ようやく季節が動いた。2012年09月01日 21時59分36秒

これ全部、湯田中温泉のお土産である。長野はフルーツ王国なのだ。
★9月の初日は久々の雨。そして涼しくなった。

 ほっと一息である。今朝、早朝から曇っていて、犬たちと散歩の途中から雷が鳴りだし、家に戻ったとたんパラパラと雨が降り出した。そして、今日は一日断続的に時折かなり激しく降ったりやんだりとかなりまとまった雨となった。
 今も外はザーと音を立ててまた雨が降り出した。ひんやりとした冷たい風が小さく空けた窓から吹き込んでくる。8月と共に夏は去ったのだ。天気予報だと先月8日から続いていた熱帯夜も昨日で終わったとのこと。ようやく季節は秋へと動いたのだ。思わず安堵の溜息をついた。

 老親たちは無事に今日の夕方、信州から帰って来た。湯田中だけでなく隣の渋温泉まで足を延ばしたとのこと。おみやげは温泉まんじゅうとお焼きとたくさんの果物、ネクタリン、桃、ソルダム、そして生のプルーンである。
 車で立川駅北口の公園まで迎えに行った。雨は上がっていたが、道は黒々と濡れている。窓から入ってくる風は湿ってひんやりとして思いきり深く吸い込むと乾ききった喉と肺、そして体全体に浸み入った。

 人生もまんざらではないなあ、とふいに口をついて出た。乾ききった大地はこの雨で潤い、季節は秋へと歩を進めていく。正直、かなりへたばってきていた。暑さもさすがに限界であった。でもこの雨と冷気で持ち直した。

 どんな非道なことも永遠に続きはしない。時は移ろい季節はまた巡る。気持ち新たに今日から年内四か月がんばりたい。すべてはここから今日今からだ。

世は極端から極端へ2012年09月02日 23時11分17秒

★降れば土砂降り

 今日(2日)も涼しかった。空はまだ不安定で、雨は降ったりやんだり、晴れ間も覗いてもう上がったかと思うとまたしばらくするとザーと激しく降る。そんなことの繰り返しで一日が終わった。夜には雷も鳴ったのでまた犬たちも泥足を拭いて家に避難させた。

 近年の傾向として、ゲリラ豪雨という言葉があるように、突然猛烈な雨が降る。降り出すと警報が出るほど強い雨がいっぺんに降る。降らないときは一ヶ月近くも降らないのに、降.ると洪水や水没するほどの被害の出る雨となる。暑さも寒さも猛暑と厳冬ですべてが極端から極端へ、その真ん中、ほどほどという中庸さがなくなってしまったと思うのは自分だけではあるまい。

 おまけに雷もやたら多い。昔は雷とは春夏のもので、夕立のときの一時的なものだった。鳴っても雨がふればおさまった。ところが近年は季節を問わず起こるし、ものすごい豪雨の中でも雷も鳴りつづけ不思議である。落雷で死ぬ人もやたら多い。やはり異常気象の一環なのだと思う。

 これまで雨はまったく降らなかったので暑いこともあって家中の窓はほぼ開けっ放しにしていた。昨日の朝の豪雨のとき、まず外に出してあったものを片づけて二階の自室へ上がり、慌てて窓を閉めたのだが、雨が吹き込み窓辺の机の上に乗っかっていたノートパソコンにもかなり雨がかかってしまった。
 幸いフタは閉めてあったので、キーボードなど内部に入らなかったから被害もなかったが、かなり焦り慌てた。これからは迂闊に窓を開けたまま外出などはできないと自戒した。
 自然の猛威という言葉がある。しかしその猛威はたぶんに人的なものがからんでいる。人間も自然もすべてのことがバランスを崩している。いったんことが起きると極端から極端へと爆発し暴走してしまう。そして誰も止められなくなる。

 ほどほどでいたいし、ほどほどが肝心なのだ。最近、老年期に入ってきたせいかそのことを深く思う。暑さ寒さも彼岸まで、のお彼岸も近い。その頃にはもっと過ごしやすく良い季節になっていてほしい。墓参りにも行かねばならぬ。
 年内を無事にこともなく過ごしたい。たぶん台風も来よう。大雨も降ろう。それを覚悟のうえで、うまく乗り切ってほどほどで今年を終えたいと願う。選挙がいつあるのか、それだけが気がかりであるが・・・。

 今度の衆院選こそ、この国にとって破滅の道へさらに進むか踏みとどまるか本当に最後の分岐点となる。マスコミを挙げてハシストたちを担ぎ持ち上げ彼らに未来を託そうとしている今、深く憂いている。極端から極端へ政治をも動かしてはならないのである。拙ブログの読み手の方はそんなことお分かりかと信ずるが。

つながりたい、つながりたくない!?2012年09月03日 08時36分19秒

★フェイスブックはいたしません、あしからず。

 このところ今話題かつ流行のフェイスブックから友達リクエスト「招待」のメールが友人知人からよく届く。正直困惑している。
 きちんと返信返答すべきなのだろうが、何か面倒なのと、直接当人から届いた私信ではないのでそのままにしてしまっている。自分などが参加しなくても何も困ったり不自由はないだろうという気持ちもある。

 言っとくが、その方とそのネットワーク内の「お仲間・お友達」になりたくないのではない。野田首相からだって前田敦子からお誘いを受けたって、自分は登録する気はまったくない。友人の多くがそれを利用していることは知っている。が、全く関心外なのである。先のことはわからないから迂闊なことを書くべきではないが、今の気持ちでは生涯、自分はそんなことはやらないと断言してもよい。

 理由はただ一つ、これ以上モノゴトを複雑にしたくない、増やしたくないということだ。やったことないので食わず嫌いだと思うが、その便利さとそれに取られる時間を思うと、とても始められない。どんなことでもいったん始めてしまうとそのフォローと管理に必ず一定の時間がとられるのは必然の法則。
 今の自分はEメールの管理と拙ブログ更新だけに手一杯で、とても他のことまで手が回らない。インターネットは仕方なく商売上やっているのであって、極端に言えば、ネット上の商売をやめてしまえばパソコンだってなくてもかまわない。携帯でメールはやっていないし、人と連絡とるのに「電話」は必要なのは当然だが、それ以上に人とつながりたくはない。もともと郵便とファックス、そして電話だけで自分はコト足りる人間なのだ。

 が、まあ今はこうして拙文をブログで勝手気ままに不特定な世界へ向けて発信して気分を発散させているのだから、やはりネットは必要だし感謝しないとバチが当る。でももうそれだけで十分かつ手一杯で、ツイッターもしたくはないし、ミクシィだって誘われたがやらなかったし、他のことは全て不要なのである。その気持ちに偽りはない。

 繰り返すが今の気持ちとしてはできるだけ全てをシンプルにして減らしていきたい。それは人間関係さえも同じで、整理したい気もしている。むろん新しい人と出会いたい気持ちもあるし、人と関わることも必要なのは理解しているが、もうこれから新たにそうした場に出向きたい気は全くない。少しでも新たに時間とられることはしたくない。

 人と人、人間関係というものは全く偶然であり、また必然のもののはずだ。フェィスブックにお誘い下さる友人とも電話やメールを通して個々に連絡取り合い会えば済む話である。身勝手なもの言いだが、自分のしていること、考えたこと、連絡やお知らせしたいことはこのブログ中で全て逐次公開している。Eメールとブログだけで今までやってきたし、その中で連絡があったりして人間関係も広がっていった。ならばもう十分なのである。どうしてそれ以上新たに必要か。

 むろんもっと反響や反応、新たな出会いがあればと思わなくはないけれど、それは全て偶然のように見えて必然であり、そのときはそのときであって来るときは来るし来ないときは来ない。このブログなんてほとんど何の反響もないけれど、逆にそれもまた好ましい。ヘンに過敏な反響があって騒がれ炎上騒ぎなどになりたくはない。書いたことに共感に思う人は読み続けてくれるだろうし、いちいち反応があるほうがこちらも気を使ってしまうし気疲れする。※前のブログも結局それでいったん「閉鎖」してしまったのだ。

 人と人はつながりたいものだ。友達は誰だってほしいし多いほうが良いはずだ。どこかにきっともっと親しく気が合い何もかもわかりあえる人がいるのかもしれない。しかし、その人と会うときは会うだろうし、来るときは来るのだから、こちらからは無理に求めない。
 それより今の自分はもっと自分と親しくなってわかりたいと思うし、自らをモット知りたい、好きになりたいと思っている。もっと自らの内なる声に耳を傾けて生きたい。そして見えないものともっとつながりたいと希むのである。自らと和解できない者、まして他者をも、なのである。

 というわけで増坊はフェイスブックなどはいたしません。あしからずご容赦願います。

他生の縁と縁なき衆生2012年09月04日 23時03分11秒

★「縁」について考えたことを少し

 昨日書いたことの続き。
 自分は、運命論者ではないが、人が生きているということは人間だけではない何か見えない別のものに常に動かされていると考えている。運、不運ということもあるかもしれないが、それは禍福はあざなえる縄の如しと言われるように単純に判別はできまい。それよりもよく思うのは、縁こそ確かにあるということだ。

 人と人とが出会うのも縁であり、出会わぬのもまた縁であり、それは全てのことに当てはまる。会いたいと思う人、例えばミュージシャンならその人のライブに行きたいと常々考えていてもどうしてもスケジュールが合わず行けない人もいる。逆にやたらあちこちで出会い、自然に親しくなる人もいる。
 そこに人為的な努力や思いはあまり関係ない。何か見えざるものの計らいによって人と人は出会い、あるいは離れるのだと考える。人だけでなく何かと出会うこと、手に入れること、逆に叶わぬことだって同じで、そのものと出会う、モノならば自らのものにすることが叶うのはやはりそこに縁があったからなのである。
 ただ、座して何もせずに待っていてもそれは棚からぼた餅が落ちてくるを待つようなもので何も起きないし出会いも別れもない。基本的に最低限のアクションを起こすところから全てが始まるのは言うまでもない。買わない限り宝くじは当らないのである。

 その上で、縁のあるなしということが出てくる。そしてそこに時節というものも大きく関係してくる。「時」というものは全てに大きく影響している。いつの時代もその時々脚光を浴び、人気を得る人がいる。その反面、時代に合わないゆえ認められない人もまた多々いる。
 それは時代遅れということもあり、また逆にうんと早すぎたということもある。往往にして天才とはそうした早すぎた人であり、逆に時代に一時は合ってもやがて時代から置き忘れにされていく人もいる。時代が彼を生み、そして時代が彼を捨てたということだ。古本の世界などそれの縮図である。

 自分に言わせればそれもまた時代との「縁」であって、うたに関して言えば、すごく良いもの、良いうたを唄っていても今の時代には受け入れられないだろうという人も知っている。ただ、そんな人でもやがては時代も変わればそこで世と縁が出来るかとも考える。

 また「縁なき衆生は度し難し」ということも確かにある。言葉にしろ思想にしろ「うた」にしろ、いくら説いても縁のない人には全く届かない。逆に縁ある人にはすぐにピンと来るしこちらが驚くほど受け入れてくれる。しかしだからといってそうした縁だけを頼りに信じていてはるまい。逆にいつの日か、縁のなかった人にも縁が出来、思いが届く日が来るかもしれない。

 人と人との関係も同じことで、今は縁がなくてもやがては縁が出来、きちんと繋がるようになることもきっとある。だから諦めてはいけない。しかし、人為でどうすることもできないのが「縁」なのだから、今は縁がなくてもそれはそれで仕方ないと割り切るしかない。縁が切れてしまったと、このところそう思う人もできた。

 抽象的なことを書いていると思う。何のことかわからないかもしれないが、わからない人はまだ縁がないからであり、読んでもらえただけでもそこに些かの縁があったということでありそれは有り難いことなのである。

 これからのこと、いろいろ不安にも思うところも多々あるが、今は何も考えないし焦りも慌ても諦めもしない。縁あらばまたきっと新たに誰かと出会えるだろうし、疎遠になってしまった人ともまた繋がることであろう。ただ、自分は自ら縁を切るようなことはしていないか、自戒するこの頃だ。縁とは全てを受け入れて心を開いて待つものなのだから。

ぜひ無頼庵フォークソングワークショップへご参加を2012年09月05日 21時27分14秒

★今月22、23、もしくは30日のご都合良い日に。

 今日も残暑厳しかった。が、もうあと少しの辛抱だと思える。明日の予報は雨、これで一気に秋へと涼しくなっていくはずだ。
 親たちの病院通いで忙しくしていたのだが、そろそろ自分のことも進めていかねばならない。実は10月は既に多々用事が入っていて多忙となりそうなので今月中にやるべきこと、できることは少しでも進めたり始めておきたい。

 去る日、三重県津市のええかげん祭りに出向いて、その水産加工小屋で泊まった翌朝、寝ぼけて寝ていた踏み台から落ちて痛めた左手人差し指の捻挫はようやく癒えてきた。一時はまったく曲げられず、もうハイコードででしかギターは弾けないかと案じたが、今は完全ではないがやっと痛みなく折り曲げられるようになった。
 人差し指が曲げられないと、ローコードでのCやAm、B7などが押さえられない。先だっては小指を折ったし、もう左手の指はどれも変形してボロボロである。けれどそれでもギターなんかは何とかなるのだと示したいと思う。
 そんなこんなでやや時間が空いてしまったが、これから無頼庵での活動を再開したく思う。なにであれ、誰でもお気軽に遊びに来てほしいと願っている。
 
 いちおう先にチラシを作り告知し詳細は説明したので、今月2012年9月からウチ無頼庵で、フォークソングに関するワークショップ、ギター教室も兼ねた音楽に関する勉強会のようなものを始めようと思う。勉強といってもそんな堅苦しい教室ではなく、昔のレコードなどを流しながら、フォークソングの歴史を辿り、自らもうた作りができるようギター教室も含めてそのお手伝い、及び環境作りをしていくということにすぎない。http://masdart.asablo.jp/blog/2012/08/25/6553828

 今も昔もたくさん才能ある若い歌い手たちは登場してくる。自分、増坊は、1970年代半ば、吉祥寺のぐゎらん堂でそうしたフォークシンガーたちと出ってから今日まで数多くの歌い手たちを見続けてきた。そして、その歴史を通して今さらではあるが、歌とは何なのか、人は何をうたうのかとずっと自問してきた。それはうたとは何なのかという根源的な問題でもある。

 その答えはおいそれとは見つかるものでもないし、今も正直わからない。しかし、ほんの少しある程度おぼろげにわかってきたことも確かにある。ただ、それは確信もないし答えのでるものでもない。だからこそ、今一度、多くの人たちと音楽、そしてうたとは何なのか、その可能性と根源的なものを皆で一緒に探ってみたいと思う。
 上から目線で、答えを差し示すことはできやしないしその器でもない。しかし、たぶんフォークソングについては自分は今の人より少しは詳しいはずだと自認している。そうした知識と経験と、また手元にある音楽遺産を関心ある人たちに受け渡していきたい。
 語り継ぐ戦争体験という言葉があるならば、語り継ぐフォーク体験、歌い継ぐフォークソングというものもあって然るべきかと考える。むろん、自分ひとりで手に負えることでは当然ない。またまた多くのフォークシンガー達の力を借りて、こうした試みを続けていけたらと考えている。

 というわけで、まずはその説明会的、初会を今月後半の土日に行いたいと考えた。しかし曜日はまだ確定とせずに、いちおう、22日の土曜、23日の日曜、もしくは月末30日の日曜のどれかにやりたいと提案とする。参加希望者は、そのうちの何日が都合よいか御連絡願いたい。皆の都合の良い日に決めるが、もしどうしても統一できない場合は二日に分けてやってもかまわない。

 今のところ参加予定者は男女各一名ほど、たとえたった一人でもコツコツと一年間は続けていくつもりでいる。冗談抜きに、まったくの音楽初心者であろうと一年後には人前で自ら作ったうたが唄えるフォークシンガーにあなたもなれることを保証したい。

 どうかどなたでもお気軽にご参加ください。また全会でなくてもふらっと冷やかしに遊びに来てもまったくかまいません。まずは今月の「説明会」にご来場下さい。

 日程が確定したらすぐに拙ブログで告知いたします。まずはこのブログに「コメント」して参加都合日、連絡先などお知らせ下さい。ご氏名、連絡先など非表示にしますのでご安心下さい。

 年齢性別経験問わず、多くの方々のご参加を心からお待ちしております。今回、宣伝告知は、このブログとチラシ以外にはいたしません。

鎌倉 研・瀬戸口 修・さかうえけんいち@ウッドストックカフェ2012年09月06日 16時58分47秒

2012年9月6a
★どんなときでも唄い続けていくこと~その確かな歩みがここに。

 良いときもあれば悪いときもあるのが人生、のはずだが、良いときがあまりない人生を生きるとはどんなものか。それはたやすくないはずだ。失礼を承知で勝手なことを書くが、今日ここ神田小川町にあるカフェバー、ウッドストック・カフェに集った三人は実人生はともかくも音楽での人生はあまり良いときはなかったのではないかといつも想像してしまう。
 というのも、瀬戸口さんの話だと彼のデビューは1976年であり、確かさかうえさんも同じ頃だったと記憶しているからで、それはフォークソングのブームは波が引くように冷え切っていく頃であったからだ。
 
 彼らとはほぼ同世代で同時代に生きた自分もその頃ははっきり記憶しているが、フォークソングムーブメント自体は、71年の中津川で一応の「終焉」を見せたものの、たくろう、陽水という二大人気スターが登場してからは市場的にはそれなりに活気を呈していた。
 フォークソングはニューミュージックと名前を変えてかぐや姫ら人気者グループが次々とヒットを放っていた。それで第二第三の彼らにあやかろうとまた後から若いフォロワーたちが歌いだしていた。が、そのブームも70年代半ば頃までで、フォークソングにとって「冬の時代」80年代はすぐそこに迫っていた。そんな頃にデビューした人たちが彼らなのである。

 大阪でのフォークソングの一大イベント「春一番」も79年に終演となったし(※その後現在まで続く再開後の春一番はまた別のものだと考えるべき)、80年代は、MTVなどでの洋楽ビデオクリップ隆盛と日本もロックのバンドブームの時代となってしまうのである。一方アコーステックギターでジャカスカ演って自作曲を一人でしみじみほそぼそ唄うスタイル、フォークソングは貧乏臭いと蔑まされ、ギター抱えて歩く若者の姿はカッコ悪いと街から全く消えてしまったのである。

 自分もまた、70年代後半はちょうど大学に入った頃で、欧米のパンクバンドに影響を受けてバンド活動もしていたし、毎週末には小林克也のベストヒットUSAやMTV 番組をチェックするのに夢中で、かつて大好きだった高田渡らの日本のフォークソングとその歌い手たちのことは全く顧みることはなかった。
 有名無名を問わず多くのフォークシンガーたちが生活のために手に職をつけて音楽とは別の仕事をせざるえなかったし、誰もが一度は音楽から離れることを余儀なくされていた。これは本当か知らないが、ゾウさんこと西岡恭蔵が自殺したのもそんな時代で、むろんそこには愛妻を亡くしたことからの鬱病という根源はあっただろうが、その直前のライブに行った人の話だと客はゼロに近く、そうしたことも彼を自殺へと追い込んだ一因だと語っている人がいた。吉祥寺にあったフォークのメッカ「ぐゎらん堂」も閉店の頃、80年代半ばは惨澹たる客の入りだったと働いてた人から聞かされた。ともかくそうした時代だったのである。

 それが90年代になってからようやくボツボツと生音、エレキではない生のギターの良さが再認識されて、折からのアンプラグドブームもあって、生ギターでの「フォークソング」が再び脚光を少しづつ浴びていくようになる。そしてそれ以降今日までのフォークソングの復権と70年代回顧ブームは今さら説明は不要であろう。
 
 そんな大変な時代に向かう70年代も終わり近くに瀬戸口修、さかうえけんいちらはデビューし歌唄いとして音楽活動を始めていくのである。その道のりはどう考えても平坦なもの楽なものであるはずがない。そしてその当時から彼らと出会い親しくなりやがて唄い出した少し年下の鎌倉研もまた遅れて来た世代として良いとき、楽なときはあんまりなかったかと勝手ながら想像する。

 中川五郎さんら最初のフォーク世代の人たちは当然道なき道を切り開いたのだから辛く大変だったろうと同情もするが、一時はマスコミにも大きく取上げられ人気者となった良いときもあったはずだ。しかしフォークソングも下火となった頃に活動を開始してきた彼らに果たしてきちんとスポットライトが当てられたときがあったのか。
 フォークソングに詳しいと自認している増坊でさえ、不明を恥じるが、津のええかげん祭りで彼らと出会い見聞きするまで彼らのことはよく知らなかった。むろん名前だけはどこかで聞いたり見た記憶はあった。が、彼らがどんな顔でどんなうたを唄うのか全く知らなかったのである。おそらく津へ、ええかげん祭りへとガスリー氏に誘われて行かなかったら彼らと知り合うこともなかっただろうし人の縁とは不思議なものだとつくづく思う。そして縁を結んでくれた畏友ガスリーにも改めて感謝したい。

 だが、津のええかげんで観た彼らは実に素晴らしかった。実に味があった。思いもかけず魂を揺さぶられた。彼らは音楽も人柄も全て魅力的であり、自分にとって毎夏三重県津まで足を運ぶのはガスリーが企画している音楽イベントだからと同時に、さかうえさんたち、そこに行かないとなかなか会えない人たちに会いに行くのがいちばんの目的となったのだ。
 。※ずいぶん失礼なことを書いている。活動歴も長いコアな人気を誇る方たちなのだからこうしてライブには多くのファンが集う。しかし数多いる歌い手たちの中から彼らを観る機会、出会う機会が自分にはあったのかということだ。ご容赦願いたい。

★書き出したら長くなった。もう一回書き足す。

どんなときでも唄い続けていくことの大事さ2012年09月07日 20時09分14秒

★2012年9/6日、ウッドストックカフェでのさかうえけんいち、瀬戸口 修そして鎌倉 研のライブを観て
※前回の続き

 今回、「良縁」と題された彼ら三人男のライブ、自分はこの夏、津のええかげん祭りに行ったとき、カマケン氏からチラシを渡され誘われていた。そしてわざわざ東京に彼らが来るのだから何としても行かねばとカレンダーに印をつけていた。何しろなかなか観られない大好きな三人が一同に会するのである。

 会場となったウッドストック・カフェは名前は知っていたが入ったのは初めてだった。決して広くはないがなかなかセンス良く初対面でもマスターとも気が合い落ち着ける良いお店でほぼ超満席の入りである。
 ライブはオープニングアクトに小山トシヒロが数曲、そして鎌倉研、瀬戸口修、そしてさかうえけんいちという順で休憩を挟みつつ進んでいった。最後に三人男で、「生活の柄」で〆たのだが、津のええかげんでは観れない姿も垣間見れて十二分に楽しめた。

 瀬戸口さんは、能ある鷹の喩えのごとく実はこれまで自分は知らなかったフィンガーピッキングの達人であることが今回確かめられたし、いつもの達者な語りにやや元気がなかった気がしたカマケン氏もうたい出せば確かな唄をしっかり聴かせてくれたし、決して体調はすぐれないだろうにトリのさかうえさんも健在ぶりをしっかっと示してくれた。三者三様それぞれの持ち味をしっかり出して文句の言いようもない。特にさかうえさんのうたには毎度ながら深い感銘を受けた。心が震えた。そしてこう思った。

 生きることも含めてどんなことでもどんなときでも続けていくこと。
 彼らはデビューの頃から決して恵まれはしなかったが、どんな苦難の時代でもともかくうたを続けてきた。それは努力とかいう手垢のついたありきたりの言葉で語られない。カタチのない、見えないうたというもの、うたをずっと思い続け追い求める「執念」とも言って良い。その結果、今ここがあり、彼らのうたはその思いが結実したものなのだとわかった。それは彼らに対する宝物でありご褒美であろう。彼らのうたは深く重く、確かでしっかりとして動じない。そして他の人には代えられない。それぞれが独自の芳醇とした匂いを放っている。派手さはないが確かな光を放つ。これこそが本物のうただと思い至った。

 さかうえけんいち、瀬戸口修、そして鎌倉研という音楽も人柄も特別なうたい手たちと知り合えた光栄に感謝したい。まさに「良縁」であった。どうかこれからも元気で長く唄い続けてください。彼らが唄い続けていく限り自分もまた聴き続けていく。

 約束の地にたどり着いた者はそのときどんなうたを唄うのか。さかうえさんの切々としみじみした歌声を聴きながらそんなことを考えた。

変わり目、潮時2012年09月08日 23時31分04秒

★すべてが移り変わりゆく

 昨日は久々に「社員」を呼んで溜まった雑本の移動や倉庫の片づけなど作業をした。その後、ウチの親たちも一緒に車で福生のビール小屋へ初めて出向き、そこの自家製生ビールを呑んで社員の長年の労をねぎらった。

 前にちょっと書き記したことだが、社員は夏前にウチに来たとき、増坊の母に頼まれ庭先の塀に上り、松の枝の剪定をしようとしてバランスを崩し道路に頭から転落した。
 そしてその後、外傷性くも膜下出血で入退院を繰り返し、一時は失語症状態にもなり、後遺症が案じられた時期もあったが、幸いにしてそれもほぼ回復、久方ぶりにウチに作業の手伝いに来たのだった。
 ただ、けっきょく、今回のケガをきっかけとして、彼は学生時代より実に30数年来ずっと住み続けた世田谷の下宿、トイレ台所共同の四畳半を引き払い実家である茨城県笠間に完全に居を移すことになった。
 
 先年、彼の父が亡くなり、今は実家には老母が一人で暮らしているので、この数年は世田谷と笠間を月に数回行ったり来たりの生活をしていた。基本的にぶらぶらしていたので、東京にいるときにウチに招いては増坊宅の作業を手伝ってもらっていたのである。ウチの家づくりにも大いに尽力してもらった。彼とは学生の頃からの腐れ縁である。

 30数年の付き合いある親友であり 「社員」として、これまで昼飯と仕事後の慰労の酒だけでお気軽に使ってきたわけだったが、これからはそう気安くウチに来いとは呼べなくなる。笠間は近県とはいえ電車代が往復すると5千円以上かかるし移動時間も早くて片道2時間。四畳半でも東京には住まいがなくなるのだから日帰りはしんどいだろうし来たときはウチに泊まってもらうことになる。となると月に一度来てもらえるかどうかだ。むろん交通費はこちらで出すとして。

 自分たちは、この家が改築となる前から旧い家の解体、そして増改築後も内装の床や壁の塗りなども二人でずっとだらだらやってきた。多いときは月に五日も六日も来てもらった。二人とも昔から相も変わらずバカだったから何も考えずにいつまでもそんなふうに「社員」として関係が続くものだと思っていた。しかし、あの転落事故を契機についにその関係も終わることになったのだ。

 考えてみれば、もうそろそろ、どころかとっくに潮時だったのである。親はいつまでも元気で生きているものではないし、そろそろ居を定め、腰を据えて老母と生きねばならなかったのだ。バカな独身の男同士、ずっと学生気分のまま何も考えずにバカなことをやり続けてきた。あの転落事故がなければまだそれももう少しは続いていたはずだとも思うが、何にせよ老親たちは彼のもウチのもさらに弱って来るだろうしそんな風にふらふらブラブラ暮らしていけるはずもなかった。

 久々に溜まった本や雑誌を二階から抱え下ろして、車に積み込み、またそれを近くの倉庫へ運び入れ、ついでに倉庫の中の本の山も積み直したりメンテナンスもして、さらには先日近所からもらったガラス戸付の本棚もきちんと設置したりと二人で懸案の作業がずいぶん進んだ。数か月ぶりの力仕事をしたせいか、今日は節々が痛いどころか頭痛もする軽い熱射病状態で気分もすぐれず午後はずっと夕刻まで寝てしまった。
 昨日も今日も残暑が厳しかったこともあるが、自分の体も前に比べてずいぶん疲れやすくなったとつくづく思う。前はずいぶん無理もしたし無理がきいた。この肉体もまた潮時、老人への変わり目なのかと思う。すべてが移り変わっていく。

 年貢の納め時という言葉がある。確かにそう思わなくもないが、ではいったい誰に年貢を納めるのだろうか。その年貢も増税となっていくのだろうか。まっ、ともかくこの変わり目の時をうまく乗り切らねばならない。これからおひとり様の老後が待っている。いかに無理はせずに疲れはためず効率よくやるべきことをやっていくかだ。

中川五郎@両国フォークロアセンター9/22.2012年09月09日 23時57分46秒

詳細は画像をクリックしてください!
★中川五郎久々の両国フォークロアセンター登場!!

 “ミスターフォークソング”御大中川五郎が、フォークの聖地、両国フォークロアセンターで、噂のスーマーを迎えて毎度の全身全霊熱演を繰り広げる。これはぜひお見逃しないよう。多数のご参加を期待する。
 ちなみに、五郎氏は10月25日、国立かけこみ亭で豊田勇造との、「二人のビックショー」夢の顔合わせライブがある。そちらもぜひぜひご参加を。

亜熱帯日本2012年09月10日 21時03分47秒

★あらためて住まいは夏をムネとして対策を立てていかねば

 思えば毎年毎年夏はその酷い暑さを嘆き冬は耐え難い寒さを憂いそのことをブログでこぼしてきた。そうしてその辛い季節を何とか乗り切り歳月を重ねてきた。しかし今年の夏ほど異常ないつまでも暑さが続く年は記憶にない。さすがに心身ともに限界に近づいてきた。

 これまでも猛暑は度々あったけれども暑いときは実質一月程度で九月に入ると急に涼しくなったりして喉元を過ぎればとの喩えのごとく暑さとは一時のものであってそこを堪えれば通りすぎるものであった。
 が、今年の猛暑、東京では先にいったん雨が降り数日秋めいて涼しくなりもうこれで秋へと季節は変わったと迂闊にも思った。それが九月の頭でところがまたそこから暑さはぶり返しもう今月も半ばになろうとするのに連日30度以上の真夏日が全国的に続いている。この残暑はまだまだ続くとのこと。これはどうしたことか。

 誰かが日本も亜熱帯になったと書いていたが、その地方では暑くてもほぼ連日夕方頃になるとザーと強い雨が必ず降る。それで植物は潤い人も暑くても生きていけるのだが今の日本、特に太平洋側は暑いだけでなく雨がほとんど降らない。少雨と高温では砂漠化が進む。水不足が気にながらも毎日庭先の水道からの水遣りはかかせないし、午後からの西日を避けて犬たちの室内避難も続いたままだ。

 朝夕はだいぶ涼しくなっては来た。夜は涼しいひんやりとした風もあり、老親たちは窓を閉めて眠っている。空は高く青く澄み、雲は刷毛で描いたような細く細かい秋の雲である。だが陽射しだけが違う。今日も太陽は真夏さながらの強い焼きつけるような陽射しでとても外では1分でも立っていられない。

 この陽射しが続き、雨が降らないからいつまでも連日猛暑が続く。先に自分はもう暑さには慣れた体質になったと書いたこともある。が、先のサマークリスマス以来、熱射病体質としか呼べない症状が出て、室内にいてもある時間何かしていると頭が締め付けられるようじんわり痛くなって体中がカーと火照り気持ち悪くなってくる。そうなると水分を摂っても意味がなく、ともかく風呂場で頭から冷水を被り水風呂に浸かって何とか体調を戻す。

 ある暑さの中にずっといるとそうして自らからだを冷やして無理にでも体温を下げないとたぶん生きていけない。むろんウチでも人の集まるところは冷房を入れているが、家中冷やすことはできやしない。自分の作業場には基本的にクーラーはないのでちょっと何かすると、いや何もしないでも外気温に体温も上がり熱中症的になってしまうのである。

 昔は日射病と言ったかと思うが、外で陽に照らされなくても気温の高さで体がおかしくなってくる。だから室内だろうが同じコトで上がった体温を無理にでも下げることが肝心なのだ。

 そして今、考えるは、この暑さはたぶん今年だけの特別なことではない。冷夏もあろうが、これから毎年夏はこうした異常な暑さが長引くかもしれない。政府や財界は、これは火力発電などによる地球温暖化傾向がいっそう進んだからで、だからこそ原発をもっと稼動させることが人類の未来のためなのだと詭弁を言い出すであろう。

 地球温暖化防止のためには別の新たな真に安全なクリーンエネルギーを用いるべきでありそうした詭弁に惑わされてはならないが、個人的にも夏の猛暑対策を立てねばならないと水風呂の中で考えた。増坊の家には陽射しを遮る雨戸がない。また三階屋根裏部屋から屋根の熱気がそのまま伝わりそれが家全体の高温にもつながる。

 もう一度真に夏でも冬でも快適な家へと対策を立てていく。できるだけ省エネで。何のタメに自分で苦労して思い通りの家を建てたのだか、これではわからなくなってしまった。