改めて3月24日、どなたでもお気軽にお越しを。2012年03月12日 22時47分53秒

★いよいよオープニング記念ライブに本腰入れていく。

 3.11が終わり、気持ちに区切りもついた。
 新しい週が始まり、これからもう二週間先もないのだが、来週の土曜日がウチで催す古本音楽ハウス「無頼庵」オープニング記念ライブパーティ本番なのである。
 来客者のメドはほぼついたと先にお知らせした。が、予約申し込みはされてもじっさい当日になってキャンセルとなったりもする不確定要素も多分にあるので、もう完全に締め切るということはしたくない。新たに呼び込みはもうしないでも良いと思うが、来たい方があればいつだって歓迎したい。何しろ記念のイベントなのである。多少窮屈でも盛大に多くの方々で盛り上がりたいと心から願う。席は常にあるし常に空けておこう。

 と、こうして拙ブログで度々お知らせしているから、ふーんそんなイベントがあるのかと思い、ならば行ってみようかなと思う人もいるかと思う。また、行ってみたいけれど見ず知らずの自分が参加して良いのだろうかと迷い不安に思われる方もいるかもしれない。でも今回はたぶん半数以上はお互い初対面であるかと思うし、主催の増坊も初めて会う方も何人もいる。つまるところこのブログやマスダのしてきたこと(それは多分ライブ企画などだと思うのだが)を通して、少しでも興味と関心を持ってくれた方がいるとしたらその一点のみで来てくれてかまわない。きっといろいろな意味でぜったい面白い集いになるだと断言する。老若男女、様々な人たちが音楽を通して一堂に会する場としたい。


 最近よく思うのだが、けっきょく全てはまずは行動、アクションを起こすことから何事も始まるというのは確かなことだ。そして良い結果になろうが、悪い結果であろうともそのことは人に何らかの心理的影響を与えて経験の蓄積として一つその前の時点より成長していく。つまりそれを体験する前の自分とはもう違う時点にいるということだ。ならばそれは悪い結果、失敗に終わったとしても良いことではないか。

 ただ、人は予想はできなくても想像する力があり、人の心は傷つきやすく弱いものでもあるから、様々なことに対して怖れと不安を抱く。楽観的な想像ならばまだしもたいがいは悪いほうに、良くない結果を想像して怖くなる。

 自分も昔不登校で、学校へ行かなくなった時期があるので今も思い出すとリアルにその頃の気分に戻るのだが、学校に行かないときが楽かというとそうではなく、逆にあれこれ想像してものすごく苦しくなる。行けば現実の話としてはきっと何も起こらずすぐに受け入れてくれるはずなのに、自分だけがチェーンから外れた一つの輪のように、もう戻れないしどこにも居場所はない気がする。つまり学校に戻ってもどこにももう溶け込めないと思える。家で退屈しているから昼寝しては今頃学校では皆どうしているかとあれこれ想像する。それは別の場所からあたかもテレビの画面を観ているようにこちらとあちらの距離がはっきり感じられる。

 今にして思えば、世界は家と学校の二つだけではないのに、あたかもその二つしかないのだと信じてその狭間でもがき苦しんでいたのだ。ほんのちょっとの勇気を出して学校に行けばまた輪の中に戻れるのに、結局のところ、多くの退学者はその怖れと不安でもうどうしても行けなくなってやめてしまうのである。そこで苦しむ心理とは実は学校に行きたいのに、悪い場合の想像をしてしまうから行けなくなることから起こる。
 これが本当に学校に行きたくない奴なら不登校なんかにならずにすぐさま学校をやめて気持ち新たに別なことにとりかかっているだろう。あれこれ悶々と悩み苦しんだりしないはずだ。悩むのは行きたいからなのである。

 この世の中は不安にかられてあれこれ考える前に、何事もともかくまずやってみること、行動してみることだ。存外大変でも辛くもなくごく簡単にモノゴトは進んでいくことも多いし、またやはり悪い結果になったとしてもやらない場合よりはリスクは小さい。というのも不安と怖れに負けてしなかった場合、例えば学校に行かない場合、それは主体的に退学する選択をしたならともかく、結果としては100%の負けなのである。意を決して学校に行けばヒフティヒフティ、つまり50%の結果なのである。いや、たいがいは想像していたよりも悪い結果になることは絶対にないから良い確率はもっと高い。

 だからともかくまずは行動してみること、行ってみること、やってみることからなのである。だが、人は傷つくことを怖れるからまたあれこれ不安にかられ悪い場合を想定してしまう。その内心の怖れと不安をみつめることから全ては始まっていく。

 余談だが、誰よりも小心で不安神経症でもあったこの自分は最近はもう何も考えないようになった。あれこれ想定したからといって準備できることならばする必要性もあるが、それ以外の場合のこと、特に人間関係などについてはあれこれ考えても全く意味がないし役に立たないからだ。人生にはマニュアル本もないし、すべてがその時そのとき一回限りなのである。
 寺山は書を捨てよ、と言ったが、本は捨てなくていいからともかく町に出よう、そして人と会おう。さすればきっとまた新しい何かが始まる。人生の不登校になって引きこもっていても誰も誘いに来てくれないのである。先ずは自ら些細なアクションを起こすことからだ。

 生きていくこととは実はそうしたことの積み重ねなのだ。恥ずかしい話、そのことを最近気がついた。