自由とは失ってからわかるもの2016年05月04日 23時47分43秒

★だからこそ、憲法は拙速に変えてはならない。

 おそらくこれは誰もが、何であろうとも同様だと思うが、モノゴトは失ってから、失ったときになって初めて、その有難さ、大切さに気がつく。それまでは、それがあるのが当たり前だと思っていた。だからその「価値」に気が付かなかった。そしてその「当たり前のこと」がずっと続くと漠然と思い込んでいた。

 震災や不慮の事故などで家や大事な人を失った方々もおそらく同様にそう思われるだろう。そうした方々の苦難やご苦労とは比べものにはならないが、我もまた今このところそうした思いにずっととらわれている。
 歳はとっても親たちとこれからもずっと共に暮らせるものだとただ何となく漠然と思い込んでいた。今日がそうであったから、また変わらぬ明日が来るものと信じていた。いや、正しくは先のことは何も深く考えもしなかった。ただ、のんべんだらりんと生きていただけだった。

 今、親たちが二人とも期せずしてほぼ同時に病み倒れ入院したりして、ああ、もうかなり長生きしてずいぶん高齢だったのだからこの事態は起こるべくして起きたのだと痛感している。
 そして今その介護に時間とられて身動きとれなくなって、我が音楽活動どころかお世話になった人たちのライブにも顔出せなくなって、心苦しく焦り苛立つものすらある。けんあんのこともまったく進められない。
 親たちの世話や面倒を見るのはちっとも辛いとか大変だとは思わない。が、それだけで今はいっぱいいっぱいで、我が事に割く時間がなかなかとれないことが辛く苦しい。

 今思うに、じっさいに何かできたか、何をしたかではなく、まず何かをするための時間の余裕が今まではかなり我にはあった。それがとりもなおさず「自由」ということであった。この事態に至って、つくづくそんな自由になる時間がつい前まではあったことが懐かしく思う。
 そしてもっと、そんなときにじかんを大切にして成すべきこと、やりたいことを効率よくやっておけば良かったと悔やんでいる。
 
 まだ認めたくはないが、これからは、我が人生、今後は新たなライフスタイルを構築しないとならないようだ。端的に言えば、死に行く者と(共に)生きていくための人生を考えねば ならない、ということだ。
 もう今までのように、親たちに家のことを任せて、我の好き勝手なことはできないのである。親たちの介助介護を最優先にして、我は生きていく。もう今までの「自由」は我にはない。

 今までは老いたとしても我も親たちも共にそれぞれで生きていた。が、もう親たちが自らでは生きていけなくなってしまえば、彼らが死んでしまわぬよう、我が事よりもまず彼らのことを優先せねばならない。
 むろん行政や介護保険を利用するとかその「荷」を減らす手段はあるかとは思うし知ってはいる。そして今後は出来る限りそれを利用するのもやぶさかではない。
 しかし、その以前に子としての努めがあり、ケアマネのような人たちには特養に申し込みを勧められたとしても現時点ではまったく考えてはいない。断った。それは「先のこと」であり、今は決められない。そして我が自由と親たちのことは両立ではないならば、二兎は追うべきでないし、ならばまず親たちのことが優先されよう。
 
 振り返れば、我は今まで実に約40年~、高校生のころから好き勝手をし放題で親たちにはずっと心配ばかりかけてきた。結婚も就職もしないで好き勝手に、自由気ままに生きて来たのだ。そして親たちはそれを赦してくれたのだ。キビシイ親ならとっくに勘当ものである。
 ならば、これまでの恩を返さねばならないし、ある意味「年貢」も収めないとならないはずだ。

 命のバトンを手渡すのが生きること、生殖だとするならば、我は不孝にも親たちに背いて次世代にそれを渡せなかった。ならばこそ、今悔恨の思いで、親たちに詫びて報いねばなるまい。それこそが介護であろう。
 語弊や異論あるかと思うがあえて記す。子や孫をつくった者は、その自らの親たちに不孝であっても赦されるのである。何故ならば親たちには孫たちというしっかりした係累、命の絆を示せたのだから。
 つまり祖先から代々受け継いできた遺伝子のバトンを次へと手渡せたならもう生物学的には老いた者はそれを見届ければただ死に行くので良いのである。

 話が長く脱線した。自由と憲法改定についてこそ書きたいことだった。明日もう一回書き足したい。