皆様良いお年を~新年もよろしく2017年01月01日 00時13分48秒

★気がついたら年も明けていて

 今、零時過ぎ。父を何とか寝かしつけ、犬たちと簡単な散歩して家に入れて、ようやくパソコンに向かえばもう日付は変わり2017年=平成29年となっていた。
 昨日付けのブログ、書き出したのは朝方で、以後、合間見て書き進めていたのだが、やたら慌ただしくて「結論」まで至らずに、夜となり、父の世話に追われ時間奪われ結局、書き足すことできずにこの時間となり尻切れトンボのまま新年となってしまった。
 今からだって、アップした分にまた書き足していくことは可能なのだけれど、正直なところ、心身共に疲れ果てて、ならば新たな年の第一回目として新たに書きだそうかと考えた。
 むろん肝心なことは後ほど、記しておく。

 もう疲れ果てました。が、まだ親父も我は抱えているし、おいそれと死ぬわけにもいかない。何よりも、まだ我は思い通りに、満足以前に納得いくようには、生きていない。このままでは死んでも死にきれない。
 これが、結婚し家庭を持ち、子どもも成人して、仕事も務め終えたならば、その人の役割は終えたと自認も納得もそれなりの満足もできよう。
 が、情けない話、とことん呆れ果てるほど情けない話、我は何一つまだやっていないのだ。
 したことと言えば、老いて病んだ親の一人、母を見送っただけであって、仕事も含めて社会的役割も、人としての責任、つとめも何一つはたしていない。
 ならばまだ死ねないし死ぬに死ねない。いったいオレは何のために、何しに生まれてきたのであろうか。まさか親を介護して見送るためだとしたら何て情けない人生であろうか。「送り人」だけの人生なんてあるものか。
 そう、我はまだ我が人生をちっとも生きていない。繰り返し書いて来たが、面白おかしく楽しく過ごした時が過ぎ、地上に返された浦島太郎のようなもので、気がつけば年だけ老いて、今に至った次第であって、まだ何も人様がしてきたこと、すべきことはしていないのだ。

 だからこそ、今思うは、人生を今からでも新たに生きたい、生き直したいということだ。嗤われるだろうが、結婚だってしたいし、家庭も新たに持ちたい。愛する人と、男女を問わずに暮らしたい。
 間もなく還暦となる我だけど、今さらだが、もう一度今から人生を生き直したいと願う。
そして、同時に、我が生まれ生きて来た「役割」を果たしたいと強く思う。それが何であるかはもうわかっている。もはや迷わない。
 そう、時間はあまりない。が、幸いまだ体は動けるし気持ちも若い時のままだ。見かけは白髪まじりのジジイとなろうとも、そんなことは関係ない。まだできる。頑張れる。

 そんなわけで、2017年は、人生再スタートの年として、少しづつでも成果を出していく。まあ、再スタートも何も、「俺はまだ本気を出していないだけ」といった次第なのだが。

 最悪の時をこえて、皆様にとっても新たな年はよりマシな年となりますように。いつまでも悪政と悪い時は続かない。確信している。
 皆で手を手をとりあって、無理せずに頑張りましょう!絶望するには未だ早い。生きていればこそだ。

新しい年に、忍耐と寛容さを考える。2017年01月01日 07時55分33秒

★最悪の年を過ぎこして、新たな年に思う

 新しい年が来た。晴れた穏やかで温かい朝である。
 我が人生、最低最悪の年であった2016年も過ぎ去った。新しい年に誓う抱負などは何もないが、昨年書き記した、ずっと考えていたことをまずは 書き残しておく。

 聖書に、主への祈りとして、「我らを試みにあわせることなく」という一節がある。まさに昨年は、我の忍耐と寛容さが試され求められた一年だった。そしてその二つは、今も問われ求め続けられている。

 自宅で、寝たきりとなってしまった母を介護していた数か月間、特に7月頭から母が急死した9月初旬まで、我は一度も電車に乗るような外出することもなく、友人知人とは誰一人会うことなく、老親たちに食事をつくって食べさせ、母の紙オムツを昼夜交換する務めに追われていた。
 それは何より忍耐が求められ常に寛容でなければならないことであった。ただ、最後は我も24時間ほぼ不眠不休の看護に倦み疲れ果てて、病み死に向かう母を責め、愚痴もこぼしてしまった。今もそのことを悔やむ。
 そしてその母を送ったからといって、事態は解決したわけではなく、今度は、元より不仲であって、さらに呆けて手がかかる我が父と、男同士二人きりで日々向き合って過ごすという「地獄」が待っていた。
 それまで、母が生きていたときも常にぶつかり合い、ケンカが絶えなかった父と、「緩衝材」としての母なしで、生活するのは今も苦痛以外の何もない。

 母とは共通の話題も多々あり、こちらの考えや気持ちは何でも通じ合えた。体は痩せ衰え動けなくなっても最期まで頭はしっかりしていたから、語りかければ応えてもらえた。感謝の言葉もあった。だから、介護は辛くとも我慢できた。そこに喜びもときにあった。
 父とは、残念ながらそうした互いに相通じるものは何もない。そもそも若い時から身勝手で、友人などは誰一人なく、人を人とも思わぬ男だったから、人の気持ちがわからない。呆けても常に唯我独尊で、じぶんの我を通そうとする。

 そして呆けて骨折しもはや一人では歩けないどころか、自らでは食べることすら難しいような、何もできない状態になってもそれが認識されていない。介護する我に感謝の言葉もなく当然だと思っている。
 そんな大男と毎日向き合えば、常にこちらもキレる。出した食事を食べない事などささいなことがトラブルの種となる。
 叱りつければ彼も抗い、我を挑発する不規則発言を放ってくる。怒鳴り合うだけならまだしも取っ組み合いのケンカまでする、世間からすれば老人虐待ととられても仕方ない事態が日常化してきた。
 もはや二人で暮らすことは不可能だから、特養に入れるとかないと何度も考えた。
 どうして、父には我はやさしく寛容になれないのか何度も何度も自問した。我も泣きながら自らの非道と非情を顧みた。このままでは父を殺して自分も死ぬしかないと考えもした。

 つまるところ、父と我は性格的に同種なのであろう。ゆえにぶつかる。磁石の同じ極が反発しあうように。
 母とは異性であもあり趣味嗜好は近く感覚的にわかりあえた。が、父とはそもそも共通の話題も趣味もなく、自分勝手で思いやりないのはお互いだからトラブルのである。
 ならば、そこには、純粋に忍耐と寛容さが求められる。人はその二つを試され、問われているのであった。

 では、忍耐と寛容さとはそもそも何か。これは陰と陽のような対立する概念ではなく、極めて近しい心の在り方と我は考える。
 忍耐とは文字通り、辛いことでも忍び耐えることであり、我慢すること。そして寛容とは、やさしく相手を赦し、何事も受け入れていくことだ。
 我が事のみならず、世界まで広げて見回してみれば、今世界中で求められ試され、問われているのは、「分断」の時代だからこそ、この二つ、忍耐と寛容さだと気づく。
 この二つの概念に対立するのは、他者を否定し圧する横暴と自らだけを正しいと信じ誇る驕慢、傲慢さであろう。トランプ新大統領はいかなるかだ。

 力を持つ優位に立つ者、強者は、下位にある弱き貧しき者たちのことを思わねばらない。自らのことだけを考えるのならばそれは人ではなくただの動物だ。
 考えの違う者であろうとも、他者を赦し理解し受け入れるための努力を続けなくてはならない。
 今日本の政府が、政権内閣が沖縄に対してやっていることは、まさに忍耐と寛容さが求められている。彼らにはそれが全く欠けている。
 そしてそれは我もまた同様なのであった。

 つまるところ、忍耐と寛容さとは、その二つを合わせば、「愛」ということになると思える。
 J・レノンはうたでそのことを、愛とは何かと示していたが、実は、そのベースは聖書の中のパウロの手紙からなのである。
 同様に、ディランの「風に吹かれて」も旧約中にある「伝道者の書」が元であるし、すべてのことは聖書に書いてあることに今さらながら気づく。

 新しい年に、我はもう一度、「愛」とは何か、忍耐と寛容さでもってその求めに応えていかねばならない。
 そう、それが人が生きるということなのではないか。

妻に先に旅立てられる男の理由(わけ)2017年01月03日 22時11分52秒

★このままでは間違いなく息子が先に死ぬ

 あえて書く。炎上してもかまわない。
 世間では、結婚に際し、たいてい男のほうが年上であり、さらに女の方が平均寿命が長いわけだから、夫婦とは、妻が夫を見送ることになる。それが「常識」であろう。
 ところが、ごく稀に、妻のほうが先立ち、夫が残されるという例がある。そこに何か理由があるのか。

 これを書くと、ご批判受けるのは間違いない。が、我が家庭、知る事例だけで考えれば、妻のほうが先に死ぬのは、それだけ夫が妻に負担かけるが故、心労で死んでしまうのだ。言わば、夫が妻を殺したのである。妻は、夫に殺されたのだ。ウチもそうだと言いたい。
 今、息子が我が父=妻を亡くした男と暮らしていて、つくづくそう気づく。これだから、この男=夫の世話に我が母は疲れ果ててストレスで癌が肥大して死んだのだ、と。

 じっさい、父が昨年4月半ばに、誤嚥性肺炎~大腿骨骨折で入院、手術、そして7月の頭に退院して戻ってから、母の容態は一気に悪化し、その二か月後、9月初旬にあっけなく死んでしまったのだ。
 今、認知症と骨折後、足が萎えて、要介護3の父と暮らし、日々面倒見ていてつくづくそ思う。母と生きているときから落ちて来た我が体重は、一時期67キロ以上あったのが、今は60キロを切ってしまった。ほぼ学生の頃、二十代に戻ってしまった。

 何で痩せたかは理由はある。落ち着いてゆっくり食事とる時間もないのだ。さらにそこに寝る時間もない。母の介護の時の話ではなく、母が死んでも、睡眠時間はごく短く、夕刻疲れ果てて、横になろうとしても、父にすぐ起こされてしまう。理由は、心配だからだそうで、「いるの?どうした、具合悪いの?、返事してくれ」と、こちらが深く眠って無視でもすれば、ヨタヨタの身体でも二階に上がってきて、返答しなければ、我を叩き起こすことだろう。疲れてもおちおち仮眠とることすらゆるされない。
 そのことを抗議すれば、親が子を心配するのは当たり前だ、と開き直る。食事つくって、こちらが、父の食事を介助して食べさせて、では、ようやく我もゆっくりこれから食べようと食べ始めると、もう自ら後片付けはじめて、何かしだすので、我は落ち着いて自分の分を食べることもままならない。若い時、呆ける前からとことん自分勝手な、まったく他者に対して思いやりのない男なのである。

 実は、その父の父=わが祖父もそうであった。久太という明治の我が祖父は、九州佐賀から出て、苦学して早稲田を卒業して、新聞記者とかいろいろな仕事に手を染めたが、基本山師的性向があり、一攫千金を夢見ては失敗することも多く、羽振り良いときもあれば、一家して夜逃げすることも多々あった。
 晩年は、大人しく、我と父のこの家=「我家」の祖父として共に暮らしてはいたが、いわゆる好々爺という年寄りとは程遠く、殴られた記憶はないが、常におっかない狷介な老人であった。

 何よりもすぐ激高して、やたら興奮しやすく、人様のことは常に悪しく言い放ち、誰よりも自分勝手で、家族に対しても全く思いやりのない年寄りだった。明治の男とはおうおうそうした、昭和のマイホーム主義とはかけ離れた利己主義的家長だったのだろうとは今は理解もできる。でも初孫としても彼はいつも怖い、甘えるどころか好感の持てない爺さんだった。
 そうして子どもや妻、家族のこと等一切顧みない生き方を貫き続け、家族にさんざん苦労させたが故か、彼のその妻、=我が父方の祖母は、60代そこそこで早逝し、幼い孫としてはほとんどその人の記憶はない。祖父は妻に先立たれ、長男=我が父の一家と暮らしていたのだ。
 そして、その息子、我が父も彼と同様に、また妻に先立たれた。二代続くとさすがにそこに何か理由があるように思えてくる。妻を先に死なす家系とは何か。

 我が父は、その父、我の祖父に比べれば、温和で優しい家族思いのマイホーム主義の夫であった。しかし、根本の気質は、他者に対して感謝する視点が全くなく、常に唯我独尊、人に頼らない故に、他者に対しては求めず冷ややかで否定的で、超利己主義であった。
 ゆえに、友人は一人もなく、それで辛いとか淋しいと思う以前に、他者とのことは全て面倒、不要、くだらないと断じて、一切不要、大切なのは我がこと、我が家族だけという意味での保守的マイホーム主義だったのである。
 父は常に自分勝手に生き、他者の気持ちは一切考えないし配慮しない。子供たちのことも心配だと言うのは、自分の不安の裏返しに過ぎず、結局は御身大事、関心ある自分のことだけが心配という人だった。

 祖父の記憶をたどれば、聴いた話でこんなエピソードがある。貧乏暮らしで苦労かけたその妻が、あるとき肉を手に入れて、すき焼きを晩飯だかに家族に出した。
 そしたら、腹をすかせた子どもたちがたくさんいる前で、彼は、肉が煮えた先から、バクバク全部食べてしまい子供たちに肉は行きわたらなかった。さすがに見ていたその妻も怒って、自分ばかり食べないで、少しは子供たちにも食べさせてあげたら、と抗議したと言う。まさに祖父はそうした男で、野菜などは大嫌いで、人の意見など一切聞かず好きなものだけ好き勝手に食べて好き勝手に生きて77歳で脳梗塞で倒れて急死した。

 我が父はそんな祖父とは違うと思っていた。そんな男を間近に見て来たから、もっと優しく思いやりある常識人であるかと思っていた。
 しかし、やはりそこは親子、根本のところは瓜二つで、食事でも嫌いなもの、野菜などは箸もつけないし、自分だけが常に正しく、他者は誰彼あからさまにバカにして否定し、そもそも関心を持たない。
 その彼が大事なはずの家族でさえも、個々の人格を認めて肯定するのではなく、自らの関係においてのみ、評価し関心持つという身勝手なものであったから、子供は早くから、愛想を尽かし、特に妹など社会人となればすぐに独立してこの家から出ていってしまった。
 そして、そんな身勝手な男と長年共に暮らしてきた我が母は、結果として癌を患い、夫より先に旅立ってしまった。その歳に不足はないけれど、父とは5歳も年下なのである。

 癌の要因は遺伝や環境も大きいが、いちばんはストレスだとするならば、それは我と父との不仲、常に諍いがあったからだと今気づく。
 父と二人して怒鳴りあったり、時に取っ組み合いのケンカしたときなど、母は間に入って、お願いだからやめて!!、このままだと癌が大きくなって先に死んじゃうからと嘆いていた。
 それでもバカ親子は、始終些細なことでケンカばかりして、母を悩まし苦しめてきた。そのことを悔やんでも今更時は戻せないから仕方あるまい。ともかくそうして、我が家は家族三人、諍いが絶えることなく、母は心労を積み重ね、残す不仲の父と息子のことを案じながら死んだのだ。

 そして今、その父と二人だけで暮らして、心底疲れ果ててきている。むろん、常に何とか我慢しよう、ふんばろうと思いもする。しかし、元から身勝手な思いやりのないガリガリの利己主義者が、呆けて、さらにトンチンカンに、発作的に好き勝手なことをしだすと、ともに暮らして介護する側としては、キレまくってもう頭がおかしくなりそうだ。
 何にもわからなくなって、何にもできないのに、目を話すとすぐ勝手に何かしでかしては後でこちらの手を煩わす。何度言っても改められない。
 そして、共に暮らしてずっとそんな男の世話してきた亡き母の気苦労を思い、これでは、母の癌も大きくなるし、このままでは我、息子もまたストレスで発狂し父を殴り殺すか、こちらが病んで倒れるかだと日々不安に思うようになってきた。
 何しろ騒動のあと、彼は反省したと言っても、また翌日になれば、すっかり忘れてまた同じ質問を繰り返したり、息子を嘲る言葉を口にしたり何度でも禁じられたことをまたもしでかすのである。パー人間の成すことなのだから、もはやまともにとりあわず、怒らず相手にしなければよいのだとわが妹は言う。

 叱ったとして、何度も理解できるよう説明したとしても、そのときは理解され、記憶したと思えてもまたすぐに忘れてしまうのだから、まさにエンドレス、何度でも繰り返して終わりがない。ならばそれを怒っても無駄だとニコニコとただ受け入れていくしかない。そうわかっても狭量な我はそれができない。我慢できない。堪えがないのは祖父の血筋だ。
 そしてそのことにも我は苦しみますますストレスは溜まる。このままでは、育児放棄や虐待の子を抱えている親たちのように、誰かが通報してこの親子の関係に行政やら何か第三者が介入してくることだろう。
 今その瀬戸際、崖ぷちにいる。情けない話だが、我ら二人だけでは解決できないし出口もない。九州の妹も含めて誰も他者は助けてくれない。
 この先、いったいどうなるのか、何が待っているのか、すこぶる不安ではあるけれど、正直なところを今あからさまに書いた。

 ただ、これは我が家の特殊な事例だとは思うが、妻を先に死なすのは、そこに夫側の原因も大きいのだと我は考えている。

 文豪丹羽文雄は確か百歳越すまで生きたが、晩年はかなりの認知症で、実の娘さんがずっと世話していた。そのことを彼女が詳しく書いた本も読んだ。が、その後、父よりも子であるその娘のほうが先立ってしまったのだ。
 ならばこの父と暮らしていると、息子の方が先に死ぬ可能性もあると思えてきた。それほどの心労、肉体疲労である。もう息子も若くない。父よりも先に起き、終日父の世話して、父よりも後に寝て、しかもろくに飯も食えず、仮眠もとれず休めなければ倒れてしまう。

 そして・・・祖父がそうであり、父もそうであったように、他者を思いやらぬ身勝手な家系の血筋は、我もまた確かに受け継いでいる。我が結婚せず、いや、出来なかったことは、もし、我が結婚したらまだ同様に、その妻となる人を我より先にストレスで殺してしまっていたからかもと思えて来た。
 祖父が、父がそうならば、我もまた同様であっただろう。ならば、三代続けて、奥さんに先立たれる家系とならないで本当に良かった。そうした非道な血筋は我で終わりにしたい。

 これはごく特殊な事例だとわかっている。似たようなケースでもこれが当てはまるとは思わない。しかし、本来長生きの女性が、しかも年下なのに夫より先に死ぬのには、そこに何らかの原因が存在していることは間違いない。そう、すべてのことには原因と結果の法則が成り立つ。
 その因果律からどう抜け出すか。それこそが宗教の問題、役割とあり方が問われている。

本年これからの無頼庵の予定2017年01月04日 23時56分04秒

★あらためて地獄はそこかしこに

 老いて「狂人」と化した父と暮らすというのは、筆舌に尽くしがたい苦痛であり、これもまた地獄なのだと思う。ただ、キリスト教的に言えば、これもまた、神が与えた試練なのかと思えなくもない。試されている。
 ならば受け入れて何とか頑張って持ちこたえていくしかない。

 そうした最中、年も明けて、2017年となった。とにもかくにも生きていかねばならないのだから、日々鬱々と悩み苦しむ煉獄の中ですごすわけにもいかない。何よりもそれでは、我も発狂して自死するしか道はない。
 父はもう直らないのだから、外とのこと、他者との関わりでしか、その「出口」は存在しない。ならば、あえて負荷かけるように、これからの予定を無理やりでも決めたうえで、楽しいこと、やるべきことを設けそれに向けてやってくしかない、
 
 まずは無頼庵の新年会」だ。

 まだ日程は出ていないが、新年会と位置づけるなら今月、1月中に開催せねばなるまい。もう告知の時間もあまりないがゆえ、今月末の土日、28か29日のいずれかにと考えている。
 まず、先だって中止にしてしまったクリスマス会に、参加希望された方々に連絡してご都合を訊いて決めていこうと思う。確定次第お知らせしたい。

 なお、今年は、基本的に毎月一回は何か拙宅無頼庵で、人が集まれるようイベントを開催していこうかと考えている。
 1月は新年会ならば、2月は、味噌造りの集いはどうだろうか。そうして少し先の予定を出して我も動いていきたい。

 ともかくどんな状況でも生きて、とことん生きながらえていく。その中でときに喜びも慰安のときも来るだろう。そう信じてやっていこう。

無頼庵新年会は1月29日に。どなたでもお気軽にご参加を!2017年01月06日 15時10分59秒

★さあ、今年もスタートさせよう!

 父とのこと、あれこれ書き連ねたが、もうあと少しの辛抱、我慢だと心した。どれほど頑健であろうと、あと10年も生きるはずがない。そしたら百を超してしまう。
 もう今、92歳なのだから、もったとしてもあと数年であろう。ならば、さらに地獄が待ち構えていようとも、その時はその時として、今はただ一日一日うまくやり過ごしていくだけの話だ。
 母の時もだが、人が逝くときは意外にあっけなく早いものなのだから、先のことなど考えずに、日々送れれば、やがてその日、そのときが来る。それがいつかは神のみぞ知ることだ。
 まあ、この一年、まずは無事に生きながらえさせられるかだけ考えて、今年を越せたらまたその先の事はそのときに考えれば良いのだ。
 デイケア、ショートステイをうまく使って、我の負担をできるだけ軽減させて父も我も共にうまく過ごせるよう工夫してやっていくつもりでいる。いろいろご心配おかけしました。

 というわけで、去年は、母の介護とそして死、死後の始末に追われて一年の後半はまったく何一つできなくなってしまったわけだが、気をとりなおして、いや、心機一転、また少しづつ「活動」を始めたいと思う。
 まずは、昨年は企画したものの我自身が体調崩して中止としてしまったクリスマスパーティの代替として、新年会をやることにしました。

 ★1月29日(日)の午後から、拙宅無頼庵で、食べたり呑んだり歌ったり、レコードを聴いたりだらだらやっているはずなので、どなたでもご参加ください。
 参加費は今回は一切なし。持ち込み歓迎、唄いたい人、何かパフォーマンスしたい方もご自由に。
 開始時間は、たぶん午後3時頃から夜は皆さん帰れる時間まで。

 まだ来たことなく無頼庵の場所がわからないと言う方は、このブログにメルアドなど連絡先を書き込んでくれたら返答いたします。非表示で応じますのでご安心ください。
 詳しい問い合わせも含めて、マスダまで。携帯090-8175-8479

すべてを赦し受け入れていく・序2017年01月10日 22時44分40秒

★明日からブログ再開します。

 このところいろいろありまして。夜になると頭痛がひどくて、考えもまとまらず起きていられない。
 明日11日から、少しづつでも書き足していきます。

すべてを赦し受け入れていく・12017年01月11日 09時56分03秒

★また交通事故をしでかした。

 俗に、狂人は自分では狂っていることに気づかないから、自分が狂っているとわかっている人は狂人ではないのだそうだ。
 その伝で言うならば、我はこの半年、完全に頭がおかしかった。まっとうだと、正気だと思っていたのだが、発狂していたのだろう。

 母の看護に疲れて、その突然の死とまたその後の煩雑な後始末に追われ、ようやくその痛恨事は終わり過ぎ去ったかのように思っていたが、やはり正常な状態に意識も身体も元通りに戻っていなかったのだ。
 PTSDという病気がある。強いショックな出来事があると、脳=心に損傷を受けて、しばらくの間心身がおかしくなってしまう。我も半世紀以上ずっと傍らにあり、常に共に過ごして来た母親を喪い、そのショックで頭がおかしいままだったのだ。今ようやくそのことに気がつく。

 実は、先だっての土日、父をデイサービスにお泊りで預けて、我はまた山梨の倉庫に行って、前回は何もできずに帰ってきたこともあり、片付け作業の続きをしようと予定していた。
 で、土曜日の朝、父を施設の迎えの人に預け、出かけるにあたって買い忘れたものもあって、それを100円ショップダイソーで買ってから出発しようと、一度家に戻るつもりで、犬たちは残してまず一人で車を出した。時刻は午前10時すぎだっただろう。

 ダイソーは、ウチから少し離れた20号バイパス沿いにあって、交通量の激しいその大通りは、片側二車線あり、しかも真ん中にフェンスがあるので、簡単に車では行けない。一度その前を過ぎて途中の信号で車線を変更してようやく入れる。
 で、まず、まずそのバイパスに入るべく、狭い車道からバイパスの大通りに出、右折しようとした。むろん信号は青だった。
 そしたら自転車の老婦人をはねた。彼女も青だったので自転車で直進して来てバイパスを渡ろうとしていた。我の車は右折しようとして出会いがしらにぶつかったのだ。

すべてを赦し受け入れていく・22017年01月11日 18時06分55秒

★「発狂」していた我は何も見えていなかったのだ。

 気がついたら目の前に、自転車と老婦人が倒れている。彼女の叫び声で我にかえったのだ。まったく何も見えていなかった。

 車は停めたが、慌てて彼女と自転車を歩道側に連れて行った。彼女は、信号は青じゃないの!渡っているのに何で停まらないの!と怒り興奮している。
 慌てて大丈夫ですか、お怪我は? と訊いたが、自ら彼女自身立ちあがって歩いて、自転車を引いていけたので、どうやら大したことはないようだった。 
 ただひたすら詫びて、我の前方不注意を詫びたが、老婦人は警察呼んで!と言うので、携帯で110番した。しばし待って、まず警官が自転車で来たが、警官に、病院は行きますか、と訊かれた彼女は、やや迷ったものの、医者に診てもらうと伝えたらば、次々救急車のみならず消防車まで何台も到着して急に辺りは騒然とした状況となった。

 交通課の一隊も到着して事情聴取を受けた。そして、警官が被害者である夫人と加害者である我の携帯でお互い連絡がとれるようにセットし、彼女は救急車に乗せられて近くの大きな救急病院に連れて行かれてしまった。
 それから現場検証して、どの時点で、どうして事故に至ったか確認をとられた。信号は青だったのか、赤から青になって動き出したのか、どの車線でどこでぶつかったのかと。
 信号は青だったはずで、そのまま広いバイパスの大通りに入り、二車線あるうち右側の車線にハンドルを切った。そこまでは意識がある。
 しかし、まったく彼女の乗った自転車が横断歩道を渡ってきていることは見えなかったと正直に答えた。

 そう、じっさい、彼女の姿は何も見えなかった。気がついたら自転車は倒れ彼女は何やら叫んでいたのだ。はねたとかぶつかった感覚も何もない。ただその一瞬、何も見ていなかったのだ。そして事故を起こした。
 現場を仕切っていた交通課の部長からも問われたが、居眠りしていたわけではないだろうし、見えないはずがない。何か障害があるのかと。我はぼんやりしていたのだろうか。ただ漫然と無意識にハンドルを切ったのだろうか。
 一つだけはっきりしているのは、早く山梨に行くため買い物を急がないとと気持ちは焦っていたことだ。まずダイソーに行くことだけ考えていた。

 何故横断歩道を直進してきた自転車の老婦人が全く見えなかったのだろう。そのとき目は開いていたし意識もあったのに。交通事故をまたもしでかした。大きなショックだが、何故見えない、観ていなかったのだろうか。何よりそのことが不思議でならなかった。
 幸い、自転車は倒れ、老婦人は転んで腰を打った程度で現時点ではすんだようで、彼女に乗り上げたり引いたわけでもなく、我の車にもぶつかったときにできる傷跡はなく、彼女の自転車も損傷は何もなかったようだった。
 彼女は先に病院に搬送されてしまったので、我だけその場でかんたんな調書をとられて、我はやっと解放された。時間にして一時間そこらだったか。自転車は警察が警察署に運んで行った。
 それから、もうダイソーで買い物どころではなく、ともかく慎重にハンドルを握りながら家に戻った。彼女のケガが大事に至らないことをただ祈りながら。
 そして、車の保険会社に連絡して、事故を起こしたことを報告した。ちょうど連休に入ってしまうので、担当者が動き出すのは連休明けになるとのことだった。

 少しして事故に遭わせた相手方の婦人Oさんに携帯で連絡した。時刻は昼過ぎだった。
 ちょうど診察も終わりこれから会計だとのことで、自転車がないので困っていると言う。警察まで歩いていくことになると。
 で、ならばその病院はウチの近くでもあったので、すぐに迎えに行きますと伝えて、彼女の治療費と診断書の代金もこちらが支払い、彼女を乗せてそのまま警察署に出向いた。

 車中、ケガの状態を訊いたが、どうやら打ち身程度で骨に損傷はないとのことだった。ほっとした。そしていろいろこちらの事情なども話したら、彼女の方が大騒ぎしてして迷惑かけてしまったと逆に恐縮してしまい、とんでもない!こちらが全面的に悪いのですからと謝り続けた。
 お歳は75歳だそうで、70歳までヘルパーをされていたとのことで、我の介護の話に心底同情してくれたようで、ああやさしい方だなあ、有難いと思った。そんな方を我は事故に遭わせたのだ。

 そして彼女が調書をとられている間、警察内のソファーで待って、後日、保険会社から連絡があることとご住所などを確認したうえで、自ら自転車をこいで帰っていく彼女の後姿に頭を下げ見送ってから我も家に戻った。

 そして家に着き、玄関わきの部屋に備えてある母の遺影と位牌の前に立ち今回の件を亡き母に話した。また事故起こしてしまったと。

 写真の母はにこやかに笑っているだけだが、我は涙が止まらなかった。ただただ情けなくてとめどなく涙が溢れた。泣き崩れた。

すべてを赦し受け入れていく・32017年01月12日 13時14分41秒

★新たな年に新たな試練を得て

 それから軽く何かを食べ一休みしてから、さて、どうしようかと考えた。
とりあえず、「事故」については手配は終えた。今日は父もショートステイで明日の夕方まで帰らない。当初の予定通りに山梨へ行くか。
 しかし、これは、今日は出かけるべきではないというメッセージではないのか。出しなに交通事故をしでかしたのだ。あれこれ考え迷った。
 が、一人でこの家にじっとしているとまた余計なことを考えたり心配がつのって頭がおかしくなりそうに思えて、気分転換のためにも向うに行くことにした。幸い事故についてはひとまず「決着」したのだ。ウチにいてもすぐ今何かできることもすべきこともない。
 そして午後3時になってしまったが、犬たちを乗せて、留守番の猫たちの餌を置いて、車を出した。

 交通事故は、これが初めてではない。我ブログの旧くからの読者の方はご存知のように、もう10年近くも経つかと思うが、ごく近所で、当小学三年生だったかと思うが、女児をはねた。危うく殺すとこだった。
 それは夏の夕刻時、我が親たちを後部座席に乗せて、家から走り出したときのことだった。突然、左手の塀の陰から、斜め向かいの家の女児が、その兄たちと追いかけっこをしていて、急に飛び出して来て我が車のボンネットにぶつかった。その子は追う兄たちを振り返りながら前を見ず狭い車道にいきなり飛び出してきたのだ。
 あっと思い慌ててブレーキを踏んだが、ぶつかり、頭を打ったのか、その場に倒れて意識を失った。こちらもさほどスピードは出していなかったが車のボディは少し凹んでいた。

 すぐ警察に電話して救急車や警察も来て、大騒ぎとなったものの意識も戻ったかと思う。しかし当初は大したことはないと思われたが、その晩から容体が急変して、女児は何日も運ばれた病院の集中治療室で、意識不明のまま頭蓋を切開して腫れた脳を冷やす処置を受けていた。無事生還できるか危ぶまれた。
 我はただひたすら奇跡を神に祈るしかなかった。夜も眠れず何日か、真夜中もその病院に通い、付き添っているご家族たちに様子を伺った。

 いったい何日そんな危険な状況が続いたのだろうか。数日後、幸い女児の容体は快方へと向かい、我は「人殺し」とならずにすんだ。
 むろん事故の保険には入ってはいたが、もし死なせてしまえば賠償金として何億も支払わねばならず、ごく近所ということもあり、この家を売ってその金を作り我が家族はどこかの公営住宅に移るしかなかったかと思う。まさに神のご加護があった。
 その子は今はもう高校生になったか、この春進学する頃か、すっかり成長し見かけても誰だかわからない。ケガ自体は無事癒えたわけだが、その後も相手方は我を赦さず、事故の示談交渉は長引いた。今でもその家の人たちはウチとは挨拶もしないし口も利かない。
 保険会社の担当が、何度もその家に出向いたが、成長期の子どもの脳のケガであり、やがてまた何か障害がでることを怖れて、安易な示談とか和解にはなかなか応じなかったのだ。
 けつきょく、保険会社は自らの交渉は諦めて、弁護士に仲介を依頼し、ようやく昨年の春、それが成り「決着」がついた。実に長く、こちらも普段は忘れるときのことが多いほど歳月が過ぎた。
 しかし、当初は、お詫びに行って土下座しても相手方からは罵られ、ごく近所でもあり日々顔を合わせるのも辛くてまさに針の筵の感がしていた。
 親たちはまだ元気だったから、我は出かけることが多くなった。そうした辛い日々の最中、我は音楽、日本のフォークソングに熱中するようになる。岡大介やバロン、みほこんら新進気鋭の才能ある若手シンガーと出会い、ベテランでは中川五郎御大を筆頭に、得難い知己を得て、音楽やうたによって苦境を忘れその危機から脱することができたのだった。
 そう、その子を事故で殺していたらば、我もまた自らを責めて間違いなく自殺していたかと今も思う。死なせはしなかったが、その後も煉獄の火に焼かれるような日々が続いた。
 我を救ってくれたのは、「うた」の友と聖書であった。その二つに出会わなければおそらく今の我はここにいない。そして家族の支え、特に母の存在が大きかった。
 その母は、ようやく事故の決着を報告したことで昨年九月、安心して旅立ったのかと今思える。

 そしてその母を喪い新たな年が来て、新年早々またもや交通事故を起こしたのだった。我が業を今さらながら見つめている。

すべてを赦し受け入れていく・42017年01月13日 04時54分25秒

★「見えている」と思っていた我が罪

 聖書には人は誰もが罪人であると記されている。が、山梨へ車を走らせながら、我が罪の深さについて嫌でも考えざるえなかった。

 我は以前からどうしようもないダメ人間であり、誰からも愛されず自らも幻滅し呆れ果てる者であるが、それでも生きていく価値はあると信じていた。
 多くの人に罵られ否定されようともこの世に生を受けたからにはそこに存在する理由もあろうし、ダメのサンプルとして、あんな人間でも生きている、何とかやっているということが誰かの支え、励みにもなるかと思い我なりにがんばってきた。
 そう、どんな人間でもヒトは同等の価値を持つ。我のような酷い最低の人間でも神様は見捨てずにいてくれた。
 しかし、こうしてまたも交通事故をしでかし、まったく非のない老婦人にケガを負わしたり、迷惑をおかけし場合によっては死に至らしめるならば、そもそも我はこの世にいない方が良いのではないのか。我が在る事で、他者に迷惑をかけ、ときにまたも人を殺すような事態をしでかすのならば。もし、そういう「役割」ならばもう生きていたくない。

 そんなことを自問自答しながら車を走らせてふと気が付いた。オレはまた何も見ていない。見えていないと。
 前回の事故の時は、女児が飛び出して来たときはともかく、ぶつかったときの記憶は今もはっきりある。そのときは見えていたと思う。
 しかし、今回は、まったく見えていなかった。目は開いていたし、自らでは見ていた、見えていたはずだった。そう思ってハンドルを握り、右に曲がったのだ。が、横断歩道を直進してきた老婦人の乗った自転車にぶつかった。何故見えなかったのか。
 そして今、高速道を約100キロのスピードでクルマを走らせていて、一瞬、ごく短い間ではあるが、やはり何も見ていない、見えていないときが確かにあるのだ。それは何か考え事をしているときがそうだし、何も考えていなくても、我の意識は前方を見ていない。まったく失念している。目は開けて前を見てはいるのに。そのことに気づきショックだった。

 これは以前からうすうす感じてはいたことだが、我は極端な熱中症的なところがあり、何かに考えや心を囚われてしまうと他のことは全く眼中にない、忘我の境地に陥ることがままあった。
 当然、そのときは慎重さを欠く。それは他者に対する気遣い、思いやりのときもあったし、忘れ物や失くし物へ繋がるときもよくあった。結果たびたびバカなことをしでかし、他者ばかりでなく自らも傷つけて生きて来た。
 元々そうした迂闊な性向があったところに、老いて目自体の機能も衰えて来てろくに見えなくもなってきている。今回の事故の顛末は、起こるべくして起きたことだとつくづく思う。

 言う迄もなく、人は常に瞬きもしている。映画と同じく見ているコマとコマの間には実は欠落があり、見ていないときも実は誰にでもある。しかし、脳はそうした欠落を補って、常時「見ている」「見えている」状態に意識を保っている。
 我もそうだと思い信じていた。しかし、見ているかどうか意識を集中してみると、多々、はっとして、今一瞬は何も見ていなかったと気づく。そうして常に見てない、見えていない状態ながら我はクルマを運転したり、道を歩いたり動いていたのだ。ぞっとした。

 よくこれまでそれで大事に、大事故に至らなかったものだと今にして感心すらする。特にこのところは、母の死後、父の世話と諍いで疲れ果てて、常に気もそぞろであった。そのときも何か考えていたのか、ぼうっとしていただけかもしれない。
 そして事故に至った。ただ、幸いにして相手方にも大したケガは追わせていないようだし、後々までも面倒な結果を引きずることはないような感触がある。幸いであった。僥倖と言っても良い。またも神のご加護、恵みが与えられたのだと思う。

 聖書には、盲人をバカにした者に対して、自分は(健常者)だと思い、見えていると思っているが、実のところは何も見えていないのだ、見えていると思うところに罪がある、と、イエスが説く一節がある。
 まさにそのことを思い出した。

 繰り返しになるが、我は、自らでは見ている、見えていると思って生きて来た。しかし、実のところ何一つ見えていなかったのだ。今やっとそのことを気づかされた。