哀しみに彩られた父92歳の誕生日2016年10月22日 10時34分28秒

★まさか妻のほうが先に逝くとは

 昨日、10.21は、昔なら国際反戦ディであったか。大正13年生の我が父の誕生日でもあった。父はこれで実に92歳。そんな歳まで生きた人と日常生活を共にしたことはこれまでなかった。まさに全てが日々新ただ。
 父は今デイケアに行っていない。やや今日は時間ができたので、このところ思うところを書く。

 母の母も長命で、百歳近くまで生きた人だったが、もう八十代から歩けなくなり晩年は寝たきりとなって家族も介護できなくなり、あちこちの病院、介護施設をたらい回しにさせられ最後は意識不明のまま誰にも看取られることなく?死んだと記憶する。
 それに比べれば父は今も我が家で息子と暮らし、自ら食事がとれ、杖をつきあちこちに掴まりながらも徘徊し、週に三日はデイケアに通っているのだから、ふらふらよたよたしていても「元気」だと言えよう。
 むろん認知症の度が進み、ものすごく手がかかるのはともかくも、身体自体は頑健にできているらしく何度も大病やケガを乗り越えて復帰してきた。父自身は生の執着が強いとか健康に気遣っているなんて気は毛頭ないようなのだから、いったい何が彼をここまで生かしているのか不思議に思える。
 母のように社会的活動や世の中に対して関心は一切ないし友達も一人もいない孤独な人間なのにだ。それもまた神の計らいなのであろうか。ならば父が生きている意味はどこにある?単なる偶然とか幸運の積み重ねなのであろうか。

 我は若い頃は一時期家を出て別なところで暮らしていたこともあるけれど、父が老いて来て病むことが多く事がなってきてからは、今の家、我が実家でずっと父母と暮らして来た。
 親の世話、面倒を見る、介護と称して、食事から洗濯、買い物、家事全般を引き受け、母が元気な頃、常日頃から様々な活動で出歩くことの多かった母と分担して交互に我もまた外に出かけて、音楽に関連する活動をやることもできていた。
 父は我の幼少期に肺結核で入院したこともあったし、老いて来ては前立腺肥大での手術、誤嚥性肺炎、パーキンソン症候群、さらには硬膜下出血の手術と何度も手術や入院を繰り返し、気質的には不安神経症で常に大騒ぎしては、我と母をその都度煩わせてきた。そこに認知症とこの10年診断され、さらに高血圧もあってまさに病気の問屋と言われたときもあった。
 しかし気がついたらいつの間にか米寿を過ぎ、卒寿も越えて九十代に入って、ついにこの秋92歳を迎えることができた。そう、まさに、いつの間にか、で、手がかかる父と母と我の親子三人、毎日顔を突き合わせては喧嘩や口論したりわいわい大騒ぎしているうちに皆が歳をとってしまった。何か浦島太郎の物語みたいだ。

 母は、男同士不仲の我と父の関係を思い案じて、ともかくまず夫である我が父を看取り見送ってから、とまずは当然考えていた。
 まあ、ある意味当然である。父と母とは五歳の差があり、男性のほうが平均寿命は短いのだから、常識的には妻に対して夫の方が先に逝く。ウチの隣近所を見回してもどこもかしこも後家さんばかりである。
 しかし、我家はあまりに父が長生きしたことと、母が八十代に入ってから癌を患い、手術して一度は再起できたものの、けっきょく女の平均的寿命である86歳、この冬で87歳間近となるこの秋、先に死んでしまったので、夫のほうが後に残されてしまった。

 これはやはり今年亡くなられた永六輔さんについて書かかれていたことだったかと思うが、彼もまた先に奥さんを亡くされた方で、妻の方が先に逝くケースは、五人に一人だったか、10人に一人で、ごく稀だとあったと記憶する。
 昨日、父と晩飯時に、そのことが話に出て、父も、まさかおっかさん(妻)が、先に死ぬとはなあ、といとも感慨深げであった。
 じっさい母も寝たきりとなってきても、認知症かつ腰の骨を折ってろくに未だ歩けない夫を残して、私は先に死ねない、死んでも死にきれないと繰り返し言っていた。始終ケンカばかりしている仲の悪い息子と二人だけにしてしまえばきっと大変なことになると常に心配していた。

 母の亡きあと、残された父と息子の二人だけで、大丈夫、心配しないで、仲良くやっているからとあの世の母に報告できれば良いのだけれど、正直告白すれば、このところ連日諍いが絶えない。
 口論だけならともかく、双方が大声を張り上げ、我は泣き叫び、取っ組み合いになることも多々ある。世間的には老人虐待の域にまで達しようかとしている。
 理由は様々だが、認知症の父が繰り返し執拗に些末なことでも騒ぎ立て、こちらを怒らせ挑発するような行為や発言を繰り返す。息子ももっと寛容に、呆けたパー人間のことなのだから、相手せずやさしく応対できれば良いのだからもともと頭に血が上りやすく狭量非情な性格だからキレてしまう。
 そうした親子ケンカ、トラブルは母が生きていた頃から何度もあった。しかし、母が間に入って、「ストレスで私の癌が大きくなるから、お願いだからやめて!」と叫び、コトは収まってきていた。
 その母が死んでもう間に入って、停める人はいない。ある意味、そうして母の癌が大きくなって母を殺したのはこの親子がケンカばかりしていたからだと思うところもある。
 情けないのは、そうして我らのことを最期まで心配していた母が死に、もう二人は心改め仲良くなって和解したかというと、事態は逆でこのところそのケンカの度合いは回数も程度も悪化し続けている。
 このままでは大変な事態になってしまうとさすがに我も不安になって来た。母を殺しそして父をも我が手で殺してしまえば子として人として我はもう生きている資格はない。

 心また揺れ動いているが、やはり特養に父を入れるしかないのかなあとまた再考し始めている。いずれにせよ、このままでは我自身も身動き取れずストレスで発狂してしまう。父が居ればおちおち家も空けられない。
 特養でなくても、あるいは今よりもっと長く預かってもらえる、お泊りも可能なデイサービスをみつけるかだ。
 今月末の土日、母の納骨の儀で、九州から妹がやってくる。今後の事をケアマネも含めてまたカンファレンス的に集まって決められたらと願う。


 この何日かブログも書けなかったのは、夜、父を寝かしつけるまでがひと騒動で、じっとり濡れている紙パンツを脱がせるのだって大変で毎晩大騒ぎしていたからだ。呆けても超ケチの大男は、オシッコで濡れた紙パンツもなかなか交換してくれない。まだまだ使える、濡れていないと言い張り、そのままにしてしまうと、翌朝は、ベッドの敷布団は世界地図である。
 毎日そうしたシーツを交換し洗うのもうんざりしてきた。いくら言っても聞かない。改められない。必ず抗う。そこにトラブルが生ずる。

 手がかかるのは仕方ない。オシッコもダダ漏れともなろう。いつ出たのか、その自覚もないのである。しかも今の紙オムツ類は濡れてもひんやりせず快適だから尿が溜まっている感覚がない。
 しかし、吸収力には限度があるからそれが一定を超えれば、外にしみ出してくる。しかもそのままの状態で、室内を動き回るから父が歩いた後の床はどこもベトベトしている。床は日々拭いて父の手を洗わせたり口やかましく言ってもむろん改まることはない。
 知能的にはもう犬猫とさほど変わらないが、ヒトだから言葉は不用意に発しするし、不安や怒りなどの負の感情だけは今もしっかり強く残っている。
 実に92歳まで生きて、家で共に暮らすということはこうしたものなのだとつくづく思う。
 問題は我がどこまでそうした人間と暮らすことを持ちこたえられるかなのだ。むろんここまで生きて来たしもっと長く生かしておきたい。そんな父とでもこれからも共に暮らしていきたい。
 死んだ母のためにも、仲良くやって、願わくば最期の時もまたこの家で送ってやりたい。
 しかしそのことは我一人ではとほうもなく困難なことだと思える。何しろ痩せ老いて小さくなっても元々は六尺もあった大男なのである。今だって我よりも大きいのだ。この初老の腰痛持ちの息子が一人でどこまで介護できようか。
 もっと介護ヘルパーを入れて、母の時のように病院ともはかって一体となった看護支援体制をとらない限り、我一人ではましては母のいない今、どうすることもできない。
 母は寝たきりとなって、何一つできなくなってもそこに生きていてくれるだけで、我にとって精神的支柱であった。
 その母がいなくなり、老いて手のかかるボケ爺さんと二人だけにして先に逝ってしまった母に、嘆き恨んだことすらあった。

 しかし、これもあれもすべて、誰にとっても与えられた「試練」であり運命ならば、抗ったり憤っても仕方ない。そこに意味と価値を見出して、その中でできること、最良の選択をしていくだけだ。

 人生に倦み疲れ、うんざりして常に投げ出したくなる。しかし、どうせ人は必ず死ぬし、我もまたもうそんなに長くは生きないと思う。ならば人間として、人の道を踏み外さず、少しでも真っ当であるよう生きていかねばならない。
 誰にとっても歳をとるのは大変だ。ならばこそ長く生きたことの意味と価値を見出さねばならないはずだろう?