとって生きていくということは逆説的に考えればどう死んでいくのか、どう死に臨むかということに他ならない。今や男の平均寿命を越えた父と80過ぎ、ガンを患う母が生きるということはこれからどう死ぬかということが直截問われている。
 自分はまだ50代だが、その問いにはたぶん60ぐらいになれば嫌でも真剣に向き合わねばならないと思う。そう、どう死んでいくかだ。これがなかなか難しい。

 人間はのんべんだらんだらだらと日々時間を浪費していくことはたやすい。歳取れば一日なんてあっと言う間だし、毎日毎日何だかんだやることはあるし慌しくもたもたしていれば一週間、一月、そして一年なんてあっと言う間に過ぎてしまう。そしてそれが積み重なって気がつけば老年、老人となりいつ死んでもおかしくない年代になっている。

 生まれてきた者が死ぬのは自然の摂理だから、それはそれで仕方なくあたり前のことなのだけれど、人は他の動物と違い、生きたことの意味、意義や価値をそこに付加したいと願う。生きた証である。また誰でも同じかと思うが死は怖いし、順々とおいそれとは受け入れられない。ならばもっと真剣必死に日々生きておけば良いのに、人は怠け者で考えなしだから、いざ死が目前に迫ってきて慌ててはたと考える。
 いや、それは家族だって同じであり、そんないつ死んでも不思議でない歳の老人なのに、あまりに長い付き合いなので、自分が生きているのと同じように彼らもまだまだずっと生きていくものだと考えていた。
 ようやくその考えの過ちに気がついた。それは失礼だが震災に遭われた方々も似た思いを持たれたかと思う。生は当たり前のように考えがちだが、常にオセロのコマのように死に裏打ちされていたのだ。

 そんな天災による突然の「死」でなくとも、年齢と共に病気の巣窟のように体は衰え、死と向き合い、迎える段階に入っていく。それでも今は医学が進んでいるから、毎日呆れ果てるほどの量の薬を飲み、ときに手術したり、注射や点滴や機械の力でかなりの期間延命も可能となる。
 漱石居士は、度重なる病患の末、50代早々に、胃潰瘍で死んでしまった。いくら昔の人だといっても若すぎるし今の医学では死に至る病ではなく、小説を書き続けられたかはともかく70代ぐらいまでは軽く生きられたはずと思う。
 日本は今や世界有数の長寿国であるが、じっさい健康無事に八十代まで生きられた人は少なく、医学の力で本来はとっくに死んでいた人が生きていられ長寿を迎えられたのだと母の入院で同室の老人たちを見ていてつくづく思い至った。長生きは良いことであるが、周囲の人、特に家族にとっては高齢の病人の家族もまた老人であるので、見舞いだけでも大変なことなのである。

 母が入院している間、うっかりして認知症の薬を飲むのを当人任せにしていたので、当然親父は飲み損ねていたせいでか、このところボケが一気に進み、奇矯な行動や発言が頻繁に起こるようになった。母が退院して安心したり甘えているせいもあるのだろうが、このところ我家では騒動が絶えない。
 母も退院してから、どうしたことか前より怒りっぽく、口やかましくなってその父を大声で叱りつけたりもしている。物語ならば、瀕死の病気から生還でき、家族全員喜んで悔い改め仲睦まじく暮らしました、となるはずが、また元のように怒鳴りあう、騒がしい家庭に戻ってしまった。これでは元の木阿弥であるし、生の有り難さがちっとも生かされていない。喉元過ぎれば何とやらでまったく情けない。つくづく人は身勝手なものだと嘆息する。

 下手にブログを書き出すとそんな愚痴ばかりとなりそうで、迂闊にブログさえ書けなかった。いずれにせよ、生きていくのは、いや、死んでいくのは難しい。願わくば、残された日々一日一日、一つ一つのことをきちんと大切にして慈しみ感謝して生きたいと思うのだが・・・・。

抗がん治療と今後のことなど2011年04月06日 23時31分47秒

★とりあえずの短観は出たようなので

 この数日忙しかったのは、介護保険の手続きの方で、ケアマネージャーが連日訪れたり、昨日、今日と連日立川の病院に出向き、退院後初めての診断があったりしたからで、とりあえずであるが今後の方針が決まった。抗がん剤は当面やらないことにした。

 母は、今80歳数ヶ月で、今回、卵巣が原発のガンが腹部あちこちに転移し、中でも大腸と小腸の繋ぎ目が腫瘍となり、腸閉塞を起こしていたところを一応手術で取り除いた。
 退院後初めて検査を兼ねて病院に行き、担当医と婦人科の医師の診断を連日受けた。結果だけ報告すれば、血液検査では、腫瘍マーカーの数値も下がり、今現在は患部を取り除いたこともあり、多少の腹水も溜まってはいるが婦人科の先生の言葉で言えば「小康状態」ということだった。

 正直なところそれを聞いてほっとした。とりあえずであるが、当面しばらくは生きていけるのだと安堵した。昨年秋口からの病気騒動はようやくここで一段落したと報告して良いかと思う。
 ただ、散らばったガンはまだあちこちに残っているので、いつまた大きくなりまた似たような悪疾を引き起こすか、またそれはどれぐらい猶予があるかはわからない。だから抗がん剤の話が医師のほうからは出ていて、それを始めるかどう対応すべきか判断を迫られていた。

 自分も含めて家族としては、何もしないよりは、積極的にがん治療に取り組むべきだと考えてはいたが、なにぶん極度にやせ衰え、体重も体力も戻らないところに年齢も年齢だし、体にかなりの負担となる抗がん剤治療は果たしてすべきか迷うばかりでいた。
 ガンが近く再発するのも困るが、逆にその抗がん剤自体が体力を奪い命を縮める可能性もあるかと考えていた。

 他の療法、例えば丸山ワクチンとかいろいろ検討もしてみたが、今回、血液検査他診察を受けて、抗がん治療はやるとしてももう少し時間をおいて体力がついてから、あるいは検査してガンの再発が確認されてからで良いかと医師たちの話を聞いて思えてきた。
 というのは、ガン研などでは、八十代の患者には、基本的に抗がん剤治療はしないということだそうで、その理由として、もはやその歳になると、効果が確認できるデータがないからで、つまり、いつ死んでもおかしくない年代の人たちには抗がん剤が効いたから長生きできたか、効かなかった死んだのか判断できないからであり、これが60代ぐらいの余生ある人なら抗がん剤治療のかいもあるが、母の年齢となるとあまり意味ないということだと理解できた。医師の口ぶりだとやってもやらなくともあまり変わりないという感じであった。
 じっさいの話、その治療が効けば、かなり劇的にガンは治癒することもあるが、またしばらくするとたいがいは再発することも多く、決して抗がん剤が効いたとしても完治するということでもないらしい。

 ならばこそ慌てて体に負担かかるその治療を急いでする必要もないわけで、ともかくまずは体調と体力を取り戻すことに専念して、医師の定期的検査を受けつつ、臨機応変に考えていくことにした。
 しかし体内に進行がんという爆弾を抱えていることは間違いないし、果たしてどのくらいまで極端にやせ衰えた体が戻るかわからない上、残りの人生、果たしてどのくらいあるのか家族が共に過ごせる日はどれほどか日々一日一日を大事にしていかねばならない。

 まあ、人は老いて病み誰もが必ずいつかは死ぬわけで、父も母も十分かはともかくもうかなり生きてきたので、今は全て肯定して前向きに考えせめてこの自分の行く末が老父母の心配の種とならないよう頑張らねばならぬと誓い新たにした。

 昨年の秋から実に約半年、それ以上もこの母の原因不明の胃腸病に振り回され、頭を悩まし苦しみ一喜一憂しその都度拙ブログでも大騒ぎしてしまった。実に恥ずかしくも申し訳なく思う。ガン部位摘出と腸のバイパス手術から一ヶ月が経過し、今はようやく長いトンネルを抜け出た思いでいる。
 一時期は暗闇の中、迷い苦しみ手探りで救いを求め、死の淵からの生還だけを祈った。友人知人、会ったことのない方々まで多くの方々の励ましと寛容さに助けられ救われたと思っている。そして神にも感謝せねば。
 今この大震災以後の時代、自分もまた人のために少しでも恩返ししたいと真剣に考えている。
 人は人のために生きてこそ人。今すべてを赦し受け入れて、自分もまた残りの人生を精一杯生きていきたい。まだやるべきことがありできる喜びを噛み締めながら。

 有難うございました。

空気と水と大地と2011年04月07日 22時35分35秒

★大震災以後人はどう生きていくか

 東日本大震災が起きてから間もなく一ヶ月。東京多摩地区に住む自分のことだけ言えば、目に見える変化は、町や駅内は節電効果で未だ薄暗いことやスーパーの棚には空きが目立つものの計画停電も当面なくなったようだし、自らの古本稼業のほうも注文は以前のレベルに戻ってきたようで、じっさいのところ3.11前と比べ困ることなどほとんどない。
 被災された方に親戚や友人知人がいない者にとっては、同じ日本人であっても何度も報道される悲惨な光景に驚きはなくなり申し訳ないが風化していくようにも思える。じっさい現地に足を運び、驚きや哀しみ、と苦しみ、怒りさえも体感すればその「現実」を自らのものとして内側に永遠に取り込めるのだが、ハイビジョンで見ようと映像はやはりバーチャルなもののように思えてしまう。いや、あまりに悲劇の全体量が大きすぎて、ある意味心のブレーカーが落ちてしまったような気持ちがそうさせるのだろうか。今ここにいる平穏無事な自分の現実と、被災地の方々が未だ味わう塗炭の現実との違いが正直不思議でならない。何故にかの地の人々はこのような大災害と試練を受けねばならないのか。そして自分は今ここにいて以前と寸分変わらぬ生活を送れるのはどうしたことなのか。どちらも現実だとしたらその違いは何故にあるのか。

 しかし、意識の底では大震災の以前と今とでは大きな違いが生まれている。いや、それは震災後の変化ではなく、以前から漠然と考えていたことがようやく3.11で裏打ちされて確固なものとして確信に変わったというようなものだ。

 大震災は天変地異であり、自然の営みであり、大自然の驚異の前では人の英知や考えうる対応策は残念ながらほとんど役立たなかった。それは大津波に常に備え防災には万全の対策をしていた市町村、自治体がほぼ壊滅的被害にあったことで誰もが痛感した。つまり従来の常識や発想では巨大地震と大津波には全く対応できやしない。
 しかし、福島の原子力発電所の事故をそのように同等に捉えて、予想外の天災により起きた事故で仕方なかったことだと考えてならない。事故発生後の今日までの計画停電騒動も含めて、その事故対応策の不手際、紆余曲折の試行錯誤、情報隠蔽と混乱混迷ぶりは、原発神話の崩壊以前に広く世界中に日本の無為無策ぶりを知らしめてしまった。

 東電と保安院なる組織、そしてこの政府首脳陣、無能だと罵りたくはないが、事態をここまで長引かせ周囲の住民、農漁業民まで巻き込んで不安と多大な迷惑をかけているのは彼らの責任だと断じて異論はないかと思う。
 近辺地域の野菜や魚への風評被害だって、彼ら政府為政者側がきちんとした対応策を出さないから国民が不信に思い、その不安感が高まってのことだろう。屋内待機しろと指示を出してもずっとそのままであり、自主避難しろといってもそれもまた自腹切ってさせるのではあまりに無責任かつ無謀な呼びかけである。

 この度は未曾有な事態であり、何も想定していなかったのだから仕方ないという声もある。しかし、為政者はこういうときこそ、避難するにしろ各個人や自治体に丸投げ、自主判断に委ねるのではなく、住民の生活と命を守ることを最優先に鶴の一声というべき大英断で、政府の責任によって移動させるなど強権を発動してもよいとさえ今は考える。もちろん被災者は

 とここまで書いて11時32分、また強い余震があり、様子見ていたが、棚から本が落ちそうだったので、慌ててパソコンの電源を切った。テレビをつけたらまた津波も予想されるほどの揺れで震源は宮城県沖のようだった。
 自分にとっては3.11以降、当日午後3時半の揺れに続く三番目に強い揺れ。

 先の文の続きだけ書くと、

 もちろん被災者は国が当分の間、全面的に生活支援していく。その額は巨大なものとなろうが、国難であれば国家を挙げて国民全体で背負わねばならないはずだ。しかし、その前にまず国と東電は原発周辺の住民、近隣の農家漁業従事者らにきちんと補償と弁済をしないとならない。

 いずれにせよ、生あるすべてのものに必要なのは、まず空気、水、そして健康な大地である。原発事故はそれらと世界中の人々の心さえも深く傷つけた。この地球にすべての核兵器と核物質を利用する発電所はいらない。

35年来の親友の死を記しておく2011年04月08日 21時52分06秒

★いくら呑んでも酔えない晩に

 私ごとを書く。
 風の強い曇った朝早くにかかってきた電話は、友人の死の知らせであった。慌てて喪服を探し仕度して夕方車で出、先ほどひので斎場でのお通夜から戻ってきた。帰路涙でかすんだ目でハンドルを握りながら彼の若いときからのこと、昔のことを思い出していた。
 
 仮にA君としておく。A君は、都立福生高の後輩で、軽音楽部で知り合った。たまたま家もごく近所だったので、同じく彼の同級生たちとも親しくなり、我家に集まっては皆で多摩地区をエリアとした反体制ミニコミを出していたこともある。それは彼が高校生の頃で、その頃から振り返ると実に35年の付き合いであった。そのA君が一昨日のこと大動脈何たらという病名で病院に担ぎ込まれあっけなく急死してしまった。まだ50歳。通夜から戻った今も実感がわかない。信じたくないし信じられない。

 彼は増坊と同じく、サークルでフォークギターなど弾いて音楽もやっていたが、やはり美術系大学へと進み、社会に出てからはこの近隣の中学で主に非常勤の美術教師となった。そしていくつかの中学を掛け持ちしつつ、この街で絵画教室を開いて子供や成人、障害を持つ人たちに絵を教えアトリエを開放していた。

 地方や農村ならどうか知らないが、東京だと、中学や高校時代の友人知人とは、よほど親しい親友でもない限り、お互い近くに住んでいたとしてもなかなか会う機会はもてないし連絡もとれない。たまに同窓会とかはあるかもしれないが、自分の場合、高校ではトラブルがあったので、その頃の人たちで今も連絡している同級生は一人もいないし、大学はともかくも高校時代の友人はA君らそのミニコミ音楽仲間だけだった。

 もっとも彼らも皆家を出て、それぞれ結婚し子供も出来、違う街に家庭を構えたので、会う機会もほとんどなかった。しかし、A君だけは、家は日の出の方に移ったが、アトリエはずっと増坊の家の近くだったので、頻繁というほどではないが、こちらから夜でもアトリエを訪れ、絵画教室の空き時間など二人でよく雑談を交わしていた。といっても35年間そういう親しい付き合いがずっとあったわけではない。近年自分もまた音楽にかかわり始め、愚痴や相談事が出来ると彼のところに行っては聞いてもらっていたのだ。

 A君は教育者としても多くの生徒から慕われ、尊敬されていたが、友人としても人格温厚で、決して怒る事などなくいつも温和で、こちらが事故を起こしたときも心から心配してくれたし、愚痴や相談事やどんな頼みごとにもいつもニコニコ笑顔で耳を傾け協力してくれた。それは先輩の頼みだから断れないということもあったかと思うが彼のやさしさだったと今にして気づく。
 昨年の第2回目の隅田川フォークフェスのTシャツを刷るのも時間と場所と人手がなく夜遅く彼のアトリエを貸してもらい彼が手伝ってくれたから出来たのだ。

 A君と最後に会ったのは、4月30日の夕方で、珍しく彼のほうから我家へ突然やってきた。こちらは本の発送作業だか、思い出せないが仕事中で、突然の来訪に驚いた。というのは、家を改築していることも話していたが、彼の方からウチに来たことは実に数十年ぶりだったからだ。
 こちらとしては完成した暁にはむろん招待し歓待するつもりでいたが、母の病気でずっと慌しく、今年に入って彼のアトリエにも行ってもなかったし、アトリエの前を本の発送などで通りつつももう少し落ち着いてから連絡しようと考えていたからだ。

 彼は、夕方生徒が来るまでに時間が急にできたから、ふとどうしているかと思って来てみたと言い、こちらも地震と母の退院以来ちっとも片付いていない本が山積みとなったままの室内をあちこち案内し見てもらった。しかし、こちらが時間がなかったこともあり、お茶だすどころか座って話すこともせず、たかだか15分かそこら、立ち話して、それも増坊の母の病気の顛末とかこちらのことだけあれこれ話して、これから用事があるからとすぐに帰ってもらったのだ。来てくれたのに短時間で本当に申し訳なかった。

 今にして、彼がどこまで意識していたかわからないがあれは別れの挨拶だったんだと思い至る。彼は自らの死を知らなかったはずだが、こちらのことをずっと気にかけていて家の事もどうなったかと案じて来てくれたのだ。だのにそっけなく、また今度もっとゆっくりとか言って帰してしまった。そのことを今ただただ悔やむ。ろくに話せなかったこと、いや、常に自分のことばかり話してばかりでちっとも彼の話を聞かなかったことを今にして気づく。彼はどんなときでも行けばいつもにこやかに頷きながらこちらの話に真摯に耳を傾けて的確なアドバイスと励ましでこのダメ先輩をやさしく支えてくれたのだ。

 振り返ればいつも自分勝手に自分のことばかり話していたような気がする。そして自分は都合よく彼を使い、頼みごとばかりしていたのだ。そのA君が4月4日の夜、自宅で突然胸が痛いと苦しみ出し、救急車で病院に運ばれたもののわずか1時間そこらで急死してしまった。特に心臓疾患とか前から患っていたわけではなくごくごく健康体だったと聞く。
 我家に突然来てくれたときもまったく普段と変わらずミニコミ時代の仲間から今朝方の電話で、死んだことを知らされて耳を疑ってしまった。まさに晴天の霹靂、何故だ、何故彼が死なねばならない。

 神も仏もないとは思わないが、どうして神は彼のような善人をこの世から奪ってしまったのかと叫びたい。死なねばならぬなら順番から行けばこの自分が先に死ぬはずではないのか。何故、多くの生徒たちから、沢山の人たちから好かれ慕われた求められた彼が50歳の若さで突然死なねばならないのか。

 帰り道、運転しながら酒が呑みたくてたまらなかった。曲がりくねった山道を我慢しつつ下りてともかく何とか家まで車を走らせ缶ビールを何本も呑んだ。でも全く酔わず、呑めば呑むほど醒めるばかりで後悔の念が増すばかりである。

 3年前、やはり大学時代の後輩の女子を40代半ばで失った。彼女も多くの人々から深く愛され、誰にでもやさしくまるで天使のような人だった。どうしてそんな世に必要な立派な人に限って若くして先立っていってしまうのか。彼らと比べてとことんダメな自分のような邪な心の者が生き残ることの理不尽を呪いたくさえなる。

 大震災とは異なるが誰が悪いわけでも誰のせいでもないのに突然奪われてしまう命がある。もっとも悔しく残念なのは当人だろうし、残された家族の驚き、哀しみ、嘆きは自分には想像すらできない。残念だがそれもまた天命だったと思うしかないのか。

 アトリエがある市役所までの道を通るとき、自分はきっとこれからもアトリエに明りが灯り、A君がいることを思い出し、今はこの世にいない彼の不在を噛み締めることだろう。彼は増坊のことをどう思っていたのか知らないが、自分にとっては大切な高校以来の35年間の親友であった。その彼を失いこれからどうしたら良いのだろうか。胸が張り裂ける。

 明日の告別式で彼の遺骸に聞いてみよう。

天国の門をくぐる2011年04月09日 22時41分57秒

★親友の骨を拾って

 人が生きていくことは、自らの死を迎えるまでに数多くの他者の死と出会うことに他ならない。しかもそれには年代があって、若い一時期は友人知人の結婚式ラッシュが続いたように、中高年、つまり老齢期に差し掛かると葬式が次々重なって一気に増えていく。

 祖父母の世代はともかく親世代の死は四十代から始まり、もはや日常的なものとなっているし、少し上の団塊世代も立て続けに死んでいるが、今後は同世代、つまり友人知人たちの死が増えてくるはずと理解はしていた。しかし年下の友、それも50歳での死はあまりに早すぎる。今日の本葬で、彼と最後の別れの後、焼き場で骨を拾い、ようやく事態がはっきり認識できた。そう彼はもうこの世にいない。もはや彼が生きていた証はカラカラに焼かれた骨だけなのだ。

 それにしてもつい先日、一週間そこら前に我が家に来てくれて、手術した母の容態とかを話し、気遣って心配してくれたその彼がもはやこの世にいないとは誰が予想しえただろうか。あのときはまったくいつもと変わらず元気であり、当人さえ自覚も意識もしていなかったのに、その日から4日後の夜自宅で急に胸が痛いと苦しみ出し、救急搬送された病院で約1時間後死亡が確認されたという。ほぼ即死であった。

 病名は、聞き慣れない「大動脈乖離」だと知らされたが、大動脈という心臓から出る太い血管の中の内側の層が剥がれてしまう病気だそうで、起きたらほぼ助からないという難病であった。
 この突然の死は家族にとっても親族にとっても友人知人、職場である学校の人たちにとっても東北大震災以上のショックであった。それは誰より当人にとって予期しえぬ不慮の死であり、その無念さはいかほどであっただろうか。またその苦痛を思うと言葉もない。

 増坊にとっても昨日は気持ちが収まらず一日頭がぼーとしてしまい何一つ考えが纏まらず彼を思うと涙が止まらなかった。通夜から戻ってもなかなか寝つかれず、朝も早く起きてしまいそれからはもはや眠れなかった。

 そして今日午前10時からの告別式と最後の初七日の法要まで一連の儀式を終えて、3時過ぎ高校時代からのミニコミ仲間を同乗させてこの町に帰って来た。一時間ほど仮眠とってから本の発送などした。
 今日も式の間さんざん泣いて涙も枯れ果てたということもあるが、今は心も落ちついてようやく友の死を理解し受け入れられるようになった。哀しく残念至極であるが、つい先日元気にウチに来てくれた彼はあっけなく死んでしまった。もうこの世にいない。もう現世では二度と会えない。

 誰が言ったか、人の価値、つまり生きていたことの真価はその人の葬式で測れるとのことだが、まったく今回の葬儀は、式場も日の出町の山の中で、交通の便も天気も悪かったのに、実に沢山の、しかもお義理で来た人は一人もなく、お通夜は彼が教えていた中学生らも含めて実に数百人もの焼香待ちの人の列が数十分も続いた。会場のあちこちですすり泣き、泣き崩れる人も沢山見かけて、いかに皆に慕われ愛されていたか思い知らされた。もちろん現役の教師の突然の死ということもあろうが、来た人は心から彼が好きで、その突然の別れを知り悼むために慌てて何が何でも駆けつけたという人たちばかりであった。

 また今日の段払いまでも親族のみならず多くの友人知人、関わりのあった方が最後まで同席して盛況で、通夜は盛大でも本葬は客はまばらということも多いはずなのに、彼の人徳はさらに確認できた。会食の席で、誰が言ったか、彼こそ一番天国に入りやすい人だとか、彼が天国に行けなくて誰が天国に入るのかという声もあちこちで聞こえ、まったくだとまさに共感した。

 誰にでも常に親切誠実で温厚篤実であったA君、生徒をはじめ多くの人たちに信頼され愛され必要とされた人。常に人のために親身になって考え身を削って尽くした人。今にして思えばその超多忙さが無理に命を縮めたのかと悔やまれる。
 弟のように思っていた彼がいなくなってしまったことは本当に寂しいしとても哀しくつらいことだけれど、今日の告別式に出て、自分もまたようやくだが、どう生きるべきか、どう生きていくか改めて指針を得た。
 
 彼の足元にも及ばないが、自分もまた彼のように生きたい。彼が生きたように人のために役立つよう生きたい。必要とされたい。天国の門をくぐるのは難しいが、どう生きるべきか確信を得た。

 戒名などというものは不要だと考えてた自分であったが、彼のには深く感心した。

 慈弦哲彩信士 これが彼の戒名である。シンプルにして彼の全てを言い表している。

コメント大歓迎・spam禁止2011年04月10日 11時07分37秒

★コメント勝手ながら認証形式にしました。

 拙ブログ、基本的には、誰が来て読んで、ご意見ご批判、お知らせなども書き込んでくれても一切かまわない。大いに歓迎している。
 異なる意見、考えであってもそれもまた一つの声として尊重するし、大切にしていきたいと考えている。認めるか認めないかということではなく、この世には様々な人がいて、百人の人がいれば百通りの意見や考えがあるということだ。そしてそれが世界を形成している。北朝鮮やナチズム、戦前の日本のように一つの意見や考えしか許されない世界はあってはならない。

 しかし、こちらが書いた内容とは全く関係のない、エロサイトなどに引き込む宣伝のための愚劣なコメントがこのところ連日届くようになってしまった。拙ブログなどにそんなの書き込んだとして引っかかるカモがいるとは思わないが、不快不愉快でたまらない。
 この世には自分のことだけしか考えない卑劣な馬鹿が沢山いることも承知しているし、日々届くスパムメールもやめさせることもできないのも覚悟しているが、せめてこのブログではそれをそのまま放置しておけない。自分はともかく書いた内容に、取上げた人、題材に失礼でならない。

 そこで勝手ながら昨日分からすぐにそのまま自由にコメント表示されないよう、いったんこちらで確認してそれらspamはすぐ消して対処していくことにした。書いていただいたコメントは前と同じくspamでないと確認したあとはすぐ表示させていく。ですので安心して遠慮なくご意見ご感想、ご批判など書き込んで頂きたい。
 
 また下劣なspamコメントは何度投稿しても表示はされないことも認識してほしい。

 どうかご理解のうえ今後ともよろしくお願いします。   増坊 拝 2011.4.10.

余震が引き起こすストレス、PTSD2011年04月10日 11時50分41秒

★大震災から一ヶ月が過ぎても

 3.11のあの日から一月経つが、今も余震が続いている。いや、震源地が三陸沖とは限らず、まったく違う場所でも起きているのだから果たしてそれは余震と呼べるのだろうか。
 今朝方も弱い揺れがあり、眠りが浅いときは寝ていてもその揺れではっと目が覚めて起きてしまう。その揺れている間は常に不安な気持ちになる。

 Post Traumatic Stress Disorder:(心的)外傷後ストレス障害という言葉は今では誰でもご存知であろう。いわゆる心の傷であり、辛いこと、ショックなことを体験すると、後々までトラウマとなって鬱々とし精神的に苦しみが続く。

 考えてみると、自分だって普段は忘れていることなのに時折思い出すと気持ちが萎え、屈託することがいくつかある。人の感情とはそうしたもので、時間とともにその心の傷はやがては癒えていくはずなのだが、今回の大震災では今もって余震が頻繁に続いていて、その都度また恐怖の感情が甦る。ほとんど被害のなかった自分でも余震に脅かされるのだからこれでは被災された方々は精神的に参ってしまうことだろう。

 友達に都内浅草の古いマンションに住んでいて、今回の大地震の揺れで室内の家具など倒れ落ちメチャクチャになった女性がいる。そのとき部屋にいたそうだが、ケガもせず命に別条はなかったものの、何週間もその後始末、生活復旧に時間をとられたと聞いている。
 その人は数週間が過ぎ、ようやく気持ちを切り替えて、再スタートを始めようと考えていた矢先の先日7日のこと、またかなり強い余震が起きた。それ以来どうしたことか彼女はまた鬱々としてしまいせっかく前向きになった気持ちが振り出しに戻されてしまったそうだ。今も立ち直れず苦しんでいるがどうすることもできない。

 これは典型的なPTSDの症状であり、困るのは、こうして余震が続く限り、そもそもの発端となった恐怖や苦しみ、哀しみが新たにまたその都度甦ってくる。一番の解決策は、余震の起こらない全く違う環境に移って時の経つのを待つしかないかと考える。しかしそれはおいそれとできるはずもない。

 文豪谷崎潤一郎は、細雪などの作品から何となく関西出身の作家と言うイメージがあるが、実はチャキチャキの江戸っ子で、本来は東京人であった。しかし、大正末の関東大震災以降、生活の拠点を以後ずっと長く関西の地に移し、その地で多くの代表作を生みだした。文学史には、大震災後、沢山の文士が東京を離れ関西方面に移住したと記してあるが、今にしてその理由が実感できる。
 もちろん家屋が倒壊したりして生活ができなくなり転居を余儀なくされたという人もいただろう。しかしそれよりもこうしてその後も余震が続くと作家の鋭敏な神経は不安で疲弊して感性がおかしくなってしまう。ならば地震の少ない関西方面へ行こうかと誰もが考えたのだとよく理解できる。

 まあ、阪神大震災を挙げるまでもなく、プレートの上に乗っかっているこの狭い日本の中で、地震が起こらない安全な地はどこにもないはずだが、ともかくまず揺れが起きないところに行くしか大地震によって起きたPTSDを改善させる方法はないように思える。

 問題は今も全国規模で大震災以降連動?して大きい地震が多発していることで、いったいこの国はどうなってしまうのか原発事故の今後も含めてますます不安は高まるばかりだ。
 がんばろう東北、がんばろう日本というかけ声はかまわない。しかし、PTSDになってしまった人たちにガンバレ、がんばらないとダメだと励ますのはしてはならない。肩を叩くよりもそっと手を握り締めること、不安に苦しむ人には、苦しみは皆同じだ、一人ではないんだと安心させることが肝要だと自分は考える。
 彼女のために何ができるか、どうしたら良いかずっと考え続けている。

政治の非力さをつくづく思う2011年04月11日 21時24分02秒

★大震災一ヶ月目の大余震の日に

 騒然として気持ちまで未だ動転している一日だった。

 3月11日、慎太郎が出馬記者会見をしようとしているときに大地震が起こり、そして当選した翌日、今日4月11日大震災から一ヶ月目の日にまた最大級の余震が起きた。福島原発事故後も公然と原発推進を公言している我欲の人、慎太郎都知事に対してこれはまさに「天罰」かもしれない。

 と、冗談はともかくもつくづく大変な時代になってきたと嘆息する。
 今日の夕方の余震、先日深夜の余震より大きかったように思えかなり揺れた。3.11以来、地震に備えて、本や家具、道具類など高いところに山積みにしないようにしているので落ちたりすることはなかったが、揺れている間は固唾を呑んでどうなることか不安でならなかった。一ヶ月が過ぎても全く余震が収まらないのだから今後も当分の間こうした不安定な状況が続くかと思う。

 大震災の前は、何だかんだあったが今思えば、平穏平和な落ち着いた世相であった。何しろ地面が揺れないだけでも人々は地に足がついて生活できた。今では余震がないときでも常に何か揺れているような気持ちがするし、安心安定という感情は掻き消え、不安感だけが高まったまま続いている。いったいこれからこの国はどうなるのか、大変な状況はいつまで続くのか、おそらく関西や九州方面の方々も落ち着かない気分でいることであろう。

 統一地方選の前半は終わったが、正直なところ自分の関心は低く、東京では都知事選しか選挙がなかったこともあり、むろん投票には行き、慎太郎とは対極にある人に投じたが、やはり予想したとおり慎太郎の圧勝であった。しかし、投票率から見ても、有権者都民の4人に一人も慎太郎を支持したわけではなく、まず選挙に行った人が今回の候補者の中では選ぶとしたら一番が慎太郎であったということに過ぎないと考えている。
 じっさいのところ突然の大震災を受けて三期も務めた来た現職に任せた方が新人より安心だからという思惑が都民の間にはたらいたと思うし、慎太郎に今後4年間都政を任せ期待している人なんてまずいないのではないか。こんな転換の時代に果たして旧来型の発想しか出来ない老人がいかほどのことが成しえるか。
 
 個人的にはこのところ、聖書にある、カエサルのものはカエサルに、という気持ちが強くなってきて、政治という目に見えること、目先のこと以外に実は目に見えない大事なことがあるのだと確信するようになったので、この世のことには関心が薄くなってしまった。

 むろん、今生きていること、「現実」とは原発事故も含めて政治の問題であり、しごく重要な未来へと繋がる大事なことだと理解している。しかし、今回のようなどれほど高い防潮堤を作ろうが、それをやすやすと乗り越えるような大津波が来るのなら、どれほどの土木工事的対策を立てようが全く無力ではないか。

 今後の復興対策に政治は今右往左往しているが、もはや菅内閣のみならず、自民党であれ、これまで政権担当した旧い政治家たちにはこの国難を乗り切る力はないと考えている。慎太郎であれ、誰であれ、旧来の政治家たちに頼り任せてはこれからの時代は生きていけない。むろん被災地と被災された方々を救うのは政治の責任だと断言した上で、この国の民全員が本当に新しく変わるよう意識変化をしないとならない。このままだと日本は大変な新しい時代を乗り切ることはできない。
 
 でないと、疲弊した国には、偽メシアのようなヒーローが突如登場し、さらなる破滅に導いていくのは歴史が示している。