うたの「志」を今も今こそ唄い続ける人・中川五郎2012年03月23日 21時54分22秒

★明日3.24日、心から敬愛する歌い手が無頼庵にやってくる。

 今日は朝から雨。でも予報より寒くも強くも降っていない。一応、明日用の食材やアルコールなど、今さっき車で買出しに行ってきた。明日は朝から気合入れて料理の仕込みに入る。機材などのセッティングは、照明と録音のプロである友人たちに任せて、自分はひたすら料理を作りおきしておくのに専念する。じっさい20人以上の人たちの腹を満たす分量はどの程度必要なのかちょっとまだ予測もつかない。

 ただ、一応の予約は入っていても果たして来てくれるのかわからない人もいて、スタッフ、出演者を含めれば20人は軽く超えているのだが、有料の入場者は20人に満たないので、前日の段階で早くも赤字が予想されている。願わくばあと2名ぐらい「観客」が来て増えたほうがこちらとしては助かるのだが・・・・。

 さて、まだ部屋の片付けなど作業も少し残ってはいるのだが、思うことを前日であるが少しだけ。

 うたはいつだってどこにでもあって誰にでも唄える。わざわざ高い金出してコンサートホールへ行って聴くものではないはずだし、カラオケだって鼻歌だってその人にとってはうたなのである。巧い下手はあるかもしないが、人の数だけうたは常に存在し人を励まし楽しませ気分を変えてくれる。うたは誰の人生にとっても必要かつ不可欠なものなのだ。

 街を歩いているとこのところギターケースを背負ったり抱えた人をよく見かける。以前はそれは高校生や中央線沿線に見られるようにいかにもといった風体の人が多かったのだが、最近のそれはかなりの年配、それもあまり長髪とかのミュージシャン風ではない。ごくごく普通の人がギターケースを下げてどこかへ出かけている。これはとても良い事だと思える。つまりそれだけ音楽人口が広く各世代にわたって浸透しているのだと思える。先日も楽器屋でハーモニカのコーナーを眺めていたら、ゆずのファンだというオバサンがハーモニカを物色していた。

 人の数だけうたがあると書いた。だが、もし貴方が、うたが好きで、人を前にして唄いたいと思い、他人に聴いてもらいたいと願うならば、一つだけ注文がある。一体何を誰に向けて何をうたにして何をうたうのかということだ。
 もちろん何を唄おうとどこで誰に唄おうとそればその人の自由である。だが、もし「おいで皆さん、聞いとくれ」と人に向けて唄いたいことがあるならば、そこにはうたの「志し」がなくてはならない。つまりなぜにそのうたを貴方が唄わねばならないのかという必然性といっても良い。

 たとえば、あるシンガー、それは井上陽水でも良いが、彼のファンだとして、完璧にコピーできたとして、彼の曲を自らギターで弾き唄える人がいたとする。しかし、それは自作自演のカラオケでしかないし、個人で楽しむならともかく、人前でもしも金をいくらかでもとって演ることではない。むろん、楽しみとしてあるサークルで、皆が知っている曲を皆で楽しむことは何も問題ではない。そうした楽しみ方は確かにあるし、昨今流行のフォーク酒場の需要というのもそうしたところなのであろう。
 が、いくら本物に近くそっくりに唄えたとしてもそれは本人にはかなうはずもないし、残念ながらそれは貴方のうたではない。むろん、そこに何らかのアレンジや解釈が入り、自分のうたに変えているのならそれもまたアリであるが。

 そうした音楽、それをフォークソングだとしたらば、まずはそうして好きな歌い手の好きな曲のコピーから入るわけだが、そこで留まるべきではないと考える。下手くそで拙かろうが、自分のうたや、自分にしか唄えないことは誰にでもある。そのことをうたにして自らが唄えばよい。それは決して難しいことではない。コードが三つぐらい知っていれば誰だってそう難しいことではない。フォークソングとは本来そうしたもの、自分の思いや考え、怒りや悩み哀しみ、憤りをメロディーに乗せて自然発生的に生まれてきたものであった。いや、芸術とは全てそうした気持ちから誕生するものであろう。

 そのことこそがうたの「こころざし」であり、考えるにいちばん肝心なことはそのうた、その人が唄ううたに、それがあるかどうかということだ。残念ながら、今のうた、巷で流れるJ・POPなる音楽にはそれがほとんど感じられない。うたが巧いとか、ギターが上手だとかは本来うたの存在価値とは全く関係ない。うたは唄っていれば誰もがそれなりに声も出てうまくなっていくものだし、ギターだって同様であろう。
 いちばん肝心カナメなことは、その人が唄うからにはその人でなくてはならない必然性と独自性であり、それが強くある人にはなかなかめぐり合うことが少ない。私見だが、今の時代、歌が上手く唄える人、楽器がとても上手い人はどこでもいくらでもいる。だが、皆どこかで聞いたような曲で誰かに似ていて、聴いたときは良いとおもっても後から何も思い出せない。それより、ものすごく下手でも心に残るようなインパクトある人のほうが、また聴いてみたいと思うし、何故かずっと心に残っていく。それこそが志の有無なのかと思える。

 しかし、では自分ならいったい何を唄えばいいんだろう、と迷い悩む人もいよう。当然かと思える。増坊でさえ、ずっと何十年もうたとは何か、人は何をうたにすべきなのかと自問してきた。そんな答えは当然おいそれとは出るはずもない。しかし、方向性を示すことはできる。
 この方向が正しいとか間違っているなどと誰にも決められはしないが、うたの可能性として、こうした方向があることを示している人がいる。中川五郎である。

 彼のことを単純に「歌手」としてとらえれば、下手くそだと言う人もいるかもしれない。だが、彼のうたには間違いなくうたにしてうたうべき「本当のこと」がある。彼も敬愛するピート・シーガーがそうであるように、うたとは常に社会と密接に結びつき、社会性を伴うべきものである。純粋芸術としての音楽は存在はするが、人が社会性の動物である限り、うたも常に社会の問題と向き合っていく。ならばそうしたことが唄われてこそ「うた」なのである。

 中川五郎は、60年代半ばに、高校生のときに人前で唄い出してから爾来もう半世紀近くもずっと志しあるうたを唄い続けてきた。それは歪んだ社会に対するメッセージであると同時に、自らの女々しさ、ダメさであり、それらをうたに託したラブソングであった。知る限りこんな人はいない。強面でもないし体育会系でもない、見るからに文弱の輩で、誰よりもっとも弱弱しいと思えたあの中川五郎が今もまだ一人荒野に立っている。高石も去り岡林は逃げ、高田渡は旅立っても中川五郎だけはまだうたの曠野に風に吹かれる葦のごとくに。
 もうこんなうたい手は金輪際出てこない。どうか一人でも多く志しある方々に彼のうたを聴いてもらいたい。うたについてのすべてのヒントとサジェションがここにある。