6年目の3.11が過ぎて2017年03月13日 22時56分50秒

★この6年間を振り返って思う

 時の流れ、月日の経つのはまさに非情だとつくづく思う。大震災を体験した者誰にとってもあの日のことは鮮烈に記憶に残っているだろうし、ある意味、そこから、その日から、今日までの「距離」を嫌でも振り返って考えざる得ないはずだ。我にとってもまた。

 実際の大きな被害に遭われた方々には申し訳ないが、拙宅はその大地震では何の被害もなかった。ちょうど新たに増改築した家が完成間近のときで、もう大方工事本体は終わり、我はその日その時刻、友人であるうちの社員氏と、台所となる部屋の床にワックスを塗っていた。この家は、内装は、施主自らがやって経費を浮かそうとしていたから。
 いきなり強い揺れ、それも過去に体験したことのない大きな揺れが起き、我らがいた家自体は新たに建てたばかりだったことも幸いして家具もまだ何もなく、棚が倒れるとか物が落ちるとかの被害は何もなく、裏にいた父の部屋に駆けつけたが、そちらもかなり揺れたが無事で安堵した。そのときはまさか東北地方であれほど大惨事となるほどの大地震だとは思いもしなかった。
 揺れはその後、すぐにまた大きな余震が起きて、テレビをつけて、東北地方を震源とする巨大地震が起きたことを知った。それからの出来事はおしよせる津波も含めてテレビで一部始終見て、阪神で起きた地震の規模を上回る大震災が起きたのだとはっきり理解した。
 
 母はちょうとそのとき、癌によって大腸が癒着した箇所を切除する手術を終えたばかりでまだ立川の相互病院に入院して家にはいなかった。
 母曰く、突然ガタガタと大きな震えが起きたので、私はまた高熱が出たかと思って慌てたけど、自分だけでなく周りが地震だと騒ぎだしたので、大きな地震だとわかったとのこと。ベッド自体が移動するほど建物は大きく揺れたけど何も被害はなかったみたいだと。
 そう、それが母が八十歳を過ぎた頃のことで、前年から胃痛、腹痛などで食欲が減り体重がすごく落ちて、あちこち病院にかかり、ようやくその病院で、大腸に癌が出来ていて、それで腸が癒着して腸閉塞を起こしていることがわかり、癌と共に癒着した部分を切除する大手術が行われたのだった。
 一時期は、痩せ衰えて手術自体難しいとまで言われていた母だったが幸い手術は効を奏し、術後は、信じられない程早く回復し体力も戻りあっという間に退院できた。
 そして癌細胞自体は体内に残ってはいても以後数年間は、また再び元通りに、元気に日常生活に戻ることができたのだった。

 しかし、当ブログで遂次そのときどき報告してきたように、癌は四年目にしてまた活動を再開し出して2015年中は、様子を見ていたが、じょじょに肥大してきたため、16年の年明けから抗癌剤など投与してみたものの効果がなく、その後は新たな治療法を模索しつつも母の体調は春先から急速に悪化してきてしまう。結局、初夏に我家に介護ベッドを入れて、自宅で寝たきりとなり訪問診療や介護ヘルパーなど頼みながら、9月8日の未明、我に抱かれてついにその最後のときを迎えたのだ。
 あの3.11からの6年間は、我と母にとって、癌からの復活と再生、そしてまた癌が再発してなす術もなく死んでしまった歳月である。
 その6年間の日々を振り返るとき、その先に癌再発と死が待っていたならばもっと有意義に、大事に大切にすごせば良かったのにと思う反面、そうした死の怖れや癌のことは忘れて普通に生きて日々暮らせたのだからそれはそれで良かったのではないかとも思える。
 ただ、長いか短いかはわからないが、その6年間で、母は一度は手術によって運よく生きながらえ、そしてまた再発した癌によって結局殺されてしまい、もう今はこの世のどこにもいないということだ。その無常を思うときただ涙が溢れてくる。

 我はその6年間に、親しいとても大切な年下の友を二人喪い、その他にも大事な人たちを何人か失った。そして今、父を、長く共に暮らしてきた老犬を死なそうとしている。
 嗤われるかと思うが、ようやくこの歳になって初めて人生とは何か、どういうものなのかわかってきた。ようやくその本質が見えて来た。
 人生とはどうしようもない、思い通りにならない現実と向き合う事だったのだ。哀しみと忍耐を抱えながら。

 それまで我は存分に思い通りに人生を生きてきていた。人生とはそんな楽しい好き勝手に生きられるものだと思っていた。そう、あの3.11の少し前までは。母もその前の年の夏頃まではものすごく元気だった。それが癌を患い、幸い外科手術によって一度は癌を克服し復活できたもののこの6年目の3.11には、母はもはやこの世のどこにもいなくなってしまった。

 大震災で家族を、大切な人を失った人たち、家や仕事、故郷すら失ってしまった人たち、彼らにとっては我のこんな感慨はあまりに卑小すぎ嗤われ叱られることであろう。彼らのご苦労や哀しみ、辛酸を思うとき、我の哀しみ、辛さなど何ほどにも値しない。
 が、誰にとっても歳月は平等に流れるとするならば、この6年の年月は幸福があった分だけただ痛恨と悔恨の極みだとしか思えない。母はそれだけ「おまけ」として余分に生きられたのだから幸福だったと思いたいしそう考えるべきだと頭ではわかっている。
 悔やむ思いが今も強く思うのは、その先に死があるのだったらもっとしっかり大事に生きなければならなかったのに、想定もせずに過ごし、いきなり癌にHOLDUPを突きつけられ、なす術もなくあたふたしてるうちに命を奪われたからだろう。
 人生とは誰にとってもそうした予期できない、思い通りにならないものなのであった。全てのものに終わりの時がくる。それは必ず訪れる。今さらながら学んでもすべてが遅い。

 おそらく誰にとっても3.11という日が来るたびに、程度の差はあれども哀しみと苦い思い、辛い痛みを覚えることだろう。復興が成り、荒廃した風景は消えようともその日を思い哀しみに向き合うことこそが人生に対峙すること、人生の核となる大事なことなんだと我は思う。そう、辛くとも受け入れて嘆くことより前を向いて一歩でも進んでいくことだ。

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