大阪へやってきた2011年05月01日 09時19分07秒

★無線LANで旅先でもブログ書き足します。

 今これを書いているのは、大阪西成区の三畳ほどのスペースのビジネスホテルである。この部屋には机も椅子も一つもないのでベッドに腹ばいになってノートパソコンに向かっている。

 先にお知らせしたように、先だって新しく東芝のダイナブック、しかも2011年春タイプ、ウインドウズ7の入っているノートタイプをネットで買ったので、はたして出先でネット回線につなげられるのか正直不安だったけれどともかくここまで持ってきた。

 昨日の朝、夜行バスで大阪に着いて、荷物抱えたその足で服部緑地の野外音楽堂へ向かい、さっそく今年の春一番の初日を観た。そして夜は難波の金竜でラーメン食べてホテルに戻ってきた。
 さすがに疲労困憊で、ネットにつながるか試したが駄目で、缶ビール飲んで寝てしまった。今朝方東芝のサポートに連絡して設定方法を教えてもらい今さっきつながった次第。すごくうれしい。

 今、9時半、これから支度して、春一番二日目に行かねばならない。パソコンがあるので、時間さえあれば帰ってきたあと、今日の報告もできるかと思う。

 というわけで、楽しみにしていてください。がんばります。

一年ぶりの大阪で2011年05月01日 21時42分19秒

★良いことも悪いこともすべて受け入れて

 相変わらず旅に出ると毎度ながら次々とトラブルと新たな出会いが待っていた。もうあれこれありすぎて、泣きたいよりももはや笑うしかない。たくさんの死を乗り越えたので、もう怒りも嘆きもしなくなったから、これもまた仕方ないかなとすべて受け入れていこうと思った。だから人生は面白い。生きていてここに来られたからこんなことがおこるのだ。


 さて、ネットにつながったので、さっそく今年の春一番の画像も入れた報告ができるはずなのだが、主催者の某氏に写真を撮ったことを厳しくとがめられ先ほどまで楽屋で取り調べを受けてようやく解放された。まあ、全てこちらが悪いしこの世には著作権何たらというものもあるし、他にもカメラ構えている人や、ビデオを回している奴もいるのだが、今回は怒りの矛先がこちらに向いたのか一身に背負う羽目となった。長年つきあい敬愛している彼の気が済むならあまんじて受けいるしかない。そんなこんなで昨日と今日の分、音も画像もすべて消したので記憶をたどり文字だけで報告するしかなくなった。それは不可能なことではないし本来すべきことだが、歳とって文字を連ねる手間を省き楽しようとついカメラやハイテク機材に手を染めてしまったのだ。

 主催者方と危うく取っ組み合いのケンカになるところだったが、他のスタッフのおかげでそうならなかったのは良かったことだし結果としてこれもまた今後につながるきっかけとなるかもしれない。
 ただ、気になるのは、阿部ちゃんがいたならこんな時どうだったかとつい考えてしまうし、今までがルーズすぎたとは言わないが、何か今年は彼がいた去年までと比べると音楽や演奏の部分以外の会場の雰囲気全般の管理が厳しくなりぎすぎすしているような気もする。自分が感激したかつての何でもあり、他人に迷惑さえかけなければ何でも許された(ように思えた)自由が何より持ち味だった春一番もしだいに変わり規制が厳しくなっていくのかと残念な気もしている。

 本当は今頃自分は嬉々として、昨日の初日から出演者とその画像、そして簡単な報告記事を書き始めていたはずだし、アップもできたはずなのだ。それこそが自分の役割、音楽に対する自分ができる恩返しだと勝手ながらも思っていたのだが、否定されてしまったような気にややなってしまっている。

 楽屋に置いてあったCDの入っていた私物の袋もなくなってしまうし、ゴミとして捨てられたのかと暗い中外のゴミ捨て場をがさごそ探したがみつからなかった。それもあって何か今日は踏んだり蹴ったりという気になってしまった。まあ、生きていればそんな日もあるし、それが自分の今日の役どころ、巡り合わせなのだと思う。

 今年もまたこの場所に来られたこと、この地に立てたことだけだって本当は無理だったはずだし諦めていたのだからこれは幸運、幸せなことなのだ。

 すべては変わっていく。いつまでも同じことは続かない。変わることがいやならば、じっと息をころして暗い部屋の中で膝を抱えていることだ。
関わらなければ何も変わらないが同時にそれは生きにくくなってしまう。生きて生き続けていくためは変わること、変わっていくことをまず受け入れることだ。
 

 明日、2日は平日で、服部緑地の春一番コンサートはない。が、じっさいのところ、明日も野音は解放されていて、アマチュア?かどうか知らないが多くのミュージシャンが出るそうだ。誰でも入場無料で入れるとのこと。自分も知っていて用事がなければ行ったかと思うが、明日は京都で人と会う用件が既にある。
 もし、大阪近辺在住で、明日も休みでヒマな方はぜひ服部緑地へお出向きになったらとおススメします。

というわけで今日は京都で2011年05月02日 08時06分38秒

★気持ちを切り替えて

一年ぶりに京都の街を歩いて2011年05月02日 22時43分05秒

★街は変わる。人も変わる。

 今日は世間は月曜日、5月2日、春一番コンサートは会場は開いていて何かしらイベントをやっているのだと思うが、自分は京都に出た。

 昨年おせわになった詩人の有馬さんはちょうど岩手のほうに出かけていて不在なのは知っていたが、他にも会いたい友人がいたし、用事も約束もあったので気分転換をかねて、行きは淀屋橋から「おけいはん」の京阪に乗っていった。

 去年の春一のときは京都に寄らなかったかもしれないが、ともかく1年は経っての京都である。せっかく関西に行ったのだからと、母に向こうからお見舞いを頂いた人たちへ快気祝いとして何か送れと命じられてもいたので、錦市場で若狭の焼サバやら生八つ橋やらいろいろみつくろって郵便局で箱詰めして送ったりでほぼ日中は終わってしまった。またこの一年で京都の街もかなり変わっていて失望もした。


 新緑の美しい古都の春を堪能できれば良かったのだが、正直なところ、黄砂のせいなのか目に映る景色がなぜか白っちゃけて見えて、心から綺麗だと楽しめなかった。ふと気がつくと今年の春一のことや、無理を押して旅行に出たことが良かったのかとか残してきた親たちや犬のことをつい考えてしまっている。

 いつもは京都に行くと大阪とはまた別の心ときめくような思いが湧くのだが、今回はどうしたことか心から楽しめなかった。それは、時間的余裕もなかったし、明日からの残りの春一番のことをつい考えてしまうからでもあるのかもしれない。こんな気分は初めてだった。

 外の世界は内面の思いを照らす鏡だとも思うが、気持ちに迷いや曇りなどの悩みがあると風景にしっかり入り込むことはできない。老い弱った親たちを残して自分はいったい何をしているのかという問いかけが常に頭に鳴り響いている。やはり何事も余裕がないとダメなのと、当たり前のことだが全ては移り変わっていくものだとまたもつくづく思う。永遠に変わらず続いているものなんて何一つない。

 じっさいのところ、大阪や京都や春一番が変わったのではなく、自分自身が去年の今頃とはまったく変わってしまったのだと思う。母が危篤状態になり神や仏、神社にも行き連夜祈ったこともあったが、親友を亡くしたり昨秋の大きなライブの興業的失敗と関連して友人たちとの人間関係に支障を来したり、たくさんのトラブルも続いた。
 音楽の力を今だって信じているし、愛しているが春一というこうした素晴らしいコンサートの場に立ち会えて幸運、光栄だと思うのに、なぜか去年までとは違和感を感じて心から楽しめやしない。
 そのことは大阪や京都の町自体も同じ感じがするのだから自分のせいなんだと思うしかない。いったいどうしてしまったのか。

 京都の駅前にはどかんとヨドバシカメラの大きなビルができていてまずそのことに驚かされた。あのろうそく型のタワーのある建物のすぐ裏にである。確か前に行ったとき工事していたかと記憶もするが、まさかおしゃれでハイテクなメディア館が京都にできたとはびっくりした。確か町はずれにビックカメラのビルもあったと記憶するが、京都の人は喜び便利になるかと思うが、ついにブルータスお前もかという気分になった。

 そして高田渡が京都山科に住んでいたルート、東山から三条にでる通りにあった、爺さんと婆さんでやっていた小汚い食堂も消えていて、京都に行くたびに常にそこで食事してたのだが楽しみがまた一つなくなったと悲しく思った。裏通りはともかくも今京都は昔からの古い商店が次々と新しくファッションビルへと建て替えられている。

 まあ、それでも母の用事を済ませて、六曜社でコーヒーを飲んでマスターのオクノさんに挨拶し来月の東京ライブの話もできたことだし、夜は夜で今や旧友的なネット古書店仲間、壬生書房のおっちゃんと愚痴こぼして呑めたから気も晴れた。
 京都にはまだもっともっと会いたい会うべき大事な人がいるのだが、今回はともかく時間も余裕もなく北大路のほうにまで足を延ばせなかった。
 残念な思いを抱えつつ、9時ころ阪急大宮の駅近くで古本仲間と別れて、阪急の9時25分発の快速急行に乗って大阪に戻ってきた。思ったより早く、行きの京阪に比べて今泊まっている動物園前駅まで乗ったら一時間もかからなかった。でも出口が違うのか、地上に出るまで迷い慌てたが。※昔、パリの地下鉄内で、地上に出られず地下道をひたすらパニックになりつつ歩いたことがトラウマになっている。


 こちらに来てから書いたブログについて心ある読み手の方からご心配頂いたが、すべては起こるべくして起きることだと思うし、すべては変わるものだと今日改めて思い至ったので、どんな事態になろうとも受け入れていく覚悟はできている。

 また、ついでに書かせてもらうと、今、この時点で自分の思うところ、考えたことがすぐに外に発表できることが本当にありがたい。無線LANでネットにつながらないまま、内心の屈託する思いを抱えつつ外から帰って狭い三畳部屋以外に居場所がないとしたら悶々鬱々となって発狂してしまったかもしれない。
 
 携帯を駆使してちょこちょこ何やら画面を見てボタンを叩いている若い奴らを見て嫌悪したり、電車内や喫茶店でもノートパソコンに顔を引っ付けている奴らを前は軽蔑していたが、今だから言うがどこにいても世界とアクセスでき発信できることは素晴らしいとつくづく思う。それを気持ち悪いと言う人もいるし自分もそう思う側だったが、便利なことは決して悪ではないはずだ。インターネット万々歳だと自分は考えている。
 今アラブ、イスラム諸国で多発している革命を見ればわかることだが、ネット社会は世界を変える。それは人を変えるからに他ならない。

 この世におこる全てのことは必然なのだから、ツイているとかツイていないとか失敗したとかは考えない。ともかくまた大阪に来れたことだって奇跡的なのだからそのことにまず感謝して受けいれていくことが大事なんだと思い直した。

さようなら春一番!もう二度と来ることはないだろう。2011年05月04日 12時00分02秒

★自分にとっての長かった音楽の旅はついに終わった。

 今これを記すは、5月4日水曜日の昼時で、自分の家のパソコンである。春一番コンサートはまだ今日、明日と二日残っているが、当初の5日夜大阪発帰京の予定を変えて昨晩の夜行バスで急遽東京に戻ってきた。

 向こうに持っていったパソコンで、今回の春一に関して、これまでの経緯などは既に少し書いたので、今さら取り繕うことも内証にしておくこともできないのであるがままに報告するが、要するに昨日午後、スタッフともめて会場内出入り禁止になってしまった。
 理由や経緯は後ほど詳しくお伝えするが、ならばむこうにいたって意味がないと、東京の老親たちのことも心配なので慌てて帰ってきたのだ。
 連休の最中で、普通なら当日の夜行バスなど席はとれないものだが、幸いにして運よく、東京にいる女友達がパソコンで手配してくれ、即日帰京ができた。

 道が混んでいて、ウチに着いたのは9時過ぎとなってしまったが、東京に戻ってきて今本当にほっとしている。自由感を満喫している。おかしな話だが、以前は東京での生活にうんざりし息苦しくなると、自由を求めて関西方面に遊びに行っていた。それがどうしたことか今年はともかく窮屈で緊張しまくりトラブル続きで、気持ちも体力も二日目でヘトヘトとなってしまった。一昨日京都へ行って戻ってホテルで寝る前に、まだ明日から春一は3日もあるのかと思いうんざりした。それほど今年の春一は自分にとってつらいものとなった。

 しかし断っておくが、舞台や音楽などが悪くてそうした気持ちになったのではまったくない。ミュージシャンは例年に増して阿部ちゃんが亡くなった事をうけて、全力の熱演気炎のステージだったし、毎年顔なじみの観客やライブ仲間などとも会えて、春友関係も例年通り賑やかであった。唯一違うのは、今年から急に管理や規制が厳しく徹底されるようになり、それに大人しく従わなかった自分は目をつけられ会場内からつまみ出され今後入場禁止となってしまったという次第だ。

 自分にとって「最後の春一番」だと書いた。が、じっさいのところ、今まで続いていた春一番は去年阿部登さんが生きていたときの回で既に終わっていた。今年からは風太による風太のためのワンマンコンサートであり、名前も出演者は変わらずとも、根底にあった精神、スピリッツは変わってしまっている。今年はそのことを確認しにいったようなもので、それが早くわかっただけでも良かったのかと思う。そして結果として途中でもすぐに帰ってこれたのは正解だった。

 連日の寝不足と夜行バスではほぼ一睡もできなかったので、疲労で足がむくみ痺れてきている。外は爽やかな五月の風が吹き良く晴れている。窓を開けていったん昼寝するとする。

 今回の顛末は部分部分ごと読みやすいように分けてアップしていきます。

2011年の春一番・自分のしたこと考えたこと・12011年05月04日 21時19分47秒

★自由な日々が失われた今、残されたものは旅立ちのうた

 今、5月4日の夜である。先ほど春友からメールで本日の春一番のトリは石田長生だと情報が届いた。今日は大好きなミュージシャン有山、そして木村充揮も出たはずだし、昨日がシバ、イサト氏、律ちゃん、五郎さん、友部正人らフォーク系の人たちが多く出たフォークデイだとすれば今日4日目は関西のロック系重鎮ミュージシャン中心のロックデイだったのだろう。豊田勇造さんにも挨拶したかったが春一で会えなかったことが悔やまれる。

 本来今日も大阪にいて彼らを観れたはずの自分が今こうして東京にいるのがちょっと不思議な気さえしている。しかし、あの喧騒を逃れ、今静かな自分の家でこうしてパソコンに向かえることが幸福でならない。観れなかったステージに当然のこと思いは残るが、それよりも無事に早く家に帰ってこれたことの歓びのほうが大きい。まだ疲れは溜まっているが気分は心静かに安堵している。

 さて、結局のところ、今年の春一番コンサート、全5日間のうち残り2日を残して中日5月3日の途中で、スタッフから会場から追い出され、もはや春一には来るな、来ても入らせないと申し渡された自分、増坊であるが、今回の経過経緯と考えたこと、かつての春一のことも交えて書き記しておきたい。分量が長くなったら分散させ書いていく。

 今回の自分が仕出かしたトラブル、そもそもが主催側との単なるボタンの掛け違いのような気もするものの、果たしてじっさいそんな単純なことなのかを検証していきたい。

 さて、まず最初に断っておくが、自分がしたこと、今回問題となった行為に関して、今も悔やむ気持ちも恥じ入る気持ちも一切ない。会場内での撮影や録音は犯罪であり、してはならないことだと当然のこと理解しているし、そのことに対して異論は何一つない。
 しかしここ春一番というコンサートの場合はまた別だと考えていたし、去年までは自分だけではなく誰もが堂々と、かつてはビデオカメラまで回している人もいたのは事実である。それらは主催者側に許された行為ではなかったはずだが、ほぼ黙認されていたのだと思う。むろん、年毎にしだいにチェックは厳しくなってきたことも感じていたし、主催者風太自身が会場を回ってビデオ撮影をやめさせていたのも知っていた。

 また、再三、風太がMCの中で、撮影などは迷惑になるのでやめましょうと呼びかけていたのも記憶にはある。しかし今年からカメラによる撮影も録音も「絶対禁止」となったとは気がつかなかったし知らなかった。だから去年と同じく今年もステージを撮影し音を録音していたのだ。そしてそのことを注意され従わなかったから出入り禁止処分を受けたのだ。

 では何故にそんなことをやるのか。
 自分のブログ、今この無頼庵日録の前の「本の人生 ほんとの人生」をお読み頂いた方ならご存知のはずだが、自分、増坊は近年ずっと日本のフォークソング、フォーク系ミュージシャンたちのことを書き綴ってきた。取上げる人たちは自分が心魅かれ敬愛する方たちばかりで、今音楽という仕事自体が経済的に恵まれているわけではない時代に、売れなくても地道に唄いつづけ、曲を作っている人たちを応援する意味を込めていた。自分は無名の素人ライターではあるが、今の時代は個人のブログでもかなりアクセス数がときにあるし、拙ブログで取上げ発信することで、少しでも話題になりスポットがあたりライブに客が来てCDが売れる一助になればと願ってである。

 そうした記事を書くときに必要なのは、当然のことそのライブの音を録音したものであるし、画像もないよりはあったほうが当然良い。だから参考資料として音を採り、写真をデジカメで写していた。そうしてそれらを編集してブログにアップしてきた。
 幸いのことフォークソングファンの間はそれらは多少の話題になったようで、春一の会場ではまったく知らない方に、マスダさんですか、ブログいつも読んでますよ、と励まされてこちらが驚き恐縮したことも何度かあった。そんな自分にとって、春一番というのは、格好の取材の対象で、常に毎年多くの素晴らしい大好きなミュージシャンたちが一日約15組も登場する一大音楽イベントであったから近年毎年期間中全日参加していたのだ。

 行ってそのことをブログで報告するからには、出演者の名前と順番と、ステージでの画像が必須であり、それらに観た感想や要望などを書き加えていく。気持ちとしては自分は彼らのファンである以前に、報道側、ジャーナリストのようなものだというような自負もあった。だから今年も例年通りに、ブログにアップさせるために写真を撮り、後で確認する資料として音も今回からICレコーダーで録っていた。自分では取材に来たつもりでいたのだ。

 もちろんそれらを使って私益とするため儲けようと考えた事は一度たりともない。特に今回は海外に出かけてしまい来れなかった友人のためにもできるだけ詳しく書き記し記録していこうとムリを押して大阪へやってきたのだった。
 今回は、デジカメも安物ながら新しく買い換えたし、ノートパソコンも新規に買って、わざわざ大阪まで持ってきていた。ホテルは部屋でインターネット接続ができるホテルに変えたし、大震災以後、先のことはわからないと深く思い至ったからこそ、迅速正確な報道を期して、即日ブログにアップできるよう環境を整えた。行けるかどうかわからないながら今思うとそれなりの意気込みで来たのだと自分で今気がつく。

 しかし結果はご覧のとおりの最悪の、踏んだりけったりの結末となった。スタッフの女の子からあんたの自業自得でしょ、と冷笑されたが、その女の子が生まれるはるか以前に天王寺の野音時代の春一で観た、自分が知る史上最高の日本人ソウルシンガー砂川正和の曲「最後の本音」のサビをまたも借りれば、♪俺はけっして悪い人間じゃない、ただ考えが甘いだけ としか言葉がない。

 そう、考えが甘かったんだと今つくづく思う。阿部ちゃんのいない春一番は自分が知っていた70年代の天王寺野音での春一とははるかに遠いものになっていたのだ。迂闊にもそのことに気がつかなかった。

2011年の春一番・自分のしたこと考えたこと・22011年05月05日 12時15分46秒

★事実経緯だけを順を追って書いていくと

 今これを記しているのは5月5日の昼時である。大阪ではどうかわからないが東京、多摩地方はどんよりとした曇り空、先ほど小雨がぱらつき薄ら寒い。大阪から帰って二晩明けた。
昨晩は移動の高速の渋滞したバスの中だったから、ほとんど眠れず、家に帰っても午後少し仮眠とったぐらいで、慢性化していた睡眠不足は解消されていなかった。昨日は零時過ぎ倒れこむように自分のベッドに入り、気がついたら朝の8時近くだった。体の節々が痛くまさに鉛のように重い。改めてすごく疲れ無理していたんだと気がついた。もっといくらでも寝ていたいが、いろいろ状況も変わってこちらでものんびりとはしていられない。今回の事件の顛末を包み隠さずきちんと書いていく。


 世の中には本音と建前、言葉に出さないが暗黙の了解というものがあることは大人なら誰もが知っていることだ。それが理解できうまく実行できてこそ、懐の深さだと自分は考えている。
 撮影や録音を禁止された。そしてカメラや録音機材を返されて、もうやるな、と言い渡されて、正直に、いやまたします、と答える馬鹿はいないはずだ。必ずするかあるいはしないかはともかくもそのときはもうしません、と答えて約束するしかない。

 自分は昨年の秋、浅草で春一番の足元には及ばないが、やはり春一にも登場している多くのミュージシャンを招いてかなり大きなコンサートを企画した。その責任者として、出てくれたあるメジャーフォークシンガーのマネージャーからその彼が出るときは会場内で録音や撮影は禁止させてくれと言われていた。
 どうしようかと迷い考えたが、そのときは、はい、わかりましたとだけ答えてそのままほったらかしにしていた。そしたらば案の定、客席ではストロボたいての撮影や録音している観客も当然沢山でてきた。しかし、そのアーチストもマネージャーも終演後の打ち上げではご機嫌で、写真を撮られたことも何も言わなかったし、後々も何一つ問題は起きなかった。客の入りはともかくもコンサートは無事成功し皆が気分良く散会できた。

 自分にとってこれが本音と建前だと考えるし、暗黙の了解だと考えている。一応はしないよう申し入れはする、そしてこちらも極力それに応じる。しかし、21世紀の今、超小型ハイテク録音・撮影機器がいくらでも安く買えるのだから、スマップのコンサートのように、カバンの中身まで全部チェックしない限りいくらそれを観客に戒めたとしても防ぎようがない。うるさく言えば言うほどコンサートの楽しみは消え、お互いに気まずくなり結果として客足は遠のいていく。

 今年の春一番で、場内整理の若いスタッフから撮影しないでくださいと肩を叩かれたときも、はいわかりました、と答えて撮影を続けたのは、撮影禁止は建前であり、注意しないことには野放図に誰でもパチパチ撮り出すのでそうせざるえないからだと思っていた。しかし今思うとまずそのことが大きな誤認であった。彼らは今年は容赦なく本気で大目に見てくれるなんて考えていたのが甘い考えで、本気も本気であったのだ。
 自分は毎度のこと場の雰囲気が読めない馬鹿だから失敗してしまった。

2011年の春一番・自分のしたこと考えたこと・32011年05月05日 15時05分01秒

★拘束、没収そして会場内立ち入り禁止に至るまで・前

 自分がまっとうだとか非がないなんてもとより思ってもいない。おかしな馬鹿なことをずっとやってきたという自覚は自分でも持っている。

 今回のトラブル、そもそも当初から風太が、開演前にきちんと、阿部ちゃんも死んだんで、今年から写真撮影と録音は絶対禁止にします、文句はいろいろあるだろうけれど、そう決めたんやからそれが嫌な人は来んでよろしい、その上で、もし撮影したり録音している者を見つけたら機材を取上げてボコボコにして外につまみ出すとはっきりと伝えてくれていたら、自分は一切撮影も何もしなかったはずだ。そのことだけは神に誓える。
 しかし、そもそも今年からそうなっていたという認識がなかったのだから去年までと全く同じ気分で堂々と撮影しレコーダーもリュックから見えるように出して音を録っていた。

 初日はそれでも撮影を何回かスタッフの若者から注意されたものの無事に終わって、終演後ステージにいる風太に挨拶し、阿部ちゃんがいなくて大変でしょうが今年もがんばってください、がんばりましょうと笑顔で握手して別れた。
 そして二日目の昼頃だったかと思うが、誰の出番の時だか失念したが、カメラを構えていたら、また若いスタッフに肩を叩かれ、許可をとってあるのかと聞かれた。そして、名刺を渡してこれこれの者で、東京で五郎さんたちのコンサートを企画したりしているマスダだと伝えた。彼はそれを持って風太のところに行ったらしい。

 少ししたら風太が向こうからやってきて、「カメラは没収させてもらいます」、といきなりカメラを取上げて持っていってしまった。慌てて後を追い、風太さん、マスダです、もう何年も春一のことをあちこちで書いたりして宣伝したり応援してきたじゃないですか!と抗議したが、彼は一切とりあわず、嫌ならもう来ないでいい、もう応援してくれなくて結構!と控えの部屋のスタッフにカメラを渡してスタスタと楽屋に去ってしまった。
 後をさらに追おうとしたが、他のスタッフに止められて、貴方には貴方の言い分もあるだろうしわからなくもないが、このコンサートは彼のコンサートなんだからいくら言っても無駄ですよ、と諭され後で取りに来るように言われてもはやただ諦めるしかなかった。

 撮影は禁止されたがこの時点ではまだ録音はずっと回して、とりあえず取材は続けていた。しかし、誰のステージの時だったか、会場の上の方の席にアチャコさんがいたので、今日のステージでメンバーの三線奏者ベンジャミンがいないのは亡くなったからだと話していたのことが気になって伺いに行った。去年レーベルを立ち上げて自分の作ったCDを贈呈したりしてあれこれ話して席に戻ったら今回の春一に向けて買ったばかりのICレコーダーが消えてなくなっている。カバンに突き刺しておいたのにどこにもない。真っ青になった。自分が席に居なかったから誰かにかっぱらわれたのだと後悔した。

 うろたえていたところ、後の席にいたご親切なご夫婦が、実は今さっきスタッフの人が持っていったと教えてくれ、ならばと早速楽屋口に行き返してもらえるよう申し入れた。しかし、ともかくステージが終わってからまた来いと言われて引き下がるしかなかった。その後はもう落ち着いてステージを楽しめるわけがない。自分としては、コンサートが終わればすぐ返してくれるだろうと甘く考えてたがその後とんでもない事態になることになる。

 ステージは無事に2日目のこの日も終わったが、後片付けなどの用事が沢山あった。風太に声をかけようにも大忙しそうなので手が空くまで待つしかなかった。30分かそこらしてようやくほぼ会場の座席が片付き、呼ばれて楽屋奥に行った。そこでも待たされたが、ようやく風太と二人で向き合いまずは大人しくともかく詫びた。一応自分のしてきたことなども話したが、風太は全く耳を傾けず撮った写真も音もともかく全部消せやと言い、こちらは嫌です、もうしないから撮った分だけはそのままにさせてくれと双方言い合いになり風太も激高し一時殴りあいになりそうな険悪な雰囲気となった。他のスタッフが間に入り止めて、まあ、ともかく風太の言うとおりにしたほうがいいですよととりなし、風太は前も言うこときかなかった人から高いカメラを取上げて床に叩きつけたこともあるのだからと忠告してくれた。
 周りはすべて風太のスタッフだけだし、彼らに取り囲まれてさすがに自分も観念した。殴られるのはともかくも買ったばかりの機材を壊されたら本当に困ることになる。

 こうなれば仕方なく消すことに同意以外の道はない。それから一時間もかけて、一枚一枚会場の中で撮った写真かチェックされて、こちらの同意の上に前日の分も含めて撮った写真は全て消された。また音も自分でもまだ使い方がよくわからないのに、前日とその日の日付のフォルダの音も全てスタッフの一人が消した。
 そしてようやく解放となったのだが、自分の荷物、リュックの他にこの日の食べ物とか飲み物、それに出演者の一人から頂いたCDの入ったビニール袋が見当たらない。大さわぎしてデータを消す作業をしている間に他のスタッフがゴミと思ったのかどこかに持って行き片づけたらしい。食べ物はともかくもその袋には個人的私物も入っていたのでデータを消されたこと以上の損失で焦った。しかしどこ探してもみつからず、最後はゴミ捨て場かもと教えられたので、渡り階段の下のゴミの袋を一つ一つ真っ暗な中開けてみたが結局みつからなかった。まさに踏んだりけったりで、思わず大声でチクショーっと叫んでしまった。

 これは今回親しくなれた他のスタッフの人から諭されたことだが、春一番を取材し記録するために撮るのならば、そもそも事前にきちんと風太のほうに申し入れすれば許可は下りただろうし、それをしないであんなに目立つように撮影しているから当然問題になる。申し込んで堂々とやるか、ならばもっとこそこそとみつからないよううまくやるべきだと意見された。でないとせっかく撮ったのが全て消されてもったいないと。確かにその二つしか手はない。

 自分としてもそのときは確かにそうだと思いもしたが、これまでそうしなかったのは、阿部ちゃんには名を名乗り自分のことなどを開場前に話したこともあったが、風太とは東京でも会い、会えば必ず挨拶もして面識はあったとしてもさほど親しくなく、果たしてこちらを認識しているか自信がなかったことと、そのためには誰かミュージシャンを通してお願いすべきだろうし、人の手を煩わせたくなかったことなどいろいろ面倒に思えたこともあった。

 また、それ以上に自分としてはスタッフ側、関係者側に身を置くよりもあくまでも一人の観客としてこのコンサートには関わっていきたかった。スタッフの側となってしまうと、コンサートは楽しめないことは自分もまた企画に携わった者として深く思うところがあったからだ。何より自由に好き勝手に感想や意見が言えなくなってしまうだろう。

 しかし、これではもう撮影は難しい。同じことをやればまたみつかり騒ぎになる。ならばきちんと撮影許可をもらうしかない。聞くところ、それには誰か出演者から撮影許可の申請を事前にしてもらうことだそうだ。そこで旧知の中川五郎さんにお願いすることにして、明後日、3日は自由に撮影はできるようになるかと期待したのだったが・・・。※翌日の5月2日は平日で公演はなかった。

2011年の春一番・自分のしたこと考えたこと・42011年05月05日 16時32分15秒

★拘束、没収そして会場内立ち入り禁止に至るまで・後

 5月2日は憂鬱かつ不安な気分を晴らすべく京都に出て、一日友人知人と会ったりして気分転換をはかったものの、やはりその晩も深く眠れず、3日の日がやってきた。1日に引き続きこの日のことは生涯忘れることはないだろう。

 朝、西成のホテル近くの床屋で昨年来あまりに忙しくて伸ばし放題だった髪の毛をばっさり切った。憂鬱気分も少しはスッキリした。そして3日目の春一番に臨んだのだったが・・・

 10時前に改札口でこのところ親しくなった大阪のママと偶然会って会場に向かった。今年から急に規制が厳しくなったことに彼女も憤っていておそらくここに来るファンは皆同じ気持ちだろうと意見が一致し、正直励まされた思いがした。昨晩の楽屋裏では天涯孤独で、時に警察に突き出すぞ、お前のしたことは犯罪なんだとスタッフに取り囲まれ叱責され続け、さすがに落ち込んでいたのだ。

 五郎さんはまだ到着してなかったが、30分ぐらいして来て、これこれこうなのでと説明してお願いしたら快諾してくれた。
 しかし思惑が違ったのは、撮影許可は申請してくれたアーチストのステージだけで、渡されたシールは、左の肩に貼るわけだが、それも彼が出る夕方まで貼らずに、五郎さんのステージを撮り終えたらまたスタッフに返せと言う。そう指示し手配したのは2日の夜、ICレコーダーの音を全て消した男で、どうやら会場運営の責任者らしいと思えた。

 そして3日目の春一番も始まった。自分としては好きな、お世話になったフォーク系のミュージシャンが多く出る日、五郎さんの登場まで撮影すべきではなかったのだが、やはり我慢できなかった。前日のようにパチパチとカメラを構えてステージに向けることはさすがに憚れた。だので膝に抱えてロングで各ステージごとにアーチストごと一枚づつそっと隠れて撮っていた。
 まだ昼前だったのだろうか、ペーソスというこのところ人気高いコミック歌謡トリオのステージとなった。実は彼らは本業は出版関係のサラリーマンたちであり、昔自分が編集の仕事をしていたときから向こうはともかく良く知っている方たちだった。しかも今年は白夜書房のあのスエイさんがサックスでペーソスに加わっている。ならばどうしてもアップで撮りたいとカメラを持ち上げ構えた。そのとたん、両肩をつかまれ、今朝許可シールの手配した男が現れ、約束を破りましたね、外へ出てくださいともう一人のスタッフに前後を挟まれて表に連れ出されてしまった。

 そしてまたもすみません、ごめんなさい、今まで撮った分は全部消しますから、五郎さんのステージだけは知り合いのるっちゃんも出るのでどうかそれだけ撮影させてくださいと土下座して頭を下げた。しかし彼らはボケ、もう遅いわ、泣こうが死のうが約束破ったんだから、シールは取上げるし撮影もさせない、とカメラは取上げられその場でこの日撮った分をまず消された。
 あれだけもうしないといったのに嘘つきだ、お前は最低の人間だとぼろくそにけなして、こんな息子ほどの若造に頭下げて恥ずかしくないんか、頭おかしいんとちゃうか、あんた子供はいるのか、いないならそれだけは良かったな、あんたみたいな人間に育てられた子は可哀相やとまで罵倒し続けた。なんで懲りずにこんなことをやるのかと聞かれたので、昨日も風太に話したはずだと思ったが、自分が東京でやっていること、70年代の春一から来ていること、フォークソングの歴史を研究し、企画を立てたりしていることを話したが、そんなん関係ない、どうでもいいことや、それはお前の趣味だろうがと二人は全く聴く耳は持たず鼻であしらわれた。
 そして俺は、あんたのこと全く信用していないから、嘘つきのあんたは絶対また録音しているはずだと、録音していない、レコーダーは持ってきていないと言っているのに、リュックの中も全て見せろと言い出し、挙句に上着やズボンのポケットの中まで広げて見せろと言い出した。さすがにボディチェックはなかったが、チャックも開けてパンツの中まで見せろといわれたときは心底呆れ果てた。
 その執拗さはまるで公安警察の取調べか、彼らは冷徹な国家上級公務員のようだと思えてきた。目を三角にして狂ったように探しているこの男のことが不気味かつ哀れに思えてきた。少なくともこれは自分の知っている春一関係者ではないし、音楽を愛する仲間ではない。阿部ちゃんとはまったく正反対のところにいる人間だ。

 実はこの日の朝、これも偶然、前日のとき後のほうの席にいて、増坊のレコーダーがスタッフに持っていかれるところを見ていて知らせてくれたご夫婦とこの日の朝また会った。彼らはあろうことか拙ブログの読者であり、早速の記事も読んでくれていて、貴方がマスダさんだったんですねと言ってくれた。その後どうされたかと聞かれたので、録った音も全て彼らに消されてしまったことをこぼしたところ、実は私たちも録音していたので、それを後で送ってくれるとおっしゃってくれた。自分としてはおそらく他にも録音してくれている心ある方々がきっといると信じていたから録音は彼らに任せていたのである。だからこの申出は渡りに船と本当に有り難いお願いしますと深く感謝した。これこそが春一番のスピリットではないか。

 結局、レコーダーは発見できなかった彼らは、あんたはもう帰ってくれ、このまますぐに東京に帰れと言い出した。当初は金を返すからもう来ないでくれと言っていたのに、しだいに態度を変えて、あんたが来るとずっと見張っていないとならない、こうして今日も忙しいのに1時間も時間とられてしまった。お願いするから帰ってくれないかと言う。しかし、五郎さんのステージだけは何としても観たいと言っても、もう約束は破って退場させられたのだから中には入れないと言い出し、ならば明日は来てもいいかと聞くと、当初は皆が警戒しずっと見張るからとても居たたまれないぞと言っていたのが態度をさらに硬化させ、来てもあんたは問題起こすから中にはもう入れないと言い出した。

 こちらとしては、こんなやりとりを続け融通の利かない建前と本音の区別のない杓子定規な人間たちを相手にしていることが何だかもうしだいに馬鹿らしくなってきた。うんざりしどっと疲れを感じた。むろん、チケットは通し券で買ってあるのだから今日はともかく明日も来れば、入れなくはないかもしれない。その権利もあるかと思えた。しかし、入場時に中へ入れろ、入れないぞと騒ぎを起こしたくなかったし、もう全てどうでも良いように思えてきた。だから五郎さんのステージだけ外で聴いたらもう東京に帰るからというと、だったらカメラは預かっておく、終わったら取りに来いと言い、あんたのことだから木に登っても撮るかもしれないからと言ったのには感心もした。確かに俺ならそうしたかもしれない。

 チケットもこちらに返せと要求してきたのでこれは買った私物だからと断固拒否したら、持ってると誰かに譲るだろうと言い、片割れのスタッフにマジックを持ってこさせて、でっかく「入場不可」「無効」と裏表に書き込んだ。この男の執拗さには本当に感心感動さえさせられた。俺はまるでビン・ラディン級のテロリスト扱いだったのだ。会場に来ると必ず問題をしでかす要注意人物に指定されていたと後でようやく気がついた。きっとまたあの男は何か仕出かすはずだとこの日も全スタッフで目を光らせていたのである。ご苦労なこっちゃ。
 しかし、そんなに俺は悪いことをしたのだろうか。

 会場の外の裏山に登り、柵越しに五郎さんの熱演ステージに必死に耳を傾けた。この日一番素晴らしかった。ほんの少しだけ泣いた。

 今これを書きつつ思い返してみると、今回の件は風太の意向というよりもそれをさらに拡大解釈した、原理主義者たちの暴走のようにも思える。毛主席と紅衛兵のようなもので、リーダーを信奉するあまり本当に肝心なことが若いスタッフたちはわからなくなってしまっているのである。はっきり言ってマスダのようなチンケな悪党のことなど目を光らせて取り締まりに夢中にならないでもっと他にやるべきことはいくらでもあるのではないか。

 本当の敵を見失っていると思った。少なくてもこの会場に毎年遠くから足を運んでくれる客は仲間でこそあれ敵ではないはずだ。だのに、自分たちに従わないからという一点で、犯罪者と黙視し、監視し隙あらば追い出そうとしていたのだ。残念なことだが、これは自分の知っている春一番ではないし、昔の理念からは完全にかけ離れてしまっている。春一番コンサートは、去年阿部ちゃんが生きていた回まででもう終わってしまっていたのだ。
 聞くところに拠ると来年も日数を少なく三日程度にしてこのスタッフが風太を支えて続けていくのだそうだが、それは同名であっても単にフォーク系のミュージシャンが出るコンサートの一つでしかなく春一番ではない。だから自分は来ることはないし、来ても彼らのことだからまた目を光らせ大さわぎすることだろう。愚かなことだし哀しいとさえ思う。

 ただいくつか悔やむ気持ちはもちろんある。一つは大好きな五郎さんに結果として大変ご迷惑をおかけしてしまったこと。そしてこの数年間、春一番の会場で知り合い、毎年春一番で会うのを互いに楽しみにし心待ちにしていた春友仲間たちとここで会うことができなくなったことだ。
 また、きちんと彼らに最後の挨拶さえできなかった。そのことを思うと胸が痛む。

 自分にとって、そしておそらく毎年訪れる誰にとっても春一番とは演奏やステージだけではなく会場内を自由にふらつく出演者との交友、それに彼らの音楽を心より愛してきたファンの出会いと再会の場であった。それもこれも全てを含めて春一番と言うのどかな他にないユニークで自由な雰囲気を醸し出していた。今年からそれが失われたとするならば早晩これまでの観客たちも自分のように離れてしまうはずだと断言する。阿部ちゃんが生きていたなら彼にはこのことは通じるし心あるファンも同感であるに違いない。風太が果たして耳を傾けてくれるか。

 これは皮肉でもなく、春一番は今後とも長く続いていくことを心から願ってとりあえず今回の報告を終わりにしたい。

異物を拒絶、排除する思想と受容、共生の思想2011年05月05日 22時04分55秒

★イエスは言った。自ら罪なき者はこの女に石を打てと。

 今年の春一番について自ら思うことは一通り書いた。すっきりした。もう何も思い残すことはないし、増坊を捕らえて尋問し悪罵を投げつけた若者たちに対しても何一つ思うことは怒りも含めて何もない。彼らは若く真面目で全力で彼らが信ずる正義に向き合ったのに過ぎないからだ。それは良いことに違いない。

 ただ、気になるのは、春一番自体の変質というか、その主催者側の意識の変容であり、昔読んだ本の中にあった言葉を借りれば、反体制は時と共に体制へと変化し権威となるという言葉そのままに今や自らと異なる考えの者、異物を単に好き嫌いの感覚だけで排除し始めている。一個人の私物だと考えればそれもまた当然許されるだろうし、嫌なら来るなと開き直れる。だが、それを続けていけばその先には誰も後をついてくる者はないことだけは確かで、すべての運動、思想、国家的なものから小規模のグループまで同じ道筋を繰り返している。

 どんな運動でも活動でも人が集まり共に何かを成しえようとするとき、異なる人たちをどう扱うかが問題となる。それは運動や活動の足を引っ張り邪魔になるだけだから来るなとつまみだすこと、除外はたやすい。しかしそれをやっている限りそのグループに発展も拡大もないし、日本の左翼運動が衰退したのはまさにその一点に尽きる。

 これは欧米社会を見ればわかることだが、移民の問題も含めて、国家はその中に抱える異物に頭を抱えてきた。しかし、それでも仕方ないにしろ異物である外国人やマイノリティを受け入れて、共生していく道を選んだ国家のみ栄えていく。それは古代ローマの頃より歴史を見れば確かなことであり、日本のように外国人という異物を常に排斥し、ニッポンジンだけの国を未来永劫続けていこうと考えたことが今日の少子高齢化社会を招いた。このままでは日本という国は世界地図から消えていくかもしれない。

 自分、増坊は常にどんな社会、グループの中でも異物であった。しかし、阿部ちゃんが生きていた頃の春一はこんなヘンな怪しい胡散臭い男でさえもやさしく受け入れてくれた。それが共生ということだ。だからこそ自分は毎年その仲間たちに会うことを楽しみに大阪に足を運んできた。
 自らと異なる者とどう向き合い、認め受け入れ、そして共に生きるのか、大震災後の日本は改めてそのことが試されている。人は弱い。完全な人はいない。ならば自らの非も認め、異なる者を赦すこと、その寛容さこそ今求められていると考えた。

 明日からMズロースの平井君と福島県いわき市の復興音楽イベント「いわきサイコーです!!」に行っている。ブログは休みます。
 戻るのはたぶん日曜日の夜。春一を追い出された自分に出来ることは今はまずそのぐらいしかない。また報告します。