遠くから我に語りかける者の声に2017年08月04日 21時55分29秒

★目先のことに悩み心痛める以前に

 この数日、この季節にしては気温が低く涼しい過ごしやすい朝晩が続いている。ホッと一息であり、つい過ごしやすい故昼寝の誘惑に襲われるが、いまはともかく忙しい。とてものんぞりブログすらなかなか書けない状況だ。

 のみ亭のマスターの死後お店の「後片付け」に時間とられて、気がついたら我が企画担当した谷保かけこみ亭での「共謀」コンサートが間近に迫って来ていた。
 タイムスケジュール、出る順番はどうなっているのかと参加者の方々から問い合わせが相次ぎ、大慌てでそれを立てて調整を今はかっている。
 この夏は、明日、のみ亭での岡大介企画の「ラストライブ」はともかくも11日の、その谷保かけこみ亭での「共謀」コンサート、そして26日、井之頭公園駅前での、ハヤシヨシオクラブ主催「最後のサマークリスマス」まで、ともかく日々息つく暇ないほど出かけたり連絡事務、下準備などに追われている。
 つい、のみ亭のことにかまけて、生きている人たちとのことが後回しになっていた。いや、のみ亭の件だって、死者よりもご遺族も含めて、今生きている我々のすべき実際問題なのである。それをしないことには亡くなった人たちに申し訳がない。これもまた生きて残された者の努めであり、亡き人とは生きている間だけの付き合いですむ人はそれはそれで良いのだろうが、我もここまで行き係り上、最後の最後まで撤収に関わるべきだと覚悟した。

 ものすごく忙しい最中でであるが、あと一回、車出して、最後に残ったゴミとして出すしかない引き取り手のないCDやらカセットテープなどガラクタ一式、ともかくウチに運んでしまおうと考えている。
 そこにお宝があるかもしれないからではなく、ともかく後々ゴミとして大急ぎで捨てたことが悔いにならないよう、これもまた「預かり」として、のみ亭遺産として当面保管していくつもりでいる。

 人は死ねばゴミになる。それは真理であろう。しかし、だからこそ、中央線文化として、35年続いた店として、そこに集まり積もったものは、検証が必要ではないのか。大慌てで閉店に向け一切合切貰い手のないものは全てゴミとして処分して良いとは我はどうしても思えない。
 亡き人、やっちゃんは恬淡とした人であったから、死ぬにあたって遺した物に未練などはなかっただろう。だが、彼がいた、彼の店で生きた年月までも彼の死と共に一気に雲散霧消してしまうのはあまりにもったいないし残念だと思う。
 これもまた我の我欲、勝手な思いなのだとも思う。しかし、もしそこに何か一つの文化がいつしか成立していたとしたならば、我はそれをできるだけ記憶と保存にとどめていたいきたいと強く願う。

 かつて、アメリカでは、アラン・ローマックス親子が消え去ろうとしていたアメリカンフォークソング、つまり民謡的なそれを録音し記録保存したことにより、フォークソングリバイバルのムーブメントが起き、そこからピート・シーガーやディランたちが登場し、今日のアメリカのポップミュージックの祖を築いた。
 誰かがそれを保存したり記録しないことには、全てそこに確かにあったものも死んだり閉店したことにより、当初は知る者たちは記憶にとどめてもやがては「なかった」ことになってしまう。
 栄枯盛衰それが無常の世の移り変わりで当然だと言われれば返す言葉はないけれど、ならば、自らをも顧みてそれで良しとできるかだ。

 そんなで慌ただしくあれこれ関わったことの始末に追われているわけたが、今日一日だけでも我と関わった人たちの間で、傷つけ不快な思いにさせた人からお怒りのメールが届いたり、無意識に傷つけたことで泣かせてしまった人もいたりして、もうつくづく我が身の不徳をかみしめている。
 漱石の草枕の中での主人公は、兎角この世は住みにくいと嘆くが、それでもそうしたこの世=社会で生きていく前提で、あれこれ思索している。
 何事にもネガティブかつ悲観的な我は、我が生きて何かをすることで結果として常にそうした他者を傷つけ怒らせ不快にさせるのであらば、もう最初からこの世にいないほうがマシだとも常々よく考えよって自殺すらも夢想して来た。
 が、さすがにもう半世紀以上生きて、そうして我に怒り、憤り、否定し苦々しく思う人も多々いることは知りつつも、それでも我が生きている意味は何かあると信じたいし、そこに反面教師的でさえも何か役割はあるはずと信ずる。
 そうした怒りや告発、ご批判を日々常に受けて、まったく情けなく正直しんどく辛くて泣きたくも死にたいような気持に襲われるけれど、今の我には、遠くから聞こえる我に語りかける声がある。
 それはうんと遠くから静かに我に語りかけ、常に問いかけ、その存在をはっきり教えてくれている。

 我には味方も仲間も恋人も愛し愛してくれて我を助けてくれる人も誰一人いないが、もうそのことで今さら嘆きも哀しみもしない。それが我のデフォルトなのである。
 その方の遠くからかすかに聞こえる声に耳をすませば、今現在の悲惨さは一時のものだと思えて来る。その方の声に耳を澄まし我は応えていく。目先のこと、我を悩まし苦しめる煩わしいことはそれはそれとして今もこれからも確かに存在するが、その遠くからの声とその「存在」が信じられる限りまだまだ大丈夫だと思える。

嗤われるだろう。が、その方は確かに存在している。そして我を見守りときに助けもしてくれる。我は我の成すことがその御心にかなうかどうか日々問い、すぐには返りはしない遠くからのかすかな応えに耳を澄ますだけだ。