持つ者と持たざる者と・中2016年01月09日 22時41分03秒

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 先にも記したが、年明け早々、今月半ばより母が抗癌剤投与のため入院するので、その前に少しでも免疫力を高めようと、昨年秋より時間があればせっせっと山梨へ、増冨ラジウム温泉に通っていた。だが、認知症の父は東京に残してのことなので、常に慌ただしく朝出て夜早めに戻る日帰り行であった。

 クリスマスの忘年会ライブパーティのあとに、久々に一人で、向うの古民家の中を片付けに泊まり込みで行った。そのことは既に書いたが、実はそのとき、向うの家の玄関の鍵がかかってなかった。着いたとき玄関の引き戸は閉まってはいたが無施錠であった。おやっ?と思った。
 帰るときはいつだって、電気のブレーカーを下して、水道の元栓も凍結しないよう閉め、カギも施錠して後にする。ただ、そのときは、不審に思ったが、何しろ古い家で、玄関は引違いのアルミ戸だが、カギの調子も悪いので帰るときにかけたつもりだがよくかかってなかったのかと思った。
 むろん室内も確認して、何か盗られたものや荒らされたり異常はないか二階も含めてよく確認した。しかし、何も変化はなく、元々そこに現金や貴金属類など金目のものは一切何も置いてないこともあり、もし誰かに入られたとしても盗まれるものはないと考え気にはしなかった。
 帰るときは、もちろん鍵はかかったか、しっかり確認して東京に戻った。
 
 そして正月明けて、四日の月曜に、甥っ子もそこ山梨へ行ってみたいと言うので、彼を連れて母と三人で新年早々だが出かけた。
 向うに着いて鍵とりだして閉まっているかと戸を引いたらまた鍵はかかっていない。暮れに来たときしっかり閉まったか確認したことは間違いない。ということは誰かが開けて中に侵入している。前回のことも考えればこれで二度目ということだ。そして鍵かけずに出て行ったのだ。いや、もしかしたらまだ中にいるのかもしれない。ドキドキした。
 甥っ子を伴い室内を全部確認した。誰もいないし前回と同じく荒らされたりなくなっているものなどの変化は感じない。しかし、二階の窓には鍵がかかっていなかったことが判明した。

 それから皆で増冨の湯に行ったが、風呂の中であれこれ考えた。旧い家で、鍵は前の持ち主のつけたままだから誰か他にも持っている者がいたとしてもおかしくない。だが、ならばきちんと鍵かけて出るだろう。開けっ放しにはしないはずだ。
 ということは、鍵を持っていない人間が、窓からとか入って、何食わぬ顔で玄関から出たということの可能性が高い。あるいはピッキングの可能性もある。鍵はないから戸には鍵がかかっていないままなのだ。

 以前、やはり空き巣に入られた経験を持つ女性に戻ってから電話で相談したら、(警察からの話として)泥棒は入ったところから出ることはなく玄関から帰ること、そしてプロこそ現金や貴金属以外のものなど一切手を付けないことを知らされた。そして二回も鍵が開いていたことは、もしかしたら二回、別々の空き巣が入っているのではないかと。あるいはそこに住み着いて泊まりに来ているのではないかと。

 生活臭は何もなかったから、留守の間に入り込み誰かが勝手に泊まっているとは思えないが、やはり不気味である。世間から見れば無価値の古本や古雑誌が山積みされた室内の散乱さに呆れて何も手つけず盗られたものはないとしたとしても勝手に無断で入られるのは愉快ではない。対策を立てねばならぬ。このままほっておけない。

 その日は、二階も含めて全ての窓や戸が中から閉まっているか執拗なほど確認して、玄関には鍵閉めたうえ透明テープでサッシ枠に引き戸を固定させた。そのテープを剥がさない限り中には入れない。鍵を持つものが入ればテープは剥がされているはずだ。

 小心な我は、戻ってもともかく古民家のことが気になっておちおち夜もよく眠れなかった。玄関戸のテープが剥がされている様や、入れなくなったことに腹を立て?放火されている夢すら見た。引き戸自体取り換えることや、付いている錠前部分を外し新しいしっかりしたものに換える方法などもネットで調べ確認した。その場合、自前でその交換作業をやっても部品代だけで一万円は軽くする。
 けっきょく、今ここではどんなシステムか明かせないが、ネット上で調べたさほど高くはないが、堅牢な引き違い戸用ロックキーを取り寄せて、それが到着したので大急ぎで出向いた次第。

 幸い向うに着いても今回は鍵はかかったままだったし、貼っておいたテープも剥がされずそのままだった。
 着いてすぐ早速新しいロックキーをアルミ戸に取り付けた。これで、鍵はダブルとなったわけで玄関の合鍵を持っていたとしても、ピッキングで開けたとしても新たな鍵がない限り玄関先からは入れない。不安な気持ちは収まったが、考えてみれば絶対安全安心なんてことは不可能だと気づいた。

 常時そこに住んでいたとしても、近隣に人家はあったとしても元々がシャッターもない旧くてボロい日本家屋なのである。入ろうと思えば、ガラス窓を叩き割ればわけもなく入れてしまう。高い金払って24時間監視体制のセコムなどのセキュリティシステムを導入でもしない限り、いや、それだって空き巣が入らないのではなく、入った後通報が行くだけの話で抑止力になるかすら定かでない。

 つまるところ、常にきちんと戸締りだけは確認したうえで、何が起きても仕方ないと覚悟を決めるしかないのである。人生に不慮の出来事、予期せぬ事件や事故、災難はつきものだし、それ自体は起きても仕方ないことなのだ。
 しかしそれを起こるべくして起こることにしてしまうかは、関係当事者たちの心構えも大きく関係している。空き巣に入られないよう、一目で不在の人家だと目星をつけられないよう隙を作らないことも大事だし、とにもかくにも庭木なども手入れして外から見た庭先をきちんと綺麗にしておくことだ。
 毎度のことだが、今住んでいるこの家もだが、ゴミ屋敷として化して外から見て荒れ果てていることは一目瞭然だ。ここは常に住んでいるから誰か不審者に入られないだけの話で、同様にして不在のままにすれば今回のような事件はこれからも常に起きよう。

 すべてをネグレクトせず、ほったらかしにせずに、すべてをきちんとスッキリとさせていくしかなかったのだ。それができなければどのような規模、レベルの家であれ、別宅など持つべきではない。
 冒頭に、「持つ者と持たざる者と」と記した。言うまでもないが、これは、経済的、金銭的に我が「持つ者」だという意味ではない。昔から、貧乏人の子沢山などという言葉と意味同じく、経済的側面とは別個にあれこれ「持つ」人間と「持たない」人間がいる。それだけの違いの話なだけだ。
 そして「持つ者」は、持つことで得られる喜びや利点利便以上に、「持つこと」の不安や維持管理に苦労するのだと今さらながら今回の件で学ばされた。

 持たない者は不便なことも多々あるかもしれない。が、金ですら沢山抱えている者は、それを失う不安を抱え盗られるのではと日々怯えなくてはならない。ならば最初から持たない者のほうがどれほど気楽であろうか。
 しかしそれは人それぞれの特性のようなものであり、持たないで生きられる人間もいれば、持つことでしか生きられない人間もまたいる。我もまた、持たない人間に憧れはするが、持つ者としてこれからも多々あれこれ抱えながら生きていくしかない。

 だが、それに汲々として、失う不安に囚われて頭や心いっぱいにしてはならない。良寛和尚の言葉であったか「災難にあうときは遭うのがよろし」と心して、覚悟してすべてを受け入れていくだけだ。