持つ者と持たざる者と・後 ― 2016年01月11日 18時24分44秒
★不安と憤るような気持ちは消えやしないが アクセスランキング: 122位
トラブルは我が影法師 とは言ったもので、バカでだらしなく考えが甘い故に、いつだってどこかしらで必ず失態失敗をしでかす。繰り返す。
まあ、今回の山梨の古民家の空き巣騒動も、ある意味起こるべくして起きたことだと今つくづく思う。そして被害は今のところないに等しい(と思う)わけで、ならばこの程度で気づき済んだことはとても良いことだと考えている。
ただ、こうしたことを書くと読まれた方が心配し心痛めてしまうことも多々あり、それもまた本意でなくただ申し訳なく思う次第だ。貴方のやさしさこそ貴方の宝であり大切にして頂きたい。
このところずっと頭の中で、寝ても起きても念仏のように唱えていることがある。それは「全てを受け入れ全てを赦し、全てに感謝していく」ということで、どんなことが起ころうともただそれを受け入れていこうと覚悟した。
この世のこと、起こることはすべてに意味と理由があり、無駄や無意味なことは一つもない。事故や老いも病も死すらもそれはメッセージであり、そのことから気づき学び得ることは必ずある。
ならばそれは悪いこと、否定すべきことだと考えるべきではないし、そのトラブル、難事の中において、意味を問い、成すべきことを模索し全力で対処したり立ち向かうだけの話だ。
しかし、そう頭ではわかって言い聞かせていても何かトラブルや事件、頭を痛める問題が起こると心は乱れ激しく動揺し気は転倒、パニック状態に陥ってしまう。
もっと何ごとにも動じない肝の座った男でありたいと願うが、こればかりは我の根本的資質の部分のところにある弱さ、問題点なわけでどう矯しようもない。できることはそうした弱い人間だと深く自覚し弱さをみつめていくだけだ。
そして何より注意しないとならないのは、我の場合、いや、人はおうおうにして、不安や哀しみなど負の感情を怒りや憤りに転嫁させてしまうことが多々あることだ。そしてその怒りやイラつきで他者を傷つけてしまう。
起きないことは起きないわけで、起きてしまったことは誰のせいでもないし、しいて言えば起こるべくして起きたことだったり、まったく理解できない想定外のことすらまま起こる。その気持ちは胸に溜まり心が張り裂けそうになると、大声で泣くならばともかくも怒りや憤りとして爆発させてしまうことが我もまたよくあった。
今もまだ、古民家のこと以外にも憤るような思いやうまく処理できない哀しみ、説明できない不安が心の中に渦を巻いている。だが、だからこそ、そうした感情を外へと他者へ転嫁させるのではなく、不安は不安として、哀しみは哀しみとして真正面から見つめていきたい。
まあ一番よいことは、そうしたことは意識せずに、あまり深くは考えず囚われ縛られることなく、時間に任せてやり過ごすことだろう。
元旦に来た年賀状に、今年は断捨離に徹底します、と新年の抱負を記された方がいた。もう何年も前からそうした「捨てる技術」がブームになり、今やそれが「終活」まで行きついた感がある。
むろんそうしたい方、その時間があってそうできる方はそうすべきであろうし、とやかく人様のことは言う資格もない。が、ものでも何でもあれこれ抱える身として、今まで何でも捨てないで抱えて来た者として、嗤われるだろうが捨てないこと、抱えていくことへのプライドがある。覚悟もできた。
溜め込み死蔵することは論外だが、あれこれ持っていて、あれこれあったとしてもそれはそれで決して悪いことではないだろうと。誰にも迷惑かけなければ。そう、ない、よりも、ある、ことのほうが良いに決まっている。違いますか。
このところ、D・ソローの本などをまた折々目を通しているが、まさに正論だと思うし彼のようにシンプルに生きたいとも思うが、それは孤独に耐えうる強さがあってのことだと気づく。
我のように、万事何ごとにも弱い人間は、人間関係も含めて多くの人と関わり有象無象の多くのものを抱えていきていくしかないのかと思う。
それで後に残されたものがどれほど苦労するかって!? 確かに妻や子孫がいれば彼らに迷惑もかけるだろう。が、やがて天涯孤独の身となる者として、生きることが捨てていくことならばそもそも生まれてくる意味なんかないじゃん、と今は思っている。
嫌だって人は裸で生まれて裸でまた死ぬのである。わざわざ断捨離などというブームは家族あっての人に向けた政府のマスコミ操作ではないかと訝しく思っている。
トラブルは我が影法師 とは言ったもので、バカでだらしなく考えが甘い故に、いつだってどこかしらで必ず失態失敗をしでかす。繰り返す。
まあ、今回の山梨の古民家の空き巣騒動も、ある意味起こるべくして起きたことだと今つくづく思う。そして被害は今のところないに等しい(と思う)わけで、ならばこの程度で気づき済んだことはとても良いことだと考えている。
ただ、こうしたことを書くと読まれた方が心配し心痛めてしまうことも多々あり、それもまた本意でなくただ申し訳なく思う次第だ。貴方のやさしさこそ貴方の宝であり大切にして頂きたい。
このところずっと頭の中で、寝ても起きても念仏のように唱えていることがある。それは「全てを受け入れ全てを赦し、全てに感謝していく」ということで、どんなことが起ころうともただそれを受け入れていこうと覚悟した。
この世のこと、起こることはすべてに意味と理由があり、無駄や無意味なことは一つもない。事故や老いも病も死すらもそれはメッセージであり、そのことから気づき学び得ることは必ずある。
ならばそれは悪いこと、否定すべきことだと考えるべきではないし、そのトラブル、難事の中において、意味を問い、成すべきことを模索し全力で対処したり立ち向かうだけの話だ。
しかし、そう頭ではわかって言い聞かせていても何かトラブルや事件、頭を痛める問題が起こると心は乱れ激しく動揺し気は転倒、パニック状態に陥ってしまう。
もっと何ごとにも動じない肝の座った男でありたいと願うが、こればかりは我の根本的資質の部分のところにある弱さ、問題点なわけでどう矯しようもない。できることはそうした弱い人間だと深く自覚し弱さをみつめていくだけだ。
そして何より注意しないとならないのは、我の場合、いや、人はおうおうにして、不安や哀しみなど負の感情を怒りや憤りに転嫁させてしまうことが多々あることだ。そしてその怒りやイラつきで他者を傷つけてしまう。
起きないことは起きないわけで、起きてしまったことは誰のせいでもないし、しいて言えば起こるべくして起きたことだったり、まったく理解できない想定外のことすらまま起こる。その気持ちは胸に溜まり心が張り裂けそうになると、大声で泣くならばともかくも怒りや憤りとして爆発させてしまうことが我もまたよくあった。
今もまだ、古民家のこと以外にも憤るような思いやうまく処理できない哀しみ、説明できない不安が心の中に渦を巻いている。だが、だからこそ、そうした感情を外へと他者へ転嫁させるのではなく、不安は不安として、哀しみは哀しみとして真正面から見つめていきたい。
まあ一番よいことは、そうしたことは意識せずに、あまり深くは考えず囚われ縛られることなく、時間に任せてやり過ごすことだろう。
元旦に来た年賀状に、今年は断捨離に徹底します、と新年の抱負を記された方がいた。もう何年も前からそうした「捨てる技術」がブームになり、今やそれが「終活」まで行きついた感がある。
むろんそうしたい方、その時間があってそうできる方はそうすべきであろうし、とやかく人様のことは言う資格もない。が、ものでも何でもあれこれ抱える身として、今まで何でも捨てないで抱えて来た者として、嗤われるだろうが捨てないこと、抱えていくことへのプライドがある。覚悟もできた。
溜め込み死蔵することは論外だが、あれこれ持っていて、あれこれあったとしてもそれはそれで決して悪いことではないだろうと。誰にも迷惑かけなければ。そう、ない、よりも、ある、ことのほうが良いに決まっている。違いますか。
このところ、D・ソローの本などをまた折々目を通しているが、まさに正論だと思うし彼のようにシンプルに生きたいとも思うが、それは孤独に耐えうる強さがあってのことだと気づく。
我のように、万事何ごとにも弱い人間は、人間関係も含めて多くの人と関わり有象無象の多くのものを抱えていきていくしかないのかと思う。
それで後に残されたものがどれほど苦労するかって!? 確かに妻や子孫がいれば彼らに迷惑もかけるだろう。が、やがて天涯孤独の身となる者として、生きることが捨てていくことならばそもそも生まれてくる意味なんかないじゃん、と今は思っている。
嫌だって人は裸で生まれて裸でまた死ぬのである。わざわざ断捨離などというブームは家族あっての人に向けた政府のマスコミ操作ではないかと訝しく思っている。
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