新年の誓いと決意2012年01月01日 20時17分52秒

一昨年の大晦日に撮った画像の去年の年賀状を再利用した今年の。
★明けましておめでとうございます。

 曇りがちながら穏やかな元旦であるが・・・

 一年の最初の日からかなり大きな地震が昼過ぎにあり、出かけて戻ったらパソコンの乗っている机の前が崩れた本の山で埋め尽くされていた。被害といえるほどではないが、その本の山、検索済みのクズ本をとりあえず平積みにしてよけておいたもので、いつしか背の高さより高く山積みになっていた。もしそれがベッドの脇にあればたぶんこの身は埋もれて下手すりゃ圧死していたかもしれない。今、本を掻き分け2012年初めてのブログを書いている。相も変わらず愚かであるが、また運が良いといえなくもない。

 アニメ会社で働いている甥っ子が元旦なので来て、近くの拝島大師に彼の祖父である増坊の老父を連れて初詣に行った。すごい人の出で車停めることはできないので、増坊は神社の裏の路上で乗って待っていたのだが、突然まるで車が誰かに揺さぶれているようにグラグラ揺れた。
 でも歩いている人は誰も騒いでいないし気がついていない。景色も揺れていない。とうとう俺もメマイ、ふらつきがここまでひどくなってじっとしていても地震のように揺れた感じがしているのかと暗澹たる思いでいた。甥っ子たちも地震なんかないと言う。
 でも都内の友人から電話があり、棚からモノが落ちるほど、先の3.11のときに準ずる揺れだったと知り、ああやっぱりあれは地震だったのかと安堵した。それで家に戻ったらパソコンの周りは崩れた本の山で埋まっている。震度4だと後で確認したが、たぶんそれより大きかったかと思う。

 実はウチの辺りは問題の立川断層の近くで、あの大震災以後、近いうちかなり大きな地震が起こる確率がすごく高くなった区域に属している。3.11のときは震源からかなり遠かったので、ほとんど被害はなかった。今回のほうが近いこともあり同じく本の山が崩れたのも今日の度合いが勝っている。何にしろいつまた巨大地震が起こるか誰も予測つかないのだからこうした危険な状態、本をとりあえずにしろ高く積み上げておくようなことはもはやすべきではない。
 ただ、野田内閣ではないが、人は愚かだからすぐ喉元過ぎれば何とやらで事態をかろんじてそのとき感じた危険性、「初心」を忘れてしまう。新しい年の第一日目にして、大地震の恐怖と備えを忘れてはならないと戒められたわけだ。

 さて、新しい年となって、気持ちも改まったこともあるけれど、本当に今年こそはという気持ちでいる。毎年毎年そんなことを書いている気もするが、身近に沢山の老いて死に瀕する者たちを抱えて、自分もまた若いときのような体力気力も失せた身で、一人でどこまで何ができるか、何をすべきかこのところ自問し続けていた。

 結局のところ、そうした介護、介助の傍ら、うまく時間を作って自分のやりたいこと、すべきことを進めていかねばならない。でもそれは会社勤めに連日通うサラリーマンよりははるかに自由がきく自分にとってはさほど難しいことではないはずだ。忙しいと言えばやたら忙しいし大変だと言えばいくらでも大変である。要するに時間の使い方次第のことなのだと思うし、いかに上手く有効に効率よく何事もやっていくかこなしていけるかであろう。
 人よりも愚図でノロマで不器用かつ愚かな自分がそれができるか不安もあるが、できるかできないかではなく、やるかやれないかだけが問題なわけで、ともかく一つ一つ気合入れてやっていくしかない。

 増坊の人生、それは親たち亡き後の人生でもあるが、一人でやっていくためにも無頼庵でのことも含めて儲からなくてもかまわないが好きなことでもう少し飯が食えるように、軌道に乗せたいと切に願う。今年はそのためのまず基盤整備の年としたい。力と知識、技術を蓄えこれからの整備したい。

 何のことか。それは古本音楽家である。「古本音楽家」とは何かは長くなるので別項で詳しく説明したい。

古本音楽家宣言・12012年01月02日 21時05分55秒

★過去を伝え今に活かし未来へと繋げていく

 昨日の元旦は暖かく風邪もなく穏やかで過ごしやすかったが、今日は北風吹き荒む正月二日目である。昼間も陽が翳ると北風が強く寒かった。

 明日までの三が日が正月休みということになるわけだが、気持ちとしてはもう今日で正月は終わった感がある。年賀状も今日でほぼ出し終えたこともある。例年に比べて今年は出足が違う。いつもならば来た年賀状を前に、今頃から年賀状を印刷して書き出す自分だったのだから。意気込みが異なる。これは良いことだろう? 

 今日も母を立川の病院へ昼前に急患扱いで、丸山ワクチンを打ちに行った。正月の間は近くのいつも通う診療所が休みなのでそこに行くしかない。問題の白血球の減少は暮れの連日二度二回にわたる注射で幸い改善してきたようだ。そんなこんなで大晦日も新年あけて正月二日も病院通いなどしていると正月気分なんかどこ吹く風である。まあそれでも近くの神社と拝島の大師様には初詣に行ったけれど。

 それでも正月なので簡単なお雑煮を作り、午後戻ってから餅焼いて入れて食べた。そしたら突然フラフラしてきて起きていられなくなりベッドに入ってギター爪弾いていたらいつしか夕方まで2時間近く眠ってしまった。
 初夢というわけではないけれど、その眠りに入る前、半覚醒のときに、もう今はいない、死んでしまった犬たちや亡くなった人たちのことが次々と思い出されてしんみりしてしまった。

 老いてそれなりに周囲も死を覚悟して迎えた別れならば、それなりに覚悟もできているし、納得もできよう。哀しいのは同じであるが心構えもできている。しかし、不慮の事故のようにまったく予期していないところの突然の死は、今も思い返すと悔いのような痛みが伴う。去年も年下の高校時代からの友人が病気で急死した。

 こちらがその死に何かできたとは思わなくとも、最後に会ったとき、もしそれが今生最後の別れであったならばもっともっとやりたいこと、やれたことはあったはずだし、大事にしたかった、やさしくすべきでかあったと後悔の念ばかり今もわいてくる。
 普段は薄情な自分は彼らのことを忘れてのほほんと生きているが、ある意味彼らの死を踏み台にして生きているようなところもあるわけで、本当に申し訳ないしそんな身勝手な自分が情けない。

 むろん、人に限らず出会い共に暮らした動物たちも必ず死ぬ。死はいつも他人事と言ったのは寺山だったか忘れたが、残念なことに生きている限り死は常に他者のものであり、当事者となりえない。
 死んだその先、あの世とか天国はあるかは別として、哀しいのはもうこの世では彼らと二度と会えないことだ。せいぜい夢の中でごくたまに会うこともあり、夢の中ではその死に気づかず、覚めてからああ、彼らはもうこの世のどこにもいないのだと気がつき枕を涙で濡らす。

 だが、過ぎたことはもう仕方ない。過去は戻せないし、もし天国があるならば必ずまた彼らと会える。ある意味、彼らが先に行って待っているのだから死ぬことはさほど怖くない。
 過去を、昔を過ぎた日々のことを振り返りあれこれ悔やんでも懐かしがっても仕方ない。今だって、そのときと同じように突然の死の報があればきっと悔やむ羽目になるに違いない。そうならないよう日々全力で誰とでも一日一日気持ち新たにしっかり生きて付き合っていくしかない。一期一会というほどの覚悟はなくともまた今度、いつかそのうちと曖昧に先延ばしにしてはならないはずだ。

 人はいつか必ず死ぬ。若いときはそれはまして他人事であった。しかし今は、そしてこれからは自らも当事者であり、周りはその予備軍で満ちている。ならば常にこれが最後かもと今生の別れだと覚悟して丁寧に大事に彼らと生き過ごさねばならない。

 そしてそこで自分が残された時間の中で何ができるか、何をすべきかと考えた。それが古本音楽家である。読み方は“ふるほんおんがくハウス”と読む。自分は音楽の才能もないしミュージシャンではないので音楽家ではありえない。しかし、古本と音楽の家は作れるのではないか。
 音楽はAKBとか今のそれではない。やはり昔のフォークソングや内外の70年代ロック、古いブルースやジャズである。自分が集め聴いてきたそうした音楽と大事に思う古い本を合体して場を作る。
 ブックカフェということでもあるが、それよりも音楽が占める位置が大きい。そうした「過去」を今に伝え、願わくば未来へと、これから生きる新しい人たちにも繋げて渡していきたい。
 幸いのこと自分には若き良き友人も沢山いる。もう、かつての戦争を知らない子供たち、つまり今やヘンクツな常識を知らない老人たちを相手に顔色を伺って彼らと何かをやっていくことより自らの手で拙くとも手元の本と音楽を題材に何らかの事ができるかもしれない。

 三丁目の夕日的に、過去を全面的に肯定し懐かしむのではなく、どんな時代であったのか知る者としてきちんと検証して伝えるべく残していくものを整理保存し記録して未来へ繋げていく。それが自分が考える古本音楽家である。
 ネットで古本稼業を初めて約10年たつ。そして高田渡の死によって音楽に回帰してやがて10年となる。ようやく自分にとって古本も音楽もまったく同じものだと胸を張って言えるようになった。これからはその二つのことを一つのことと一体化させてやっていく。

古本音楽家宣言・22012年01月03日 09時47分42秒

 こう考えた。

 まず始めに言葉があった。言葉は思いの発露であった。それが記録とするために文字が生まれ石や甲羅、骨に彫り付けるところからやがては紙に記しついには本となった。
 一方、言葉は文字以前に伝承として祝詞やアイヌのユーカラのように節やメロディーをもって語り継がれてきた。やがてはそれは「うた」、民謡のようなものへとなっていった。やがてはそれは商品として流通するようになりその最後のカタチはレコード・CDであった。
 「嬉しい」「楽しい」「哀しい」「暑い、寒い」「お腹すいた」といった感情が言葉となり、やがては文字に、うたへと変わっていったが、そのどちらも同じところから出ている。人の心である。

 そして今、電子媒体の時代となって、出版としての「本」「雑誌」は終焉のときを迎えている。同じく音楽もダウンロード、ネット配信の時代、もはやモノとしてのカタチを必要としない。すべてはファイル・データとしてのみ流通していく。そんな時代に本、つまり古本と音楽=うたはどうあるべきだろうか。
 時代の節目に生きている。自分には子も孫もないが、おそらく21世紀後半、孫子の代にはモノとしての本も音楽も消えてなくなっていることだろう。

 では、ならば、だからこそ、何をどうするか。何ができるのか。

 こんな自分でも半世紀以上生きてきたからそれにりに知識や経験、多少の技術や資料は手元に持っている。それらを活かして本と音楽、特にフォークソングに関して何かできることはないものか。一応気兼ねなく人を招く場所も出来た。
 幸いにして二回のプレオープニングイベントでは予想を越える来客があった。ならば、自分はこの場所で、たとえたとえ自分一人だけであろうとも古本音楽家として活動を始めても良いかと思えてきた。
 その活動とは、まず研究と資料整理、そしてそれらを世に伝えるべくワークショップである。もちろん両国フォークロアセンターとも連動してやっていきたい。

 はっきりいって、日本のフォークソングは、今も精力的に活動続けるファーストランナー、中川五郎氏や、岡林、高石さんたちがいなくなったら消えうせてしまう。むろん、歴史的資料としては、フォークルの「帰ってきたヨッパライ」やシューベルツの「風」、ジローズの「戦争を知らない子供たち」のようなヒットしたスタンダード曲は後世に「日本のフォーク」として語り継がれ残るであろう。しかし、その根源たるスピリッツや時代背景、当事者たちの思いなどは時とともに雲散霧消して記憶する者も知る人もいなくなる。それはあと10年だと考える。

 うたも本も時代と密接に結びついている。それはどんな時代であったのか、過ぎたときとそれを検証しないとならないし、変わるもの、変わってしまったものと時を経ても変わらないものを見極める作業もせねばならない。

 非力で浅学の自分がどれほどのことができるのか。それは昨年の春一番の会場で、風太の手下、若きスタッフから嘲られ罵られ軽蔑されたときからの課題であり、リベンジだと思っている。彼らに認めてもらおうなんて思わない。これは自分自身のこだわりであり、自らに課した使命である。
 そう、自分は10代の頃から、あの吉祥寺のぐゎらん堂でフォークソングとふれあい、ずっとうたとはなにか、何をうたとしてうたうか、フォークソングとは何か、ずっと考え問い続けてきた。まだはっきりとした答えは出ないが、残りの人生はそうしたことの研究、史料編纂、そして伝承伝達に費やしたい。古本音楽家とはまずそのこと、そうした行為に他ならない。

 正直なところ、老親の面倒で忙しくなってしまい、今なかなか時間取れなくどれほどのことができるか不安であるが、このことは趣味以前にライフワークであり、少しづつでもうまく時間つくって進めていきたいと思う。願わくば、関心ある方々、どうかご参加およびご協力願いたい。笑われるかもしれないが、こんなことは自分しかできないと思っている。やる人もいないはずだ。
 また、他にもっと最適な才能と行動力ある研究者の方がいるとしたらご教示願いたい。自分はその人に全面的に協力を惜しまない。

 これから何をしていくか。それはおいおい書いていく。

拙ブログこれからのこと2012年01月04日 23時26分21秒

★基本的にその日のうちに書いていく。が、書けないときも当然あろう。

 三が日の正月休みも明けて世間も自分も仕事モードに戻ってきた。まあ、街を走っていると商店などはまだ明日から始業というところも多いようであるが。一応ウチは、ようやく本日年明けの初注文が入った。

 今日の分のブログ、今これを書いているのは4日夜11時過ぎで、リアルタイムで打ち込んでいる。が、実は気分的には家内のことでむしゃくしゃイライラするところがあって、今は落ち着いてブログどころではないというのが本心なのだ。※断っておくが母の容態ではなく、父の認知症による妄言、妄想発言に振り回されたからだ。ご心配なく。頭のおかしいボケ老人の話など愚痴にもできやしない。

 そんなとき、つまりブログが書きたくても書けない時、気が乗らないときは自分にも当然ある。が、ここのブログのシステムは、後日過ぎた日付の回は新規にそこに書き込むことはできないので、とりあえず非公開で何かちょこっとだけ書いておく。それをしないと、その日は休みとなってしまいもう書き込めない。
 少しでも何か非公開であろうともその日のうちにアクセスだけしておけば後日いつでも書き足したり書き直すことは可能なのである。だから拙ブログ、たまに休んだ日が虫食いのようにあるが、非公開ながら少しは書いてあったりする回も実はある。しかし、後でまたきちんと書き足そうと考えてはいても時間の経過と共に気持ちも変わるし書こうとした情報や題材も古くなる。

 つまるところ何でも同じことなのだと気づくが、後でやろうとかそのうちゆっくり落ち着いたらとか後回しにしてもなかなかそれはしないしできない。片付けもそうであるし、連絡事項や日記のようなものだって同じことだ。その日のうちに少しでもやっておかないと後になると気持ちも変るしその時はその時で何やかや忙しくて結局できやしない。
 またこんなブログならば過去の分はよほど物好きな方でない限り新たに書き足しても読まれることはない。ならば、気が乗らないから後回しにしようとか、後できちんと書き足そうなど考えるべきではない。ようやくそのことに思い至った。

 まあ、ライブなどで、出かけなくてはならず、戻るのは日付が過ぎる頃となるときなどは、出かけにちょこっとだけ書き込んで後から戻ったとき書き足す、書き直すことはするだろうが、今後は、今年からはもう無理な時は姑息なことはやめにした。
 時間なくて書けない時は書けないわけだし、気分的に書けないときは休むしかない。そうご了承願いたい。

 が、今年は去年までのように何日も家を空ける旅行の予定はないのだから、ある意味毎日このブログは書き続けられる。気持ちとしては、ならば365日連日アップは無理だとしてもいったい何日連続できるのか挑戦してみたい気もある。
 つまり雨の日も風の日も調子の悪い日もともかく毎日書き続ける。何日続くか。きっと、風邪ひいた、調子悪いとか、数行だけという日もあるだろうけれど。

抗癌剤の効果が現れてきた・・・か2012年01月05日 22時05分14秒

★おかげさまで癌は小さくなってきた!?

 年明けて年も気持ちも改まったはずなのに、このところどうしたことかやや気持ちはネグレクトである。すべてもうどうでも良いと荒んでいる。
 元より決して明るく常に前向き、建設的な性格ではない自分であるが、気持ちが荒れるというのかささくれだった気分である。どうしたことか。自分でもいかんなあと思う。

 鬱的な落ち込む方向に向かっているとは思わないが、老親たちと日々顔を突き合わせほぼ連日病院通いが続いているからか気持ちはその日常に倦み疲れてきているのかもしれない。特に親父のボケに振り回され仕方ないことだとわかってはいてもつい声を荒げてしまうことに自分に嫌になっている。

 さて、今日は母の癌、年明け初めての担当女医の定期診断日であった。
 これまで昨年の11月から四週に一度、抗がん剤を投与するようになって、二か月、その二回の効果のほどである。医師の話だとまだ効果のほどはそんなすぐに出てこないとのことであったが、エコー撮ってその部位を確認してみたところ薬を始める前よりは小さくなってきているようであった。
 今日の採血ではきちんと癌マーカーの数値など測っていないようなので、確実に癌が小さくなってきている、つまり良くなったとは即断はできないが、時間と共に肥大して当然のものがそうなっていないというだけで良い兆しだと思ってよいと思える。まああれだけ頭髪が抜けたカイがあろう。

 手放しで喜べないのは、母を病院に連れていったものの、自分は他に用事があり小平のほうに出かけていてその場に立ち会わず詳しいことがわからないことと、一方、副作用の方の白血球の減少が今大きいので次回の投与が延びたからだ。

 当初の予定では今月第二週にまた入院して三回目をやるはずであったが、16日にまた採決して、血液の数値を見て第三週にやるか決めるとのことだった。今の状態では薬を入れるとさらにまた白血球が減ってしまうので危険すぎるのだ。それでも読者の皆さんに良い知らせができて嬉しく思う。おかげさまでと感謝したい。

 と、母の癌が小さくなったのと並行して父の脳も小さくなってきたようで、今年も年明けからボケ全開、フル稼働である。今日も小銭入れがみつからない、病院で落としたに違いないと大騒ぎしていた。けっきょく持って行ったカバンの中に入っていたのを母が発見したのだが、すべての記憶力、判断力、思考力は衰えているのに、感情だけは衰えるどころかさらに振幅が大きくこうして些細なことにすぐ反応して夜も眠れないほどの大騒動となる。これが老人性痴呆ということなのか。

 もともと若いときからの性格なのだと思うが、一つのことに囚われるともう頭の中はそれで一杯で、こちらが辟易するほど、あれはどうした、それはどうしろとうるさくてたまらない。いいげんにしろと言ってもちっとも聞かない。それでこちらが怒っていることもよくわかっていないのだからどうしようもない。
 つまりそういう「病気」なのだから仕方ないのだと諦め受け入れニコニコすべきだと頭ではわかっていてもその「挑発」にすぐまた激高してしまう自分は本当に堪えのない小さな人間だと心底あきれ果てる。

 まあ、父はそれでも今年の秋には八十八、米寿となるまで生きているのだからとっくに耐用年数は切れているのだと考えることもできる。ずいぶん長生きした。まさに出汁殻である。パーキンソンもありふらつきながら徘徊していても寝たきりにまだならないだけで良しとすべきであろう。
 ただ、老犬たちも同じだが、生きていることは歳月と共にさらに老化は進む。そこに留まっているならまだ良いほうで時間たてばより老いぼれて手がかかるようになっていく。果たして今年一年皆持ちこたえられるのか。今の自分の苛立ち、ネグレクトな気分は、そうした不安に裏打ちされているからかもしれない。
 前向きに気持ちを戻さないとならない。覚悟を決めて気合い入れねばならない。

古本音楽家宣言・32012年01月06日 22時02分43秒

★一瞬の夢ではなく覚めない夢が見たい。

 いろいろご心配おかけして申し訳ない。

 さて、古本音楽家「宣言」はしたものの、いったい何をどうこれからやっていくか。自分に確固たるビジョンとかあるわけではない。音楽にせよ、古本のことにせよ自分は門外漢ではないが、しょせん末端、その端くれのようなものであり、本業の方、それで飯食うプロの方の足元にも及ばない。そのどちらにも嘲笑われ無視されて当然だと思える。

 が、人それぞれモノゴトのアプローチの仕方は違うはずだし、自分は何よりそれを「商売」という視点では何事も捉えていない。これはあくまでも「趣味」いわば「もの好き」のなせることであり、音楽の世界で、プロとしては活動しないハウスプレイヤーという類があるように、語弊はあろうが「道楽」の範囲だと思われてちっともかまわない。しかしやるからにはそれなりに本気である。毎度の思いつきと判断されてもかまわない。そうかもしれないとも思わなくもない。

 自分はリアルタイムのビートルズ世代では実はないのだが、子供の頃、当時愛読していた月間漫画「ガロ」に投稿で登場したますむらひろし氏のいわゆるヒデヨシ猫の出てくる細密猫漫画の中で、彼らが「ビートルズを聴いてから、俺は9時から5時までの人生は絶対に送らないと誓ったんだ」というセリフを読んでいたく感動したことがある。
 以来ずっとその猫たちが語ったそのセリフが頭を去らず、大学は出たけれど結局のところきちんと就職、会社勤めのカタギにはならず生涯フリーターのようなバイト君として人生を生きてきた。そのことに悔いはないがだから結婚できなかったのかと最近やっと気がついた。

 今は一応、ネット古書店とか肩書きは勝手に名乗っているけれど、気持ちとしてはずっとバイト気分である。それは要するにどこにも所属していないし、何の保障もないということでもある。
 考えてみれば、猫などはなから9時5時の勤め人ではないわけで、そんな猫の姿に仮託してますむら氏もビートルズを語るとはいいかげんだと思えなくもないが、まあともかくそれで影響受けて以来ずっと今で言うフリーターのはしりのようにして生きてきた。そこには晶文社の叢書「就職しないで生きるには」などを読んだことも大きい。となると、そこに西荻のホビット村とか、吉祥寺ぐゎらん堂の敬愛する村瀬春樹さんのことなども関係してくるのだが、話をひろげるときりがないので。

 ともかくそんな筋金入りの自由気ままに生きてきた大バカ者である増坊も気がつけば50歳を過ぎてさて一人でこれからどうしたものかとさすがに考えるようになった。断っておくが誤解されると困るので、自分はヒッピーでも団塊の世代でもないしまた活動家でもない。いちばん近いものは、故ナベゾこと渡辺和博氏のような無思想ノンポリの面白主義であり、ドラッグや精神世界も含めて関心はあってもそこにハマルことも夢中になることもない基本が怠け者、不真面目人間である。

 そんな人間が手元の本と好きな音楽で何かできないか、やれることはないかと考えた。そのどちらも自分は大好きで、大差はそこに認められない。しょせん古い、ある意味時代遅れのやがては滅び消え去っていくものでもある。
 ただ、このところ思うのは、すべてをシンプルに、モノゴトは複雑にすべきでないという真理が正しいのならば、自分のやっていることしてきたこと、趣味も仕事も生き方、生活スタイルも含めてすべてを一つにできないかと考えた。ある意味全ては好きなことであり、昔から好きなことだけして生きた来た自分なのである。それで贅沢はできなくてもまあ何とかやってこれた。やってこれなくても生きてこれた。ならば、これからはそれを全部ひっくるめて生活文化という言葉のように、「古本音楽家」としていきられないものか。

 それで金儲けができるとか世間に認められるとは思いもしない。自らの好きなことをやっていくだけなのだから逆に認められたり評価されたら困る。誤解されるとまた困るがある意味金をそこに介在させたくない。かといってボランティアではないし、慈善活動では絶対ない。何とか少しは食えるようにしたい。
 もう今はともかくいろんなことをあれこれ抱えて面倒にも複雑にもしたくない。すべては唯一つに。生き方も仕事も商売も趣味もすべて一つに集約させたい。それが自分が考える「古本音楽」。知識と経験と技術、資料など持っているもの全てを活用させてこの場所を拠点にやっていく。

 これは「商売」ではない。人生なのである。そう、この俺の今後生きていく残りの人生のあり方なのだ。自分は映画も好きでずいぶん映画も観てきた。が、映画はしょせん一時の夢である。映画館を出たら覚めてしまう。今の自分は永遠に覚めない夢を観たいと心から願っている。

「師匠」について語る2012年01月07日 23時04分49秒

★自分にも師と仰ぐ大事な人たちがいる。

 今日もこちらは晴れたけれど北風が強く冷え込んだ。さすがにこんなに雨が降らないとどこもかしこもカラカラで困ってくる。気持ちもまだ乾いたままだ。どうしたものか。

 さて、こんな自分にも師匠として仰ぐ人たちが何人もいる。その方たちについて思うところを少し。

 例えば、ある作家が大好きで、その作品、文体、生き方、考え方も含めて師と仰ぎ、手本としている場合、私淑していると言うのだと思う。自分にとってもそうした人たちは何人かいて、漱石先生を筆頭にいずれも故人だが、色川武大、山口瞳、山本夏彦氏らには大きな影響を受けた。自分の思考法、文体は彼らのものだ。そこに植草甚一も入れても良いが。

 漱石はともかく同時代に生きていて、直接会い、話す機会もあったはずだが、何故かそれはできずに、近所に住まわれていた山口先生は街で見かけたこともあったりはしたのに結局挨拶すらできなかった。高田渡もそう。背中合わせで呑んでいても声もかけなかった。
 今から思えばせめてサインぐらい頂いておけばという気もするが、これもまたファン心理の一つで、大好きだからこそ個人的には親しくなりたくないという気持ちもそこにはあったのだと思える。わかる人にはわかるはずだ。

 そうして、勝手に彼らを師と思い手本にしていることを私淑するというとしたら、ある程度付き合いがあり向こうもこちらを認知している場合は何というのか。それは「親炙」というのだそうだ。その言葉を友人から教わった。
 そうした付き合いのある「師匠」が自分にも何人かいる。むろん、向こうは増坊のことを「弟子」などと思ってもいない。こちらも弟子にして下さいと頭下げたことはない。ただ、やはり大きな影響を受けて、その人と出会わなかったら今自分は絶対にありえないという意味で、師匠としか表現できない。そういうとても大事に思う人たちが何人かいる。それはきっと誰にでも。

 むろんたいがいの場合、その出会いは自分が若いときのことである。
 酒の師匠は、当時月間漫画「ガロ」で漫画を描いていた鈴木翁二さんであり、当時高校生で彼のアシスタントだった自分を引き連れ、吉祥寺の街をいせやからぐゎらん堂まで夜通し引き連れてあちこち飲み歩いた。今も彼は元気で北海道で「オートバイ少女」のモデル?の人と暮らしている。
 また別に、うたの師匠、ギターの師匠もそれぞれいる。また最近では詩の師匠として、有馬敲さんが新たに師匠となった。となると京都には師匠が多い。
 そうした幾人かの大事な師匠を思うとき、やはりどうしても忘れてはならないのが、その吉祥寺のライブ喫茶店、ぐゎらん堂のオーナーだった村瀬春樹さんであり、その店を知って通うようになり、高田渡や友部正人、シバら日本のフォークソングを知ったことも大きかったが、村瀬さん自身の存在、その生き方にもずいぶん影響を受けた。

 彼はまだライブハウスなどこの世に存在しない時代に、そうした日本のフォークシンガーたちが集い唄う場として、1970年にその店を設けたし、また途中から店は弟の雅美さんに任せて、ライターとして活躍始めた。その店は85年に閉店したが、彼はハウスハズバンドとして家作りや生活風俗全般に関して健筆をふるい多くの著作がある。
 最初はあのぐゎらん堂の村瀬さんが、という驚きがあったけれど、自分はその文章世界にも魅せられ大きな影響を受けた。まさに生き方自体も憧れの人である。彼を一言でいえばこだわりと寛容の達人である。

 自分が高校生の時であった彼はずいぶん大人の人に思えたが、1944年生まれとの本の肩書きにはあるからさほどのお年ではない。いや、今も髪も黒々としてずっと体形も昔のままでいつまでも若々しい。とてもそんなお年に絶対に見えない。先年、高田渡の生誕会の折、30年ぶりぐらいに再会できたのだが記憶のまま全く変わっていなかった。

 そして先日、その村瀬師匠から岡大介とかんから三線についてインターネットのマガジンに記事を書くのでと連絡があった。自分は大して何もお役に立てなかったのだが、吉祥寺のブロンというスナックで岡君のライブがあった際、彼も来られて短時間ながら会うこともかなった。

 そのときの記事がアップされている。あのカタログハウスのネットマガジンでの連載で、とても面白く読み応えがある。毎度ながら深く感心させられた。毎度の事ながら師匠には頭が上がらない。村瀬さんと出合えたこと自分には生涯の光栄、幸運であった。
 以下、転送↓

「道具の真相」、<絶体絶命のなかに[手製楽器]あり>がアップロードされました。
 
 岡大介くんの登場です。ご一覧を!

http://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/doguno-shinsou/

※と、今そのページを確認したところ、今現在はホームページのリニューアルに伴い表示されなくなっていた。村瀬さんに問い合わせしております。この記事自体がもたもたしていたら遅くなってしまった。そんなこんなで申し訳ない。

有馬敲に関する初の本格評伝本2012年01月08日 22時52分58秒

発行:土曜美術社出版販売 定価2625円。
★京都発世界的詩人の生涯が詰まった一冊

 さて、「師匠」話のついでに、自分にとって詩の師匠と言えば有馬敲さんである。
 
 昨年秋に傘寿、八十歳となられたこの老詩人に対して本当は先生とお呼びすべきが礼儀だと思える。が、有馬さんはそう呼ばれるのをことのほか嫌い、ちょうど息子ほどの歳下の増坊に対しても、君付けではなく、きちんと「マスダさん」と呼んでくれる。真に偉い人は驕らず高ぶらず誰に対しても謙虚であると聞くが、門外漢の若輩者でもきちんと一個人として扱ってくれる。世の中にはエラソーな年寄りが沢山いるが、有馬さんは別格である。
 見かけはお年相応に見えても頭の回転も素早く歩くのも早く、かくしゃくとしている。とてもそんな高齢だとは意識してお付き合いしたことは一度もない。その行動力も含めてある意味「怪物」的である。知る限りこんな老人は身近にいない。

 ただし彼は彼自らに対してもそうであるように他者に対しても手厳しい。厳しいと言ってもいちいち叱ったり怒りはしない。だらしのない、約束を守らない者に対しては相手にしないし関わらなくなっていく。全てにユルく、だらしなさが服着て歩いているような増坊が彼と知り合えたのはある意味奇跡かと思える。むろん、いつだってこれでも緊張感を持ってお付き合いをしているのであるが。

 前置きが長くなったが、そんな有馬さんの本格的評伝本が昨年秋に出た。書かれたのは田中モジローさん。かつて京都在住で、有馬さんとは若い頃からお付き合いある方で、いわば増坊にとっては兄弟子に当る。彼とは昨年、詩誌「詩人会議」の評論部門新人賞授賞式で有馬さんを通して知り合った。現在は三重県津市にお住まいで、以後大変親しくお付き合い頂いている。彼も昔からのフォークソングファンであり、同じ思いを共有する同好の士だと思っている。
 
 さて、この本について紹介するからにはきちんと「評論」しないとならないと思いつつもなかなか時間なくて書けなかった。よってこの本の紹介すら遅れてしまっていた。著者にも有馬さんにも本当に申し訳なく思います。今もまだきちんとそれは書けていないが、このまま徒に時間ばかり過ぎていくことは良しとすべきではない。

 一言でいえば、これは有馬敲という京都在住の今も多彩な活動を続けている現役詩人のこれまでの人生を出生から現時点まで追って記録した評伝である以前に、戦後の関西のサブカルチャーについての詳細な記録でもある。日本のフォークソングの研究をライフワークとしている自分にとって教わるところ大であった。実にこと細かく調べ上げた労作である。
 しかしそれ以前にもっとも面白く考えさせられることは、有馬敲という人生の長くを銀行員として仕事を持ちながら芸術活動を続けてきたサラリーマン詩人を通して「芸術とは何か、詩とは何か、人はどう生きるべきか」という普遍的なテーマが取上げられているからだ。

 芸術とはパッションであり、才能の瞬間的な爆発のように思われている。ゆえに若くして破滅型天才が多々現れ、超新星の爆発的に現れては消えていくのが一般的芸術の認識であった。しかし、それとは別に、生業として別に固い仕事に携わりながらも就業後や休日に自らの芸術に真摯に向き合った芸術家たちも多くはないが存在している。森鴎外を筆頭に、新田次郎まで“日曜画家”の域を超えて素晴らしい仕事を精力的に残してきた。有馬敲もその少ない仲間の一人であり、継続こそが力であり才能であることを彼の人生と仕事は実証して来ている。

 この本は一詩人の評伝以前に、詩には興味なくても芸術と人生に関心を持つ方にとって確かな指針となる。また、芸術家としてのみならず人生の成功者としての有馬敲の稀有な極めてタフな達人の生き方を学ぶためにもより多くの人に読まれるべきであろう。

 これは師匠に対してのおベッかではない。本心から書いた。この本は実に面白い。よく書けている。ゲーム攻略本的に言えば、有馬敲初のオフィシャル公式評伝本がついに出たのである。ぜひぜひ多くの方々に読んでもらいたい。

※この本は現在当店ますだあーと書店でも販売中です。希望者には著者のご好意により特別定価税抜き2500円で頒布いたします。数に限りがありますのでお求めはお早めに。

ようやく2012年が動き出した気がしている。2012年01月09日 23時12分59秒

★今年の計画、方向性が出始めた。

 今日は九段下のホテルのロビーで、詩誌の新年会出席のため京都より上京された有馬敲さんと会い今後のことを相談した。

 その席に、新潟出身のフォークシンガーF氏も同席し双方初顔合わせであったが話もはずみ、今年のうちに有馬さんが提唱している生活語詩運動の朗読キャラバンの開催を新潟でやる方向で調整していくこととなった。むろんフォークコンサートと一体で詩の朗読も盛り込んでいく。
 具体的な話にはまだ遠いが、この計画がうまく進めば自分も京都の有馬さんと新潟のフォークシンガーたちを取り持つ一助ができたわけで予想外の喜びであり考えただけでワクワクしてくる。

 きちんと報告し遅れたが、「新潟フォーク村」の代表役は、もともと60年代に京都の大学に通っていた方で、その頃より有馬さんのことをご存知であったようだ。そうした浅からぬ縁が自分が介在したことで再び結びつき、“日本のフォークソングの父”が健在のうちに新潟で彼を迎えて詩とフォークのコンサートが開催できるならばこんな嬉しく光栄なことはない。
 去年の大阪では春一のスタッフに、「フォークソングの研究?笑わせるな!」とけちょんけちょんに否定されバカにされた自分だが、生きている存在価値というほどではないがやっていることに少しは意義、役割があるのだと自信がつく。

 それとようやくではあるが、拙宅、増坊の自宅「無頼庵」でのオープニング記念ライブの開催日がようやくほぼ確定した。正月あけて調整していたのだが、かねてよりご出演を願い、内諾はとっていた御大中川五郎氏と村上律氏という日本フォークソング界の巨星二人によるジョイントコンサート「バンジョー律五郎」がついに実現する。

 日時は3月24日の土曜日。たぶんこれでもう動かないと思う。詳細はこれからまず当ブログで発表し必死に宣伝していくこととなるが、どうか満席となるようお早めにご予約のうえ沢山の心あるフォークファンにぜひぜひお越し頂きたい。オープニングアクトも含めて豪華絢爛の伝説的記念ライブにしてみせる。今想定しているところでは、代金は前売り・予約2000円。当日2500円。盛り沢山懇親会参加費1000円で呑み放題食べ放題としたい。これまで二回の試運転イベントで段取りなど自信もついた。※今からことわっておくが、儲けはゼロである。チャージは全額出演者に支払う。ゆえに沢山の観客に来てほしい。これは商売ではない。

 またその他、今年のライブの日程・予定などもかなり確定してきた。自分が参加、関わっているものもあるしどうしても観たい、成功させたいライブもある。そうしたライブも順次宣伝告知していく。

 有馬さんと会うといつものことであるが、こちらの血が活性化されるというか、刺激を受けて一気にモノゴトが進み動き出していく。齢八十歳の老人なのに、である。この人は魂の若者なのであろう。しかも芸術のディーバに愛された。
 実は老母の白血球減少のため大晦日も正月二日も立川の病院通いが続いていて、ほぼ隔日ごとに病院に日参していると正月気分どころではなく年明けたのに今年の予定や計画がちっとも決まらなかった。
 それがこの連休の間にあっちこっちから連絡もあり急にドタドタと動き出し方向性が見えてきた。ようやく自分にも神様が微笑み出したか。

 去年はこの国も自分にも多難な年であった。悲嘆と絶望感に苛まれた。自らを責めもした。フォークに関する気持ちも萎えた。でも今日有馬さんたちと出会い、今年はきっと良くなる、今年こそ頑張らねばと気持ちを新たにした。自分にもまだできることがある。したいことではなくて、できることが即ちすべきことなのだと思えてきた。
 それは人それぞれ違う。でもどうかご協力願いたい。非力な自分だが全身全霊でやっていく。今しか出来ないこともある。今だからこそすべきこともある。どうか応援願います。

かっこ悪いことはかっこういいんだろう。2012年01月10日 22時37分26秒

★じぶんはつくづく幸せ者である。律&五郎のライブに向けて。

 1月も10日過ぎた。今、若きフォークシンガーの友ヒゴさんと携帯で電話で話して、酔っぱらっているんじゃないかと指摘されたが少しだけ浮かれて酔っている。

 まだ少し先の話であるが、ウチで、中川五郎と村上律のライブコンサートが確定した。今は天にも昇る気持ちである。人は、それぞれ神様のように思う大切な人がいると思う。じぶんにとってそれは中川五郎さんである。自分の家に 彼が来て唄ってくれるとはまさに夢心地であり本当にありがたい。今でも信じられない気がする。

 いや、じっさいのところ、これまでも両国フォークロアセンター40周年記念コンサートをはじめ、増坊が企画したコンサートにはいつもスケジュールさえあえば、彼はいつだって薄謝であろうが常に快く来て全身全力で唄ってくれた。その姿勢にはいつも本当に申し訳なく頭がさがる。
 しかし、それとは違い我が家にお招きすることはそれはまたうんと特別なことだ。当人は記憶しているか別として、増坊は1970年代からお付き合いがある。70年代半ば頃の大阪春一番でもお会いしているし、それ以前に吉祥寺ぐゎらん堂が彼のわいせつ裁判応援団の東京での拠点であったからずっと支援もしてきた。

 そして以降モノカキとしての活動も逐次知っていたし、近年精力的にうたに取り組みフォークソングの原点(スピリッツ)を今の時代に忠実に具現化しているその真摯な姿勢に共感もし心から応援してきた。ある意味、ずっとずっと彼の後姿を追い求めてきたという気さえする。それはまた自分も同業の匂いを彼に感じたからと言えなくもない。

 語弊あるし誤解されるかもしれないが、中川五郎の魅力とはかっこ悪さであろう。それは盟友高田渡のそれとは全く違う。高田渡は実は若いときからクールですごくかっこ良くて、スマートで洒落ていて人気があった。それに対して、五郎さんはかっこ悪かった。
 特に自分がふれあった1970年代は長引いたフォークリポート猥褻裁判に翻弄されて、彼自身も倦み疲れていたからか本当に元気がなかった。ある意味情けない唄を自分でも自信無げに弱弱しくうたっていた。そこには同情的魅力もなくはなく自分はファンになったが、大丈夫なのかという不安もかなりあって、シンガーとして先行き危ぶまれるところが正直あった。

 しかし、近年、特に高田渡死後の彼はその軸足をうたにライブ演奏にしっかり置いて、故藤村直樹氏曰くの「60歳のパンクロッカー」という喩えが冗談どころではないほど、精力的なライブステージを連日こなしてきた。その体力とうたにかける情熱、アグレッシブな姿勢には本当に驚かされる。今のナカガワゴロウは、自分が知るかつての頭でっかちな文弱の輩ではなく、うたのメッセージを全身全霊で伝えたいフォークソングの伝道師である。60歳を超えてますます燃え盛る情熱とパワーには頭が下がる。彼のステージを観ていてイギー・ボップのそれを思ったのは自分だけではないはずだ。 人はこんなにも変われるものなのかという驚きを持ちながら昔から知る者として感嘆の目で追ってきた。

 だからこそ中川五郎さんのことが大好きだ。彼とかつて、フォークリポート誌の編集に共に携わったあの早川義夫氏に、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という皮肉なLPがあったが、ならばこそ逆説的に、「かっこ悪いことは実はかっこいい」という真理も成り立つと断言する。今の彼は油が乗り切っている。誰よりも精力的、世界変革のパワーが溢れている。自分は思わず呟く、カッコいい・・・。

 今中川五郎は今すっごくカッコいい。それは実は昔、かつては格好悪かったからである。そうしたこと、今日の敗者は明日は勝者だとはディランも唄っている。が、今ナカガワゴロウは60歳をこえてともかくすごくカッコいい。それは彼と長い付き合いの村上律さんも同じで、もう本当に涙が出るほど良い味出してともかく眉毛もバンジョー弾く姿も全てがカッコええ。同い年の関西人、もうほんま最高ちゅうんか、言葉もあらへん。
 そんな大好きなふたりのライブをうっとこ(無頼庵)でやれるんはもう夢見心地としか言いようあらへん。なんで関西弁になるんか。

 そう、そうした昔からとても大切な大好きな二人がウチに来て、心ゆくまで唄ってくれる。まさに夢のような気がする。今はただ神に感謝し祈るだけである。どうか満員のお客様が入り、コンサートが大盛況となりますように。

 そう、じぶん、増坊は幸せ者、ラッキーマンである。人は普通思いはしても思いはなかなかかなわないものなのだから。