我もまた石を投げられ2017年07月20日 22時20分32秒

★すべてを赦しすべてを受け入れる。

 亡き人のために良かれと思い貧相な自腹切ってがんばってしたことが、傍目には何か怪しい不信な行為に見られたりもする。まさに我という人間の不徳の致すところであるが、別に言い訳も憤りもしない。ただ少しだけ哀しく情けなく思う。ため息つく。そう、世間とはこうしたもので兎角この世は住みにくいと改めてつくづく思う。

 しかし、そもそも当事者間の問題であるはずだし、その最も当事者である故人に対して、我は何一つ恥じ入ることはしていないし、彼こそ、彼だけは我をわかってくれると信じる。そう、これは彼と我の恩義の問題であって、何でそこに他者が介入してくるのか理解に苦しむ。
 そしてそう我を非難する者もまた別に悪気があってのことではない。それもまた自らの正義だと思いゆえに我マスダを非難するのだろう。ならばそれも仕方あるまい。プロレスではないが、世の中には誰かがときに悪役にならねばならないし敵とされる役割を担う者が常に求められるのだから。

 先日亡くなった中国の人権活動家、劉暁波氏は、私には敵はいない、すべてを赦すと常々言っていた。キリスト教を少しかじった者ならば、これは、ルカ記すところの「使徒行伝」中の、殉教者ステパノのエピソードをすぐ思い浮かべる。
 ステパノとは、ナザレのイエス亡きあと、原始キリスト教会が始動し始めたとき、体制側に捕えられて、議会で正々堂々とキリストの教えと彼らの非を説き、けっきょく怒った群衆に石を投げつけられ殺されたキリスト教初の殉教者である。

 では、本当に「私には敵はいない」のであろうか。いや、現実にはしっかりしかも強大な権力を持って存在しているのである。
 しかし、その者たちを「敵」だと規定し憎しみをもって捉えたときに、すべての悲劇が始まる。つまりこちらは正義、正しい、奴らは敵、悪い憎むべき奴らだと、双方がそう思い込んでしまえば、絶対その争いは終わらない。出口も解決策もみつからない。
 ほんとうは敵であってもそこに憎しみや怨恨を持ち込んでしまえば、同じ次元に堕ちてしまう。そしてそうなれば何一つ解決しない。そう、どちらかが死ぬか消滅するまでは。

 この世には解決すべき面倒な問題は多々ある。そしてそこに携わる双方の人たちがいる。その人たちはどれもその「立場」として関わっているのに過ぎず、決して絶対的にその立場に属しているわけではない。あくまでも相対的、便宜的なものにすぎない。
 ならばそこに、相手方を「敵」として怒りや憎しみを持ち込んではならないのではないのか。
 が、狭量なバカは、総てを敵味方で二分し、味方はかばい、贔屓し、彼自らを批判する者たちは「敵」だと見定めると、こうマイクで叫んだ。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と。
 それを一国の総理が、国民大衆を前にして、「こんな人たち」を指さして言ったのである。つまりこいつらは「敵」だと。
 拘束する中国政府当局に対して「私には敵はいない」と言って死んでいった人権活動家に比べて何という低い人間性であろうか。これこそ情けないし恥ずかしい。人として首相に値しない。こんな人たちもまた国民なのである。首相は彼らを守る義務がある。
 憎しみからは憎しみしか生まれない。そしてそれではどんな問題も諍い、紛争も解決しない。政治の場こそ、そうしたシガラミから脱して理性で議論で解決を図るべきなのである。

 そう、じっさい我には怒り非難する敵ばかりである。しかし、彼らを敵だとは思わない。我を断罪する者はこれからもいるだろう。投げつけられる石は増えていくだろう。しかし、ヒーローチックな自己満足ではなく、我もまた「私には敵はいない」と亡き人たちに誓い生き続けていく。世間はどう思ったってかまわない。亡き人だけは我をわかり信じてくれる。

 ただ思うのは、とかくこの世は住みにくいものだと。しかし、ステパノ殺害の場に、共犯者として加わり見ていた若きサウロが、後に回心して聖パウロになったように、先のことはまったくわからない。それもこれも神の計らいなのであろう。まさに神のみぞ知る、だ。

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