八月は慰霊の月2015年08月12日 19時34分04秒

★死者たちの声に耳をすまそう                アクセスランキング: 位

 八月は慰霊の月だとつくづく思う。
 世間は今お盆休み。お盆とは説明するまでもなく、戻って来る死者の霊を供養するセレモニーだ。
 そしてそのお盆のある今月は、日航機墜落事故、そして広島、長崎の原爆忌、そして終戦記念日と死者たちと向き合う慰霊と鎮魂の日が続いている。
 原爆や終戦は直の戦争験をしていない者として、亡くなられた方々との距離はやはり大きい。しかしだから他人事とか無関係ではなく、彼らの死が礎となって、戦争が終わり平和が戻り、そして父と母が出会い自分が生まれ今生きていることを思うと本当に有難く思える。
 彼らの犠牲の上に今の日本社会は成り立っている。ならばその代償としての平和を末永く大切に保ち続けなくてはならないはずだ。

 どのような理由や理屈をつけようと、戦争ができるように法律を変え、戦時体制を整えてしまえば、それは抑止力とはならず平和構築のための戦闘を後方から「支援」しようが、敵国からすれば「参戦」に他ならず、攻撃をうけ応戦し再び戦争国家日本に戻る。死者たちは浮かばれない。再び新たな戦死者が生まれてしまえば、まさに彼らの死は犬死、無駄死にとなってしまうのだから。

 安倍晋三は、隣家の火事を譬えにして安保法案の必要性を訴えていた。しかし、火事ならば火を消せば解決する。大いに消火のため応援に行くべきだろう。
 戦争は火事ではない。一度関われば即燃え移る。その火の粉はこちらにも降りかかって簡単に消せなくなる。そしてあちこちに飛び火する。関わらないに越したことはない。それでも関わるときは「絶対安全」などと詭弁を弄するのではなく、国民にきちんとリスクを語り、もう一度選挙で「戦争法案」について信を問えば良いではないか。

 火中の栗を拾うという諺がある。安倍晋三がやろうとしていることはまさにこのことで、しかも栗を拾いに行くのに「油」を、つまり武器弾薬も持っていくのである。そうなればどうなるか。まさに火を見るより明らかだ。もし、火は消せたとしてもあまりに失うものが多すぎるのではないか。何人の自衛隊員と民間人が死ねば平和が訪れるのか。

 よく、国際社会の一員として日本も派兵を求められている、紛争解決のため国際貢献として当然のことだとほざくバカがいる。が、ナザレのイエスは二千年も前にこう言っている。
 すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり、と。

 日本が紛争解決にあたりすべきことは日本国憲法に則り、武力を用いず解決の手段を誠心誠意模索していくことだ。戦後日本の繁栄と発展は、70年間戦争をしなかったが故もたらされたと世界に示せ。
 戦争には勝者はいない。正義の戦争などない。正しい殺人もありえない。それを認めた者は、殺し殺され、地獄の業火に焼かれ続けるであろう。