戦争は、一方通行の戻れない道2015年06月21日 23時24分09秒

★平和憲法と立憲主義最大の危機           アクセスランキング:139位

 それにしても異常な事態である。戦後も70年の節目の年に、戦争も70年という時の流れで風化するとこういう暴挙、従来の常識ではありえない為政者の「暴走」がまかり通るのかと怒りをとおりこして感嘆すらしてしまう。
 要するに、じっさいの戦争を知らない今の政治家=「戦争を知らないバカ者たち」が、大挙して今国会で、現今の世界情勢では日本も戦地に米国と共に軍隊を出してドンパチ戦争をすることが平和への道、積極的平和主義、国際貢献だと妄言を叫ぶのだから世も末である。

 平和のための戦争なんてありえない。そんなことは子供だってわかる。子供のケンカならケンカして仲直りすることはありえよう。しかし、「敵」と戦い、殺し殺されして得た「平和」とは真の平和ではない。
 戦争は終わったとしても双方すべてが傷つき、わだかまりを持ち、子々孫々に憎しみを伝えていく。そしてことあらばまたすぐに火種に火がつき紛争は再発していく。
 戦争とはサッカーのようなスポーツやゲームではない。ノーサイドで握手して相手の健闘を讃えて爽やかに終わるものでは絶対にない。
たとえ終結しても後には怒りと憎しみと哀しみとありとあらゆる損失だけが残される。

 よく呑み屋で、居合わせた客たちが、昨今の情勢を話していると、たいてい誰かが、今の日本人はいちど戦争でも起きないことには目が覚めない。戦争に行けばどんなに戦争が悪いことか思い知るだろう、という意見がとびだす。
 我もまたそう思えなくもないけれど、そうした意見には絶対に同意できないししてはならないと自戒している。
 なぜならば、一度そうした事態へと歩を進めてしまえば、二度と後戻りはできなくなるからだ。近しい過去に目を向けても、9.11のあとのアメリカのように、次々と戦争を続けなくてはならなくなっていく。関わった戦争には当事国として戦後処理も責任を負わされる。
 そして「敵国側」はテロリストを送り込み、リベンジの機会を狙っていく。そして戦時においては、国民もまた銃後の守りを強要され、挙国一致体制に従わず反戦運動に関わった者は、スパイ、非国民として弾圧されていく。
 我が身のことを思えばそうした事態を心から憂慮する。

 国民の自由が保障される戦争も安全な戦争もこの世にはありえない。戦争が起きるときは、常に世界の安定と平和のために、とか、国家自衛のため、国民の命と財産を守るべく、とか大義名分が語られる。
 しかしそれすらも専守防衛ならまだ許されたととしても、わざわざ米国と一緒になって世界の果てまで、後方支援だが何だかしらないが、戦争に参加する必要なんてどこにもない。

 戦争とは戻れない道。いちどその河を渡ってしまえば二度と引き返せない。まだ戦争は起きてはいない。しかし、世界のどこでも戦争に参加できるよう法律を変えてしまえば、その法律は効力を発する。
 憲法九条は何のためにあるのか。自ら政治家たちこそが憲法の上に立つと自認するほど驕った奴らは、ひとたび戦時が起きれば憲法は現実に即さないから破棄して新たに新体制に合わせた憲法を作らねばと声高に叫ぶだろう。
 自らが立憲主義を否定し、詭弁を弄して解釈を変更し戦争法案をやみくもに成立させようと自公、そしてそれに手を貸す維新の政治家たち。
 彼ら政治家たちは実際に戦地へは行かない。そうした法律をでっち上げ戦時体制へ国家の道を進めただけだ。そのことは真に罪深い。自衛隊員は成り手がなく、やがては徴兵制が必ず実施される。
  自分にも子供はいないが、安倍ご夫妻に子供がいたら、彼らはその子や孫たちを戦地に送る覚悟はあったのか。いや、たぶんきっと何も考えず、アメリカの言いなりに、唯唯諾諾従うことこそが日本という国のあり方、国家反映の道だと心底から刷り込まれているのであろう。彼が敬愛する祖父はアメリカに政治生命を救われ傀儡であったから。

 戦争こそ、人類最大の犯罪であり、その狂気は人心を、環境をむしばんでいく。それ故に戦後日本人は、たとえアメリカから押し付けられたとしても不戦の誓いが記された平和権法を大歓迎し長いあいだ自民党すら受け入れてきたのだ。それを一内閣が勝手に集団的自衛権の解釈を変え戦争国家に戻そうとしている。

 その過去の経験から学んだことを、戦争を知らない子供たちやそのまた子供たちである今の日本人が解釈変更容認して、再び戦争への道を進む愚を繰り返しては絶対にならない。

 世界には紛争が絶えず、無法国家は存在している。だからこそ、そこに兵器と軍備で駆けつけてしまえば火に油を注ぎに行くことだとどうしてわからないのか。