人の「死」とは何か、ようやくわかった・中2016年09月15日 16時53分52秒

★人は死ねばゴミになる?

 母が8日の早朝、我家で死んでから一週間となる。さすがに涙がいつまでも止まらないとか、人前はばからず号泣するということはなくなってきた。しかし、今もまだ母が、母の肉体、存在そのものがこの世から消えてしまい、ただの骨となってしまったことが現実として受け入れられない。意識のうちでは、母は今も介護ベッドの上で横になり、我を呼ぶ姿がありありと目に浮かぶ。我はやさしく母の腹を毛布の上からな撫でて、次いでむくんだ手足をさすってマッサージする。優しく静かにしないと痛がってしまう。その声が、その姿が、その感触は今もはっきりと残っている。

 そう、我の内では今も母は変わらず生きている。母と過ごした記憶はおそらく我が生きている間は死ぬまで消えないだろう。ただ問題は現実として、母はもうこの世にはどこにもいなく、母の残した数々の物ものが使う人、主をなくして所在投げに散らばっている。それらはどうしたものか。やがては捨てるしかないのもわかっている。特に母の使っていた衣類や日用品は母しか使えない。それらはやがて処分する。妹が来てくれれば彼女はドライだから一切合切右から左にゴミの袋に詰め込んで表に出してしまうことだろう。我はそれを見守るだけだ。


 人は死ぬとゴミになる、とは誰の謂いであったか。ひと頃そんな言葉があちこちを賑わした。就活ならぬ終活、つまり死ぬための生前からの事前活動も今も喧伝されているのは、そうした「死後」の煩わしさを当人も周囲も厭うからだろう。

 それは母が生きていた頃、しだいに死に向かい出してから徐々に我も感じるようになっていた。
 人が死ぬとその個人のパーソナルなものは、意味と価値をほとんど失ってしまう。まず衣類や靴、使っていた日用品しかり、書き記したもの、愛好した趣味的なものでさえ、当人意外には基本意味を持たない。
 母が弱ってきて、ベッドから降りられなくなってきて、まず靴やスリッパ、靴下などは不要となり、さらには常に紙オムツだけの下半身となれば、寝間着なども下はいらなくなる。メガネは食事どきかけたりはしていたが、最後まで使っていたものは入れ歯だけであった。ずっと付けていた手帳も記す気力もいつしかなくなっていたし、上半身の肌着と紙オムツ、それに常に上半身に巻いていたディズニーのバスタオルだけで母はあの世に逝ってしまった。他のものは既にその時点で一切彼女には不要のものとなっていたのだ。

 むろん家族と撮った写真や母が拙くも書き記していた短歌の類は当然捨てないで残しておく。が、他の私物類、一切合切は今すぐではないが、近くゴミとして妹が来れば大量に処分されてしまうだろう。
 そうして母が生きていた痕跡、この家で長年過ごしていた証拠が消えていく。何年かすれば人の記憶も薄れて、よほど親しい友人や親戚縁者以外は、そんな人がいたことすらすぐに思い出させなくなるだろう。

 有名人なら、○○記念館なるものを作って死後もその人の姿を記録にとどめ残した物どもを収納、展示できる。しかし、それはビジネスとして成り立つ著名人であるからで、そうした施設もファンなり観光客なり訪れるから成立しえる。市井の無名に生きた者は、そうした主亡き後のものなどを遺されても遺族は本当に困る。やはり早く処分していくしかない。
 それは衣類や日用品などガラクタでなく、蔵書やレコードだって同様だ。当人にとってどれほど重要で価値があろうとも家族にとってはまったく意味を持たないものである場合が多いし、何よりも場所をとって困るだけだ。
 ふと、我が死んだらいったいこの膨大な本や雑誌、レコード、カセット、ビデオテープ類はいったいどうなるのか怖くなるが、今はそれはあえて考えない。できるだけ死なないよう健康に注意するぐらいしか今はできやしない。

 人は死ねばゴミにはならないと思う。生きていたこと、してきたことはどんな人でも意味も価値もある。しかし、確実に死後には膨大なゴミと化すものを残していく。問題はそれをどうするかだ。

 我の今の気持ちとしては、母の残したものすべてが愛おしく大事である。だって母はもういないのだ。ならば母のものは全て我の周りに残しておきたい。食べ残したものはともかく書き記したメモの類、使っていた日用品、来ていた衣類でさえも今は母の残した大事な思い出の品である。
 二度とそれを使う人はいないし戻りはしない。だからこそ、愛した母のものを我は生涯捨てたくない。むろん我にとって価値があるだけで、それらは我の死と共に処分してもらってちっともかまわない。

 妹ともめるだろうが、今は母の残したゴミすら我にとっては大事な有難い母との思い出なのだ。それらをほいほい捨ててしまえば、母がいたこと、母がここに暮らしていたことすら消えてなくなってしまうではないか!
 それはあまりに哀しすぎる。母がかわいそうでならない。人が死ぬとはそういうものだ。だからこそ我は抗いたい。亡き母のためにも。