フォークソングのワークショップ開催に向けて・前2012年03月30日 22時24分30秒

★このところ「余生」をどう生きるか考えると

 このところ余生という言葉を考えている。自分現在50代前半で、ガタが出てきたといってもまだ体も何とか動くし物忘れするといってもまだ頭も動く。初老、老人期の入り口に立ったと思うが、うまくすれば親たちの歳まで生きられれば残り人生約30年はある。
 このまま平穏無事に、波乱も動乱もなくその残りの人生、余生を過ごせればと願うが、おそらくまた一度は首都圏直下型地震などに見舞われ悪いときは全てを失ってしまうかもしれない。いや、いちばんの可能性は本に押しつぶされての圧死であろうか。

 それは考えても仕方ないが、残りの人生、それも老親たち亡き後の何十年間かを一人でどうやって生きていくか方向をそろそろ定めなくてはならない。基本がバカでお気楽にできている人間であるから、その場そのときになってみないとどうせ何も考えも行動しないことは想定内であるが、想定外のことが起きるのが世の中であり、そろそろ残りの人生についてマジメに考えるときが来たようにも思えてきた。

 そんなことをつらつら思うは、とりあえず家ができたからで、無頼庵というスペースも含めて、そこで何をやって残りの人生をどう生きていくか当然考えるわけである。むろん、ブックカフェとして「商売」というのが正しい筋道だが、自分の場合、本当の商売人ではないから、商売というのは目的ではなく手段に過ぎない。願わくば金を稼ぐ方法としても古本稼業などはできればしたくない。いちばん楽でしたいことは今こうして書いているような「売文業」であるが、今は書き手もやたら多いし、出版はそもそも全てにおいてもう成り立たない業種であるからいくらか書いたって金は生まない。

 また、喫茶店のような商売は街中、駅前ですべきことであり、来られた方はお分かりだが、こんな住宅地の中では、いくら待っていても客は来ない。いや、来るかも知れないが、いつ来るかわからぬ客を日がな一日待っても時間がもったいない。まだ茨城の山里にある隠れ家焼鳥喫茶店「どんぐり」のようなほうが、ほかに何もない場所ゆえ店として特化しているのである。

 ならば音楽、それもCDとかを自主制作して売っていくというような業種を考えると、これもまたなかなか難しい。テレビに出るほど一般的認知度と人気ある歌い手を抱えれば相応に金が動くはずだが、その世界では人気のある、知る人ぞ知る程度の人気者ではライブやっても来る顔ぶれは同じだし、その人たちが一枚づつCD買えばそれ以上は売れないのである。

 結句、ではいったい何をして金を稼ぐかと自問すると正直今は何も答えも案も方向性も何も見えやしない。まあ、今はまだ親たちも生きているし、その年金のおこぼれで何とか自分もやっていけているが、問題はその後である。今決めているのは、あと5年ぐらい様子を見て、50代のうちに余生の生き方、過ごし方が定まれば良いとおもう。

 良いことはかなり大きい持ち家があることで、悪いことはとなると生活保護などに頼ることはできないのである。家という資産があるならそれをまず売ってからということになろう。つまるところ、自分はこの家でこの家と共に老いて死ぬしかない。妻子がいればまったくまた別の人生、余生も想定できるが、もうすべて手遅れだと考えたほうが建設的か。

 まあ、最悪の場合、老人向け集会所のように、高齢化社会においてウチを解放して、溜まり場として、コーヒー代を頂こうかとも思っている。地方にはそうした近所の老人の溜まり場ゆえに続いている喫茶店がまだある。ウチも自分がもっと本当の老人になれば喫茶店としてやっていけるかもしれない。

 さて、先のことはともかく、その無頼庵で何をやっていくか。これから直近のことである。ライブの予定も進めているが、それはまた相応に宣伝告知など時間かけて取り組むもので、とりあえず○○日に誰々、△△日には誰々と決めたって客が来なければ意味がない。ミュージシャンを呼ぶのは簡単だが、客を呼ぶのは難しいのが現実なのである。

 それで今自分が考えているのは、そんなライブではなく、レコードや貴重な音源を流して行う音楽、それもフォークソングに関してのワークショップなのだ。《長くなるので続く》