脱電化生活のススメ・中2014年02月21日 22時42分38秒

雪でほぼ孤立していた山梨県北杜市須玉のウチの古民家のある集落
★人はいつからこれほど電気に依存してしまったのか     アクセスランキング: 224位

 こうした雪害も含めた災害で停電が起こると、つくづく電気は有難い、現代人にはなくてはならないものだと改めて気がつく。
 自分も大震災がもたらした計画停電が起きるかと不安な思いで過ごした暗い夜が忘れられない。一時は、猛暑の夏などピーク時には電力需要に対応できないなどと騒がれたがいつしか原発稼働なしでもともかくも電力は無事に供給されるようになった。そして都心の繁華街は景気回復も関係しているのか、原発事故と電力不足などなかったかのように深夜でも煌々とした不夜城である。人は喉元過ぎれば何とやらといわれる通り、わずか数年で悪いことも辛かったことも忘れてしまうようだ。電気があるのが当たり前であり、その有難さにも気づかない。

 それにしてもいったいいつから人はこれほどまでに電気、つまり電力というパワーに依存するようになってしまったのか。
 考えてみれば、人類の歴史の中で、電気が家庭内に登場するのはわずか200年に満たない期間でしかないかと思う。日本では100年程度ではないのか。それまでの何千年も有史以来、人類は生きていくのに電気など必要とはしなかった。
 動力としてはところによっては風力、水力、主には人力、そして馬や牛類を用い、煮炊きには木炭、石炭、ガスなどを使い、明かりとしては都会の街頭には近代になるとガス灯は一部にできたが、家庭内では灯油でのランプ、ろうそくによる行燈などしかなかった。
 それが電気が電線網により全国的に家庭にも普及すると、照明としての電気はもちろんのこと、「家電製品」が次々に登場してくる。そして電気、つまり電力によってほぼ家庭内のすべてが動く生活となっていく。♪明るいナショナル、のCMソングを思い出す。

 昔は冷蔵庫は、一般家庭にはなかったし、あったとしても氷を毎日配達してもらいその冷気で冷蔵するといったものでしかなかった。蓄音機も、手回しで、つまり人力でネジを巻くようにしてレコード盤を廻すものであった。洗濯は手洗い、ご飯はかまどで直火で炊いていた。調理には練炭、暖房には炭や豆炭を用いていた。自分は年寄りなのでそうした時代の記憶を少しは持っている。

 それが戦後、復興と経済成長に歩をそろえて、全ての生活道具が機械化、つまり電化されていくことになる。気がつけば、洗濯機は当然のこと、直火で炊いていたご飯までも電気保温ジャーに、便所も汲み取り式から水洗、そしてウォシュレットへ、さらには調理まで今では火力を用いないIH、電磁調理機が広まっている。暖房は夏でも冬でもエアコンに。薪で沸かしていた風呂はガスへ、しかしそのリモコンスイッチは電気で。むろんテレビやパソコンは言うまでもない。
 それが文明の進み方、人類の進歩と発展なのか疑問に思わなくもないが、便利と安全という観点からは普及したのには理由もあることに違いない。何でもリモコンやスイッチ一つで機械任せにできることは楽ちんであり、悪いことでは決してない。

 だから今日では、新たに売り出される大型高級マンションこそ、「オール電化」を売り物にしてその安全さと便利さを誇っている。つまり、部屋までのエレベータからトイレ、水道、調理、風呂、洗濯機、冷暖房空調、一切合財が電気で駆動させれば火事など起きようがないし簡便かつ安全、そして地球環境にもやさしい(はず)のである。

 しかしオレはそうは思わない。もしそのマンションが、何かの原因で停電してしまえば、ドアのセキュリティまでもが電化されていたとしたらそこの住人はマンション内に閉じ込められ水も出ず、トイレも使えず調理もできずよほど食料が備蓄されていればともかくも場合によっては数日内に死亡する者も出よう。
 電気というものを使用する電化製品は、電気があれば便利であるが、電気がないとまったく役に立たない。動かない。そんなごく当たり前のことがわからないバカがオール電化を売り物にして憧れるバカもいる。電気は永遠に流れてはこない。配電網がどこかで切れればすぐさま停電してしまう。そのとき電気に全面的に依存してしまった人たちは生きていけなくなる。※仮に停電したとしてもそんな事態は短時間で復旧するから杞憂だと嗤うのはお気楽者であろう。大雪だけではなく、巨大地震が起きてしまえば、全てのインフラは断たれて電気も都心でも何日も途絶すると想定されている。

 むろん、今大手の住宅メーカーでは、屋根中に太陽光パネルを最初から設置して、自宅で使う電力はその住宅で賄える新世代の家を発案している。そうすれば電力不足や停電という心配は不要となる。しかしそんな家に住める人はごくごく僅かだし個人が消費する電力を個人で作り出すことは現代文明では無理であろう。ならば、できるだけ脱原発ならぬ、脱電化を目指すしかない。つまり、電力を使う電化製品は、パソコンやオーディオ類はともかくも調理や炊飯、暖房などは電化でなくても代用できる。マス坊の家では、去年までの灯油ファンヒーターは処分して、コロナ製の石油ストーブを今冬から使っている。それなら直火なので、ストーブの上でヤカンも乗せられるし、餅も干し芋も焼ける。ずいぶん活躍している。

 つまるところ、「脱電化」生活しか原発再稼働に対してじっさいに抵抗できる手段はないのではないか。むろん、化石燃料の消費は大気汚染、二酸化炭素増加など問題も多々あるはずだ。しかし、原発によって作られる電気がクリーンとか地球環境にやさしいなどとは原発推進者だってもはや口にできまい。不必要な電気は使わないにこしたことはない。それこそが東電など電力会社に対しての我々の一つの抗議手段でもあろう。
 電気そのものには何も罪はない。が、生活のすべてを電化製品に依存するこの文明は災害時においてきわめて脆弱だと深く認識すべきであろう。