このどうしようもない「素晴らしき世界」をとことん生きていこう2016年12月01日 22時30分18秒

★人生とはそもそも思い通りにならないものなのだ。

 今年も12月となった。我にとって特別の、死ぬまで忘れることはない2016年という年も間もなく終わる。
 母の死後、ずいぶん長い間、ショックで心身ともに打ちのめされ、このブログも悲嘆から失意、愚痴や昏迷まであれこれしょうもないことをグチグチ書き続けてきたが、ようやく立ち直ってきた。
 本当にご心配ご迷惑おかけして申し訳なく思う次第だ。
 正直なところを書けば、今もまだ最愛の母を死なせてしまったという悔恨と憤怒のような、悲憤の気持ちは強く残っている。しかし、ようやく気がついた。一つの真理に目覚めた。

 そもそも人生とは、思い通りにはならないもので大変かつ面倒なものだったのだ。誰だってそうであろう。願っても祈っても思いは届かないしかなわない。特に我の場合も、母のことだけ思い通りになるばずもなかったのだ。
 ならば、そうだったからといって失望のあまり、もう人生そのものに関心を失い、全ては無意味で虚しいものだと自暴自棄になったり、放擲してはならなかったのだ。
 そう、だからこそ、すべてを受け入れてその「現実」と向き合ってしっかり生きていかねばならなかったのだ。
 そう考えたのは山梨に行ってあるきっかけがあったからだ。

 実は先週末、一泊二日で、また山梨へ、倉庫と化した古民家の片付けに行ってきた。前回の時は、父も連れてったのだが、呆けてよたよたの父がいると、その世話に時間とられてはっきり言って仕事にならない。向うでも父はものすごい寝小便して、後始末に追われた。
 今回は、通い始めた民家型デイケアに一泊二日で通しで預かってもらったので、父無しで身軽に行けたのだ。
 行った日は午後から雨が降り出し、作業もそこそこに、一番近くの公営温泉にのんびり浸かってようやくこの数か月の疲れを癒すことができた。
 翌日は朝になって雨はやみ、早朝からラジカセで地元のコミュニティFM局を流しながら溜まりに溜まった本や雑誌の山を分別整理していた。※その古民家では、山里にあるために、ラジオは近くから送信されるFM八ヶ岳しか入らない。
 そしたらば突然ルイ・アームストロングが唄う、「WHAT A WONDERFUL WORLD」が流れて来た。作業の手を休めてサッチモがあのしわがれ声で唄い上げる名曲、邦題「この素晴らしき世界」を聴いていたら、涙が突然出てきた。我でもこのぐらいの英語は聞き取れる。

WHAT A WONDERFUL WORLD
この素晴らしき世界

(作詞・作曲: George David Weiss - G. Douglass)

木々は緑色に、赤いバラはまた、わたしやあなたのために花を咲かせ
そして、わたしの心に沁みてゆく。何と素晴らしい世界でしょう。
空は青く、雪は白く、輝かしい祝福の日には、神聖な夜と
そして、わたしの心に沁みてゆく。何と素晴らしい世界でしょう。
空にはとてもきれいな虹がかかり
また人々は通り過ぎながら、はじめましてと言ったり
友達が握手したりしているのを見かけます。
彼らは心から「愛している」と言い
わたしは赤ん坊が泣くのを聞いたり、成長してゆくのを見ています。
彼らはわたしよりも遥かに多くのことを学び、知ってゆくでしょう。
そして、わたしは心の中で思っています。何と素晴らしい世界
ええ、わたしは心の中で願っています。何と素晴らしい世界なんでしょう。

(訳: 古川卓也)

 この曲は、1968年のヒット曲で、この歌詞は実のところ、激化するベトナム戦争を揶揄したアイロニーなのだと解説されていることも多い。
 確かに時代背景を思うとき、そうでなければこの能天気な歌詞の歌がヒットするとはとても思えない。ある意味、これもまた反戦歌なのかとも思える。
 しかし、今の我には、皮肉でも何でもなく、人生とは、自然とは、この「世界」とはじっさいにこうした素晴らしいものなのだとはっきりわかる。
 が、現実に目を向けると、我々をとりまく世界=人間社会は、戦争はまだ起きてはいないものの、日を増すごとにより最悪へと、破滅へと向かっている。

 例えば、父たち老人たちを見ても、年金はカットされ、さらにそこに医療費も高負担とされて、介護保険もさらにシビアに、これでは老人は早く死ねと言わんばかりだ。
 そしてそうした悪政を邁進し続ける自公政権にこれからもまだ国民が政治を託すのならば、もはやそれは自殺行為であろう。アメリカの中西部中心にプアーホワイトたちが、トランプ氏を強く支持し彼のような人間に期待したように、切り捨てられた者たちが「反乱」を起こすのが人として本当の姿であるとすれば、もはや今の日本人はそうした本能すらも失い権力者の前にただ唯唯諾諾従う飼い犬のようなものか、本当の一億総白痴になってしまったのだろう。

 今この国では、弱い者、被害を受けている者こそを差別し切り捨てて、強者、権力者にへつらい、金のためには人の命すら売り渡すような輩が増えている。支援が切り捨てられていくフクシマの避難住民しかり、その子供たちを差別し苛める都会の子どもたち、沖縄で新たな基地建設阻止を求める無抵抗の人たちを公権力が次々逮捕する事態、さらには、障害者という社会的弱者を社会にとって不要なものとして排除し殺害してしまう事件・・・
 何度選挙しても経済の好景気という「幻想」を振りかざす安倍政権は選挙のたびに大勝し数を増やして、ますます驕り暴走は加速していく。
 
 世界のどこをとっても「この素晴らしき世界」とはとても思えない緊迫した状況が起きている。サッチモが朗々と歌うような、のんびりとした穏やかな平和な世界なんてありえない。すべては思い通りにならない。いくら祈ろうと願いはかなわないし思いは届かない。

 しかし、だからこそ思う。世界とは、人生とはそもそもそうしたものだと規定して、だからこそ、この歌のような世界へと、真にあるべき姿、本当の正しい世界の在り方に戻していく努力が何より必要なのではないか。
 むろんいくら願っても祈っても行動しても世界は何一つ変わりはしない。月日を追うごとにさらに世界は悪い方向に進んでいくように思える。しかし、そこで、今の多くの日本人のように、どれほど悪政が続こうが、所得がどんどん減らされても無自覚に、何も考えず怒ることもなく、選挙にも行かず、行っても自公や維新に投ずるのならそれは人として国家として緩慢な自殺であり、それを阻止する努力を我々は常に少しでもすべきではないだろうか。
 むろん彼らには言葉も届かない。衆参で圧倒的な議席を誇る現政権では、もはやどんな法案でさえ通るのだから国会でいちいち審議したって時間の無駄だと安倍晋三自らが言っている。人権を抑圧できる憲法を早いとこ作っちまおうと彼は夢想している。

 そういう「最悪の世界」を、人間が本来求める、あるべき姿である「素晴らしき世界」へと、変えていくのは容易なことではない。しかし、我々もまた同時代という同じ船に乗り合わせた、客ではない「乗組員」なのだから、船長が誤った方向に舵を切り、船が沈没していくのなら、我々も死なないためにはそれを止めねばならない。
 一船員が腕っぷしの強い船長に抗っても無駄かもしれない。しかし、大事なことはそうした行為であって、抗い続けて行けばいつかは仲間も増えて反乱も成功するかもしれない。

 人生はどうしようもないし先のことはわからない。だからこそ、愚か者や金の事しか頭にないバカに、国家の舵取りを任せて、我が人生を失いたくない。失望のあまり政治に、人生にネグレクトしてはならない。
 どうしようもないものだからこそ、人生は人任せにしてはならない。人々が皆、そう考えて、「この素晴らしき世界」を夢見て、真剣に自らの人生を生きて行けば、世界はきっと素晴らしいものへと、本来の姿のものへと変わっていく。誰もが愛しあう、差別も貧困も戦争もない世界がきっと生まれていく。

 たとえそれが何一つかなわなくとも、人は大事なものを自ら失ってはならない。それが人生。思い通りにはならないけれど、とことん思い通りに生きていこう。それが人が生きるということなのだ。ようやくわかった。

 もう迷わない。「この素晴らしき世界」=神の国はそこにある。