大瀧詠一を悼む2014年01月03日 11時24分43秒

★音作りの「職人」の早すぎる死に。       アクセスランキング: 108位

 正月三が日も今日で終わる。まあ、東京は雨も雪も降らず穏やかな正月、2014年の幕開けであった。

 ご存知のように昨年暮れ、大晦日の慌しい最中に大瀧詠一氏急逝との報がマスコミに流れた。地元近在の有名人である以前に、アメリカンポップスの求道者、そしてサウンドクリエーターの嚆矢として自分も若いところから多大な影響を受けた。実に惜しい方を失ったと思う。まだ60代半ば、あまりにも早すぎる死ではないか。正月だがあえてそのことを書く。

 伝説のロックバンド「はっぴいえんど」のボーカル&ギターとしてよりもいったい彼は、何で有名な人なのであろうか。やはり、歌手として、あるいは小林旭らにヒット曲を提供したクリエーターとしてたぶん巷では知られていると思えるが、自分たちの世代ではズバリ「ナイアガラレーベル」のドンとしてポップスの仕掛け人、あるいはDJとしてラジオから耳で親しんだ兄貴ではなかったか。

 このところ先の山口富士夫、かしぶち哲郎氏も同じ年代だと思うが、還暦を過ぎた団塊の世代のミュージシャンの死が相次いでいる。もう櫛の歯が抜けるかのようで、フォーク仲間はともかくもロック、GS関係では世に名前が知れている方々では生きている方のほうが少ないのではないか。

 自分が十代の頃、聴きこんだ、GSから日本のロックバンド、フォークミュージシャンたちは今皆還暦を過ぎ、ほぼ全員60代半ば頃であろうか。子供のときはずいぶん大人だと思って見ていたが、考えてみれば10歳ぐらい上でしかない。つまり皆「兄貴」世代であったのだと大人になって気がついた。そして今そうした世代の人たちが次々死んでいっている。

 フォーク関係では、高田渡がまず先陣を切って50代半ばで鬼籍に入ってしまったが、意外と他はしぶとく、倒れた方もなくはないがまだ生存かつ現役率がすごく高い。しかし、何故かロック関係はほぼ総崩れと言ってよいほどで、GSの頃からまだ元気でいるのはもはや裕也さんぐらいではないのか。その理由はおそらくロック的破滅的性向が関係してかと想像する。よってジャズの世界はもっと早死にである。

 しかしそうした世界から遠いはずの大瀧氏がその年で急逝してしまったことは大いに驚かされその死因もまたいろいろ考えさせられる。
 彼の業績というか、いちばん評価したいことは、アメリカンポップスのコレクター、マニアックな研究者として、名プロデューサー・フィル・スペクターらに早くから注目し、自らのラジオ番組の中でそうしたレアな業界裏方たちを取り上げ知らしめたことだろう。かくいうこの自分も彼からずいぶん裏方的プロデューサー、コアなミュージャン、沢山のソングライターを教えてもらった。そのDJスタイルはあの糸井五郎氏の流れにあるもので、彼のうたとは違い歯切れ良く実に耳に気持ち良かった。そう、そもそも「はっぴいえんど」時代、その直後の彼は他の強烈メンバーに比べていちばん地味であったかと記憶する。人気実力の細野氏、作詩家として超売れっ子となっていく松本隆氏らの間で埋没していた気がする。

 しかし、福生に自らのスタジオを構えて、彼が深く愛し耽溺していたアメリカンポップスの世界にどっぷり浸かって、その方法論で次々とヒットチューンをCMソングからナイアガラ、そして歌謡曲まで生み出していく。そのサウンドはまさにF・スペクター的で、聴けばたちどころに大瀧氏のワークスだとわかる「サウンド・オブ・ウォール」であって、そんな音作りをミュージャン自ら手掛けたのも彼が嚆矢であった。まさに和製フィル・スペクターとして、これからもポップスの仕掛け人として、さらなる佳曲、名曲を生み出していけたはずでまずそれが残念でならない。
 また、彼の膨大なレコードコレクションの行く末もとても気になる。中村とうよう氏のようにどこかの大学が引き受けてくれない限り散逸してしまうのではないか。こうしたアマチュア研究者、コレクターの私「仕事」こそ、没後公的機関が一括して面倒をみてくれないと本当にもったいないことに、死後全てが消えて水の泡となってしまう。

 当初、自宅でりんごを喉に詰まらせたなどと報じられた後で彼の死因と発表された「解離性動脈瘤」は、先年、自分もごく親しくしていた高校のときから付き合いのあった後輩をこれで失くしている。これは、太い動脈の血管が剥がれ落ちて心臓が止まるというもので起きたら100%死ぬという怖い病気で、まったく前兆も何もない。そしてものすごく痛く烈しく苦しむと家族から聞いた。友人の死に顔は苦悶のあまり形相すら変わっていた。大瀧氏もそんな風に死んだことを思うと何ともやるせない辛い気持ちでいる。

 癌などで長患いで時間かけて死ぬのも当人も家族も辛いと思えるが、こうして発症からほぼ一瞬で即死してしまう病気もまさに怖い。まさに突発的急死となる。しかもこれは気のせい、偶然かもしれないが、その友人も大瀧氏も米軍基地の近くに長年住んでいたのだ。そこに何か因果関係はないのか。自分もまたこれで死んだらぜひ誰か調べてもらいたい。そのことも記しておく。

 ミュージャンは皆、作詞作曲楽曲は作るし作れるが、サウンドまで作れる者はそれまで誰もいなかった。サウンドとはアレンジのことではない。つまりミキシングまで含めて自在にサウンドをいじって独自のオリジナリティあふれる「音場」まで構築していく。今ではそうしたことは機材の進歩発展もあって素人でもできなくない時代であるが、この国でミュージシャン自らが最初にそうしたことを手掛けたのは大瀧氏からではなかったか。
 何のことかわからない方は、彼のシングルヒットした曲でもいいし小林旭の「熱き心に」でもいい、思い浮かべてもらいたい。あんなサウンドの歌謡曲がそれまであったか、ということだ。
 世間ではこうした仕事にあまり注目しないが、天才サウンドクリエーター、音の魔術師、日本のフィル・スペクター大瀧詠一のあまりにも早すぎる死はもっともっと嘆き哀しむ人がいてもいいはずだ。

 神様は何でこんな不平等なことをするのか。何で彼のような善人にもっとも苦しむ死に方を与えたのか。彼の魂のやすらかであることを祈るだけだ。