年年歳歳花相似たり2017年04月01日 23時26分37秒

今春の木蓮の花とブラ彦
★2017年、4月に入りました。

 新しい年度、今年も春四月が来た。今日は、また冷たい雨が降りそぼり、真冬の寒さであったが、今の季節、晴れればまさにぽかぽか陽気の花々が咲き乱れて春爛漫である。

 この写真は、約一週間前、そんな暖かい春めいた日の朝に、老犬ブラ彦と近所の木蓮の大木まで散歩に行き、撮って来た。木の下にいる黒い犬がブラ彦だ。

 この花は、母も好きで、元気な頃は奥まったその路地を通り、一斉に花開く白い大きな花を訪れ見上げては感嘆していた。
 だが、今年の春はその母はいない。去年の9月に旅立ってしまった。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という中国の古詩が思い浮かぶ。
 そう、花は毎年変わらず同じ季節に同じ場所で咲き誇る。しかし、去年までそれを観に来た人は今年はもうこの世にいない。そしてこの日は、まだよたよたながらも歩けた老犬ももう今日は、死に瀕している。
 抱いて庭先まで連れ出せば自ら小便はするものの、もう何も食べず衰弱してほとんど歩けなくなってきた。まだ体は暖かいが、抱けば骨と皮で、片手で持ち上げられる軽さになってしまった。

 今日、4月1日は、まだ生き永らえたが、果たして明日はどうかわからない。何を与えても食べ物は食べないどころか、無理して食べれば吐いたり下痢をしてさらに苦しむ。体が水以外もはや何も受けつけなくなったのだ。
 だが、水しか飲まないのにまだ必死に体を起こして、小便だけは外で自ら四足でふんばってしぼり出すしてくれている。何も食べていないしもう骨と皮なのに、どこにまだ体力、生きる気力が残っているのだろうと感心している。
 生き物というのは、いや、生まれて生きて来た者は、その最後のときまでとことんがんばって精いっぱい生きないとならないのだと、犬から、動物から教えられている。
 動物は絶対に最後まで真剣に必死に生きている。我ら人間も同様に、どんなに辛く大変でも最後の最後まで諦めずに必死に、懸命に生きなければならないのであった。

 母も含めて、さまざまな死と死に行く姿から我は実に多くのことを学んでいる。死によって大切な者たちを奪われ失うことはものすごく辛いことだ。その死に行く姿を傍らで見ることは不安と恐怖で胸が押し潰されそうになる。
 しかし、これが現実であり誰にでも必ず起こり訪れることなのだから、逃げることも目をそらすこともできやしない。
 我はずっと臆病で、卑怯者で、嫌なことや辛いこと、面倒なことからずっと逃げ回って来た。そして、ことにおいては、それらを他者に、親たちに、人任せにしてきた。
 だが、もう逃げない。もう何も怖れないし、何も怖くない。愛する者を死によって失い奪われていくことに比べれば、この世の全てのこと、どんな辛い面倒なことでも屁でもない。
 
 老犬は間もなく死ぬ。犬を葬ったらば、我は真に新たな、新しい人生を始めよう。彼らが教えてくれたこと、無償の愛と生きる哀しみを常に心に抱きながら。

レコードコンサートは、4月30日に決定!2017年04月02日 23時59分51秒

★どなたでもお気軽に、レコードお持ちの方は持ち寄りください。

 先に、拙宅無頼庵で予定していたものの、諸般の事情から延期してしまった「レコードコンサート」は、今月末の日曜に順延開催が決まりました。
 今回は、参加費は無料として、レコードを聴くだけはお金がかかりません。ただし、懇親会費として、飲食された方は、五百円のみ実費を頂きます。

 拙宅マス坊の約数千枚のレコードコレクションの中から、レコード芸術の真髄に迫る名録音盤、希少盤、珍盤、ドーナツ盤など、アナログレコード盤の数々をできるだけ多く拙宅最良のシステムで再生いたします。
 おそらく今日では、かつてレコードはお持ちでも再生機がなかったり、面倒で埃をかぶったまま、あるいは既に処分してしまったという方も多いと思います。
 また、今の若い方々は、レコード自体、きちんと針を落としたこともない、手に取って聴いたことはないという方もいるかもしれません。
 そうした方々に、デジタルサウンドをイアホン、ヘッドホーンで聴くのとはまったく違う、アナログレコードで巨大スピーカーから直接鳴らす体験をしてもらえるかと思います。

 開始時間などは後ほどまたお知らせしますが、ぜひどなたでもお気軽にご来場ください。レコードも飲食物も持ち込み自由です。

死に行く者、死んでいった者たちから学び得たこと・序2017年04月04日 22時58分13秒

★長年共に過ごした愛犬を本日看取り送って

 声に出して泣いたのはいったいいつ以来のことか。今もまだ亡骸にすがって大声で号泣、泣き叫んでいる。

 老犬ブラ彦が、今日の午前11時35分に死んだ。もう18歳と半年。人間換算ならば107歳という超長寿なのだから、そこまで生き永らえたことを喜ぶべきだが、あまりに長く常に共に日々暮らして来たので、覚悟はしていてもその「死」に動揺は隠せない。
 今朝がたまで生きて暖かかった体も今は冷たく強張り、魂の抜け殻となっていまもまだそこにいる。明日、庭を片付けて、彼がいつもいた犬小屋の横、柿の木の下に埋めようと思う。彼の骸は、柿の木の栄養となり、毎年柿が実るたび、亡き犬のことを思い出すことだろう。

 たかが犬と嗤われる方もいよう。だが、我にとっては、その親たちの代からずっと青春時代の頃から今日まで共に過ごして来たまさに家族の一員であった。これで、ついに三代続いたブラ家の一族は終えてしまった。彼の祖母の代から数えれば約30年にもなろうか。

 先だって我が母が死んだ時も当然嘆き哀しみ心に大きな痛手を受けたが、そのときは何故かほとんど泣かなかった。あまりに突然だったことと、あれこれその後の事後処理作業が多くて忙しくて、ゆっくりじっくり哀しみにひたる暇もなかった。そのときも思い切りとことん泣けたらどんなに楽かと思った。ただただ泣いて、涙が枯れ果てるまで泣けたらどんなに良かったか。

 今日は、昼前にブラ彦がやっと死んで、その死を見届けてから泣き叫びながら糞尿に汚れたペットシーツを集めて捨てたり、まだ温かい体をウエットティシュで拭いて綺麗にして段ボール箱に収めたり、一人で涙をポタポタ落としながら彼の死んだ部屋、それは我が母が息を引き取った部屋を、声出して泣きながら掃除していた。
 そして今、外に出していた彼の骸を玄関に運び込み、改めて対面して、その死を実感、噛みしめている。我の生きて来た人生の半分が、今日で終わった気がした。それほどこの犬とは、我が人生後半、常にいつも共に過ごして来たのだ。

 冨士山にも御岳山にも一緒に登ったし、家族旅行は当然のこと、三重県のフォークイベントにもその親たちと共に一緒に連れて行った。臨海の赤旗祭りにも電車に乗って行ったし、拙宅のイベントでも二階に上がって来て皆に愛想を振りまいていた。来られたお客が帰られるときは一緒に駅まで見送りに。無頼庵のトレードマーク、アイドルでもあった。ウチに一度でも来られた方は、ああ、あの黒犬だと思い浮かべるだろう。

 もう十二分に生き、長寿を全うできたのだから、何も悔いも思い残す迷いはないのだけれど、それでもやはりすごく悲しい。痩せ衰えもはや冷たく固い亡骸に変わり果ててしまったことがどうにも辛く耐え難い思いがしている。
 ただ、彼は死ぬまで実にしぶとくとことん生きた。もう何も食べなくなって一週間が過ぎ、骨と皮になり、一昨日からは水すらもほとんど口にせず、自ら歩くこともできなくなてからも長くしぶとくしっかり生きた。

 もうだいぶ弱ってきたので昨日のうちに死ぬかと思い、覚悟もして、夜通し傍らに付き添い寝ずに様子をつききりで看ていたら、どっこいそのままいつしか夜が明け、やっと朝になってから苦しそうに吠えたり唸ったり鳴き叫んだり始めた。どこか痛いのか一時間以上も騒いだ挙句、ようやく静かになって、このまま大人しく眠る様に死ぬかと思っていたら、最後はまた一瞬苦しそうに暴れて胃液を吐いて、糞尿も出し尽くして、身体をそらして目をむいてようやく死に赴いた。11時35分。もう昼近くであった。弱ってからも実に長かった。
 我はただ声をかけて励まし感謝し身体をなすることしかできなかった。まさに大往生。そしてつくづく思った。老いて死ぬということはこんなに大変なのかと。これほど苦しむものかと。
 
 たかが犬だが、その死に行く姿に実に多くのことを教わり学び得た。母には申し訳ないが、犬も人もその死に行く姿はまさに瓜二つであった。人も犬もこうして死ぬのか、死とはこういうものかとはっきり理解した。
 
 老犬と老人の世話で一昨日からほとんどろくに我は寝ていない。母やブラ彦たち、死んでいった者たちから教わった、「死」と「生」とはどういうことなのか、を今晩ようやく深く眠って体を休めてから書き記しておきたい。
 母のときにプラスして老犬を通して、ようやく死ぬとは、生きるとはどういうことか、わかってきた。それはとりもなおさず「たべること」の大事さであった。そう、生きるとは「食べること」であった。そして食べるとは、明日もまた生きることに他ならなかった。

 人はパンのみでは生きないとイエスは説く。しかし、まず生きるためにはパンが必要なのだった。

加川良さんを偲ぶ。2017年04月06日 19時24分58秒

★慇懃と韜晦、そして孤高のシンガー加川良。

 昔なら深夜にかかってくる電話はたいてい誰それの不幸を知らせるものだったという気がするが、今ならば早朝、朝一でメールを確認して友人から届いていたメールもまた同様であった。

 今朝がた友人から届いたメールで、加川良さんの訃報を知った。詳しいことは朝刊にも載っていたから、拙ブログの読者の方は当然ご存知であろう。
 今日は一日、府中の免許更新所で講習受講の用事があり、朝から我は出かけねばならなかったのだが、ずっと一日中、時間あらば彼のことを考えている。我に彼のことを何か記す資格はないのだけれど、思い出すまま、良さんのことを偲んでみたい。

 古くからのフォークソングを愛好する方ならば、もちろんのこと加川良という名前は、故高田渡や友部正人、中川五郎に匹敵するビッグネームであろう。高石友也、岡林というファーストランナーたちは別として、彼こそフォークソングが当時の若者たちに広く支持され、シンガーたちが人気者となってきて来た頃、生まれた最初のスターであった。
 ともかく顔が良い、まさにハンサム、声も良く歌もうまい。そしてそのうたも実に巧みで、コミカルもあればシミジミとしていて若者たちの心をしっかりつかんだ。男女問わずファンになった。

 言うまでもなく加川良とは、芸名で、彼があまりにハンサムだったので、URCの秦さんだかが、加山雄三、長谷川一夫、池部良という、当時の美男子俳優たち三人の名の一文字をミックスして、彼を売り出すにあたってつけたとされる。
 大阪での春一番コンサートが、1971年に始まった頃、難波の喫茶店「ディラン」に出入りしていた音楽仲間たちの名前を福岡風太が記していたノートにも、彼のことは「男前」と、「通称」が載っているからナイスガイとして皆が認めていたのである。
 そんな芸名は、ほんまかいな、って気もするが、我も昔からそう誰それから聞かされて来たので、たぶんある程度は真実なのであろう。
 本名は、小斉で、URC時代からつながりのある、旧くから彼を知る音楽仲間たちは、今もよく小斉さんとか小斉氏と、彼のことをそう呼んでいるのを聞いていた。

 当時のフォークシンガーたちは、そもそも誰もが本名で唄い始めている。何しろ元々誰もが素人、アマチュアだったのだから。何故に彼だけ芸名かといえば、それは、彼が当時URCの関連会社、アート音楽出版の制作社員であったからで、レコード制作の現場で、小斉という名前は既にクレジットされていた関係上、シンガーとして新たに売り出すには、本名ではマズイという思惑が会社側に働いたのである。
 我が人づてにかつて訊いていたところによると、彼は元々アニマルズとか海外ロックバンドの曲を大学時代にボーカルとして演ってたそうだが、当時台頭してきた「日本語のフォークソング」には関心はなかったらしい。それが大学四年の時、就職先として、アート音楽出版に履歴書を送り偶然採用され「社員」としてURC、フォークソングに関わることになったのだ。
 まずそのことが他のシンガーと根本的に違っている。フォークソングがずっと好きで始めた人ではない。職場で上司でもあった、卓越したバンジョー弾き、シンガーであり、URCの屋台骨を支えた亡き岩井宏さんと出会い、彼からフォークギターの奏法や歌作りの方法を手ほどきされ、高田渡ら善き仲間たちとの関わりから啓発されて彼自らもいつしか唄いはじめ「加川良」のデビューとなるのである。
 
 ただ知る限り、その頃の彼の人気はものすごいものであった。中津川フォークジャンボリーで初ステージを踏んだ瞬間から彼の人気は爆発的なものになった。まさに伝説誕生。コミカルさに包んだ名反戦歌「教訓Ⅰ」は真に衝撃だった。
 その後に、よしだたくろうは、彼にすこし遅れて人気者となったが、ご存知の如く次々ヒット曲を連発し一般大衆にも認知される存在となっていく。我が子供の頃は、次代を担うのは、たくろうか加川良かと二人は双璧の存在で、新譜ジャーナルなど数多あるフォーク雑誌でも並んで常に大きくトップページで扱われ人気を二分していた。
 その後も拓郎は、歌謡曲シーンでも森進一らに楽曲提供で芸能界で存在感を示し、陽水、ユーミンらと共に、ニューミュージックへ時代が移行してもビッグネームであり続け、今も不動の人気を保っている。

 が、加川良はというと、その後も地道に音楽活動や好アルバム制作は続けて、しっかり根強いファンは沢山抱えてはいるものの、残念ながら今の人には、あの「教訓Ⅰ」の人という程度の浸透度のような気がしている。かつての人気を知る者として何故なのかずっと不思議であった。
 思うに、彼は、何らかの理由で人気を失ったのではなく、ある時点で、そうした人気者としての位置にいることに対して、意欲を失い競争から自ら「降りて」しまったのではないか。そのきっかけはわからないしあくまでも推測でしかないが。そして自らの「うた」だけに真摯に向き合い続けたのであろう。

 我が知るフォークシンガーの多くは、かなり酔っぱらいや人間的にヤンチャな人もいて、それがまた「うた」を離れて魅力的であり、それこそが人間味あふれる「フォークソング」そのものだとも思うのだが、良さんは違う。
 多くのファンを要してはいても常にきちんと一線を画して、ライブ後の打ち上げの席でも残った皆に丁寧な挨拶と感謝を述べて、いち早く先に引き上げることがいつものことらしい。打ち上げではだらだら飲み続けぐずぐずに崩れるシンガーも多い世界で、彼は特異な得難い存在だと訊いていた。
 慇懃というと慇懃無礼と続くが、彼こそは無礼さは全くなく、まさにいつもきちんと誰にでも紳士であり、非常に質の高いステージを見せてくれた。よそよそしい気もしたが、それこそが「加川良」であり、実像の小斉さんを我は知らないが、彼のステージを春一番などで見る限り、ああ良さんはいつまでも変わらなく実直で素晴らしい、これが加川良なのだと幸せな気分になれた。

 スタートは、他のシンガーたちとは異なっても、まさに彼こそが、ある一時期、日本のフォークソングを体現していた。教訓しかり、下宿屋しかり姫松園しかり、偶成しかり、まさしく彼は、ミスターフォークソング、真のフォークシンガーだった。あんなに擦り切れるほど聴きこんだレコードはない。
 好きなフォークシンガーは我にはたくさんいる。個人的に親しくなったりファンゆえ親しい関係になりたいと願うシンガーも多い。そしてそうした関係を幸いにも結べたシンガーも何人かいる。
 しかし、良さんは、加川良として、個人的に親しくなりたいとも思えない程、我にとって高みにいる人、遠く仰ぎ見る素晴らしい孤高の人であった。

 歌とはいったい何だろうかといつもよく考える。そんなとき、良さんがうたっている「下宿屋」がどこからとも流れて来て、「それがうたなんだ」と迷える我にいつも教えてくれた。
 やさしさとか真面目さとか、淋しさ、弱さも含めて、そうしたすべては歌とステージの中だけで、表現すれば良いんじゃないか。それ以上の関係は、歌い手と観客は築く必要はないのかもしれない。
 彼の素晴らしさ、弱者や疎外者をいたわるやさしさは、レコードの中にも溢れているが、何よりライブ盤に残されたステージ上の言葉の数々で十分に示されている。

 もうあの野太いどっしりとした、しかし軽やかな歌声、加川節と呼ぶような声は聴けないのか。もっともっと長生きしていつまでも唄い続けていてほしかった。
 フォーク界きっての人気者だった「加川良」はもういない。渡氏と岩井さんとあの世でまた「三バカトリオ」として活動再開であろう。
 今晩は彼のレコードに、久しぶりに針を落とそうと思う。ああ、加川良が死んだ。合掌

死に行く者、死んでいった者たちから学び得たこと・12017年04月08日 21時57分59秒

★死んでいくのも実に大変なのだ、と知る。

 4月8日、土曜日の夜である。
 約20年、共に過ごした老犬ブラ彦は、5日の午後、彼が暮らしていた犬小屋をどかした跡地、柿の木の根元近くに深い穴を掘って埋めた。
 この秋、柿の木にたくさん実がつけば、それはブラ彦が姿を変えて我らの元に還って来たと思いたい。淋しくないよう、我は伸ばしていた髪をほぼ全部その場で切って、彼の遺骸の上に撒いて入れた。
 先に母を喪い、愛犬を今また送り、あと残すは父だけとなって、我が心の中、ぽっかりと空いた穴はますます大きくなっていく気がしている。その穴をどうやって埋めたらよいのだろう? 我はまたAmazonで、タイムセールで安くなった、しょうもない買い物に精を出している。

 母のときは、死なせた後、痛恨、悔恨の思いしか残らず、それは今も我をずっと苦しめているが、ブラ彦の場合は、死んだ哀しみ、いなくなってしまった淋しさはひしひしと感じはしているものの、悔やむ気持ちは幸い何もない。
 人間でいえば百歳を超すまで生きたということもあるけれど、最後の最後までできるだけのことはやって、死を看取ったという思いからか、もはやいない「不在」の淋しさ、空虚感はあっても、悔恨の苦しみはそこにない。

 死の前々日、ブラは何も食べなくなって何日も経ち、水さえもほとんど飲めなくなった日は、日曜だったこともあるが、その日、米軍機も飛ばず外も心も静かに平穏な一日を迎えられた。
 充足感とか、満ち足りたという心境とは違うが、久々に落ち着いた何も心騒がない、揺らがない静謐な心持になれた。そんな心境はいつ以来のことだか思い出せない程だ。
 今思うに、それは「死」を受け入れたゆえであろうか。母のときは一度もなかった気持ちであった。

 繰り返し書くが、母のときといい、犬のブラ彦の場合も、その死に行く姿は種族は違えど全く同じであった。
 母のときは癌という進行性の病が根源にあって、それが肥大し、母の栄養、体力をじょじょに奪って、痩せ衰えしだいに食事もとれなくなった。痩せ衰え家に入れた介護ベッドに寝たきりとなった挙句、栄養失調で浮腫みも出、最後は、まさに骨と皮、精根尽き果て、何も食べられず下痢も止まらず水を少し飲ませたら苦しがり我が抱きかかえたまま死んだ。救急車が駆けつけた段階で心肺停止と宣言されたのだ。

 犬のブラの場合は、特に病気は何もなかったが、あまりに長生きしたので年明けから少しづつ食べる量が減って、飼い主としては、あらゆる高齢犬用食材を手を尽くして買い求め、何ならば食べてくれるかと工夫して与えたけれど、最後は何をやっても食べなくなった。無理して食べさせても後で吐いて戻したり下痢したりするので、もう彼の身体自体が受け付けず消化できなくなったのだとわかってついに諦めた。
 そして母のときと同じように、骨と皮、触ればゴツゴツとした干物のようになって、何も食べなくなってから一週間生きて死んだ。水すらもほとんど飲まなくなってからも三日生きた。

 水も飲まなくなってきて、抱きかかえて小便に連れ出しても後ろ足が麻痺して歩くこともできなくなったので、もう長くないと覚悟したのが3日の火曜。その晩のうちに死ぬかと思って、彼が寝ている四畳半の板の間に、我もシュラフ敷いて寄り添って寝たが、日付が変わっても時々苦しそうに騒いでもまた収まってなかなかそのときを迎えない。
 何度か胃液を吐いたり、軟便やオシッコを横になりながら垂れ流しはしても荒い息しつつまだ生き永らえている。一晩中、苦しそうな彼に声をかけ、撫でてさすってやって、ときおりこちらもうつらうつらして朝を迎えた。8時頃から苦しがって吠えたり唸ったり時に身体を起こして暴れ出し、一時間以上もそうした状態が続いた。どうしたらよいものか困惑し、我もさすがに、天国の母に、どうか早く安らかに、ブラを迎えに来て来てくださいと祈るしかなかった。

 それから苦しさは過ぎ去ったのか、しばらく静かな寝息を立てて眠り続け、このまま安らかに死ぬのかと思っていたらば、一たびまた胃液を絞り出すように吐いて糞便を出し尽くし、苦しげに身体をのけぞらして白目をむいて叫んでついに静かになった。もはや昼前であった。
 我はただ痩せた体を抱きしめてやさしく撫でて、長い間、ご苦労さん、ずいぶん生きた、ほんとうにありがとう、またこの家に生まれ変わって会いに来て、と慰撫することしかできなかった。
 まさに大往生であったかと思う。晩年の彼は白内障で、目も白く濁ってしょぼしょぽになっていたが、死んだ横顔の目は、不思議にぱっちり綺麗に澄んでいた。精悍であった。我は何より死ぬまでのがんばり、しぶとさ、この生命力の強さに感心、感嘆させられた。
 そして思った。死ぬとはこれほどに大変なことなのかと。死ぬまでがまさに一苦労であった。

死に行く者、死んでいった者たちから学び得たこと・22017年04月09日 07時37分11秒

★死にはそこにどんな意味があるのか

 先に母を看取り見送り、そして今またほぼ同様にして愛犬の死を看取って「死ぬ」ということはどういうことか、ようやくはっきりわかってきた。
 いや、死自体はこれまでも何度も遭遇しているからおおよそどんなものかは理解してるつもりだった。が、その実質的「意味」は何一つわかっていなかった。

 人の場合、この世に何もなかった段階から、あるとき受精して母体の体内に宿り、胎児となり赤ん坊となってこの世に生まれて登場するまでだって約10カ月もかかる。
 しかもその赤ちゃんはまさに非力で、自らでは何一つできず生きていけやしない。馬や鹿たちの類のように、生まれてすぐに立って乳を吸うなんてできやしない。その母や周囲のものたちの手厚い介護があってはじめて生きていけるのだ。
 そしてそれからでも身体がほぼ成体となるまで10年以上も時間を要する。自ら一人で社会的にも生きていけるのには、最低15年はかかるのである。

 そして成人し社会に出て、やかでは結婚したりそれぞれ家庭を作りまた自らと同様に「子」をつくり育てたりする。そして人間関係も含め有形無形のものが膨大にその人の周りには増えていく。食物はさほど持たなくとも衣類、住居など生活に関する物は人生の長さに比例して増え続けていく。
 元々、一番最初のスタートの時点では、何一つ持たずに、完全に無力で生まれて来た者なのに、いつしか膨大な物と関係たちを抱えている。
 「死」とは、そうした増え続け、抱え過ぎた物ものを全て放棄し失うことであり、また元の状態へ戻していく作業だったのだ。そう、元々何もなかった状況へ、何一つ持たずに生まれて来た身一つの状態へと。
 死の苦しみ、死に至るための心身の苦痛とは、そうして元に戻す、生きていく間に溜まったもの、蓄えたものを失くしていく作業ゆえ苦しいのである。

 人と違い犬猫なんて、数か月で生まれて人間の四分の一程度の長さしか彼らの「人生」はないと思える。が、彼らだって何も生涯持たずとも、飼い主である人間との長い関係を積み上げていく。
 特にブラ彦のように、進行性の病はなく、ただ単に長寿の末に老衰死を待つだけであってもなかなか簡単には死ねなかった。
 じょじょに食べられなくなり、骨と皮と化しても、体内に残っている栄養素、生命エネルギーを完全に空にしない限りいつまでも心臓は動き呼吸は止まらないのであった。
 母の最期もそうであったが、完全に命の素を空にして、すっからかんにしないとあの世には行けないのである。そのために胃液を吐き糞便を出し尽くしすべてがまた無に戻したときにやっと臨終となるのであった。
 むろんのこと、この世には事故的突然死も数多存在する。病気でも心臓や脳に突発的ダメージを受けて脳梗塞、心筋梗塞といった病で、急死する人だってかなりいる。
 しかしそういうケース以外は、老いても老いなくても病や老衰によりじょじょに痩せ衰え最後は、全機能がダメになり命が尽きてついに、必然的に死ぬのであった。
 ようやくそのことがわかった。

ただ世界の終わりを待つだけでなく2017年04月13日 17時34分40秒

★セルフネグレクトという緩慢な自殺

 この何日かどうにも調子悪くて、このブログ更新できないでいた。
もし心待ちにしていた方がいたならば申し訳なく思う。
 無理して書きだせば書けない事はなかったのだけれど、気持ちが落ち込み、書いても死んだ者たちの思い出や愚痴の類になるばかりで、書かねばと思いつつもどうしても書けなかった。
 ただ、このままだとこのブログも自ら放擲してそのまま、ほったらかしにしてしまいそうで、無理して書き出している。
 どんなことでも始めたからには、終わらすとしたらそのケジメはつけないとならないわけで、「自然消滅」にしてはならないのであった。

 セルフネグレクトという言葉があるそうだ。日本語にすれば、自己放任とされている。が、我はあえて「自己放棄」と意味づけたい。
 長くなるが、ネット上の事典ではこう説明されている。
 
●セルフネグレクト  出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

 生活していくのに必要な行為を行わない、あるいは行う能力がなく、そのために生活環境や健康状態が悪化しても、周囲に助けを求めない状態のこと。認知症などで判断力が欠けていたり、近親者に先立たれたなどの理由で生活意欲が低下していたりといった意図しないでそのような状態になっている場合と、本人自身の意思で意図的に自分を見放している自己放任の場合とがある。
 セルフネグレクトの具体例としては、自宅にごみを溜め込んでいる人、窓や壁に穴が開いていたり構造が傾いていたりする家にそのまま住み続けている人、汚れた服を着替えなかったり、失禁しても放置していたりする人、認知症などの病気があっても治療や介護を拒否する人などが挙げられる。社会的に孤立しがちな1人暮らしの高齢者に多いとされるが、セルフネグレクトに陥る原因は様々であり、必ずしも高齢者だけにみられるとは限らない。
  認知症やうつ病といった精神的な病気以外の原因は、同居の配偶者や親に先立たれ近隣との付き合いも薄れて孤立したり、なんらかの理由で仕事を失ったり、糖尿病などの慢性的な病気が悪化し身体を動かすのがつらくなったりなど、多岐にわたる。自分の置かれた状況をセルフネグレクトとして自覚している人がほとんどいないため、行政や隣近所に支援を求めることもなく、問題が明るみになっていない事例は多いと推測されている。《以下略》

 自宅もあり、ある程度の資産もあるのに、病気とか失意な事件をきっかけにして、何もかも気力や関心を失い、ネグレクトして自分の人生を「放棄」してしまう。住まいはゴミ屋敷と化し、やがて孤独死しているのを発見されて事態が明らかになる。ある意味ゆるやかな自殺である。
 そうした事例が紹介されている記事を何かで読んで、ああ、これは俺のことだと思った。

 先にも書いたと思うが、今じっさいのところ、もう何もかもが片づかず、家はどこもかしこもしっちゃかめっちゃかになってしまい、すべてが身動きとれなくなっている。
 むろん、晴れた穏やかな快適な日は、気分も晴れて何とかせねばと思い、がんばろうと思う。しかし、一昨日のように終日冷たい雨が降り続いた日は、何もする気が起きないどころか父の世話だけに追われて心身とも疲弊してしまうと、もうこのままダメかもしれない、という気持ちになってくる。
 しかし、老父がまだ生きているし、その世話は我一身が担っているのだから、どれほど辛くとも面倒でもこのまま「放棄」するわけにはしたくてもできやしいない。

 新年度となり、様々な更新手続きやら支払う金はたくさんある。そうしたやるべきこともますます山積している。金を工面して何とかそれを乗り切るだけで精いっぱいというのが正直なところで、もうへとへとである。
 そうしてこれからも我は生きて行かねばならないわけだが、母も愛犬も既に亡く、かつてはそこにあった生きていく「よすが」というのか、生き甲斐とか生きる目的とは違う、何か一本大きな大事なものがそこになくなってしまい困惑している。

 以前は、親たちと犬猫たちに加えて、我には音楽などの「趣味」とその関わりの仲間たちがいた。
 が、今は、音楽活動を再開したくても仲間として参加する者はなく、ライブなどの企画を立てるのも我が状況が安定せず動きがとれない。父の体調を伺いつつ、父がお泊りの土日とかに一泊で、山梨の倉庫に出向くのが唯一の息抜きで、平日は父がデイサービスに行っててもなかなか都心まで足を伸ばすこともできやしない。
 結局、Amazonなどのタイムサービスで、届いてから冷静に考えれば今すぐ必要でもさほど欲しくもないCDや日用雑貨などを、クリックしまくっている。そうして母が死んで少し入って来た保険金などの「遺産」を喰い潰しているのである。

 今、ともかく願うのは、何でもいい、何か熱く夢中になれるものが欲しい。出会いたい。それは恋愛でもいいし、ギャンブルでも宗教でもかまわない。そのことを考えただけでわくわくドキドキするようなモノゴトと出会いたい、それが欲しい。
 が、それは「物」ではない。どれほど欲しかったものでもモノは既に手に入れてしまった時点で、既に意味も価値も失ってしまう。ならばこそ、何か熱中できる、何もかも忘れて集中できる、頭いっぱいになる真剣に向き合える行為に出会いたい。

 今の日本人は皆お気楽だから、気がついていないだろうけれど、間もなく世界大戦となるかはともかく、極東でも戦争が始まる。核弾頭ミサイルの発射ボタンを握った狂人同士が、「あらゆる選択肢を除外せず」突発的に先制攻撃を始めるであろう。
 そのとき、どこが狙われるかと言えば、まず東京、極東にある米軍総司令部のある軍事基地横田であり、そこから僅か数キロにあるのが我家なのだ。誤差の範囲である。
 米軍基地内だけの被害ならともかく、基地周辺も間違いなく戦禍に見舞われて我が家も大きな被害を受けるであろう。たぶん我はそこで死ぬ。
 洪水は我亡きあとに起これ、などとは思わない。もう死ぬ覚悟はできている。が、情けないのは、世界が終わるのをただ待つだけでなく、それに対して抗議や怒りの声を上げることができないことだ。

 今朝がたは、下の部屋から我を呼ぶ死んだ犬の鳴き声がした気がして目覚めた。起きてから、ああ、ブラはもう死んで一週間、彼は冷たい土の下なのだと思い至った。しかし、かつてのように早朝には外に出たいと鳴くキュウキュウ声が浅い夢の中でしているし、夕刻には、外で、夕方の散歩をせがみワンワン吠える声が聞こえた気がする。

 とりとめのないことを記している。しかし、自らネグレクトしないためにも、何か熱くなれるものと出会うためにもともかくブログは何であろうと書き続けていこうと今は思っている。

人生をもういっぺんやり直していこう、それはできる、きっとかなう。2017年04月14日 18時53分51秒

★自己放棄しているヒマなどない。

 昨日のブログで自らを、セルフネグレクトだとカミングアウトしたらば、気持ちは楽になって来た。どんな病気でもそうだが、その「病気」がわかりそれを自認した段階から快方に向かうわけで、それが「病気」だとわからず、あるいは本人が認めない状態こそ、救い難く治らずさらに悪化していくのである。
 これは我思うに、PTSDがもたらした一種の鬱病であり、まず自分でもそうした病的状態であることを知り認めて、無理せずに付き合っていくしかない。一気にすぐは治せない。そう、病気なのだから自らを責めたてても仕方ない。
 このまま転げ落ちるように自滅していくという道も選べるが、たぶんまだそうならないと思えてきた。死ぬのだってけっこう大変で苦しむのだから。何度ももうオレはダメかと思ったが。
 父がまだ生きているからでなく、我が裡に、自分が自分であること、自分でしかないこと、神と芸術=音楽に生かされ、末席ながらもそれに仕える者として、まだ成すべきこと、関われることがあるのではと思えて来た。
 どうしようもない自分とそのどうしようも人生だけれど、それもまた他者とは違う、自分だけの特異なものであるし、世間から見れば呆れ果てられ信じられないような生き方であろうとも、それはそれで大切にしていきたいと思う。

 もうすぐ我は還暦となる。還暦とは、12支が5回巡り、一度そこでゼロとなり、また再スタートとなることだと我は考えている。その新たな新人生がどのくらい残っているのかはわからないけれど、もいっぺん1から新しくやり直していこうと思う。父の歳まで生きられれば幸いまだ30年も残っている。
 むろん肉体の状態はさらに悪化して老化や病でそのうち動けなくなるだろう。今だってもうだいぶガタ来ているのだ。しかし、まずは六十代、本格的な高齢者になる前に、10年、とことん真剣に、成すべきこととやり残したことをやっていこう。
 ゼロになると言っても赤ん坊に戻るわけではない。知識も力も衰えつつもまだ我が手の内にある。人間関係もある程度は拵えてきた。若い時よりも良くなっていることだって少なくない。
 頑張れるはずだし、頑張らねばならない。
 さあ、人生をもういっぺんやり直していこう、それはできる、きっとかなう。

もうネグレクト、しない、させない。2017年04月15日 23時27分38秒

★久々にギンレイで映画を観た話。

 週末である。桜はお花見にはやや峠を過ぎ、葉桜の候に向かおうとしている。飯田橋のお堀端も、近所の玉川上水も、流れる水には桜の花びらが白くいっぱい散って漂っていた。

 思うところあって、ともかく何事においてもセルフネグレクトせずに向き合っていこうと決意した。むろん意志薄弱の我のこと、一気に完遂はできっこない。が、どんなことでも逃げずに、面倒に思わず自堕落にならないよう、一つ一つ少しでもやり続けていこうと決めた。
 そう、このブログも、我が残りの人生も。その日、そのときが来るまで拙くともどれだけ成果を上げられるかだ。もう、誰にも頼らないし、いや、頼れないし、求めない。期待もしないし任せない、任せられない。
 妻子なく、友も少ない一人者ゆえ、すべて頼むはこの非力な我が身一つなのである。

 さて、昨日は、朝8時半に、父をデイケアに送り出してから、我も大急ぎで駅に向かい、都心へと向かう電車に乗った。ラッシュ時はやや過ぎていたが、新学期ともあってやたら学生らしい若者が多く、そんな時間に中央線に乗ったは何十年ぶりのことだろうかと感慨があった。
 これでも学校を終えた頃は、ほんの一時期だけど、都内渋谷区恵比寿まで、毎朝電車で一時間半もかけて「通勤」していたのである。もう30年、いや、40年近くも前の話だが。我にもそんな元気な頃があったのだ。

 昨日の目的は、飯田橋の名画座ギンレイホールの会員カードの更新が目的で、この4月の頭で一年間のシネパスポートの期限が切れてしまっていたのだ。切れても一か月以内ならまっさらに失効しないので、早く行かねばと気になっていた。
 で、ついでに、9時50分からの初回から2本上映中の映画を観て来た。一万円+消費税払ってギンレイの会員になれば、そのパスポートがあれば、そこでかかる映画は一年間は見放題なのである。

 が、去年は、やはり春に更新はしたものの、母の具合が悪くなって、ほとんど観に行けなかった。都心に出るどころか、駅まで、電車にさえ乗れなかった。犬の散歩と近所の買い物以外は、何ヵ月もひたすら家に閉じこもり母の介護に追われていたのだ。母が死に秋になり、女友達の結婚式に出るため久々に電車に乗ったのだった。
 昨年度は観たのは、ほんの1~2本ではないかと思う。それでは一万円出して会員になってても元もとれていない。

 今年もどうしようかと迷うところも実はあった。まだ父のこともあり、会員になってもろくに通えないのならもはや無駄ではないかと。しかし、今回で14回目の更新だということは、もう15年間もギンレイに通い続けて来たわけだし、今や不振の映画館興行を支援するためと、そうした関わりを断ってしまえば、我はもう映画など自らは観に行かなくなると思い、金を工面して今年もやっと更新したのであった。
 そのシネパスポートがあれば、友人を誘えば、その人も千円で同伴入場できることも大きい。今年こそがんばって、映画館でたくさん映画を観ようと、これ以上ネグレクトしないためにも決意して朝から出かけたのだ。

 では、何を観たのかというと・・・。
 一本目は、スウェーデン映画『幸せなひとりぼっち』、もう一本は、カナダ・ドイツ合作の『手紙は憶えている』の二本立て。
 スウェーデンのほうは、知っている俳優は一人もいなかったけれど、ギンレイが配布している上映スケジュールを記した「ギンレイ通信」に載っている粗筋では、「気難しく頑固者の中年男オーヴェ。愛する妻を亡くし会社もクビになって自殺を図るが、隣にある一家が引っ越して来て・・・ 周囲とぶつかりながらも自らの正義を貫き、徐々にこころを開いていく不器用で孤独な男の悲哀をユーモアを交えて描いたヒューマンドラマ!」
 『手紙は憶えている』のほうは、役者が凄い。クリストファー・プラマー、マーティン・ランド―、そしてブルーノ・ガンツという老名優勢ぞろいで、粗筋は、「最愛の妻の死を覚えていられないほど物忘れがひどくなった90歳のゼブ。ある日、友人のマックスから1通の手紙を託されると、そこには、ある約束が記されていた・・・ 1通の手紙だけを手がかりに家族を惨殺したナチスへの復讐を誓い人生をかけた旅に出る本格サスペンス!」と紹介されてある。

 久々に劇場で観た映画は、どちらも堪能できたが、その両方とも最愛の妻を癌で亡くしたばかりの訳アリの老人が主人公で、我が父のこともあって不思議な偶然に驚かされいろんなことを見終えた後も考えさせられた。
 そのことについて、特に老人性痴呆症、認知症について我の考えを記しておきたい。続きで書いていく。

久々にギンレイで映画を観た話・続き2017年04月16日 22時34分07秒

★認知症で記憶は続かなくなっても、記憶の全て、アィディンティティまでは失われないのではないか。

 今日も晴れて穏やか。暖かい南風が吹いて日中は汗ばむほどの陽気となった。まさに春風駘蕩、晩春の一日であった。
 父は、昨日土曜から一泊二日で、近くの民家型デイサービスにショートステイでお泊りしてくれたので、我は片付け作業しながら久々に音楽かけたり、マイライフを少しは楽しめた。そう、春の一日、久かたぶりにのんびりできた気がする。
 介護を要する者と暮らしていると、いつ呼ばれるかわからず、また、階下の物音にも注意せねばならないため、音楽を鳴らすことすらできやしないのだ。

 父が不在で、何も煩わされず根詰めて自分のことに少しは向き合えたので、鬱的気分はだいぶ軽くなって来た。何であれ、どんなことでもかまえずに、投げ出さずに少しつづでも進めていこうと改めて思った。
 これまではこのブログも書くからにはきちんとした、内容あるしっかりしたものを、と、これでもそう考えて続けてきたが、これからはもっとユルく、とりとめのないことでも気軽に書いて行くことにした。

 我は、こんなだらしないテキトーな性格なのに、実はヘンに完璧主義の一面もあって、何かをやるからには、完全完璧にしないと気が済まないところがある。
 しかし、そうなると何事も大変になるわけで、おいそれとできっこない。何であれ常に気が重く憂鬱になったり、面倒に思えて、なかなか取りかかれない。結果として最良、最善のものになればまだしも、結局、大方「完成」に至らず、中途で投げ出したような状態になったままストップしてしまう。
 我としては、いつかはきちんと完全なものにしたいという気持ちは常に変わらず今もあるのだが、結果としてその状態は、ネグレクトしたそのものとなり、他人が見れば自縄自縛、自暴自棄していると思われても仕方ない。
 ならば、たとえ甘くユルく不完全なものであっても、もっと気軽に、大変とか面倒に考えず、何事でも少しづつでもやっていけば、そのほうが生産性、処理能力が上がるのではないか。
 というわけで、あまり内容のない、とりとめのないこと、結論のないことでも拙ブログで書いていくことにしましたので、ご容赦ご理解願いたい。

 さて、久々にギンレイで観た映画の話であった。
 偶然だが、二作とも妻を亡くした問題ある老人が主人公の話で、スウェーデンの映画のほうは、自分だけが常に正しく、他人どもは皆バカばかりだと蔑む、世間から孤立した狷介な性格の老人が、ご近所さんたちの底力で、いつしか心も和らぎ、最後は最愛の妻が待つ天国へ旅立つという優れたヒューマンコメディで、我はほろりとさせられた。その世間と常に相いれない独善性、独りよがりこそ我が父も同様であり、社交性の欠如した男の年寄りの悲哀を、国は違えど巧みに描いて本国のみならず世界各地でヒットした作品らしい。観る価値があった。

 で、もう一本のほう、『手紙は憶えている』、原題は「REMEMBER」であるが、90歳のユダヤ人、それもアウシュビッツ収容所の生き残りという設定の老人が主人公で、彼は、認知症がかなり進んでいて、妻が死んだことすら朝起きた時は記憶にないのである。
 そんな男が、今、暮らしている高級老人ホームで出会った、かつての収容所仲間の男から託されて、彼らが収容されていたアウシュビッツのブロック長であったナチスの高官が逃亡し、名を変えて今も米国内に暮らしているはずだから、ホームを抜け出してその男を探し求め殺しに行くのである。
 ただ彼は認知症もひどい故、ひと眠りするとその「使命」も今いる場所もすぐに忘れてしまう。何をするか記された手紙を読み返しては、よたよた歩きながら懸命に同姓同名の四人の容疑者を次々訪問していく。その中の一人が今も逃亡しているナチス戦犯なのだから殺さねばならない。

 認知症で記憶が続かない90歳の「殺し屋」という設定はどう考えてもギャグであろう。が、名優クリストファー・プラマーは、老いた主人公の醜態、ときに何もわからなくなる彼自らの不安、その弱さ、銃を手にしたうろたえぶりも実にリアルに演じて、ついつい観客も彼を応援し引きこまれていく。
 そして四人目、ついに彼が探し求めていた、収容所の高官だった男をついに探しあてたのだが、ラストは意外などんでん返しが待っていた。
 ネタバレするので、ここでそれは書けないが、この映画の中で、認知症の描き方としてどうしても気になる点がある。

 我もこの映画の主人公と全く同様の認知症の老人=父と長年暮らしていて、この病気はどういうものかよくわかっているつもりでいる。
 認知症、それは老人性痴呆症と言い換えても大差ないと思うが、ともかく記憶が続かない。何もかもすぐに忘れて何度でも同じことを訊いてくる。そして説明訊いて、そのときは了解してもまたすぐに忘れてまたそれを繰り返す。特に直近の記憶、喫緊のことの記憶が続かない。そう、一晩眠れば常にまっさら、1から説明しないとならない。
 しかし、それは所謂「記憶喪失」という病気とは違う。認知症は、最近の、新しい記憶は続かないというか、「記憶」としてなかなか残らない。が、昔のこと、特に若い時のことはしっかり覚えている。むろん人間関係も含めて曖昧に、おぼろげになっていく。
 でも、その人の性格や生い立ちに関する部分の記憶、人格形成に関係する記憶、アイディンティティに関わることは最後の最後まで覚えているはずだと思える。

 もちろん、呆けの度がさらにもっと進んでしまえば、子や家族の名前も顔も誰だかわからなくなる。最後はまさに呆けて、全てが何もわからくなり痴呆状態となり、食事も自らとれなくなるし糞尿だって垂れ流しとなり、寝たきり、「廃人」となってしまう。しかしそうなる前までも人は、その人のアイディンティティの部分だけは最後の最後まで持ち続けているのではないだろうか。肉体は動ける段階でそれを失い、別の記憶を持つことはあるのであろうか。
 となれば、この映画のラストの「どんでん返し」は、無理があるし、単なるサスペンス、ミステリーとして蛇足だと我は考える。
 クリント・イーストウッドならば、ナチスの戦争犯罪には時効がなく、それを決して許さないと、認知症を抱え老体に鞭打って復讐に向かう老囚人の活劇娯楽作品に仕上げたと思うが、本作は名優プラマーの好演の分だけ納得のいかないエンディングであった。
 
 しかし、映画館で観る映画はどんなものであれやはり素晴らしい。映画から学び得るものの大きさに今回改めて気づかされた。これからも何とかうまく時間を作って今年は1本でも多くギンレイに通いたい。