飼い犬のような人生を余儀なくされる人たち2014年01月11日 21時49分01秒

★「社畜」から沖縄の人たちを思う。     アクセスランキング: 127位

 強い力あるものが、弱者をその力で従わせ抑圧するという構図はそれこそ世界中、有史以前からある。それは人間社会だけではなく、いや、むしろ動物の世界にこそ顕著に見られる。例えばサルの世界でも、力によってリーダーとなった群れのボス猿が他のサルたちを支配している。それは良い、悪いとかではなく、自然に成立したその社会のシステムなのである。そうしないと群れ社会は成り立たない。ならばそれは問題とはしない。

 人間社会もかつてはそうであった。しかし近代以降、人間は男女問わず皆平等であり、封建社会ならいざ知らず殿様や王侯貴族、皇族など力ある階級の命が庶民や下層階級の者より価値があり上だということは建前上あってはならないということになっている。まさに四民平等、天は人の上に人を作らずということになっている。外国を見ても何人だからエライ、何々人だから死んでもかまわないということはあっても言ってもならないはずだ。人の価値の上下、優劣はないはずで、力で他者を従わせることは国際社会では禁止されている。

 しかしそれはまさに建前であり、命だけとっても欧米人のそれとアフリカ、第三世界のそれが等しく平等だと考える人はいない。今も昔も人間社会でも力ある者が弱者を支配したり抑圧したり差別・弾圧する構図がいたるところでみられる。そしてそれは近代化が遅れている社会での話ではなく、この国、日本国内でもいたるところでみられる。そしてその「力」とは直接の力ではなくカタチを変えた力=「金」なのである。

 こんなことを改めて考えたのは、マス坊の甥っ子、つまり妹の長男が今東京のアニメ制作会社にいて、会社に飼われている存在となっているからだ。「社畜」という言葉がある。豚や牛などは人が飼育している「家畜」であるが、社畜とは、会社が飼っているニンゲンを指す。
 正月元日にウチに顔出したが、それは仕事中会社から抜け出してで、お雑煮など食べて少しだけのんびりしたと思ったら夜また会社に行くのだと言う。なぜなら今進行中のアニメの締め切りを抱えているので正月休みも何もなく大晦日から他にもまだ会社に泊まっている同僚がいるのだそうだ。

 彼は高校を出て九州から上京しウチに下宿してアニメの専門学校に通った。そして卒業後西武線沿線にある中堅アニメ制作会社に就職し今制作担当をやっている。同期で入社した奴らは皆全員辞めてしまい、今では彼でも古株なのだという。もう二十代後半となった。
 その会社には健康保険もないし、むろん組合もない。今アニメ業界は好景気人気産業だから次々若手、新入社員はいくらでも入ってくる。しかし、皆ほとんど続かない。なぜなら休みは土日どころかまずほとんどないし、ほぼ365日会社に行かねばならない。まさに会社に住み会社に飼われている。普通の感覚、個人生活、人間的生活を求める者はそんな仕事続くはずがない。
 甥っ子はそれでもその世界に耐えて、今では部下もできたので多少の時間的ゆとりと言うべきか、個人的裁量で判断できる立場にもなったので、正月元旦には仕事を抜け出せたのである。

 その会社は別にヤクザがやってるわけでもタコ部屋というわけではない。アニメ業界というのは手塚治虫が作り上げた異常な悪しき慣習が定着していて、まさにそうした世界が好きな者たちだけが趣味と実益を兼ねてほぼ24時間仕事している異常な世界なのである。だからそれについて行けない者はすぐ辞めるか体を壊し脱落していく。甥っ子のように、社畜として飼われて、その生活に馴染めばある程度高給も与えられるようになっていく。そこには個人的自由も個人の尊厳も私生活も存在しない。しかし、会社に飼われている限り金はもらえるので喰えなくて死ぬ心配はない。好きなアニメの仕事に携える。まあ、過労死すればまさに犬死ではあるが。

 こうした会社がありそこに勤めている人間がいる。むろんそこで働く者は無理やり嫌々働かされているわけではない。その異常な世界が辛ければふつうは皆辞める。甥っ子の話だと何日か来てたが給料も取りに来ずばっくれるヤツ、つまりもう会社に来なくなる者が多々いるのだと言う。今も仕事が続く者はやはりその仕事が好きでそうした異常でしかない日常にうまく順応した特異な者たちだけなのである。

 と、書いてきて、これは「抑圧」されているのかと自問する。支配はされてはいる。が弾圧はされてはいない。社員は自ら好きでその世界にいるのである。しかし異常な歪んだ職場、環境であることは間違いない。それは正さないとならないはずだろう。好きなことを好きな人間がやっているからといって良いとは言えまい。そこにいるのはニンゲンではない。「社畜」なのである。

 世の中には原発労働者のような過酷かつ危険な下請けの仕事も多々ある。そうした仕事に就く者はそれが好きとか以前に、「金」のために、喰うために、ある意味望まざる仕事をしている人も多いと想像する。生きていくには金が必要だ。そのためには危険かつ過酷な仕事でも人はしないとならない。好き嫌いとか嫌だとか言ってはいられない。
 つまり力ある者、企業という金のある強者が、金の力で金のない弱者、日雇い労働者を支配し使い捨てにしている。

 しかし、人は金のためなら何でもするかと考えるとそうせざるえない人もいるかもしれないが、普通の人はアニメ業界を見るまでもなくそれがよほど好きか他に選択肢がない限りそれは望まない。例えば、金になるからと言っても普通の人は殺人を頼まれてもやらないし、人を貶めたり傷つけるような「仕事」、危険かつ犯罪的な仕事はどれほど金を積まれてもしないはずだ。せいぜい放射能を高く浴びて自らの肉体を傷つけることなら金と引き換えにするかもしれないが、よほどの逃れられない状況や条件下でない限りどれほど金になってもそれは望まないし求めないと信ずる。人間には人として他の動物にはない尊厳がある。

 こんなことを長々と書いたのは、沖縄県知事が、経済振興策と引き換えに、米軍基地の辺野古への移設を受け入れるという「公約違反」をしたからだ。今さらだが、それでは「最悪でも県外移設」を求めていたことを覆すだけでなく、沖縄に米軍基地をさらに固定化させることでしかなく、要するに政府という強者に沖縄県民という弱者が屈服させられたと思えるからだ。県知事は金と引き換えに辺野古の海を売ったのである。
 その判断が正しいかどうか、どう評価するとか、良い、悪いは今ここでは記さない。しかし、そうした上からの圧力、政府と自民党上げての「力」に屈服し従うことは、そこでどれだけ金がもらえようと誤った判断ではなかろうか。確かに沖縄には基地が多く集中している。そして観光以外に産業もなく基地に寄生して、その交付金で生きていくより道はないという「現実的判断」もあろう。米軍基地はこれからもなくならない。ならばお上に抗わず唯々諾々と従い金をもらうほうが県民にとって良いことだと。

 しかし、それは犬の人生でしかない。人は犬を飼い面倒をみて餌を与える。しかし、犬は首輪をされ鎖で縛られる。犬だってほんとうは自由に伸び伸びと暮らしていたい。しかしこの国、この社会ではそれは禁止されている。犬は犬と生まれてきたからには、飼い主に従い顔色を伺い、時に番犬の役割をして餌が与えられるのをじっと待っている。散歩に行きたくてもひたすら待っている。

 沖縄県民は犬ではない。同じ日本人なのだ。そしてそれは全国の原発自治体の住民、フクシマの故郷を喪った人たちも。権力が金の力で人間の尊厳を奪い否定する前近代的なシステムが未だ残っているこの国日本。基地負担を沖縄や岩国、そしてここ横田基地周辺だけに負わせてはならないとするならばそもそも何で独立国家日本に米国の軍隊がこれほど多く駐留しているのであろうか。それは沖縄県民と同じようにこの日本人がそれを求め望んだことなのか。沖縄の多くの県民は米軍基地を望んでいない。
 繰り返す。そもそも何でこの日本国に他国の軍事基地がいくつも存在しているのか。これでは日本は米国の飼い犬なのではないか。
 しかも飼い犬がご主人を養うという異常な構図がそこにあることを国民はもっと知るべきだ。