癌よ、お前は何のためにあるのか・後2016年09月25日 06時29分41秒

★なすすべもなく癌に母を奪われ

 母のこと、母とのことが過去となっていくのが辛い。
 なす術もなく、という言葉がある。このところ母の死、葬儀までの日々を改めて振り返ってみて、まさに、なすすべもなく癌に押し切られたという思いに打ちのめされている。
 もう少し抗うことも巻き返すこともできるかと思っていたが、まったく何一つできなかった。押しよせる大津波か、土石流のように我らは翻弄されて、その勢いの前に流され必死にもがくだけであった。

 今思い返せば、母の死を意識し始めたのが、医師から我に、もう母は長くないからそのつもりで覚悟して、と告げられた7月1日のことだ。そして9月8日に、母はこの家で旅立ってしまったのだから、わずか二か月と一週間しかその「告知」から生きられなかったのだ。
 父が三か月間の肺炎と大腿骨の骨折治療の入院から自宅に戻って来たのが、翌2日。これでまた親子三人での生活が再開したと喜んだのも束の間、7月13日に母は、最初の高熱での救急車で搬送されて入院。以後は大慌てで介護ベッドを自宅に運び入れてそのベッドの上での寝たきりの生活となってしまったのだから、母が自ら動けて居間で家族共にテレビ見ながら食事もとれていた元通りの生活はわずか二週間しか続かなかったのである。

 そしてそれ以降は、我、息子が寝たきりとなっていった母の下の世話から何もかも介助するようになった。その日々はずいぶん長かったと最中は思っていたが、今数えてみると母の入院していた日を差し引けば実質たった一か月かそこらなのである。
 今さらながらそうしたことに気がついて愕然としている。次々と押し寄せてくる日々新たな事態に対処するのが精いっぱいで、癌と闘うことどころか向き合うことも、落ち着いて考えることすら何一つできなかった。一日一日、そのときどきを何とか乗り切るだけで必死だった。それは仕方なかったのか。
 そして何より悔やまれることは、きちんとした事実認識を我は持てなかったことで、まだまだ死まで時間がある、猶予されていると甘く考えていたため、急にその時が来て冷静に対処も受け止めも心の準備もできなかったことだ。愚かであった。素人なのに過信していたのだ。
 もっと死を常に意識して日々きちんと向き合わねばならなかったのだ。

 今さらながらそうした経過を振り返って認識し、愕然としている。当たり前のことだが、時は戻せない。母ももうこの世には戻ってこない。そして我は、認知症の、ろくに歩けない老父と二人で、母のいないこの家で生きて行かねばならない。そのことはわかっている。そうするしかない。
 が、今も母を死なせてしまったこと、母のいない現実が辛くて情けなくてきちんと受け止められない。そう、全く情けない。まったくなす術もなく、癌に押し切られてしまった。完敗であったかと思わざる得ない。我はすべてが甘かった。
 これもまた神の計らい、あらかじめ決まっていたことだとも思う。が、情けないことにその事実、事態を冷静に未だ受け入れられない。いや、頭はともかく、心、気持ちはこの現実をぜったい受け止めたくないとあえて抗っている。

 我がもう一度何かに夢中になって、生の情熱を傾けられるものがあるだろうか。今は音楽さえも、うたすらも我の関心をひかない。ギターももう何ヵ月もさわってもいない。我のすべきことは何だろうか。何があるのか。何でもいい、憂鬱気分を忘れられる何かに熱中したい。
 今できることは、情けないけれどこうした心情をブログで吐き出すだけだ。ご同情や励ましのメールを頂いた方も多々おられる。その方たちに個別にきちんと御礼の連絡せねばと思うものの、書けば話せば愚痴や嘆きばかりになりそうで、その人にも重荷を負わせてしまいそうでためらっている。

 今、外は久しぶりに陽も出て晴れて来た。彼岸明けの日曜の朝だ。この太陽のように、どうかもう一度我が人生にも明るい陽射しがさすことを。もう影ばかりの死の谷を歩むのはご勘弁だ。
 母を殺した癌よ、我に生きることの意味と価値を教えてくれ。

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