弥生三月に入りました2016年03月01日 23時43分52秒

★風邪で苦しいよう    

 三月に入ったのに、吹く風は冷たくまだまだ寒い。ようやく朝起きたとき、犬小屋の水桶に氷が張っているような冷え込みはなくなったが。

 風邪が悪化したのか、今日は晴れたが、寒気がひどくして午前の洗濯だけ終えたら午後からはひたすら寝込んでしまった。このブログで書きたいことやお伝えしたいことも多々あるのだが、今も鼻水は漏水状態だしともかく目が涙目で痛くて開けていられない。
 そんなわけで今晩は起きていられないので申し訳ないがここまで書いてまた明日、ということで。

 実は、告白すると27日の翌日、無理して鼻水垂らしながら外出したのがいけなかった。東中野のフォークバーじみへんで、さこ大介と鎌倉研の初顔合わせジョイントライブがあり、双方共にお世話になった方であり、特に研さんとはご無沙汰してたので、やはり風邪ひいても行かねばならぬと、出かけたのだった。彼らと会えて素晴らしいライブに立ち会えたのは幸いであったが、結果として風邪こじらせたという次第。

人々の思いを繋げて人生を続けていく2016年03月03日 23時29分24秒

★まず何から書くべきか           アクセスランキング: 99位 

 3月3日、桃の節句である。昨日の朝はかなり冷え込んだが、今日は暖かく、日中も暖かな陽射しの長閑な一日であった。
 風邪は峠をこした。まだ喉が痛かったり咳が残っているが、ずいぶん楽になってきた。が、あまりにあれこれ慌ただしくて、頭を痛めることが山積しているからか、今も頭は鈍く重く痛い。昨晩もだったが、心労疲労からこのまま倒れ込むように眠ってしまいたい誘惑と今闘っている。

 起きたことや、今抱えていることの状況などは刻一刻と移り変わってしまうから、後でゆっくり書こうなどと後回しにしてしまうとその時点と状況が変わってしまい結局書けないままとなる。
 焦りはしないが、本当にやること、やらねばならぬことが山積して実際に頭が痛い。まず何から、何を書けば良いのだろうか。頭が痛い。

 このところブログを書いていていつも思うことだが、悩みや嘆き、孤独など淋しさ、苦しみをそっくりそのまま書き記せたらどんなに楽であろうかと。
 お前はいつもそんなことばかり書いているではないか、と嗤う声は聞こえている。しかし、これでもここに書けないこと、書いていないことは山ほどあり、書きたい誘惑にかられるが、書けばきっとうっかり読んだ人は心を痛めるだけでなく、優しい人ならば悩んだりご心配をおかけするだけだから、同情は有難いことだが、他人様まで苦しい嫌な思いをさせることは本意ではない。
 できれば常に面白可笑しく、読めば楽しい、元気になるようなことだけ書いていきたいと願うし、もし自分も読み手の立場ならそうした内容のものを歓迎するだろう。誰だって元気のない人や病人と付き合おうなんて思わないはずだ。

 しかし、心労心痛のときに、そんなことは表に出さず、何事もないように明るくバカ話だけ書いていられるかというと、それが商売、飯の種ならともかくも、慌ただしい雑事の合間を縫ってだとブログに何をどう書くか考えるだけでしんどいときがこのところままある。

 書きたいことが=即書けることであった時期もあったし、昔は読み手のことなど一切お構いなしに、書きたいから書いたのだ、それでいいのだ、とまだほんまもんの大バカだったから、平気で何も深く考えずひたすらだらだら好き勝手に書きなぐっていた。が、さすがにこの歳になり、多少の分別もつき人生経験も積んだので、それは許されないことはわかってきた。で、昨日もどう書くべきか迷いけっきょく書けずに寝てしまった。

 そんなことを考えながら枕元の本を手に取ったら、クリスチャンの詩人・八木重吉のもので、その中にこんな一節が目に入った。

 このさびしさを誰に告ぐべきか
 神に告ぐべし

 と。確かにそう思う。しかし、神を求め、神に祈り、神にすべてを委ねるのであらば、もう我はブログなど書かないし必要ではないと思う。まさに彼が詩うように

 基督を信じて
 救はれるのだとおもひ
 ほかのことは
 何もかも忘れてしまはう       となるであろう。

 が、何事においても浅薄で、卑小な我は、神の愛を感じながらも今この時も迷い悩み、出口のない問いで脳内いっぱいにし悶々としているのだ。
 そして八木重吉のように生きられないのならば、やはり書くしか、あるいは唄うしかないのだと思う。
 基督があることは救いであるが、答えは示してはくれない。答えは我が内にあり、それは自ら最善の答えを出せるよう努力しないとならない。そのことこそ、神の愛にこたえ、御心にかなうことに他ならない。
 そのためにもやはりまずは書くしかない。そしてこうも思う。「我がこと」を書くわけだが、やがて書いたことでそれは読み手が共有し普遍=「みんなのこと」にもなり得るのでないかと。

 今は亡き人も含めて、過去も今もそして未来をも皆ひとそれぞれの思いがある。その「思い」は人それぞれ個々違っているわけだが、実は総体として、人類全体としてみれば同じものではないのか。
 「人生」というと、個人のそれを誰もが考えるが、人生とは実のところ個人ではなく、その皆の思いが繋がったもの、皆の思いを繋げて過去から未来へと繋がり続いていくものではないか。

 ならば、我が個人的なこと、個人的な思いを書いたとしてもそれもまた、皆にとっても同じこととなるかもしれない。

 明日から、書きあぐねて書けずに溜まってしまったこと、すべて書いていく。

まず、一潮さんを偲ぶ会コンサートのことから2016年03月04日 21時37分22秒

★3月27日、豪華な面々がかけこみ亭に集う

人生の夕暮れ時に・12016年03月05日 05時38分39秒

★まずデジカメを失くした話から書こう   

 夜明けまでまだ少し間がある。外は未だ薄暗い。暖かい朝だ。
 午前5時半頃起きてしまった。パソコンに向かってこれを書いている。

 自分の愚かさ、迂闊さ、だらしなさは当人である我こそがもっともわかっていることで、今さら驚きも嘆きもしないし、背の高低や足の大きさと同じく持って生まれ育ったものとしてデフォルトとしてただ受け入れるしかない。
 が、さすがに今回はまいった。パニック起こしてしばらく「発狂」してしまった。今はもう心も落ち着き、その事態を冷静に受け入れられるようにだいぶなってきたが、それでもまだ睡眠障害や頭痛ならぬ頭重、ふらつきなど体調の不具合は続いている。しかし、もう乗り越えた。気持ちは落ち着いた。
 俗に好事魔多しなどという。浮かれているときは足をすくわれたり失敗したりトラブルが起きる。それは当然だが、我の場合、良いことなんて個人的にはまずめったに起きないから、好事、つまりグッドタイムではなく、バッドタイム、あまりにあれこれ忙しすぎたためついに破綻してしまったというわけだ。今まではそれでもまあ、神のご加護があったので、綱渡り的に何とか守られてきていた。たださすがに、神様も呆れ果ててきてそろそろこいつはお灸すえねばと考えたのであろう。きついお灸を頂いた。

 すべてだらしないのがいけないのである。うたの文句でないけれど、♪み~んなおいらが悪いのさ、である。使い始めて、三月もたたないフジのデジカメを先日の山梨から戻って失くしてしまった。
 どこでなくしたのか、盗られたのかさえはっきりしない。ただ、翌々日になってやっとそれがないことに、持って出かけようとしたとき、はたと気がつき、それからは気が狂ったように車の中、家じゅう探し回ったものの未だみつからない。

 カメラ自体は大して高額でもないしモノだからまた買い直すこともできる。何より問題は、中に入っているSDカード内の撮りためたデータで、それを失ったことがものすごく痛い。関わったライブを中心に去年の夏からの我の行動、記録したもの一切が入っていたのだ。
 むろん、バックアップというか、折々にコピーはとってはいた。それはこのブログにアップさせるためパソコン内の画像フォルダに移したものもある。が、それは全てではない。特に個人的なもの、家庭内のことなどは、そのままカメラ内、つまりメモリーカードに入れっぱなしにしていたかと思う。ともかく昨年夏の国会前での集会から、2.21の、辺野古埋め立て阻止の集会、そして最後は今回山梨で撮った風景まで何千枚?の画像データがそのカメラには入っていたのだ。それをカメラごと紛失してしまった。警察に遺失物として届けは出したがむろん何も連絡もない。

 実は、今だから明かすが去年の夏から立て続けにデジカメを落として壊すことが続いていた。一番最初は、あの9月19日の戦争法成立の日の朝、国会前から昂ぶる気持ちを抱えて朝陽の中を朝方帰宅した。
 その帰路、中央線の中でシートに座れたので撮った画像をカメラのモニターで確認していた。一晩中の抗議行動の疲れが出たらしくつい睡魔に襲われ、うとうとしてしまい手を放したものか、電車の床にそのカメラを落としてしまった。その落ちた音ではっと気がつき慌てて拾い上げたものの、スイッチを入れても、電池を入れ直してください、とかへんな表示が出た後は、モニターは真っ暗となって何も表示されなくなった。
 落とした衝撃でカメラのICがいかれたようだった。が、SDカードに撮りためていたデータ自体は無事で、家に帰るまでハラハラドキドキしたが、パソコンでカードを読み取ったら問題なく撮影した画像は破損せず残っていた。しかし、カメラはそれっきり使えず、忙しくて修理にも出していない。

 そのデジカメが壊れたので、仕方なくその前に使っていたやはりフジの同種のカメラを探し出し、しばらくはそれで普段使いに持ち歩きライブなど撮って記録していた。昔のだから精度はかなり落ちる。が、あろうことか、昨年晩秋に企画した、谷保かけこみ亭での第二回目の「反戦歌コンサート」の最中に、みほこんのステージを受付のカウンターところから撮っていたら、合間にそのカメラをカウンターにひょいと置いたとき、手が滑って床に落としてしまいまたしても同様の事態を起こしてしまった。やはりスイッチを入れても真っ暗なままで使用不能になった。が、またもカードのデータ自体は無事だった。

 まあ、そのカメラは精度も悪くかなり古いものであったから、壊れてても惜しいとは思わず、ただ、カメラがないとブログにも画像が上げられないわけで困って仕方なくまたもフジの同シリーズのカメラをネットで購入した。型は、FUJIFILM finepix s9200 というもので、一見一眼レフのように見えるほどガタイの大きいコンパクトカメラである。
 これのどこがコンパクトやねん、と突っ込みが入るが、レンズ交換はできないし、重さや形態はキャノンのイオスシリーズほどやたらデカくて重いし持ち運びに常に苦労する。何しろ入るケースがどこにも売っていない。

 ただずっとその機種のシリーズを使っているのは、レンズは本格的一体型でズームがかなり利くのと、ピント合わせなど慣れて使いやすいこと、何よりも電源が単三電池であることに加え、値段も確か3万円台というコストパフォーマンスの高さもあってついいつもそのメーカーの同タイプをまた新たに買い換えて使い続けて来たのだった。
 そう、その富士フィルム、昔はフジカとか呼んでたと思うが、我は高校生の頃から8ミリ映画を、それもフジカシングル8で撮っていたから、このメーカーにはずっと愛着もある。色味も含めてデジカメになっても好きなメーカーだということもあった。

 その前のカメラをかけこみ亭で落として壊して、中に入れていた途中まで撮った16GBのSDカードをそのまま新しいのに差し替えて、使い始めて約三か月、まだほぼ新品同様のそのデジカメを撮りためたカードごと紛失してしまったのだ。
 もしかしたら家の中のどこかにあるのかもと夜通し必死であちこち探し回った。でもみつからない。今なくなった理由として想像できるのは、どこかに落としたとかどこか入った店に置き忘れたのではなく、おそらく車中に置きっぱなしにしていたので、置き引き、つまりカメラが車内にあることを見かけた誰かに盗られた可能性が一番高いということだ。

 つまり迂闊にも車の中にほったらかしにしておいたため泥棒にあったということだ。自業自得とはいえ何ということか。
※まだ長くなるのでこの続きは後ほど書きます。

人生の夕暮れ時に・22016年03月06日 21時58分10秒

★これも「病気」「障害」だとしても アクセスランキング:115 位

 我、マス坊を知る者は、たぶん誰もが感じているだろう。この男はヘンだと。人間社会の中で、どうにも受け入れがたい、対応に困惑する「違和感」と「異質感」、それこそが我の個性であって、実はその当人こそいちばんそれを自覚し他者との付き合い方、距離の取り方がこの歳になってもまったくつかめないでいる。

 しかしそんなことよりも生きていくうえで一番悩む、困ることは、ともかく何事もきちんとできない、つまりモノゴトを片付けられないことで、その結果として様々なトラブルや失敗、面倒な事態が多発していく。だらしなさの極致が我だと言いえる。
 我が人生を振り返れば、まさにそうしただらさなさ、きちんとできないことからの失敗失態の連続であり、仕事も続かず恋人との関係も長続きせず、友人もできては失うことの繰り返しとなるのは、そのとうぜんの結果、帰結なのである。

 これは韜晦でも自己憐憫、自慰的内省でもなく、まったくもって我ながらどうしてこうなのかと呆れかえる。しかし、だからと言って、してしまったことを振り返り悔やんでくよくよしたり絶望に苛まれても、そんな眠れぬ夜は自殺しか道はないわけで、「生まれてすみません」と記して死んでしまえばもう人様にご迷惑はかけないかわりに、老親を深く哀しませ我は地獄に墜ちていく。
 今は、我はそんなどうしようもなく罪深い我をも見捨てず愛してくれる「神」の存在を知ったから、こんな我を生かし、生きているのには理由があると信じて、とにもかくにも死なずに、こんな我ができること、なすべきことを自問しつつこの時代を生きている。

 しかし、何をやるにしてもその処理能力の遅さ、判断の甘さ、考えの浅さはどうしようもなく、一番の問題は、まずともかく部屋が片付かず、常にしっちゃかめっちゃかとなって、結果として必要なもの、使うもの、大事なのものがみつからないという騒動を繰り返す。
 ある意味、我がだらしなさは、革命的にだらしない。いや、それだと良いことのようにとられてしまうから犯罪的ですらある。

 ウチでは、無頼庵と称して、拙宅二階の全部繋げば二十畳ほどのスペースを開放して、フォークシンガーを招いてライブや大型テレビでビデオ上映する「映画塾」をやっていた。
 が、その企画の度毎に、毎回その数日前から大騒ぎで部屋の片づけ、掃除に追われて当日、客入れの直前までも空間設営、スペースを作るのに必死となってしまう。
 毎回やっているのだから、何故にそうした「騒動」を繰り返すのかと自分でも訝しく思うが、そこは生活の場でもあるから、いったん何もない空間ができたとしても時間と共にまたじょじよにモノは増え続けてすぐに足の踏み場がなくなってしまう。ごく頻繁にイベントが続けばそうならないが、今は間に何ヵ月か空いたりしてしまうといくら友人ムラコシ氏が朝から来て懸命に片づけてくれても常に元の木阿弥となる。

 どうしていつもこうなのであろうか。若い時からずっと悩んできた。むろん常に何事もきちんとできる人にとっては、そんなん当たり前じゃないか、いったい何故そんな簡単なことができいのかと逆に不思議に思うであろう。バカかこいつはと。頭おかしいんとちゃうと。そう、頭がおかしいのである。

 大人になってから古本屋という稼業故に偶然手に取った本で知ったことだったが、この世には「片付けられない症候群」なる「病気」が存在している。それは英語では、ADHDといい、注意欠陥/多動性障害と訳されている。詳しいことは、専門のサイトがあるのでご参照頂きたい。
http://adhd.co.jp/otona/shoujou/animation.html
 そこにも大人のADHDについて詳しく漫画などで症例が紹介されている。じっさいのところ、我は病院に行き、検査受けたことなどないが、おそらくほぼ間違いなくこの病気に当てはまる。まさに、そこに書いてあるように、『大人のADHDといっても、大人になってから初めて出現するものではありません。不注意、多動性、衝動性という3 つの症状に、子どものころからずっと悩まされており、多くの人は自分なりの工夫や対策を考えて努力していますが、それにもかかわらず、状況が改善せず大人になり、うまく生活することができず困っているのです』。
 そしてそこのリストにある、
多動性

・落ち着かない感じ
・貧乏ゆすりなど、目的のない動き


衝動性

・思ったことをすぐに口にしてしまう
・衝動買いをしてしまう


不注意

・仕事などでケアレスミスをする
・忘れ物、なくし物が多い
・約束を守れない、間に合わない
・時間管理が苦手
・仕事や作業を順序だてて行うことが苦手
・片付けるのが苦手

          こそ、まさに我マス坊の性格、特性そのものであり、その考えなしの衝動的性格も含めて、ああ、俺はそうだったのかと得心してしまった。でも、だから何なんだである。
 そう、それが「病気」「病的結果」だとしたとしても何一つ問題は解決しない。
 鼻水や咳、熱が出たとして、病院でインフルエンザだと診断されれば、病名はわかるしどう対処すれば良いか指示され、薬も出してもらえる。が、このADHDは効果的治療薬はないようだし、医者に行き、そうだと認定されたとしても何一つ事態は改善されるわけでもない。そう、治るわけではない。
 できることは周囲が、この人はそういう「病気」なんだと理解しそのうえで、そういう障害がある人だとわかって付き合ってもらうしかない。しかし、私はADHDなんです。皆さんにご迷惑かけますが、病気なんで宜しくお願いします、ご理解のうえお付き合いください、と言い回ったって何になろう。まったく意味がない。

 まあ、何にせよマスダのこのだらしない、片付けられない、何事にも迂闊な考えなしの性格、気質は、たとえ脳の機能障害だとか病気だとしてもそれで免罪されることでも社会的に容認されるわけでもないのは当然であろう。仮にADHDだと認定されたとしてもそれに甘んじ安穏とするのではなく、治らないまでもその症状を悪化させないよう、より軽度のものへとしていく努力はこれからも常に求められる。
 そしてようやくだが、今回のショック療法は、ある程度少しでも効果を上げ始めた気がしている。

人生の夕暮れ時に・32016年03月07日 21時00分50秒

★探し物、失くし物の人生におさらばを ~人生をもう一度探していく。  ランキング

 さて、今回のカメラを失くした顛末、きちんと報告していないことに気づいた。
 昨年末から新年にかけて、母連れて二人でかなり頻繁に山梨へ出向いていた。が、あくまでも増冨温泉に浸かってラジウム泉の効能で母の癌が小さくなることが第一の目的で、東京に残してきた認知症の父のこともあったのでたいてい日帰りでの慌ただしい往復であった。
 そしてまた寒気がぶり返して来たのと、母が抗癌剤再開したらば熱出して一週間の入院と、病院通いが続き一か月も山梨の古民家には行けないでいた。

 今回、2月22日月曜から23日火曜にかけては、久しぶりに茨城県笠間から学生時代からの友人、ウチの「社員」氏を招いて、母抜きで二人で一泊二日の泊りがけで犬たち連れて行ってきた。
 社員氏も同居している母堂の介護のこともあって、なかなか気軽に東京に出て来れないでいた。約半年ぶりの山梨同行であった。
 で、二人で古民家の中の運び入れては溜まりに溜まってしまった、古本、古雑誌の整理に励んだ。といっても分別、そして処分ではなく、まずはばらけて散乱している雑誌や本をサイズに合わせて括り、まだスペースが残っていた味噌蔵だった物置スペースに移動させたりしただけだが。
 それでも本来生活空間である畳の大広間はずいぶん片付き少しはすっきりした。

 翌日の火曜日、向うから出たゴミ類を積んで昼前にその古民家を出て一般道、つまり甲州街道で帰路東京へと出発した。途中何か所か買い物や食事に立ち寄り、最後は、相模湖から八王子まで一区間だけ高速を利用した。ウチに戻ったのは夕方、5時頃であったかと思う。

 その晩はどっと疲れが出て荷物も車から降ろさず倒れ込むように寝てしまった。毎度のことだが、頭がぼーとして、何もよく考えられないでいた。
 で、翌日水曜の日中は何してたのかはっきりしないが、夜、かけこみ亭の「誰でもゆる~くライブ」に顔出す用件もあったので、夕方から出かけようと持っていくものの準備していた。
 以前は常に小型のリュックサックに手荷物を入れて持ち歩くのが常だったが、このところの我は、布製の手提げ袋に持ち物一切合財入れてそうしたライブも山梨へ行く時も用いていた。今回もその山梨へも持って行った黒い手提げを二階へ上げてかけこみ亭に持っていくものと中身を詰め替えていた。が、毎度愛用のデジカメが見当たらない。
 ざっと周囲や車の中を探したがない。家を出る時間も押していたので、そのときは後で落ち着いて探そうと考えて谷保のかけこみ亭へギター抱えて電車で行った。そして毎度のことながら青梅線終電での帰宅となった。

 深夜であったが、それから必死に雑然とした溜まった書類や本、雑誌の山をかき分けカメラを探し求めた。むろん車の中も座席の下までくまなく確認した。しかしどこにもない。
 もしかしたら山梨の古民家に置いてきたのかとも考えたが、帰路途中で、近くの別荘地に新しくできた手作りパン屋に初めて寄ってその店の外観をそのカメラで撮った記憶ははっきりある。そしてカメラはそのまま後部座席の床辺りに他の荷物と共にいつものように置いていたはずだ。
 そのデジカメを入れていた黒い手提げバックは、既に二階に持ってきている。たぶん火曜の昼間に車から出したかと思える。しかし、そのとき、デジカメは入っていたのか、バックと一緒に家に持ってきたのかすらはっきりした記憶がない。不安は高まる。カメラはどこにもない。
 朝になるのを待って今回同行した社員氏に電話して、カメラがみつからないこと、我はどこまでそれを持ち歩いていたか確認の記憶をたどってもらった。韮崎で昼食を食堂でとったがそのときカメラを持って店に入ったのかと。
 しかし、彼も店とか買い物のときはカメラは持ってはいなかったと思うとのことで、自分も持ち歩いた記憶がない。やはりずっと車の中に、置きっぱなしだったのかと考えるしかない。どこか入った店で置き忘れた可能性はまずなくなった。
 我ながら情けないとつくづく思うのは、そもそもカメラを東京に帰ってから失くしたのか、家に帰るまでカメラはあったのか、どこで失くしたのかすらはっきりしないことだ。家に持ち帰り無意識に室内のどこかに置いたのかすらわからない。

 翌日の夕方、思い余って市内の警察署に出向き紛失届を出して来た。しかしそのときも「盗難」としては受け付けてもらえず、事情を話したら受付のお姉ちゃん警官から、もっとよく家の中を落ち着いて探してくださいネ、みつかるかもしれないから、と軽くあしらわられた。そうカメラがみつからないだけで「盗難」だという証拠も確信もないのであった。

 そしてそれから10日以上過ぎた。今もデジカメはみつからないままだ。カメラが手元にはもはや一台もないので、どうにも仕方なく27日のコンサートは、三留まゆみさんにお願いし全面的に撮影を委任した。まあ、おかげで司会進行役以外の部分、記録のうち、「写真撮影」の精神的負担から解放され気は楽であったが。※録画も担当してくれる友人が今回も来てくれたので助かった。

 繰り返しになるが、カメラが失くなった、みつからない当初はパニック障害を起こし「発狂」してしまった。カメラ自体の損失以前に、中の撮りためたSDカードを失ったことがショックで頭がおかしくなった。某TPP大臣ではないが、心労で睡眠障害を起こした。しかし、今はその起きたこと全てに対して落ち着いて向き合える。そして失ってこそ得るものがあるのだと今ははっきりわかってきた。

 これまでの我が人生は、まさにはちゃめちゃその場しのぎの連続で、何の計画性もなく常に熱に浮かされたように次から次へと衝動的思い付きに駆られて生きて来た。
 そもそも腰据えてじっくり落ち着いて何かに向き合いきちんとさせることが何より苦手で、もしそんなのんびりできる時があらば怠け者ゆえ昼寝してしまい、成すべきこと懸案のことは溜まる一方であった。
 あれこれ手を広げるからそれに関連して嫌でもモノは溜まる。しかしそもそも整理や管理する能力は皆無でしかも物を捨てるという選択肢を持たないから、いや、正確には何が必要不要なのかの判別ができないから故膨大にモノが溜まっていく。
 幸い家が大きく、自由になる空間が多かったし、今はさらに外付けで「山梨」という保存媒体も加えてしまった。ただそうして保存や保管場所は増えても基本的にガラクタも含めて一切管理把握はできないから我が人生は常時探し物を探すのに時間をとられていた。

 何かを成し終えてもまたすぐに紛失してしまうから再度それを繰り返さねばならない。つまり二度手間、三度手間、見つからないものを探すのに時間を費やして来た。
 じっさい今も大事な通帳や必要な機材が、外で落としたとは思えないのに家の中に埋もれていくつも未発見のままだと告白する。

 しかし、そんなだらしないとてつもなく杜撰な人間なのに、不思議にもこれまで携帯電話やスマホ、小銭入れはともかくも銀行カード類の入った財布など、失くしたり落としたりしたらオオゴトになるものは失くしたことはなかった。
 当然のこと、みつからなくなって青くなり大慌てで探し回ったことは何度でもある。しかし幸い必ずみつかってホッと胸をなでおろした。そう、本当に失くして困るものはこれまでは失くしたことはなかった。今回のデジカメまでは。

 今回のカメラの件、あれから何度でも考えた。失くなる場所の可能性として、山梨からの帰り道、車の中に入れておいて駐車場などで置き引きにあう可能性はまずない。というのは、車の中、あるいはすぐ周囲には犬たちがいつもいたから、そんな不審人物がドア開けて盗れるとは思わない。
 それよりも一番可能性が高いのは帰って来た晩である。カメラ他の山梨で買ったものなど荷物類一切を入れたまま、自宅の庭に停めたに愛車には鍵などかけないでいたのだ。

 今だから告白すると、我はこれまで家の車に鍵などかけたことはなかった。庭に停めた自転車も然り。車はオンボロで、中に金目の物や盗られそうなものは何一つ置いてないし――むろん古本類は常に満載だが、今のご時世本を盗むバカは皆無のはずだから――何より庭には犬たちがいて、不審な人物が通りかかっただけで吠えるからそうした心配はしたことがなかったのだ。
 しかし、実はこの冬は、犬たち、二匹は夜はこのところずっと家の中に入れて室内で寝かせていた。17歳となったブラ彦が高齢で、この冬を外の小屋では乗り切れなくなってきたのと、倣って若いベルコもブラだけ家に入ってずるいズルイ!と騒ぐので仕方なく二匹とも室内に入れて我が家の庭は犬不在だったのだ。
 ならば、深夜に車内を物色して、まずカメラが目に着けば誰だってそれを盗み出すことは簡単にできた。そう、今年の冬は庭に番犬がいなかったのだ。

 先にも当ブログで報告したが、山梨の古民家に暮れから正月にかけて空き巣が入った。そのときもだらしないが故のことで、当初は空き巣に入られたかどうかさえはっきりわからなかった。
 しかし帰る時、玄関に鍵をしっかりかけたはずなのに二度も開いていてようやく誰かが入ったとわかり青くなった。しかし幸いにして金目のものは何もなかったので、空き巣は何も盗らずに帰ったらしく被害はなかった。
 そして鍵をあたらに付け加えたりしてその件はとりあえず収束した。しかし、今こう思う。実はそれこそがメッセージであり、何も盗られたなかったらそれで良しとするのではなく、そこから「気づき」と「学び」を得るべきであったのだと。
 つまり、今までは迂闊で杜撰に生きて来てもそれで何とかなった。被害は大したことなく済んでいた。しかし、山梨がそうだったように、このご時世、アベノミクスのおかげで貧富の差は拡大し、喰えない人は増え続けているのだから、当然泥棒などの犯罪は多発していく。

 山梨で被害があったのだから、こちらでもそのことを受けて、盗難などの被害に遭うかもと注意すべきであった。それこそがメッセージだったのだ。それを向うでは被害がなかったから、過ぎたこと終わったこととしか取り合わなかったから車上荒らし?でカメラを失くしたのである。
 これは読者の方に言いたい。この世の起こること、起きたことは全て何かしらのメッセージなのだから、そこから正しいメッセージをどう汲み取るか、汲み取れるかが常に人は問われているのだと。

 今回の件以後は、昼間はともかくも毎晩、車と自転車は必ず鍵をかける習慣ができた。結果としてそれは良いことであろう。たいがいの人は、そんなことは当たり前にやっている。それはそもそも常識であった。
ウチの隣家は、真夏でも夕方になると雨戸をすべて閉めて万全の戸締りをしている。今まではそれを鼻で笑っていたが、そうした家には泥棒は入らないし入れない。戸締りだけはまさに自己責任でやっていくしかない。

 今回の一件ではずいぶん多くのことを考えさせられた。たとえ脳の機能障害だとしてもだらしなくて良いことなど何一つないし、結果として常に損ばかりするだけだ。あれ以来、録画や録音したものはそのままにして時間置かずに、できるだけ即パソコンなどに取り込み「処理」するようになった。むろんのこと、持って行ったもの、使ったものは必ず持ち帰ったか確認して元あったところに戻すように努めている。
 もう二度と今回のような過ち、騒動は繰り返したくない。できるだけすべてきちんとしようと努めている。しかし、いつまたグズグスに杜撰に戻るか正直不安もある。しかし、歳とって嫌でもさらにだらしなくなるのが人間なのだからこそ、何とか今ここでこれ以上「悪化」させないよう持ちこたえねばならない。

 バカにはバカの責任がある。自分のどうしようもなさはこの当人が一番よくわかっている。しかしこんなどうしようもないバカでも生きていることこそが、他者にとっては反面教師として少し学ぶところもあるのではないかとも考える。そう思いあからさまに書いた。長くなったが今の気持ちを一言記す。探し求めるのは我が人生だけにしたい。

 どんなことがあろうと人生は素晴らしい。そして起きることにはすべて意味がある。人はそこから何を学ぶか問われている。ならばすべてを受け入れ全てに感謝して生きていく。

人生の夕暮れ時に・まとめ2016年03月08日 23時36分56秒

★これからも多くのものを失っていくが       アクセスランキング:130位

 久々の雨の後の暖かい穏やかな春の一日であった。窓を開ければどこからか沈丁花の甘い香りがそよ風に乗り入って来る。

 俗に、人はそれを失ってこそ初めてその価値に気づくとよく言われる。ささやかな家庭の幸福もそうであろうし、人、特に当たり前のように身近にいた人もそうだろう。
 在る時には在ることに慣れてしまい当たり前だと思い、その価値や大事さに気がつかない。そしてそれが失くなって、失ったとき初めてその存在の大きさに気づき、不在に打ちのめされる。

 ありがとうという言葉は、有難うと書く。これは有難いという言葉から出ていて、すべてのことやものは、本来、あることは難しい、=有難いことだと思う心から来ている。
 人はその有難いものを失って、初めてそれがあることは有難いことだったんだとやっと気がつく。そう、失って初めて気がつく。

 自分は病的にだらしないから、根本のところがバカだから、これからもまた多くのものを失くしたり失っていくだろう。細心の注意でことにあたったとしても、またも毎度の「失敗」を繰り返すかと覚悟もしている。
 ただ、もうモノに囚われ、それを探し求めたり、片付けるのに時間を費やすのは極力減らしたいと願う。そんな無駄な時間は1分でもなくしたい。
 残りの人生の先も見えて来た。何をしたいかではなく、何をしなくてはならないか、それもわかってきた。何ができるかは未だわからなくても。
 そしてこんな自分にも使命というほどではないが、この世に在る、生を受けた役割もあると知った。人から求められていることもあろう。
 まずは親たちをきちんと見送って、子としての務めを果たして、そして我が人生を片付けていこう。むろんその「片付け」は生涯かけたって終わりはしない。
 しかしこれ以上面倒に、複雑にはしたくないし、できるだけ簡素に、そしてすべてに愛をこめて接していきたいと思う。

 そう、全ては「愛」の多寡の問題でもあった。そして全てのもの、全てのことはやがて必ず失われていく。人は最後は必ず無になっていく。
 ならばその覚悟をもって、全ては失われていく有難いものだと認識して、その一つ一つ、一人ひとり一瞬一瞬を愛をこめて接していく。
 
 我は何でも大概のものは持っていた。それなのに常にずっと何か求め続け探し続けていた。が、今はようやくはっきりわかる。足りなかったものは「愛」だったんだと。

 多くの人が多くのものを失ってしまった3.11も近づく。モノとしての復興は成ったとしても、今もなお日本の政治に圧倒的に不足しているものは愛なんだと断言しておく。いや、今の日本社会のみならず、差別と貧困、憎しみと争いで満ちた今の人類に欠けているのは愛である。
 我もだが、人は有難いものの有難さを深く知るべしであろう。

母を増冨の保養温泉旅館に送り戻って2016年03月09日 23時20分49秒

★笹子峠は吹雪であった。

 3月に入り、このところようやく春めいて暖かい穏やかな日が続くようになった。例年に比べ雨が少ない春先であったが、一昨日も一日、そして今日も朝からしっかりかなり強い雨が降り続いた。

 今日はそんな雨の中、朝から山梨県北杜市増冨温泉へ、母を連れて行って、母はそこの温泉旅館に二泊三日で湯治に預けて我だけ日帰りで先ほど雨の中甲州街道で帰ってきたところだ。
 また寒気が戻ってきているのか、高速道ではなく帰り道一般道甲州街道の途中、甲斐大和の笹子トンネルを抜けたら電光掲示板の気温は零度、雨は雪に変わってフロントガラス吹き付ける雪は吹雪のようでびっくりした。幸い大月まで降りたらまた雨になっていたのでほっとしたが、これでは標高千mの母のいる増冨は、積もるほどの雪となったかと案じている。まあ、旧いが老舗の温泉旅館なので、寒くて困るなんてことはないとは思うが。

 母の癌のこと、まず何からどう書くべきか。
 ごく簡単に記せば、先にやった第一回目の抗癌剤の後、副作用で熱か出て、一週間入院したことは書いた。で、それでもう抗癌剤は懲り懲りだとも思ったし、八十代半ばという高齢では、危険な賭けだとわかり、いったんは中止の方向で担当医も我らも気持ちは傾いた。

 が、母の体調も戻ったこともあり、エコーで肥大してきた癌部位を確認した限り、多少ちいさくなった気がすると、その効果はあったような感じがしたとのことで、また副作用が起きるかもとかなりあれこれ迷う気持ちも大きかったがもう一回だけ抗癌剤を慎重にやってみることに決まった。そして2月29日から二泊三日で入院する段取りとなっていた。

 ところが、その数日前に、母はまた発熱があり、どうやらそれは単なる風邪だったようで、入院予定日の前日には熱も下がったが、そのことを医師に連絡したら抗癌剤投与のための入院予定は延期となり、今月頭に再度受診した。
 そしたら、先にとった血液検査での癌マーカーの数値も高いままなので、どうやら抗癌剤は効いていないとわかったと告げられ、医師からはもう抗癌剤治療は中止にすると宣告されてしまった。
 となると後は、放射線治療しか残されていない。そこ立川の病院ではその設備がなく、紹介状書くので、近くの共済病院か昭島にある徳洲会へ行くことを勧められた。まあ、徳洲会はウチからも近く通えなくはないけれど、果たしてその治療法をやるかどうかである。放射線をスポットで癌部位に何週間もかけて照射するのだ。

 いちおう、徳洲会に出向いて、そこの医師に診察受けてみて、放射線治療を受けるかどうかまずは話を聞いてから決めることにした。
 じっさいのところ、現時点では、それにチャレンジするかまだ決めても考えてもいない。癌を縮小させる効果が出れば良いが、当然のことまた体にもかなり無理がかかる。

 ただ何も対策、対応をしなければ癌は進行しさらに肥大化するだろうし、やがては他の臓器に癒着したり転移したりと状態は悪化していくことだろう。
 母の年齢を考えればどちらにせよやがては死ぬわけだが、問題はできるだけ今までの日常生活がどれだけ長く続けられるかで、痛みや体調不良で食べられなくなり痩せ衰えそのことで一家が悩み振り回されるのは、当人も我も望みはしない。が、最後はホスピスに入るにせよ、それは必ずやってくる。
 願うのは、そうなる日が来るのを一日でも先延ばしにできる方法は何かであり、癌は治りも小さくもならなくてもかまわないから、これ以上進行しないでもらいたい。今の生活、今までの生活がどうしたら長く続けられるかだけ考え続けている。

 まだ答えも対案も何も出ない。来週明け、徳洲会の医師に会い詳しい説明を聞いてから考え直すつもりでいる。で、今は仕方なく癌に効くかはともかく、増冨ラジウム温泉の、一般市民向けの日帰り入浴施設ではなく、本格的な温泉保養旅館へと母を「湯治」に三泊で泊まりに行かせることにした次第。
 土曜日にまた迎えにいく予定でいる。ともかく今できることはそのぐらいしかない。まあ、ウチにいると認知症の父のことでストレスが溜まる一方だから、温泉旅館で三食上げ膳据え膳でのんびり温泉に浸かっていればきっと癌も小さくなると信ずるしかない。

 つくづく思う。人は生きていくのも大変だが、死んでいくのにもまた大変なのだと。いや、人はより良く生きるためにこそどう死ぬかに苦労するのである。またこのこと報告していく。

瞬時の判断と熟慮の末の選択、決断が未来をつくっていく2016年03月10日 18時12分54秒

★戦時とはいえ史上最大の民間人虐殺~3月10日の東京大空襲
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

 3月10日である。明日はあの3.11、東日本大震災の5年目となる特別な日だが、その前日の10日も、東京に住む者、いや、今70歳以上の日本人にとっては絶対に忘れてはならない平和祈念の日だ。
 一説に10万人を超すという民間人が一晩で米軍機の無差別空襲による爆弾投下とその火災で命を落とした。これはあきらかに国際法に違反した虐殺であり、日本軍による南京虐殺の数字はともかく、ナチスドイツのユダヤ人大虐殺と共に、軍人同士の戦闘での殺戮ではない、一般市民への敵国軍隊による虐殺として共に永遠に語り継ぐ必要があると信ずる。むろんヒロシマ、ナガサキの原爆投下も同様に。加害者も被害者も目をつむらずに。

 蛯名香代子さんのように、じっさいにその大空襲を体験し家族のほとんどを失ったわけではないが、我が母もその世代でその時代生きた者として、その晩のことは今も忘れないと折々3月10日になると我ら子らに語ってきた。
 母はその頃、東京今の北区、東十条に家があり父母と幼い兄弟姉妹の大家族で住んでいたが、何しろその晩は下町の空が真っ赤で、その燃え盛る炎の明るさで新聞が読めるほどだったという。

 そのときは東十条の辺りは空襲は免れたが、母の母、=我の祖母は、もうこれではここいらもいつ空襲で同様の目に遭うかわからないと思い立ち、すぐさま縁故疎開で、栃木県佐野市へ一家をあげて疎開、つまり引っ越しする決断をした。
 結果として、その判断は正しく、祖父は郵便局に勤めていた関係上、一人そこに残って、家で留守番をしていたら、その後すぐの空襲でその家には「1トン爆弾」と呼ばれた、重さが1トンもある巨大な爆弾が落下して、大破、焼失、祖父は幸い瓦礫の中から近所の人たちに救出されたが瀕死の重傷を負った。

 もし、祖母が自ら疎開の決断を即しないでいたら、おそらくその爆弾で、母の一家はほぼ全員が死んでいたかもしれないし、そうなれば母がいないのだから、我も今こうしてここでこれを記すこともかなわない。
 その空襲ではじっさい、その辺り一面で多くの死傷者が出て、母の同級生も何人も死んでしまった。米軍機による無差別攻撃、空襲による民間人虐殺の犠牲者に母もなるところであった。
 その3月10日の大空襲による猛火の炎は、遠く八王子からも見えたと、古老が語っていたのを聴いた記憶がある。東のほうの空が真っ赤に明るかったので、これはいったい何が起きたのか皆寝ないで心配していたと。それほどの地獄の業火が下町を焼き尽くしたのが3月10日なのである。

 その大空襲から今年で71年目となるのかと思うが、さすがにもう今はマスコミも含めてまずそのことを誰も語らないし、何しろ当時を知る者、記憶する人すらほとんどもう残っていない。
 今は、明日の、5年目となる3.11のほうに今の日本人誰もが関心がいっている。それは当然だし今も生々しく思い出し決して忘れてはならないのは言うまでもない。じっさい何一つ復興していないものが今も多々あるのである。時間だけが足早に過ぎていく。

 しかし、その大震災すらもこの東京大空襲ほどの歳月が過ぎれば、ほとんど誰も語らずふれず知らない事件、事故となるのであろうか。つまるところ、歴史とは死んだ者のためにあるのではなく生きている者だけのもので、その体験や記憶した者どもがいなくなればその歴史も消えていってしまうのかと嘆息せざるえない。それはどんなに悲惨で絶対に忘れてはならない「歴史」でも同様に風化していく。

 何で今さらこんなことを書いたかといえば、我はその祖母の、ここにも空襲が来ると察知して自ら疎開を選んだ素早い判断、即決を今さらながら高く評価するからだ。
 その祖母は、日本の公害運動の原点、旧谷中村の出で、あの義人田中正造翁とも幼児ながらもリアルタイムで親しみ、百歳近く生きて晩年もずっと田中正造の思い出を語り続けていた。そんな人だからともかく肝っ玉が据わっていたし、瞬時に的確な判断を下せたのである。
 大事なことは、どんな事態においてもまず素早く事態を認識把握して、正しい選択、つまり的確な決断ができるかどうかだろう。

 むろんモノゴトはもっと慎重に熟慮を重ねて選ぶ選択もある。しかし、原発再稼働もだが、仮に世界でもっとも厳しい基準で安全だとしても、この地震大国日本で、核のゴミ処理場のメドもないのに、あの3.11のフクシマの大事故の後も懲りずに、原発をまた次々稼働させてそれに依存して生きる日本、その社会という選択だけは絶対にありえない。ゆえに裁判所が下した今回の運転停止の判決は高く評価したい。司法の良識はまだ死んでいなかった。

 死んでいった者たちには残念だが未来はない。だからこそ生きていくためにも、生き残った者が未来を作っていくためにも瞬時の適格な判断と熟慮の末の選択、つまり正しい決断が常に必要なのだと思う。

 戦争法成立による海外で戦争ができる国、も同様。戦争が出来る国とは、いつまた東京大空襲のような目に、日本も他国も遭うことを意味している。戦争で死ぬのは軍人たちだけではない。常に今もこの一瞬も何の罪もない民間人が戦禍にあい虐殺されているのである。

また山梨、増冨へ、父も連れて行く2016年03月11日 13時05分33秒

★金泉閣の冬の特別格安プラン            アクセスランキング: 102位

 3.11である。いくつかの行動のお誘いも受けていたが、午後からまた山梨へ、増冨の温泉旅館に湯治に行っている母を迎えに父も乗せて行くことにした。
 母は、明日土曜の朝までの三泊四日の旅館滞在であったが、この9日水曜に連れて行って、我は日帰りで東京に戻り、一日おいてまたの山梨行である。正直しんどい。が、明日また日帰りで帰るより一泊でも向うに泊まったほうが楽なので、今日金曜から行くことにしたのだ。そして今回は、父も連れてである。

 母にとって夫である我が父も一緒だと、おちおちゆっくり湯治に励めない。我が父は認知症の多動性で、ともかく目が離せないからだ。しかも口うるさく不安神経症でもあるから、始終、何がない、あれは知らないかと周囲を巻き込んで大騒ぎしている。
 しかし、妻である我が母が不在だとその症状はさらに悪化して息子はもう我慢の限界となってしまうことと、母のいる旅館に母と一緒に一泊程度なら預けてもいいかと考え直し、後から連れていくことにした次第だ。
 その方が我も日帰りでなく古家に一泊でき、多少はゆっくりのんびりできる。
 本当は我もその旅館に泊まっての親子三人で久々の小旅行にすることもできなくはない。が、老いた犬たちもいるので、一晩でもほったらかしにもできない。仕方なく、父だけこの金曜から母のいる旅館に連れて行き一泊させ、我は犬たちと古民家泊して明日の昼頃また旅館に迎えに行き、そのまま東京に戻ることにしたのだ。

 その旅館だが、増冨ラジウム温泉峡でも老舗の金泉閣では、この三月まで特別に冬季の特別価格で泊まれる格安キャンペーン中であった。二泊以上の連泊すると、一泊が6千円ちょっとなる。むろん朝晩二食しっかり本格的食事も付いてだ。
 いまどき民宿だって六千円のところは少ないかと思うが、普段のシーズンだと最低でも八千円以上する宿泊代がこの冬季、しかも正月のあとの一番寒い季節は客が少ないこともあって特別に下げての大奉仕である。
 実は、当初はその辺りの老舗温泉旅館はかなり値段が高いと聞いていたから、そこの自炊施設もある別棟に泊まる予定であった。が、電話で尋ねたところ、今は特別に格安で泊まれるキャンペーン期間中だと知り、ならばそんな値段で食事も付くならば、と即決した次第。
 じっさいその料理もかなり凝った田舎料理だとのことで、久々に夫婦水入らずでの一泊となればと父も後から連れていくことにしたのだ。

 その金泉閣へは、我も到着したときに母の荷物持って中へ入ったが、玄関にある薪ストーブといい、熊のはく製といい、古びたたたずまいといい、いかにも秘湯の老舗の温泉旅館という味わいが溢れていて、思わず何故か「つげ義春!」と叫んでしまった。
 すべてが鄙びて古めかしくそしてともかく落ち着けて居心地が良い。朝7時には、仲居さんが部屋の戸を開けて入ってきて嫌でもお茶を入れ替えるから起こされてしまう。そして食事前からと食後の入浴、ぶらぶら近くの温泉街歩いて軽く昼食をとってから、また入浴、そしてその合間に昼寝、夕食後にまた入浴という、まさにひたすら風呂に入り出された美味しい田舎料理を食べるだけの連泊、これならばどんな病気もしだいに治ってしまうことであろう。

 窓からは真下を流れる渓谷が見下ろせ、残雪があちこちに残っている。こんなところに泊まっていたら、我でも一週間で川端康成的小説が何本も書けるなあと思いました。
 来年の冬、それまで母も父も無事であらば、ぜひまた今度は親子三人でここを訪れたいと心に誓った。金泉閣さん良い旅館でした。