父母の恩、友の恩、皆さまの恩に報いていく2015年07月13日 08時31分07秒

★切り立った山道を落ちぬよう転ばぬように

 慢性硬膜下血腫という病気は、頭を打ったことで、そのときは瘤が出来た程度でもじょじょに少しづつ頭蓋骨の中で、出血が始まりそれが溜まって、やかでは脳を圧迫して手遅れとなると死に至るのだという。
 ただ、老人の場合、本人も周囲も含めてどこでいつ頭を打ったのか特定できないことも多く、症状も見逃されてしまい悪化してしまうようだ。

 執刀した脳外科の医師のはなしだと、画像を見る限りこれだけの量が溜まるのは最近起きたものではなく、おそらく2,3週間前に起こったらしいが覚えはあるかと言われても思い当たらない。
 ただ、告白すれば、このところ食事時などは抗う父ととっくみあいの喧嘩のようなこともしたこともあったから、もしかしたらそのときに起きたのかもしれない。もしこれで、父が死んだらばこの俺が殺したことになる。

 その晩はベッドに入ってもほとんど眠れなかった。発見が早かったこともあり手術じたいは、頭に穴を開けて溜まった血を抜き取り、またふたをして後は本人の回復を待つだけという簡単なものであった。が、歳も歳なので、果たしてこれまでの生活が送れるかわからないし、一度圧迫された脳が元通りに戻るのか保障できないと。じっさい何が起こるかわからないとも。

 最悪の場合、父の死を思い、ほんとうに困ると今さらだが思い至った。もう九十なのである。頑健な人だとしても本当は生きているだけだって難しいことだったはずだし、いつ死んだってちっともおかしくなかったのだ。
 だのに、家族も含めてまったくそうした事態を想定も準備もろくにせずに、日々の生活だけにただ追われていた。すぐ傍らにいた「死」についてまつたく目もくれないで、一日ごと、ひと月ごと、一年ごとただ漫然に生き日常生活に追われていた。
 父も母もいつ死んでもおかしくない状況なのに、愚かにもその準備もまして覚悟も何もできていなかった。かといって、彼らがあと何十年も生きるなんて思っていない。ただ、すぐそこにある危機についてあえて目をつむり、忙しさにかまけて考えないようしてきたのだ。
そしてむろんのことご当人たちは、自らが死ぬことについては、常に無自覚であった。さすがに癌再発が告知された母はともかく、父などは自分が死ぬなんてあの戦地から帰還して以来真剣に考えたことなどないに違いない。まあ、人はそうしたもので「死」は常に他人事なのだから。

 自分にとって父に今すぐ急に死なれると困るのは、自分の生活設計が大きく変わることもあるし、喫緊の予定にも影響が出るなどということもあったが、それよりも父に対して何も返していないことが悔やまれた。
 父の手帖には、息子である我が頭を打って病院に行ったことがメモされていた。何だかんだ不仲のようでも親ゆえの心配してくれていたのだった。有難いではないか。

 そして、こうも考えた。自分が頭打って、脳神経外科でCTを撮り、無事を確認した翌日に父が同様にCTを撮り、この病気を確認したという事態は、父が息子の身代わりになってくれたのだと。
 じっさいのところ、この二つの事件は時間も前後し無関係のはずだ。父の場合は、もう三週間も前にどこかで何科の原因で頭を打ったことに端を発している。そして自分は7月5日だ。
 が、やはり、本来は頭打ってかなり危険な状況にあったはずの息子に代わって、老いた父が身代わりとなってこうした大変な事態を引き受けてくれたのだと。
 その親の愛にちっとも気づかず、まだ何のお返しもしていない。振り返れば、介護の名を借りて、親の面倒、世話するといいながら時に激高し虐待のようなことすらしてきていた。男同士、若い頃から性格が合わず家庭内で主導権を握るべく、若いときからずっとケンカばかりしてきた。
 彼も息子を否定し息子も彼をバカにし母が嘆くように顔つき合わせばケンカばかりの犬猿の仲であった。しかし、親は子を愛し常に案じ心配してくれていたのだ。
 そして今回、愚かな息子に代わって父は倒れ頭の手術を受ける。これは、どういうはからい、メッセージであろうか。

 もう泣きはしなかったが、ともかく悔いた。これまでの行いを呪った。そして神に祈った。どうかもう一度だけチャンスを与えてください。父が家に戻り、共にもう少しだけ生きられるようにと。

 これからまた病院に行く。戻ったら書きたしたい。