人はどう死ぬか、どう死んでいくか2015年08月05日 21時51分07秒

★人生でいちばん暑く熱い夏に    アクセスランキング: 102位

 記録的猛暑が連日続く。皆さんご無事か。

 今、夜の9時過ぎ、室内にいた犬たちを外に出そうと玄関を開けて軒下につるしてある寒暖計を見たらまだ30度以上ある。外はもわーんとしてちっとも涼しくなっていない。
 仕方なく今晩も犬は家に入れることにして、ごく簡単に町内をぐるっと散歩させてきた。戻る頃にはそれだけで汗が拭き出しまた冷たいシャワーを浴びてこれを記す。おそらく今年の夏は観測史上もっとも暑い夏となるに違いない。
 
 あれから自分の体のほうは、ひどいメマイはないものの、ふらつき、立ちくらみは日常的で、鈍い頭痛もずっと続いてる。が、その原因も前と同じかというと、あまりの暑さから来る熱射病の軽いものなのか、冷房つけて寝ることによる体調不良からなのかもう何がなんだかわからない。ふらふらしてても吐いたり動けないほどでないからもうこれは持病として付き合っていくしかない。

 ただ、この猛烈な暑さの中ともかく生きているだけでやっとという思いでいる。そして親や犬たちもやっとの思いで何とか無事に生かしているという状況だ。ともかく生きてこの危機を乗り切るだけで精いっぱいで何一つできなくても仕方ない気がしている。
 どうか皆さんも無理せずご自愛くださいと祈るしかない。

 さて、前々回ちょっと書いたことの続きというか補足的なことを。

 人は誰でもどう生きるか、生きていくかは考える。特に、若いころは「人生」について、どう生きるか、何をすべきか将来のことについて思い悩むはずだ。
 しかし、どう生きるかについては考え悩むが、どう死ぬかについては普通は人はまず考えない。むろんいろいろ身辺に悩みを抱えて自殺を考えている人は別として。
 まあ、若い時はそれが当然で、今を生きることだけで手いっぱいで死ぬことも死に方についても考えるほうがおかしいかもしれない。 死と若さは本来無縁であり、よほどのことがない限り意識することはない。かつての自分もそうであった。

 それが歳と共に、老いて自らの周りに「死」がしだいしだいに氾濫してくると、かつては非日常であった死は、日常的なものになってきて、人は自らの「死」についても意識し考えるようになっていく。
 どう生きるか、ではなく、どう死にゆくかと。

 そして友人知人、肉親の死も含めて、他者の死のカタチから、自分はどう死ぬか、いつ死ぬかもあれこれ考えてしまう。まあ、世の中には、自分だけは絶対に死なないと思い込み、いや、そもそもそうしたことすらも無自覚に、頭から「死」は意識的無意識的に払いのけて能天気に日々生きている人も多々いる。それこそ健全かとも思える。

 しかし、身近に死にゆく者がいたり、大事な人を死で喪ったりすると、嫌でも死に向き合うがゆえ、生き方ならぬ「死に方」について考えざる得ない。
 
 死に損なったからではないが、このところずっと死に方についてあれこれ考えている。理想的生き方がもしあるならば、理想的死に方も当然あるかもしれない。我はどんな死に方をしたいか。いや、そもそも死に方など考えたとして生き方のごとく選べるのだろうか、むろん自殺ではなく。

 不慮の何らかの事故死や、殺人などの被害者となるのは論外として、人はほぼ全員何らかの病気で死ぬ。あらゆる癌や肺炎、脳梗塞、心筋梗塞、その他様々な病気で人はたいてい病院で死ぬ。若くして病気で死ぬ人もいるが、たいていは老いて病んで衰弱して死ぬ。
 老いと病気は密接な関係があるとか以前に、表裏一体であり、老人が病気にやたらかかるのは、肉体そのものが経年疲労を起こしすべての機能が衰えたがゆえ病気にかかることは間違いない。若者は病気にかかる率は少ないのでわかる。そして老人の病気は治ることは少ない。結果としてその病気で死んでいく。

 昔から古い車を長く乗ってきて思うのだが、人も車もまったく同じだとよく考えせられる。あちこちに不具合が起きて定期点検のつど、ここもあそこも取り換えた方が良いと修理工場の人から言われる。じっさい中を開けて見てみると、赤サビや腐食でボディからしてかなりボロボロである。
 それでも不具合の起きてきたパーツを取り換えれば、まあ問題なくまだ動く。そんなふうにして手を加え調整しながら古い車でも乗り続けられる。が、人間はそうはならない。せいぜい白内障で眼内レンズを交換できる程度で、後の部位はどんなに悪く限界になっても交換がきかない。結果して不具合が起き、薬や外科的手術で何とか抑えたり調節したりするが、最終的には体のエンジンとガソリン、つまり体力・気力もなくなりオシャカとなるのだろう。それが人に限らず動物の死だ。

 ならば人の意志ではどうすることもできないのか。老いて病み弱って最後はただ死んでいくしかないのか。いや、人は他の動物とは違う。死すらもコーデュネイトできるのではないか。他者の死も自らのも。
※長くなったのでまた書き足したい。

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