今年の憲法集会2015年05月02日 03時17分58秒

★岡大介、坂本九の娘と共演なるか

はじまりのとき、おわりのとき・前2015年05月02日 22時21分27秒

★「過去」という歴史に個人もまたどう向き合うか          アクセスランキング: 167位

 汗ばむ陽気のゴールデンウィークである。どうお過ごしか。

 ようやく、借りていた長屋のカギを大家に夕方返却して物置の賃料だけ支払った。これで毎月数万円だが、支出が減る。いくらか生活が楽になる。大家からタケノコも貰った。今年初物だ。

 だが、まだ物置の中にもコミックス、古雑誌類を中心に、まさに汗牛充棟、天井近くまで古本がびっしり詰め込まれている。が、移動だけならトヨタレンタリースでいつものライトエーストラックを借りれば一日一回だとしても3回ほどで終わるかと思う。そこも早く返せばより経済的には楽になる。

 問題は、移動させても山梨の古民家にそれを置くスペースがないことで、居間でもどこでもかまわず押し込めば入ることは入るけれど、そうすると行っても生活する空間がなくなってしまう。
 まず先に運び込んだ長屋から運び込んだ分を整理分別、処分するものは捨てて減らしていかないことには次へと進めない。
 そうした残務処理が膨大に残っていて、今この家の庭先も長屋の縁側の下に押し込んであっセトモノ類や食器、カップ、フライパンなどでゴミ屋然と山積みされたままだ。
 こちらもそれぞれ残すか捨てるか分別、判断して、不燃ごみの袋に入れて捨てるか、山梨へ運ぶかしないことには片づけがおっつかない。
 春先はただでさえやることがいっぱいで、おまけに冬物と春夏ものとの入れ替えもあるのに、何一つできないままにこの暑さが来てしまい呆れ嘆いている。

 けっきょく、今回も時間がなくて、とにもかくにも大雑把に分別はしたものの、山梨のほうへ移動だけで終わってしまった。
 向こうも今、本の山でスゴイことになってしまっている。本当に無価値なものは紙ゴミとして北杜市も再生紙用に無料で回収するので結えてゴミ置き場に持っていけばよい。さすればたぶん半分近く減らせるかと思う。
 それがなかなかできないで溜まる一方なのは、一冊一冊そうして価値を検索して分別処理する時間がなかなかとれないからで、つまるところ判断保留のまま溜まれば、倉庫に運び、今回もまた山梨へさらに移動してしまったのだ。
 フツーの人なら、読まない本、読み終えた本、自らと無関係な本や雑誌は右から左へゴミの日に出してしまうのだろう。我はそれこそが商売の肝で、あちこちからそうした本を集めては検索かけては値が付き売れる本をネットマーケットに出品して小銭を稼いで糊口をしのいできた。

 それで値がつかないからといっても、状態が良かったり、Amazonではなく自店舗扱いで売りたい本もあって、即処分――以前はブックオフに持ち込んでいたが、――とは一概にならない。ときに相場も刻々変わるから後で再検索してみると高く出せることもある。
 そうした判断保留の本は溜まる一方で、今のような身動きとれない状況になったとも言えよう。

 それらは商売に関する本のはなしで、自分は様々な古いものコレクターでもあるから、個人的に捨てずに保管してきたもの、集めてきたものもボー大にある。今回の移動では嫌でも過去のそうしたものと向き合う結果となった。

 自分はレコードコレクターでもあった。そして、主に80年代は、ベータのテープで、テレビ録画にも夢中になっていた。そうしたビデオテープとレコードの箱が長屋から自分ですら呆れ果てるほど出てきた。

 レコードも昔、数寄屋橋の中古レコード店ハンターなどに足繁く通って買い求めたもので、おそらく買ったきり一度も聴いていない。むろん買うからには聴くために、聴いてみたい、欲しいと思い買うわけだが、他にも聴くものはたくさんあり、レギュラー的にターンテーブルに乗るのは決まってもいたので、たいていは買ったまま箱詰めにされていき、家の建て替えで長屋に運ばれていたのだ。

 それらが実に23箱出てきた。試しにひと箱に何枚のLPが詰め込まれているのか数えてみると・・・63枚入っていた。
 むろん日本盤に多い見開きのアルバムジャケットと通常の輸入盤に多い単なるレコードだけを収納するケース状のとは厚さが倍違うことになるので何とも言えないが、仮にひと箱60枚だとしても1300枚以上はウチに戻ってきたことになる。
 ウチにはその他に、レギュラー的に聴くフォークやロック関連が既にレコード棚にそれ以上の量並んでいる。もう棚には入るスペースは今はない。

 ビデオテープの箱もたくさんある。テープの数はベータ、VHSも交えていったい何百本、何千本あるのかわからない。それらはたいてい録ったきり見てもいない。溜まってきて箱に詰めていつか見るつもりでいた。果たして再生いできるのかすら定かではない。
 が、捨てずに、それらはほぼ全部、山梨の二階部屋へ運んでしまった。ウチに置いても見る機会はなく、場所だけとることと、幸いビデオテープは、本やレコードに比べれば軽いので、迷いもしたがけっきょく向こうに持って行ったのだ。

 レコードはどうしようかと考えもしたが、常駐しないところで、火災など万が一の災難に遭うことも考えてやはり手元に置いておくことにした。
音楽こそ今も昔もいちばん大切な関わり持つことであり、特に「レコード芸術」は、音のみはデジタル化され流通することがあってもジャケット含めて失われていくだけのものだから自分が死んだ先のことはともかく、生きてる限りは持ち堪えていきたい。

 呆れ果てられたことだろうか。これは自慢話ではない。自分ですら愚かだと狂気の沙汰だと思っている。が、とにもかくにも捨てずに、ほぼ何も失わずに移動は終えられた。
 かつて、ウチの出入りの大工のところに預けていた荷物が、大工が勝手に青梅の作業場に移動させ失火で全部燃えてしまったことがあった。そのときも幸いにして本とレコードは大工のところに運んでおかなかったのでそれらは無事だった。代わりに我が家の衣類や調度類と私的には古い矢入のギターなど、若いとき持っていた楽器類は全て燃えてしまったが。

 今回も約10年近く、古長屋という倉庫に置いといたわけだが、大して雨漏りもせず、ネズミの被害も少なく、一番大事に思っていたものは全て無傷で戻ってきた。
 で、さてこれから、こうしたモノをどう活かしていくかであろう。むろん売ればプレミア的価値あるものもなくはない。が、それを手放して金にするまでにはまだ少し時間と余裕があるかと思う。

 今はともかく残された時間のなかで、本も含めて一つ一つきちん向き合い過去の遺物とはいえ、スポットを当てていくだけだ。

 世の中には、過ぎた過去のものを例えば引っ越しの度に、右から左へ、それこそ写真アルバムでさえもゴミとして捨てていける人がいる。その人の身軽さを羨ましくも思うが、ではその人がその人である芯というかコアとなるものはいったい何なのかとも案ずる。
 自らを支えるモノがなくたって自分は自分だと確固たる自信がある人は素晴らしい。でもそうしたモノへのこだわりこそが人をして人とならしめるものではないかと我は考えている。

 過去は過去でしかない。二度と戻らない。が、全て過ぎたことだから無意味だと全面否定はすべきではないのではないか。過去からも学ぶだけでなく得るものと活かすところは多々あると信ずるがどうだろう。