神の大きな愛に抱かれて2015年07月19日 23時46分20秒

★生かされて今があるのだと。

 すごろくなどに、振り出しに戻る、という言葉がある。このところの私マスダ周辺のもろもろの出来事はともかく終わったという気持ちになった。大変なときはやっと過ぎたという気がしている。
 そして元通りというか、振り出しに戻った。我についてはまだふらつきは残っててやや身体的には辛いが、無理しなければこれからもやっていけると思えてきた。その自信のようなものも戻った。

 そして父についても脳もほぼ元通りに回復した。前よりややロレツが回らず言葉は不明瞭だったり、記憶があいまいなところは多々あれどもまあ、以前の認知症のレベルに戻った。九死に一生を得たという程ではないが、九十歳という年齢を思えば驚異の回復力だと感心した。やはり戦地に行って無事帰国できた帝国軍人は根本が頑健なのだろう。

 7月25日の谷保かけこみ亭でのマスダ企画のコンサート成功に向けて、出演者と会い、打ち合わせしたり、メールでのやりとりが慌ただしい。主催側が言っても効力ないかもしれないけれど、このイベント、実にユニークで間違いなく面白くなる予感がしてきた。

 というのは、コンサートのコンセプトに沿い、各実力派ミュージシャンたちがこの日のために、反戦歌、労働歌の名曲の数々をそれぞれ練習し唄いこみ当日披露してくれることとなった。
 「死んだ男の残したものは」「死んだ女の子」「ベトナムの空」「がんばろう「戦争は知らない」」他、今ではもうあまり唄われることの少ない、反戦フォーク、労働歌の名曲が、25日のそのコンサートで新たな解釈で蘇ることとなる。
 企画者冥利に尽きよう。後は先の阿佐ヶ谷でのイベントのように、仕切りを誤ることなく、当日もたついたり混乱することのないよう、万全に事前の手配をしておくことと、観客の入りだけが気にかかる。

 さておき、今回のイベントのトリを務めて頂くことになっている、ソウルブラザーズの五十嵐氏のメールにも、私マス坊の頭のことを心配している旨があった。
 彼からの情報によると、我マス坊は、あの両国江島神社の社殿廊下の「らんかん」に座っていてバランスを崩し?頭から?下の石敷いた地面に落ちたらしい。高さは2メートルあるかもしれない。思い浮かべただけで怖くなる。ぞっとする。

 当人が言うのもおかしいが、それでよく生きているというか、無事なのが不思議でならない。死なないまでもそのまま救急車で搬送すべきであろう。だからそれ以降、まったく記憶が空白の部分がかなりあるのである。一時的でも記憶喪失となっていたのだろう。だから「発狂」したとは言い訳にしてはならないが。
 本当は死んでいても、あるいは半身不随となったとしてもちっともおかしくない。つくづく運がいいというべきか、強運、幸運に違いない。

 いや、そう考えてそれだけのこととしてはならない。死ぬべきところをそうならず助けてくれたのは誰で、どういう意図があってのことか深く考えねばならないと思う。
 病んだ老親を抱え、さらにまだ果たせぬたくさんの思いと中途半端なけんあんのことを山積みにしていた我が、ここでそのまま死ぬのはあまりにも忍び難い、哀れと思ってくれた神さまがいたのだ。そう信ずる。
 今ただただ有難く思うのは、神のその大きな愛であり、ご加護あったという喜びだ。そしてこんな愚かな男をも生かして頂いたならば、その愛に報いなくてはならぬ。もうこの先はないと思え。

 有難い、有難いと何度も書くが、この有難いとは、まさに字そのままに、有ること、在ることが難い、つまり難しいとか困難だという意味で、本来なくて当然なのに有難いこと、をして頂いたという思いで記している。ゆえに有難いと思うのだ。
 ほっとしている。深い感謝の念がわいてくる。

 だらしなく、のほうずに、まさに破滅的に半世紀以上、無頼漢のように生きてきた。考えみれば何度も自らも死に瀕し、他者を死なす一歩手前のこともしてきた。まさに罪深い人生だとつくづく思う。

 が、見捨てずに常に見守りときにおいて救い助けてくれた方がいたのである。人はその方の姿に似せて作られたと創世記に記してある。ならば、その愛に報わねばと今更だが思う。全てを委ねて生きていく。我欲に満ちていた自分の人生なんてもうどうでもいい。

 振り出しに戻った。もう何も怖れない。大きな愛に抱かれ迷わずに生きていきたい。