無頼庵三月は、レコードコンサートの夕べを2017年03月01日 22時31分25秒

★真空管アンプで、レコード芸術の神髄を

 拙宅無頼庵の三月の予定は、26日の日曜に、「レコードコンサート」を予定している。
 ジャンルを問わずに、懐かしの歌謡曲から、ロックミュージックまで、主に今回はシングル盤を次々とかけて行きたいと思う。

 参加費は飲食代を含めて五百円。開始時間は、午後4時ごろから、アルコール含めて飲食しながら、だらだらと夜9時頃までやれたらと。
 もちろんレコードも含めて持ち込み可能。たぶん今の人は、アナログレコードというもの自体、針を落とした経験がないかもしれないし、その面白さと難しさはしらないかと思う。
 拙宅の最良のオーディオシステムで、レコードとはいったい何であるのか、当時発売のシングル盤を中心に、聴き比べて、その神髄を再体験してもらえたらと思う。

 詳細は後日また告知する予定だが、まずは日時だけお知らせいたしました。ぜひ多くの方々、それも若いレコード未体験者のご参加を願う。
※参加費は、飲食代と諸経費としてです。お間違いなく!

追悼・ムッシュかまやつさん2017年03月03日 14時39分47秒

★戦後の歌謡史を駆け続けた天才を悼む

 かまやつひろしさんの訃報が届いてちょっとびっくりした。我が子供の頃からずっと変わらずいつも音楽の場にいた人で、歳は関係なくきっとこのまま黒柳徹子のように永遠に生き続けると思っていたからまさか死ぬなんて思ってもいなかった。

 個人的にはテレビの中以外では何回かしか生のライブは観たことがないけれど、老いても歳は関係なくその存在感とテクニックは確固たるものがあって、かまやつさんはかまやつさんだなあといつも好感をもっていた。あんな風にひょうひょうと独自のスタンスで軽やかに生きられたらと憧れもした。
 それにしてもあんなに長く現役で、どんな時代でも活躍した人はもう今後出てこないだろう。 
 今の人は彼のことをあまり知らないかもしれないのでセンエツだが、記憶にあることを記しておく。

 元々彼の父は、日系二世の名トランぺッター・ボーカリスト、ティーブ・釜萢であり、やはり二世のジャズ・ミュージシャンの森山久とも親しく、その縁で妻同士が姉妹のゆえんで、森山良子とはいとこの関係だと聞いていた。
 そうした名門音楽家系に生まれた彼は、スタートは、やや遅れて来たロカビリー歌手として、ソロデビューしている。
 寡聞にしてその頃の彼のヒット曲は我は幼くして知らないのだが、「三人ひろし」の一人として、井上ひろし、守屋浩とならんで、かまやつひろしの名前は記憶にあった。※水原弘も加えて異なる「三人」、もしくは「四人ひろし」と呼んだかもしれないが、オミズは早く死んだことと他の三人とは別格の存在感があったので、やはり「三人ひろし」とは、井上、かまやつ、守屋であろう。その頃のイメージはもろアイビールックで短髪の二枚目である。

 ところが、今日多くの人が知るように、そんなあまりぱっとしない歌謡曲歌手が60年代半ばに興ったグループサウンズ=GSブームで、いつの間にかザ・スパイダースの一員となって再登場し人気を博すようになる。
 今日、三大GSバンドとは、三原綱木らのブルー・コメッツ、ジュリーこと沢田研二らのタイガース、そしてスパイダースとされているが、ブルコメは、そのブームの先陣を切ったものの、アイドルとしての人気はそれほど高くなかった。
 やはり当時の女子供、ティーンエイジャーたちを熱狂させたのは、何と言ってもタイガースとスパイダース、それにショーケンこと萩原健一がいたテンプターズで、中でもタイガースが一番人気だったと記憶する。
 ただ、タイガースは主に女性ファンが多く、僕たち男の子には、スパイダースのファンが多かった。というのもコミカル堺正章と二枚目井上順という二枚看板が売りで、今でいうエンタメ性が高かったし、それ以上に楽曲が優れていて音楽性も他のバントとは一線を画し抜き出ていたからだ。
 俗にリーダーの名前も入れて、田辺昭知とザ・スパイダースとして世に知られるが、そのスパイダースの音楽性の高さは、ひとえにかまやつさんの才能とセンスに負うところが多いのではないかと信ずる。
 タイガースの楽曲を今聴くと、どれも同工異曲の甘ったるい乙女チック歌謡曲が多いことに気がつく。それはそれでバンドの持ち味でありとやかく言うべきではないけれど、スパイダースのほうがバラエティに富み、佳曲、名曲が圧倒的に多い。ちゃんとバンドとして成り立ちサウンドを聞かせている。
 また、ビートルズ初期のロックンロールナンバーのカバー等もまんま英語でやっていたのは、日系二世の家系に育った彼の意向であろう。

 そして、GSで一斉を風靡した人気バンドにいたかと思うと、次に彼の名が世に広く知られるのは、フォークソングブームの渦中、ご存知「あゝ我が良き友よ」の大ヒットである。
 よしだたくろう作詞作曲のアナクロとしか呼びようのない古臭いバンカラな歌詞を、フォークシンガー然としてギター弾きながらごく軽やかにかまやつさんは唄い、それが予想外のヒットとなってしまった。たぶん、たくろう本人が唄っていたらあれほど売れなかったのではないだろうか。たくろう節では鼻につきすぎる。歌詞とはまったくかけ離れた人、かまやつさんだからこそ「うた」として成り立つのである。

 もうこの時点でお気づきのように、彼は歌謡曲からグルーブサウンズ、そしてフォークソングへと自由自在に軽やかにフィールドを移してその都度人気を博している。音楽のブームというのは、移り変わるごとにその前のブームにいた者は、古臭いと忘れ去られ人気を失うはずなのに、彼だけは常に新たなブームにちゃっかりと乗っかって、次のシーンにもいるのである。
 でもそれは、湯原昌幸のように売れるための悲壮感や頑張り感はみじんもなく、まさにかまやつさん独特の脱力感的スタンスでひょうひょうと軽やかに好きなようにやって、でも「しっかりいつもそこにいる」のである。
 ちょっとこんな人は他にいないのではないか。まずそのことに驚き感心する。

 ただ個人的に惜しむべくというか、不思議なのは、彼には彼自身がつくったうたではヒットがないことだ。むろん、和製カントリーとしての名曲「どうにかなるさ」はあるけれど、我が一番感心するスパイダース時代の佳曲「いつまでもどこまでも」も彼自身のボーカルではない。
 我は自分でも下手の横好きでギターをやるようになってみて、その譜面をみて楽曲として完成度の高さに心底驚いた名曲はこの「いつまでもどこまでも」と、槇みちるが唄った「若いってすばらしい」の二曲に尽きる。
 後者はナベプロの屋台骨を支え続けた天才作曲家宮川泰先生のペンによるもので、「いつまでも~」はかまやつさんの作曲である。この二曲は日本のポップス誌に永遠に残る名曲の極みだと断言する。他にもかまやつさんは本当に良い、天才的コード進行の楽曲をいくつも生み出している。が、その人柄もあるのだろう、偉ぶることもなくいつも変わらずあのくしゃくしゃの笑顔で、請われれば他人が作った「我が良き友よ」をひょうひょうと軽やかに唄っているのである。
 
 78歳というお歳が早いのか長生きなのかわからない。ただ早逝が多い音楽業界、それもロックシーンの場にいた人としては存外長命だと言えるかもしれない。
 ともかくまた日本のポップス界にとってかけがえのない天才が世を去った。
 おそらく天国でも彼はちっとも変わらないことだろう。素晴らしい人生だったのではないか。かまやつさんのように軽やかに生きられたら幸福であろう。彼に憧れた。ありがとうございました、ムッシュかまやつさん。あなたほどの天才はいない。合掌

死に行く者を死なせていく勇気を2017年03月06日 06時27分59秒

★半年が過ぎ、今年も新たに春が来て

 昨年9月の初旬に、母が急逝してから間もなく半年が過ぎようとしている。
 母のいない生活、老いてボケが進みさらに手がかかるようになった父との二人暮らしもある程度は慣れて来た。
 が、混乱は相変わらず続いていて、未だ人生再建途中どころか、しっちゃかめっゃかな状態、全てに収拾がつかない状況は相変わらずである。
 おまけに年明けから18歳となる老犬が弱って来て、父に加えてさらにその世話に煩わされるようになってきた。
 餌を食べなくなって痩せて弱り散歩も手がかかるようになっただけでなく、この冬は、玄関わきの小部屋に暖房いれて夜は寝かせているのだが、夜寝る前に散歩させても、ときに午前過ぎ、深夜、明け方、そして朝と、数時間おきに鳴いて吠え騒ぐこともあって、その都度起こされて外に連れ出しまた軽く散歩させ糞尿など済ませて寝かせたりもする。
 それではこちらも断続的にしか眠れないし、昼間もふらふらメマイや耳鳴りに苦しめられる。母の最期のほうも同様の状況となったから、人も犬も死ぬまでに、やたら手がかかるのは仕方ないのだと覚悟するしかない。
 犬が吠えてもほったらかしにしておけば、室内で糞尿を撒き散らしたり、部屋の隅に潜り込み抜け出せなくなって苦しがったりしていたりと、また面倒な事態となる。彼は紙パンツも履いていないし、まだ吠えて不調を飼い主に知らせてくれるだけ有難いと思わなければならない。
 我が父など、紙パンツ愛用するようになってからは常に垂れ流しで、こちらが交換させない限り外に溢れて漏れ出るまでそのままなのだから犬のほうがはるかにお利口さんなのである。

 そうした老いた者たちと暮らすのは正直疲弊する。中でもいちばん頭が痛いのは、食事のことで、いったい何なら食べてくれるのか、食べさせるのに毎回腐心している。そう、それは母のときもそうだった。
 以前も書いたが、我には痩せていくことに対して強い恐怖心があって、食べられず痩せて骨と皮になってしまい生命エネルギーの素である脂肪など蓄えが尽きた段階で、人も含め動物は死ぬのだと確信している。
 だからその恐怖と闘うためにもともかく食べさせないとならない。そうして母にもずいぶん無理強いした。そして今も父に、ときに怒鳴り、なだめ、懇願して食事をとらせている。
 が、動物は、言葉も通じないし、そのときどきの体調もあり、いったい何ならば食べてくれるのか毎食頭を痛めている。少しでも食べてくれれば安心するし、食べた分これで何日か生きられると思える。こちらの気もはれるが、何を与えても鼻もつけないと我まで食べる気が失せてしまう。そして犬も父もしだいに、じょじょに、少しづつ確実に痩せて弱ってきている。

 しかし、この頃になってようやく気づいてきた。老いて、もう食べられなくなる、食べたい気持ちがなくなってきたのならば、それも自然の摂理であって、それはそれとして受け入れるべきではないのかと。
 彼らはもう十分、存分に長生きした。そして最後のときが近づき、死に向かおうとしている。死ぬためには体の蓄え、貯蔵庫のエネルギーを空にしないとならない。よってしだいに食べなくなり、じょじょに確実に痩せてゆく。
 それが自然の流れだとすれば、介護者とはいえ、無理に食べろと無理強いすべきではないのではないか。それは結果として相手を苦しめることにもなろう。
 むろん、そうして痩せ衰えて死んでいくという事態を間近で見続けるのはとても辛い。やはり家族としては何としてももう少し持たせたい、一日でも長く生かしておきたい、願わくば再び元気にさせてもっと長生きさせたいと願う。
 母のときもそうだった。
 母自身の思いはわからないが、我は母が死ぬなんてまったく想定していなかった。何とか手を尽くし必死に看病すればもう少し持ち直して癌を抱えつつもまだまだ生きられると信じていた。そのためにも必死で食べさせようとした。我が手変え品替えて苦労してつくったものを食べてくれない母に憤ったことすらある。
 しかし、それは死に行く者にとって本当に良いことだったのか。今自問している。そもそも心得違いではなかったのか。

 人が老いてその死を、最後のときを迎えるのは決して悪いことではなく、ごく当然の、誰でも総てに起こる当たり前のことだろう。それは季節が繰り返していくようなことだ。
 新しい春が来るように、新しくこの世に生まれてくる者がいる。一方、時が過ぎ老いて死に至る者、新たに死んでゆく者もいる。それは季節が繰り返すことと同じく、永遠に続き繰り返すごく自然なことだ。
 ならばそれを受け入れなくてはならない。だが、我にはそれができなかったし、今でもまだなかなかそれは難しい。

 まず死を受け入れ、死んでいく者を死なせてゆく勇気がほしい。勇気とは覚悟であり、覚悟とは決意であろう。その決意のない者は、臆病者であり、畢竟、臆病は卑怯に通じるのだから、我はずっと卑怯者でもあった。
 そうした厳然たる自然の摂理をまず認めて受け入れていく。しかし、この弱く卑怯な我にはなかなかそれは難しい。
 そしてそれすらもまた建前とか本音ではなく、死に関連する厳然たる事実なのだと思える。受け入れねばならぬけれど、受け入れたくないのもまた人間の心なのだと。
 
 ただ願う。我に死と、死に行く者たちを死なせていく勇気を与えよと。

ようやく我が内にうたが戻って来た報告2017年03月07日 22時33分44秒

★きっかけは、べーやんが唄ってた「こいさんのラブコール」

 まったくどうでもいいこと、私的なことを書く。ごくごく私的なことだが、嬉しいことなので記しておきたい。

 我が母の癌が進行悪化して昨年はちょうど今頃、春先からその対応に追われて慌ただしくなった。何度も入院し、また新たに手術もしたが、結局日に日に体は衰弱して、初夏からはこの家に介護ベッドを導入し我がほぼ一人で昼夜問わず介護することとなった。
 そして当ブログで記したように、それから二か月足らずで母はあの世へと我に抱かれて旅立ってしまった。それが9月頭のことだ。
 
 死に行く母の世話に追われたのは実質半年程度の期間なのだが、その間は友人知人ほぼ誰とも会わず、都心に映画を観に出ることも誰かのライブに顔出すこともできず、自らもギターを弾いたりうたったり音楽に関わることも一切しなかった。
 母のことで頭がいっぱいでそんな気分でなかったこともあるし、実際、まったくそうした時間的余裕がなかったのだ。時間あれば横になって仮眠をとり母に呼ばれるまで体を休めることだけで精いっぱいだった。
 音楽をかけて聴くこともしない。何故ならいつ母がオムツ交換を求めて我を呼ぶチャイムが鳴るかわからず、それを聞き逃してはならなかったからだ。

 そして母が死にその後また三か月、昨年年内は、その後始末、相続や様々な手続きなど残務処理に追われてまた目が回るような忙しさだった。
 そうした最中、少しは時間もできまた音楽に関わる事を再開しようとも考えたが、長年共に過ごして来た母の死という一大事で、心は打ちのめされてしまい、誰とも会いたくなく、音楽の場に出向き人と会うこと自体かなりのプレッシャーを覚えてずっと苦しい思いでいた。
 そうした気持ちは遂次このブログで吐かせてもらったが、軽いPTSD的状態かつ鬱的真理状況だったに違いない。
 母のいない哀しみと母を死なせてしまったという悔恨の思いは今も去らないが、その大事件により世界は全て意味と価値を失い見るものすべて色すら失ってしまっていた。
 だから当然、あれだけ好きだったフォークソングなどの音楽も関心を失い、いつでも好きに音楽が聞ける状況、自らも演れる状況となってもその気は失せたままだった。
 音楽活動を再開しようにも楽団のメンバーはいなくなってしまったし、残っているメンバーもそれぞれ忙しく気運も高まらず新たなメンバーを募っても誰も来ず、もう我には音楽も、うたの場さえも母と共に棺に入れてしまったのかと覚悟した。
 じっさい、無理して久しぶりにギターを手にして爪弾いても、半年以上のブランクに指が痛いだけでなくちっとも面白いとも楽しいとも思えず、気持ちは戻らなかったのだ。とても唄うどころではない。そんな気分にはもう生涯戻らないのかと哀しい覚悟もした。我の中の「うた」の泉はこの一年のブランクで枯れ果ててしまったのだと。

 と、ウチでは、母が生きていた頃から唯一テレビでほぼ毎週観ている番組がある。毎週月曜日にBS日テレで夜9時からやってる「BS日本のうた」という番組で、どこそこの音大でクラッシックを学んだ男女合わせて数十人のフォレスタというグルーブの人たちが、ピアノ伴奏に合わせて様々な歌の数々を、ジャンルを問わずただ唄うという一時間番組である。
 そこには司会者もいないはトークもない。ただナレーションだけが静かに流れ、歌謡曲から童謡、唱歌、ときに民謡に至るまでその回ごと大まかなテーマで選ばれた雑多なうたの数々をプロの声楽家たちが朗々と不動の姿で唄うだけの番組だ。
 最初偶然観たときは、なんて金かけていない安直な番組かと驚き感心もした。何しろピアノ一台で、司会もいないし出演歌手の名前さえも一人ひとり紹介すらない。ただ曲名と作曲者、そして歌詞のテロップなどだけが出て彼らプロのクラッシックの歌手たちが歌詞カードも見ずに「名曲の数々」を時間内いっぱい次々と唄うのである。
 ただ親たち世代にはそのシンプルな趣向が好評だったらしく、存外この番組は人気高いようで、今のJ・ポップ中心の音楽番組には全く関心のない、老人世代にとって演歌番組とはまた別の貴重な音楽番組として一定の人気を保っていると想像する。
 我も喧しい司会者やトークがいっさい入らないこのうた番組に関心を持ち母亡きあとも父がファンであったから、観れる時は父のためにその番組をつけたり予約録画したりしてきて、この「フォレスタがうたうBS日本のうた」だけはほぼずっと見続けてきていた。

 と、書きたいのは、この番組についてではなかった。かつてのテレビ、今でいう地上波のテレビに比べてBSというのはやたらチャンネル、放送局と番組数が多いから、在来のテレビ局でもできるだけ金をかけずに安直に制作している番組が多い。その最たるものは、テレビショッピング番組かと思うが、それは「広告」であって論外として、安く金を書けずに作れて良質な番組というのは当然ながら少ない。
 その「日本のうた」は珍しく例外の良質なほうで、もっと詳しく書きたいのだけど、その放送の前にも同局では演歌、歌謡曲中心のやはりあまり金をかけていない音楽番組をやっている。番組名は調べればすぐわかるのだが、それはどうでもよい。
 昨日は父の食事も早めに終わったので、9時からのそのお目当てが始まる前からBS日テレをつけてみた。その日の特集は浪速演歌で、大阪を題材とした歌謡曲を天童冬美たちが唄う趣向のようだった。

 この番組は男女二人の司会者がいて、歌手が唄うシーンの合間合間に、スタジオでトーク的にその歌手を交えてうたに関するトークが入る。
 そしたらべーやんこと堀内孝雄が出ていて、そのスタジオで自フォークギター弾きながら、フランク永井の曲、たしか昭和33年のヒット「こいさんのラブ・コール」をワンフレーズだけさらっと唄った。それが良かった。
 いや、観たときは、正直なところあんまし良いとも上手いとも思えなかった。番組の途中から見たので、彼が他に何を唄ったのか知らないが、スタジオであくまでもトークの流れの中で、こんなうたもあった、という感じで、さらっと一番の歌詞だけ唄い流したとしか思えない感じであった。
 それがBSはお金かけていないから、それも1曲として、タイトルのテロップつけて、まんま放送してしまったという感じがした。何かチューニングももう一つな気がしたし、何より彼自身が気軽にさらっと、スタジオの二人にだけ聞かせるために唄ったという気軽さが強くあった。
 堀内孝雄というと、あのアリスの人で、谷村新司と共に、濃い溜めて唄う人というイメージが強くある。我は彼らがデビューした頃からずっと同時代を生きているわけだが、どうにもこのグルーブは好きになれず、良い曲もあるのは知っているし才能あるのもわかるけれど、あまり関心ない人たちであった。
 特にソロで活動するようになっての彼のうたは、まさに演歌的フィールドにあって、我の関心外の人でしかなかった。が、そのとき見たべーやんはまさにフォークシンガーで、強い印象を残した。いつものようにコテコテに溜めて唄わず、さらっと軽く流して唄ってくれたことも好感を抱いた。
 そして、その晩、父を寝つかせてから、我もギターを手にして、彼がうたった「こいさんのラブ・コール」を思い出してギターでさらってみた。そのとき、突然、我が内にうたが流れてきたのだ。

そう、何でそんなに早く届かないとならないのか2017年03月08日 22時26分22秒

★ヤマトの宅配便過剰作業に思う。

 Amazonで、手元の古本を売る様になって、早や10年ほど経かと思う。Amazonが運営しているマーケットプレイスという仮想市場で、そこのリストに掲載されている本や雑誌を中古ながら売って、かなりの手数料を胴元であるアマゾンにとられながらも商売を続けている。
 正直、出品数も少ないこともあり注文も毎日あるというわけでもなく、手元に入る額は小遣い銭程度に過ぎないが、ネット上の自店舗で販売するよりは圧倒的に集客能力は高いので、ピンハネされようとたぶんこれからも売れる本がある限りそこで我は商売を続けていくかと思える。
 
 さて、では注文があった本をどうやって発送するかといえば、以前はヤマトのメール便を利用していた。が、それが一昨年だったか廃止になり、仕方なくそれよりはやや割高だが、郵便局と契約し、「ゆうパケット」という月々一括後納のシステムを利用して、今現在は一冊あたり167円~232円で送れている。それぞれ2㎝、3㎝までだが。それでも冊子扱い=ゆうメールよりは安いはずだ。
 こちらとしては、より割安の配送方法があればと考えるが、もっと大量に発送できればまた手段はあることも知っていても、今は注文に応えて発送するのも時間的に日に数冊が手いっぱいであって、これ以上大きく商売したくても家庭の事情がそれを許さないのである。

 さておき、このところヤマト運輸の宅配事業に関して値上げするとか、あれこれ現状を変えるべく様々な問題が提起されている。我もまたかつてはヤマトを利用して配送して、今もAmazonなどの通販購入では主にヤマトに配送してもらう者としても思うところがあるので書き記したい。

 これは一言でいえば21世紀の「現代」の消費のあり方ということに尽きるのだけれど、何か物品を購入するにあたって、一昔前は購入者、つまり消費者は自ら店舗に出向き買い求めていたのが、今では、家にいながらネットやテレビなどで見て、サイトや電話でアクセスして注文し家まで届けてもらうという形態に変化したことだ。
 かつても蕎麦や中華の出前以外にも米や酒などを近所の商店から家までの配達はあったかと思うが、つまるところ食品から衣類、本やCDまでほぼ全ての品が出前化し個人にも普及したのだ。
 そしてそれを支えているのが、ヤマト運輸などの宅配運送業者と日本郵便なのである。
 郵便局は昔から全国津々浦々に網のように郵便物ネットワークはあるから当然として、驚くのは一私企業であるヤマトの宅配便であろう。ヤフーや楽天など他のネット大手販売はあまり利用したことがないのでわからないが、Amazonに限っては、そのサイトからの注文はほぼ全てヤマトを通して配達されてくる。しかも郵便局より確実に早い。さらに送料無料ということもままありえる。まさに24時間もしないで、今晩注文すれば明日の朝に届くことすらありえる。本当に驚かされる。それは便利で助かり良いことに違いない。が、その影でまた苦労している人たちも当然いるのだ。ヤマトの値上げは我はそれも仕方ないどころか当然のことだと考えている。そもそも何でそんなに早くないとならないのか。

 Amazonでは、そのサイトで扱っている商品に、Amazonプライムと表示が出ているものとないものがある。「プライム」と付いている商品は、プライム会員には原則送料無料で、しかも翌日には配達してくれるのである。
 では、そもそもプライム会員とは何かというと、我もうっかりその会員になってしまっているのだが、年間会費3900円を払うと、会員として登録され、そうした商品は送料無料でできるだけ早く配達されるなど様々な特典がある。それは確かにとても便利で、母が癌に病み、我は看護に追われて買い物に出向くこともままならない状況にあったとき、Amazonで紙オムツなどを注文し、すぐに翌日には届いたのでほんとうに助かった記憶がある。じっさい、排便の回数が多くなったとき、手持ちの分では足りなくなりそうで困った。で、Amazonで調べて即注文したら翌日には配達されたので実に有難かった。それはプライム会員になっていたからだ。

 我自らは実のところ、買い物とは別に3900円もの「利用料」を払うつもりはなかった。ただ、一か月間の無料お試しキャンペーンがあって、まずはプライム会員として一か月間試しに使ってみて、期限ぎりぎりにやめるつもりでいた。
 ところが、母の具合がわるかったり何やらかで、うっかり「退会」するのを失念してしまい、結果、期限日が過ぎ本会員になってしまった。しかし、昨年は母の介護に際して、もう自分では近くのドラッグスストアに買い物に出ることすら難しいような状況にあったのだから、通販を利用し、注文したものがすぐに家まで届いたことは本当に助かった。そして今でもアマゾンに注文すれば何だってすぐに、明日にでも届いてしまうのである。でも、それは今は何もそんなに早く届けてくれなくとも良いのにと思っている。

 例えばの話、我は昨日の夕方5時過ぎに、Amazonから鹿砦社の「紙の爆弾」誌最新号を注文した。プライムと表示が出ていたから送料無料である。
 そしたらば、一夜明け、今朝がた9時すぎに、ヤマトの大きなトラックが家の前に停まって、受け取りのサインと引き換えに配達された。万事がこんな感じで、夜、日付が変わらないうちに注文すれば、遅くとも翌日の夕方には配達されてしまう。
 「されてしまう」という表現はヘンかもしれないが、それが困る場合もあるからだ。我は先だって山梨に数日泊りがけで出かけていた間も、そうしてヤマトが配達に来てしまい、不在だったため配達員の方に本当にご迷惑をかけてしまった。三度も来てくれたのではないか。
 我のように基本居職で、家にいることが多い者でもヤマトが来るときに確実に家にいるとは限らない、買い物や犬の散歩、あるいはどうしても応対に出られないときもある。ところが向うは向うの都合で、ともかくできるだけ早く配達しろとAmazonから指示受けているため、すぐウチに来てしまうのである。
 しかも郵便ならば、家のポストに投函すれば良い。Amazonプライムの場合、わざわざ印鑑を求められるがため、不在だと持ち帰り、再度直接誰かに手渡さない限り何度でも訪れなくてはならない。これはものすごく大変な手間だ。こちらもそれがわかってるので、おちおち家も空けられなくなる。おかしな話ではないか。「紙の爆弾」誌だって、雑誌なのだから、郵便物扱いでポストに入れてくれればすむ話なのに、プライム商品になっているとそれもできない。
 Amazonに限らず大手通販サイトは、格安セールと共に送料無料、翌日配達など過剰とも思えるサービスで業績を拡大してきた。
 そのツケは、契約した配送業者ヤマトが、いや、ヤマトの配達員が負うのである。おかしな話だ。そもそも我はそんなに早く届くことはこれに限っては求めていない。雑誌などはヒマのあるとき、合間合間に読むので良いだろう。そんなに急いで読まないとならないわけではない。なのに大急ぎで配達されてしまう。そして相手先が不在ならば配達員の手を煩わす。

 以前も不在になることがわかっていたときは、時間指定し、後延ばしにしてもらうつもりでその手続きをしたこともある。しかし、何故か、それは通じてなかったようで、しっかり不在時に配達に来てしまい不在連絡票が入っていて、がっかりしたことがある。じっさいこれだけ通販利用者が多くなり宅配数が過剰になれば、配達する側としてはともかく一個でも早く減らしたいと、やみくもに足早に配達しまくるのであろうし時間指定のほうが手間がかかるかもしれない。

 きくところによるとヤマトはネット通販全配達数の五割を占めるとか。そして勤務時間数や労働量に比して決して給料も高いとは言えないと誰かが言っていた。
 家の前を日に何度もヤマトのトラックが行き交う。配達員はまさに駆け足で、目の色変えて配達してくれている。それはつまるところアマゾンなどがプライム会員特典として、注文請けたら翌日には届くようともかく大急ぎで配れと命じているからだ。

 そうした送料無料と都内近郊ほぼ翌日配達をウリにしてネット通販は大きく伸びて来た。それが時代の流れなのだと思うし、こうした家にいながら食物から衣類、雑貨まで「出前」してもらう利便さ故の利用者は今後もさらに加速して増えていくことだろう。何しろ今後も高齢化が進み、ショッピングのネット注文化はさらに進むことは確実だからだ。
 同時に、宅配業者の労働はさらに増し激化することは当然であってもそれを良しとしてはならないはずだ。低賃金で重労働で休みなしでは、配達員が不足してそもそもこうしたネット通販じたいの優位性が成り立たなくなっていくはずだ。何もかも無理のツケを末端の現場配達員に負わせること自体が間違っている。

 我はこのところ翌思うのだが、繁栄のためのツケを、誰か一部の人が負う、負わせてしまうという社会は絶対に間違っているし、そうしたシステムはいつか必ず破綻すると信ずる。
 それは日本の安全保障と平和のためだとして、沖縄と沖縄の人たちに米軍基地を押し付けていく図式とも重なる。誰かの苦しみや我慢の上での繁栄はそもそもありえない。違いますか。

余命一年半の父と暮らしていく2017年03月09日 00時35分39秒

★母の死から半年が過ぎて

 月命日であった。我が最愛の母が死んだのは昨年9月8日だから、早や半年が過ぎたということになる。
 もう哀しみは癒えたと言いたいが、今だって、母を死なせてしまったという痛恨と悔恨の思いはまったく消えないしその忸怩たる思いに加えて母のことを思いかえせば涙はいくらだって溢れて出てくる。
 ただ泣いていたって母は帰らないし、ともかく今は目先のこと、このどうしようもない現状を少しでも何とか立て直したいと願うだけだ。

 さて、母が死に、我は痴呆症の92歳となる我が父と二人だけで残された。故あって独り者で、子もない我は父と二人だけの暮らしを余儀なくされた。超高齢の父と初老の、体調不良気味の息子の男同士二人だけの生活である。

 その父は、母が生きていた頃からの呆けもさらに進み、人格はあっても記憶そのものが長続きしないが故、共に暮らし世話する側としては本当に疲弊してしまう。数時間前の事でも失念して、何度でも質問を繰り返すばかりだけでなく、動作すべてがスローとなり、その介助に追われて我の時間は奪われ父が家にいる日はほとんど何もできないだけでなく夜は疲れ果て倒れ込むように寝てしまう。
 友人の多くから、息子一人で世話するにも限界だろうから父はもう特養に入れるべき、我が看れるのも限界だと有難い忠言を頂いた。我もそう願うし、その方向で動きもしたが、何しろ当人がこの家にずっといたい、特養だけは嫌だと抗うので、それもできないで日々が過ぎている。それもこれも仕方ない、我の負うべき業、罪ゆえの罰なのかと今は思い始めてきたことは先に書いた。

 さておき、その父だが、このところ呆け以前に体調にも変化があり、紙パンツの中への小便に加えて、大便までも当人は意識ないままに「失禁」するようになってきた。
 妙に臭いので、トイレに行かせて確認すると、紙パンツの中に、尿だけでなく軟便も大量にしている。当人も驚き呆れ、出た自覚もないのだと言う。
 そうしたことを九州にいる我が実妹にメールで報告した。そしたらば、もうそういう段階になってきたら、内臓もいかれてきたようだから経験上、そんな長くは生きやしない、一年から一年半だろうから、もう少し頑張って看てあげて、とのことだった。

 妹は大分の特養施設に勤めていて、ある意味、そうした死に行く老人と日々接する介護職のベテランである。その見たてに狂いはないだろう。そのメールをもらって、う~むと複雑な気持ちとなった。確かにもう高齢92歳なのだから、あと五年も十年も生きるとは思っていない。しかし、こうして期限をはっきり示されると急に視界が晴れたような、その先が見えたようで、逆に「見えた」ことの不安感から怖くなった。
 むろん先が見えない事のほうがどれだけ辛いかわかりはしない。しかし、見えない事、わからないことは「希望」にも考えようによっては成りうるものだし、見えないことの「不安」はまだどのようにもなる可能性も含んでいる。
 だが、そう先の期限を介護の現場のベテランから宣告されると、そうか、あと一年、もしくは一年半しか父は生きないのか、父とそれだけしか暮らせないのかと思うと、心境はやはり複雑である。
 それで地獄は終わり我は解放されるとして、嬉しいとか喜ぶべきだとは思わない。やはり死を前にすれば、一日でも生かしたいと願うのが人情だし子としては当然そう思うはずだろう。
 しかし、父と過ごすのもあと一年そこらだと、それだけしか残されていないとするならば、それなりに辛抱もできるし対処の仕方、やるべきことも見えてこよう。
 じっさい、このところの食事どきの咽せ咳き込み具合では、いつまた誤嚥性肺炎を起こして入院するかわからないのだ。

 我が父はいよいよ最終段階に、このところの流行りで言えば、新たな脅威の段階に入って来た、ということか。
 では、さて、そういう人をどうやって死なせていくか、だ。長くてと一年半の期間に何が我に、我と父のためにできるか。真剣にタイムスケジュールを立ててできるかぎり適切に、有効にやっていかねばならない。でないと、母のときみたいに、あれよあれよと言っているうち、なし崩し的に死を迎えてしまう。そしてまた痛恨、後悔のときが来る。

 そして誰もいなくなったとき想定し、そのとき、我はどうするのか、親たちを追って死ぬことも含めて考えておかねばと思っている。もう誰もいないのにたった一人で何で生きていく理由はあるのか。もし、そのうえで生きていくならばそういうモードに設定しておかねばならないだろうが。

狂信的「確信犯」が跋扈する時代2017年03月10日 23時08分29秒

★非常識の極みが常態化していく時代

 俗にこの世で何が困るって、狂信的「確信犯」こそ社会を惑わす者はいないのではないか。このところつくづくそう思う。
 狂信的という言葉に語弊があるならば、非常識の極みと置き換えてもいい。このところそうした人たちがやたら世間を騒がしている。
 
 人はそもそも常に惑い過ちを繰り返し己に自信が持たないものだと思うが、この世には自らと自らの成すことに絶対的自信を持ち揺らがない人種も少なからずいるようだ。
 むろんのこと、誰だって自分がやっていることが正しく善であると思いたいし、そう思っているから生きているわけだが、人はときに躓いたり失敗したり他人様から批判をうけたりすればその過ちに気づき反省したりもし内省的にもなる。
 我など若い時から常に非常識だと叱られ、その都度落ち込み反省もするのだが、バカだからまた懲りずに何かしでかしては失敗したりトラブルを起こしたり、面倒な事態はまさに日常茶飯事である。
 だからといって、自分が常に正しいとか思わないし、そもそも我自身が狂っているのかとも思うし、存在自体がイレギュラーなものであって社会とはうまくやっていけないものなのだとようやく認識するようになってきた。だから、当然、自分のすることに自信などないし常にダメなのだとすれば後はいかにそのダメージや被害を最小限にしていくかしか考えていない。
 ダメで元々であって、ただそんな人間でもこの世に生を受けたのは何か意味や理由もあるのだと信じて何とか性懲りもなく生き続けている。よって自分のやっていることに自信がないどころか正しいなんてとても思えない。

 ところが、この世には自らに絶対的自信を持ち、自らの成すことは常に正義だと確信している人たちもいるようだ。我の周囲にもいたし、広く世界を見回してもこのところやたらそういう人たちが目立つ。
 たとえば相模原の障害者施設を襲い大量殺人をしでかした男もそうであり、某超大国の新たな大統領となった男もその種の人種と思える。常に自分が正しく成すこと全てに自画自賛し絶対に過ちは認めないが故反省は口にしない。某元都知事もそうであろう。
 そうした人種は自分を批判されると、すぐにキレて逆にその相手をてっぴどく攻撃して罵倒さえする。それはそもそも自らだけが正しいと思うからで、その正義に敵対する者は悪でありゆえにとことん闘うという「思想」である。
 このところ大騒ぎになっている大阪の国有地を格安で払い下げてもらい、偏向思想教育をする小学校を開設しようと目論む学校法人の理事長なる人物もその仲間であって、彼の言動やその幼稚園などでやっていることを報道で知る限り、まさに狂気の沙汰としか思えない。
 幼稚園の園児たちに教育勅語を暗唱させるも然りだが、それ以上に、運動会の宣誓の場で、子供たちに、安倍総理頑張れとか、安保法制通って良かったとか、中韓を蔑視するような言葉を観衆を前にして言わせると言う発想自体が狂っている。しかし、この理事長たち経営陣は、その異常さに気づかないどころか、それこそが正しい、善でありあるべき姿だと信じて毫も疑わないのである。
 それでもそうした人物が教育者として堂々と世にまかり通り、内閣総理大臣の妻という立場の人が、その開校予定の小学校の名誉校長となっていたのだから、まさに世も末だと呆れ果てる。
 また、その愚挙に対して、国会で追及されると、妻は私人であり批判は不愉快だと憤る首相本人も狂的、もしくは非常識の極みだと我は思う。
 確かに妻は私人ではあろう。しかし、その肩書でそこで講演したり、顔写真出して学校のパンフに載っていれば、それはまさに「広告塔」であって、そのネームバリューは計り知れない。ときの総理の夫人が支援応援している学校ならば確かに信頼もてると誰だって信ずるであろう。
 それがこういう詐欺的大事件となって、安倍総理夫妻は今さら利用されたとか被害者面して逃げ切れると思っているのであろうか。その学校法人と関わったことだけでも道義的責任があり、首相自らも責任をとるべきだと信ずるがどうだろうか。それとも妻が勝手に首相夫人という肩書でしでかしたことで夫は関係ない、夫は被害者なのだろうか。

 この世で何が困るって、一番タチが悪いのは、こうした狂信的確信犯たちであって、彼らはどれほど批判や抗議を受けようと改める気も反省することもなく、逆に過ちを指摘した人たちを「敵」だとみなし矛先を向けるのだからどうしようもない。彼らは常に自分は正義であり、その正義を批判したり立ち向かう者は悪だと考えるのだから真に救いようがない。
 こんなことを書く我も非常識では彼らの仲間だと目されるかもしれないが、自らが善だとか正義だなんて一度だって思ったことはない。人はそもそも弱く惑い常に過ちを繰り返すものなのだと知っているから、こんなどうしようもない人間だと自覚しつつも何とか生きていける。
 相模原の障害者施設大量殺人の容疑者の男もいつか自らしたことの愚かさと障害者は社会に不要だという発想の過ちに気づくときがあるのだろうか。その自らの「狂気」に気づき、弱い普通の人間に戻ってほしいと願うが、今の時代は残念ながら残念ながら彼ら、狂信的確信犯、つまり「超人」の時代であって、マスコミも人心もそんな彼らをもて囃してしまうのである。

 そして世界中どこかしこ、彼ら狂信的確信犯がまさに反省することなく大手を振ってまかり通って、非常識の極みが「状態化」していく。だからこそ、我々普通の弱い小さな人間は、自らの弱さと愚かさにおいて、そうした強さと正義を誇る反省なき奴らを断固として拒否し否定して行かねばならないのだと考える。それこそが民主主義であり、常識ある人間社会なのだと信じて。

6年目の3.11が過ぎて2017年03月13日 22時56分50秒

★この6年間を振り返って思う

 時の流れ、月日の経つのはまさに非情だとつくづく思う。大震災を体験した者誰にとってもあの日のことは鮮烈に記憶に残っているだろうし、ある意味、そこから、その日から、今日までの「距離」を嫌でも振り返って考えざる得ないはずだ。我にとってもまた。

 実際の大きな被害に遭われた方々には申し訳ないが、拙宅はその大地震では何の被害もなかった。ちょうど新たに増改築した家が完成間近のときで、もう大方工事本体は終わり、我はその日その時刻、友人であるうちの社員氏と、台所となる部屋の床にワックスを塗っていた。この家は、内装は、施主自らがやって経費を浮かそうとしていたから。
 いきなり強い揺れ、それも過去に体験したことのない大きな揺れが起き、我らがいた家自体は新たに建てたばかりだったことも幸いして家具もまだ何もなく、棚が倒れるとか物が落ちるとかの被害は何もなく、裏にいた父の部屋に駆けつけたが、そちらもかなり揺れたが無事で安堵した。そのときはまさか東北地方であれほど大惨事となるほどの大地震だとは思いもしなかった。
 揺れはその後、すぐにまた大きな余震が起きて、テレビをつけて、東北地方を震源とする巨大地震が起きたことを知った。それからの出来事はおしよせる津波も含めてテレビで一部始終見て、阪神で起きた地震の規模を上回る大震災が起きたのだとはっきり理解した。
 
 母はちょうとそのとき、癌によって大腸が癒着した箇所を切除する手術を終えたばかりでまだ立川の相互病院に入院して家にはいなかった。
 母曰く、突然ガタガタと大きな震えが起きたので、私はまた高熱が出たかと思って慌てたけど、自分だけでなく周りが地震だと騒ぎだしたので、大きな地震だとわかったとのこと。ベッド自体が移動するほど建物は大きく揺れたけど何も被害はなかったみたいだと。
 そう、それが母が八十歳を過ぎた頃のことで、前年から胃痛、腹痛などで食欲が減り体重がすごく落ちて、あちこち病院にかかり、ようやくその病院で、大腸に癌が出来ていて、それで腸が癒着して腸閉塞を起こしていることがわかり、癌と共に癒着した部分を切除する大手術が行われたのだった。
 一時期は、痩せ衰えて手術自体難しいとまで言われていた母だったが幸い手術は効を奏し、術後は、信じられない程早く回復し体力も戻りあっという間に退院できた。
 そして癌細胞自体は体内に残ってはいても以後数年間は、また再び元通りに、元気に日常生活に戻ることができたのだった。

 しかし、当ブログで遂次そのときどき報告してきたように、癌は四年目にしてまた活動を再開し出して2015年中は、様子を見ていたが、じょじょに肥大してきたため、16年の年明けから抗癌剤など投与してみたものの効果がなく、その後は新たな治療法を模索しつつも母の体調は春先から急速に悪化してきてしまう。結局、初夏に我家に介護ベッドを入れて、自宅で寝たきりとなり訪問診療や介護ヘルパーなど頼みながら、9月8日の未明、我に抱かれてついにその最後のときを迎えたのだ。
 あの3.11からの6年間は、我と母にとって、癌からの復活と再生、そしてまた癌が再発してなす術もなく死んでしまった歳月である。
 その6年間の日々を振り返るとき、その先に癌再発と死が待っていたならばもっと有意義に、大事に大切にすごせば良かったのにと思う反面、そうした死の怖れや癌のことは忘れて普通に生きて日々暮らせたのだからそれはそれで良かったのではないかとも思える。
 ただ、長いか短いかはわからないが、その6年間で、母は一度は手術によって運よく生きながらえ、そしてまた再発した癌によって結局殺されてしまい、もう今はこの世のどこにもいないということだ。その無常を思うときただ涙が溢れてくる。

 我はその6年間に、親しいとても大切な年下の友を二人喪い、その他にも大事な人たちを何人か失った。そして今、父を、長く共に暮らしてきた老犬を死なそうとしている。
 嗤われるかと思うが、ようやくこの歳になって初めて人生とは何か、どういうものなのかわかってきた。ようやくその本質が見えて来た。
 人生とはどうしようもない、思い通りにならない現実と向き合う事だったのだ。哀しみと忍耐を抱えながら。

 それまで我は存分に思い通りに人生を生きてきていた。人生とはそんな楽しい好き勝手に生きられるものだと思っていた。そう、あの3.11の少し前までは。母もその前の年の夏頃まではものすごく元気だった。それが癌を患い、幸い外科手術によって一度は癌を克服し復活できたもののこの6年目の3.11には、母はもはやこの世のどこにもいなくなってしまった。

 大震災で家族を、大切な人を失った人たち、家や仕事、故郷すら失ってしまった人たち、彼らにとっては我のこんな感慨はあまりに卑小すぎ嗤われ叱られることであろう。彼らのご苦労や哀しみ、辛酸を思うとき、我の哀しみ、辛さなど何ほどにも値しない。
 が、誰にとっても歳月は平等に流れるとするならば、この6年の年月は幸福があった分だけただ痛恨と悔恨の極みだとしか思えない。母はそれだけ「おまけ」として余分に生きられたのだから幸福だったと思いたいしそう考えるべきだと頭ではわかっている。
 悔やむ思いが今も強く思うのは、その先に死があるのだったらもっとしっかり大事に生きなければならなかったのに、想定もせずに過ごし、いきなり癌にHOLDUPを突きつけられ、なす術もなくあたふたしてるうちに命を奪われたからだろう。
 人生とは誰にとってもそうした予期できない、思い通りにならないものなのであった。全てのものに終わりの時がくる。それは必ず訪れる。今さらながら学んでもすべてが遅い。

 おそらく誰にとっても3.11という日が来るたびに、程度の差はあれども哀しみと苦い思い、辛い痛みを覚えることだろう。復興が成り、荒廃した風景は消えようともその日を思い哀しみに向き合うことこそが人生に対峙すること、人生の核となる大事なことなんだと我は思う。そう、辛くとも受け入れて嘆くことより前を向いて一歩でも進んでいくことだ。

もう一度我が「人生」を取り戻したい2017年03月14日 09時44分45秒

★払いきれない請求書の山

 人生の禍福とか、人が背負う荷の重さは誰もが平等、公平だと書いていたのは色川武大氏であったか。幸せそうに見え順風満帆の人生でも最後のときにそのツケを払うときが来るのだという。
 このところ我はまさにそれは真実だとつくづく思い噛みしめている。

 若い時から好き勝手に生き、他人様が皆常識的に誰もがやるべきこと、就職とか結婚もせずに身勝手にふらふら生きてこの歳となった。そのことに今さら悔いはないし、我が人生なのだからその責も自ら負おう。
 しかし、タダだと思って存分に使ってきた我が人生だったが、実はタダではなく、最後のとき、後になった今頃になって一気に請求書が届くようになってきた。そのことに今頃になって気がついた。そう、タダではなかったんだ。
 それが親たちの介護であり、親たち亡きあとは一人では収入のあてもなく立ち行かなくなる我が老後である。今、そうした様々な「請求書」が山を成してどっと届いてきている。やれやれである。

 とても一人では払い切れそうにないが、分割であろうとも払わねばならない。自己破産とは、この場合自殺であり、その放漫経営人生のツケ、負債は、我が妹、たった一人の肉親が払うことになってしまう。
 二人兄妹の兄としてそれはしのび難いし、妹からも母の死後会った時に、一切金銭的相続は求めず放棄する代わりに、今後一人者の兄貴の老後の世話、死後の身辺整理等後片付けは妹に負わせないという約束をさせられた。それも当然であろう。彼女には嫁ぎ先九州での義母や夫の世話もあるのだから。
 そう、たった一人で我は自らの死後のことも手配し後始末の代金を用意しておかないとならないのである。

 だから人はそうならないために、学校を出たらすぐに就職し掛け金払って老後には年金生活ができるよう準備し、そして誰もが結婚し家族を作り妻子たちと相互に助け合って暮らしていけるよう準備万端計画立てて生きていくのだ。
 我はバカだったし、元から不良でヒッピーのような暮らしに憧れていたから、そうしないことこそが自由で価値ある真の人生だなんて思い込んでいた。毎日満員電車に揺られて会社に通い上司の顔色を窺うなんてまっぴらだと。
 が、今にして思うのは、先憂後楽、老いて働けなくなった時に生活に困る事のないよう、若い時からしっかり手筈を整えることこそが真の自由への道であり、賢い人は皆本能的、常識的にそうしていたのであった。

 誰かそう若い時に諭してくれよ、と言いたいが、たぶん誰か親戚の叔父さんとかは心配し助言したかもしれない。ただそのときは若く愚かで自らを過信していたから老いのことや親の介護などまったく想像すらできなく聞き流していたのであろう。それも仕方ない。やれやれだ。
 で、だからといって、若い頃の自分と同じように生きている若い人に遭っても、我は、反面教師として俺を見ろ、とか、ともかくきちんと早く就職しろなんて言いはしない。その時分は、したり顔でそう説いたとしても彼の心には届かないのもまた間違いない。我がそうだったのだから。

 たぶん、堅気に生きている人は、元よりそうした堅気遺伝子が体内にあって、成人になるとそれが発動してきちんと堅気になっていくのであろう。我にはどうしたことかそれが欠けていて、元々劣等なのであったのだ。ならばそれも仕方ないことだ。
 ただ、最後の方に来て、若い時から今まで好き勝手に生きて来たツケ、支払いを迫られるのは正直苦しく困るしかない。こちらも体にガタが来て、無理きかないし息子一人での老々介護は真に辛い。
 しかしそれもまたかけがえない我「人生」であり、誰も代わってくれやしない。

 様々なストレスもあって一時期は、Amazonなど通販サイトでひたすら買い物をしたことは書いたかと思う。
 このところ思うのは、もう今は何も欲しくないし何も求めない。全てがどうでもよくなった。ただ願うのは、もう一度、かつてのように自由な我が人生を取り戻せたらと。それはもはや無理なのもわかっている。でもせめてもう少し自分の人生を取り戻したい。ほんの少しだけでも。
 我が人生はもはや支払いに追われまくって、すっからかんになってしまったのだから。

死に行く人、死ぬべき者たちを、きちんとしっかり死なせていく2017年03月15日 18時58分38秒

★誰にも必ず迫り来る「死」をどう克服していくか

 心千々に乱れるという言葉があるが、母が癌に病み、成すすべもなく母を喪い、そして今、老衰で死間近となってきた父と親子二人で暮らして、様々なことを思い昨年からずっと気持ちも考えも揺れ動き続けている。
 その都度、そうした心の迷い、移ろいいく様を、拙ブログに書きつけてしまい読まれた方々をずいぶん心配させたかと思う。誠に申し訳なく情けない思い出いっぱいだが、そのときは書くことで我は救われ、今があるわけでどうかご容赦頂ければと願うだけだ。
 そしてようやく、揺れ動き、乱れ続けた気持ちも考えも落ち着いた。覚悟もできて来た。今回はそのことを書き記して、もうこうした私事は書くのは終わりにしたいと今思っている。むろん、また新たなお知らせすべき事態が起きれば、「報告」するが、もう心の揺れ動く様を書くことはないようにするつもりで今はいる。

 死んだ母のこと、そして今死に行く父のことをずっと何度も書いて来た。読み手の方からもいろいろアドバイスやご忠告を頂いた。それはとても有難く大いに参考になり考え直すきっかけになったが、つまるところ我の覚悟だけの問題であって、医療機関や介護施設、行政によってそれで解決策は見えてこないと今我は思っている。
 むろん大いにそれらを活用利用し、我の負担軽減をするしかないのだけれど、最後の最後のところは我の覚悟一つであって、ようやくそれが定まった。

 昨日もケアマネージャーが地域包括支援何たらの女性と二人でウチに来て、父の扱いについて今後どうすべきか相談しに来たし、その前にも市の福祉課なのか、職員がウチに視察に来たり、多くの人たちが我と我が父のことを心配憂慮しこのままでは限界かもと何かできることがないかと案じているのは確かなようなのだ。
 だが我が、彼らに伝えたのことは、父に関し今は、特養に入れることは本人はまったく望んでいないし、息子である我もかつては希望したが、今はその気は全くない。何とかできる限り最期までこの家で父の面倒をみるつもりでいる、むろんまた肺炎などで入院してしまえば、たぶんそれで父はもう退院は出来ずに病院内で最後のときを迎えることになるだろうからと。

 それはつい先日、父が軽い肺炎を起こして体調崩し、急患でかかりつけの病院に連れて行った帰り道、その思いがわき出で固まった。九州の妹から今の状態なら、もう長くて一年半だろうと「予想」されたことも大きい。もう間もなく死ぬのならば、何も大慌てで早急に特養に押し込んで、父を嘆きと孤独のうちに死なさなくとも、嫌でも近いうちに、どのように死ぬのかわからないが、彼は必ず死んでしまうのである。一年半でないとしてももはや92歳、もう相当老いてずいぶん衰弱しているのだ。あと数年の命なのは間違いない。
 むろんまたさらに新たな辛酸状態が起き、我の地獄は佳境に入っていくのであろう。あるいは、まったく逆に、ぽっくりと、朝起こしに行ったら死んでいたり、脳梗塞的に倒れたりとあっという間に死んでくれるかもしれない。手がかからない死に方もあるかもしれないし、母のときのように、この家で最後の最後まで寝たきりになってもだらだらとしぶとく何年も生きるのかもしれない。

 だが、それもこれも人生であり、父の人生と我の人生がそこで一つに結びつくのならば、我はそれを行政や老人施設など人任せにするのではなく、真正面から受け入れなくてはならないのだと考えた。
 そのことを通してでしか、真に人生の本質は理解できないのではないか。人生の本質とは何の事かと問われれば、生きるとは、死ぬとはどういうことかであり、母の人生と死を通して多く学び、またさらにもう一人我が父をも看取り見送ることで、「死」とはなにか、どういうことか、どうやって人は死ぬのか、はっきりわかってくるかと期待している。
 人生とは何かと今我は問われれば、迷うことなくこう答える。人生は生きることであり、生きるとはどう死ぬかということだ、と。

 今真面目に思っていることは、まず父を、しっかりきちんと死なせたいということだ。死に行く者、死ぬべき者は皆そうさせないとならない。そしてその先にこの我が身もまた、自らきちんと、しっかり死ぬべく頑張らねばならないと。
 つまるところそれを昔の日本人は「大往生」といった。そしてそうできない者を、往生際が悪いと批判してきたのだ。

 そう、人は、いや生き物は誰もが、必ず死ぬ。そのときに向けてどれだけきちんと、しっかり死ぬべき、周囲も、当人も努力しないとならないのである。むろんのこと、死は無慈悲に、突発的にも訪れる勝手なものであるから、母のときのように死んだのちのち悔恨の思いに苛まれることだって当然多々ある。だからこそ、死を避けようとか死から逃げようと手を尽くすのではなく、真っ向から死に向き合い、死ぬべき時は、有難く受け入れなくてはならない。
 それでこそ、よく死ぬことは、良く生きることだという真理にたどり着ける。逆にしっかり生きるとは、しっかり死ぬことだという真実にも。

 これから父に晩飯食べさせないとならないので、今回はここまでとして、もう一回だけ補足を書き足したいと思う。