巨星ついに落つ、ピート・シーガーの訃報に思う2014年01月29日 08時41分13秒

★うたも生き方も全身全霊フォークソングだった人       アクセスランキング: 148位

 今朝がたの朝刊を開いたら、三面下部の訃報欄に、『「花はどこへ行った」などで知られるフォークシンガー、ピート・シーガーさん死去』、と大きくはないが顔写真入りで死去の報が載っていた。93歳、老衰のためとある。
 90歳を過ぎても元気に活動されているとは中川五郎氏らから訊いていたので、ちょっと驚いたが、まあここまで生きたのだから大往生、天寿を全うされたと言っても良いだろう。早逝されることの多いミュージシャンたちの中では圧倒的に長寿である。まさにフォークソングの巨人、巨星が落ちたという感慨がある。

 彼については、強く影響を受けた高石友也、中川五郎両氏、それにフォークロアセンターの国崎氏らがおそらく追悼の記事や発言を発すと思うので、今さら浅学な自分が何か書こうとは思わない。ただ、今の人たちはその偉大さと彼がこの国のフォークシーンに与えた影響についておそらくほとんど知らないのではないかと思うのでそのことを書く。

 今の人でも現役のボブ・ディランについては誰だって知っている。そしてディランの師匠にあたるウディ・ガスリーについても名前は聞いたことはあるだろう。ピート・シーガーはそのガスリーと並ぶ、近代フォークソングの偉大な「創始者」であり、彼がいなければフォークソング・リバイバルのムーブメントもおそらく興らず、よってディランもその後に続くブルース・スプリングスティーンら人気シンガーも存在していなかったかもしれない。

 フォークソングというものはそもそもが字義通り、「民謡」であった。それはアメリカという新大陸に渡ってきた人たち、白人も黒人も故国で覚えたものを日々の生活の中で歌い継いでいたものであった。
 そうしたトラディショナルを、オリジナルを含めて新たな解釈を加えて商業的にも新たにスポットライトを当てたのが、60年代初頭に米国で興った「フォークソング・リバイバル」ムーブメントであった。その中心人物こそがシーガーたちであり、彼は一民族楽器であったバンジョーの弾き方をはじめ「フォークソング」とは何であるかをわかりやすく民衆に説いてきた。
 彼の人生とはポップミュージックの世界とは距離を置いたものの、生涯にわたって本物の民衆の歌「フォークソング」の啓蒙と発展に捧げてきた。まさに音楽に生きた無私の人であり、生き方そのものがフォークソングであった。

 日本でも60年代半ばに起きた関西フォークなどのフォークソングムーブメントは彼の存在に負うところが大きい。そもそも両国でフォークロアセンターを始めることになる、国崎清秀少年のところに、彼が16ミリフィルム「5弦バンジョーの弾き方」を贈呈しなければ、この国にバンジョーもカントリーも、フォークソングも根づくのはもっと遅れたであろうし、日本でもフォークソングがあれほど流行っただろうか。その頃のミュージシャンでピート・シーガーから影響を受けなかった人など皆無だと断言できる。彼の残した数々のプロテストソングの名曲も含めて本当に偉大なミュージシャンであった。

 彼が本当に偉いと思うのは、彼の音楽、うたと生き方が矛盾なくそのまま重なる、常に同時進行だったということだ。社会の不正や大衆の不満を唄い人心をさらいヒット曲を出して自らは豪邸に住むというミュージシャンはいくらでもいる。ピート・シーガーはどんな家に住んでいたのか知らないが、彼はまさに彼のうたそのままに、赤狩りにも遭ったぐらいに、常に社会正義を求め社会活動を行ってきた。晩年は環境運動にも励んでいたし、老いても彼の歌の世界は若い時から変わらずに常に真のフォークソング=民衆の歌であり続けた。まさにフォークソングの巨人、巨星であり「フォークソング」というものが、ショービジネスではなく、歌い手、人としての「生き方」であると示し続けた生涯であった。
 そのことは、「うた」とはそもそも何か、何を「うた」として唄うべきかという問いかけでもあろう。

 残念なことにそうした真のフォークソンガー人生を送っている日本のフォーシンガーはもはや数少ない。若いころに彼の影響を強く受けたとしても彼のようにはなかなか生きられない。幸い中川五郎や豊田勇造の顔が思い浮かぶが、今では多くのミュージシャンは社会的発言、行動を控えるようになってしまった。
 日本だけではなく、世界中が国家主義、右傾化していく時代に、今こそピート・シーガーのうたが再び聴かれることを強く望む。これ以上世界が、地球が「腰まで泥まみれ」にならないためにも。