5月に入りました。2015年05月01日 22時22分12秒

★やっと借りてた倉庫の撤収終えた。              アクセスランキング: 150位

 今日から風薫る五月となった。が、昼間は暑い。まだウチではコタツも出していて、灯油ストーブもしまっていないのにこの汗ばむ陽気である。クーラーはともかく扇風機を出さねば。いや、その前に冬物一式片づけないと。

 慌ただしく日々過ぎていく。私ごとを報告がてら書く。

 近くに、もう何年来借りていた倉庫をようやく空にして契約解消した。これで数万円だが、毎月の出費が減る。去年のうちに終わらせると宣言したものの果たせず、ではこの年度内3月末に、と目指したがそれも間に合わず、このところ母の湯治も兼ねて足繁く山梨へ行きついでに運んでようやくほぼ空になってきて4月内に何とか終えたのだ。

 そもそもは、今住んでいる家を改築するにあたって、モノを片づけないことには工事が始まらず、市内に安いアパートを借りて、一切合切不要不急な物を運び入れたのだった。たぶんもう10年近く前のことだ。

 途中で、一回そのアパートが立ち退きとなったため、ごく近所に古い二軒長屋をみつけ四畳半と三畳、台所と小さい風呂のついている一世帯を丸々借りた。
 ウチの場合の工事は、以前も記したが、裏側と表側を時間差をおいて立て直したからともかく時間がかかった。
 まず裏側にあった古い物置部分を取っ払って、そこに新築で風呂、トイレも付いたワンルーム状の二階建てを作り、住人はそこに移動してから、旧い家の部分を広げて改築して先に建てた裏側の部分と繋げた。
 そんな建て方したから、その都度モノを移動させねばならず、その置き場として別の場所が必要だったのだ。
 最終的に家が全て完成したのは、2011年の今頃のことであった。その時点ですぐ、借りてた倉庫を撤収するべきであったが、ウチは、二階部分を広くとり、無頼庵としてオープンスペースとしてしまったこともあって、収納場所がほとんどなくなってしまった。そのうえ、自分の商売関連のもの、古本や古雑誌などがやたら溜まり、その都度処分していけば良かったのだが、母の病気と自分の音楽趣味、雑事に追われてともかく時間がなく、腰据えて家のことは何もできなかった。

 言うまでもなく、モノはその都度意識して処分しないことにはすぐに増殖していく。借りている倉庫があったから、ウチでは季節物も使わないものは溜まるとすぐ、ともかく倉庫へ運べと何でもかんでも吟味や判断せず、つまり捨てることなくそこに移動させてしまった。結果、そこは満杯となり、もう自宅にも持ってかえることすらできない量となってしまったのだ。自分の本だけの話ではない。この家じたいがモッタイナイ症候群で捨てられずゴミ屋敷と化していたのだ。
 借りてる倉庫を引き払うにせよ、そこにあるモノを置くスペースがウチニはどこにもなくなってしまった。

 そんなこんなで、さすがに身動きとれなくなり、新たな「倉庫」を探しそこに運ぶしかないと考えた。むろん一切の断捨離というのが正しいあり方、生き方なのだとわかる。しかし、古いもの好き、捨てられない症候群以前に、古本屋は商売であったし、クズ本はともかく、古雑誌はこれから動かしていく計画でいたから全部処分するわけにはいかなかった。
 幸いのこと人を介して、山梨県北杜市須玉に古民家が格安で手に入ることになった。金策も含めていろいろ面倒な手続きはあったが、2年前のちょうどこの季節に見に行き、環境も建物も含めて即決してしまった。
 そしてそこにじょじょに今借りてる倉庫内のものを移動させていき、ようやくそれが昨日、4月末をもって終わったという次第だ。といっても今日もゴミ出しや掃除など後片づけに追われて一日潰れたが。

 そんなこんなで、この数日は早朝5時半から親たちに朝食出すまで長屋内のガラクタを分別し車に積み込みウチに運び、下ろしてゴミと仕分けしその作業に専念していた。夕方まで埃まみれ汗まみれで作業し(倉庫は電気や水道の契約はしていなかった)、晩飯作って食べて即倒れるように眠る生活であった。

 これでようやく無駄な出費が減って我が家の家計財政再建となるはずだが、実はまだ長屋の裏側に物置がありそこも借りているので月々少しだが大家に支払いは続く。
 そこも一緒に返却する予定でいたが、あまりの量に、山梨の古民家のほうもかなりいっぱいになってしまい、向こうの整理も追いつかず、既に一階の二部屋が本で埋まってしまった。
 山梨のほうに運んだものを整理分別しないことには、向こうでの生活も圧迫されてしまう。そんなで、運びきれなかったものはその物置にもうしばらく置かせてもらうことにしたのだ。じっさいそこもほぼ満杯となった。

 作業していていてつくづく自分はバカなことをしている、そして今もまたし続けているとの思いに囚われた。しかし、バカとして開き直るわけではないがこういう「捨てない生き方」もまたあっても良いのではないか。捨てる生き方、捨てることが奨励されカッコいいと今時代はされている。が、果たして本当にそうなのか。モノに固執する生き方はみっともないか。

 むろんシンプルライフに憧れる。モノがなければどんなにスッキリするかと思う。しかし、捨てずにずっと抱え続けて生きてきたのだ。嗤われるだろうが、それができるうちはたぶん改めず続けていく。
 本当にハズカシイ。しかし、全部捨てて一から出直すにはオレは歳をとり過ぎた。膨大なマスダの古いモノコレクションをこれからご披露していくしかない。ちなみに敬愛する同好の先達、コレクター町田忍氏はマス坊の大学の先輩である。

 もう疲労困憊とかそういう次元ではないほど疲れているが、懸案のことのうち、一つはやり終えたのでほっとしている。ただ今、庭は長屋から運んできたセトモノ類、鍋釜ら食器や植木鉢、棚や金具などガラクタ類でまさにゴミ屋敷と化してしまった。その後片付けにまた追われる日々が続く。どこか近くに物置のようなの借りるしかないと認知症の父は言っているが、そうもいかないのである。もう余分な出費は極力減らしたい。

 溜めることが悪いのではない。溜めても使わないこと、活かせないことが悪いのである。ならばどのような形でも活かしていくしかない。

今年の憲法集会2015年05月02日 03時17分58秒

★岡大介、坂本九の娘と共演なるか

はじまりのとき、おわりのとき・前2015年05月02日 22時21分27秒

★「過去」という歴史に個人もまたどう向き合うか          アクセスランキング: 167位

 汗ばむ陽気のゴールデンウィークである。どうお過ごしか。

 ようやく、借りていた長屋のカギを大家に夕方返却して物置の賃料だけ支払った。これで毎月数万円だが、支出が減る。いくらか生活が楽になる。大家からタケノコも貰った。今年初物だ。

 だが、まだ物置の中にもコミックス、古雑誌類を中心に、まさに汗牛充棟、天井近くまで古本がびっしり詰め込まれている。が、移動だけならトヨタレンタリースでいつものライトエーストラックを借りれば一日一回だとしても3回ほどで終わるかと思う。そこも早く返せばより経済的には楽になる。

 問題は、移動させても山梨の古民家にそれを置くスペースがないことで、居間でもどこでもかまわず押し込めば入ることは入るけれど、そうすると行っても生活する空間がなくなってしまう。
 まず先に運び込んだ長屋から運び込んだ分を整理分別、処分するものは捨てて減らしていかないことには次へと進めない。
 そうした残務処理が膨大に残っていて、今この家の庭先も長屋の縁側の下に押し込んであっセトモノ類や食器、カップ、フライパンなどでゴミ屋然と山積みされたままだ。
 こちらもそれぞれ残すか捨てるか分別、判断して、不燃ごみの袋に入れて捨てるか、山梨へ運ぶかしないことには片づけがおっつかない。
 春先はただでさえやることがいっぱいで、おまけに冬物と春夏ものとの入れ替えもあるのに、何一つできないままにこの暑さが来てしまい呆れ嘆いている。

 けっきょく、今回も時間がなくて、とにもかくにも大雑把に分別はしたものの、山梨のほうへ移動だけで終わってしまった。
 向こうも今、本の山でスゴイことになってしまっている。本当に無価値なものは紙ゴミとして北杜市も再生紙用に無料で回収するので結えてゴミ置き場に持っていけばよい。さすればたぶん半分近く減らせるかと思う。
 それがなかなかできないで溜まる一方なのは、一冊一冊そうして価値を検索して分別処理する時間がなかなかとれないからで、つまるところ判断保留のまま溜まれば、倉庫に運び、今回もまた山梨へさらに移動してしまったのだ。
 フツーの人なら、読まない本、読み終えた本、自らと無関係な本や雑誌は右から左へゴミの日に出してしまうのだろう。我はそれこそが商売の肝で、あちこちからそうした本を集めては検索かけては値が付き売れる本をネットマーケットに出品して小銭を稼いで糊口をしのいできた。

 それで値がつかないからといっても、状態が良かったり、Amazonではなく自店舗扱いで売りたい本もあって、即処分――以前はブックオフに持ち込んでいたが、――とは一概にならない。ときに相場も刻々変わるから後で再検索してみると高く出せることもある。
 そうした判断保留の本は溜まる一方で、今のような身動きとれない状況になったとも言えよう。

 それらは商売に関する本のはなしで、自分は様々な古いものコレクターでもあるから、個人的に捨てずに保管してきたもの、集めてきたものもボー大にある。今回の移動では嫌でも過去のそうしたものと向き合う結果となった。

 自分はレコードコレクターでもあった。そして、主に80年代は、ベータのテープで、テレビ録画にも夢中になっていた。そうしたビデオテープとレコードの箱が長屋から自分ですら呆れ果てるほど出てきた。

 レコードも昔、数寄屋橋の中古レコード店ハンターなどに足繁く通って買い求めたもので、おそらく買ったきり一度も聴いていない。むろん買うからには聴くために、聴いてみたい、欲しいと思い買うわけだが、他にも聴くものはたくさんあり、レギュラー的にターンテーブルに乗るのは決まってもいたので、たいていは買ったまま箱詰めにされていき、家の建て替えで長屋に運ばれていたのだ。

 それらが実に23箱出てきた。試しにひと箱に何枚のLPが詰め込まれているのか数えてみると・・・63枚入っていた。
 むろん日本盤に多い見開きのアルバムジャケットと通常の輸入盤に多い単なるレコードだけを収納するケース状のとは厚さが倍違うことになるので何とも言えないが、仮にひと箱60枚だとしても1300枚以上はウチに戻ってきたことになる。
 ウチにはその他に、レギュラー的に聴くフォークやロック関連が既にレコード棚にそれ以上の量並んでいる。もう棚には入るスペースは今はない。

 ビデオテープの箱もたくさんある。テープの数はベータ、VHSも交えていったい何百本、何千本あるのかわからない。それらはたいてい録ったきり見てもいない。溜まってきて箱に詰めていつか見るつもりでいた。果たして再生いできるのかすら定かではない。
 が、捨てずに、それらはほぼ全部、山梨の二階部屋へ運んでしまった。ウチに置いても見る機会はなく、場所だけとることと、幸いビデオテープは、本やレコードに比べれば軽いので、迷いもしたがけっきょく向こうに持って行ったのだ。

 レコードはどうしようかと考えもしたが、常駐しないところで、火災など万が一の災難に遭うことも考えてやはり手元に置いておくことにした。
音楽こそ今も昔もいちばん大切な関わり持つことであり、特に「レコード芸術」は、音のみはデジタル化され流通することがあってもジャケット含めて失われていくだけのものだから自分が死んだ先のことはともかく、生きてる限りは持ち堪えていきたい。

 呆れ果てられたことだろうか。これは自慢話ではない。自分ですら愚かだと狂気の沙汰だと思っている。が、とにもかくにも捨てずに、ほぼ何も失わずに移動は終えられた。
 かつて、ウチの出入りの大工のところに預けていた荷物が、大工が勝手に青梅の作業場に移動させ失火で全部燃えてしまったことがあった。そのときも幸いにして本とレコードは大工のところに運んでおかなかったのでそれらは無事だった。代わりに我が家の衣類や調度類と私的には古い矢入のギターなど、若いとき持っていた楽器類は全て燃えてしまったが。

 今回も約10年近く、古長屋という倉庫に置いといたわけだが、大して雨漏りもせず、ネズミの被害も少なく、一番大事に思っていたものは全て無傷で戻ってきた。
 で、さてこれから、こうしたモノをどう活かしていくかであろう。むろん売ればプレミア的価値あるものもなくはない。が、それを手放して金にするまでにはまだ少し時間と余裕があるかと思う。

 今はともかく残された時間のなかで、本も含めて一つ一つきちん向き合い過去の遺物とはいえ、スポットを当てていくだけだ。

 世の中には、過ぎた過去のものを例えば引っ越しの度に、右から左へ、それこそ写真アルバムでさえもゴミとして捨てていける人がいる。その人の身軽さを羨ましくも思うが、ではその人がその人である芯というかコアとなるものはいったい何なのかとも案ずる。
 自らを支えるモノがなくたって自分は自分だと確固たる自信がある人は素晴らしい。でもそうしたモノへのこだわりこそが人をして人とならしめるものではないかと我は考えている。

 過去は過去でしかない。二度と戻らない。が、全て過ぎたことだから無意味だと全面否定はすべきではないのではないか。過去からも学ぶだけでなく得るものと活かすところは多々あると信ずるがどうだろう。

はじまりのとき、おわりのとき・中2015年05月03日 21時17分43秒

★髪を切って一日寝てしまった。                 アクセスランキング: 152位

 足腰立たないという言葉がある。今まではよく慣用句として気軽に使っていた。が、じっさいの話、まさにそうした事態に陥った。

 疲れがどっと出た。朝、明け方から足がつって激痛にしばらくの間、動けずベッド中で脂汗を流していた。ずいぶん長く感じたが時間にすれば10分そこらだったか。
 今までも呑みすぎた翌朝は足がつって痛みに苦しみ、痛風かとも考えたことがある。今回は疲労蓄積が一気に出た。
 痛み収まるだけで疲れ果てて、外で散歩行きたくて吠えている犬たちもほったらかしに、惰眠を貪り。ようやく7時半頃起きたが、今度は腰が痛くてろくに歩けない。
 ギックリ腰ではないが、腰全体が痛くてヨタヨタとしか立っても動けない。これでは横浜までとても行けない。途中で、救急搬送されてしまう。

 今年の憲法集会、何としても参加して岡大介の雄姿を記録するだけでなく様々な思いを参加者と分かち会いたいと願っていたが断念した。4月末から長屋の引っ越し作業であまりに無理し続けた。

 終わって一気に気が緩んだ。もう起きても起きていられなかった。腰から背中から体中が鈍く重くだるく痛い。まさに足腰立たず起きていられない。ひたすらベッドの中で横になってうつらうつらして疲れを癒した。※4年前、大阪の春一番へ行ったとき、天王寺で切って以来一時も切らずに伸ばしていた髪も自らあまりの暑さにハサミで切った。清志郎の命日に。

 そしてようやくコトを終えた喜びのようなものがわいてきた。何はともあれ、これで長屋を引き払うことがこの時点で終えられて本当に良かった。
 母の癌治療で再入院の前に、こちらが終わって本当に良かった。むろんまだまだやるべきこと、後片付けは山ほどある。そして個人的けんあんのことも溜まっている。しかし、できることを一つ一つ終わらせていくしかない。

 バカで不器用なのは自分がいちばんわかっている。愚かな過ちを今もまた繰り返しているのもしれない。しかし、こういうふうにしか生きられずこうして生きてきたのだ。
 今さらそのセオリー、手法は変えられない。

 戦後70年の今年、自分はそのうちの戦後直後はまだ生まれていなかったが、昭和30年代前半から今まで戦後をずっと生きてきた。平成生まれの人たちよりも戦後の時代は○○ではないとしてもよく知っている。モノとしても記録、保存してきた。そうしたことを書いても来た。

 もはや戦後でない、という言葉がある。今使うそれは、「戦前」だと言いたい。戦後70年の今、本当の戦争を知る、体験した人たちは、ウチの両親世代だけとなってしまい、巷には戦争を知らない子供、若者と彼らが老いて戦争を知らない老人ばかりになってしまった。
 そして今、憲法を変えることなく、平和のために海外でも戦争がてきる国家へと日本は大きく変わろうとしている。むろんとんでもない事態だ。
が、感慨深く思う。
 戦後が本当に終わり再び「戦前」の時代となっていく。日本が試され、日本人が試されている。そして国民一人一人が問われている。

危機脱出2015年05月06日 23時56分39秒

★ようやく立ち直った。 アクセスランキング: 143位

 晴天に恵まれたゴールデンウィークであった。皆さまどうお過ごしのことか。個人的には最悪の寝たきり状態から何とか脱した。

 私ごとを書けば、体調崩して気持ちも落ち込み最悪かつ、もうどん底に陥り、家に火をつけ一家もろともオサラバすることすら考えていた。が、何とか立ち直った。自殺ではなく、どうせ終わるものなら早く全てを終わらせようと考えた。※父の呆けに手を焼きついに堪忍袋の緒が切れ殴る蹴るしてしまったこともある。親を殺すのなら自らも含め全てを消滅させるしかないであろう。

 疲労は極限まで達して、足腰立たないだけでなく、前から悪かった右目も痛み激しく目も見えなくなってベッドの中で悶々忸怩たる日々を過ごしていた。
 言ってもせんないことだが、自分は基本どこにも所属してなく、フリーランスとは社会的位置づけだろうが、それ以前にこんな人間だから人間関係でまったく属するところないゆえ、ただ孤独にひたすら寝込むしかなかった。
 ベッドの中でモバイルで確認しても届くメールは、しょうもないバイアグラ関連のチンコの固さを説くスパムだけで、つくづく狭い世界で生きていることを思い味わうばかりであった。
 恋しい連絡欲しい人からは連絡なく、あれこれ考えてしまい自らを苛むだけであった。

 が、ようやく連休最終日になって、神が哀れに思い手を差し伸べてくれたものか、旧き友から待ち焦がれた連絡があり、そんな最中でもウチにイベントのポスターなど持ってわざわざ訪れる方もあり、そうした人たちの「連絡」によって何とか自分の「存在」が確認ができた。
 つくづく有難いことだと思う。必要かどうかは別として、こんな我をも忘れずに相手してくれる人たちがいたのだ。

 必要とされているかはわからない。が、どこにも所属していない、そもそもいてもいなくても良いような、いや、常に他者から全面否定されることの多い人間としては、向こうから関わりを持って頂けるだけで有難いことであろう。

 孤独は辛いとは思わない。逆に世事に煩わされず楽だとも思う。が、体調悪く寝込んだりとすると、いったいこの先、生きていて何の得があるのか、皆に迷惑をかけるだけではないかと自責し生きていく自信、目的を失っていく。
 バカだからとことん能天気でありたい、バカボンのパパのように生きたいと願う。ふだんはどう人から蔑まれ罵声を浴びさせられてもニヤニヤしていられる。何故なら自分自身自らを最低だと自認、否定しているからどう扱われようと平気の平左だ。

 が、体力弱ると、その「肯定力」も弱り、ひしひしと孤独に苛まれ、抱えている現実に押しつぶされ、老いた親たちも殺して一切を終わらせることすら夢想するようになる。それはそれで一つの決着でないかという思いは今だってある。何故ならその先がこの「家」にはないからだ。希望なく、老いと死しか先にないなら生きていく意味など誰にだってないだろうが。
 それぐらい余裕ない、ぎりぎりカツカツな毎日を送っている。それこそが無頼であろう。

 しかし、そうして自暴自棄になりかけていたところに三人の友から電話とメールがあり、今日は、今、大阪・春一番の会場にいると記した友からハガキが届き、それを手にしてつくづく有難いことだと思った。

 立ち直れた。ここからまたやっていく。腰や背中はまだ痛いが歩けないほどではない。全てを受け入れていく、いや、それだけでなく、これからは多くを与えていこうと思った。見返りを求めてのことではない。
 
 正直、我の人生なんてどうだっていいのだ。ただ、もう少し生きてやろう、まだ死ねないと思い直した。親がいるからではない。我が内にある、「神」に倣って、自分のためではなく、人様のために、可能な限りできること、成すべきことをやっていかねばならない。

 ともかく危機は乗り越えられた。心身衰弱して悪魔のささやきに耳を傾けて危うく全てを投げ出すところだった。もう大丈夫。もう何も求めない。期待しない。そのうえでやるべきことをやっていく。まだできる。やるべきことがある。神も友も見捨てないでいてくれた。愚かでどうしようもないがこの人生を続けなくてはならない。体が弱ると心も弱くなる。どうせ俺はダメなのだ。わかりきったことだった。なにを今さらだ。くそったれ!

 それだけを今記す。

八王子のフリーイベント5/24のお知らせ2015年05月07日 22時19分18秒

★参加同行者募集中                 アクセスランキング: 176位

 というわけで、八王子の河川敷で毎年催されているフリーイベントのチラシが届いた。
 とてもユニークな野外型のライブだそうで、マス坊も参加の方向で予定立てている。当日はシバもついに登場!地元でどんな熱いステージを見せてくれるか楽しみだ。さらにあの「まるこたぬ」も。

 たぶん昼前から車でいくと思うので同行される方いらしたらお知らせください。八王子版「春一番」といった趣で、爽やかな初夏の一日、のんびりだらだら鋭気を養いたいと思っている。

老母の癌についての現況報告2015年05月12日 22時27分40秒

★母の癌、「執行猶予」となったので               アクセスランキング:222位

 12日、火曜日の夜。外は久々の本格的な雨が音たてて降っている。
 
 今月に入ってからいろいろあって落ち着いてブログ書けなかった。それでも後で書き入れるつもりで、非公開にしてその日ごとアクセスはしているが、まだ書き足し公開に至っていない。これから折あらば、過去の分も書き足してアップできたらと思うがその時間があるだろうか。

 昨日、癌が再発した母の検査があり、臍の下あたりにある癌部位は前回のエコーで撮ったときと比べて肥大、成長は全く変化なく、とりあえず今すぐの抗癌剤などの治療は見送られた。
 予定では、(肥大していたら)まず検査入院、そしてどう今後の抗癌治療にあたるか担当医と相談ということになっていたわけで、癌が消えたわけではないが、進行は停止していたことで上出来の結果となった。医師も驚き、喜んでくれた。
 とりあえずまた三か月後にMRIで再検査し直して、その結果みてということにして、今回は検査に血液だけとって放免となった。

 無罪放免の判決が出たわけではないが、三か月だけだが執行猶予というべきか、言わば「再審」ということになったわけで、ほっと安堵した。昨晩はスーパーで買ってきたお寿司で家族でささやかなお祝いをした。
 拙ブログを通して知り、ご心配頂いた方々に報告を兼ねて厚く御礼申し上げる。まさに、おかげさまで、という気持ちでいる。

 またぞろ活動開始した癌が何も治療もなしに消えることはない。が、この年明けに、いつの間にかまた肥大始めていた癌が発見されてから自分なりにあれこれ悩み考えそれなりの手を尽くした。

 まず玄米食中心に、食生活を変えて、癌に効能あるもの、キノコ類や海藻類、緑黄色野菜等を頻繁に摂らせるように献立を変えた。
 それと同時に、山梨県北杜市須玉のラジウム泉・増冨の湯へ、倉庫の古本の移動もあったからだが、母を連れて先月は四回も通った。そこは癌に効くとは文字にして明言はされていないが、古来より秋田の玉川温泉と並ぶ、免疫力アップで効能高いとされている名湯で、そのヌルい湯に長く浸かれば、ラドン吸引により様々な難病が治るとされていて、ウチが古民家入手したのもその増冨ラジウム温泉峡に近いが故であった。

 だから厳冬期はともかく、雪が消えてからはできるだけ頻繁に通うようにした。その効果があったかはじっさいのところわからない。ただ、かねてより続けている週三回の丸山ワクチンに加えて、その食生活を変えたことと、増冨通いだけで、癌の肥大化は抑えられたは事実だ。
 医者はどう言うかわからないが、我個人的には、癌が小さくなっていることを願い希み、確信していた。神に祈った。そしてその願いはしっかりかなえられたと思う。

 まあ、今85歳という高齢のこともある。が、手術後4年で再び活動開始し始めた癌がここで活動停止したことは、丸山ワクチンはずっと変わらず続けていたわけだから、それにプラスしてやはり増冨通いが効を奏したと言えまいか。我はそう信ずる。
 母の話だと、温泉の中で浸かりながら知り合った人たちは静岡他皆遠くから通ってきて、じっさいにポリープが消えたり、発症した癌が現在治癒してもさらに通い続けている人も多々いるとのことだった。

 まあ、果たして三か月後はどうなっているかそれは何とも言えやしない。が、癌は消えなくとも今後もその活動が抑えられているのなら、そのまま癌で死ぬことはなく、他の病気や老衰などで天寿は全うできるのではないか。

 じっさい今の時代、高齢者の二人に一人は癌になるのである。まさに国民病であり、誰もがガンにかかるならば、それなりに巧く付き合っていかねばならないはずだ。
 母の場合も、最初は、卵巣に発した癌が大腸などに転移し、癌性腹膜炎を起こして一時期はかなり危機的状況に陥った。体力も弱り摘出手術も危ぶまれた。が、幸いにして何とか開腹し癒着していた大腸をかなり取り除くことができた。しかし、執刀医の話だと既に癌細胞は散らばって全部取り除くことはできなかったのでまた即再発してもおかしくないとのことだったのだ。それが大震災の年のことだ。

 そしてじっさいすぐ半年もせず再発して、そのときは抗癌剤で治癒して、以後丸山ワクチンを3年以上続けてきた。癌細胞は体内に残っていたはずだがもうすっかり体調回復して日常生活も病気前と変わらずにできるようになっていた。体力は昔に比ぶればだいぶ落ちたがそれはそのぶん歳月が過ぎ、歳をとり相応の老化が進んだからだろう。

 が、今年4年目にしてまた癌は活動開始し始めた。丸山ワクチンの効果が薄れたとは思わない。癌とは一度は克服してもまた3年ほどたてばほぼ確実に再発するものだから、ずいぶん長く抑制されたとも思う。
 そろそろワクチンも終わりにする時期かと母と話していた矢先のことであった。となると何ができるか。何をすべきか。

 幸い古本屋だから、癌と癌治療に関する本は何十冊も手元にある。様々な健康法も含めれば百冊以上の本を読んできた。
 母はもうずいぶん長くも生きてきたが、それでも今死なれては当人も家族も困る。ならばできるだけのことはやっていく。そしてやってみた。今回はそれが運よく効果示したと言えよう。

 こうしたことを長々と書いたのは、もしも今同様に、癌治療に心労苦労されている方にとって少しでも参考になればと思ってのことだ。我で良ければいくらでも相談と問い合わせに応じたい。山をも動かす信仰と信念さえあれば、いや、そんなもの等なくとも、「愛」さえあればどんな病気でも人は癒すことができると思える。
 いつだってできること、精いっぱいのことを愛を込めてやっていくだけだ。それは誰だってできる。我が事のように他者を思い気遣う愛だけあれば。

無頼庵活動再開に向けて2015年05月13日 23時13分14秒

★我が人生を再び動かしていく           アクセスランキング: 213位

 坂本九のうたう「素敵なタイミング」ではないが、この世には時節、時宜というものが大事だとつくづく思う。
 時節到来を待つことも大切だが、時宜にかなわねばいくら焦り苛立ったとしてもモノゴトは動いていかない。何も進まない。

 昨年の11月末以来、動かなくなってしまった時間がようやく今春遅く、4月末をもって動きだしてきた感じがしている。
 けんあんの一つであった、近くに借りていた倉庫の主屋の撤収が終わったことと、昨日記したように、心配していた母の癌の進行にとりあえず待ったがかかったことで、これで次のことへとりかかれる気持ちになった。

 世の中にはいつどんなときでも「外」の状況に気持ちを左右されず、粛々と自分のことを、己のペースで変わらずにやっていける人もいる。
 が、自分はダメで、些細なことにも心動かされ惑い崩れて、何も手につかなくなってしまう。もとより不器用で一つのことですらよほど専心専念しないと成すことは難しいのに、並行して何科を抱えつつ同時にやっていくことなどできるはずがない。

 先のライブイベントの音源を編集してCDアルバムとして世に出したいとカクサク中のまま半年が過ぎた。関わって頂いた方々の諸事情で、今もまだ完成へのメドは立っていないが、待つことだけではなく、ともかく少しでも進められるよう関係者方と調整をはかっていくしかない。
 そちらも今月内に、今後の方向性だけは出したいしたぶん見えてくるような気がしている。

 それはそれとして、また無頼庵でのライブイベント活動もじょじょに再開させるべく予定を組み始めている。
 自分がこのウチで、何か催しをやりたいという個人的希望は特にない。むろん、フォークソングのライブは企画して呼びたいシンガーも多々いるが、まだそれは時節が来ていない気がしている。
 それ以前に、まず「映画塾」関連で再開を求める声が届いているので、こちらがやりたい企画以前に、参加希望者が求める企画に応えていかねばと考えている。他にもいくつか企画話は来ている。

 ただ、単に人が集まってワイワイ騒ぎ楽しむことも一興だとは思うけれど、場の提供者としてはそこで利益など出ないからこそ、何かイベントをやるからにはそこに利ではなく実がほしい気が強くしている。
 ビジネスなら行為は「金」に換算しえるゆえ全て良しと解決や得心もできよう。商売でないからこそ、何かまた別の意味や価値を求めることはあっても良いのではないか。
 つまり単なる「消費」ではなく、生産的なこと、人が集まり共に時間を過ごすことで何かが新しく生まれ始まることに繋がらないか。
 単なる出会い、顔合わせだっていい。その企画、イベントをやったことで参加された人たちの何かが変わり新しく何かが始まることが起きないものか。

 娯楽や快楽、慰安にも価値や役割はある。それを提供することが自分の役割だとは考えていない。そうしたアミューズメント的場は金さえ出せばこの世にあふれかえっている。
 無頼庵に来られた方が、何かを知り得、刺激を受け、知的興奮があり、その人の生き方や考え方に少しでも変化があってほしい。
 むろん一度や二度でそんなことは望めやしないし難しいことだとわかっている。が、全てのことは時間も含めた「消費」以上に、そこからまた何か新たに得て次の活動に繋がっていくものでなくてはならないはずだ。特にこんな危ない時代だからこそ古代ローマ人のように享楽だけに夢中になってはならないと思う。

 「食」という行為が、単に美味いものを求め味わうだけでなく、刺激を受け気分も変え、血となり肉となり、さらに熱量として体を支えていくように、消費以上の生産に繋がることを目指してやっていかねばならないと考える。

 難しい。が、それは何だって同じで、真の娯楽や芸能、芸術行為は、面白さや楽しみと同時にそれを超えた先にあるものを示している。何かをやるからには、その先にあるものを常に意識して、求め考えなければならないはずと我は思うが。
 まあ、老親たちのこともある。今、それをなすべきか、「その時」にあるか適宜、時宜を見はからい無理せずに余裕ある範囲でやっていかねばならない。

 今後の企画は固まり次第、日程など順次お知らせしていきます。小難しいことを書いたけれど、今書いたことは企画する側のスタンスであって、参加者に求め問うことではないのでご安心ください。ともかくまた活動再開に向けて、先の倉庫引き払い騒動以後、ゴミ屋敷と化してしまったこの家をまずはどう片づけていくかだ。

ともかく声を上げよう、アクションを起こそう2015年05月14日 21時42分25秒

★あらためて「平和のための戦争」なんてありえない。       アクセスランキング: 193位

 新しい法律に「平和安全法」とか「国際平和支援法」とか、どれほど平和と安全の名称を括りつけても、要するに誰でもわかるように、日本が攻撃されていなくても「存立の危機」の可能性さえあれば、戦闘行為、つまり戦争がいつでも世界のどこででもできるようになるわけだ。

 我らが安倍首相はこれで日本はいっそう他国から攻撃されることはなくなると胸を張り、一国だけで平和を守れないご時世だから、アメリカとより緊密な関係を築いて世界の平和と安定に貢献していくことになるのだそうだ。
 しかし一方、アメリカの仕掛ける戦争に巻き込まれることは絶対にない、とも繰り返し言っている。アメリカに守ってもらっていて、アメリカが戦争始めたとき、後方支援も戦闘参加もしないのなら、この法律はそもそもいらないし、集団的自衛権を行使しないことになってしまう。軍事同盟国パートナーアメリカに対して失礼ではないか。

 これこそ毎度の詭弁の極まりで、国民の理解もまったく得られていないどころかこれから国会での審議を前にして、高まる不安払拭のため単に空証文を口にしているだけであろう。この男はいつもこのやり口で口約束を高らかに繰り返す。

 安倍氏の信条である「積極的平和主義」とは、世界の安定と平和のためには、それを脅かす存在は、事前に、コトが起きる前に、積極的に=戦闘行為によって=攻撃して排除していこうという方針であり、果たしてそれで国際平和が成るかまったくもって怪しいものだ。
 この発想は、米国が自認する世界の保安官と同様であり、その片腕として、日本は長年期待されてきて今回ついに応え名乗りを上げたという次第でしかない。

 今までは、憲法九条の制約があり、そうした積極的戦闘行為は、行使容認できないのが国是とされてきた。が、この自公政権はまず憲法解釈を勝手に変更し、先の衆院選で再び国民の審判も受けたと驕り、ついに一線を越えたのだ。
 腹立たしいのは国会にはかる前に、アメリカに出向き、首相自ら夏までに法制を整えるとオバマ氏らに公約してきたことだ。国民と国会軽視も甚だしい。

 我が国をとりまく東アジア諸国の緊張関係を思うとき、こうしたいつどこでもすぐに戦闘行為が、戦争ができるように法整備していくことは良いことだし、必要なことだと考える人もいるかもしれない。
 しかし戦争によって、つまり殺し合いをやって得た平和と安全は本物なのかという疑問がわく。むろん専守防衛は理解できる。誰だって無抵抗で殺されたくはない。まったくの無抵抗主義は新約聖書の中の世界だけだ。

 しかし、日本が攻撃を受けていなくとも「我が国の存立の危機」という認識だけで、世界中のどこででも戦争ができるようにしてよいものだろうか。「存立の危機」に際し、そう判断するのは司法でも国民でもない。時の政権が恣意的に決められるのである。

 先のイラク戦争=2003年イラク侵攻は、かの国が大量破壊兵器を隠し持っている、という疑いによって起きたものだ。ときの政権が米国とは不倶戴天の敵だったこともあって、米国を支援する有志連合はフセイン政権転覆も目論見戦争を仕掛けた。

 が、じっさいのところ、大量破壊兵器などはなかったわけで、政権転覆させたことは米国などの国益にかなったが、代償として街々を破壊し、民間人も含めて多数の犠牲者と大量の難民を生み出す結果となった。さらに以後イラクの治安は悪化し、終結は遅れ2011年の末まで戦闘は続いた。この戦争の正当性は今も問われている。そして中東に真に平和が戻ったかは誰に問いても否であろう。
 現今のイスラム国を名乗る過激派組織も元々はそのイラク侵攻によって生じた「結果」だとされているのだ。ある意味、世界のテロ組織は、アメリカが産んだ鬼っ子だと言えよう。

 このときに、安倍政権が目論むこの法制が成っていたらば、日本も国際平和支援を名目に、イラク侵攻に参加して戦闘行為により自衛隊員の死者も出ていたことだろう。幸いにして専守防衛という良識をときの政権は保っていたから難を逃れた。
 そうした行為が責任ある国際社会の一員としての責務だという意見もあろう。
 が、かつてナチスドイツやイタリア、ファシズムと手を組み、悪の枢軸国と目され他国を侵略し戦争を仕掛けた我が国が再び軍事力で、世界平和を名目、口実としても他国に侵攻し、他国の軍民を殺しては絶対にならないのではないか。
 そうした「戦争」で国際平和が成るというのはまさに幻想かつ権力者側の詭弁で、ひとたび戦争が起これば多くの人が殺され、大地は疲弊するだけだ。そしてそれは長く尾を引いていく。多くの人々が傷つき怨恨が残る。戦争を喜び幸せを得るのは軍需産業だけだろう。

 戦後70年、日本の平和が続き繁栄をほこったのは、戦争は許されない平和憲法があったからに他ならない。その憲法を変えようと、変えなくてもときの政権が勝手に解釈を変更して、恒久的に世界のどこでもいつでもすぐに戦争ができるようにしようとしている。

 戦争によって平和は成し得ない。戦争はできるだけしないように、いや、絶対にしないように、が人類誰でもの願いのはずだ。が、今、安倍氏らが目論むのは、世界平和を口実に、アメリカの先兵として、積極的に戦争を仕掛けていく方向なのだ。アメリカはテロ組織の指導者と目した危険人物は無人機で暗殺すらやる国家なのである。そんな国の仕掛ける戦争に集団的自衛権行使として参加していく。それはあり得ない。絶対に許してはならない。

 ともかく声を上げていこう。一人一人が何らかのアクションを起こそう。でないと、後世の人たちに、何でそんな暴挙を戦後70年のとき、日本人は唯々諾々と承認したのかと問われるであろう。
 あの戦争で学び誓い、憲法に記したことは、国際間の紛争に際し、再び武力で解決をはからないということだ。つまり戦争は二度としない。日本人はもう誰も殺さない。よって誰も殺されない。
 今、その根幹が自公政権の謀略により揺らいでいる。こんな暴挙絶対に許してはならない。

すべてはごく単純に考えよう2015年05月15日 23時55分29秒

★北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといえばよいではないか。

 国家間の安全保障とか集団的自衛権があるとかないとか、行使するとかしないとかいったい何のことだか、フツーの人たちにはよくわかりにくい。
 で、こう考えた。国家という単位で考えるからメンドーくさくなるので、国家を成す最小単位、個々の個人で考えたらどうだろうか。

 我が人から殴られたり、襲われたりしたら当然のこと、抗い反撃もしよう。正当防衛はどんな社会でも認められている。
 米国などでは、凶器となる銃火器でさえも、登録すれば自衛のためとして個人でも保持を認められているが、その是非は今はさておく。

 自分と親しい友だちが誰かに襲われ大変な目に遭っているとする。友なのだから当然その知らせを受け助けに行く。それはすべき義務でもあると考える。
 ただ、その争いに加わり、敵である相手を殴る蹴るとかするかしないかだ。よく新聞種となる暴走族グループ間の抗争では、一度コトは収まってもまた仲間を集めて仕返しに出向いたりなかなか収拾つかないことが多い。たいていは、警察沙汰となり、関係者が全員逮捕されたりして終わりとなる。ヤクザの抗争だって同様だ。

 思うに、友がもしケンカしているのなら、共に加勢して争いに加わるのではなく、まずは間に入り、仲裁に努めるのがまっとうな考えであり基本的常識だろう。まさに宮沢賢治の『アメニモマケズ』にある「北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい」である。

 こう考えてみれば、集団的自衛権を行使するということは、友がケンカしたら駆けつけて、友を支援して紛争の=ケンカの仲間入りをするということだとわかろう。確かに、親しい友が苦境にあればそうした助けもまた必要かもしれない。
 しかし、暴走族の抗争やヤクザの出入りをみるまでもなく、いったんそうした「仁義なき戦い」が勃発したらコトは簡単に収まらない。やられたらやり返し双方の応酬は果てしなく続く。個人や組織の場合はそうしたとき国家の権力である警察が乗り出し双方を逮捕して終わりをつける。

 国家ではどうなるのか。国連理事会にはそうした権限も力もない。つまるところ勧告や決議は出せても紛争そのものをやめさせることは不可能だ。それは中東情勢やウクライナを見ればたちどころにわかる。世界の民がどれほど憂いたとしても一度起きた紛争は簡単に解決しない。
 
 むろんそうしたケンカが起こる前に、起きないよう力による均衡、パワーバランスの必要性を説く人たちもいる。台頭する超大国中国やロシアに隣接する小国日本は、そうした「大男」たちに脅迫されたらば、「オレには、守ってくれる強い仲間がいるんだぞ、ナメタラあかんぜよ、コラっ!」と虎の威を借りることだ。
 が、それはヤクザ社会で言うところの「舎弟」の契りを結ぶことであり、親分であるアメリカが、どこそこの組に殴りこみするときは真っ先に駆けつけ先兵として切り込まないと子分としては合わす顔がない。それで命も落としても覚悟の上のことだ。

 個人の場合、そうしたケンカや紛争においては、加勢すべきではないのは言うまでもない。ケンカしている二人がいたとすれば、周りの人たちは割って入って、当事者たちを抱きかかえて引き離し、「冷静になれ、暴力では解決しない、ケガしてもつまらないからやめろ」と諌めるしかない。
 もしそこに分け入って友を助ける名目でケンカに加勢すれば、相手方もまたそいつの友たちも加勢して来てケンカは大きくなって長引き、周囲を巻き込んで大変な事態へと拡大してしまう。
 これが個人間の「有事」の際の常識ではないか。国家はまた別の話か。

 ならばこそ、友が、ケンカや紛争に巻き込まれたとして、たとえ友は一方的被害者であっても、我側は武力によって、軍事的にそのケンカに加わってはならないのである。それをやってたらまさに収拾つかなくなるだけだ。すべきことはまずケンカをやめさせ双方のはなしを聞きできる限り公平に調停に立つべきであろう。我が日本国憲法はそう示唆している。

 そのケンカや紛争の最たるものは、戦争であり、一度始まってしまえば、そのどちらがが降伏するまで、終戦はまずありえない。停戦しても何度でも紛争の火種は尽きない。
 死ぬのは兵士だけでなく一般市民も家を焼かれ財産を失い国土を奪われもする。世界中に難民があふれかえる。地球環境じたいが疲弊してしまう。

 ならばこそ、集団的自衛権として、つまり他国の戦争に参加してはならないのである。ケンカや武力攻撃ではモノゴトは解決しないのは先の大戦で世界中の人々が学んだことのはずだ。
 いや、モノゴトは解決はした。戦争も終わった。が、あまりに多くのものを20世紀の人類は失ったのではないか。
 そのうえで、戦勝国アメリカが日本に押し付けたとされる憲法を抱き、加害者として被害者としてすべてを失った日本人は、ここに人類の理想が記されていると誰もが喜び感激したのである。

 国家の政権が国土や国民の財産、権利を守るのは当然であり大切なことだ。が、その手段としての「戦争」は絶対にありえない。ひと度戦争が起きてしまえば、暴走族の抗争よろしく戦火は拡大し、収拾付かなくなっていく。ベトナムやイラクと同じく泥沼化する。民族と国家間の憎しみは高まり経済も社会も混乱して全てが行き詰る。テロが国内でも横行し、反体制活動家たちは全員逮捕されていく。

 真に想像すべきは、有事に際して、戦争のある、戦争ができる世界ではなく、戦争をしない、戦争のない平和な世界なのである。夢見てるって言われようと、それは僕一人ではないはずだ。