すべてが下り坂2014年06月24日 07時20分45秒

★一進一退ならまだしもが         アクセスランキング: 131位
 
 いかにも朝から梅雨時らしい曇り空、まだ雨は降っていないが予報では今日明日と天気は下り坂、午後はところによって雷雨があるかもとのことだ。
 BGMは、イギリスから昨日届いた、ヴァン・モリスンのベスト盤だ。いつ聴いてもサイコーにいかしたパワフルなボーカルである。鬱陶しい梅雨の邪気を吹き飛ばしてくれる。この人はヘンクツで飛行機嫌い故日本には来たことがないそうだから、ならば一度でいいから向こうへ行って、向こうのパブで生のライブを観てみたいと夢想する。かなわぬ夢であろうか。

 ここらでウチの老犬と老人の現況について報告しておきたい。
 齢19歳となった超高齢犬バドはまだ生きている。が、さすがにこのところ食がじょじょに細くなり犬用ミルク以外は食べさせるのが難しくなってきたので先日、かかりつけの動物病院に連れていった。
 どこか悪いとかの治療ではないので、ざっと診てもらいやや脱水気味とのことで、点滴受けてビタミン剤など入れてもらった。
 それでまた持ち直して食欲が戻るかと期待したが、逆にひたすらこんこんと眠り続けてばかりで、深く爆睡していることが多くなった。まあときどきは起きて少し流動食のようなものは食べるがあまり状況は好転していない。

 それでも病院で測ったら体重はまだ13キロ近くあって、抱きかかえるとかなり重い。もともとがレトリバー種の雑種なので元気なころは20キロ近くあったのだ。老いて痩せ衰えても骨格がしっかりしているので小型犬のようには扱えない。まあ、セントバーナードやマウンテンバーニーの類ではないのでまだ自分でも抱えられる。が、この重さでもニンゲンは腰が慢性的に痛い。
 眠りつづけているといっても意識はまだあり、大小便がしたいときは目覚めてがたがた前足で這いずり回り騒ぐ。その都度抱きかかえて庭先で用便させる。このまま緩やかにさらに痩せてさらに眠るばかりとなって死ぬのだろうが、いつまで生きているのか予想もたたない。
 去年の春過ぎから歩けなくなって一年。予想以上の頑健さに感心もし喜び、反面疲労困憊している。

 その世話をするニンゲンのほうは、というと、父、認知症のボケ老人のほうは米寿を過ぎ、その度はかなり進み、さらに奇矯なトンチンカンな行動や発言は多くなったが、まだ自らで食事も排泄もまあできるので、目を離したり何か仕事を任せたりはできないが、幸いさほど手はまだかからない。
 が、逆に母のほうが疲れが溜まってきてこのところ体調はすぐれないし、癌の手術後、3年は経過したといっても果たしてこれからどうなるのか不安もなくはない。決して元通り、癌を患う前には戻らないのはわかるから、ともかく生きて動けていれば良しとしなければならないのだろう。しかし、このところ父はともかくその母までかなり呆けてきたようで、なかなか老親たちだけ残して家を空けるのが難しくなってきた。

 これまでは母に言い置き任せておけば安心できたのが、さすがに彼女も80代半ば近くとなって、癌のことはさておき心身ともに衰えてきたようだ。もうどんなことでも任せておけなくなってきた。物忘れも激しいし動作が緩慢で遅く、ふらふら立っているのもやっという有様でともかく作業効率が悪い。このところ失敗失態続きである。
 それは大病したからということではなく、経年相応の老人の実際の姿なのであろう。つまり長生きすれば元気なしっかりした人でもダメになっていくということだ。そしてそれは進んでいく。

 歳をとることはつまるところ、全てがわからなく何もできなくなっていくことだと嘆息する。だから一進一退ならまだ現状維持なのだから良いほうで、一進どころか、一退二退を余儀なくされていく。まあ、全てが下り坂、どんどんダメになって悪化の道を転がり続けていく。
 自分も長生きすればやがて老親たち、老犬のようになっていくのは道理であって、そのとき自分の面倒をみる、世話する「子孫」はないのだからそのときいったいどうなるのか!と不安にもなるけれど、それはそのときのことで今から考えてもしょうがない。せいぜい出費を抑えて「老後」に備えることぐらいしか手は思いつかない。貯金に回せる余裕など全然ないのであるが。

 頭の中、気持ち、つまり精神だけは今でも若い頃、十代の頃とほとんど何も変わっていないのに、鏡に向かって白髪交じりの疲れた顔と弛緩した肉体を見るにつけ、肉体の老化、時間の経過は確実なのだと深く思う。これだけの長い時間、自分はいったい何を成し得たのか、いや、いったい何をやっていたのか。まるで玉手箱を開けた浦島太郎のような気分である。
 歳とってどんどん肉体も身体能力もダメになっていくのなら長生きしても何一つ良いことなどないではないか。まして会社勤めもせず社会的地位も年金も何一つない、保証のない自分は「老後」は地獄が待っていると考えたほうが正しいかと思う。

 が、老いて一つだけ良いこと、嬉しいことはある。嗤われるだろうが、ようやく人間とは何か、その人間たちが構成している世の中とはどういうものなのか少しだけわかってきたことだ。それは歳と共に、じょじょに見えてきたことだ。若いときはほんと何もわかっていなかった。同世代の皆がたぶんそうだったと思うが、人間関係も生活も考え方もすべてが愚かで甘く何一つわかっていなかった。バカの群れのワンオブゼムが自分であった。

 そして・・・物心ついて半世紀以上すぎて今はようやくいろんなことがわかってきた。人間とはどういうものか、この社会とはどういう仕組か、さらには人はどう生きるべきかも。といってもそうした「知の世界」の入り口にたどり着いた程度の「理解」でしかないのだが。

 だから今、この情けない有様ではあるけれど、自分は何も後悔はしていない。歳をとれば肉体はもっとダメになるだろう。しかし、逆に精神、頭の中は、今よりもっとすっきりと、わかるようになっていくと思える。これまでも見えなかったこと、わからなかったことが歳と共に、時間の経過としてはっきりわかるようになってきたのだから。
 やがてはこの身もバドのように自らでは歩けなく、動けなくなって糞尿垂れ流しになるだろうが、バカが少しでも良くなり、人間とは、人生とは何なのか、少しでも得心できるのならば老いていくことも悪いことではない。

 願わくばもっと早く、そうした「世知」を得、妻となる人と出会い健全な家庭と社会生活を築ければ良かったのだろうが、これもまた自分の人生であり、ペースなのだと思える。バカはバカなりに試行錯誤しあれこれ悩み、もがき、失敗を繰り返して「本当に大切なもの、大事なこと」にようやく気がつく、辿りつく。
 残りの人生があと何年、何十年あるのかはわからない。が、老いは老いとして抗わず受け入れてさらにいろんなことが「わかる」ように、楽しみに生きていきたい。まだまだいろんなことが待っているだろう。

 どんなことだってツライと思えば大変なのだ。生きていくのは辛く大変なものだ。決して楽ではない。試練は試練として、その試練からもまた見えるもの、わかること、得るものが確かにある。

 そう、全ては下り坂。が、下りはアクセルなど踏まなくて良いのだから逆に自然に下るに任せれば楽なのだ。あまり急にスピードが出ないようときたまブレーキを踏み込んでいけば良い。そんなふうに、自然体で生きていこう。