狂信的「確信犯」が跋扈する時代2017年03月10日 23時08分29秒

★非常識の極みが常態化していく時代

 俗にこの世で何が困るって、狂信的「確信犯」こそ社会を惑わす者はいないのではないか。このところつくづくそう思う。
 狂信的という言葉に語弊があるならば、非常識の極みと置き換えてもいい。このところそうした人たちがやたら世間を騒がしている。
 
 人はそもそも常に惑い過ちを繰り返し己に自信が持たないものだと思うが、この世には自らと自らの成すことに絶対的自信を持ち揺らがない人種も少なからずいるようだ。
 むろんのこと、誰だって自分がやっていることが正しく善であると思いたいし、そう思っているから生きているわけだが、人はときに躓いたり失敗したり他人様から批判をうけたりすればその過ちに気づき反省したりもし内省的にもなる。
 我など若い時から常に非常識だと叱られ、その都度落ち込み反省もするのだが、バカだからまた懲りずに何かしでかしては失敗したりトラブルを起こしたり、面倒な事態はまさに日常茶飯事である。
 だからといって、自分が常に正しいとか思わないし、そもそも我自身が狂っているのかとも思うし、存在自体がイレギュラーなものであって社会とはうまくやっていけないものなのだとようやく認識するようになってきた。だから、当然、自分のすることに自信などないし常にダメなのだとすれば後はいかにそのダメージや被害を最小限にしていくかしか考えていない。
 ダメで元々であって、ただそんな人間でもこの世に生を受けたのは何か意味や理由もあるのだと信じて何とか性懲りもなく生き続けている。よって自分のやっていることに自信がないどころか正しいなんてとても思えない。

 ところが、この世には自らに絶対的自信を持ち、自らの成すことは常に正義だと確信している人たちもいるようだ。我の周囲にもいたし、広く世界を見回してもこのところやたらそういう人たちが目立つ。
 たとえば相模原の障害者施設を襲い大量殺人をしでかした男もそうであり、某超大国の新たな大統領となった男もその種の人種と思える。常に自分が正しく成すこと全てに自画自賛し絶対に過ちは認めないが故反省は口にしない。某元都知事もそうであろう。
 そうした人種は自分を批判されると、すぐにキレて逆にその相手をてっぴどく攻撃して罵倒さえする。それはそもそも自らだけが正しいと思うからで、その正義に敵対する者は悪でありゆえにとことん闘うという「思想」である。
 このところ大騒ぎになっている大阪の国有地を格安で払い下げてもらい、偏向思想教育をする小学校を開設しようと目論む学校法人の理事長なる人物もその仲間であって、彼の言動やその幼稚園などでやっていることを報道で知る限り、まさに狂気の沙汰としか思えない。
 幼稚園の園児たちに教育勅語を暗唱させるも然りだが、それ以上に、運動会の宣誓の場で、子供たちに、安倍総理頑張れとか、安保法制通って良かったとか、中韓を蔑視するような言葉を観衆を前にして言わせると言う発想自体が狂っている。しかし、この理事長たち経営陣は、その異常さに気づかないどころか、それこそが正しい、善でありあるべき姿だと信じて毫も疑わないのである。
 それでもそうした人物が教育者として堂々と世にまかり通り、内閣総理大臣の妻という立場の人が、その開校予定の小学校の名誉校長となっていたのだから、まさに世も末だと呆れ果てる。
 また、その愚挙に対して、国会で追及されると、妻は私人であり批判は不愉快だと憤る首相本人も狂的、もしくは非常識の極みだと我は思う。
 確かに妻は私人ではあろう。しかし、その肩書でそこで講演したり、顔写真出して学校のパンフに載っていれば、それはまさに「広告塔」であって、そのネームバリューは計り知れない。ときの総理の夫人が支援応援している学校ならば確かに信頼もてると誰だって信ずるであろう。
 それがこういう詐欺的大事件となって、安倍総理夫妻は今さら利用されたとか被害者面して逃げ切れると思っているのであろうか。その学校法人と関わったことだけでも道義的責任があり、首相自らも責任をとるべきだと信ずるがどうだろうか。それとも妻が勝手に首相夫人という肩書でしでかしたことで夫は関係ない、夫は被害者なのだろうか。

 この世で何が困るって、一番タチが悪いのは、こうした狂信的確信犯たちであって、彼らはどれほど批判や抗議を受けようと改める気も反省することもなく、逆に過ちを指摘した人たちを「敵」だとみなし矛先を向けるのだからどうしようもない。彼らは常に自分は正義であり、その正義を批判したり立ち向かう者は悪だと考えるのだから真に救いようがない。
 こんなことを書く我も非常識では彼らの仲間だと目されるかもしれないが、自らが善だとか正義だなんて一度だって思ったことはない。人はそもそも弱く惑い常に過ちを繰り返すものなのだと知っているから、こんなどうしようもない人間だと自覚しつつも何とか生きていける。
 相模原の障害者施設大量殺人の容疑者の男もいつか自らしたことの愚かさと障害者は社会に不要だという発想の過ちに気づくときがあるのだろうか。その自らの「狂気」に気づき、弱い普通の人間に戻ってほしいと願うが、今の時代は残念ながら残念ながら彼ら、狂信的確信犯、つまり「超人」の時代であって、マスコミも人心もそんな彼らをもて囃してしまうのである。

 そして世界中どこかしこ、彼ら狂信的確信犯がまさに反省することなく大手を振ってまかり通って、非常識の極みが「状態化」していく。だからこそ、我々普通の弱い小さな人間は、自らの弱さと愚かさにおいて、そうした強さと正義を誇る反省なき奴らを断固として拒否し否定して行かねばならないのだと考える。それこそが民主主義であり、常識ある人間社会なのだと信じて。

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