母の月命日に2017年02月09日 21時55分36秒

★ここを乗り切れば春が来る

 このところ夜になると眠くて意識朦朧で、起きてられない。
 年寄りとはそうしたもので、晩飯食べ終わるとすぐこっくりこっくり、うつらうつら状態になるものだと知ってはいたが、我もまたそうなってきた。
 むろん朝は早く起きるのだからそれも仕方ないのだが、そもそも慢性的睡眠不足なのである。父より遅くまで起きて、父より早く起きて、さらに眠っている合間合間に、老犬たちに起こされたりして真夜中散歩に行ったり断続的にしか眠れない。
 晩飯を終えて、父をベッドに追いやり、着替えさせ、紙パンツを交換して寝かしつけてからようやく我こと、一人の時間が生まれる。が、そんなで、もう疲労困憊、アルコールも入っている故、我もまた起きてられず、倒れ込むように眠ってしまう。そんなことの繰り返しで、眠気と疲れてブログすら更新できない日が続いていた。

 父は、このところ週に二日、火曜金曜とリハビリ作業もあるデイケア、そしてさらに二日、土日はお泊りもできるショートステイに通わせている。しかしそれでも、デイケアは約6時間ほどしか預かってもらえにいばかりか、送迎の時は必ず我が立ち会わねばならず、かなり制約がありあまり楽できない。
 土日のデイサービスは、お泊りも可能なので、今は常に一泊二日で預かってもらうようお願いしている。さすれば、我も山梨まで足伸ばせるし、土曜のライブなどあっても父は不在なので、時間気にせず夜も過ごせる。それに加えて、今月からは、さらにもう一日、お泊りの日を増やそうと考えている。土日月と二泊三日で、お泊り願えれば、我は土日は完全に自由になれる。さまざまなイベントなどはたいてい土日にあるわけで、父には申し訳ないが、それにゆっくり家も空けられるし山梨の倉庫での作業も腰据えて専念できよう。

 正直なところ、父が家にいると我はおちおちブログすら書けないのである。夜、眠らせているとき以外は、何をしだすかわからすないので目が離せないし、よって家も空けられない。かといって、日中昼寝させてしまうと夜中に徘徊したりして昼夜がわからなくなってこちらも振り回されて疲弊してしまう。

 このところ九州の妹や担当ケアマネージャーたちとはかって、そんな父を特養に入れるなり、九州の妹宅に連れて行く案も俎上に上がっていた。じっさい年明けから、父の呆けも進んできて、息子とのトラブルが絶えることがなかった。たすけを求めて、父は一人娘である九州に嫁いだ我が妹に電話してしまい、妹がケアマネに連絡して、我と父、この親子二人だけで暮らしていくのはもう不可能ではないかと話は進んでいたのだ。
 まあ、事態は何も解決してはいないし、今後もまた我と父のトラブルは些細なことがきっかけで勃発するだろうけれど、もう少し頑張ってこの家で面倒見ようと我は思い直したところだ。

 母をこの手のうちで殺した者として、ならば父もまた我が自ら殺そうと思う。父はもう92歳。生きたとしてもあと数年だろう。とならばやはり最後の日までどんなに我も父も大変で辛くともこの家で過ごさせてやりたい。特養に入れたってどうせすぐ殺されるのならば、我が手で、この家でしっかり殺したい。
 あと何日、何年、この父との日々が続くのかわからないが、できるだけ無用な軋轢を増やさないためにも、特養に全面的に入れる前に、うまくショートステイ等を多用して、トラブルとストレス増えぬよう我が負担を軽減させたいと思う。

 立春も過ぎ、暦のうえでは春となったわけだが、この数日また北風が吹き荒れたり、今日は小雪が舞い厳寒の日が続いている。
 午後から降り出した雪は幸い積もるほどのことはなく、途中から冷たい雨に変わり、向いの畑はうっすら白くなってはいるが、今はもう氷雨もやんだようだ。
 このブログでは書くからにはと、つい対外的、対社会的に、まっとうな威勢の良いことばかり書いているが、ご存知の通り我自身弱気の虫に襲われれば、常に、もうダメだ、オシマイだ、どうしようもないという気分に常に囚われてしまう。
 人は皆、それぞれ何かしらの生き甲斐を持ち、それを頼りに人生を生きていくわけだが、我自身は生き甲斐など何もない。せいぜい老いた親、父とか犬の世話という、後ろ向きのものしかなく、せめて妻とか子とか孫とか、誰か我が後のことを託する者たちがいたらなあと思うことがよくある。
 けっきょく、どこまで行っても一人なわけで、人はそもそもそういうものだと言うのはあくまでも建前に過ぎず、それが辛いがゆえに人は結婚し家族を、子孫を作るのだと今ははっきりわかってきた。
 これは誰かに我の老後の世話を頼みたいということではない。ただ生き甲斐というのが、我が事、自分の事だけだとこんなに虚しいものかと今になって思う。そう、自分の事だけならば、もう何もいらないし、何ももはや求めないのだ。すべてが無為虚しくあり不要なのだ。
 願うは、母が生きていたときの日々がもう一度戻ればと思うが、それは二度と帰らない。位牌を前にして写真の中の母は、優しくにこやかに我をただじっとみつめて微笑みかけてくれる。

 今はまだ父の世話という「仕事」と共にその生活が我に残されているけれど、父が死んだ後に、我に生き甲斐なんてあるのだろうかと訝しく思う。
 それでも生まれてきて、今も生きて、生かされているからには生き続けなくてはならない。しかし、それは本当に辛いことではないか。人が生きていくためには、何か、絶対的に大事な、確かな何かがなくてはならない。真に愛する対象となる何か、誰かが。
 母を喪った今、残りの人生で、我はそうしたものと出会えるのであろうか。それは間違いなく物ではない。まずは人であり、たぶん目に見えないものであろうか。
 ダマスコに向かう途中の道で、迫害者サウロに起きた事件のように、イエスの声が天から我に降りればと願う。あるいは漱石居士が晩年、好んで毫したように、則天去私の心境に達することができるかどうかだ。

 まだまだ寒い日が続くと予報士は言っている。しかし、陽射しも伸びて来てこの寒さを乗り切れば春はやってくると思う。まずはここを乗り切る。まだがんばれる、頑張らねばとと自らを鼓舞しつつ。