そういう時代だったのか! おいてけぼりにされた世代として2014年02月19日 23時51分30秒

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 若い時は、ごく特殊な専門的機械を除いて、オーディオなりビデオなりたいていのAV機械は何不自由なく使いこなすことができた。それが当たり前だったしそういう人間、それができるハイテク人間だと自負していた。

 それがいつしか、おそらく携帯電話が普及し始め、パソコンなどが一般化し始めた頃からか「時代」の進みに付いて行けなくなりだし今ではかろうじてこのブログ程度はできても携帯でメールも打てないしフェイスブックもツイッターも何一つできない遅れた旧人類となってしまった。スイカだって持っていない。
 時代の流れについて行けなくなったのには怠けていたこともある。また頭が悪く頑迷固陋とした性格も大きく関係もしている。様々なツールだかアプリが使いなせれば便利なのはわかっている。が、もうどんどん先へ勝手に進んでいく時代というものに、いつしかもうどうでもいいや、勝手にしろ、とネグレクトしてしまった気持ちによるところが大きい。
 パソコンのOSも次々新しくなっていくし、ウインドウズならようやくXPに慣れ親しみほぼ自由に使いこなせるようになってきたと思ったらもうサポート終了で、仕方なく8を買った。そしたら早くもまた次の8,1とかにアップしろと言ってくる。8を使いこなすのに何年かかるかわからないが、その頃にはまた新しいのを買わなくてはならないように仕組まれている。

 自分の場合、パソコンなんて昔のワープロ機能的にしか使っていないし、せいぜいネットでメールのやりとりやブログを発信したり通販で買い物したりする程度で、もっともっと簡素な機能で事足りる。今のパソコンはそれこそ使わないソフト、いや今はアプリと言うのか、それが多すぎる。

 かつてのオーディオマニアとしては、やはりCDが出てきたときにもすごく違和感を抱いた。何しろ盤面を見てもそれから音が出る理屈がわからない。それまでのレコードやカセットテープは目で動作がわかり、どういう仕組みなのか体感できていた。それが以降のメディアではどれも全てそれ自体では走行すら確認できない。モニターなりディスプレイがあって初めて目で状態が追える。
 しかし、まあその頃はそういうものだと無理にも理解し何とか時代に遅れないようしがみついていた。

 だがパソコン時代、さらには多機能携帯の時代となっていくと、もう何が何だか完全にわからない。新しい世代、それが生まれたときから存在していた若者ならすぐに当たり前としてそれが使いこなせる。自分はもう最初からその「多機能」自体不要だと思っていたこともあって、携帯は電話機能しか使わないし使えない。他のハイテク機器も全て同様となってしまった。
 それでも何とか今ではパソコンでCDを焼いたりデータを保存したりはできるようにはなった。しかし、使いこなせているとは口が裂けても言えない。パソコン歴は10年なるが今も試行錯誤中なのだ。で、ようやく本題。

 と、先日知人がマックのノートパソコンを新たに買った。訊くところによると「マックブック・エアー」とかいうのの最新型らしい。すごく薄くて軽い、早いと自慢している。自分はずっとパソコンはウインドウズ一辺倒なので全くマックの世界はわからないのだが、何とそのノートには、CDやDVDを入れるところ、プレイヤーというかドライバーがないのだという。思わず耳を疑った。それは外付けとして別途購入して使うらしい。

 買った当人曰く、今では、たいていの情報や音楽ファイルはダウンロードしたりネット上でやりとりできるので、何もDVDトライブは最初から機械に入ってなくても困らない。溜まったファイルなどはUSBメモリーやSDカード等に移して保存するとのことで、目からウロコが落ちた気がした。思わず「そういう時代だったのか!」と声に出してしまった。そう、CD-RなりDVD-Rなり、何もそのサイズの円盤を持ち歩く必要はないのである。しょせんすべてはデータであり、それはSDカードなり、メモリースティックのようなもので十分事足りる。旧い人間だから常にデータは当然CDやDVDでと考えていたが今は「物」など不要ないのであった。つまり携行するノートパソコン類は限りなくiPad、iPhone化していくのであろう。

 似たような驚きは昔もあったと記憶をたどると、カセットテープを用いる初代ウォークマンが登場してきたときもそのマシンにスピーカーがないことにびっくりしたことを思いだした。イアホーンで一人ひとり個人的に聴くのだという。そのための機械であった。今ではそれが当たり前だから、怪訝な顔されるだろうが、昔は音楽とは常にスピーカーを通して外に鳴らすもの、皆で楽しむものであったしそう思い込んでいた。それが当たり前という認識をその新製品は覆したのだからまさにコペルニクス的展開、というかコロンブスの卵であったと今も思う。そして以後、音楽とは個人で携帯してどこでも一人で楽しむものとなった。

 こうした通信機器、ハイテクオーディオの世界はまさに日進月歩、次々新製品と新機能が登場する。そのたびに、「そういう時代だった」とか「そういう時代になった」と感嘆驚嘆することだろう。しかし自分にはそれが本当に良いことだとも良い時代だとも思えない。
 大流行りのウォークマンもやがて持つようになり何種類か持ってもいたが、結局あまり使わなかった。今も昔も野外でイヤホーンやヘッドフォーンでは聴かないし、内外限らずたとえラジカセ、パソコン付属のスピーカー程度のものであろうとも音楽とはじっさいに鳴らさない限り聴いた気がしない。
 自分にとって、CDも沢山持っているし聴いてもいるが、それは便宜的なものでしかなく、真に音楽、オーディオというものは今も昔もレコード、そしてカセットテープだという気持ちに変わりない。つくづく頑迷固陋なのだと自分でも思う。

 置いてけぼりにされた、と書いたがそれは正しくなかった。世の流れについて行けなくなり、いや、ついて行けなくなると悟り、すぐに断念、時代を追いかけていくという行為を放棄したのに過ぎない。要するに向上心も学習意欲もないのである。自ら時代の流れ、つまり「流行」を追うのを諦めてきたのだ。
 それが老い、老人的傾向だとするならば、オレは若い時から老人化、老人気質であったのだろう。最新、最先端の情報化時代に、オレは自らジャングルにこもり穴から出て来ない旧日本兵のようなものなのだ。周りが呼びかけてもたぶん死ぬまで穴から出てこない。