フォークソングのワークショップ開催に向けて・中2012年03月31日 15時11分47秒

★自分のできることがすべきことであるのか。

 外は昨夜から春の嵐が音を立てて轟轟と吹き荒れていた。が、午後から雨が降り出したら収まったようで今はやや強い雨の音しか聴こえない。厳冬だった今年はけっきょく春一番は吹かなかったのである。

 昨日は冬の格好では汗ばむほどの暖かさで、うっかり上着を着て都心に出たらもうどこも暑くて暑くて汗かいてうんざりした。暖かいのは助かるが着るものの調整が難しい。薄着で出かけるとウチのほうは夜になるとまだすごく冷え込む。
 何はともあれ季節は進み、今日で3月も終わる。東京でも桜の開花宣言が出たらしい。明日からいよいよ春本番4月である。懸案のことは一つ一つ終わり今は心も軽い。

 例年だと今頃は5月の大型連休恒例の関西旅行を見据えて予定を立てているところであるが、今年はそれもなくなったので、さてどうしたものかというやや手持ち無沙汰のような気分でいる。むろん、そのゴールデンウィークの頃は何も用事がないわけではない。が、久々に空きのできた、東京にいる連休期間をどう過ごそうかと今思案中だ。

 さて、昨日の続き。
 人はその自ずからできることをしろとよく言われるが、では、自分の出来ることは何なのかと考える。したいことは今もまだ多々あれど、そんな身勝手な思いではなく、真に自らの役割を知りそれを行うことである。もう思う存分好きなこと、やりたいことはやってきた。残りの人生、人として与えられたやるべきこと、役割を少しでも少しづつでも果たしたい。
 ではそれは何か。何をすべきなのか。何が自分にはできるのか。

 増坊こと自分ができることは、自分が知っていること、過去の体験も含めて見聞きし覚えたことそして言いたいこと考えたことなどを覚書のように書き記し残していくことだけだ。今このブログも同じであるが、ブログという伝達、発信手段を手に入れてから自分は様々なことを日々、ほとんど連日のように書いてきた。
 中にはそこから何か新しい動きが起こり、人が集いまた新たな関係が始まったこともいくつかある。例えばTBSのアナウンサー故林美雄さんのこともそうだし、若林純夫さんのこと、高坂一潮さんのことだって、何の気なしに書き記したことを故人を知る人たちが目にしてくれてまたそこから様々な動きや新たな人間関係が始まっていく。それは素晴らしいことであろう。

 自分は政治的人間でも反体制活動家でもないが、よくも悪くもサヨクかぶれの70年代のカウンターカルチャーにどっぷり漬かった世代であり、後に言うサブカルというものに生涯関心を持ち続けている。
 それはラジオの深夜放送であり、フォークソングであり、レコードやカセットであり、自主制作としての8ミリ映画であるし、オールナイトの映画館、そして少年少女マンガ、青年漫画雑誌やミニコミ誌である。その十代から二十代の頃に知り体感したものを今もずっとずっと変わらずに愛し集めてきた。

 若者文化やサブカルの研究家、コレクターというとカッコよいがそんなエラソーなものではなく、最初は単なるオタク的好奇心だけでモノズキの延長としてただそれらが捨てられず愛好していただけだった。が、両国フォークロアセンターに出入りするようになって主宰の国崎清秀氏から、米国のフォークソング研究家アラン・ローマックス親子を教えられてから、どのような文化でも誰かが録音も含めて記録保存し書き残しておかないとやがては雲散霧消して後世に何も残らないということに気づかされた。

 文化というもの、特に国から認められた伝統芸能等はともかく、自然発生的に起きた軽文化というものは記録と保存しておかないと後には何も残らない。それから意識して、あったこと、自分が知っていることは書き残していくようになった。
 そんなことは一民間人がすべきことではない。誰かが、例えば文化庁の役人とかが、70年代全般にわたってどんな時代だったのか、例えばフォークソングムーブメントとは何であったのか、当時の歌い手たちの証言を集めて白書のようなものにまとめてくれれば在り難い。が、国や行政はそんなことには時間と金は絶対にかけないから、過ぎた時代のことは過ぎてしまえば過去のこととしてその頃生きていた人たちの記憶の中だけに残る。しかし、彼らが死ねばその記憶も屍と共に消えてなくなってしまう。その人が日記などに書き残していたとしても人は死ねばゴミだから集めて大事にしていた物もみんな捨てられてしまうのである。

 中でも自分が今いちばん関心を持ちすべきことだと考えているのは、そうした日本のフォークソングについてのことである。今はまだ中川五郎氏ら黎明期当時からのランナーが元気で活動しているが、やがてあと10年、20年したら団塊の世代もほとんど全員亡くなってしまい時代の様子も含めてそのムーブメントについて知る人も語る人もいなくなってしまう。
 自分はあの時代は知っているが、残念なことに子供すぎて当事者ではなかった。せいぜい熱気が通り過ぎた後の残り香を嗅いだ程度だ。だからこそ日本のフォークソングはどのように生まれてどのように変質、変節して行ったか知りたいし私説フォークソング史、フォークソング論を書き残したいと思う。

 うたとは何なのかいまだよくわからない。ただ、どこから来たのかはわかってきたような気がしている。そしてどこへ向うのかも。その途中経過であるが、願わくばワークショップとして参加者と共に考えてみたい。

 なので、それが自分のすべきことなのかは甚だ疑問ではあるが、できることだと信じて無頼庵で定期的にフォークソング教室をやってみたいのだ。うんにゃ「教室」というのは正しくない。フォークソングについての実践のためのワークショップであろうか。