善きサマリア人でありたいと2015年06月22日 22時33分47秒

★忙しくとも求められればこそ、縁あらばこそ       アクセスランキング: 133位

 あれこれ家のこと、私事を抱えて多事多難のマス坊である。コンサートに向けてチラシも作って練習もしないとならない。やるべきことは山ほどあり、果たしてその期日迄に間にあうか頭痛いが、今日は「人生相談」を受けにお茶の水まで出向いてきた。

 先にちょこっと記したが、先日偶然喫茶店の隣の席で声かけられ、知り合った建築家の先生から、音楽を志している教え子にアドバイスというか話に乗ってやってくれと頼まれ、双方の日程を合わせて会ってきた次第。建築家の方とはこれで二回目、むろんその若者とは初対面である。

 そもそもそんな相談に、プロのミュージシャンでもなく、その業界の人間でもないまったく無名の自分が、相談に乗るも何も話を聞くこと自体がセンエツの極みと思うが、それもまた何かの縁であり仕方ない。で、臆面なく行ってきた。バカで無責任でもあるからだろう。
 役に立たないとは前もって承知いただいてともかく会って2時間話してきた。真面目な好青年で、彼の話を聞くというよりもかなり一方的に、音楽やうた、それに関わっている人たちについて知っている限りのことや私的に思い考えていることなど話してきた。彼の悩みというか相談事はプライバシーもあるのでここでは書けない。

 さんざんあれこれ話したものの、果たして彼の心に届いたか、少しでも何か参考や考えるきっかけになれたか正直まったく自信がない。しかし、彼のことはともかく、そうした話す機会を与えられたことで、こちらこそが、改めて何をどうすべきなのかいろいろ気づき考えもまとまってきた。有難い機会であったと今思い返している。話したことをまとめれと。

 まあ、要するに何か思いやこころざしあらば、ともかく行動してアクションを起こしカタチにして他者に示さねばならないということだ。
 どんな立派な願いや思い、素晴らしいアイディアを持っていても、それが内心にあるだけでは誰も認めもしないどころか相手にもしてくれない。何故ならそれは見えないし伝わらないからわからない。
 たとえそれがどんなに大したことでないとしても自ら好きで信じ続けて行けばやがては他人にも知られるようになるし注目もされる。何事も上手い下手は関係ない。ただ本物か偽物かどうかだけだ。
 売れる売れない、有名無名ということだって、決して良いから売れたとか売れないのは悪いからだと限らない。運不運も大きいし、自らの努力だけでどうにかなるものでもない。
 ただ大事なことはとにもかくにも続けていくこと。慌てず焦らず諦めずやり続けていけばそこに必ず良い結果が生まれる。

 そんなことをこの無名かつ非力な、それこそろくに収入もない、明日の糧の心配すらしている男がしたり顔で若者に説いて来た。しかしその話したことは間違いなく正しいと信じているし、今の自分にも課していることだ。
 そしてダメ人間だったからこそ、そうして失敗人生を長く送ってきた者だからこそ、未来ある若者には同じ轍を歩んでほしくないし、堅気でない人生を送るならこそ覚悟を決めてとことん本気で何事も取り組んでほしいとアドバイスした。

 アリとキリギリスの寓話の、キリギリスの人生を送ってきた者として、それはちっとも悪い生き方でないと信ずる。が、ならばこそキリギリスはその「うた」を極めなければならなかったと気づく。面白おかしく遊んで暮らすのはそうできるのならそれもまた良し。いずれにせよ老後のつけは自らが払うのだから。
 しかし、遊び暮らすのでもとことん本気で真剣に生きなければならないのだと今にして気づく。もし音楽が好きだと思い、そこに自分を見出すとするならば、できる限り真剣に取り組むべきではないか。
 さすれば、冬が来たとき、困ってアリに請い頼むとしても、代わりに熟練のうたや演奏を示せばアリたちも喜んで巣穴に招いてくれるであろう。

 アリの生き方もちっとも悪くない。アリの人生が正しくてキリギリスの人生が悪だというわけでもない。アリだってアリにはアリの屈託や悩み後悔のようなものは抱えているだろう。ならばそれぞれが持っているもので分け合い助け合うしかないではないか。
 キリギリスのうたは、退屈な刺激のないアリの生活の慰安になるかもしれない。ならばキリギリスの人生だって決して独善的無意味ではないであろう。

 ナザレのイエスは、汝の隣人は誰かと問われ、喩え話を出し、当時のユダヤ人と敵対し口も利かなかったサマリア人だが親切な旅人の例を示した。道に倒れ負傷し困っている人を助けた行きずりの善きソマリア人にこそ正しく倣うべきだと。
 じっさいの話、人は誰だってそこまで他者に対して、まして赤の他人に対して親切にはなれない。しかし、せめて請われれば話を聞き、助言以前にこちらの思うところを話すことぐらいはできるしすべきだと信ずる。だからこれからも忙しくてとも請われ頼まれたことは何でもしていく。

 まあ、その結果、相手は失望し、接する相手を間違えたと後悔するときもあろう。しかしそれすらも反面教師として役に立ったのではないか。人は嗤うであろうが、我もまた少しでも善きソマリア人でありたいと、倣いたいと心底から思う。むろん、やがてはとてもそんな余裕がないときが来るだろうけれど。が、そのときはそのとき、汝思い煩うなかれだ。