年年歳歳花相似たり2017年04月01日 23時26分37秒

今春の木蓮の花とブラ彦
★2017年、4月に入りました。

 新しい年度、今年も春四月が来た。今日は、また冷たい雨が降りそぼり、真冬の寒さであったが、今の季節、晴れればまさにぽかぽか陽気の花々が咲き乱れて春爛漫である。

 この写真は、約一週間前、そんな暖かい春めいた日の朝に、老犬ブラ彦と近所の木蓮の大木まで散歩に行き、撮って来た。木の下にいる黒い犬がブラ彦だ。

 この花は、母も好きで、元気な頃は奥まったその路地を通り、一斉に花開く白い大きな花を訪れ見上げては感嘆していた。
 だが、今年の春はその母はいない。去年の9月に旅立ってしまった。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という中国の古詩が思い浮かぶ。
 そう、花は毎年変わらず同じ季節に同じ場所で咲き誇る。しかし、去年までそれを観に来た人は今年はもうこの世にいない。そしてこの日は、まだよたよたながらも歩けた老犬ももう今日は、死に瀕している。
 抱いて庭先まで連れ出せば自ら小便はするものの、もう何も食べず衰弱してほとんど歩けなくなってきた。まだ体は暖かいが、抱けば骨と皮で、片手で持ち上げられる軽さになってしまった。

 今日、4月1日は、まだ生き永らえたが、果たして明日はどうかわからない。何を与えても食べ物は食べないどころか、無理して食べれば吐いたり下痢をしてさらに苦しむ。体が水以外もはや何も受けつけなくなったのだ。
 だが、水しか飲まないのにまだ必死に体を起こして、小便だけは外で自ら四足でふんばってしぼり出すしてくれている。何も食べていないしもう骨と皮なのに、どこにまだ体力、生きる気力が残っているのだろうと感心している。
 生き物というのは、いや、生まれて生きて来た者は、その最後のときまでとことんがんばって精いっぱい生きないとならないのだと、犬から、動物から教えられている。
 動物は絶対に最後まで真剣に必死に生きている。我ら人間も同様に、どんなに辛く大変でも最後の最後まで諦めずに必死に、懸命に生きなければならないのであった。

 母も含めて、さまざまな死と死に行く姿から我は実に多くのことを学んでいる。死によって大切な者たちを奪われ失うことはものすごく辛いことだ。その死に行く姿を傍らで見ることは不安と恐怖で胸が押し潰されそうになる。
 しかし、これが現実であり誰にでも必ず起こり訪れることなのだから、逃げることも目をそらすこともできやしない。
 我はずっと臆病で、卑怯者で、嫌なことや辛いこと、面倒なことからずっと逃げ回って来た。そして、ことにおいては、それらを他者に、親たちに、人任せにしてきた。
 だが、もう逃げない。もう何も怖れないし、何も怖くない。愛する者を死によって失い奪われていくことに比べれば、この世の全てのこと、どんな辛い面倒なことでも屁でもない。
 
 老犬は間もなく死ぬ。犬を葬ったらば、我は真に新たな、新しい人生を始めよう。彼らが教えてくれたこと、無償の愛と生きる哀しみを常に心に抱きながら。

コメント

_ サクラブルー ― 2017/04/02 01時27分33秒

命は美しい、人も、動物も。そう思わずにはいられません。

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