自分の痛みと人の痛みと2015年06月16日 08時40分44秒

★人の痛みに敏感でありたいと            アクセスランキング: 219位

 人は皆、それぞれが自惚れ(うぬぼれ)鏡を持っていると書いたのは森茉莉であったか。杏奴(アンヌ)だったか。

 その鏡は、自らの真の姿は正しくは映さないのに、他者の姿ははっきりと映す。
 俗に、自分のことは棚に上げて、人の難や非はよく見えるが故あげつらう人は多々いる。責めもする。かくいう我もまたそうであろう。人とはそうしたものだ。
 それを承知で書く。

 世の中には、無神経な神経質という人がいる。自分のことに関しては、万事とても細かくこだわりを持ち、少しでも何か問題が起きればすぐさま騒ぎ立て周囲を辟易させる。
 が、他者のこと、自分以外の関心外のこととなるとまったく無神経で、他者の気持ちなど何一つ忖度しない。身勝手といえばそれに尽きる。しかし当人は神経質を自認したとしても他者への無神経はまったく気づいてもいない。
 同様に、自分の痛みに関してはとても敏感で、少しでも体調崩すと大騒ぎしたり、些細なことでも心が傷つき落ち込んだり保身に余念がない人がいる。が、そうしたことが周囲に及ぼす影響となるとこれまた無関心で、むろんそれだけ余裕がないということもあろうが、結果そのことから生ずる他者の痛みに対し思い至らず放擲してしまう。

 まあ、人間に限らずすべての生き物は常に御身大事で、まず自分のことしか頭にないのだからまず大事なのは自分のことであり、それが何とかなって初めて他者への配慮やいたわりなど余裕が生まれる。それもいたしかたない。
 我がことを後回しにして他者優先に生きた人など、世界史をみてもナザレのイエスの他に、数人しか思い浮かばない。ならばそうした、無神経な神経質の人も自分の痛みには敏感なのに他者の痛みには鈍感な人も何ら責められる咎はない。しかし・・・

 この人生とこの社会は何に喩えるべきかよく考える。いちばん近いように思えるのは、満員電車ではなかろうか。
 偶然乗り合わせた電車は進んでいるけれど、びっしり満員で息苦しい。肌ふれあうほどの密接なすし詰め状態の中、誰もが周囲の人たちに対して嫌悪感さえ抱いている。こんなにいっぱいの電車に乗ることなんかなかろうにと。
 しかしそれは誰もが同様であって、人生とはそうした乗り合わせた電車だと考えれば文句も言えまい。またその中では、身勝手な行動は慎んで、できるだけ大人しく融通しあい周囲との調和をはからなくてはならない。
 なぜならば満員すし詰めの中で苦しく辛いのは誰もが同じだからだ。

 そしてその車内でずっと立っている人と座っている人がいて、例えば立ち尽くして体調悪くした人がいたら、代わって席を譲るのが正しい社内マナーであろうし、各々の人生の総体である社会のあり方であろう。
 自分は幸いシートに座れたが、目の前で、気分を悪くして立たれている人がいたとしたら、妊婦や老人でなくても席を変わらねばならない。
 
 偶然にも同時代という乗り合わせた電車の中で、行きづりでも出会い多少の関わりを持った人とはそのように助け合わねばならない。自分のことだけ考え、自分にしか関心がない人はやはり間違っている。
 他の動物と人間が根本的に違うのは、そうした思いやりや助け合いという意識があることで、他者の痛みに敏感である故だ。

 むろんこんなことを書くお前こそが、どれほど身勝手かという罵倒の声が聞こえくる。しかし、聖書にある、善きサマリア人になれないとしても、もしそうした事態やきっかけがあらば人は本来誰でも困り苦しむ人に声をかけ手助けするものなのだと信じたい。

 先に「人生相談」のはなしを書いた。人は皆様々な痛みを抱えて生きている。大変でない人生なんてない。だからこそ他者の痛みに敏感でありたいし、人の話を聞きたいと願う。せめてそれぐらいは力になれるし請われたのなら応じなければならない。
 そしてこの社会は乗り合わせた苦しい満員電車だからこそ互いに思いやり譲りあい、少しでも楽に快適に進んでいくよう協力しあわねばならないはずだ。 

 途中で下車する人もいる。ただまだ我はうんざりしつつもその電車に乗り続けている。行き先は定かでない。しかし、その電車を自ら降りる気はまだない。そして身勝手な人が隣にこようと周囲の人を憎みはしない。ただ受け入れていく。それもまたお互い様だから。

 私ごとを記せば、自分の痛みに感じる程度は他者の痛みにも敏感でありたいと願っている。が、なかなかそれは難しい。しかし諦めずに心の壁に穴をあけ愛の橋をかけていくしかない。