死に行く人と生きていくこと・3~最終告知を受けて2016年07月01日 21時22分23秒

★あとどれだけ母と暮らせるのか

 これをブログに記すのも、読み手の方々にお伝えするのも心苦しく躊躇うものがあるが、ずっとこれまで私ごとに関連して我が家族のことも「報告」してきた行きがかり上、この今のこと、現実についても書かねばならない。

 今日、1日、これまでずっと母の担当医であった女医から、お母さんはもう長くないからその覚悟をして、と告げられた。
 このところ母の体調が悪くなって、下痢が頻繁になって体重がどんどん落ちてきたところに、低栄養で両足にむくみが出始めていたから、それなりの覚悟はしてきていたが、医師の口から直接「宣告」を受けるとやはりショックであった。
 
 人は強いショックや哀しみに襲われると、まず頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。見るものすべてが無意味に思え、色を失ったり、何もかもが悲しく見える。逆にあるいはすべてが愛しく思え、すべてを慈しみ誰かれ構わず抱きしめたいようなときがある。
 今回は、それほど強い衝撃ではなかったが、やはりしばらく気持ちの収めどころがみつからずどうしたら良いものか苦しかった。

 よくドラマなどで、患者が診察を受けたあと、付き添いの家族だけが患者本人とは別に医師に呼ばれて、「実は・・・患者さんは癌でもう長くない、余命数カ月です」と告げられるシーンがある。それまでドラマの中の話だと思っていたが、じっさい自分にそれが起きるとはまさに想定外だった。
 今回の診察は、当初の診察予約日よりも一週間早く行った。先に29日、急患で行き、点滴受けたこともあって、のんびり待っていられなかったことと、母としては癌治療には府中にある国立医療センターに今後通おうと決め、そのための紹介状なりもらおうと考えてのことだった。
 じっさい、今の下痢が少しでも収まり体力も回復すれば、癌専門の科のある医院にまず行って相談し癌を小さくするような新たな治療法はないものか我も母もそれに期待していた。

 しかし、一通り診察のあと、担当女医は、う~ん、はっきり言うと、もうどこへ行ってもできることはなく同じで、その下痢もイレウスの一種で治らない。あっちこっち行っても疲れるからともかく無理せず、栄養のあるもの食べて養生してくださいと言い、こちらが下痢は腸の問題なのだからと、次の月曜に内科医のほうに予約入れてもらい、その医師との次回の予約は無しにしてもらい、席を立った。
 そして母が先に出た後、我だけが、「息子さん、ちょっと」と引き止められ「もう長くない」と宣告受けたのだ。ただ、こちらも訊かなかったが、あと余命数カ月とかの話は出なかった。ただ、もう、末期がんで今さら何かどうこうできる段階ではないから、お母さんには好きなことをさせ、食べたいものを食べさせ、のんびり楽させてあげてと。ホスピスや緩和ケアについても話が出たかもしれないが、よく覚えていない。
 
 母の会計を待つ間、近くのスーパーの駐車場に停めた車をとりに歩いて行った。時刻はちょうど午後一時であった。
 外は晴れて暑かったはずだが、そのスーパーまでの道のり、まったく記憶にない。そのときの心境は、泣きたいような、笑うしかないような、哀しみとはちょっと違う、どうにも名状しがたいものであった。その気持ちは今もまだ少し続いている。

 母の癌に関してはこれまでも経緯を繰り返し書いて来た。
 そもそも2001年に、一度癌部位を取り除く手術をし、そのときは成功しとりあえず「完治」した。
 以後この3年、ごく普通の日常生活は送れていたが、去年の年明けから癌がまた動き出し、その都度、そこの病院で担当のその女医に診察受けていたのだ。が、当初は、様子見ましょうとのことで、癌は臍下にあっても何も対策は取らず、しだいにそれが検査の結果の度にでかくなって体調も悪くなってきたので、ようやく対策を立てることにし、まず抗癌剤をとりあえず量を少なめにやってみた。

 しかし、一回やった段階で、副作用で熱出してからは、即中止。そして次いでは放射線治療を、と医師は言ってたが、そうこうしているうちに、年明けからしだいに食べられなくなってきた。
 けっきょく肥大した癌が腸管を圧迫して腸閉塞を起こしてしまい、そのためのバイパス手術となり、以後は下痢が収まらず体重は急激に落ちて体力も低下して急激に衰弱してしまった。
 そして最終告知である。何か釈然としない。癌がまた活動開始しはじた段階で、様子などみてないですぐさま抗癌剤なり、放射線治療なり始めていたらどうだっただろうか。
 もしかしたら今回も癌は縮小してまたとりあえずは数年、再び元通りの生活に戻れたかもしれない。しかし、またこうも思う。無理して様々な抗癌治療に励むと、あの近藤医師の謂いではないが、逆に副作用で身体が衰弱してもっと早く危険な状態に陥ったかもしれない。

 母はもう86歳で、進行も実にゆっくりだったから、ずいぶんおとなしい良い癌だったと担当女医は言う。ならばいたずらに刺激するより、様子見つつほったらかしにしてきたからこそ今があるという考えも成り立つ。じっさい、2011年春の最初の手術のとき、執刀した医師からも癌は一応取り除いたけれど、もうお腹の中に散らばってしまっているから全部取り切れていない。だからまた再発するだろうと言われていたのだ。そしてそれから5年経ったのである。

 患者側としては、もう少し早く何か手を打つことがあったと考えてしまうし、癌が動き出したとわかった時点で、もう少し適切な対処法をとるべきではなかったかという悔いがやはり今も残る。
 しかし、全ては結果論で、過ぎたことは戻せないのだから、あれこれ過ぎたことを悔やむ時間あらば、現実を見据えてこれからどうしていくべきか、何が最適なできることかを考えるべきであろう。

父帰る、ここから家族三人での新たなスタート。2016年07月02日 22時22分02秒

★ただ全てに感謝、また家族三人そろった。

 本日、我が父は家に戻って来た。春四月の11日に、誤嚥性肺炎で入院してから実に、約二か月半ぶりの帰還である。先だって看護師たちに付き添われて、退院後の生活が問題なく送れるかの視察として一時間ほど帰宅したが、ついにこれで長かった入院生活とは解放である。

 感慨無量という言葉がある。今日退院の日、母は体調すぐれず同行できなかったので、我一人で、午前9時半からの退院可能時刻に合わせて立川のその病院まで車を走らせた。

 会計窓口で、この一か月間分の入院治療費の概算見積もりを提出して会計の手続きの間に父のいる四階の病室に行った。
 もう父は着替えさせられて、看護師さんと共に荷物をまとめている最中であった。いったん一階の会計窓口で支払いを済ませまた上に上がったら、既に父はホールに出てきて車椅子に乗りスタンバイしていた。
 長かった入院生活の間に溜まった私物など詰めた箱をまず下の駐車スペースに停めた車に運んでから車椅子の父をエレベータに乗せた。もっと看護師さんたちとゆっくり挨拶を、と考えていたが、存外朝は慌ただしくごく簡単に数人に見送られ別れを告げて下に降りた。
 父はかろうじて杖をつけば立ち上がることもできるが、自力ではまだ方向は困難である。その父を車の助手席に抱きかかえるようにして乗せて、車椅子は折りたたんで後部席に収めた。

 父にねぎらいの言葉をかけ、車を走り出したがとたん、突然涙があふれ出して来た。月並みながら感極まるという言葉がある。嬉しいとかそういう気分以前に、この二か月余りの歳月と母のことも頭によぎった瞬間、涙が出てきたのは自分でも意外であった。

 思えば、そもそもが微熱が続き、ヘンな咳が夜中でも出ていたので、念のために母の入っていたその立川の相互病院に連れて行ったのだ。そしたら待っている間に高熱を出しそくそのまま入院。誤嚥性肺炎と診断された。
 肺炎だけなら一週間程度で退院できる予定が、入院して三日後の早暁、4月14日に、寝ぼけたのか病室のベッドから転落して右の大腿骨の付け根を粉砕骨折。それからが、肺炎と骨折治療、さらには前から抱えていた認知症とのトリプルパンチの闘いとなった。そして母も癌性イレウスで腸閉塞起こして入院、手術して未だ入院中で、階は違えどその病院にいたのである。老親二人そろって入院するとはまさに想定外であった。

 19日の日に、骨折部にチタンの棒を入れる手術をしたが、その頃が一番状態が悪く、我が行っても父は自らの状況が全く理解できず、高熱のための薬のせいもあったのだろうが、暴れて何度も点滴などの管を自分で外して騒ぐからと、両手にグローブをはめさせられてほぼベッドに拘禁状態にされていた。
 声かけても、外してくれえ~と騒ぐだけで、自分がどこにいるのか、何が起きたのかもわからない状態だった。医師たちの話だと、手術は無事成功したが、果たしてどこまで回復するか保証できない。間違いなく機能は骨折前より大幅に落ちるし、場合によっては寝たきりとなっても高齢だからおかしくない。
 病院側からも退院できたとしてもご自宅での世話は大変だろうから特養に早めに入れるよう申請したらと勧められた。

 それから、数週間、昼時と夕方の二階、立川のその病院に通い、まず母の病室を覗いてから、父のところであれこれ話し、声かけつつ食事介助する日々が始まった。見ていないと、認知症の父は、自ら一人だとろくに食事も摂れないだけでなく誤嚥してしまうのである。それでは骨折は治ったとしても肺炎が治らない。またこれ以上、入院生活の間にボケが進めば施設に入れるしかない。   立川まで片道約30分。日に二回、立川まで通っていると、犬たちの世話や家事などその合間に片づけると自らは飯食う時間もないような慌ただしく忙しい日々であった。まさにゆっくり寝る時間さえない。よく体が続いたと今振り返って思う。

 その頃ずっと思ったのは、同じ病院に入っている母のこともだが、もしかしたらもうこのまま二人とも家には戻れないかもしれない。今まで何だかんだケンカしたりいがみ合ったりしつつも老いた家族三人、犬猫たちと共に我が家で暮らしていた日々はまさに夢のような、そもそも運のいい僥倖だったのだと気づいた。何しろ母も癌を抱えて86歳。認知症の父も91歳だったのである。
 ならばこそ、神様、どうかもう一度、たとえ数日の間でもまた再び元通り家族三人親子でこの家で暮らせる日々を返してください。と、立川までの往復の車の中で、ハンドルを握りながら祈り続けた。

 そうした思いがあったからだろうが、退院できて嬉しいとかの喜びはまだないのに、まさに感極まり涙が出てきたのだ。涙をぬぐいながら事故らないよう慎重に車を走らせ家に戻った。11時頃着いたかと思う。
 父も我が家に戻れてほっと安堵していたが、さすがに犬猫たちも大喜びであった。

 その晩は、家族三人で近くのスーパーから刺身など買ってきて、ささやかだが退院祝いのお祝いをした。
 母も先に、5月頭の再入院後は、体調はすぐれずとも自宅で過ごせている。ようやくだが、親子三人が揃った。神に祈り続けたことがかなった。父は杖をつかって、何か手すりなどにつかまってよたよた移動するのがやっという有様で、一人では立ち上がることもできやしない。今後通所リハビリがさっそく来週から始まる。
 母も下痢が止まらず衰弱している。しかし、ともかくまた再び家族三人我が家に戻り三人での生活が始まる。感慨無量とはこのことだ。むろん大変なのは覚悟している。しかし、親たちが同時に入院中、ずっと祈り続けた「夢」はかなったのである。それ以上何を望もうか。

 親子三人での生活があと何日続くのかわからない。先のことを考えれば不安は尽きない。しかし、ともかく日々一日一日、感謝してその一瞬一瞬を慈しみながら生きて行きたい。

 皆さんにも神のご加護を。ただすべてが有難い。

地獄はそこかしこに、ならば極楽もまた。2016年07月04日 23時39分25秒

★2016年、今年の夏は生涯忘れないだろう。

 暑い日が続く。もう今は7月、真夏なのだから当たり前なのだが、気がついたらいつの間にか7月、季節は夏になっていたという感じで、まったく夏の支度もしていなくこの暑さに参っている。もう梅雨明けしたのだろうか。扇風機はどこにしまった?
 それだけ春からずっと息つく暇なく慌ただしく共に入院してしまった老親二人の介助、世話に追われていたわけで、季節を感じる余裕などまったくなかったのも仕方ない。そしてその忙しさは今も続いている。

 先に、親たちも家に戻るので、今月からは拙ブログも空けずに日々書けるはずだと書いた。が、早くも今日は週明け4日、なのに毎日出かけたり慌ただしくてゆっくりパソコンに向き合う時間がない。
 今は、4日月曜の夜の11時過ぎ、間もなく日付も変わる。まず簡単に今月に入ってからのことだけ記す。
 
 1日は、母と二人で午前から立川の母のかかりつけ病院で担当医と会って今後のことを告知された。
 2日は、父の退院、母は迎えに行く体力がないので、我一人で朝から車で出向き、レンタルの車椅子と入院中のもの一切合切、入院費を支払ってから父をその車椅子に乗せて車まで運び、昼前には我が家に帰って来た。その晩は家族三人でささやかな退院祝いのパーティ。
 3日は、親たちのこともあって参加は諦めていた今年の隅田川フォークフェスへ、昼前から家を出て、また久々に電車に乗ってはるか両国まで行ってきた。むろん終わったら懇親会など出ずに直帰した。が、それでもウチに着いたのは夜の8時近くで、それから甥っ子(母にとって孫)が、父の退院祝いに来たのでその応対に追われた。※彼はアニメ業界の人間で、この夏公開の新作アニメ映画で超多忙の合間ぬってやってきたのだ。
 今日4日は、また午前の予約で立川のかかりつけ病院に、いつもの担当医の産婦人科でなく、科の違う内科に受診に。今後の治療計画というわけではないが、今後のことを相談してきた。

 これで、現時点でいったんこの立川の相互病院とは縁が切れた。むろんまた父も母も体調崩して、急患扱いで入院設備のある病院に行かねばならないときは、老親二人ともずっと長くさまざまな病気やケガのつど通ってさまざまなカルテの残っているそこに行くことになるが、定期検診的に予約して通う約束はなくなった。願わくばその「行かないですむ」期間をできるだけ長くしたいと望む。

 約三か月、いやそれ以上の期間、その病院にほぼ日参して、ずいぶんお世話になったし、嫌な思いや不愉快なことはなかったけれどもやはり病院という場所はできるだけ行きたくない。どんなに通ってもなれはしないし落ち着けない。そして我も含めて人の末路はそこで終わらせたくない。何故ならばそこは非日常であって、非日常の場所で死にたくないと強く願うからだ。

 この四日間、実にいろんなことがあった。そしていろんなことを考えさせられた。認知症と誤嚥性肺炎の危険を抱え骨折後のまだ世話がやける父が帰って来て、癌に病み弱って来た母と三人での生活がはじまった。
 また再び親子そろって家族三人の生活がはじまって嬉しくないわけはない。が、早くもうんざりもし、キレかかりもし、泣きたい気持ちに何度もなったり、介護疲れ殺人の気持ちとはこんなものかとつくづく思ったりもした。疲れと怒りが絶望に変わり、彼らを殺し自分も自殺して家に火をつけ全てを終わらせようと考えてももおかしくない。覚悟はしていたが、まさにある意味、地獄である。そこかしこ日々地獄だ。
 しかし、同時にそんなに地獄が日常にあるならば、極楽もまたそこかしこにある。出した料理が珍しく母の食欲をそそり常よりは多く食べてくれたときは非常に嬉しいし、夫婦二人でまともな会話ができ話が弾んで父も「正気」のときは心から安堵する。
 地獄も極楽も我が内にあり。
 
 あと何ヵ月、あと何日、こうして親子三人で共に暮らせるのか。母との残された日々はどのぐらいあるのか、考えると夜も眠れなくなる。情けない告白するとまた酒の量が増えた。ひと頃はもう一切アルコールは飲めなくなっていたのに。といっても家でべろべろに酔っぱらうなんてできやしない。心おきなくとことん酔っぱらえたらどんなに素晴らしいだろう。
 どうしても眠れない夜は、まず聖書を読み進み、それから何口かアルコールを流しこみ気分をリラックスさせてやっと眠りにつく。

 今月に入ってからことは、ブログ中途まで書いているし、このブログのシステムも理解したので、後からでもさかのぼって過去の日付でも書き足せるから明日から1日のぶんから書き足していく。

 人は人から生まれ、誰にでも親がいる。そしてその親は当然のこと子より先に老い先に死んでいく。動物はともかく人は、その死を看取る。それは当たり前のことであり、ごくごく自然な営みだろう。ならばちっとも哀しくも辛くもないはずだ。
 が、今はまだ事態がとことん受け入れられない。愛する家族を失う辛さからか。我に妻も子もいないから辛いのか。
 なぜ、親の死という当たり前のことを当たり前に受け入れられないのだろう。

父帰る、その後2016年07月05日 23時33分58秒

★当ブログ書く時間すらない。

 昨夕、ウチの地方はかなり強い夕立があり、それから暑さは収まった。今日も雨模様で、気温も25度もなく、いったんあの暑さに慣れてしまうと、妙にうすら寒くさえ感じてしまう。
 母など、もう寒い寒いと大騒ぎで、合着はすぐにみつからないこともあって、コタツつけてその辺の衣類をはおって何とか暖をとっている。
 健康な者は、暑くもなく寒くもない快適な温度でも、母のように骨と皮に痩せ衰えてしまうと、脂肪という衣服を脱ぎ捨ててしまったわけで、ともかく寒くてたまらないのだそうだ。

 さて、父が帰って来て数日が過ぎた。病室の中では、存外真っ当で、さほど呆けは進んでいないかと思ったが、やはり三か月近くも家を空けて日常生活から離れてしまうと、記憶が虫食い状態のようになってしまい、入院前のこと、その時点で理解していたことがなかなか戻らない。
 また、その前からあった典型的呆けの症状、つまり何度でも同じことを繰り返し訊いたり、何度繰り返し説明しても理解できず、混乱するという状態はさらに進んでしまった。
 だから毎食時、誤嚥しないように、傍らで我と母が繰り返し見ながら注意して、本人にとってはうるさく注文つけることも含めてやたら食事の時間がかかる。
 さらにそこに、母と二人の時より、父に合わせて細かく切ったり、トロミつけたり料理にひと手間かけなくてはならず、おかずを考えつくることは苦ではなくても嫌でも時間が前よりかかってしまう。
 そんなで、朝も食事が終わると10時頃、ときに昼近くになってしまい、すぐに昼食も食べられないから、朝ドラの再放送を見てから昼食となると、食べ終わると2時をとうに過ぎ、ときに3時頃になる。
 いきおい、晩飯も遅くなり、母を風呂に入れて、出たのを確かめ親たちを寝かせてから、自分の時間となるわけだが、もう11時である。
 その他、日中は注文本の発送を今日の便に間に合うよう大慌てで梱包して郵便局に持っていくと夕方なわけで、親たちの食事づくりと介助、かろうじて古本商売だけであっという間に一日が終わる。

 いろいろ書きたいこと、書き残しておきいことは溜まっているのに、書きたくても書く時間がとれないことに困る。そう、眠る時間すら今は足りない。
 明日は、父がこれから新たに通うデイケア施設との相談、契約があるので、その施設の職員、ケアマネ、さらには今後週一でうちに来てくれることになる訪問看護士も我が家に集まる。そのためにまた少し掃除したり片づけておかねばならない。

 当たり前のことだが、父が帰って来て、少しはウチの戦力になるかと思ったが、当然ながら負傷兵はさらに手がかかり目が離させない要員が加わっただけで、ますます時間がなくなってしまった。枯木も山のにぎわいならばまだしもその枯木がやたらうるさく、維持が大変なのだ。
 しかし、立川の病院まで通う時間は、行けば往復の移動時間+病室での滞在時間は、最短でも約2時間は失うわけで、それを思えばトントンどころか今のほうが楽だ。
 しかしただ願うのは、何も考えず心配せずにとことん深く思う存分眠りたい。そんな日が来るのは親たちがこの世から去ってからの話だが。

親は二人、子は一人2016年07月08日 00時31分48秒

★もう限界、息子のほうが先に死ぬ

 樋口一葉とも深い関わりがあった明治の奇人、斉藤緑雨の遺した言葉に、「箸は二本、筆は一本」というのがある。
 これは、意味するところ、小説なり文章で飯を食って行こうにも、その筆は1本であるのに対し、飯を食うための箸は二本必要なのだから、そもそも食えるはずがないという卓見である。
 それに倣い言えば、我が親たちは今も二人いて、その世話をする子、つまり我は一人しかいない。そもそも我一人で二人いる親を世話などできるはずがなかったのだ。斉藤緑雨の謂いではないが、ただただ無理がある。今そのことを痛感している。

 前回の続きとなるが、父が退院し我が家に戻って来てから、我はともかく時間がない。今深夜零時過ぎ、親たち寝かしつけ、母が風呂から出たのを確かめてから台所片付けて、ようやく二階の自室のパソコンに向かっている。
 このところの睡眠時間は四時間に満たないし、飯だって食べていない。もうフラフラで、めまいと頭痛が始終して失神しそうだ。自分でもよく生きていると思う。
 朝から犬の散歩を済ますと親たちを起こして、様々な薬用意して、朝食用のスープや野菜サラダを作り、彼らに食べさせる・特に父は傍について目を光らせていないとすぐに誤嚥してしまう。その間、我は食事の支度のとき、軽くつまむ程度でコーヒー以外ほとんど何も食べない。
 親たちを指導して、天気の良い日は庭先で軽作業などさせて、昼前には昼食の準備をし、連続テレビ小説の再放送を見せてから昼食。そのときも父の食事の介助でろくに食べる暇もない。
 それから午後は親たちを昼寝させてから、我も仮眠したところだが、amazonからの注文本があれば。その梱包と発送に追われて夕方に。
 犬たちも騒ぎ出し、犬の散歩や買い物してから、晩飯の支度。親たちを促し食べさせつつ、ようやく軽くツマミ程度、アルコールで流し込む。
 いまはともかく食事に時間がかかり、準備まで入れると確実に毎回二時間以上かかってしまう。それは、ゆっくり話しながら、誤嚥しないよう監視しつつ、食の細い母をなだめすかし、励ましときに恫喝し時間かけて食べさせているからだ。

 それから今は痩せて体温が低下してしまっている母のために風呂わかして入れて、ときに父はシャワーで、背中ながしたり洗ってやって着替えさせる。そしてようやく彼らを寝てからが我が時間となるわけだが、
このところいつも零字過ぎ、もう疲労困憊と睡眠不足で起きていられない。
 老犬はボケも入って来たからか、明け方騒ぎだすこともあり、午前四時ごろ泣き叫ぶ犬の声で起こされ、意識朦朧状態で犬連れてご近所を回る。それから再び寝直しても深く眠れず、寝たか寝ないかで、親たちが起きるのに合わせ目覚ましが鳴る。
 その他、今は栄養失調で、両足がパンパンにむくんでしまった母の足のマッサージがある。そうこうしているうちに、日朝早く起きて昼寝の時間もなく、ともかく老親二人の世話と犬猫の世話に明け暮れ一日が終わる。
 書きたいこと多々あってもブログ書く時間がまったくない。ブログだけでなく我がことのための我が時間が全然ない。

 ゆえに日々怒り苛立ち、親たちのわがまま、トンチンカンさ、身勝手な言いにキレて泣くことすらある。親たちが入院している間、再びまた家族三人で暮らす日々をどれほど願ったことか。
 が、今は、こんなに辛く大変ならば、入院してくれたほうがどれほど楽だったかという気持ちにままなってしまう。
 いざりのように、骨折は癒えたものの未だ杖ついて何とかよたよた歩くのがやっとという認知症かつ誤嚥患者の父と、昼夜を問わず一日に五回も六回も下痢でトイレに駆け込み、何を工夫て作っても文句ばかり言ってろくに食べられない末期癌患者の母を抱えて、巷によくある介護殺人、つまり介護していた者が疲れ果てて、その相手である親なり妻や夫を殺して自らも自殺するという事件はなるほどと思う。その気持ちが実にわかる。確かにそれしか出口はないし終わらせようがないのである。もう疲れ果ててしまえば。
 ウチの場合、このままならまず我が先に死ぬ。何しろ寝ていないし食べてもいない。その時間がそもそもない。親たちを寝かし食べさせ介助しているだけで我は寝る時間も食べる時間もない。このままなら倒れるだろう。

 が、昨日、父を担当するケアマネと、これからリハビリに通う先のデイケアの係員、さらにケアマネが手配した介護用品を扱う事業所から担当、さらに週一で、今後木曜の午後ウチに来て訪問介護してくれる看護婦さんが来てくれて四者で契約書類を交わして、明日から父は週に三回、朝から夕方まで送迎して預かってリハビリやってもらえる。
 また、来てくれる看護師は母の体調も見てくれるとのことで、適切な助言ももらえるだろう。母も近く医師の往診での診察が入る予定でいる。
 ヘルパーに来てもらいその限られた時間内で何か我の代わりにやってもらうことは考えないし拒否もするが、父を日中週に三日でも施設に預けられるとこちらは母一人だけ相手にすれば良いのでだいぶ楽になるかと思う。

 当たり前のことだが、我一人でほぼ半身不随となった親たち二人の介助などできるはずもなかったのだ。地獄というのはこうしたものかと今思う。再び親子三人で我が家で暮らせた。それをどんなに待ち望み神に祈ったことか。しかし、三人でやっていけたのは、親たちが老いても元気で健康であったからだった。
 今のように夫婦二人そろって自力で動けず、日々生きているのがやっという状態になれば、子だから務めだとしてもやはり一人で二人の世話はできない。こちらだって若くないし体調も良くないのだ。
 とにもかくにももう限界。意識もうろう。一分でも長く眠りたい。

ともかく投票へ行こう、民意を示そう!2016年07月09日 22時53分41秒

★後で悔やむ日が来ないためにも

 いろいろご心配おかけして申し訳ない。まだ大丈夫です。
 参院選は明日投票日。もっと拙ブログで今回の選挙について書きたいことが山ほどあったが、もう今は親たちのことで精根尽き果てているので、落ち着いてパソコンに向かうことすらできない。
 もっと選挙について呼びかけしたかったが、もう明日が投票日となってしまった。
 誰々に入れてくれとか、何々党が増えてほしいとかはここで書かないし書く気はない。ただ、目先の景気対策や経済よりももっともっと大切なことが今危機にさらされているとしたら、有権者は一人残らず選挙に行くべきだと思う。
 誰に入れたってかまわない。ただ、自らが選んだ人や政党がこれまでも、これからも何をしたのか、するのかだけは選んだ者としてよくよく頭にいれておかねばならない。

 世の中には様々な選択がある。先のイギリスのEU離脱を問う国民投票のように、すぐにある程度の「結果」が出て、しかも一度下した選択、つまりその判断が間違っていたと気づくこともある。一度投じた選挙結果を悔いて、今も数百万の人たちが、再投票を、と署名を集めている。
 しかしじっさいはそんなすぐに自らの判断が間違っていたとか、誤りであったとはなかなかすぐわからない。結果がじっさいにカタチとして動き出すのは早くても数年後のことだし、そして当然のこと、その時点であのときの自分の選択は誤りだったと気づいてももうどうすることもできない。
 そしてまして、その選択が間違っていたこともそもそも間違った選択をしたことすら自らわからないままということも多々ある。
 よく、知らない間に、いつのまにかこんな法律が出来て・・・とか人は言う。そう、いつの間にか、知らないうちに、である。しかし、政治の世界はクーデターでない限り、今の政治システムではすべて選挙で選ばれた議員たちによる議会と内閣によってきちんと手続きを経て予算も法律も決められている。ただ、知らなかったという人は、そうした情報に無関心だったことと、そもそも公約にもなかったことを政治家たちが勝手に決めてしまうことだってままある。

 政治家を選ぶのにはつまるところ「公約」しかない。身近な町村議会の議員ならば、人柄を知って選ぶこともできようが、国会議員となるとその個人もだが、所属政党の「公約」しか判断の材料とならない。
 しかし公約を掲げ当選したとしてもかつての民主党政権のように、ほとんど当初のマニフェストは達成できず、結果迷走し挙句自壊的に政権を失うという失態をさらけだす場合もある。
 その点、現政権与党は、彼らの公約はかなり達成してきている。ゆえに今もある一定の高い支持率があるのも理解もできる。が、我はアベノミクスから原発再稼働、憲法改正まで彼らの「公約」すべてに反対であるし、間違っていると断ずる。仮に景気が回復したように数字の上では見えたとしても、国民一人ひとりには何ら恩恵はないし、これからいくら期待して待っても一億総活躍も豊かにもなりはしない。

 アベノミクスは失敗したとか破綻したと昨今言われている。が、我も斎藤貴男氏が言うように、大企業と金持をより金持ちにするため、金を彼らに集め行き渡らすためのシステムとして、アベノミクスは成功しているとつくづく思う。消費税というシステムもだが、国民の中でも低所得者層からいかに金を吸い上げて国家が楽できるかというアイディアでしかなく、なのに常に国民は気づかず騙され続けている。アベノミクスで景気が回復し、求人、仕事は増えたとしても正社員になれるわけでもなし、一生派遣のまま、結婚もできず、結婚できたとしても子供も産めずずっと貧困のまま代々貧乏は世襲されていくのである。それこそが彼ら富裕層、大企業と支配者層の狙いなのである。

 むろん一握りの、株や資産がある富裕層、大企業に務める正社員たちには自公を選ぶことには理と利があり、我がもしその立場ならば政権与党に一票を投じるかもしれない。が、彼らは選挙中は憲法について争点にはならないと黙していたのに、信託を得たとなればすぐさま憲法改正に一気に歩を進めていくだろう。その結果、この国がどうなっていくかについてはこれまでもさんざん書いて来たから繰り返さない。
 しかし、それはフェアでないし、そうした経済だけを選挙争点にした手口に、またもや騙されて自公に三度目の信任を与えてしまえば、もう後はない。
 その結果として何が待っているか、どんな未来が来るかだ。

 英国の国民投票ではないが、選択の結果の誤りに気づいたとしても遅いし、おそらく今の日本人はその選択したことすら忘れて気づきもしないのでないか。
 そしてもっとも問題なのは、選択の機会があったのに、選択すらせず政治に無関心であり、選挙にも行かない人たちの存在だ。まさにいつかそのときが来たとき、彼らは「えっ、いつの間に決まったの!?聞いてないよ」と驚き慌てるだろう。
 しかし、彼らだって責任がある。選挙に棄権して選択に関わらなかったことで、結果として低投票率を招き、政権与党に勝利を与えてしまうからだ。棄権したのだから関係ないはずだという論はなりたたない。何故ならば、選挙に行く人が少なければ、有権者全体の意見よりもある有力団体や組織の票によって当選者が決まってしまい真の民意は反映されにくくなるからだ。今の選挙システムは大政党に、しかもそうした組織と力のある自公に有利になるようにできている。

 明日は投票日、おそらく今回も低投票率が早くから予想されているから、投票箱が閉まった段階で、あっという間に当選者が決まることだろう。我が嘆くのはその結果よりも、国民の一人ひとり、真の民意が反映されることなく、投票率が50%台だとしたら極端な喩えとして、二人のうちの一人の意見で政治が決められて今後も動いていくことだ。
 そうした場合、二人のうちのもう一人は、心ならずももう一人に無理やり従わざるえない。一人は戦争に行こうと言う。でも行きたくないもう一人も選挙で決まったことだと無理やり連れていかされる。憂うのはそこだ。

 当ブログの読者の方で棄権する人などいないと信ずるが、どうか有権者ならば誰もが選挙に行ってください。そしてどの政党でもいい、本当に信頼できる、未来の日本を託して安心できる人と政党に貴方の一票を投じてほしい。それはなかなか難しい悩ましい選択かもしれない。
 が、仮に2点だけ挙げれば、もし戦争は嫌いで、今の日本国憲法、中でも九条は変える必要がないと思う方、あるいは原発はこれ以上いらない、再稼働には反対だと考える方ならば、色褪せて来たアベノミクスにさらに期待託すよりも、目先の経済も大事だとしても日本という国家の行く末を考えて自公やその補完政党ではない「選択」をしてほしい。
 低投票率に乗じて彼らはまたも「信任」されれば、またさらに暴走のスピードを上げていく。同乗者である国民がやめてと叫んでも耳を貸さないのは毎度のことだが、もうブレーキは効かなくなる。そして日本という国家は戦争という破滅に転げ落ちていく。

 今の憲法を無視して民主主義と立憲主義を破壊する安倍晋三とその与党の勝利を許してしまうのは、民主主義そのものの自殺である。棄権もまた緩慢な死である。

闇夜に光灯す人であれ~2016年夏の参院選の結果を受けて思う2016年07月11日 23時37分20秒

★絶望はたやすい。そこからどう希望をみつけてくかだ。

 抑えきれない怒り こらえない哀しみ そんなことの繰り返しだけど けして負けはしないのさ 
 泣きはらした夜 迎える朝のまぶしさ 涙が渇くときはないけれど けして倒れやしないのさ  ――にしむらよしあき訳「ケ・サラ」 より

 参院選投開票の夜から一夜が過ぎた。当ブログの読者のみなさん、どのようなお気持ちで今あろうか。
 失望のあまり中にはもう日本人やめようとか、バリ島かどっかに移住しよう考えている方もいるかと思う。我は、親たちのこともあって今回は何一つ選挙活動はできなかったこともあり、傍観者的にしか関われなかったからかもしれないが、この結果に関してはさほど失望していない。
 むろん、自公の大勝、改憲勢力が非改選も合わせて全議席の三分の二を越したという、最悪の結果となったけれど、それは当初から予測されていたことで、その中でどれだけ我々側=抵抗勢力、野党共闘が彼ら巨大与党に対して立ち向かい勝利できるかであって、そもそもが「蟷螂の斧」であったのだ。
 結果として32ある一人区で、野党四党の統一候補が11の議席を得たわけで、これは善戦ととらえるべきだし、もし過去のように、民主の他に共産が独自候補を立てていたらこの数字はもっと減り、自公勢力はさらに議席を増していたことは間違いない。

 また、たった一つでも社民党と生活の党が議席を得たことも嬉しかった。政党とは国会で議席が一つでもあれば政党として扱われるわけで、新党改革なんて与党の補完政党が消滅しようとまったくどうでも良いが、野党が民進党と共産党だけになるのは何としても避けたい事態だったのでほっとした。
 自公がやはりまたも勝利したことと、共産党が期待していたより伸びなかったことに残念かつ失望したが、結果として非常に微妙なバランスが示されそこに今後の希望も見いだせる。残念でもこれはこれでけして絶望するほどのものではないと思う。

 一部のマスコミでは、「民共合作失敗」とか揶揄し、民進党内部でもこの選挙結果を受けて、野党共闘を進めた現執行部の責任を問う声も出ている。しかし、民進党が敗北したのは、一人区よりも複数区での現職を多く落としたことが最大の要因であり、四野党による共闘がなければもっと議席数を減らしていたと知るべしであろう。

 今回の選挙でつくづく思ったのは、選挙とはけっきょく知名度と組織力、そして何よりも金なのである。
 三宅洋平という候補者がいる。前の選挙の時も出て、まったくのインディーズながらかなりの得票を集めそのときは話題になった。我の周りでは彼を支持する者が圧倒的に多い。しかし、今回は東京選挙区から出たものの、泡沫候補レベルの扱いで当選ラインにはるかに及ばなかった。我としては、彼に投じなかったが、願わくば最下位でも当選することを期待していた。

 それがかなわなかったのは、要するにマスコミ人的知名度がなく、組織も金もない故、一般有権者に知られなかったからなのである。知名度というのは、話題性も含めて良くも悪くもマスコミに取り上げられるかということで、前回の参院選で当選した山本太郎は、元々俳優として顔が知られていて、マスコミが毀誉褒貶書き立てた有名人であった。だから話題性があり、金も組織もなくても知名度で認知されて当選できた。
 三宅洋平は、今回マスコミが徹底的に無視したこともあり、共産党嫌いの一部のオルタナティブ左翼の人たちと若者の熱い支持があったが、それ以外の一般有権者に浸透せず、残念な結果となった。むろん東京選挙区はあまりに多くの候補が乱立し票が分散したこともある。

 自公は今回も大勝した。その理由として海外メディアは、BBCをはじめ、日本国民は現状維持を望んだと報じている。他に代わる選択肢がなかったとも。まさにそうかもしれないと思う。
 つまるころ、憲法改悪後の「先のこと」より、まずは目先の「今」のことなのである。憲法改正のことより、アベノミクスが成功してるか国民の多くにとって実感がなくても、とりあえず数字上ではうまく行っているように見える。そう政府日銀、マスコミ上げて報じられている。ならば、安保法制も含めて、常に勝手に先走り暴走する政権であっても、やはり信任するしかないではないか。彼らが下野したり、議席が減ってまた政治が安定しなくなると景気も悪くなる。そう言う安倍晋三の訴えは、憲法変えられたら戦争が起こると叫ぶ野党の訴えより、多くの国民にとって身近な問題として届いたのではないか。

 我も含めて、人とは常に身近な、目先のことしか考えられないものなのである。まだその先の、いつ起こるか確定的でないことを見据えて、想定し行動もしないし考えもしない。だから、自公が、とりあえずうまくいっているように見える「経済」を前面に押し出せば、それで大失敗した民主党=民進党がいかに、アベノミクスを批判し他の野党が憲法改正の危険を叫んだとしても、国民として目先のこと、景気と経済でやはり自公を選択せざるえない。
 タバコやアルコールで依存症となっている人が、体に悪いと周りからさんざん言われてもすっぱりやめてそれから抜け出せないように、今の日本人は、自公という嘘と欺瞞の極右政党に依存症になっているのである。何だか胡散臭いし、ちっとも懐は豊かにならない。でも、アベノミクスも道半ばというならば、もう少し彼らに期待してみようではないかと。

 そしてさらにもう一つ見過ごせないのは、マスコミ上げての彼らへの応援、支援的追従である。安倍政権の犬、NHKは言うまでもなく、我がパソコンのインターネットを開くとき、トップページ画面としてデフォルトで設定されている「MSN」のページなど、選挙中は自民党のホームページと化していた。
 開くたびに、画面右側に自民党の宣伝のウインドウが自動的に表示され、安倍晋三が語り始める。これでは、確かにネット環境に津深く依存している若者層が自民党支持するのも頷ける。つまり、無意識的に、ネットでアクセスする都度、自民を支持するよう洗脳されていくのである。

 そこで取り上げられるニュースも主に、産経のものが主だから、今回共産党失速の原因とされる「防衛費は人殺し予算」だという、党政策委員長、藤野保史衆院議員の失言も執拗に繰り返しトップニュースとして取り上げられていた。この件に関して、我は、この共産党の若手議員のテレビ番組内での発言は失言だとも問題発言だとも思わない。専守防衛に徹している防衛費ならばともかく、今後は集団的自衛権行使として、海外でも積極的に戦闘に加担して行くならば、戦争=人殺しなのである。ならばその発言もあながち極論でも的はずれでもないはずだし、言葉の綾として、聞き流す程度で済む話だと思う。

 それを与党のみならず、共産党嫌いの民進党の前原まで出てきて大騒ぎして共産党バッシングの場としてMSNを用いていく。画面右手では、安倍晋三がアベノミクスの成果を得意げに説き、ニュース欄では、共産党を批判する輩が大合唱している産経のニュースが何回もトップの見出しで取り上げられていく。それは問題発言だとしても、他のマスメディアでは扱いはごく小さい「失言」事件に過ぎなかった。ところが、政府の御用新聞産経が主導するMSNニュースではトップの大事件なのである。
 ネットを利用する若者たちが、ごく日常的にまずパソコンに向き合う度、こうしたものを見せられれば、そうなのかと自然に頭に入るだろう。アベノミクスはうまく行っているんだ応援しないと。そしてそれをあれこれ言う共産党こそ怖い、おかしいぞと。

 つまるところ、政治とは、選挙とは、知名度と組織力と金だというのはこういうことだ。金さえあれば、MSNに限らず、多くの利用者が訪れるサイトのトップページに、こうした選挙CMをのせられる。これらは紙の公報やチラシよりはるかに人目をひくし効果がある。繰り返し出てくればつい見てしまう。そして無批判的に彼らを支持していく人が増えていく。が、金のない組織、政党、まして個人、三宅洋平にはそんなことはできやしない。せいぜい口コミ的に、ツィッターやフェイスブック的拡散しか方法はない。マスコミが取り上げてくれない限りそれ以上の広がりはない。それではまず当選できない。当選できるのは組織と知名度とあと何より金がある者だけとなっていく。

 だからこそ、金も組織もない力のない者たちは個別に戦ったって自公という巨大与党に勝てるはずがない。まして、それが小選挙区や一人区などのたった一人の当選者しかない選挙ならばなおさらだ。
 だからこそ、野党共闘なのである。蟷螂の斧でも、小さなカマキリがたくさん集まればそれはそれなりに存在感を示し、大きな動物にとっても脅威になろう。今回の選挙、野党統一候補が勝ったところも票を観る限りきわめて接戦だった。民進党だけなり無所属の個人だけで当選できるはずもなかった。野党四党が共闘してこそ、11だけだが、11も勝てたのである。繰り返すが共闘なければこの数字は限りなくゼロに近かった。

 民進党内で、党の敗北ゆえに、岡田代表を批判し野党共闘も見直すべきだと騒ぐバカがいるときく。しかし、残念なことだが、今現在、自公に互角に戦うためには、野党はまとまるところはまとまって一つになって力を結集して臨むしかないのである。弱く力ない者がバラバラに自公に挑んだところで彼らの思うつぼではないか。どんなにがんばったところで今の自公の、金と組織と知名度に勝てるはずがない。
 だからこそ、青森の、新潟の、宮城の、福島の、そして沖縄の勝利が大きな意味を持つ。そこに確かな希望が見える。

 絶望することはたやすい。が、絶望に浸り嘆き悲しむよりその状況の中からそこに少しでも良いもの、確かなもの、光る希望あるものを見出さねばならない。

 今回の選挙、自公がまたしても大勝し、改憲勢力が三分の二を越し、何たることかと打ちひしがれている方も多々いるだろう。だが、今回の選挙は多くの希望の光がそこここに見えていた。こんないかさまやインチキがいつまでも通じるはずがない。アベノミクスとは和牛商法のようなものだ。いつか儲かると口先だけで信じさせ庶民から金を吐き出させる。必ず破綻する。国民は目が覚める。ならば、絶望せずに、共闘というこの流れをさらに進めて行けば良いだけの話だ。
 
 時代は混迷の闇をさらに深めていく。しかしだからこそ、その深い闇の中で、確かな光、希望の光を灯す者が求められる。我はそうした人たちをこれからも応援していく。光にはなれなくとも夜道の道しるべとなるよう光をかざす人でありたいと願う。
 絶望してはならない。フランクルも言っている。強制収容所の中では、絶望した者たちからまず死んでいったと。

現況報告いたします。父母のことなど。2016年07月14日 18時36分25秒

★状況はめまぐるしく動いていく。

 この数日ブログ書く時間がまったくなかった。
 政治の状況も我の周辺も慌ただしく動いていく。永さんのことや、ザ・ビーナッツへの思い、その他書き記しておきたいことは多々あれど、日々、そのときどきをやり過ごすのが精いっぱいでどうすることもできない。
 ただ、都知事選は、野党四党が統一して鳥越氏を推すことができて本当に良かった。個人的には三度目の挑戦となる、宇都宮氏に勝る候補はないと考えるが、前回の細川&小泉によるような、野党陣営の票を分断するような分裂事態にならないで幸いであった。身を捨てて統一という大義を選んで頂いた宇都宮氏には心から敬意を表する。小林節は彼の爪の垢を煎じて飲んでほしい。

 繰り返すが野党が共闘し市民がそれを後押しし革新陣営が大同団結してどうにか自公勢と互角の闘いとなれるのである。保守側が分裂しようと、そもそも簡単に勝てる相手ではない。気を緩めてはならない。早くも右派マスコミでは、鳥越氏を追い落とすためのネガティブキャンペーンが始まっている。
 都知事選のことはこれからも書いていきたい。
 
 さて、我が事を書く。実はまた母は入院してしまった。ウチのことを一挙一動書いていたらそれこそ読み手にはご心配ばかりおかけしてしまうし、それだけでこのブログは埋まってしまう。
 だが、先のことは全く予断をゆるさないので、ある時点ごとに書けるときに「現況」を記しておかないと、コトがおきたときに、落ち着いて経緯も含めて全容を書くことはできないと思う。正直なことを書くけば、昨晩はもう母の死を覚悟した。かなり危険な状態に陥った。
 幸い今は安定している。母も家にいないし明日は朝から父はデイケアで朝から夕方まで通所リハビリに通っているので、久しぶりに我の時間がとれるかと思う。

 母が四月に、癌性イレウスで腸閉塞を起こし、腸管のバイパス手術わしたことは既に書いた。それは成功し、食事も便通もできるようになったのだが、どうしたことか食べるとすぐに便意をもよおし、それは腸が短く通りが良くなったからなのだが、下痢体質になってしまった。
 特にこの一か月以上もの間、夜中、早朝、そして毎食の後、昼寝していても日に何回も下痢性便意が続いてしまい、その都度トイレにかけこみ、日に7回もトイレにかけこむような体調になってしまった。いろいんな薬を飲んだし、医者にもかかったが、ようするに腸が短くなってしまったがためであり、もう治らないと宣告されてしまった。
 下着も汚すので、仕方なく大人用紙おむつの生活になったのはともかく、食べるよりも下痢で出す回数が多いため、栄養が摂れず、母は痩せてしまい、おまけに栄養失調でアルブミンとかいうのが不足して足までむくみが出てしまった。 
 血液の循環が悪く、足や手が冷たくなり、この暑さでも寒い寒いと寝ては電気アンカに頼り、起きてもやや涼しい日はコタツ入れる有様で、我にできるのは、母の足を上げさせて血の循環を良くするためマッサージするぐらいであった。

 そのうえ先週、父が退院して一週間ほどしてからは、午後になると微熱も出始めて、医者にかかるべきか迷っていた。うんと高熱ではない。朝は熱などなく、午後になるとしだいに上がり始め、夜は37度台半ばぐらいまで上がる。特に体調に変化はない。
 それでも当人はこれはもうそういう体質だから医者行ってもどうしようもないと諦め、診察を断っていた。が、我としてはまた腸のどこかで炎症を起こしてそれで熱が出て、もしかしたらイレウス再発しているのではと案じていた。
 ただ、それでも医者から出してもらった頓服、解熱作用のある一錠の薬を飲ますと熱も下がり、朝になると熱もないわけでそのままにしてきたのだった。

 しかし、昨日13日は、何か朝起きたときから体調すぐれず、それでも週に三日通っている近くの診療所での丸山ワクチン投与の日だったので、送迎のバスで診療所に自ら一人で行った。ただ、栄養つけるため点滴も受けさせた。母は1時頃家に帰って来た。
 その日の午後、介護用品設置の会社の人が来て、先日の父用の電動昇降座椅子のレンタル契約と新たに付けるトイレの手すりの件などで相談と手続きがあり、母は昼食もとらずに応対に追われた。
 その後、簡単に野菜たっぷり入れたラーメン作って遅い昼食として父母に食べさせたのだが、父はともかく母はスープを飲むぐらいでほとんど食べられず、点滴してきたのにいったいどうしたのかと訝った。
 そしたら夕刻、母は起きてると寒いと言い出し、自らのベッドに移動してしまい布団にくるまり電気アンカを抱えていたが、寝ながら下痢便をもらした挙句、寒い寒いと震えて、歯の根が合わないほどぶるぶるガタガタ全身が震えるほどの高熱が出たようだった。

 実はその時刻、我はその日の注文本の発送があり、母がお漏らしした段階で、紙おむつをとりかえなけりゃなあと考え、母の体洗うため風呂にお湯張っていったん郵便局に行った。
 戻って母を起こそうにも、母は足が痛くて起きられないと言い、ベッドからまったく動けないままである。そして激しく寒い寒いとぶるぶる震えている。頭に手を当てるとすごく熱があるようだ。息も荒い。さてどうしたものか大いに迷った。こうなったらどうすべきか。

 こんな場合、いつもなら母を促し起こして我が車に乗せて立川のかかりつけ相互病院に大急ぎで急患で連れて行く。が、今回はともかく当人が全然動けない。糞尿まみれの母を抱き起そうにも我一人ではどうにもできない。とても風呂に入れるどころでない。とりあえず、毎晩このところ飲ましている解熱剤を無理やり呑ませて、母の傍に寄り添い肩を抱き体を撫でていたら強い震えは収まって来た。しかしこのままで大丈夫なのか?
 結局、このままではやばいと判断し、119番に電話して、救急車を呼ぶことにした。電話はすぐ繋がって住所を伝えたが、少しして折り返しまたかかってきて、救急車は向かっているが、詳しく経緯や状況の説明を求められイライラした。そしてたぶん同様のことをした方はご存知だと思うが、救急車が来るまでkの時間が長く感じたこと。

 救急車はピーポピーポ赤い点滅ランプで家の前に停まり、エンジン掛けたまま、救急隊員が家の中に入っていた。まず血圧やら熱を測り、そのとき母は39.5度という高熱で、脈も70しかなかった。
 が、意識は意外にしっかりしていて、あれこれ状況を自ら説明して、かかりつけの立川の病院に電話して患者受け入れ可能かしばらく待って確認とって、痛がる母をシーツのようなものにくるんでベッドから持ちあげて運びだし、狭いガラクタいっぱいの家の中、かなり苦労して救急車に母を乗せた。
 その間、騒ぎを聞き出したご近所の主婦方が勢ぞろいして何が起きたのか集まってきていた。けっきょく、母は彼らに見送られて、ストレッチャーに乗せられて救急車は出発した。我も母ともう一人の看護師と共に傍らに座った。救急車はびゅんびゅんマイクで「直進します」と放送しつつ立川まで飛ばしたがかなり揺れた。いつもの我なら間違いなく吐いただろうが、母のことが心配で吐かずにすんだ。そんな高熱があるのに当人である母は、意識はクリアで、付き添いの看護師の男にあれこれ癌にかかったこれまでの経緯をことこまかに話していた。

 いつもの通いなれた病院に運び込まれ、すぐ診察受け、血液検査やレントゲンなど撮った。糞尿で汚れた紙おむつも衣類もすべて取り換えてもらった。
 金てより旧知の産婦人科の医師が応対してくれて、先に今月2日に受診し血液検査受けたときに比べ白血球の数値がとても高いのと貧血が甚だしい。やはりどこか体内で出血しているはずだと言うが、便を見る限り血便になっていないと言う。
 ともかく熱を下げるため以前も使用した抗生物質を投与する書類にインして母は点滴受け始めた。それから入院のため病室に移るまで傍らで待たされた。

 けっきょく、様々な煩雑な入院手続きを終えて病室に移動し、さらに病棟看護士主任にいろいろ説明して病院を出たのは午後9時近かった。 しかし母は抗生剤と点滴のおかげで体調も落ち着いて熱も下がったようで我としても安心した。しかし、マイカーで行ったのでないことに気づき、立川駅まで歩き久々に青梅線に乗って家に戻った。
 父に途中で買った弁当を誤嚥させないよう食べさせそれからアルコールを少し飲んで寝た。

 先のことはわからない。が、ともかく救急車呼んで母を病院に連れて行ったのは正解だったのではないか。あの高熱まま様子見てもたぶんさらに状態は悪化していたのではないのか。
 病院に預ければ安心だし、もはや我の手におえる段階ではなかったのだから仕方ない。あれこれ考えつつベッドの中でいつしか眠りに落ちた。

 そして今日、父の退院後の初の外来診療の予約の日で、朝から父つれて母のいる病院、整形のフロアに行った。受付だけ済ませて母の病室に入院必要品など持って行った。
 母は血圧はいぜんまだ低いものの熱も下がり足のむくみも尿道カテーテルですっきりとれたと言う。意識もあり、診察後の父も交えて話もしたが、とりあえず状態は安定しているようなのでほっと安心した。
 明日また来る約束して病室を後にしたが、やはり救急車を呼んで良かったと思い直した。まさに危機一髪だったかもしれない。

 その父の大腿骨骨折のその後であるが、退院後二週間の経過観察ではまったく問題なく、骨もしっかりくっついているとのことで、次に来るのは三か月後ということとなった。
 我が手を引いてだが、杖ついて、つい先日まで入院していた同じ四階の外科病棟のナースステーションに顔出したら、顔なじみの看護師たちが皆驚き歓待された。そう、90歳過ぎて、大腿骨折ってまた再び立って歩けるようになる患者はフツーはいないのである。皆びっくりして誰だかわからなかったと異口同音に驚き喜んでいた。
 というわけで父の方は問題なし。問題は母である。しかし、我はもう何も怖れない。すべては神の愛、神の計らいだと心している。

 また動きがあれば報告いたしたい。そんなわけでともかく忙しかった。ご容赦願いたい。

生きて今、共に在ることへの感謝と祈りの日々2016年07月19日 22時16分27秒

★希望と失望が寄せては返す波のように~現況報告追記

 ご心配おかけして申し訳ない。拙ブログの読み手、多くの人たちが我の体を案じてくれているのかと思う。さすがにもう、今日など疲れたなあと思うときもあるが、背負いきれない荷を与えられたとは考えないのでどれほど心身共に負担がかかろうと絶対に倒れないという自信と確信が我にある。
 何より我が親たちの世話という、これこそ子としてすべきこと、正しい義のあることをやっているのだ。辛くも何ともないし、それこそこの「今」、親たちが生きているという「今日」の日が一日でも長く「明日」もまた続くことを祈り願うしかない。

 幸いその思い、祈りはかなえられている。もう今はそれだけで精いっぱいで、我のことも我が関わっている、なすべき人間関係上のことも何一つできないままだが、不義理を承知で他のことは一切後回しにしている。断念したり切り捨てたわけでもないし、ネグレクトしてしまったのでもない。
 ただ、最優先事項として、我の仕事や趣味や生きがいなどさておいて、まず何よりも愛する親たちのこと、その世話と介護こそ最優先だと決めたわけで、それもまた辛い嫌なことではまったくなく、我がしたいことであり、かつすべきことであるわけで、ならばそれはまったく苦ではない。むろん楽しいことであるはずもないが。

 そしてともかくどんな状況でも老いた父母が、特に今はまず母が、まだ生きていてこの世にいることが実にただただ有難く思える。
 その共に過ごせる日があと何日、何週間、あるいは何ヵ月もあるのかわからない。しかし、ならばこそその限り少ない日々、その一瞬一瞬を大切に、思い込めて濃密にすごしたいと思う。

 さて、何から書いたら良いか。

 母は、13日の夕刻、ものすごい 高熱が出て動けなくなり救急車を手配して立川のかかりつけ病院に運び込まれた。父が退院したのが2日の日であったから結局親子三人での我が家で共に暮らせた日々はわずか10日であった。
 その熱は40度を超し、そのとき血圧も上は70で、かなり危険な状況であった。入院後も熱は翌日昼間は下がっていたのだが、またその晩同様の発熱が起き、病院内でもそれは二晩続き、昼間になって見舞いに行くたび事態を知らされ、いったいこのままどうなってしまうのか不安で心痛めるしかなかった。まあ、家でそんな事態が起きたらまして何の処置もできないわけで、病院の医師や看護師たちに任せるしかなかったのだが、それこそ我も病室に付ききりでいようかと考えもしたりした。

 そうしたこと、苦しい胸の内をこのブログに刻一書いても仕方ないし、そうした不安な心境を綴れば読み手の方々まで心配され憂鬱にさせてしまうわけで、申し訳なくも何一つ更新できないままでいた。
 幸いのこと、その発作的高熱は、この数日収まり、抗生物質も効いているようで、母は小康状態を保っている。まだベッドに寝た切りのままではあるが、医師からもこのままだと歩けなくなりさらに弱って来たらもう退院できなくなるからと、治る病気ならばともかく、退院~帰宅の話も出て来た。それでようやく今また経緯を記すことにした。

 そもそも今回の母の高い発熱は何であったのか。医師の診断は、癌性イレウスの感染症の疑いとのことで、思えば父が退院してから母はずいぶん無理して動き回り弱った体に疲労を蓄積させていた。
 父は骨折での退院後、週に三日、リハビリを兼ねて近くのデイケアに新たに通うこととなった。それが火曜、金曜、土曜で、その他に、木曜の午後には訪問看護士が毎週やってくる。
 その他、父には上下する電動座椅子をレンタルで居間に設置したりと、そうした様々な面倒かつ煩雑な契約書類の作成は母任せにしてしてしまった。

 父が退院して母は元気になったわけではない。体調は相変わらずでも、認知症かつ歩けない手のかかる父の世話をやくために、母は朝早く起き、夜も父を寝かしつけるまで頑張ったのである。特に、デイケアのある日は朝からその支度に大忙しであった。
 当人の体調はというと、先にも書いたが、深夜早朝、毎食後を問わず日に5回も多い日は10回近くも下痢に苦しめられろくに寝る時間もない有様だった。

 そうした疲れが溜まってきて、入院前の一週間は、午後から夜になると7度台の微熱が必ず出て、どうしたものかと我は迷い始めていた。熱が出るのは、また腸管が腫れたり体内のどこかで炎症を起こしていることが考えられる。だから医者にかかりまず検査受けるしかなかったのたが、母は、もうこうした体質だから行ったって仕方ない、と行きたからず、熱さまし薬だけ呑ませてまたも様子見ていたのだ。幸いそれで熱も下がり、朝などは平熱であった。
 今思うに、行けばまた入院となるだろうから、母も親子三人での生活をできるだけ長く続けていたかったのだとわかる。あまり仲の良くない父と息子の二人だけにしておくのは不安だったのだと。

 じっさい、退院後の父の世話は考えていたより大変であった。二か月半も入院して、歩くのも杖ついても何かに掴まってやっとという状態はともかく、呆けゆえに繰り返し何度でも同じ問を、何度説明してもくどくどうるさく繰り返し言い出す。説明するとそのときは納得したようで、わかったと言う。ところがまた少しすると忘れて同じことをまた訊いてくる。母も我も最初はやさしく返答していてもさすがに五回も六回もとなるとうんざりもするしついにはキレてしまう。
 また誤嚥しないよう、良く噛んでしっかり飲み込むよう傍について「観察指導」するのも一苦労であった。側で見ていないと、バクバク良く噛まずに食べてはすぐむせるし、咳が出る。それが誤嚥している証なのである。
 先だってもどこそかで、誤嚥性肺炎の怖れがある夫を、その妻が、食事時に誤嚥しないよう何度注意しても夫は妻の指導に従わないが故、ストレスでキレて殺してしまったという事件がテレビニュースで報じられていたが、まさに他人事でないと思う。
 そうした手のかかる老いた大男を自らは末期癌で、余命宣告された骨と皮の母が世話するのはそもそも無理であったのだ。母が自らかってでたこととはいえ、こんな体調になる前と同じように父のことは母任せにしたことを今悔いている。

 と、ここまで書いてさすがにバテてきている。眠れる時に一分一秒でも長く寝ておきたい。続きは後ほど書きたい。
 今晩も親たちが明日もまた無事であることを願い祈り、今日の一日に感謝して眠りにつこう。

続・生きて今、共に在ること2016年07月20日 21時16分26秒

★母の退院に向けて慌ただしく

 このところ睡眠時間は長くて4時間、昨日は二時間半ぐらい眠れたか。入院中の母の容体が気にかかることもあるが、実はウチの老犬ブラ彦も認知症なのか夜泣きがひどくなって、このところ夜は家の中に入れて寝かせていたのだが、深夜2時、明け方4時頃とか起きて騒ぎ出し、うるさいだけでなく家の中で排泄などされると面倒なので、こちらも起きてはこの近所界隈を散歩させまた家に入れる。しかし少しするとまたクーンクーン、ワンワン,キャンキャン吠え出すので、また起こされる。
 朝になって犬も静まり、寝坊できる時もなくはないが、父のデイケアがある日は、6時ごろから起きて父を送り出すための支度しないとならない。寝るのが早くて零時過ぎで、それから何度も犬に起こされ、しかも起きるのも早いとなるとおちおち深く眠る時間などない。一日ぼーと、鈍い頭痛を抱えて夢うつつのような感じで、眠くて仕方ない。ふらふらでも車を運転し母のいる立川の病院まで往復している。しかし、それで辛くも苦しくもないし苦ではない。
 何故ならその全ては我が自ら願い望んだことの結末であり、親たちや犬の長生きもずっと願い祈ったことがかなっているのだから、何でそれをうんざりし嫌になることがあろうか。
 正直しんどい、辛い。が、父も母も犬も皆他よりずいぶん長く生きてくれているのである。母はまだ女の平均寿命にやや満たないが、父やウチの犬は、長寿と褒められるほど長生きしている。それを喜び有難く思わないでどうするのか、だ。
 それにしても今日も忙しかった。昨日は、午後3時から詩の介護認定見直しの担当者が母の病室まで来て、介護度数の見直しのため聞き取り調査があった。昨日は父をデイケアに出してから昼まで少しは仮眠できたので楽だった。
 母は、前回、わりと体調が良い時期に、ペラペラ元気に応対したこともあって、介護から要支援に格下げ?されてしまっていたのだが、今回、新たに現状で認定し直してもらうと、おそらく要介護3となるだろうとのことで、これで紙オムツも無償で支給されるとのことで、下痢便し放題と晴れてなろう。

 そして、今日は、父は家にいたのだが、午前から病院やケアマネから地域包括支援センターやら、母の退院に向けて下準備をすべく、次々と連絡があった。少しでも昼寝したいと切望していたものの、けっきょくそんな時間はなく、今もぼーと、頭痛抱えつつ目をしょぼしょぼさせながら薄れゆく意識の中でキーボードを叩いている。外ではまたブラ彦がワンワン、キャンキャン吠え始めている。
 今晩はわりと涼しいから庭に出していても良いと思うのだが、このまま吠え続けていると隣近所の迷惑になるのでまずは散歩に行くが、それからどうしたものか。

 前置きが長くなった。ともかく母の退院の日が決まった。来週明け25日の予定だ。が、もう自らは車椅子にも乗れない状態なので、先ほど介護タクシーのストレッチャーで予約した。今回は救急車で運び込まれたのだ。退院もまたストレッチャーとなるのはいたしかたないのか。

 詳しいことはまた記していく予定だが、さすがにもう 起きていられない。犬たちを一度散歩させて後はどんなに騒ごうが、我はともかく少しでも長く眠りたい。とにもかくにもまずは無事に母の退院がなるかだ。
 母の退院後の自宅での介護の大変さは、今日うんざりするほど説明された。最悪の場合、我か一、二時間おきに、母が床ずれにならないよう、寝ている体の向きを変えてやらねばならない。下痢便のオムツを取り換えることはともかく、そんな感じで夜通し起きていたらたぶん一か月ほどで我は親たちより先に死ぬ。

 しかしまだそれは先の話で、まずは母を退院させてまた我が家で父母と我三人での暮らしを再開させてからのことだ。
 慌ただしいが、全てが順調、うまいように進んでいる。母用の介護ベッドを玄関わきの一室をかたずけてそこにレンタルして入れてもらう。訪問診療の手続きも今週中にする。ならば、母が来週戻って来てもその荷は我一人で負わずにすむかと思う。