死へ向かう道2016年10月07日 09時09分24秒

2015年5月撮影。山梨県北杜市須玉の瑞牆湖での母と父。
★母がいないという人生を生きていく

 九月はやたら長雨、我にとっては母喪失の涙雨にたたられたが、このところようやく爽やかな秋晴れの日が続くようになってきた。
 昨日は日中は晴れてかなり気温も上がったが、湿度が低くて吹く風は涼しく、高木に囲まれた我が家では、窓から入って来る風はひんやり爽やかで、つい気持ち良くいつの間にかうとうとと何度も短い午睡をしてしまった。
 まだ生きていても良いんだよ、という声がどこかからしたような気がした。そう、まだ生きている、生かされている有難さをそんな日はつくづく思う。今日も晴れて爽やかな素晴らしい秋の日である。

 母が死んで明日で一か月となる。当初は泣いてばかりの、いや、今だって涙無しに母の事を語れないが、我が人生最大の痛恨の出来事はようやく過去のことへと過ぎ去ろうとしている。
 当初は、心療内科に通わずに、その出来事を我が心は処理できる自信もなかったが、父のこともあって行きたくとも家を空けられず、時間だけがその衝撃を少しづつ和らげてくれているようだ。

 当たり前の話だが、母とは60年近く一緒に過ごしてきたのだった。むろん我は家を出ていたときもあったし、それぞれ多忙で母もよく出かけたりとお互いバラバラの生活をしていたこともままあった。
 ただ近年、我が実家に戻って来て約20年は、我の始めた仕事が居職ということと、父も母も老いて病んできたこともあって、関西へライブ観覧などで出かける時など以外は、親子三人、ほぼ毎日顔を突き合わせて生活を共にしてきた。食事も母に下準備は手伝ってもらっても献立を考えて主に作るのは我だったし、買い物、洗濯や掃除など家事全般も基本我が担当していた。ライブや人と会うのため我が都心に出る用事の時は、飯の支度だけはして、父と家の事は母に託けて気軽に出かけられた。
 母や父に任せていたことは、我が外出して不在時に犬の散歩程度のことで、やがては母も父も弱って歩けなくなったのだから、母が死んでいなくなったからといって、日常生活上で困ることは特にはない。

 しかし、寝たきりであろうと、母が生きて「そこ」にいること、この世に存在していたことは実に有難いことだったと今つくづく思う。
 24時間昼夜を問わずオムツ交換したり介護するのは辛く大変なことではあったけれど、生きている母に声かけてすぐ返事も返ってきて、毎日たわいのない出来事でもあれこれ話し何でも相談できた日々はもう二度と戻らない。母はもうどこにもいない。そうしたかつての日常も我の記憶の中だけだ。

 親との別れは誰にだって必ず起こる。親は子より先に逝くものなのだから、母が、父が先に死ぬのは当然の事であった。が、あまりにも長くそうした親子三人での日常、毎日の暮らしが続いていたので、これまでがそうであったように、今年も、また来年も同様に続くものだと思い込んでいた。何よりも母はまだ死なないと信じ込んでいた。たとえ癌でも我は簡単には死なせないと固く決意していた。
 しかし、あっけなく、母は一気に衰弱してしまい、こちらは何も抗うこともできないまま、なし崩し的に母は癌に押し切られまったく予想外の早さで死んでしまった。介護用ベッドを導入して、寝たきりとなってわずか二か月足らずで死んでしまったのだ。
 それまではだいぶ足腰は弱って来ていても自ら歩けていたし我家で普通の生活が送れていた。それが7月13日、最初の高熱が出て救急車で搬送されて10日間の入院してから一気に衰弱して、9月8日には死んでしまったのである。
 その約二か月間のことをこのところずっと考えている。

 当初、たった二か月の闘病、介護で母はあっという間に死んでしまったと思っていた。しかし、逆に考えれば、癌が再発したのは去年の年明けだったし、実質的にその影響が身体に出始めたのは、今年の春先頃からだったわけで、最後は一気に、僅か二か月の寝たきり生活で逝ったとはいえ、元気に動けていた時間がそれまで7月の頭まで、かなり長く続いていたとも考えられなくない。
 そしてその二か月間の、死に行くまでの時間、死の猶予時間があったからこそ、今、我は何とか母の死という重大事を受け入れることができるように思える。
 これが、元気なまま、急に起きた突然死であったら、我はショックで発狂していたかもしれない。母はゆるゆると二か月という時間をかけて少しづつさらに弱って最後は完全に骨と皮となってまさに精根尽き果てて死に赴いた。
 我はその介護していたときは、事態がよくわからず、癌は治せずとも何としてももう一度母を元気にさせる、せめて寝たきりではなく再びまた歩けるようにしてみせると考え懸命に努力していたが、母は確実に死に向かって歩みを進めていたのだった。
 すべては今にしてそういう流れにあったのだと、それが運命、天の計らいであったのだと今こそはっきりわかる。見えてくる。

 最愛の母を失って今も辛い。しかし、母と、父とまた我ら三人で、犬たちも車に乗せてどこか旅行へ、また山梨の温泉に行きたかったと思うけれど、現実的に母はもう寝たきりとなって全く動けなくなっていたわけで、そうした「現実」があったから、かなわなかった思いももはや仕方がなかったのだと諦めることもできる。おかしな話だが、その二か月があったからこそ母の死もまた諦めがつき受け入れることもできる。
 もし、寝たきりの状態がもっと長引き、何ヵ月も何年にもなれば、我一人での介護は続くはずもなく、我も疲弊して倒れるか、家で母の介護は諦めるしかなかった。母の最期を家で看取るためには二か月が限度であり頃合いであったかもと気づく。

 母が元気だった頃、かつての日々を撮った写真を見るたびに、ああ、この時は母は元気でこんなことをした、あんなこともあったと思ってしまうし、その母が生きていた頃は確かに記憶と写真の中には残っているけれど、もうそれは全て帰らぬ過去のことでしかない。
 思うは、そうしたことができたこと、そこに行けたことはともかく良かったわけで、その時は母も父も我も喜び楽しかったわけだから、それだけで良かったじゃないか、そうした思い出を抱えて母は死に赴き、我らにはそうした思い出とそのとき撮った写真が残されたということだ。それで良しとするしかない。

 母はもういない。母のいない人生を、我は父と共にこの家で生きていく。父の死はどういう形で訪れるのかわからない。ただ、我は母の時と同じく、父ともとことん最後まで共に暮らし看て、できる限りの事をしたいと思う。そう気持ちを改め考え直した。
 それをしない限り我は我が人生を生きたとは言えないし、母は看取ったのに父は人任せにしてしまえば生涯悔いを抱えて生きていくのではないか。

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