ブログ再開、まず近況から2017年03月27日 10時51分08秒

★この一週間の経緯と今の思いを

 冷たい雨が降り続く。桜咲くの知らせも届くのに、昨日は終日雨は降り続いていた。朝方はみぞれとなるぐらい寒い一日だった。
 今朝になってもまだ雨はしとしとと降っている。月曜の朝となった。

 ずいぶん間が空いてしまったが、ブログ再開する。
 と、書くと何だかエラソーだが、「再開します」という、~です、ます調で書いていると、どうにもまどろっこしく、思うようにうまく書き進められないのでどうかご理解願います。いや、願いたい。
 これが我が文体、頭の中の仕組みなのだ。お許し下さい。

 いろいろご心配おかけしたかと思う。気がつけば、今月も今週で終わってしまう。2月も何もほとんどできずに過ぎ去ってしまったが、今月はもっとひどい、予定していた拙宅のイベント企画も中止としてしまった。先月よりも状況は悪化してしまった。
 その理由は、先にも記したが、ノロではないと思うが、感染性の腸炎ウィルスにまず父がやられて、次いで父が収まって来たかと思ったら、我にもそれが伝染り、吐いたり下したりと胃腸が弱り何も食べられなくなった。腸炎とは熱のない風邪だと言われるが、まさにその通りの絶不調であった。
 この26日に拙宅で人を招き予定していたささやかなイベントも迷ったが、まず参加予定者には連絡して了解を得て延期としてしまった。

 ただ、週半ばからは我も体調は回復して来て、ようやく昼間は食事もとれるようにはなったものの、我はその「感染性」、人に伝染するということを怖れた。むろんウチに来て、飲食いすれば確実にそうなるとは限らない。だが、父から我に伝染ったものならば、免疫のない方が来られたらどうなるかわからない。
 むろん掃除や衛生管理を徹底して、調理や料理提供には細心、万全の態度で臨むとしても「根本要因」は残っているのだから、慌てて当日に間にあうよう取り繕っても不安は強くあった。

 漱石先生よろしく、痛む胃や腸を抱えて布団の中であれこれ考えた。
 要するに、母の死以降、すべてがめちゃくちゃになってしまい、父の介護と犬たちの世話だけに追われて何一つ家のことはきちんとできなくなって我家はゴミ屋敷と化してしまった。
 そしてその不衛生の極み、挙句の結果として、ウィルス性腸炎を発症してしまったのだと。ある意味、今回の事態は起こるべくして起きたことだったのだと。

 元より、我家はご存知のように常に片付いてなく、そもそもモノが多いだけでなく整理整頓能力が住人に欠けていた上に、皆多忙だったから、準ゴミ屋敷化はしていた。
 しかし、母が生きていたときは、まだ根幹の部分だけはきちんと管理はされていた。むろん去年は春先から母の体調は悪化して来て、入退院を繰り返し夏前から自宅で寝たきりとなってしまったわけだから、家事全般、介護も含めすべて我がやっていた。
 断っておくと、母が元気な頃から、家のことは全て母任せにしていたわけではない。調理や買い物、掃除、洗濯など家事全般は我が担当して、八十代半ばとなった母は、その補助要員として、皿を洗ったり洗濯ものを取り込みたたんでしまったりと、分担してうまくやっていたのだ。そして各種税金などの通知や保険料など支払いなどの手続き、家計の全面的管理は母が主に担当していたのだ。我は買い物はしていたけれど。

 そうして老いた親子三人、約半世紀の長きにわたって、この地で、この家で、時にはいがみ合い喧嘩もし、犬猫たちと共に変わる季節を味わい、歳月を安穏と繰り返して来た。

 そして母が癌に倒れ愚かな我にとっては想定外の早逝をとげ、我家は92歳の父、還暦を迎える息子の男だけの二人暮らしとなってしまった。むろん母がいなくなってもこの家も人生も続けて行かねばならない。幸い、我は、一般的男性よりも炊事や洗濯などの家事能力は高いと思っていた。母亡き後でも一人でやっていけると思っていた。老いた父を抱えて。
 しかしそれは無理だったのである。

 晩年の母は、じっさいもはや何一つできなくなっていた。しかし、意識は死ぬ直前まで鮮明であったから、家事や金支払いのこと等、わからないことはベッドの母に訊けばすぐに答えてくれた。また、父との諍い、愚痴など些末なことでも母と話すことで、我は慰安を得ていた。
 母は動けず寝たきりとなってしまったけれど、我も父も母に常に頼り、我家の根幹を司っていたのは、母だったのだと今頃になって気づく。若い時から家事などろくにせず、外の活動に出歩いてばかりいた人であったが、実のところ、我家の運営管理は母がやっていたのだった。父がこんなに呆ける前は夫婦二人で、主に父任せにもしていたのだろうが、父が老いてトンチンカンになってからは、母がきちんと管理してくれていたのである。

 その母がいなくなり、我に全ての管理が任された。それまでの我が人生さえもきちんと管理運営できない者が、父も含めこの家全体の管理を委譲されたのである。そこに認知症がさらに進み体力的にも衰弱して来た父の世話という負担も増して来た。
 台所は汚れた皿がいっぱいとなり、洗濯物も溜まり、庭には不分別のゴミが山積みとなってくる。全てが混乱し収拾つかずしっちゃかめっちゃかになってしまった。もう何もわからなくなった。
 全てが後手後手で、探している物は見つからず、少しでも減り片付くならともかく、モノは溜まり増え続け、成すべきこと懸案のことは増すばかりであった。
 人が来るように嫌でも予定を入れれば、萎えた気持ちに鞭打って嫌でも片づけが進むかと、今年はイベントを毎月やっていくことにした。しかし、とりあえず、人を招き入れるスペースだけ造るが精いっぱいで、そうした「ショック療法」も解決策にはならなかった。

 父の世話とかで忙しいから、疲れているから、片付けられないというのは理由にはならない。言い訳にしてはならない。
 世の中にはどんなに多忙で時間がなくても綺麗にきちんと家庭を整えている人はいくらでもいるし我も実際に知っている。つまるところ我にそれができないのは、元から「片付けられない症候群」であり、そうした能力が欠如、もしくは足りないという事もあろう。
 しかし、それ以前に、いちばんの要因は、母がいなくなってしまったことだ。我は母に甘え依存していたと今認める。が、実際的家事は我がほとんどやっていたのである。それがどうしてできなくなってしまったのか。

 つまり、我家にとって、我にとって、核となるもの、棒のようなものがなくなってしまったからなのだと気づく。それこそが母であり、母はその存在だけで我家を、我を父を、支えてくれていたのだった。
 そのコアとなるものを失い、我は生きる気力、つまり「やる気」を失った。父はまだ生きているのだから、その手のかかる父と二人でこれからも生きて行かねばならない。
 しかし、母なしで、我一人で、父を、この家を抱えて行くことの重さに耐えきれないというのが、現実であった。
 父は糞尿を無自覚に垂れ流すようになってしまい、その不衛生から結果としてウィルス性腸炎を起こしてしまった。それもこれも或る意味自業自得である。そしてそれは起こるべくして起きた。このまま夏となれば、さらに事態は悪化して食中毒も起きよう。今回は大事に至らず幸いであった。有難いことであった。

 布団の中、痛む腹をさすりながらそんなことをつらつら考えた。危うく自滅するところだった。母がいなくなったからといって残された親子は自暴自棄になり、だらしなくした不始末から火事を出したり、不衛生から病に倒れていたのではあまりに情けなかろう。じっさい我は交通事故もしでかした。
 何とかここから立ち直らねばならない。ここで死ぬわけにはいかない。
 
 父はこの土曜から二泊三日でショートステイに行ってくれている。老犬も衰弱は進んでいるがまだ生きている。我も夜になると胃腸が痛みもたれて晩飯はほとんど食べられないしまだ腰痛も残るが、だいぶ体調は回復してきた。
 まだ死ねないしまだ死なないはずだ。大変でない人生なんてどこにもない。人生を投げ出さずに少しでも少しづづでもいい、やるべきことを進めて行こう。

 冷たい雨は降り続く。しかし、やまない雨はないし、また晴れてくる。生きていればまた良いこと、楽しいこともきっとあると信じて。

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