これからのこと2017年06月14日 06時45分03秒

★父との生活、今後の方針など早朝に思う

 政治状況はさておき、これからのこと、今夏の予定や今思うことを我がためにも記す。
 さすがに梅雨入りしてからこのところ曇り空、断続的に雨が降る梅雨らしい天気が続いている。梅雨寒という言葉通りおまけにうすら寒い。老人のいる身としてコタツを片付けないで良かったと今思う。
 一度でも汗ばむような夏日を体験してしまうと、外気温が20度もない朝晩はTシャツ姿や夏の格好ではいられない。

 我が父はこのところ寒い寒いと騒いでいて、また肺炎になりかけかと熱を測れば、37℃はないものの限りなくそれに近い。
 葛根湯を飲ませて夕食後はできるだけ早く寝かせて、幸い朝は熱がないのでデイケアやデイサービスに行ってもらって助かるが、果たしてこれからどうなるか。
 昨日火曜は、父がそのデイケアから戻って、晩飯のしたくしたら日比谷野音の集会に行けたらと考えていた。が、そんなで寒いと騒いでいるので出かけるのは諦めた。やはり父が家にいる限り、基本我が事は何もできない。朝起こして、着替えさせ食事摂らせて介護施設に送り出し、また夕方早めに迎え入れ夕飯用意して食べさせて寝かしつければもう10時頃。それからが「我が事」に専念できるマイタイムとなるのだが、何か体調ももう一つで、疲れが癒えずこのところ無理せずに早めに床に就いている。

 夜ではなく、父が日帰りでもデイケアに行っている間に精力的に自らのことを進めれば良いのだが、何故か必ず短時間でも昼寝してしまう。父の深夜、明け方の徘徊は先に記したあれきりだが、我の気が休まるのは、父がこの家にいないときだけなので、父をデイケアに送り出すとつい気も緩み、疲労感から眠くなってしまうのである。
 そんなで父の介護と日常生活の雑事に追われて今月も半月が過ぎてしまった。このままではすぐに夏が来、秋となり、また寒くなり一年が終わってしまう。何も果たせないうちにそれだけは避けたい。
 ようやく焦りと少しは今後の予定も見えて来たので計画立てて気合い入れて進めていくしかない。

 父が約三か月もの入院生活から退院し家に戻って来たのが去年の7月2日であった。それから間もなく一年となる。
 その頃は、母は癌が進行していたが、まだ元気で自由にどこにでも行けてこの家で普通に生活していた。その頃は父のほうがはるかに重病人で、春4月に誤嚥性肺炎で入院したら院内でベッドから転落、大腿骨の付け根を粉砕骨折、認知症も進行し、一時期はそのまま特養行きも提案されていたが、幸い奇跡的に回復し再び住み慣れた我が家へ帰れたのである。が、車椅子での帰還であり、高齢でもありいずれにせよ元通りの状態には戻れないと医師からは宣告されていた。
 そしてすぐに今通っているデイケアに週に二回通所で行くようになり彼のリハビリが始まったのだ。

 幸いそこでの機能回復訓練が効を奏して、父は今は杖を使ってならふらつきながらも短い歩行は可能となったし、起立や座るのも何かに掴まれば自力で何とかできるようになった。骨折で一度寝たきりとなった92歳の老人としては奇跡的回復とも言えよう。
 室内の移動に関しては息子の介助がなくとも一人でできるのは実に有難く助かる。
 しかし、高齢のため食事の際の吞みこみ時の咽せ、咳き込み等は常のことだし、トロミをつけ小さく柔らかく調理したものでないとまた誤嚥して肺炎に至る危険性は常にある。
 さらに今年になってから父の呆け、認知症はまたさらに進んできて、排便排尿の感覚消失のみならずこのところ徘徊的症状まで出てきてしまった。
 歩行も含めて今さら父の歳で今以上に改善、良くなることは絶対にありえないのだから、今後はさらに全状態は悪化し介護の負担はさらに重くのしかかって来る。
 九州大分で介護の仕事に携わっている我が妹の見立てでは今の状態ならば我らが父はもってあと一年乃至一年半であろうと。

 じっさい、これ以上呆けが悪化し、昼夜問わず徘徊するようになれば、我が介護が大変なばかりでなく今利用しているデイサービスでのショートステイだって不可能となろう。ならば特養的施設に強制的に入れるしか手はなくなる。
 そうならなくともいつまた肺炎起こしたり、家の中でも転倒して骨折し、そのまま担ぎ込まれた病院内で一気に呆けも進みもう退院することなく最後のときを迎える可能性もとても高い。

 今、我は父と二人でこの家で暮らしているわけだが、そう考えた時、この生活はまさに綱渡りか薄氷を踏みしめながらのように思えてくる。
 心ある読者の方からは、そんな父よりも我の生活の質を案じて頂き、早く特養など施設に父を預けることを提案されたが、息子としては、嫌でも近くそんなときが来るならばそのとき、その日まではどんなに大変でも父をこの家で過ごせてやりたいと思うしだいだ。

 母はこの家で、運び入れた介護ベッドのうえで、我が手の内で我が看取り死んだ。癌による衰弱死だと今は思える。まさに命が尽きた。
 父はそんな風にこの家で自然に死ぬことはまずないだろう。最期は、やはり病院施設に預けて看護師たち任せにして当人も意識不明で死ぬのではないか。その日まであとどのくらいあるのか。
 その状況を前に我はどうこれから生き、まず何をなすべきか。

 ほんとうは、父がまだ健在のときから、父亡きあとの我が人生について構想し新たな生活に向けて準備しないとならないはずだ。それは間違いなくすぐ近く来るのだから。
 しかし、母のときもそう思っても、実際問題は日々の介護と生活に追われるだけで精いっぱいで何一つ「先」のことなどできないしゆっくり考えることすらままならない。今の現実に追われ何とか日々対処するだけで毎日明け暮れしてしまう。これではいけない、何とかせねばと気持ちは焦るが、現実問題として何もできずに時間だけは進み、季節が無為に過ぎていく。成すべきことは全て山積しそのまま手つかずだ。
 もう今年も半年が過ぎようとしている。ただ父はまだ生きてとりあえず元気でいるのだからそれだけでも感謝すべきであろう。

 去年、父が退院後から通っているデイケア施設は今月いっぱいで終わりになるよう申し入れした。というのは、もうちょうど一年となる節目を迎えることと、これ以上リハビリを続けても改善はなく、潮時だと考えたからだ。
 ただ、やめて父がそのぶんずっと家にいるようになれば、ますます我はその世話で身動きとれなくなる。7月からは、新たに別の施設、できればお泊りさせられるデイサービスに通わせるべく、ケアマネージャーに代替施設を探してもらっている。
 もしそこがみつかり、父を一泊二日で預かってもらえれば、父が終日この家にいる日は、週に二日間だけとなる。ならば我はもっと自分のことに専念できるようになる。この家に猫たちと常にいたい父とすれば辛いだろうが、今はそれしかない。それだってかなうかわからないし、何より父があとどれだけ元気で生きているかがまずわからないのだ。仕方あるまい。可哀想にも思うが。

 父と過ごせる残された時間は少ないのもわかっている。できるだけこの家で父を過ごさせてやりたい。が、このままだと息子のほうが倒れてしまう。我には我の人生がある。父無しでもしっかり生きていけるよう準備し手を打って行かねばならない。
 さまざまな思いが心の中を行ったり来たりしている。いったいどうしたら良いのだろう。

 悩み多き者よ、と、かつて斉藤哲夫は若者たちのことを熱くうたった。が、真に悩み多き者とは、老いて死を間近に迎える者とその家族のことだと今は我は思える。

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