10月の予定など2012年10月01日 20時29分17秒

★台風一過の真夏日となった神無月初日。
 
 今日から10月。台風一過の朝からよく晴れて雲一つない秋晴れとなった。が、照りつける強い陽射しに気温はどんどん上がり、10月であるのに気温30度を越す「真夏日」となる暑さとなった。東京で10月の真夏日は6年ぶりだとか。天気予報の言うところだと、6月から数えて今日で66回目の真夏日なのだそうだ。いやはやまいった。久々に今日は一日ほぼ全裸のパンツ一枚で過ごした。今もである。

 かなり勢力の強い台風が上陸して近くを通過したわりには、全国的にも被害はさほどでなかったようだ。ウチも、庭のイチョウの木の実、まだ若い銀杏がいくつか落ちた程度で、庭木が折れたり倒れたりするほどの大きな被害はなかった。もう真夏日も台風もこれで最後であってほしいと願うが、異常気象が常態化している地球ではまだまだ油断はできまい。

 さて、いろいろ書きたいこともあるがその前に月頭なので、今月の予定だけお知らせしておく。予定といっても自分が行く、関わるライブなどの予定だが。

   6日(土) 無頼庵フォークソング・ワークショップ 午後1時~5時。その後、食事会あり。※どなたでもお気軽にご参加を。

  10/8(祝) 新潟関係のミュージシャンたちによる東京でのライブ。どこだか詳細はまったく不明。曜日しか知らされていない。

   11日 増坊、胃カメラと腹部のエコー検査

   13日(土)  岡大介 木馬亭独演会 @浅草木馬亭

   20日(土) 岡大介 詩朗読キャラバン。神戸

   21日~22日 熊坂るつこ新潟公演のアコーディオン持ち。※詳細は後にお知らせします。同行者募集中。

   25日(木) 豊田勇造・中川五郎、With館野公一 @谷保かけこみ亭

 今、ざっとすぐ思いつくのはこんなところだ。追加あればまた載せておく。

 今一番頭痛いのは、20日の、関西、神戸での岡さんの関西ツアーの一つ、神戸元町での、詩人たちとのライブである。
 師匠・有馬敲さんから「乞、ご協力」とのことで、新幹線での日帰りなら行くことも可能なのだが、翌日にルッちゃんを新潟に連れて行くツアーがあるのでどう考えてもいくのは難しい。新潟がなければ、のんびりと岡がらみで、秋の三都物語を満喫していたかもしれない。

 まあ、あれもこれもと無理はできないし一つ一つ確実にこなしていくしかないわけで、こうした外用を縫って、じぶんのことをやっていくしかないのだ。

体調不良につき2012年10月02日 22時44分40秒

★今日はお休み

 季節の変わり目のせいか、暑かったり寒かったりしたからか、それとも風邪の引き始めなのか今日は一日頭が鈍く痛く、ぼーとしていてまとまったことを考えることができない。
 今ちょっと迷いごと、悩み事もあってそれに気をとられているということもある。そんなで胃の調子、頭だけでなく体中がだるく重い。

 書くことは決まっている。いつもなら書き出せばスラスラと一気に書ける自分だが、今晩はそんなで気がそぞろというか集中力を欠き書けそうにない。無理して時間かければとも思うが、その無理でまた寝込むはめとなるのはバカらしい。今は風邪ひいている暇はない。

 たまにはこんな日もある。無理はできないのでご容赦乞う。

この小さな自分が大きな世界と①2012年10月03日 22時02分55秒

★まず原発について再考してみた。

 昨日は早めに寝たので体調はだいぶ戻った。昨日に引き続き、本日も夕方から雨が降り、急にひどく気温が低くなった。室内でも上に羽織るものがないと間違いなく風邪をひく。一昨日の真夏日から一転してこう寒暖の差があるのは老いた身にはこたえる。何ごとも極端から極端なのである。

 今季節は夏から秋へと、そしてこれから冬へと向かっていく変わり目のときである。そして眼をもっと大きく見開けば、この日本社会も世界も、そして地球全体も大きな変わり目にある。我々はそんな特別なときに今生きている。
 
 言うまでもなく、それは変革であり、今そこまで来ている大きな危機をどう乗り切るかその瀬戸際にある。地球規模の環境破壊と人口増加、結果としての異常気象、人類はこのまま無事にこれからもこの文明を謳歌できるか未来はあるのか誰だって不安に思うのではないか。
 自分は子もなく孫もないから、この身一つで死んでしまうので思い残すこともさほどないが、子々孫々ある人たちはやはり子供たち、家族、一族の行く末が不安であれこれ案ずるのではないか。いったい世界は、地球は、そしてこの国はこれからどうなっていくのかと。

 人は生まれてくることも生まれてくる時代も何一つ選ぶことはできやしない。しかし、今自分がこんな大変な時代に生まれ今も生きていることは偶然であれやはりそれは必然だと考えなくてはならないと思う。
 というのは全てのことには実は偶然などなく、起きることには全てそこに意味があると考えるからで、全てのことい意味やメッセージがあるにば、我々が今こんな時代に生きているからにはそこに、意味と役割があるはずなのである。

 その観点に立って、今私たちがすべきことと出来ることは何なのか考えてみたく思う。
 負の遺産ということばがある。オゾン層破壊による地球温暖化、そして南極北極の氷床の減少、その結果として海面上昇など環境変化も人類のみならず地球の全生物にとって大きな不安であるが、この国の問題ひとつとっても原発から出る、たまりに溜まった大量の高レベル放射性廃棄物の問題だって日本人のみならず人類の将来に大きな不安の影を落としている。今だって福島事故がもたらした高放射能の残土や瓦礫の処理施設だって受け入れ先がどこも決まらないのである。地下深くに埋めてしまうという地層処分も異論が出てきた。そうした核のゴミをそのまま、先送りにしていったい未来の人類に21世紀の人たちはどんな言い訳ができるのであろうか。

 こうした負の遺産、今までの繁栄のツケを彼らに負わせるのはあまりに無責任だとしか思えない。場合によっては20世紀、21世紀に生きた我々のせいで未来の人命が死滅してしまうかもしれない。未来の英知で問題を何とかしてもらえるだろうと考えるのは楽観主義にも程があろう。我々の仕出かした「問題」は我々でできる限り何とか片づけなくてはならないはずだ。
 その観点に立ったとき、まず何よりもすべきことは、原発はすぐさまゼロにしていくことである。もういっさいの建設も稼動もしてはならない。稼動する限り核のゴミはまた新たに生まれる。
 新たな原発事故の可能性の有無以前に、トイレのない家である原子力発電所はそもそも存在自体が成り立たないと誰もが認識すべきである。日本経済のためにとか、もしものときのことを考えると原発は維持すべきという論はある。しかし、どこにトイレのない家がある。あるとしたら室内に糞便を溜め込むしかない。その結果糞便は溜まりに溜まり室内に溢れて家人は生活できなくなる。しかもその糞便は超危険極まりなく、安全なレベルに戻るまで何万年もかかるのである。

 原子力発電所を考えた人は大バカか狂人であろう。今も安全が確保されたと推進する輩も。いくらそれが便利で効率よくローコストだとしたとしてもその核のゴミの処理はどうするか方法がなく、国民的合意と科学的安全性が確保されない限り稼動はできまいしすべきではない。生物のいない別な惑星でならまだしも、地震大国であるこの狭い日本の国土に今だって海岸沿いに何十もの原発が次なる再稼動を待っているのである。我々は今こそ目先の損得ではなく、将来、未来を見据えてできる限り「負の遺産」を今ここから失くしていくよう努力しなければならないはずだ。たぶんそれこそが今生きている我々の責任と役割なのだと信ずる。

 そう、今ならばまだきっと変えられる。変わる。変わっていく。まだ間に合う。

 政治判断を覆すべく、我々国民、一般大衆がすべきこと、できることを数回にわけて考えてみたい。

ギターを手に、唇にうたを持て2012年10月04日 16時29分09秒

★「フォークソング」のお誘い~自分の好きなうたを自分のギターで唄えるって楽しい!


 これはたぶん何でも同じだろうが、スポーツでも演劇でも音楽でも場に「観客」を求めるものは実は客として観るよりも自らもやるほうがずっと楽しいし面白い。
 もっとも大衆に人気あるスポーツ、野球だってサッカーだって皆いちどはやったことはあるだろうし、今だって機会あればそうしたチームを組みたいと願う人も多いであろう。それと同じで、ただじっと椅子に座ってステージのそれを見聴きしているよりも自分で演ったほうが楽しさは段違いである。

 それは演劇、演奏という観覧の楽しみを否定するものではない。たとえば落語など演芸には磨かれたプロの芸が確かに存在し、素人が見よう見まねで始めてモノになるものではそもそもない。
 沢村貞子の随筆などを読むと、昔の江戸っ子はよく「それは金がとれる芸か」と口にしたという。確かに芸として考えた場合、素人芸はいかに巧みであろうともしょせん金がとれる域に達さない。志ん生の落語がそっくり真似ができ一席演じられたからといってそれで落語家にはなれないしだいいち金はとれない。

 今自分が問題としているのはそもそもそうした「プロの世界」の話ではない。あくまでも素人、アマチュアとして、音楽、演劇、その他スポーツであれ何でもやってみることを提案している。そこでの楽しみを説いている。まあ、スポーツの世界は単に記録などの「能力」だけの世界だから、逆にすごい才能さえあれば案外プロへの道はたやすいかもしれない。素人、無名だってマラソン大会で好成績を出してオリンピックへ出るという可能性もある。水泳だって柔道だって早く強ければそれで飯が食えていく。

 だが、芸術芸能の分野では、そうした技能とは別なものも大きく求められ関係しているから素人とプロの差は歴然としているし、その違いは認めないとならないと考える。でもだからこそ、プロとは一線を画して素人、アマチュアという立場も成り立つのである。
 日曜野球、草野球にはプロの試合とはまた別の楽しさ、面白さがあると信ずるし、それを観ても面白いが何より自分もまた試合に出られるのが楽しいはずだ。それと同じく、演劇だって、いや昔8ミリフィルムで映画を撮り自主上映会をやっていた者からすると、映画でさえ自分でやってみることはとてつもなく楽しい。それは演劇公演も。一度舞台に立てばやみつきになるとはよく聞く話だ。

 ただ、そうした芝居などはそもそも一人ではなかなか成り立たない。一人芝居とかパフォーマンスという手もあるかもしれないが、素人がそんなことをまず始めようとは思わないはず。それをやるのはプロを目指す者であろう。
 しかし音楽はまず一人でも始められる。逆に明大マンドリンクラブのような形態を考えなければ本来一人ですべきことかもしれない。コーラスグループに入って、皆で第九を謡えるようになるという手もあろう。だが、まず自分でたとえば自分の好きな曲をギター伴奏で、うたえるようになるということはとても有意義なことではないか。

 今の時代、カラオケはあまねく普及し、店でも家でもときには、野外でもマイクと歌詞本を手に声を張り上げるということは可能である。しかし、そこに面白さは認めるが、それはきわめて「出来合い」であって、そのシステムがないと成り立たない。またシステムはあっても自分の十八番が入っていないと唄えない。
 だが、自分が考える「うた」はアコスティックギター1本あれば電気も電池もない山の中でも自らの肉声だけでいくらでもうたえる。何でもうたえる。その楽しみははかりしれない。

 と、長々と書いたが、これは、6日にウチでやる「フォークソング講座」の宣伝なのである。自分はフォークとは、素人のもの、アマチュアの音楽だとそもそも考えている。むろん金がとれる芸を持つ人も多々そこには存在している。しかし、ある意味、他の芸術、芸能と比べてきわめて垣根の低いこの「音楽行為」をもっともっと広く知ってほしいし普及させたいと願う。
 キナ昌吉の謂いだったか、「すべての兵器を楽器に変えよう」、という言葉がある。一人一人、誰もが楽器を手にしそれが弾けるようになり、皆で唄えるようになれば、そうした世界には戦争もいさかいも争いもなくなるであろう。音楽にはそうした力が確かにある。

 「フォークソング」とは別にしちめんどくさいことでも難解なことでも大変でもちっともない。自分のうたいたいことを自分らの手でうたにしたり、唄いたいうたをうたっていくということに他ならない。ただ、それにはある程度、最低限の知識と技術の手ほどきが必要かと考えた。誰かに教わるのが簡単だけれどプロの人は忙しいからそんなことは教えてくれないし弟子もとらない。
 なので、不肖増坊が僭越ながらこうした講座、ワークショップを企画したという次第だ。これから一年間、月一でちまちま続けていく。途中からでもかまわない。できるだけ多くの関心と好奇心ある方のご参加を願っている。
 そしてまた自分もこの行為を通して「うた」とは何かその答えを見出したいと思っている。

ギターの思い出ばなしを少し2012年10月05日 22時16分09秒

★明日のフォークソング・ワークショップを前に

 先だっての台風により一週間延期した、ウチ無頼庵でのフォークソングのワークショップがいよいよ明日となった。参加予定者はごく少数であるのはいたし方ないが、焦らず諦めずゆっくり続けていこうと思う。何事も継続は力だと信じて。

 まだ万全の準備完了とは言い難いもののとりりあえず場所は作ったし揃えるものはだいたい用意した。まったく初めて明日会うという方はいないようだし、ならばかまえずにのんびりやっていけば良い。気心しれている方は安心だが本当は新しい出会いを求めていたのだがこれも時の運と縁であろう。まだ自分にその力もなく時が満たないから縁がないのである。それは仕方ないことだ。

 さて、今回、ギター講座のようなこともやる。この自分に人様を教える資格がそもそもあるかとご批判もあろうが、自分のような準初心者だからこそ教えられることもあるかと考える。というのは・・・

 昔読んだ雑誌、たぶん「話の特集」だか「面白半分」だったか忘れたが、筒井康隆の「サックス講座」の広告が載っていて、それが講座だったか教室だったか、果たしてそれは本当に実施されたかも知らないのだが、ともかくあの作家の筒井氏がサックスを教えるという記事であった。今も彼はサックスを吹いているのか、それがどれほどの腕前なのか全く知らない。実は その記事が載ったときは彼がサックスを習い始めて間もない頃であった。なのでその広告に目をひかれ驚かされた。

 その広告文面の筒井氏の文面がふるっていた。確かこんな内容だった。「世の中にはサックスでも何でもプロとしてその腕前が達者な人が先生としてできない初心者に教えるのが当たり前だと思われているがそれは間違っている。何故なら、巧い人はもう巧くできるのが当たり前だから、できないときのことをすっかり忘れてしまっている。自分はまだ初心者でようやく少しづつできるようになってきたところだからできない人の気持ちはよくわかる。だからきっと良く教えられるはずだ」という論旨であった。なるほどと思った。まあ一理あろう。

 たしかに上手い人、できる人はそれが当たり前になっているから、できない人の気持ちがわからない。自分も昔はできない人だったのにいつしかその気持ちをとっくに忘れてしまっている。ゆえに、ようやくできるようになってきた人のほうができないときのことがわかり、できるようになるコツを体得したばかりだから教える側として最適だという論は成り立つ。この論を進めれは、虫歯のない人は歯医者になるべきではないということでもあるし、金持ちは貧乏人の痛み、苦しみはわからないということに繋がる。それは裕福な苦労知らずの世襲政治家達ばかりだからこの国の政治が悪くなったということと同じなのだ。まっそれはともかく・・・

 自分もギター歴は長いけれど、ギターを弾いていなかった時期も長い、ブランク永井であるから、宵闇せまれば悩みも果て無し、の気分がよくわかるのである。じっさい、再びギターを再会、いや、再開したのは岡大介と出会って以降、この数年なのだ。そして今もまだ初心者気分で少しづつ練習している。
 昔、高校生の頃は相応に弾け、唄い、それなりに音楽活動もやっていたはずだが、もう今は声も出ないし指も動かないただの素人オヤジである。でもだからこそ、昔より真摯に音楽と向き合い、ギターと向き合っている。わからないこと、出来ないことばかりだからこそもっと学びたいと願っている。だから他人に、もっとできない人に教えたいことがあるしきっと教えられるかと思う。

 でも、実はギターに関しては人から教わったという記憶はほとんどない。大昔、自分がまだ高校生の頃に、福生の基地側、北口青線地帯にあった「フォークビレッジ」というスナックで、そこのマスターにうたを聴いてもらいアドバイスを受けたぐらいだ。向かいの高名な喫茶店「家なき子」はまだあるのかもしれないが、その店はもうとっくにない。もう40年近く前の話なのだから。
 今頃になってウチの在庫に山ほどある古いギターテキストを開いては、アルペジオとかスリーフィンガーとか目で学びなおしているところだ。耳では聴いて指は動いていたけれど、きちんと体系的に勉強したことはほとんどなかった。それもこれもこうした講座をやるからである。古人曰く、教えることは学ぶことだと。今そのことを実感している。

久々の無頼庵でのイベントを終えて2012年10月06日 23時07分10秒

この日かけたレコード盤のかずかず。知ってるのありますか。
★ここから巻き返していく。

 今日、10月6日、かねてよりお知らせした拙宅、無頼庵での削ぐワークショップは先ほど終わった。皆で夕食後、一緒に駅まで見送って行きこれを記す。

 正直に包み隠さず書くと、今日来てくれたのは3名。それもかねてより親しくしている友人知人らであった。でも今思うのは、こんな自分とお付き合いして頂いて心から有り難く思う。
 それでも午後1時過ぎから6時頃まで古いレコードをかけつつ、まず初回である今日は全体のガイダンスとして日本のフォークの下地となったピート・シーガーやガスリーの曲などブラフォー、ブラザース・フォアの演奏で説明した。むろん高石友也などもかけた。

 話はあちこちに拡散し、まとまりのない初回となってしまったが、まあお赦し願えたかと思う。次回の日程はまだ確定していないがもしかしたら今月中にもう一回やれるかもしれない。そうでなければ11月は上旬に予定している。参加者達の都合で日程確定させて今度は早めにお知らせしたい。
 三留まゆみ映画塾のほうは開始が11月となった。そちらは11月の下旬と確定している。こちらもぜひご参加願います。

 ほぼ半日ずっと話し続けてさすがに疲れた。でもコトをなし終えて久々の充実感と安堵感が今はある。ぜひこれからでもお気軽に一人でも多くのご参加お待ちしている。
 続けていけばきっと何か見えてくる。新しい何かが得られると信じて。全てのことは小さなアクションからだ。

また明日から2012年10月07日 23時21分30秒

★一雨ごとに秋も深まって

 昨晩は、つい気が緩んで赤ワインをかなり飲んでしまった。むろん「講座」を終えた後、皆で食事会のことである。もう基本的にアルコールは外で付き合いはともかく、家で一人で呑むことはしないのだが、つい昨晩はコトをとりあえず成し終えたので自らを許し甘やかしてしまった。

 参加者を駅まで送り、戻ってからブログで報告記事を書き出したのだが、気分が悪くなりまた犬と駅近くをぐるっと歩き周って酔いを覚ましてから寝た。が、深夜にまた雨の音で起きて庭に出て戸締りなどして寝直した。胃薬も飲んだ。あまりの寒さで目覚めたということでもある。

 暑いのも体力が奪われつらいものがあるが、急に寒くなるのもまた辛い。今日などうすら寒いというレベルではなかった。何枚か重ね着をしないと風邪ひきそうなほど寒気がした。
 そんなで、昨日のアルコールは残っていないはずなのに、疲れが出たものか風邪気味なのか今も頭がぼんやり鈍く痛い。また考えがまとまらないのでブログもきちんと書けない。

 こうして一雨ごとに秋も深まってどんどん寒くなっていく。つい先日まで暑さにうんざりし嘆いていたのにもうあの陽射しが恋しくなった。そろそろ大急ぎで冬の仕度も始めないと。まずは本格的に寒くなる前に、薪ストーブの煙突そうじである。果たして自分でその作業やれるのか。
 あれこれ思うところもあるが、ともかく暖かくして早く寝るしかない。体調を整えておかないと新潟へ行けなくなる。

この小さな自分が大きな世界と②2012年10月08日 16時31分51秒

★この国は右傾化していくのか

 吹く風はひんやりとして冷たいが陽射しは暖かく、その二つが相俟って爽やかな秋晴れの一日であった。

 5月の大型連休の頃の春から初夏へと移る風薫る若葉青葉の晴天、五月晴れも気持ち良いが、やはり10月から11月頭にかけての今の季節がいちばん好きだ。いずれにせよ猛暑酷寒という厳しい季節を前にして一月に満たない休憩のとき、癒しと救いの時だと思える。この快適な季節があるからこそ人は生きていけるし日本という国は素晴らしいと心底思える。

 零下から40度近くまでの気温の高低差があって、それを様々な工夫で乗り切っていくことこそ日本でありそこに住む人々の知恵と文化なのだとようやくわかってきた。多様な気候に多様な文化、この細長い日本列島に住む人々の意識は四季の自然の移ろいと深く結びついている。その日本人の意識が変わってきているとの報である。

 いささか旧聞となるが、
9月21日付の米紙ワシントン・ポストは、沖縄県・尖閣諸島をめぐる中国との対立などを背景に、日本が「緩やかだが、かなりの右傾化」を始めていると指摘、周辺地域での行動は「第2次大戦後、最も対決的」になっていると1面で報じた、とのことである。

 まあ、「右傾化」と「帝国主義」はまた違うとは思うが、あの侵略覇権主義国家アメリカにそんなことは言われたくないと思うのは自分だけではないだろう。あんたには言われたくないである。民主主義とは名ばかりの帝国主義者に言われたくない。それはさておき・・・
 日本が右傾化している論拠として、

 同紙は、日本の政治家が与野党問わず集団的自衛権の行使容認を主張するようになり、憲法改正論が高まっていると分析。沖縄県・与那国島への陸上自衛隊配備計画などを挙げ、自衛隊にも「より強力な役割」が与えられつつあるとの見方を示した。

 背景として海洋進出を活発化させる中国の存在に加え、20年にわたる経済停滞の下で「失われた影響力を回復すべきだという感覚」が日本国内で広がっていることを指摘した。一方で、日本には軍事力保持への複雑な感情が根強く残り、右傾化には一定の限界があるとの専門家の見方も紹介している。(共同)

 以上は共同通信の記事だが、確かに、民主党野田首相が再選され、自民党は安倍、石破というウルトラ右翼コンビが新たにトップになったことを考えれば、米紙の報道は的を得ていると言えなくもない。
 しかし、それは現在の政治を担う政治家たちが右傾化しているだけであって、国民全体、国民感情は決して右へ総ならえしているわけではない。いわば、民主党も自民党も、穏健なリベラル政治家たちが皆いなくなってしまったため、結果として右傾化した保守政治家たちだけが政権と政党を牛耳っているというだけのことだ。特に民主党にはもう良心的かつ常識的な政治家は一人残らず皆離党したのであんな問責決議男を懲りずに再選してしまったのである。

 確かに、国家防衛とか、強い日本を、と叫ぶ輩は今もたくさんいるが、中韓の異常な反日感情、示威行動に対して今の日本人は極めて冷静な対応で臨んでいると自分は思える。かつて拉致問題が明らかになった頃などは、朝鮮学校の生徒に対しても暴力的な嫌がらせなどもあったが、今の日本人はそんなバカなことはまずしなくなった。
 今も一部のマスコミは危機を煽り有事に備えを、と過激な論調を繰り返しているが、もはや日韓、台湾も含めて双方が文化的に深く依存しあう今日、領土問題だけで国家間の紛争に道を開く愚は繰り返さないしそうさせないのがアジア大衆の良識であろう。

 今も中国と中国人はどんなに怖いか、くるっているか、韓国、韓国人はおかしいかそうした感情的な「悪口」はネットも含めマスコミでは喧しい。でもそれは批判以前の根拠も裏付けもない悪イメージであって、そこには一人一人国民の顔はまったく見えてこない。
 自分は何人も中韓の友人知人もいるが、一人一人はまったく日本人とさほど変わらない。良いやつもいれば気に食わないやつもいる。マジメなやつも不まじめな奴も。何々人だからダメだとか何々人は良いなんてことは絶対にありえない。外国人だから怖いとかダメということも絶対にない。自分にとって怖いといえば日本人のほうがよほど怖いかもしれない。

 しかし、その日本人の意識も、3.11大震災後大きく変わってきた。米紙が報じるように右傾化ではなく、むしろ左傾化、いや、それよりも常識、良識方向へと向かいつつあると信ずる。自然回帰といっても良い。当たり前の暮らしを求め望む人々が増えてきているように思える。自分は今の日本人に決して失望していない。ファシストが笛吹けどそれで踊るほど民意は低くはないと信じたい。

 今の政治と政権は、そうした人々と大きく乖離している。その溝を一日も早く選挙で埋めない限りこの国も世界も変わっていかない。

神戸三宮での岡大介を迎えて詩朗読コンサートのお知らせ2012年10月09日 22時47分08秒

★もし関西在住の方がいらしたらご参加を!

 これは、関西での公演のはなしであり、自分も新潟へ行く日と重なっているので不参加となるのだが、我らが岡大介が近く関西ツアーを行う。その中で、10月20日、土曜日午後3時から、神戸元町の「萬屋宗兵衛」という店で、詩人たちを交えてライブがある。
 関西方面の方で、岡大介と自作詩朗読に関心ある方は、ぜひぜひご参加お願いしたい。

 これは京都の有馬敲さんのほうから連絡があり、岡さんと有馬氏は、先年、有馬氏の詩に岡が曲つけたCDを出した深い縁がある。今回は岡の関西ツアーの流れとして、有馬主宰の「生活語詩運動」の活動の一つ「詩朗読キャラバン」の運営に関わっている詩人永井ますみさんの地元神戸で、岡大介を迎えて詩とフォーク演歌のジョイントライブ開催実現となったようだ。

 会費は1000円+ワンドリンク。
 参加予約・問い合わせは、090-4289-8225 永井さんまで。

 場所の行き方など詳しいことはこちらでも応対するので連絡ください。

 ぜひ多くのご参加を望みたい。まあ岡さんはその前に浅草木馬亭を成功させないと。

明日は胃カメラと腹部のエコーなど検診に2012年10月10日 23時11分05秒

★はじめて胃カメラはどんな味か

 私ごとだが、先日やった市のミニドックでひっかかった、のではなく(まだその結果は出ていない)、胃や腹の体調不良を訴えたら医者が手配したので、明日11日は朝から病院で、胃や腹の検査をすることとなっている。
 エコーやMRIは過去にやった経験がある自分も、胃カメラは未経験で、どれほど辛いか苦しいか噂どおりか楽しみでもある。これに肛門からの大腸カメラをやれば老齢期に入った者として検査一人前というところか。いや、前立腺検査もまだであった。

 そんなこんなで明日は早く家を出るのと、朝食も食べられないので夜更かしもできない。まあ早く寝て体調を整えておくぐらいしかすることはない。
 それはともかく、このところ季節の変わり目だからか、アレルギー体質なのか体中が痒くてたまらない。埃まみれで古書類をかたわら片づけているということもあるのかもしれい。ダニでもいるのかも。

 親たちを見ていて思うのだが、生きていくのが大変、というより、死んでいくのもまた大変という気がしている。生きていく、というのは生活の部分のことでり、むろんそれもまた面倒でいろいろ大変である。しかしそれは若い人も誰もがそうであり、老いた者にはまた別な大変なことが生じてくる。
 それは心身の老化から来る不具合と不如意であり、自分もまた今そのとば口に立ち、早くもうんざりし始めている。親たちの世代まであとあれば30年。果たしてそんなに生きられるか甚だ自信はないが、死んでいくために生きていくのもまた辛いだろうと想像する。
 今も老眼や耳が悪くなってきて悩んでいるのに、眠っていても一晩に3~4回、ときにはそれ以上も尿意で起きてしまうのはどんな気分であろうか。それでは日がな一日ぼーとしてしまうだろうし、認知症、痴呆症というのも体調が大きく関係しているのかもしれない。

 それでも人は与えられた人生を全うしなくてはならない。まあ、今回の自分の検査はメンテナンスで済めば幸いなのであるが・・・