病人が身内にいるという憂鬱2016年02月01日 21時16分46秒

★寒さと憂鬱気分を吹き飛ばせ!       アクセスランキング: 164位

 2月に入った。一年で一番短い、しかも厳寒の候、気を引き締めて乗り切らないと春へ繋げられない。が、どうにも気分は鬱々としている。
 理由はいくつかあるが、いちばんの要因は母が入院してしまいその退院の目途もたたないことだ。
 病院に預けているわけだからある意味24時間看護されているので何の心配もないはずだが、やはり何とも気持ちは落ち着かない。むろん容体は予断をゆるさないとか危険な状態ではないが、何か不測のときに備えて携帯は常に寝るときも手元に置き病院からの連絡に備えている。それだけでも憂鬱である。
 コンサートなどで音楽を聴いていても、人と会い話していても気もそぞろというほどではないが、常に母のことが頭から離れずなかなか集中出来ない。
 これまでも何回も父母共にそれぞれ入院し集中治療室に入ったり大きな手術を受けたりして長く入院させたこともあったが、たいてい先の予定、目安はあってのことだった。
 今回はそれがまだ見えていないし医師からの説明を一度も受けていないということもある。が、今書いていて気づくが、やはりいつだって親たち、つまり家族を入院させているときはこうした気分に陥るのだと思い出した。
 喉元過ぎれば、の諺通り、退院でき元のように元気になればこの気分はすぐに忘れてしまう。それは不安や心配というよりもともかく憂鬱に尽きる。
 つまりいつ容体に変化があるかわからないから、「待機」を余儀なくされ気軽に出かけることもままならない。以前のように、気が向けば母と一緒に山梨に行けたのが夢のような気が今はしている。
 家族に病人がいる人、病人を抱えている家庭では皆誰もがこうした憂鬱な気分なのであろう。我もまた簡単に「同情」していたが、じっさい当事者となってみて、その気分を今さらながら思い出している。

 思うに、人間というものは、どんなときでもどんなことでもそのときになって実際に体験してみないことには本当のことは何もわからないのである。話を聞いたり、様子を見たりすれば、その当人たちの気持ちはわかったような気がする。
 しかし、いくら深く「同情」できたとしてもそれは当事者の気持ちとは違い浅はかなレベルのものでしかない。百聞は一見に如かずと言う。だが、さらに言を尽くせば、一見は一経験に如かずが正しいのである。
 しかも情けないのは、体験した当人でさえ時間が経てば記憶も薄れ、そのときの「気分」をすっかり忘れてしまうことだ。
 よほど筆舌に尽くしがたい心身に傷と残る戦場体験のようなものならそうした「風化」はないのかと想像するが、単なる病気やその介護程度の出来事、ちょっと大変な死ぬかと思った程度の出来事だと、そのときはショック受け悩んだり憂鬱にはなるが、過ぎて追わればその時の気分をすぐに忘れてしまう。他者の死でさえもそうではないのか。

 間もなく大震災の年から5年を迎える。あれほどの大事件があったのにも関わらず、今また津波はともかく、原発は次々と再稼働しはじめまるでフクシマの事故などなかったかのような風潮の日本社会である。
 今だって被災し仮設住宅に住む人たちがたくさんいる。そして原発事故により故郷を奪われ戻れぬ人も。そして廃炉に向けた作業だって大して進んでいないし、被害住民への補償だってどうなったのか。
 一億総活躍社会というスローガンは良し。しかし、そのためにはまず大震災の被災者たち全員を救い真の復興を成し終えてからの話であろう。
 目先の景気に一喜一憂するよりもそうしたこと以前の、日々苦しでいる人がいることを知り、彼らのために少しでも手を差し伸べることを人はまずなすべきなのである。当事者の痛みは代われないからこそ知ること、忘れないこと、今なすべきできることを少しでもしていかねば。

 つまるところ、人間とは常に、喉元過ぎれば、忘れてしまうものであり、悲惨な戦争体験でさえ、その体験した当事者たちが消えてしまえば、すぐまた戦争とは映画やゲームの中のような、カッコいい百田尚樹の小説のような勇壮で感動的な立派な行為と美化されていくのであろう。何しろ我が身を捨てて国家のタメに命を捧げるのであるからこんな素晴らしく立派なことはない。
 そして同様の教えを受けて今日もアフガニスタンのカブールやシリアの要所、そしてアフリカ各地でも神に忠誠を誓い組織から使命を受けた若者たちが爆弾を巻き付け人込みでの自爆テロをしでかしていく。

 愚かである。だが、そうしたものが人間なのであり、否定してはならない。そして世界が破滅にさらに向かわぬように、願わくば「体験」せずとも「想像」することにより、悲惨な事態、大変な状態に陥らずとも救われることはできるかもしれない。
 そのためには人は互いに助け合い励まし合い支え合うことからだと信ずる。

 このところそんなわけで憂鬱である。だが、だからこそこの気分をすべてが解決したとき、過ぎたときに忘れないようにせねばと思う。

わが生涯ほぼ最良の日2016年02月03日 00時19分32秒

この日は奇しくも、ようさんのバースデーでケーキが用意されていた。
★神様は良くしてくれると思った日     ランキング

 日付は変わったが、今さっき帰って来た。永井ようさんと一緒に立川まで帰って来た。まさに夢のようである。先だっての田中研二といい、ずっとレコードの中で子供の頃から憧れるだけの人と現実に会い、お話して応対してもらえるなんて光栄としか言いようがない。願っても常にかなわないのが人生なのだから、まさに夢見心地だ。

 俗にロック三大ギタリストとか人は言う。ジミヘン、ページ、そしてクラプトンであろうか。もしそれが日本のフォークシーンのそれだとしたら、我は間違いなく、こう挙げる。中川イサト、有山淳二、そして永井よう と。
 イサトさんはあの超人気者、押尾コータローの師匠だからそっちのほうからご存知の方も多いと思うが、まさにフォークギターの神様であり、それは今も昔も変わらない。そして、有山は、日本にラグタイムギターというスタイルを初めて知らしめた偉人であり、知る人ぞ知る天才である。
 そして永井さんは、ディランⅡで、メインボーカルの大塚まさじの右腕として達者なギタープレイを披露した方で、当時、我が体験した70年代のフォークソングの世界では、イサト、永井ようは、ギター弾く若者にとって憧れの二大看板、ギター名人として双璧の存在であった。

 が、彼は、いろいろあったのかと思うが一時期音楽の世界を離れ、ずいぶん長い間休まれていた。ちょうど世紀が改まる頃からであろうか、再びギターを手にし、しかも自らの「うた」を伴って我らの前に再登場してきた。それ以来、我はずっと注目し続け、彼のギタープレイよりもシンガーとしての「ながいよう」という人に関心を持って観続けて来た。

 そのディランⅡという稀有なバンドは、まずは当初の中心人物才人西岡恭象のセンスに負うところは大きいと誰でも認めるであろう。そして、彼が抜けた後は、メインボーカル大塚まさじの個性が強く全面に出て彼のバンドだと思う方も多い。が、実はその独特なサウンドは、名ギタリスト永井ようの資質によるところが多大だと我はずっと考えている。

 ディランⅡのレコードに針を下せば誰もが気づくのは、静謐な澄みきった研ぎ澄まされた音楽風景だ。あたかも湧き出る冷たい清水のごとくに。だが、それは永井さんのソロアルバムを聴けばわかるが、彼の音楽にはいつも澄んだ風、澄み切った水が流れているように、そもそも彼の持つ資質によるものだったのである。
 まさじ氏のうたが泥臭い、ねばっこく油ぎったうた世界を示すのに対し、永井さんは昔も今も常に澄んだ流れる水のような音楽を続けている。ディランⅡは、そうしたまさに水と油の反する個性が名コンポーザー象さんの手で紡ぎ合わされた奇跡のトリオだったと今思える。

 そのようさんとは、何年か前、彼がソロシンガーとして稼働再開し大阪から東京にに来られた折、お会いしてお話しする機会を得た。早や10年近く経つだろうか。以後、機会合うときは必ずそのライブに通うようにしているが、その音楽世界もだが、ご当人も本当に気さくかつ真面目な真っ正直な方で、長年のファンであったがますます魅了された。ミュージシャンにありがちな面倒なクセや驕りは些かもなく人間として真に尊敬できる立派な人だ。
 我の知るミュージシャンは多く、どうしようもないが愛すべき人ばかりでうたと人間が解離している人も多い。だが、真に音楽も人柄も同様に裏表、嘘偽りのない、素晴らしい人の筆頭は永井さんである。

 で、何で今日2月2日、その永井さんと会ったのか。その説明がしていない。
 実は、彼を知る女友達から昨晩遅くメールがあり、その永井さんが谷保かけこみ亭に来て、さこ大介さんたちも来て呑むので、マッサンも来ないかと誘われたのだ。
 彼は、今回、件の江東での大きなフォークイベントに、ディランⅡ再結成で出演するため上京され、それらを終え明日、現在住まわれている沖縄に帰られるのだが、本日は一日オフ日となり、かけこみ亭に私的に来られたのであった。
 むろん、旧知のさこ大介大兄も来られて、永井さんを囲んで居合わせた皆で楽しいときを過ごした。そして最後は二人で、今晩彼がホテルをとった立川まで一緒に電車で帰って来たのだ。

 私事をいえば、今日2日午後、立川の病院に老母を見まいに行ったら担当医と会え、熱もようやく昨晩から平熱に下がってきたので、このまま問題なければ早ければ今週金曜日頃には退院できるかもと説明を受けた。ほっとした。先が見えた。
 それから家に戻って、かけこみ亭に行くためにも来月の高坂一潮さん追悼ライブのチラシを大急ぎで作って、それを持ってかけこみ亭に出向いた次第。何とか夜8時に着けた。
 家出していた黒猫も帰って来たし、敬愛するながいようさんと心ゆくまでお話できたし、今年は何が何としても沖縄に行く約束までしてしまった。彼は読谷村に今おられる。

 いろいろ辛く苦しい迷う日々がこのところ続いたけれど、急に視界が晴れたように、一気に曇天の人生に陽が射してきた気がしている。今日は良い一日であった。我が生涯ほぼ最良の日だと言えるほどだ。
 嗤われるだろうが、今の気持ちは、神様は常に見ていてくれて、良くしてくれる、ということだ。本当に有難い。ただただ神に感謝である。そして拙ブログの読み手の皆さんにもご加護がありますように、祈ろう。

 たまにはこんな日があったって良いだろう。さあ、この喜びを糧としてこれからがんばろう!! 皆様にも神のご加護がありますように。人生には思いもかけず良い日がある。だから貴方も投げ出さずがんばって。

一潮偲ぶ会のチラシ(仮)2016年02月04日 21時55分35秒

★とりあえず簡易版ですが・・・    アクセスランキング: 90位

選択肢がないことと「支持」は違うはずだ。2016年02月05日 22時24分22秒

★安倍内閣の支持率上がっていることについて思う。      アクセスランキング: 108位

 このところ各種の世論調査で、安倍内閣の支持率が上がっている。甘利氏の閣僚辞任という不祥事があったのにも関わらず実に不思議である。景気回復の実感も未だ大多数の人は持たないのにも関わらず、安倍内閣、アベノミクスを支持するのはまさに不可解というしかない。
しかし、その理由にはわけがある。それに関連して考えたことを書こう。

 先日のこと、我が市のガス会社から通知のお知らせが届いた。プロパンではなく、各個の家ごとに配管している、都市ガス会社である。
 それには、「電気の販売をはじめます」と大きく見出しがあり、「●●ガスでは、都市ガス、プロパンガスの販売に加えて、一般のご家庭向けに電気のサービスを開始する準備をすすめています。お得な新サービスにご期待ください」と今後、電力の自由化で、その会社も電気販売事業に参入する旨が書かれていた。

 やったあ~と思った。これで東電、東京電力を利用しないですむ。今までは、原発をなくしていくどころか、再稼働を今もなお進めている東京電力に対して、何度も本社前で抗議の声を挙げつつも、無力感を強く感じていた。いくら抗議しても、東京、関東近郊の住民は我も含めてけっきょく東電から電気を買い、東電はその中から原発関連にも予算を組んでいく。株主となって、そうした事業方針の撤回を迫る以外に、じっさいのところ電気は生活に必須だから使わざるえないゆえ東電を利用しないとならないという矛盾した状況がずっと続いていた。ある意味、原発の廃炉を強く求めながら、それに全く応じない東電を我らは支えていたのである。
 むろんのこと、太陽光他の手段で、東電をまったく利用せずとも生活している人は現実にいて、先日もお会いしたが、我家の場合、それに憧れるものの電気の消費量=生活の規模が大きすぎて今はまだ不可能だった。

 しかし、こうして電力の自由化で、我の住む町でも東電以外のオルタナティブな電力会社が選べそちらから電気を買えることとならば、もういやいや東電を利用することはない。それこそ、東電との契約を打ち切るときに、はっきりと、原発を稼働、建設や維持し続ける間は、今後とも絶対に東電は利用しない、と意思を表明するつもりでいる。
 そのようにして、今原発に反対している人たち全員が、はっきりと東電に抗議の意思としての利用中止を告げて行けば、やがては、東電側としても彼らのビジネスに支障が出るならばと、原発推進という社是を変えざる得なくなるかもしれない。むろんそんなことは半国営的巨大企業には蟷螂の斧でしかなく、何も変わらないかもとも思う。
 が、どんなことでも、我々は利用者、生活者としてまず悪しき企業とは関係を断ち、絶対に利用しない、その社の製品は購入しないなど結果として支援しないというスタンスを示していくしか道はない。
 原発には反対だが、東電は利用するという、我々のジレンマ的矛盾をさんざん右翼たちからは批判されてきたが、これならば終始一貫している。東電はもう絶対利用しない。そしてその理由をはっきり彼らに伝えていく。

 と、何でこんなことをまず書いたか。実は、安倍内閣の支持率というのもこの、今までの電力事情と同じなのである。この史上最凶内閣を支持する理由として今もかつても一番多いのは、政策が信頼できるからではなく、「他の内閣より良さそうだから」であって、要するに選択肢がないゆえ、失点もなければ支持するしかないか、という消極的なものでしかない。

 先の東電の例をひいて言えば、我は東電の経営方針を支持してきたわけでは絶対ない。が、東電を利用してきたのは、他に選択肢がなく、仕方なく嫌々だが利用してきたに過ぎない。
 それと同様に、残念なことに今の日本の政治状況では、多くの人にとっては、自公政権にとって代わる、よりマシな政権がないのである。国民はいったんは民主党に政治を託した。が、その結果がどうなったかは今も手痛い心の傷としてずっと残っている。
 現実の話、弱小野党がパラパラなまま乱立している限り、他の内閣という概念自体が成り立たないし想定もかなわない。となれば選択肢がない故に、今あるそれを支持するしかないと考える人は当然多い。

 しかし、こんな支持率は当然ながら実態を伴っていない。彼らがどれほど巨悪でとんでもないことを考えているか、これまでしてきたかは明白なのである。ただ、多くの日本人は目先の景気だけに囚われて、日銀総裁言うところの、今はまあ、景気は回復基調にある(と思われる)ならば、他の選択肢がないゆえ、彼らを支持するしかないではないか。

 こんな支持率上昇は何も怖れることはない。じっさいに景気は回復したとしても庶民の懐に入る金は減り続けていくし、株が上がろうと下がろうと一切それは変わらないではないか。
 繰り返す。そもそも選択肢がないことと「支持」は違うはずだと。
そして何より問題なのは、そのもう一つの選択肢、オルタナティブなそれを野党がバラバラで示せないで今もいることなのだ。
 国民の多くは実は、真に民主的な、一般大衆の願いが通るまっとうな政治、政権を常に望んでいる。だが、その期待は民主党に託したが見事に裏切られた。そして今もその党内には、野田氏や前原氏、長島氏のような、自らの保身しか頭にない、国民そっちのけの身勝手な政治屋がデカい顔して、野党の結集に背を向け足を引っ張っているのである。それでは、いつまでたっても政権選択肢はなく、国民は仕方なく自公政治を支持してしまうだろう。

母は本日退院できた、が・・・2016年02月06日 22時14分39秒

★抗癌剤はもうこりごりか          アクセスランキング: 118位

 まず報告したい。おかげさまで、我マス坊の母は本日6日、退院となった。先週の土曜日の昼前、かかりつけの立川の総合病院に連れて行ったら即入院となってしまい、それからちょうど一週間であった。いろいろご心配おかけしたが、ともかく退院でき今ほっとしている。有難いことであった。

 実は入院させてもなかなか熱が下がらず、ずっと抗生剤を朝晩一時間点滴で体内に投与して、この数日ようやく平熱となって落ち着いてきたので今日退院できた次第。
 担当医としては、もう少しゆっくりして月曜までいたらと勧めていたらしいが、入院している当人よりも我のほうがもう限界となって退院がゆるされるなら一日でも早くと急かしたのだ。
 そもそも今回の発熱、当初は風邪かと思っていたのだが、家で薬呑んでひたすら寝ていてもなかなか熱が下がらず、仕方なく病院に行ったら、白血球の数値がかなりダウンしていて、こりゃ危ないとすぐさま入院となった。そして一週間で本日やっと退院となった。その経緯をもう一度記しておく。

 癌が再発し、肥大を抑えるため1月18日に、立川のかかりつけ病院に入院し、翌日19日、一日かけて抗癌剤を点滴で体に入れた。そして20日に退院した。一週間後の27日午前に、経過を確認すべく行ってまた採血し数値を調べた。が、そのときは白血球の減少は見られず、医師の話だと今回は通常の六割の分量しか入れなかった、念のため2月1日に、もう一度来て数値を確認するということで帰された。
 が、あろうことかその日の夕方から急に体調崩し、熱が39度近くまで上がった。家にあった病院から前に出してもらった風邪薬呑ませて寝かせたら朝にはいったん熱は下がった。が、午後~夕方になってくると熱はまた出て38度台を前後してしまう。なかなか治らない。そんな日が三日続き、土曜も朝から37度5分あったので、週末でも午前はまだ病院はやっていたので、慌てて近くのかかりつけ病院へ車で連れて行った。
 そこで血液採って数値を調べたら白血球の数値ががくんと下がっている。このままだと危険だとすぐさま紹介状を書いてもらい、抗癌剤をやった立川の総合病院に行ったら、幸い母の癌の担当医もいてすぐ入院となってしまった。

 我としては、熱さえ下がればすぐ退院できるだろうと気軽に考えていたのだが、どうやら風邪やインフルエンザではなく体内、腸に細菌が入り?炎症を起こしているらしいと、かなり高額の強い抗生物質を連日投与して熱を下げることを第一に治療が続いた。
 当人は意識もしっかりあり、口から食事も自らとれていたから、入院当初の点滴による栄養補給は数日で終わったが、その後も朝晩10時から一時間、抗生剤を続けて入れて、ようやく一昨日の夜から熱も平常に下がって来て退院の目安がついてきた。

 それでも今日も朝6時から採血して、また数値を調べてやっと退院の許可が下りたという次第であった。しかも退院間際まで、抗生剤をまた一時間投与されて、あと一週間錠剤のその薬を持たされて、来週の水曜にまた再度行って採血して確認するということであった。
 いろいろ有難いことであるが、改めて今回はかなり危険な状態であったのかと今にして思う。腹部のレントゲンでは、腹膜炎も起こしかけていたとも後で言われた。
 そもそもその発熱が何によるものなのか定かではなく、単なる風邪とか庭木伐採、剪定作業に立ち会った疲労感によるものなのかも判断できないが、担当医は抗癌剤の副作用だろうと考えているようで、もう抗癌剤は今後中止にすると退院のときに言われてしまった。
 となると、他の治療法は現段階ではないわけで、癌がさらに肥大していくとすればさて、では今後どうしたものかという悩みが出てくる。

 しかし、先のことはともかく、今は何とか無事?に退院となったことだけでも有難いことだと感謝せねばなるまい。じっさいのところ、風邪だと思い込み、あのまま週明け月曜まで家で風邪薬だけ呑ませていたら、たぶんさらに熱は上がり急患で病院に運ばれても手遅れとなっていた可能性も高い。土曜日に立川に行き、幸い担当医とも会えたから適切な治療が受けられたわけで、相変わらず運が良いと言うべきか、ギリギリセーフであった。

 昔の人はいざしらず、今の日本人は、病院で生まれ病院で死ぬ。我の周囲の同世代の者を見回しても、その親たちで既に亡くなった人は、風邪程度で家族も当人も気軽に入院したはずなのに、入院中に感染症罹ったり、急に肺炎併発して容体急変したりと、思いがけず不帰の人となってしまう。
 今回も抗癌剤をやったということもあったが、まさかこんなふうに一週間も熱が下がらず入院するはめとなるとは思いもしなかった。その副作用は吐き気とかメマイ程度のものかと予想していたのだが、母がベテラン看護師から聞いた話だと、このように39度には至らない程度の高熱が続くことはままあるらしい。担当医からも今後も37度台でもまた熱が再発したらすぐさま来るようにと釘を刺されてしまった。
 今の気持ちとしては、癌治療のためには、再度もう一度は抗癌剤投与もやってみる価値はあるかとも思うものの、やはり高齢であることと、六割がたの分量でこんなふうな副作用が出るのだとしたら、おっかなくて躊躇うのが筋かとも考えてしまう。
 年寄りにとって、入院すると生きて退院できないこともままあるのである。今回は幸い「退院」できたが、これからは覚悟のうえで入院させねばならないと知った。

 それと・・・これは書くべきか迷うが、母が入院して不在となると、さらに高齢の認知症の父と我、男二人だけの生活はとても維持できないことを今回痛感した。父のボケが母がいないと急激に進み、息子一人だけでは介助不可能だと思い至った。ともかくうっかり目が離せない。
 彼の妻がいないと不安からなのか、あちこちにトンチンカンな電話をかけたり、早朝寒い中起きだして庭先で作業始めたり、何度でも同じ質問を執拗に繰り返してきたり、些細なことで怒り暴れたりと、それにこちらもキレて悶着、騒動が絶えない事態が多発して精神的にこちらまで疲弊してしまった。そんなこんなで夜になると頭痛が激しくこの一週間、病院通いと家事に追われて自らのことは何一つできなかった。
 何とかこの一週間で母が戻って来たので、父の発狂的ボケ騒動は収まったが、一週間がぎりぎり限界で、もしこのまま母が不在となれば、父を息子が殺すか、さもなければ父は施設に預けるしか対処のしようがない。
 今さらながら、母の存在の大きさと、何とか我が家は老いた父と母、それに初老の息子の三人が揃っているからぎりぎり維持可能なのだと深く思い知った。その一人でも欠ければこの家は成り立たない。

 いずれにせよ、もう母の熱は上がらないこと、減少した白血球が戻ることを祈り期待するしかないし、それは可能だと今は思うものの、今回の一件で我が家は新たな段階に入ったと今思わざるえない。
 辛酸佳境に入ったとは考えないが、癌抱えた病身の母とアクティブ多動性認知症の父を二人だけにして、息子一人で山梨へ何泊も出かけたり家を空けることはもうできないかもしれない。
 せいぜい晩飯の支度だけしてから、夜から近場のライブに出かける程度は可能だろうが、老親二人だけにして、つまり母一人に父を頼んで長く家を空けることは困難となった。まあ、それもこれも当然の帰結であるけれど。老いはさらに進みさらにすべてが困難となっていくのも仕方ないことなのだ。

 こいつぁ、春から縁起がいいわ~い、という歌舞伎の見切りがあるが、今の気分は、こいつぁ、春から憂鬱だわ~い、であろうか。

 まあ、今晩は、ともかく母が帰って来たので、父も犬猫たちもそして我も一家全員が喜び安心し枕高く眠れるであろう。汝、明日のことはまた明日煩えと聖書にはある。今晩は何も考えず退院できた喜びを味わいたい。
 外は冷たい雨が降り続いている。

仕切り直し、立て直し、人生一から出直しやり直し2016年02月07日 20時42分10秒

★今さらこの歳でまたここからスタートを     アクセスランキング: 114位

 人はそれぞれ人生のビジョンを立てて、学校を出たら就職しやがてパートナーをみつけて結婚し家庭を築く。そしてさらには子供も独立し親たちを看取り、悠々自適の老後の日々を迎える。
 周りを見回しても大概の人が多少の違いはあってもそうした道筋を歩み家庭を持ち、妻子との関係を拵えている。それが普通だと思う。フツーの人は皆それができ、ごく当たり前のこととして誰もがそうて生きている。
 昨今、非婚のススメとか、何も結婚だけが人生の全てではないと説く本や風潮がマスコミをにぎわしている。むろん結婚していない男女も若い世代ほど多いのが今の日本社会だから、今までの常識や概念は変わりつつある。
 しかし、結婚していない者として、意識して非婚や独身主義を貫いたわけではなく、結果として結婚できなかった者として、つまり誰からも相手にされなかった者として言いたいのは、人はできるだけ早く結婚すべきだということだ。それこそが普通だし、たとえ離婚したり別居したりしたとしてしも人は人と出会い付き合い愛し合い暮らすべきなのである。
 
 親や子との暮らしもまた家族ではあるが、そうした血肉を分けた関係や付き合いはできれば長く共には暮らさないほうが良いとこのところつくづく思う。同じ血が流れている者とは暮らせないし暮らすべきではない。
 それは近親婚も同様に、動物の群れを見ればわかるように、本来遺伝子的に否定されている。子はやがては独立し育った群れから出て新たなパートナーをみつけ新たな家族を作るようにできている。
 そしてそれがうまくいくのは本来他人と共に築いていくことだからであり、ときにぶつかっても別人格別遺伝子ゆえにゆるし合えるし受け入れられるのだと思う。
 同じ性質と形質を持つ者はぶつかりあえばとことんどちらかが勝つまで殺し合いのようなことをしてしまう。また体質も近いから良い時も悪い時もすぐに感応し過敏に反応し結果は大きなものになっていく。

 私事だが、この歳で今老いた親たちと暮らしていて、本当に失敗したなあ、誤ったなあと心底思う。むろん子として世話や面倒みること、介護したりは当然の務めだからそれは失敗ではない。
 ただ親の家で共に24時間暮らすことは、子として肉親、近親ゆえにもう耐え難いほど辛いものがある。家族に対して強い怒りと憎しみ、憎悪を日々抱くことは人の心を病んでいく。むろん親たちもこちらに対して同様の思いであろう。
 これが他人ならこんなに憎みあわない。後腐れなく縁も切れよう。しょせん別人格、赤の他人なのだから合わなくて当然、怒りを爆発させそれでお終いにできる。
 家族、それも兄弟姉妹はともかく、親というものはそうはできない。縁を切りたくても切れるものではない。昔は親が子を勘当だとして、親子の縁を切ることができた。
 もし今でもそうしたことができて、逆に子が親との縁を切れたらどんなに良いことだろうかと考えるが、不孝とか以前に、人として、そして現実問題として今の自分はそれはできない。ただただ憎しみと憤懣、屈託を抱えていく。
 このところ親父のことで夜になると頭痛が激しく頭が割れるように痛い。まあ、母は退院できたから、とりあえずその応対は任せるとして今日は一日、昼間中泥のように眠ってしまった。いくらでも眠れた。それこそ安逸安息は眠りの中にしかない。

 そして今思う。この現実を抱えて、今さらうまくやり直しもできないし後悔しても仕方ない。せいぜい仕切り直して、気持ちを切り替えて、ここから、この中で何とかやっていくしかない。
 人から不義理ばかりしているからどう思われても仕方ない。いまさらまた1から出直しという気持ちで、何とか一つひとつやっていくしかない。

 今さらこの歳で、この体で何一つ持たないところからのスタートは正直しんどい気がする。が、逆に妻子とかいないことは足枷がないことだと考え直して、もう一度人生を立て直していく。これもまたこれこそ自己責任なのだから。

「家族」についての再考2016年02月08日 08時44分07秒

★人はもっと離れて暮らすべき、まして血が魂が繋がる者とは アクセスランキング: 117位

 俗に、真夜中に書いた手紙は出すなとか、夜書いたものは朝もう一度読み直せと説かれている。それは真実で、確かに夜中や深夜に心の内を綴ると、内省的ならまだしもたいていはネガティブな後ろ向きの内容となることが多い。
 このところのブログも夜書くことが多く、しかも頭痛がひどい中、苦しい胸の内を吐き出すように記している。一夜明けて朝の光を受けて読み返すと、何とも恥ずかしいかぎりだが、今の気持ちとはかなり違っている。ならば夜など何も書くべきでないと自戒するものの、まあそれはそのとき書かざる得ない事情や気持ちがあるのでご容赦頂きたい。

 2月8日、月曜の朝である。また新しい週が始まる。老親たちのことはともかくも病院通いとかなくなったので、ようやく腰据えて自らのことに向き合える。今週中に溜まりに溜まってしまった連絡事項など片づけて、まず27日の、中川五郎氏の「反戦歌」ライブを成功に導いていかねばならない。
 まあ、今の五郎氏の勢いなら、非力な我が宣伝しなくともそれなりにお客さんは入るかと想像するが、ソロコンサートではないのだから、この企画自体を意義ある、しっかりしたコンセプトに基づいたものにしトータルに観客に示さねばならない。それこそが、企画者の役割であり、プロテストソングを半世紀の長きにわたって歌い続けて来た偉大な人を真に尊敬し讃えるべくその全姿をあますところなく表現できるよう場を整えなくてはならない。
 うだうだ我が家庭の事情などにかまけている暇はなかったのだ。朝の光を受けてようやく気持ちは戻ってきた。そのうえで、昨晩書いたことの続きを少しだけ書きたい。朝の散歩で考えたことだ。

 
 家庭とか家族というのは実に難しい。動物には、生殖の時だけ出会い、あるいは子育て期間だけ共に雄雌が暮らし、後の期間はばらばら、個々に暮らすという形態が多い。
 一方猿類もだが、高等生物になるにつれて、そこに群れとか家族という「集団」の考えが入って来る。人間に至っては、いったん出会ったパートナーとどちらかが死に別れるまで生涯の長きにわたり一緒に暮らす。
それが結婚であり、家庭を作ることであり、家族を持つということだ。
 そこにはおそらく社会的理由が存在しているのであろう。男女の分業が確立し、男は外で働き、女は家庭で料理や子育てなど内助の功を発揮し、それぞれの役割が決まっていった。それは昔は必然的なことであり間違いではなかった。

 が、今日では、仕事も含めて社会的役割には男女の差はまつたく関係ないはずだし、内助の部分でさえも男女の違いは単に女は子を産める、男はそのための精子を提供するというだけの違いでしかない。
 そして生まれてくる子供は人間の場合、牛や馬のようにすぐに自分で立ち上がり乳をのむように手がかからないタイプの真逆で、親や大人たちの介護がないかぎり一人ではすぐに死んでしまう。
 となると、彼らが一人で生きていくだけの大きさに成長するまで親たちはひたすら世話し面倒をみないとならない。
 人間の場合は、一人で餌をとることは、自ら就職して金を得ることと同義だから、けっきょく成人し仕事に就くまで親の役割は続く。しかし、親と子の関係はそこまでで良いのである。
 後は他の動物たちと同じく、居心地の良い「家」を出て、自ら稼ぎ一人で暮らしやがては異性のパートナーをみつけ親たち同様また家庭を築けば良いだけの話だ。それを古来から人間も動物として続けて来た。他の動物なら成人してしまえば後は親子といえども没交渉であろう。

 が、人間は、その後までも、代々家族は続いていくものだと考え、一族という縦の血縁による時系列を大事にしてきた。親は子を作り、子はその孫を産み、さらにその上には祖父母も存在し互いに関係を持ち続けていく。
 いくら核家族が進んだとしても、離れていてもその血を分けた家族という概念は消えてなくならない。
 そして今一番の問題は、若き日に親が子を産み育て、成人まで面倒みたように、老いては逆に、今度は子が親を死ぬまで面倒を見ないとならないということだ。
 むろんそれは義務ではないし法律で決まってもいない。また、人間でも西欧諸国などでは、個人主義が進んでいるから、老いても親は親だけで暮らし、子の世話にはならない、子も面倒を見ないという風潮が一般的だ。翻って、このアジアの、日本社会では、国家が個人を管理はしても世話しないのが当たり前だから、最終的には、パートナーの片割れが、そして子が、ときに孫までが老いた者の最後を看取る。

 西欧で言うところの養老院的、社会基盤ができていないこともある。長くなるからその違いは簡単に説明できないが、要するに、諸外国では、土地も家も不動産資産は、個人の所有ということは少ないから、そのぶん国家に余裕があり、老人は国家に結果として付託した自らの資産で老後の面倒を見てもらえる。消費税が高い分だけ、社会保障、福祉はきちんと充実している。
 日本の場合、基本すべては自己管理、自己責任だから、金のある人は、子の世話などにならずとも自らの資産で、生涯型特養など快適な終の住処に入ることもできる。が、年金でかろうじて生活している低所得層の老人はそれはかなわない。結果として、家族が面倒みないとならない。いや、最終的には、認知症などが進めば、家族は介護を断念し金はかかっても老人専門施設に親たちを入れざる得ない。

 それが正しいとか、こうした社会の仕組みの是非については今考えない。ただ、確信をもって今思うのは、人は夫婦という男女であれ、あるいは同性であろうとも、別に常に一緒に暮らさなければならないわけではないのだ。
 互いに大事な人だと、思いが、魂が繋がっていれば別に生活を共にせずとも何も淋しくないし、逆にたまに会って一緒に過ごすときの喜びは格段のものとなろう。友遠方より来る、楽しからずや、と古来中国の詩人はその喜びを巧みにたくさんの詩にうたっている。
 まして親子とは、血が繋がっているのである。濃い血で繋がっているのだから、共に一緒につねに暮らさなくとも、離れていても互いのことは感応しあえる。

 本当に大事な人とは、一緒に暮らすべきではない。今の人は、暇さえあれば、人と会って話しているときでも、手元のスマホや携帯を駆使して、来たメールのチェックに余念がない。見ていて本当に情けなく思う。
 人と繋がっているということは、そうしたやりとりでしか確認できないのかと思う。人と繋がるということはそんなメールや、フェイスブックでの「いいね!」の有無や多寡ではないと断言する。

 遠くにいて会えないときでも大事に思う人はいますか。向うはどう思ってくれているかはわからないが、我にはそうした人が少なからずいる。そのことを誇りたい。

母の抗癌剤投与後の覚書2016年02月09日 21時53分54秒

★一億総癌患者化時代だからこそ、より慎重に、より丁寧に  アクセスランキング: 99位

 母の退院後三日目となる。明日水曜にまた、立川のかかりつけの病院で担当医の診断を仰ぎ血液など採って調べるのだが、土曜に戻って来、今までは平穏無事である。おかげさまで有難いことだ。

 朝昼晩と体温を測り、記録しているが幸い37度を超すことはなく、老人らしく平熱の36度前後で落ち着いている。医師からは、7度超したらまたすぐ立川に連れて来いと言われているので、まあ今回の発熱騒動は終息したと考えても良いかと思える。

 これからのことは、癌の進行とその対策についても今は何も考えていないが、まず今回の抗癌剤投与とその予後について今さらだが記しておくべきかと思う。というのは、国民の二人に一人が癌に罹り、三人に一人が癌で死ぬとも言われている昨今、できるだけ多くの人に様々な情報は知れ渡ったほうが良いと思うし、やがて我が身も同様の事態を迎えると予測、覚悟して、そのためにも「抗癌剤」を投与するとどうなるのか今一度書き記しておく。

 我が母は、4年前、卵巣が原発と推定される癌で、大腸が癒着し腸閉塞のような状態となり、癒着した大腸と原発部位である卵巣など摘出手術を受けた。その後すぐに抗癌剤を半年間月一間隔で投与された。
 以後、約3年以上、癌はなりを潜め、体内に癌細胞は外科手術などでは取り切れず、残っていることは確認されていたが、活動していなかった。
 その間、癌に対して何か薬とかも何も処方されず、ひてすら丸山ワクチンを週に三回打ち続け、ときたま山梨のラジウム温泉増冨の湯に浸かりに行くぐらいのことしかしないでも無事であった。
 が、去年の春先から癌の再発が確認され、じっさい実体のある部位として、母のヘソ下、腸管膜というところに癌の固まりは当初数センチの大きさでエコーなどで確認され、やがてそれはじょじょに肥大成長し始めて来た。

 母は今年85となる。どのような癌治療を用いるか当人も家族も判断を迫られた。高齢ゆえ、もう一切の治療など抗癌行為は放棄して、患者よ、癌と闘うなと説く本のように、そのままこれもまた天命だと受け入れるべきかと考えもした。
 しかし、現実のはなし、大腸に再び癌が転移していったりすれば、手術の前のように、腹部の痛みと下痢や嘔吐などで口から食事は摂れなくなりどんどん痩せて弱っていく。それがどのくらい続いて死期を迎えるのかはわからないが、ただそれを諄々と受け入れ、見守るしかないことは家族としても不可能と思えた。
 ならば、医師からも、お母さんは高齢だけど元気だから、ともかくまずやってみますかと、勧められ、抗癌剤を再び開始することとなったのだ。
 前回のときも、母の場合その薬が体質的にあったのか、先生の処方が適切だったのか、ほとんど副作用はなく、頭髪が抜けた程度で、その薬は効果出て、癌は収束したのだから、今回も同様の期待が持てた。
 そして、年が明けて、1月の19日に、今回初めての抗癌剤が二泊三日で入院して二日目の朝から始まった。終了後医師から聞かされたのは、今回はまず様子見もかねて、通常の六割の分量しか用いなかったと。それで効果があるのか疑問視もしたが、結果としてそれでも副作用が現れたと思えるのだから、抗癌剤は怖いと今改めて思う。

 俗に、世に知られる抗癌剤の副作用とは、頭髪など体毛の減少、抜け毛以外に、吐き気や嘔吐、頭痛、めまい、ふらつきなどが現れるとあちこちで語られ書かれている。今回、母の場合はそうした投与最中などにすぐ現れる不快感などは全くなかったと言う。多少、家に戻って体のだるさなどは訴えていたが、発熱などもなく、ごく普通の生活を過ごしていたのだ。ただ、ご存知のように、投与後は白血球の数値が下がってしまう。あまり下がると、免疫力も低下し危険となるので、白血球?を増やす注射を打たねばならない。

 その翌週、ちょうど抗癌剤投与後一週間過ぎた水曜日に、検査のため立川のその入院した病院に行き、担当医に会い血液も採って調べた。何故かそのときは、減少は見られず7000もあり、まあ、六割しかいれなかったからねー、と医師からは言われて、念のため2月1日に再度検査するからと決めて帰された。
 ところが、その日の夕方頃から、母は体のだるさを訴えはじめ、夜になって熱を測ったら39度はなかったものの、38度台の熱があり、風邪をひいたかと当人も家族も思った。というのもその週は月曜から連日、伸びるに任せて来たイチョウやケヤキなどウチの庭木の伐採のため職人を呼び、母は寒い中、表に出て指示したり応対していたので、その疲れもあってのことだと思い込んだ。うちにあった風邪薬を呑ませて、ひたすら安静にさせて様子みていた。

 それから数日・・・朝になるとほぼ平熱に下がったり、37度ちょっとしか熱はないのだが、午後になると必ず上がってきて、毎晩38度台まで出る。風邪特有の咳や鼻水などないし、三日家で寝込んでも症状は相変わらずなので、このまま週末になって病院が休みになると心配でもあり、土曜日の午前に大慌てで病院に母を連れて行った。
 そして近くの病院で、説明して血液を採って調べたところ、白血球数が水曜に比べて半減していて、こりゃ大変だと立川に移り、担当医の判断ですぐさま入院となった。そしてそれから一週間、抗生剤を連日投与し続けてやっと熱は平熱に下がり無事退院となった。そうした経緯は既に書いた。

 今回、退院後、病院側から提示された我が母の「入院診療計画書」なるものを改めて読み直したところ病名欄には「好中球減少性発熱症」と記してある。そして病状の欄には、「抗癌剤を投与してから10日間経過しました。原因不明だが、熱が上がり、感染症が違われます。腸管由来とも考えられます」とある。そして治療計画欄には「抗生剤投与・好中球を増える注射・補液で経過観察します」とあり、じっさいその通りこの一週間、退院の日の午前まで、抗生剤の投与と血液検査、検温を繰り返し、ようやく退院許可となったのだ。
 ※「好中球」という聞きなれない言葉があるが、医者のはなしだと、白血球の減少の中で、いちばん問題とされるのが、その「好中球」という「球」だそうで、それが減少すると増やすべく即何らかの手を打たないとならないのだそうだ。

 今回の発熱、原因はけっきょくよくわからないのだが、やはり単なる風邪とか疲労によるものではなく、あきらかに抗癌剤をやったことによる「副作用」だと担当医は考えているし今我もそれに同意せざるえない。
というのは、退院後、ネット上の医療のサイトで、抗癌剤副作用で検索したり調べてみたところ下記のように記してあるのも確認したからだ。

★抗がん剤治療開始後7~10日頃から、白血球などの血液成分をつくる働きが低下してきます。白血球が減少すると、細菌と闘う力が弱くなり、感染しやすい状態になります。このため肺炎を始め、口腔内、皮膚、尿路、肛門、性器などへの感染に対する注意が必要です。白血球数は、治療開始後10~14日くらいで最低となり、3週間くらいで回復してきます。

感染症の主な症状

下記の症状がある場合は、できるだけ早めに主治医に報告してください。
 ・ 発熱(38.0℃以上)、悪寒おかん(さむけ)、発汗、咳、黄色の痰
 ・ のどの痛み
 ・ 軟便、下痢(化学療法の副作用の可能性もあります)
 ・ 排尿時痛
 ・ 頻尿
 ・ 血尿 etc.
  ――― 埼玉医科大学国際医療センター/抗がん剤治療を受けられるあなたへ(抗がん剤治療(化学療法)の副作用)4. 抗がん剤治療(化学療法)の副作用  より転載。

 母が発熱し始めたのは、そこにあるように、まさにちょうど『抗がん剤治療開始後7~10日頃から』、であり、白血球が減少したことにより、この発熱は感染症にかかったものであると推察するのが、医学的判断であろう。じっさい、38度以上の発熱を確認した段階で、すぐさま病院に行くべきであった。が、その日の午前に受診したときは、血液検査の数値も異常なかったため、夜になって熱が出てきたが、これは単なる風邪だろうと素人考えで判断してしまったのだ。
 今さらながら我は、いや、我が母も含めてウチは皆が迂闊で愚かだったと思う。もしこのまま家で発熱したまま風邪薬だけ呑ませて母を放擲してしまっていたらさらに病状は悪化していたことは間違いない。毎度ながら遅れたものの何とかギリギリセーフであった。

 そして今回は六割方の投与と言っても抗癌剤とは強い、危険な薬なのだと今さらながら恐ろしく思う。というのも母の頭髪はこの数日来目に見えて抜け出して来て、後姿、背中には抜けた白髪がびっしりくっついてギョッとしてしまった。
 このまままた全部頭髪は抜け落ちて坊主状態になるのか、抜け毛も途中で収まるのかわからない。が、たった一度の、それも通常より少ない量でも髪の毛は確実に抜け落ちてくるのであった。

 担当医ではないが、ならばやはり、もう抗癌剤はこれで中止とすべきであろう。考えが変わった。前回のときは、母はまだ八十代に入ったばかりで、それでも今よりずいぶん若く基本体力もあったのであろう。だから幸い副作用など毛髪が抜けるだけで済んだのだ。やはりもうこの年齢では、癌を殺すために、強い毒素を体内に入れるのは危険すぎるのであった。癌より先に、肉体そのものが副作用で殺されかかった。

 これからのことはまだ何も決められないし決めてもいないが、また新たに抗癌治療を行うにしろ、もう何もしないにしろ、母も含めて老人の体調には細心の注意で対応せねばと自戒している。まず常に検温をはじめ今まで以上に何事もより慎重に、より丁寧にやっていくことだ。まあ、それはこの我が身においても同じことで、もう以前のように、気楽に夜遅くまで出歩くことはもはや不可能だと思い知った。

 まあ、それもこれも悪いことではないだろう。どんなことでもやってみないとわからない。そして適切な判断をどう、できるだけ早くすべきか、それこそ経験を通して学び取っていく。抗癌剤は強く怖い薬ではある。だが、適切に用いれば効果はほぼ必ず出ると信ずる。車の運転と同様に、正しく適度に節度を持って慎重に丁寧にやっていけば良い。過度に怖れる必要はないが、過信や気の緩みが命とりになるのである。

新しいうたと新しいうたの場をつくろう2016年02月10日 16時50分38秒

犬さえも参加できる、かけこみ亭の「ゆる~くライブ」、ぼけまるさんと。
★うたよ、我が裡に再び還れ            

 母連れて今日の午前、検査のためまた立川相互病院に行ってきた。この6日に退院してから体調の確認目的である。
 幸いにして、熱ももう上がることはなく採血の結果の数値も良好で、白血球も戻ってきていたので、ようやく今回の一件は落着、放免された。
 次回は19日に、また採血しエコーとったりして、一回だけではあるが抗癌剤投与後の癌の状態を確認することとなるようだ。そしてそれからどう対応するか医師から求められよう。
 なぜか、母がらみでは19日の病院通いが多く、そんなで1月19日の国会前行動も、抗癌剤投与の当日だったこともあって行きたくても行けなかった。今回もどうなることやらである。
 が、何はともかくまず母の容体が安定してもらわないことには、ボケ老人の我が親父のこともあって、家を空けることすらできない。これから癌との闘いはどう展開していくのかまだ方針も見えず考えも何もまとまらないが、よぼよぼ、ヨタヨタでも何とか現状維持のまま、普通の日常生活がやれるよう安定していてほしいと願う。

 でないと身勝手な言い草だが、我がことは何もできなくなってしまう。家にこもってほそぼそと商売、つまり本の注文が入ればそれを発送するぐらいは可能だろうが、ライブに行ったり、企画したり、手伝ったり、我がしたいこと、人間関係としてもなすべきことが何も進められなくなる。
 
 実は告白すると、12月23日の拙宅無頼庵でのクリスマス忘年ライブパーティ以後、一度もギターを手に取っていないし、唄ってもいない。ライブも中川五郎氏関連のに、二度行ったきりですっかり音楽から離れてしまった。
 理由は簡単で、山梨の倉庫として使っている古民家に空き巣が入ったりしてその対応策に頭悩まし頻繁に通ったり、母の抗癌剤投与、その後の体調異変~入退院に追われたりと、ともかく慌ただしくて「音楽」どころではなかったのだ。
 意外と思われるだろうが、我は基本的に、家では音楽はCDやレコードでまず聴かない。ラジオも山梨に行っているときはともかく、東京では聴くことはないし、車も搭載カセットデッキが壊れてしまいテープもかけられない。むろんパソコンでユーチューブも必要な時以外は観ない。
 音楽は、生のうた、演奏を観に行き、そこで聴き、その後ずっとそれを牛が草を反芻するかのように、頭の中でずっと繰り返し聴いている。それが近年のならいで、それが出来ないとき家でレコードに針降しオーディオに凝ったりするのだが、そんな時間が今は全くない。

 ところが、そうして脳内に保存していた音楽がついにこのところ枯渇してしまったようで、代わりに買い物先のスーパーで流れていた、しょうもないJ・ポップが流入してしまい、AKB や西野カナの楽曲が始終エンドレスで鳴り響き苦しくてしようがない。

 今晩は、かけこみ亭で誰でも自由参加のフリーライブがあるので、所用がてら行ってたくさんのうたを聴いて、もしかしたら唄って来ようと思う。戻ったら詳しいことは報告いれたい。

新しいうたと新たな歌の場をつくっていこう・追記2016年02月11日 22時36分50秒

ぼけまる氏の横でハーモニカを吹いた ※ペピータさん撮影
★様々なうたと出会える場を       アクセスランキング: 106位

 昨晩は久々に終電で帰って来た。かけこみ亭での月二回恒例の誰でも出られるライブ企画「かけこみ亭のゆる~くライブ」に参加してきた。
 いわゆる「オープンマイク」形式で、プロアマ問わず誰でも唄いたい人はいつ来ても2曲は歌えるという企画で、参加費も観客として来ても一切金はかからない。
 むろんそれではプロの人は来ないわけで、アマチュアの歌い手たちが、巧拙キャリア関係なくただ来た順に、唄いたい順に次々とうたっていく。
 以前ちょこっと覗いたことはあったかと思うが、友人から誘われて合わせてハーモニカ吹いたりするため以前から気になっていたこのユニークなライブに参加することができた。

 感想だけいえば、非常に面白く感心させられた。むろん音楽を始めて間もなく、ようやく人前で歌い始めた人もいれば、プロ並み、下手なプロよりテクニック的には上回るほど巧い人もいたりとまさに玉石混合である。しかし、聞き手と歌い手が同一であり、つまり皆が同列に同じく歌の場にいるという安心感からかそこには何一つ格差はなく、お金が関係しないこともあって、初参加初顔合わせの方たちとも実に自由に伸び伸びと皆で楽しく共に唄い共に聴くことができた。

 他所のオープンマイクに参加したり見学したことも多々あるが、じっさいどこか堅苦しく、何かオーディションに来たような雰囲気がどうしてもしてしまう。
 が、ここ、かけこみ亭のそれは、まさに「ゆる~くライブ♪」と銘打ってある通りそのままに、司会進行役も存在せず、一人2曲という括りだけの、知る限り今いちばんユルイ自由参加型ライブであった。
 きくところによると、数年前に店が経営危機となった際、集客に向けて考え出された企画だったらしいが、その誰でも、いきなりでも無料で参加できるというアイディアはヒットして、常連参加者も多々いるし、昨日も聞きつけて初めて来られた歌い手もいた。
 また、客として来て聴いているうちに、音楽などされたことがなかったのに、自らも曲をつくり唄い出したという人もいて、ああここに我が理想とするライブ環境があると意を強くした。

 このライブは月二回開催で、基本毎月第二第四水曜日やっている。ただ、唯一の問題は、平日夜ということもあって、開始時間が遅くなってきていて、昨日は8時頃からであった。いや、その時間に行っても始まらず、だらだらとリハ兼セッションのような感じで音出して、いつしか流れ解散ならぬ流れ開演となって一番最初に我が唄ってしまった。まあ、参加者の多くが地元近辺ということもある。ただ、遠方の人はそれでは長居は出来ないだろう。
 聴き手も皆さん我同様のアマチュアの歌好き、音楽好き仲間であり、緊張することも少なく失敗してもそれもまた味として受け入れてくれる環境は実に楽しくて久々に青梅線終電に間に合うギリギリ、12時過ぎまで店に居た次第。これから暖かくなれば自転車で行けば終電も気にせずにもっと遅くまで唄っていられる。

 このライブ、今年の夏には何と開催100回目の節目を迎えるので、記念に国立市の小ホールを借り切って、盛大に記念コンサートをやるそうだ。もう日時も確定している。今から実に楽しみでもし参加許されれば我もまたお手伝いの側でなく、出て唄ってみたい。