10月に入りました。2015年10月01日 08時06分51秒

★今年も残り三か月、心引き締めて

 朝からカラッと晴れて冷たい北風が吹いている。秋もたけなわ、の候なのだが、体感的には晩秋、初冬といった厳しい寒気が来ている。今年は冬が早いかもしれない。
 あんなに暑かった夏のことがずいぶん昔に思える。まだ一か月前のことなのに。青空を見上げ流れる白い雲を見ていると様々な感慨がわく。今年の夏から秋はいろんなことがあったなあ、と。哀しみは去ったけれど無意識に涙が頬をつたう。
 
 老いた者が誰もが感じることだろうが、それにしても時間の経つのが早い。ぼうっとしていると一週間はあっという間だし、一週間があっという間なら一ケ月も同じで、一年だって気がつけばもう残すは三か月となってしまった。
 それを言うならば10年だって同じことで、ついこの前だと思っていたことがいつしか10年過ぎていたり、ましてこのところ若い時のことを振り返れば、いつの間にか40年も前のことになっている。記憶の中ではついこの前のことなのに、気持ちはその頃と何も変わっていないのに、時の経過の速さに心底驚かされる。

 その頃のこともやがてすぐに50年前、半世紀も前のことになってしまうだろうし、ならば60年前、70年前だって同様のことだろう。
 そうして大昔のこととなったのに、記憶の中では、オンリー・イエスタディのこと、つまり、つい昨日のようなこと、昔のことをたくさん抱えて人は死んでいくのだろう。
 ならばこそ、大切なのは、その中での日々一日一日を、丁寧に確実に、大切にして生きなくてはならない。

 若い時ならば、人との縁もまたいつか、と適当に放擲しておくこともかまわない。が、まず自らが老いて来て、まして相手も同様の身ならば、またいつか、そのうちなどないのである。いや、縁あらば互いに生き永らえてまた出逢い、何かが始まることもあるけれど、その可能性は若い時に比べて格段に少なくなる。
 もうこれからは全てのことはこれが一期一会、永遠の別れだとの覚悟を思い定め丁寧に、大切にして関わりを持っていこうと今思う。

 喪に服すというわけでないが、今月はしばらくできるだけ出かけず家に籠って、夏の間のあれこれ出歩いたり多事にかまけて溜まってしまった「けんあんのこと」などを片付けたいと考えている。
 この秋は友人知人多くのシンガーから、大小さまざまなライブのお誘いを受けている。どれも彼らとの縁を思うとき、顔出して観客として応援しに行かねばならないのだが、土日ごとでもそれをやっていると、また全てが溜まる一方でちっとも自分のことが進まない。
 お世話になっている人のライブなのだから、行けば喜ばれるだろうし行かねばならぬ、行きたいという気持ちは強いけれどもあえて今は控えようと思っている。
 他者に誠実でなくてはならないのは当然のことだが、まずその前に自分に、自分のしてきたことに誠実でなくてはならないのではないか。

 先だって、若い時からの「師匠」が上京され、いちおう彼には弟子としての務めは果たし終えた、気がしている。他人から見ていろいろご批判はあるかもしれないが、申し訳ないがこれは二人の関係であって、まして自分の思いでしかない。

 若き日に手ほどきを受けた酒や漫画の師匠にはとりあえずの恩返しが成ったとしたならば、次は約10年前に知己を得た京都の「詩の師匠」である。翁二さんよりもさらに高齢で、我が親世代の方なのだから、一日も早くけんあんのことを片付けカタチにしていかねばならない。
 気がつけば、阿佐ヶ谷の詩とフォークのイベントから一年が過ぎようとしている。これ以上その「成果と結実したもの」を先延ばしににしてしまえば、機を逸すばかりでなく、御大そのものが亡くなられる可能性もある。もう待ったなしだと今さらながら気がつく。焦る。のんびりしすぎた。

 ゆえに今月はまず「そのこと」に全力で取り組み、作品完成までの道筋だけはつけたいと考えている。友人シンガーたちには不義理となるが仕方ない。我の時間と処理能力には限りがある。何はさておきまず有馬さんとのけんあんとのことだ。
 今月内にそれぐらいできないとしたら、もうこのプロジェクトは達成不可能だと見切りつけるしかない。それこそ自らにだけでなく関係してくれた他者全てに不誠実なことであろう。ならば最初から企画実行すべきでなかったということだ。そうしてはならない。卑小な我でも誠実さを示さねばならない。

 むろん今月も親たちを山梨のラジウム温泉に連れて行ったり、あれこれ家事雑事はいくらでもある。また、反安保法の集会やイベントには可能な限り参加していく。求められればどこでもギター持って駆けつける。さらに、我で良ければ、どなたとでも話や相談など請われれば万難を排して出かける。話や悩みをお聞きしたい。誰かの力になりたい。

 忙しいとか慌ただしいことは絶対に言い訳にしない。ともかく一日一日、一つ一つ、今日を限りにきちんと丁寧に生きていく。
 今まですべてを曖昧に中途半端にほったらかしにしすぎた。悔やむより実行あるのみだ。

ショックな事実、出来事をどう受け入れるか2015年10月02日 08時38分36秒

★未だ「悲しくてやりきれない」

               【悲しくてやりきれない】   
               詞 サトウハチロー
               曲 加藤和彦
               唄 ザ・フォーク・クルセダーズ

胸にしみる 空のかがやき
 今日も遠くながめ 涙をながす
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 このやるせない モヤモヤを
 誰かに 告げようか

 ペットロス症候群なる心の病があるとは聞いていたが、どうやら自分もそれにかかったようだ。起きてしまった事実をようやく現実のこととして受け入れられるようにはなったが、気がつくとその死んだ猫のことばかり考えて「今日も遠くをながめ 涙をなが」している。まさに、悲しくて悲しくてとてもやりきれない。

 睡眠薬はやめたので、夜は3時ごろまでベッドの中であれこれ悶々としている。こちらを気遣い暖かい慰めのメールを送ってくれた方も多々おられて大変有難く思うが、その猫の在りし日について書かれた部分を読んだり、あんなに可愛い人懐っこい良い猫だったのに・・・実に残念です、と記してあるとまたまた涙が止まらない。
 私事で友たちにいらぬ心配かけお心づかいに深く感謝すると共に申し訳なくも思うが、やはり時間だけがこの哀しみと永遠の別れの辛さを癒すことができるのだと気づく。いずれにせよ今も憤懣のようなやるせなさはずっと続いている。何でこんなことになったか、だ。

 人はこうした突然のショックな出来事に遭遇するとどういう心の変化を示すのか。癌、それも手遅れで死の宣告を受けた患者たちの心の変遷をまとめた資料をみてみた。
 日本でもその著名な精神科医キューブラー・ロスの『受容のプロセス』によると、その告知を受けて以下のような心の変遷、プロセスをたどるとある。
1.否認と隔離
死が近いと知ると非常に大きなショックを受け、「そんなことありえない!」「何かの間違いに決まっている」と否認する。また、孤立してコミュニケーションを避けるようになる。

2.怒り
「どうして私だけがこんな目にあわなければならないの!」「なぜあの人は元気なのに、私だけが!!」というように怒りの感情が噴出する。そして、見るもの聞くもの、あらゆるものに対して怒りを感じ、その感情を周囲にもぶつける。

3.取引
何かを条件にすることで、延命や回復の奇跡を期待する。神にすがったり、何かのよい行いをすることで奇跡を得ようとする。「もう一度だけ○○ができれば、運命を受け入れます」などと、期限を条件に願いをかけることもある。

4.抑うつ
死を避けることができないと知り、さらに病気の症状が悪化して衰弱してくると、絶望的になって非常に強く落ち込む。命とともに、築いてきたものをすべて失う喪失感が襲い、悲しみの底に沈む。

5.受容
体は衰弱しきり、感情はほとんどなくなる。誰かと話したいという気持ちもなくなり、自らの死の運命をそっと静かに受け入れ、最後のときを穏やかに過ごそうとする。
※参考サイト『余命、障害…ショックな事実を受け入れる心の変遷』http://allabout.co.jp/gm/gc/376132/

 これは、自らの「死」をどう受け入れていくか、その心の流れを時間軸で追ったものだ。だからペットも含めての他者の死とはいくぶん異なる。
 特に、もう起きてしまったことの場合、3.の「取引」もしようがない。ただ心の流れは基本的にはさほど変わらないと思える。
 
 まず、1.の否認と隔離だが、その起きてしまった「出来事」をどうしても認められず、パニック状態となる。また、通常の人間関係も維持不可能となる。誰とも会いたくないし関わりを持ちたくなくなる。
 そして、2.のように、その苦しみ、悲しみ、悩みを誰かにぶつけたくて怒りに転嫁しようする。今回自分の場合もTという人のせいで、猫は事故に遭い死んだのだと結果の「原因」を作ろうとした。そうしないことには心が収まらなかった。
 そして4.抑うつ期。絶望と喪失感で、落ち込む。なかなか立ち直れず心身ともに不調をきたす。今の我はこの時期かと思う。
 そして5.の受容、までまだ時間はかかるだろうが、全てを受け入れ頭でなく心でも理解し起きたことを肯定しなくてはならない。

 神を求め信ずる者として、すべては御心のままなのだと理解はしている。ならば起きたことは全て認め、受け入れていくしかない。むろんのこと今回の件では大きなことを学び得た。愚かにもようやく「心」というものを深く見つめ直す機会を得た。すべては神の計らい、神の意思なのだとも思える。だが、まだとてもそれは「良いこと」だなんて思えない。

 あんな小さな、短い命ではあまりに可哀想ではないか。たとえ動物でもこの世に生を受けたからには精いっぱい生きて幸福になる権利があるはずだと思う。あの猫はそれを享受したか。猫の人生満足したのだろうか。
 かなわなかった思いはともかくも、してあげられなかった思いが今も苦しく心を責め続ける。まさに後悔先立たずだ。
 どうかもう一度生まれ変わって、我家にまた帰って来てほしいと今も真剣に祈っている。
 もう猫は飼わないだろうね、と言ってくる人もいる。とんでもない。この世に不幸な居場所のない犬猫たちがいる限り、我は足腰が立たなくなっても飼い続ける。それこそが全てを受け入れ神の御心にかなうことだと信じて。
彼らは無償の愛で多くのものを与えてくれた。ならば人はその恩に報いるべきであろう。愛に返すのには愛で報いるしかない。

心の置き場所2015年10月03日 22時36分59秒

★さあ、次へ進まねばならない。             アクセスランキング: 121位

 いつまでも鬱々としている暇はないのだが、不眠症気味となってしまい、夜はなかなか寝付かれないのに、朝は毎度のこと早起きで寝坊もてきず、睡眠が足らず頭痛とめまいで体調悪い。まったく情けない限りである。
 が、ようやく猫の件は心落ち着いた。ただ今も憤るような怒りに似た感情は続いていて、誰かを憎むとか対象があるわけでなく、ともかく全てをもう一度きちんとやらねばと、もうそれしか術はないのだと自らに言い聞かせている。身勝手なバカとは付き合わないし、相手にもしない。
 人からどう思われようとどう扱われようと、何を言われようと一切関係ない。今まですべてを曖昧に、中途半端にしてきたからこんなことが起きたのだと、過去の自分に対して怒りがふつふつと湧いてくる。それはやさしさなんかじゃなかった。単に臆病で卑怯だったのだ。全てに誠実でないのだから卑劣であったと今にして思う。
 これからはどんなことにも逃げずに毅然と立ち向かい対処していく。どんなことでもはっきりさせていこう。

 自分の人生なのだ。自らが一切の責任を持とう。人に頼ったり任せたり願ったりするのはもうやめた。今までは全てに甘すぎ甘えすぎた。
 残りの人生が何年、何十年果たしてあるのかわからないが、自分の責任においてとことん満足納得して生きていきたい。他者には求めないしその都合には振り回されたくない。むろん我に求め請われればできることは何でもする気は変わらない。それは人としての務めだから。しかしそれすらも無償の愛で常に応えるのはもはや難しい。
 ギブ&テイクなど要求はしないが、まずは、何であれ我が身の道筋をつけてからの話だろう。自らの尻も拭けないやつが他人様のことをどうこうできるはずもない。その力と余裕がなければ双方共に失墜してしまうのは目に見えている。
 ともかくまず全てをきちんとさせていく。

 さておき、心というものは実に不思議だと気がつく。ようやく死んだ猫のことも哀しみという感情のファイルに収めることができた。
 当初は起きてしまったことが受け止められず、どう心を処理してよいものかパニックとなった。今は、心の中の過去の出来事、記憶という大きなフォルダの中にいくつもある、楽しさ・喜びの思い出、辛い・失敗の思い出、怒りや憎しみの思い出、そして不幸や哀しい出来事の思い出とというフォルダにキャラコもしまうことができた。
 むろんそこを開けば、つまりその記憶を思い出せば他の哀しい別れと共に哀しみの感情はいくらでもよみがえる。が、そこを開いて、いつまでも哀しみにひたっていても何一つ解決しないし先へも進めない。時間は二度と戻らない。取り返しつかない。

 そう、哀しみにいつまでも沈んで鬱々としていても死者たちは喜ばないだろう。それよりも早く元気になり、前向きに人生を謳歌してこそ彼らの供養にもなろう。むろん、今回のような失敗、失態は繰り返さないと誓って実践してのことだ。
 死んでしまった者たちのためにも生きている者はしっかり生きていく。彼らは肉体は消えたととしても今もしっかり記憶の中で生きている。いや、魂は常に存在している。愛し、愛された彼らを知る者たちが生きている限り死者たちもずっと心の中で、記憶の中で生き続けている。

 そして今世では別れてもまた必ず会うことができる。肉体は生きていても老いて朽ちるが、その魂は朽ちることはない。淋しくないとは言わない。ならば淋しさは淋しさのまま抱えつつもその思い出と共にしっかり生きていこう。

夫婦とは赤の他人2015年10月05日 04時08分07秒

★他人だから共に暮らせるのだと知る       アクセスランキング: 140位

 自分の中には常に怖れと不安があり、普段はあまり意識しないし問題でないと思っているが、何か事において精神的ショックを受けるとそれが噴出しなかなか収まらなくなる。それは父から受け継いだものだ。
 
 つくづくこのところ思うが、夫婦とはそもそも赤の他人なのである。親と子は、そこに血縁的、遺伝子的深い関係がある。他人ではない。が、夫婦はそもそも最初から最後までそうした関わりがない他人同士であって、考えてみるとよくそれで共に生活できるものだと感心すらしてしまう。ある意味気持ち悪くすら思う。生まれも育ちも異なる赤の他人と暮らすなんて。

 こんなことを考えるのは、猫の突然の死など家庭内におけるショックな事件を受けてのことで、父などはその後もなかなか立ち直れずかなり憔悴しきっているが、母に至っては当日もあっけらかんとしてさほどダメージは見られない。人一番感激屋でテレビ、映画など見てはすぐ涙する性格の人がどうして愛猫の死にさばさば恬淡としていられるのか訝しく思うが、昔からそういう人で哀しみは引きずらない性質(たち)らしい。
 ちなみに母と我は同じ血液型Bであり、父はO型の典型的で、むろんのこと性格的には我と母はだらしないところも含めて実によく似ているし気は合う。しかし、こともっと深い部分、体質的な点は男同士ということもあるのだろうが、我は父に似ているとこのところよく思う。いや、老いて来て似てきたのかもしれない。

 体形は似ていないが、疲れると咳が出たり気管支が弱い所もだが、いちばんは不安神経症的気質で、実に小心で、あれこれ考えても仕方ないことを考えては心配で眠れなくなったり鬱々悶々としてしまう。
 母はそれに対して基本B型的能天気だから何事も深く考えないし、起きたことは考えても仕方ないじゃないの、とまずくよくよ悩まない。自分も母のように何事にもあっけらかんとお気楽に生きられたらと願うが、根本的なところで父と繋がっているようで、不愉快かつ不本意だが、ついあれこれしょうもないことを考え囚われ心配事の種は尽きない。それは幼ない時の教育なのだろうか。

 父を育てた人、我にとって父方の祖母という人はわりと早く死んだのであまり記憶がないのだが、幼少時共に暮らしていてかなりヘンなあれこれ口やかましい人だったようだ。おどおどした不安症的気質はその人によって育まれたのかもしれない。そう母方の祖母は幼児の頃の我を見てよく言っていた。
 だが、それは家庭内の教育というより、持って生まれた気質なのだと思える。性格というのとはちょっと違う。性格は後天的なものである程度変えたり矯正することもできるはずだ。まさに体質的な根本的気質であって直すことも変えることもできやしない。

 普段は隠れてまず表に出ないが、今回のようなショッキングな出来事があったりするとすぐに表出して心身を苛む。父と子が二人して目を真っ赤にして不眠に苦しんでいても母はそんなことはないし、その辛さや苦しみが全然わからない。まさしく他人事なのだと思う。そしてある意味救いでもある。その母にはわからない父の哀しみと苦しみが我にビビットに伝わって来て猫の死もだが、父が哀れでこちらも術もなく苦しかったのだ。哀しみからの苦しみは「共有」したからといって楽になるわけではなくまさにWで辛くなるだけのものであった。

 もし母もまた同様の性質だったら、家じゅうが暗く沈んで何一つできないままに家族全員鬱病的に寝込んでしまったことだろう。我と母は他人ではないが、違う気質の人がいて家族という共同生活の危機、崩壊は救われた。

 また男と女とはコトに置いて、悩み哀しみの度合いも対処の仕方も違うのであろう。すべての女性が同じではないと思うが、悲哀を引きづるのは男のほうが多く、女は割り切りと立ち直りが早いとよくきく。俗にいう、「女々しさ」とは実は男に投げかけられる言葉だから、ある意味それこそが本来「男らしい」のかもしれない。となると従来の雄々しさこそ「女らしい」ということになる。

 さておき、そもそも赤の他人で、根本的気質がまったく異なるがゆえに夫婦は共に暮らせるのだと気づく。むろんのこと気が合い好き合って結婚したのだから性格も似ていたと考える。が、実は趣味や嗜好が近しく気が合ったにすぎず、根本のところが互いに大きく違うからこそ惹かれ結婚に至ったのだと気づく。また離婚したり別れたりするカップルの要因もまたそこにある。そもそも性格の不一致は当然のこと。別人格でしかも赤の他人だからこそ難事のときに共倒れしないですむのである。あまりに仲の良い似た者夫婦こそ一方が先立つと残された者もすぐ死んでしまうことは巷間よく言われるところだ。

 そしてまたこうも気づく。親子がうまくいかないのは、同じ気質を抱えて同じ部分が多い故に憎んだりぶつかりあうからである。磁石の+と+とが反発しあうように。
 親子も別人格で本当は「他人」なのだからまずそのことを深く認識しなければならない。しかし、流れる血の業と呼ぶべきものがあって気質的に近しいゆえに当然ぶつかり合ったり落ち込んだり等しい傾向を示してしまう。
 その点、夫婦はとことん他人だからそうした血縁から生ずる軋轢は最初から最後までない。それは救いでありまた絶対に分かり合えない、通じ合えないという絶望である。しかしそれこそがごく通常の当たり前の人間関係であり、半分と言えど同じ血ゆえの気質を持つ者が良いわけでは絶対にない。

 自分の親たちを見て羨ましくも思う。赤の他人だからまったくの別人格だから60年近くも共に暮らせたのである。そしてその双方の血を持つ者としてまるでAB型のようにアンビバレントな相反する気質を混在させてこの自分の性質が出来上がっている。そして時に応じて父と母双方の気質が顔を出し彼らに影響され同調もしていく。それもまた苦しく辛い。まさに近親憎悪の念がわく。
 赤の他人であるがゆえ起こる葛藤や諍いも多々ある。が、他人ではないが故、親子や兄弟姉妹であるがゆえ起こる葛藤やトラブルもまた多々あるはずだ。他人ならば縁が切れることも可能だが、血の関係はそれができない。それは決して良いことではない。

 ならば親子や兄弟の関係こそ、他人的にできるだけ関わるべきではないと気づく。そしてできるだけ早く、人は誰もが気の合う「赤の他人」をみつけ出会うことだ。
 動物は皆それをごく自然にやっている。大人になれば皆一匹づつ群れを出て独り立ちして新たな別の群れからパートナーをみつける。人間だけがいつまでも家族という関係に縛られ兄弟はともかく親子の関係は永遠に続く。欧米のドライな親子関係を見るとき、それはアジア的特殊な関係かもしれないが。

 ともかく血縁関係のない赤の他人と暮らすということはとても難しいことであろうが、だからこそ素晴らしく意義がある。父と母を見ていて、赤の他人同士という「夫婦」の妙を思い知った。

 そしてこう思う。我も今さら老親たちは捨てられないが、赤の他人と、それも女と暮らしたいと願う。むろんこんな性格だから年齢の問題以前に難しいことはよく理解している。しかし血縁からの絶望より他人としての絶望のほうがまだ受け入れられるのではないかと期待するのである。まあ、親たちが死んでいなくなったら中高年向けのお見合いサイトにでも入ることにするか。

山奥の温泉で、青い空と白い雲と2015年10月06日 23時09分39秒

★増冨の湯 について          アクセスランキング: 136位

 また老親と一泊二日で山梨の温泉へ行ってきた。
 今回はかなり強行軍で、二日続けて温泉に入ったので、湯疲れということばがあるのか知らないが、運転疲れも加わってフラフラだ。
 韮崎の街では、その地出身の大村教授のノーベル賞受賞にわく街の人たちの様子が見れて良かった。
 温泉で考えたことを書こうと思う。

 今回は家を出たのが午後で、しかも途中の中央道笹子辺りで工事渋滞もしていたこともあり、北杜市須玉の山里の民家に着いたのは夕方だった。それからだとさらに山奥の増冨までは行けない。そこは早くしまってしまう。
 で、母を残して父と一番近くの公営の温泉施設、「高根の湯」へ行き、介助しつつ父を風呂に入れ湯冷めさせないよう慌てて戻った。
 車だと片道5キロ、約10分程度のところである。なかなか温まる、体がつるつるになる良い温泉だが、湯自体はさほど特色もない。ウチの近くの日の出つるつる温泉と泉質は似ている気がする。
 そこの良い点は、やっている時間が長く夜10時までなので、地元の人たちにとってはいわば銭湯的に汗流しに利用できることだ。他の施設は営業時間が早く、遅い時間に着いたときは気軽に行けない。

 そうそう、その古民家には元の家族が使っていた風呂場自体はあるけれど、給湯設備が古くボイラーなど新たに手を入れないと使えない。須玉近辺にはそうした公営温泉が地区ごとにいくつもあるので、来たらそこに行けば良いのだとその家の風呂には金かけなかった。
 が、こう寒くなってくると、冷えた体を風呂で温めてから眠りたくなる。となると夜遅くまでやっているその温泉が有難い。母は翌日、増冨の湯に連れて行くので、まずは父だけ、先に高根の湯に入れて寝かせた次第。
 
 翌日は朝から晴れてまだ紅葉まで間があったが、からっと晴れ気持ちの良い増冨までのドライブであった。向うには午前10時過ぎ着いた。父はよく言い聞かせて留守番である。

 増冨温泉峡は、山梨県北杜市須玉町の山奥にある、信玄公の隠し湯だとかで、明治の頃からの旧い温泉旅館もいくつか点在する秘湯だ。
 前にも説明したが、そこは、日本では数少ない天然ラジウム泉で、癌などに直接の抑制や治療効果はあるかはうたっていないが、自然治癒力を高めることは古くから知られて今もかなり遠くからも癌など難病患者が湯治場的に長逗留している。

 マス坊の母もそこに通うようになってからは、再発した癌部位の肥大は抑えられているようで、幸いそれなりに効果はあると信じている。一般の温泉とは違い、もともと源泉の温度も低い冷泉=鉱泉だから、ひたすら長時間褐色のぬるい湯に浸かり湧き上がるラドンを吸い込むことが奨励されている。普通の温泉をイメージして来られると湯の温度も低く、まず驚かれるだろう。そこは治療目的がメインの人たちに向けての特化した温泉なのだ。

 むろん小さな温泉街もありお土産屋もあるが、老舗旅館は宿代が高いのと入浴だけの客は基本受け入れていない。一般客用には、公営の「ふるさと交流施設・源泉かけながしの湯・日帰り温泉施設、増冨の湯」が、温泉街入り口にある。ウチはそこにずっと通っている。料金は大人820円で、時間制限一切なし。中には食事もでき休憩できる大広間もある。直の宿泊施設はないが、そのさらに先の瑞牆山麓には提携した「リーゼンヒュッテ」なる宿もありバス送迎している。
 また、JR韮崎駅からは、増冨温泉行のバスが何便も出ているので、車でない方は、それが一番簡便だろう。韮崎から約一時間ほどかと思う。

 近くには紅葉の名所のみずがき湖というダム湖がある。東京でいうと奥多摩湖のような感じだが、車だと高速に乗ってしまえば、東京からの人は奥多摩より近い感があるかと思う。中央道八王子インターから須玉インターまでは約一時間ちょい。そこからはひたすら上り坂だが、県道増冨ラインを走れば一時間もかからず増冨に着く。帰りは逆に麓のインターまでずっと下りだからブレーキは踏んでもアクセルは一度も踏むことがない。何しろ標高千mを超す位置にある山間の秘湯なのだ。
 ※この話、もう少し長くなるのでもう一回だけ続く。

山奥の温泉で、青い空と白い雲と・続き2015年10月07日 12時05分16秒

★流れ行く雲のように生きる           

 その増冨の湯が他の温泉どこより特異な点は、浴槽、つまり湯船がいくつもあり、それぞれの温度が異なることだ。そしてどれも一般の風呂から思うとかなりヌルい。熱い風呂を好む日本男子には物足りないことであろう。
 日本人が風呂の温度として一番好むのは41度~と何かで読んだ気がするが、増冨では、一番高温で、37度、そして35度、さらに30度、そして源泉そのままの25度と、四段階に分かれた湯船がある。

 元々が冷泉の温泉、つまり鉱泉なのだから湧き出す源泉のままだと25度前後しかない。それを少しづつ段階的に加熱して最高で37度迄にしたのは、長く浸かるよう温泉治療を目的としたからだ。
 それ以上高い温度だと、気持ちはいいけれど長く湯に入っていられない。ここでは、その他に、白湯というべきか、鉱泉とは別に、一般の銭湯と同じように水道水を沸かして41度にした浴槽も別に設けてある。

 入り方は人それぞれだが、まずはその41度の風呂で体を温めてから、ぬるい方の鉱泉の浴槽に入る。どれに入ってもかまわないし、一番無理なく長く入れる浴槽をみつければ良いのだそうだ。
 我の場合は、段階的に、37→35→30と入って体が冷えてきたらまた41度の浴槽でほてるまで入って、25度の源泉に浸かる。その他にサウナ室もあるから、寒くなればそうした熱い場所で温まりまたぬるい浴槽に入っていく。そうしたことを繰り返して母と行けば約3時間は入っている。ときに湯の中でうとうとと居眠りすらしてしまう。またそれも極楽かと思える。

 ともかくここでは温泉治療と療養目的だから、入浴客はひたすら茶褐色の湯に、無念無想で目をつぶって何十分も浸かっている。当然のこと老人や中高年が多いが、近くに本格的登山できる岩山もあるので、登山帰りの若者たちが多く寄る時期もある。施設の外には彼らのためのリュック置き場も拵えてある。

 温度ごとに分けられた浴槽も、段差をつけたり、寝湯というように浅くパイプで一人づつ横たわれるようになったスペースまである。ともかく飽きさせないよう長く入れるよう山奥なのにちょっとした温泉アミューズメント設備である。
 そうした特化した温泉だとよく知らないで来る客は、ヌルい湯に入ってみて「冷たい!」と叫び、けっきょく41度の、温泉でない浴槽にだけ入ってすぐに出てしまう。それでは何のためにその秘湯に来たか意味がない。

 その温泉で何を考えたか。様々な浴槽の中で、我マス坊が一番好きなのは、いちばん温度の低い25度の源泉で、それは半野外のテラスにある。
 他の風呂がすべて屋内なのに対して、そのいちばん冷たい源泉は、屋外に鉄骨ガラス張りで設えた、温室のようなコーナーに寝湯として設けられている。むろん半野外だから真冬などとても寒くて入る人など皆無である。
 が、今の季節は、外が暑ければプール感覚で、山間の緑に囲まれた中で、太陽を浴びて半身を浸けて空を見上げているのは至上の快楽としか言いようがない。

 特に晴れた日中は、組まれた鉄骨の間のガラス窓から覗く青空を寝湯に浸かりながらぼんやり見上げときにうつらうつらする。浅いので溺れることはないし、冷たいのでのぼせることはない。むろんあまり長い時間そこに浸かれば体は冷えて風邪ひくかもしれないが、今の季節まで、それも外が暑いぐらいの日なら快適このうえない。
 そうしてヌルイ湯に浸かりながら、空を見上げて流れるゆっくり白い雲をぼんやり眺めていた。母と約束した出る時間まではまだ一時間以上ある。

 雲はゆっくりだが、確実に流れカタチを変えて左から右へ区切られたガラス窓の中を通り過ぎていく。そして思った。これが時間の流れなのだ。世界は昔も今もずっとこうしてこのスピードでゆっくりと動いていた。
 なのにいつしか人間はそうした自然の流れとは別に、勝手に時間を早く動かして無理やりスピードを速めてしまった。ともかくやみくもに、決めたからには何が何でもそのリミットに合わせようと、大急ぎですべてを動かしていく。しかしそんなに急いだとして何か得するのか。
 誰もが単に死に向かって大急ぎで突き進むだけでないのか。まるでネズミの大群が海に続く崖に向かって進み集団自殺していくように。

 自分はいつも慌てふためき常に焦っていたなあと思った。グズでノロマだからこそ、何もできずに時間だけが過ぎて、いつも苛立ちコトに置いては大慌てでパニックとなる。

 そして今年もまたそんな調子で気がつけば10月となった。そしてあれもこれもとけんあんのことは溜まるばかりで早く何とかせにゃと焦り始めている。
 しかし、いくら慌て焦りイライラしたとしてもそれでモノゴトは早く進むわけでもない。気ばかりが急いて逆に多動性障害のようにどれもこれも中途半端になっていくばかりだ。
 じっさいの時間の流れはこんなにゆっくりとしたものだが、決して休むことはないし止まらないし弛むこともない。ごくゆっくりとほとんど動いていないようだが、それでも確実に雲は流れときはゆっくり過ぎていく。これこそが正しい時間の流れなのだ。

 そして思った。ならばこの時間でやっていくのが正しい姿なのではないか。人に合わせたり振り回されたり、気にしたりあれこれ考えたりするのは結局のところあまり意味がない。時間は自分のものであり、自分のペースでしか本来は動かない。そしてようやく正しい本当の時間のスピードをみつけた。だとしたらこれで良いのではないか。このペースでのんびりと、だが確実に進めて行けばよいのではないのか。

 もう焦らないし慌てない。急かされても自分のペースは崩さない。ゆっくりと自分時間を大事にしていこう。しかし、だからこそきちんと、成すべきことやヘンなこと、正しくないと思うことにはきちんとすぐに対処して行かねばならない。ゆっくりとだからこそ後回しにはできない。一つ一つゆっくりと、だが確実にこなしていく。

 増冨の湯に浸かってようやく正しい時間の進み方がわかった。増冨の湯のすばらしさをもっと多くの人たちに知ってもらいたい。こうした智慧が浮かんだのも、この地の持つ特異な自然治癒力のおかげなのだと今は思う。関心持たれた方は喜んで案内いたします。我で良ければ同行いたしましょう。

子どもをたくさん産むこと=国家に貢献すること?2015年10月08日 14時16分12秒

★おかしなことを国の中枢にいる方が言う      アクセスランキング: 121位

 先だっての芸能人同士の結婚に関して、菅官房長官がテレビで話した「お祝い談話」が、巷では与野党政治家たちを巻き込んでの騒動となっている。フェミニストの方々は、目を三角にしてお怒りである。また、さほど大騒ぎするほどの舌禍ではないという意見も特に男性陣には多い。
 個人的に、それも子もいないどころか、結婚もしていない者として思うところを書く。

 そもそも子供を産む産まないとか、何人産むとかは結婚そのものも含めて個人の問題であり、「国家」とは全く次元の違う問題であろう。何のカンケイもない。結婚しなくても子を産み育てている人もたくさんいるし、結婚したからといって誰もが子宝に恵まれるとは限らないし、子供をあえて作らない夫婦もたくさんいる。
 そのことは個人及びそのカップル個別の問題であり、様々な諸事情が介在してくる。他者がとやかく口をはさむべきではない。ただ、個人的見解として、菅氏の発言も心情的には理解できるし、まあ、お祝いの言葉として通常の範囲内のものであろう。

 が、問題は彼が私人ではなく国家の要人として、官房長官の肩書で、語ったこと、それも「たくさん子どもを産んで国家に貢献してください」と「国家」を持ち出してきたことだ。「日本社会に貢献」ならばまだこのような反発は招かなかったかもしれない。

 もし仮に、彼がいうように、子どもをたくさん産むことが即ち、=国家に貢献だとするのならば、子どもを産まない人、子のできない夫婦、まして結婚すらしていない我などは国家に貢献していないということになる。そう彼に断罪されてもこちらはちっともかまわないが、その発言で傷つく人も多々いるのではないか。特に子が欲しかったのにできなかった夫婦の方々に。あるいは諸事情で結婚できなかった独身男女にとっても。

 言わんとしていることの意味は想像つく。このまま低出生率が続けば日本の社会は成り立たなくなる。つまり子どもを、これからの日本人がたくさん産めば、まさに国家に貢献していくことに繋がる。彼の真意はそこにあると信じたい。
 が、政権を担当する国家の側の人間が、子を産むことで国家に貢献しろとは本来絶対に言ってはならないことであった。まさにそれは日本国民以前に、プライベートな各個人間の問題であり、よけいなお世話なのだ。政治家がすべきはまず子どもを産み育てやすい社会体制を構築すべきであろう。

 何で今の若者たちがなかなか結婚できないのか、そして子どもをたくさん作らないか、まず政治家たち自らがよーく胸に手を当てて考えてもらいたい。低賃金と非正規雇用を恒常化する法律を作った者が、芸能人の結婚に乗じて、見習って今の若者たちも早く結婚してたくさん子を産めと強いるのは片腹痛い。まず政治がすべきは誰もが安心して子をたくさん産み育てる社会を作っていくことである。正規社員での雇用を奨励し長時間労働をなくし給与を上げていくことだ。子育てしやすい環境を国家として作ることだ。今のままでは結婚したくても若者は結婚できないし子も産めない。
 同時に、「国家に貢献」という言葉を用いるならば、国家とは何か、貢献するとはどういうことか、国民一人一人がよく考えてみなくてはならない。

 社会貢献とか国際社会に貢献なら、まだ想像つく。ノーベル賞受賞する人たちは皆この日本の社会と日本人に大きく貢献している。が、「国家」という概念を政治家たちが持ち出して来て「貢献しろ」と口にするとき、何かいやーな、妙に何かひっかかるものを感じてしまうのは自分だけか。
 先だって、戦争法に反対する若者たちを、身勝手だと非難した自民党の若手政治家がいた。その彼ならば、戦地に行くことも国家に貢献することだと言うのではないか。つまりそれが国家の意思ならば、反すること、抗うことは身勝手であり、国民は国家に貢献しないとならないのだと。となると貢献しないものは非国民となるのか。
 そんな若者たちが戦地に送られるかもしれない時代にして、子どもをたくさん産んで国家に貢献してくださいと内閣の官房長官が口にするとき、イヤーな、不安な感じが漂ってくるではないか。

 我の父は8人兄弟、母は母を筆頭に7人兄弟である。今の常識では信じがたいが、彼らの家はカトリック者でもなく、避妊法を知らなかったのでもない。国家を上げて「産めよ、増やせよ」の時代であったから、どこの家でも子だくさんが当たり前だったからだ。それは体制側が国民に強いた国策、いわば当時の「社会常識」であった。じっさい沢山産んだ女性はお国に表彰されたと母は言う。
 そして父は二十歳で大戦末期、兵士として戦地に送られた。幸いにして大陸から無事帰ってこれたから今の我がいる。もし戦死していたら母と出会うこともなく、今の我はこの世にいない。そして父母たちよりもう少し年上の兄弟を持つ家族では、戦争で男子は何人も戦死した例をたくさん知っている。
 
 子どもをたくさん産んで国家に貢献しろと、体制側の人間が求めてくるとき、それはちょっとおかしいぞ、何か薄気味悪いぞと異議申し立てをしよう。国家ならぬ社会や地域、災害被災地、そして他者や弱者に「貢献」の仕方はいくらでもある。子を産むことも大切なのは当然だが、人が社会や地域、他者にできることは人それぞれ多様にある。人はみんな違う。人それぞれができることをすれば良いのだ。違いますか。

 体制側が求め強いる「国家に貢献せよ」という口車に乗ってはならない。子を産むことはとても大切で重要なことだが、国家に貢献とはまったく関係がない。もし、そうしない者が非国民だと詰られようが大いにけっこう。社会や地域、他者へはいくらでも貢献したいしすべきだと思っている。が、あんたの言う「国家」に貢献などまっぴらごめんだ。

癌を怖れず癌と共に生きる2015年10月09日 20時48分19秒

★一億総半分癌時代に      アクセスランキング: 105位

 前回、増冨の湯と癌治療について書いた。追記というか、書き足しておきたいことを少し。
 先だっても某女性タレントが、壮絶な癌死を遂げ今もネット上や週刊誌などでは、芸能人によるコメントや追悼記事が続いている。
 他にも元女子プロレスラーのタレントの乳癌告白と手術後の闘病ブログが耳目を集めている。日本人にとって癌は今もっとも関心ある身近な、そして恐るべきポピュラーな病気だと思える。

 じっさい今や日本人の二人に一人は癌に罹ると統計も出ているようで、癌は不治の特別な病というより、きわめて日常的なほぼ誰でも体験する風邪や虫歯のようなものになってきたと言えよう。
 が、風邪では人はまず死なないが、癌の種類にもよるが致死率が高い癌も多いし、胃癌など手術で生存率が高い癌でも発見が遅ければやはり死ぬ。また、若ければ進行も早く、癌を発見後あっという間に死んでしまうことも多々ある。いずれによ、身近な病気となったとしてもその「死の恐怖」は軽減されたわけでは全然ない。
 癌のメカニズムや種類、症例などは専門的サイトや本もまた膨大にあるし、何も今さら素人が書くべきことなど何もないが、肉親に癌患者を抱えて、たぶん癌家系に生きる者として癌と治療に関して思うところを簡単に記したい。※自らが当事者となればとても落ち着いて何も考えられなくなるであろうから、これは未来の自分への覚書として。

 癌はまず体質や食を含めた日常生活、そしてストレスが大きく関係するとされている。タバコやアルコールを過多摂取する人は癌発症のリスクが高まることは科学的にも実証されているし、癌にかかる家族が多い家系もまた確かに存在する。また、フクシマの原発事故以後、甲状腺癌発症の確率が高くなっているとの報告もあるが、今はそのことにはふれないでおく。
 

 ただ一つだけはっきりしているのは、この過多のストレスや大気汚染と農薬や化学薬品、工業的食品添加物の多い食物を日常的に食べ暮らしている我々は、過去の日本人よりはるかに癌発症の可能性は高いことは間近いないことに異論あるまい。
 そしてもう一つ、誰もが人生八十年を謳歌するような長寿社会では、当然癌にかかる率も比例して高くなる。理由は、癌とは細胞の異常変異だから、高齢になるにつれ癌に罹る率も上がっていくからだ。
 ならばもはや特別な病気ではなくなった、癌とどう向き合い付き合っていくかであろう。

 私ごとを言えば、母の家系は、その父も長生きはしたが最後は胃癌で死に、母のすぐ下の弟も泌尿器系の癌で定年後すぐに死んでいる。そして母当人も、自らは癌など無関係だと思っていたのに、八十歳を過ぎた夏、原因不明の高熱が出、体調を崩してからじょじょに食が細くなり、下痢や便秘など繰り返し体重も減りこれはヘンだとあちこちの病院にかかったものの原因がなかなか判明できなかった。

 ガリガリに痩せたどころか足もむくみ腹水が溜まるようになってようやく、立川の病院で癌だとわかり、それも原発は卵巣からの癌で、それが大腸に転移して癒着を起こしてしまいもはや手術できるか体力低下と年齢もあってギリギリの状況だった。その頃はもう口からは何も食べられなかったのだ。

 そうした経緯は、ブログで逐一隠さず書いて来たので今さら繰り返さないが、幸いにして2011年の春先、その癌の部位、癒着した大腸を取り除き、腸を繋ぎ直して手術は成功し再び口から食べられる様になり母は元の生活ができるようになった。今振り返るとまさに生死の瀬戸際であったと思う。いまさらだが、神のご加護があったのだと知る。

 それから4年後、母は、ほぼ病気以前の元通りの日常生活を送っていたが、執刀医からも癌の部位は手術で取り除いたものの、癌細胞は体内に散ってしまっているから、またやがて再発はするだろうと言われたとおりに母の癌は再発した。
 が、今現在は、腹部へその下あたりに数センチの固まりとして確認はできるものの肥大化はあまりなく、抗がん剤などの治療はまだ何もしていない。一つに、八十代半ばという高齢であり、体に負担かかる再度の摘出手術はできないとのことと、もはや癌で死のうと自然に老衰的に死ぬのと差はなくなってきて、母も家族も癌に抗う気はなくなってきたからだ。
 それに疲れやすく体力は落ちてきたが、それは年齢的なものとして、特に痛みもなく普段の生活が前とさほど変わらず続けていられるのだから、もう特に何かの治療は必要ないではないか。また、さらに癌が肥大化して痛みや体力低下が甚だしくなれば何か対応法を考えるとして、今は食生活に注意するのと、定期的な丸山ワクチンの投与、それに月に数回の増冨の湯での湯治だけとなっている。

 日医大の丸山ワクチンがどれほどがん抑制に効果があるのかそれもまだ判明していない。しかし、再発はしたものの、手術後4年間は、癌は沈静化していたし、今現在もさほど肥大は抑えられている。医者たちはそんなワクチンは気休めだと考え、効果のほどは疑問視しているようだが、現実の話として手術直後の抗癌剤を一度した他はそのワクチン以外の医療行為は何もしていないのだから我々はその効果は間違いなくあると信じている。

 ただこれは癌の特効薬でも、抑制する薬でもないのだから、あまり末期癌的状態て体力の低下した患者には効果はないかもしれない。これは増冨の温泉も同様に、その人自身の自然治癒力を高めるのに効果があるとされる。詳しい理屈はわからないが、白血球などが増えたり体が活性化することで、癌細胞の増殖を結果として抑えていくことになるのだと思える。
 じっさい、癌細胞を殺す治療法は放射線を中てるのも同様に、他の健康な細胞も殺してしまうことになる。癌自体は消えたとしても体力がなくなり他の病気に罹ったり他に障害が出たりとかえって生命の危機となることも多いと聞く。

 思うのだが、癌を病気の一つだと考えるのは間違いなのではないか。何故なら癌は血液も含めて体中のどこにもできる。そしてそれぞれ特徴も違う。症状も千差万別だ。癌とはそもそも「病気」ではなく細胞の特殊変異なのである。本来正しく増殖していくべき細胞が、あるとき何かの異常で癌細胞に変化する。そしてその変化した細胞が増殖し続け健康な細胞を蝕んでいく。それを病気と考えるのはどうか。病気とは決まった症状が現れ一過性で治るものだ。癌は基本自然には治らない。増殖し続け最後にはその肉体じたい滅ぼしてしまう。

 細胞というのは、常に一定の周期で古くなっては死に、その遺伝子を受け継ぎまた新たに生まれ変わっていく。一年たつと人間の体はすっかり新しい細胞に生まれ変わっているのだそうだ。
 しかし顔形も脳内の記憶も前のままなのは、きちんと細胞同士がその遺伝的情報を変わらずコピー&ペーストし続け新しい細胞に受け渡しているからだ。しかし、コピー機でコピーとった人が知るように、コピーは回数を重ねるごとに最初は綺麗に見えてもしだいしだいに汚く不鮮明なものとなっていく。
 最初は真っ白い原稿も何百回もコピーを繰り返すといつしかシミのような汚れが出てしだいにそのシミは大きくなっていく。癌細胞もそうしたものではないかと思う。コピーを繰り返しているうちに、あるとき何かのミスでヘンな細胞が出来た。が、そのままそれをコピーし続けていたらそのヘンな細胞はさらに増え続け最初のまっとうなほうが減ってきてしまった。

 若ければ、そうしたミスは起こらないし、チェックも厳しくきくのかもしれない。が、歳とってきて、それだけコピー回数が加算されると正しいコピーのほうが少なくなっていく。だからシミやシワのようなものが皮膚にはできるし、眉毛が異常に長く伸びたり耳の穴など変なところに長い毛が生えたりもしてくる。それは癌ではないが、正しい遺伝子情報がいつしか伝わらなくなってそうした異常が起こるのであろう。

 癌もまたそうしたものでしかない。若い時の癌は別として、人はそう考えると歳とればこそ誰でも癌になるしなっても当然だと気づく。ただそれをどう進行を遅らせるか、癌を知り見極め、どう癌とつき合いながら長く生きていくかが工夫のしどころだと思える。そしてそれは可能だと思う。

 でも癌は当然怖い。できればかからず、癌に煩うことなく人生を全うしたい。しかし、二人に一人の日本人が癌にかかる。そして我は癌家系なのだ。ならば癌は他人事だとどうして言えようか。祖父が母がそうであったように、まずおそらく癌と出会うだろう。それがいつ来るか、だ。

 ※バカだから書き出したら例によって長くなった。もう一回だけ書きたいことがある。

癌を怖れず癌と共に生きる・続き2015年10月10日 23時03分37秒

★ラジウム温泉と癌抑制効果について

 一説に、日本人の二人が癌にかかり、三人に一人が癌で死ぬとされる時代、人は癌だと診断されたらどうすべきであろうか。
 巷間、「患者よ、がんと闘うな」という医師の書いた、抗がん剤治療など無意味で、逆に命を縮める結果になるだけだと説く対処法が今も変わらず話題で賛否が分かれている。
 個人的には思うところもあるが、その是非はここでは問わない。ただ我の母の場合は、手術後、抗がん剤は一度やって、案の定、髪は抜け一度坊主にはなったが、今は元通り髪も戻ったこととその副作用は存外大したことはなかったことだけは記しておく。

 いずれにせよ、癌だと判明して一切何もせずに癌で死ぬという天命をただ粛々と待ちその事実と事態を怖れず受け入れられる人などまずいないと思う。
 先に挙げた精神科医キューブラー・ロスの『受容のプロセス』の事例ではないが、人は癌告知を受ければ、大きなショックを受けまず嘆き怒りうろたえ大きな絶望感に苛まれることであろう。そして何とか効果的治療法はないものかと最後の最後まで当人もその家族や周囲も模索するに違いない。

 で、ラジウム泉である。このことはどう書くべきか、じつは数日来頭を痛めていた。まず断っておくが、ラジウム温泉は癌治療に効果効能あるとは、その温泉施設などでは一切告知していない。だからこれから書くことは話半分にお読み頂きたい。当方では責任のとりようもない。
 が、現実のはなし、民間伝承的に、温泉治療法の一環として、ラジウム泉は末期癌をも治すと口コミで広がり、特に秋田の玉川温泉は今もなお医師から見放された癌患者たちが多数訪れているときく。そこは温泉もだが、岩盤浴で、地下のラジウム原石から上がって来るラドンを吸引することで「効果」があるらしい。正直なところまだその温泉には行ったことがないので詳しいことはわからない。手元にはパンフレットがあるだけだ。

 果たしてラジウム泉なるものが果たして癌に効能があるのかないのか、科学的データなどは確認していない。しかし、その効果は多少でもあるとして書き進めていくとして、ではまずその理由だ。※化学に疎い素人なので誤りあることを承知で書く。
 ラジウムは原発事故とはくらべものにならないごくごく微量の放射線を発する。それは自然界にあるものの数倍程度のものでまったく無害で問題ない。が、それを気化したラドンとして肺や皮膚から吸い込むことで、体に負荷を与え、結果として体は活性化し免疫力は高まる。
 そうしたラジウム泉独自の効果と温泉での長湯治による心身リラックスなど環境の変化も相まって、癌をはじめ慢性的難病は抑制され、結果として治癒する患者もいるのではないかと想像する。

 ラジウムの温泉は癌に効くと聞いて、増冨の湯に通うようになって、母も我もその温泉で多くの癌や難病を患っていた患者当人及びそうした人を知っている人たちと会い話を聞いた。
 男と女は違い、女性たちのほうが風呂の中でも見ず知らずで誰とでも話が弾むことが多いので、母はそうした治癒した事例を数多く聴き大きな励ましを得た。曰く、来た時は担架で運ばれてきた婆さんが、一か月温泉に長逗留したら、歩いて帰れるようになったとか、末期がんで三か月と言われた人が増冨に通って三年も生き永らえているとか。

 我も先日風呂の中で小耳にはさんだ話はこうだ。その男は風呂の中で知り合った人に話していたのだが、ここの近所のオヤジで、末期がんで余命数か月と告知された人がいたが、毎日朝から増冨の湯に浸かっていた。いつも同じ浴槽に入っていたので顔見知りになった。そしてそのオヤジはそうしてこの温泉に入り続けることで癌を消してしまった、と。その男はこの湯は飲用も効果があるとして、大きなポリタンクで源泉から出てくるぬるい湯をたっぷり汲んで持ち帰っていた。

 こうした話は男女問わずいくらでもよく聴く。半ば都市伝説のようなものだとしても、医者から見放された癌患者や、手術後の抗癌剤を厭い通う人たちも多くいるようだ。じっさい駐車場には都内や山梨だけでなく、神奈川や静岡ナンバーやかなり遠方から定期的に通ってくる人たちも多い。通うからには、藁にもすがるだけでなく、それなりの効能はあると信ずる。

 ただ、ラジウムの温泉は、温泉大国日本でもさほど多くはない。我が知る限り、有名なのは、その秋田の玉川温泉を筆頭に、新潟県の五頭温泉郷、鳥取県の三朝、そして増冨温泉狭である。その他にも点在していることは以下のホームページで知った。http://kadoyasan.com/radium-onsen04.html
 上記は、その新潟の五頭温泉郷、村杉温泉の老舗旅館角屋旅館のサイトだが、秋田の玉川温泉についても詳しく紹介されている。
 また、よくラジウム原石を浴槽に入れて、ラドン温泉と称するスパ施設が各地にあるけれど、その効能については甚だ疑問だと我も思っている。

 秋田は遠いし、新潟は行けなくはないが、行くからには数日泊まることは覚悟しないとならない。まして鳥取は東京からだと論外となる。そう考えるとき、日帰りでも行って帰ってこれる山梨県北杜市増冨は、東京からもっとも近いラジウム温泉であり、効果のほども高いと思う。何しろ今はうたっていないが、「ラジウム含有量世界一」なのだそうだから。
 ならばともかく通い続けるしかない。じっさい効果のほどは定かではないが、母の癌部位の肥大は今のところ抑えられているのだ。

※この件に関して問い合わせや相談も我でわかる範囲のことはいくらでも応じます。またこれからでも同行希望される方いらしたらオンボロ車でかまわなければ同乗かまいません。

我が人生を少しでも進めて行こう2015年10月15日 09時56分36秒

★爽やかな神無月半ばの朝に        ランキング

 空はどこまでも高く、雲一つない青空。陽射しは強いがひんやりとした北風が吹いて暑くも寒くない。いまが一年を通して最も過ごしやすい良い季節だ。
 が、このところどうにも体調がすぐれず気持ちも鬱気味でブログさえ書けずにいた。何かまたショックな出来事が起きたとかそういうわけではない。

 季節の変わり目、急に寒くなってきて風邪気味ということもあるけれど、何故か夜になると頭痛がひどくて起きていられない。何もできないから仕方なくベッドに入る。が、いったん眠って朝かと思うとまだ午前2時とか3時にもなっていない深夜の真っただ中で、それからが眠れずどうにも持て余す時間が長く辛い。

 夏ならば、手元の本など繰って少しすれば外は白み始め、散歩に行くなり何らかの作業もできる。が、今は夜が長く、真夜中に目覚めるといつも絶望的な気分に陥る。
 先だっては、そのまま起きて本の整理やら部屋の片づけ、模様替えのようなことをやっていた。が、当然のこと昼間に眠気が襲ってきて、昼食後の仮眠が本格的なものとなると、また夜はさらに眠れない。当たり前のことだが、昼間眠れば夜の眠りが浅くなる。その悪循環で心身不調となった。

 父の服用している睡眠導入剤なのか精神安定剤のようなものをもらって飲むと確かに朝まで一気に眠れる。が、自然の眠りとは違い、たっぷり眠ったはずなのに頭はすっきりせず、日中もまだ眠くてたまらない。ならばそんな薬は飲まないにこしたことはない。どうしたものか。

 女性ならば我の年代は、更年期障害でいろいろ大変なようだが、男もまた同様にホルモンのバランスが崩れてくるのか言葉にできない不調、不全感に日々苛まれている。が、一番辛いのは朝まで一気にぐっすり眠れないことだ。その夜中の長さだ。
 もう今はこの世にいない、数年前に死んでしまった精神を病んでいた友がよく電話かけて来ては常に口にしていた「暗澹たる気持ち」という言葉が頭に浮かぶ。ましてそんな夜更けには、真っ暗な深い夜の底で、彼や死んでいった人たちのことが次々と思い出される。後悔のような苦い思いと共に。
 死んでいった者たちは今どこにいるのだろう。彼らの残した思いや果たせなかった夢はどうなってしまったのか。

 爽やかなよい季節だ。冬が来るまでにもう少しがんばって成果を出したい。道は定まっている。もう焦りも迷いもしない。我がささやかな「夢」に向かって、人生を少しでも前に進めて行こう。