我に再び希望の光の射す日々を ― 2016年10月15日 21時55分30秒
★人生の不登校となってしまったようで。
全てが終わり全てが始まる。誰かのうたにあったフレーズだが、元々はディランかと思う。
つくづく思う。人にはそういう時、そういう年が来るのだと。
今年はそんな予感がしていた。そして実際、長年抱えていた一つの案件、告白すると、長い間頭を痛めていた、かつて我のしでかした交通事故、人身事故の一件はようやく落着した。万事解決したと言っても良いのだろう。
我自身は直接動き回ることはなかったが、相手方、こちら側双方の弁護士が何度も折衝を交わしてようやくのこと、10年近くかかってやっと和解が成立した。
この件もかつて拙ブログで書き散らしたし、いろいろ友人知人間にご心配おかけしたことだったのだから早くご報告すべきであった。
が、あまりに時間がかかったのと、母の容態も日々悪化してきたこともあって、本当にこれで終わったのか半信半疑でもあり、何かリアルに喜ぶべき実感がないままお知らせするタイミングを逃し、過去のことへとなってしまった。
といってもそれは数か月前、確かこの夏前の頃、ようやく弁護士からその連絡が届いたのだった。保険に入っていたので、超多額の慰謝料はこちらは支払わずにすんだ。まあ、いずれにせよ相手側の子を、その事故で殺していたら、この家も何もかも売り払っても償いは足りたかわからない。
今さらだが、神のご加護があったとつくづく思える。我は恵まれていた。
そうした我も母も長年、心と頭を痛めて来た問題案件は解決して、病床の母にはその報告をして、母も一安心して逝ったのだと今思える。父はすっかりそんなことは完全に忘却の彼方ではあったが。
そして母もこの初秋に人生を終えた。
すべてが終わってすべてが始まるのだと思う。そう、全ては終わった。が、実はまだ全てが始まるどころか、何一つ始めることができないでいる。
不登校の経験を少しでもお持ちの方はわかるかと思うが、学校をいったん休んでしまうとなかなか行き辛くなってしまう。その教室の戸を開けていつものように何気なく自分の席に着けば良いだけのことがどうにも重荷に思えて、行きたくても行けなくなってしまう。
あれこれ家で、我のいない教室のことを考える。そしてそこに我の居場所はないのだと思ってしまう。行けばたぶん歓待もなく、逆に排斥もなくないままごく普通に皆は、おやっとは思うだろうが無視しくれるだろう。そしてまた退屈な学校生活がルーティンで始まる。それはちっとも難しくない。
しかし、不登校となってしまえば、休んでいた時間に比例して行くことの苦痛は重荷となって、明日は行こう、行かないとと思い、そう自ら決意しても当日になると、そのプレッシャーに押し潰されじっさい体調すらおかしくなってしまう。
結局、また行けずに、行かないとほっとした反面、またウツウツといったいこのままどうなるのか、どうしたらよいのかと不安になり自らを責めたてる。それの繰り返し。
今の我もまた、そんな感じで、もう7月の頭から、一切のコンサートにも行けず、誰とも会わず電車にも乗らず、友とはせいぜいメールでやりとりするだけだと、再び誰かと会うことがものすごく不安になってしまう。
母はもういないし、夜とか短時間ならば父を寝かせて家も空けられる。まずは誰かに連絡をとって、一人づつでも会う段取りをしていけば良いだけの事だと思う。が、まずそうした個人的連絡すらなかなか気が重くてできないでいる。何故か、その一歩が踏み出せない。
かつての不登校の子どもはいい歳して人生も不登校となってしまったようだ。
かといっていつまでも認知症のオヤジと二人で、家にこもっているとやがてはストレスで発狂して父を殺して家に火をつけてしまうかもしれない。正直苦しい。どうして良いかわからない。
また再び、少しづつでも人生を新たに再開できたらと心から願う。新たな人生を始めたい。我に再び希望の光が射す日々を。その光に照らされて人生を再び歩みたい。
神よ、我に勇気と愛を。
全てが終わり全てが始まる。誰かのうたにあったフレーズだが、元々はディランかと思う。
つくづく思う。人にはそういう時、そういう年が来るのだと。
今年はそんな予感がしていた。そして実際、長年抱えていた一つの案件、告白すると、長い間頭を痛めていた、かつて我のしでかした交通事故、人身事故の一件はようやく落着した。万事解決したと言っても良いのだろう。
我自身は直接動き回ることはなかったが、相手方、こちら側双方の弁護士が何度も折衝を交わしてようやくのこと、10年近くかかってやっと和解が成立した。
この件もかつて拙ブログで書き散らしたし、いろいろ友人知人間にご心配おかけしたことだったのだから早くご報告すべきであった。
が、あまりに時間がかかったのと、母の容態も日々悪化してきたこともあって、本当にこれで終わったのか半信半疑でもあり、何かリアルに喜ぶべき実感がないままお知らせするタイミングを逃し、過去のことへとなってしまった。
といってもそれは数か月前、確かこの夏前の頃、ようやく弁護士からその連絡が届いたのだった。保険に入っていたので、超多額の慰謝料はこちらは支払わずにすんだ。まあ、いずれにせよ相手側の子を、その事故で殺していたら、この家も何もかも売り払っても償いは足りたかわからない。
今さらだが、神のご加護があったとつくづく思える。我は恵まれていた。
そうした我も母も長年、心と頭を痛めて来た問題案件は解決して、病床の母にはその報告をして、母も一安心して逝ったのだと今思える。父はすっかりそんなことは完全に忘却の彼方ではあったが。
そして母もこの初秋に人生を終えた。
すべてが終わってすべてが始まるのだと思う。そう、全ては終わった。が、実はまだ全てが始まるどころか、何一つ始めることができないでいる。
不登校の経験を少しでもお持ちの方はわかるかと思うが、学校をいったん休んでしまうとなかなか行き辛くなってしまう。その教室の戸を開けていつものように何気なく自分の席に着けば良いだけのことがどうにも重荷に思えて、行きたくても行けなくなってしまう。
あれこれ家で、我のいない教室のことを考える。そしてそこに我の居場所はないのだと思ってしまう。行けばたぶん歓待もなく、逆に排斥もなくないままごく普通に皆は、おやっとは思うだろうが無視しくれるだろう。そしてまた退屈な学校生活がルーティンで始まる。それはちっとも難しくない。
しかし、不登校となってしまえば、休んでいた時間に比例して行くことの苦痛は重荷となって、明日は行こう、行かないとと思い、そう自ら決意しても当日になると、そのプレッシャーに押し潰されじっさい体調すらおかしくなってしまう。
結局、また行けずに、行かないとほっとした反面、またウツウツといったいこのままどうなるのか、どうしたらよいのかと不安になり自らを責めたてる。それの繰り返し。
今の我もまた、そんな感じで、もう7月の頭から、一切のコンサートにも行けず、誰とも会わず電車にも乗らず、友とはせいぜいメールでやりとりするだけだと、再び誰かと会うことがものすごく不安になってしまう。
母はもういないし、夜とか短時間ならば父を寝かせて家も空けられる。まずは誰かに連絡をとって、一人づつでも会う段取りをしていけば良いだけの事だと思う。が、まずそうした個人的連絡すらなかなか気が重くてできないでいる。何故か、その一歩が踏み出せない。
かつての不登校の子どもはいい歳して人生も不登校となってしまったようだ。
かといっていつまでも認知症のオヤジと二人で、家にこもっているとやがてはストレスで発狂して父を殺して家に火をつけてしまうかもしれない。正直苦しい。どうして良いかわからない。
また再び、少しづつでも人生を新たに再開できたらと心から願う。新たな人生を始めたい。我に再び希望の光が射す日々を。その光に照らされて人生を再び歩みたい。
神よ、我に勇気と愛を。
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